鏡海亭 Kagami-Tei  ネット小説黎明期から続く、生きた化石?

孤独と絆、感傷と熱き血の幻想小説 A L P H E L I O N(アルフェリオン)

・画像生成AIのHolara、DALL-E3と合作しています。

・第58話「千古の商都とレマリアの道」(その5・完)更新! 2024/06/24

 

拓きたい未来を夢見ているのなら、ここで想いの力を見せてみよ、

ルキアン、いまだ咲かぬ銀のいばら!

小説目次 最新(第58)話 あらすじ 登場人物 15分で分かるアルフェリオン

謎めいた記憶、ルキアンは何者!? 第36~第39話まとめ版追加

連載小説『アルフェリオン』まとめ読みキャンペーン、今晩は第36~39話分を追加しました。目次からお入りください

ルキアンがエクターになることをようやく決意する「繰士の誓い」の回や、ファルマス様の「天才」の一端と相変わらずの天然悪役ぶりが発揮される「微笑と非情」前後編の回など、今回も見所が多いです。

これまで物語の舞台は主にオーリウム王国でしたが、このあたりからガノリス王国でもストーリーが動き始めます。

ガノリスに進駐した帝国軍側のキャラもついに登場。
おまけに怪しげな疑似パラディーヴァのようなものまで開発している様子。
帝国軍に制圧されたガノリスでなおも抵抗を続けるレジスタンス、ロスクルス隊長も登場です。そして以前に登場した謎の組織「鍵の守人」とグレイルが接触します。

そして、ルキアンは一体何者!?という怪しげな描写が出てきます。
ルキアンって、物語の初期には平凡な少年でしかなかったですが、実の両親は誰か分からず養親のもとで精神的に虐待されながら育ったという事実が、次第に明らかになってきましたよね。幼い頃から苦労を重ねてきたルキアン…。
しかし、30話台に入ってくると、養親に引き取られる前のルキアンの記憶が部分的に登場します。幼い頃に姉(あるいは姉貴分?)のような子がいたという話です。さらには、幼少時の記憶が大幅に欠落していることが明らかになってくるんですね。
ひょっとして記憶を操作されてるのでは? ルキアンって、本当は何者なんだ?という疑問が色濃くなってきます。

近日中に追加予定の40話台のまとめ版に入ると、ルキアンの怪しさがさらに…。
「盾なるソルミナ」のあたりで、怪しさ爆発です。
こいつ一体何者なんだという。

ともあれ、いよいよ、まとめ版もあと9話で最新話に追いつきます。
かなり大変でしたが、もうすぐ第1話から最新話まで一気に読める状態が整いますね。

かがみ
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第39話・後編


【再々掲】 | 目次15分で分かるアルフェリオン



6 天才vs奥義? ヨシュアンの切り札



 ◇ ◇

 日没後しばらく経ち、オーリウムにも夜が訪れた。王城の丘の向こうに広々と続く森、そのただ中に開けた小さな草原も、木々の作り出すいっそう濃い闇に取り囲まれていた。
 所々に立つ黒い影は、かつてこの場所にあった建物の名残である。崩れた壁の一部が石碑のように立ち、草むらから顔を出す。穏やかに降り注ぐ月の光が、それらの石造りの遺構をおぼろげに浮かび上がらせていた。
 夜の森の光景は、眼前で続いている激しい戦いには不似合いなほど静謐であった。暗がりに煌々と輝くのは、ファルマスが天空を指してかかげた剣だ。いま、この瞬間も風の精霊の力が刃に次々と集まり、火花のごとき霊気の閃きを放つ。
「何か言い残すことはないかな? ヨシュアン団長」
 輝きを増してゆく魔法の光に照らされ、ファルマスの緩んだ口元が見えた。
 返事はない。ヨシュアンの影は多少ふらついているようにも見える。先ほどの炎の魔法で受けたダメージが意外に大きかったのだろうか。うねった長い髪が正面に垂れ下がり、彼の表情は分からない。
「本物の剣士をなめるなよ、ファルマス……」
 ヨシュアンが頭を振った。夜風に吹かれ、顔にかかっていた髪が脇に流れる。不敵な笑みが見えた。なぜか彼は背後に下がる。これでは、剣の届かない間合いに自分から出て行くようなものだ。かといって魔法を避けるにしては、この程度の距離を取ったところで意味がない。
「あらゆる武術において一流である反面、超一流の域に達したものは何もない。それが貴様の弱点だ。要するに、何でもできるが《奥義》をひとつも持たない。それは達人同士の戦いでは致命的となる」
 ヨシュアンは腰を落とし、剣を担ぐような不思議な姿勢で構えた。
「問題は技の数ではなく、技の質なのだ。剣にせよ魔法にせよ、《奥義》というのは通常の技とは次元が違う。普通の技をどれほど集めたところで、真の奥義には通用しない」
 だが彼の言葉を受けても、ファルマスは相変わらず無邪気に微笑んだまま表情を変えない。むしろ今まで以上に心底楽しそうに笑っているようだ。
「おやぁ? やっと団長もお喋りになったね。そうそう、楽しくやろうよ。でも残念! せっかくの楽しいひとときも、これで終わりみたい……」
「あぁ、終わるのは貴様だがな」
 ヨシュアンの目が光った。野獣さながらの雄叫びを上げ、彼は今まで以上の巨大な闘気を解放する。近づけば弾き飛ばされそうな勢いで、渦巻くように、体中から底知れぬ強さで戦いのオーラが立ち昇っている。相当の大技、いや、奥義を繰り出すつもりなのだろう。
 対するファルマスは、何の動揺も際だった反応もみせず、単に目を細めただけだった。

 そして――かすかな笑い声と共に振り下ろされる剣。

 閃光が周囲の森を飲み込む。爆風のごとき気流によって木々は倒れ、あるいは折れて吹き飛ばされてゆく。竜巻が通り過ぎたかのように、あたりは一瞬で破壊の渦に巻き込まれた。


7 子猫とリーン



 ◇ ◇

 エルハインの王城は広大である。城の本来の敷地自体も大きいが、その周辺にある森にも、庭園や練兵場、馬場などは勿論、城の別館などが点々と存在する。それらの部分も含めると、都の北にある丘陵一帯がすべて王宮の延長であると言えなくもない。
 王宮の東館の庭に流れる小川の一本を辿って歩いてゆけば、やがて城壁にぶつかる。その城壁の扉を抜け、いったん裏側に回ると、城壁に隣接して建つ古めかしい建物の前に出る。ここが、いわばレグナ騎士団の詰め所である。ツタに覆われた石造りの強固な外観は、鎧兜に身を固めた騎士たちが戦いを繰り広げていた、かつての時代を彷彿とさせる。王城の本館が《城館》あるいは《宮殿》とでも表現すべき、王の住まいとしての華麗な建造物であるのに対し、この建物は文字通りの戦闘用の《城》という様相である。実際ここは、オーリムが王国として統一される以前の戦乱の時代から存在していた、王城の中でも最も古い部分のひとつなのだ。
 その詰め所に向かって、近衛隊の騎士と思われる二人が城門から出てくる。一方は、無駄のない細身ながらも肩幅のある、引き締まった体躯をもつ男。他方は若い女のようだが、月明かりに浮かぶ影は、何か長いもの――大きな弓をもっている。
「見回り、お疲れ様でした。ジェイド隊ちょ……いえ、すいません、副団長」
 弓を持った女性、レグナ騎士団のリーン・ルー・エルウェンは、大儀そうに頭を下げた。
「どうした。声が少しかすれてるぞ。風邪でも引いたか?」
 できの悪い部下ほど可愛いというわけでもなかろうが、副団長はリーンの方を心配そうに眺めている。
「いえ、大丈夫、です。私、ちょっと裏で用事があるので、それでは。お疲れ様でした」
「お、おぅ。また例のヤツらか? 気をつけろよ、もう暗いから。おいおい、そんなに慌てて、転ぶなよ!」
 詰め所に続く道から枝分かれして、奥の林へと伸びる小径。そこを駆けていくリーンの背を目で追いながら、ジェイドは苦笑した。
「しかし、暗いから気をつけろだの、転ぶなだのと、これが機装騎士に対して言わねばならん言葉か。困ったものだ……」

 ランプをかざしながら、林の中の真っ暗な道を進むリーン。
おそらく植林されたものなのであろう、適度に間隔を空けて立つ木々の間に、満月の明るい光が上から降ってくる。風に木の葉がサラサラと揺れる音が、微かに聞こえる。静かだ。
「こんばんは」
 彼女は急に立ち止まり、親しげに挨拶した。周囲には誰もいない。
 不意に、足元で子猫たちの鳴き声がした。
 武装したリーンは、動きづらそうにしゃがみ込み、話し始める。
「見回りで遅くなってしまいました。ごめんね」
 彼女は子猫の一匹の頭をなでる。おそらく兄弟なのであろう、似たような小さな虎猫が4匹、甘えた声をたてながらリーンの手や足元にじゃれついている。
「今日もまた失敗ばかりで、副団長に怒られてばかりでした。みんなは元気だったかな?」
 あまり抑揚のない、呑気だが明るくもない声で、彼女は子猫たちに声をかけ続ける。
「リーンはですね、大事な眼鏡が割れちゃった。どうしよう……。今月のお休みに、新しい服を買うはずだったのに。お金、無くなった」
 勿論、返事があるはずもない。暗闇で一人、ぶつぶつと話し続けるリーンの姿はかなり奇妙であった。動物に声をかけているわりには、変に丁寧な言葉づかい。そのくせ、ぶっきらぼうな口調。
「いいんだ。支給される騎士団の服があれば、私服はいらない。別に誰に見せるわけでもないし」
 子猫は平和そうな顔つきで、リーンの指を舐めている。
 その一匹を抱き上げると、彼女は不慣れな手つきで頭をなでた。
「みんなのお母さん、今日も迎えにこなかったね」
 リーンは子猫を地面に降ろすと、名残惜しそうに背を向け、城の方に続く道に一歩踏み出した。
「さびしいね……」
 黒髪が夜風になびいた。
 機装騎士、あるいは射手というには、意外にほっそりとした背。
 月光を反射してつやつやと光る黒髪が、一瞬、不思議な金色の輝きを放ったように見えた。いや、目の錯覚だろう。
 髪の間から、少し尖った耳が顔を出している。
 とぼとぼと歩き始め、詰め所に帰って行くリーン。


8 秘剣炸裂! ファルマス、まさかの敗北!?



 ◇ ◇

 剣に宿らせた風の精霊たちの力をファルマスが解き放ったとき、ヨシュアンも己の闘気のすべてを込めた剣をその豪腕で振り下ろした。二つの激流がぶつかり、あるいは二匹の竜が身をくねらせ咬み合うかのように、両者の放った攻撃が真正面から衝突する。周囲の地形が変わってしまうのではないかと思わせるほど、地を裂き、木々をなぎ倒し、夜の大気を振るわせる。
 次の瞬間、森は再び静まりかえったかと思うと――なおも、いくつかの大木がメリメリと音を立てて倒れた。土煙や草の葉の破片が暗闇に舞っている。
 やがて月明かりのもと、剣を手に立つ二人の姿が浮かび上がった。双方とも凍り付いたかのごとく、身じろぎもしない。
 しばし睨み合いの続いた後、ファルマスが口を開いた。よく見ると彼の額には血が流れている。
「さすが王国一の剣士、だね。剣圧によって、離れた敵を斬るなんて、英雄物語に出てくる作り話だと思ってたけど。本当にできるんだ……」
 先ほどまでとは違い、今度はファルマスの方が苦しげな様子だった。息も絶え絶えという話しぶりである。
「僕の放った疾風の刃が団長の技で打ち消されたばかりか、逆に僕まで斬られちゃったかな? 避けたつもりだったんだけど、さすがに、完全にかわすのは不可能だったみたいだね。あ、あれぇ……?」
 突然、ファルマスは吐血した。彼の胸部にも傷が開いているのか、裂けた服の生地が、じわりと赤に染まる。自分でも意外だと言わんばかりの顔で、ファルマスは珍しそうに自身の血を眺めていた。
 ヨシュアンの足元からファルマスの方に向かって、地割れのようなものが生じていた。それがヨシュアンの放った攻撃の跡だ――卓越した剣士が全身の気を剣に込め、振り下ろすことで生まれる究極の一撃。離れたところにいる敵でさえも、その剣圧によって、かまいたちのように切り裂くことができるという。
 油断無く、再び剣を構えるヨシュアン。彼は低い声でつぶやいた。
「どんなに無敵の剣士であっても、魔道士の魔法に正面から立ち向かってはかなわない。それゆえ昔から剣士たちの間では、魔法使いと戦うための奥義が編み出され、密かに伝承されてきているのだ。今の斬撃のように。俺が魔法を使えないことに油断して、下手に魔法を使ったのが命取りになったな、ファルマス。剣での戦いを続けていたならば、剣と同時に拳や蹴りを自在に使いこなせる貴様にも、勝機があったかもしれんのに……」
 白いシャツに滲む血。胸を押さえつつ、引きつった荒い吐息を混じえながらも、ファルマスは不敵な口調で答える。
「なるほどね。僕が技におぼれたって言いたいのかな? 凄かったよ、今の攻撃は」
 この期に及んでファルマスはニヤリと微笑んだ。
「――ちょっと、痛かったじゃない」
 彼は声を震わせ、不気味に笑っている。感情の壊れている狂気の天才も、さすがに若干の怒りや動揺を覚えているのだろうか。
「でもヨシュアン団長。技に、いや、奥義におぼれたのは貴方の方だよ」
「何だと? 深手を負って、とうとう負け惜しみか」


9 卑劣な罠―微笑むファルマス!



「まぁ、聞いてよ……。もし問題の奥義というのが通常の斬り合いの状況で使える技だったなら、団長の性格から考えると、今までの戦いの中でとっくに使われていたはず。僕は今頃、奥義で斬られてあの世行きだっただろうね。そう、だから僕は予想していた。団長のいう奥義とは、もっと特殊な技だとね」
 血まみれになりながらも、へらへらと笑っているファルマスの表情は、異様を通り越して壮絶でさえある。
「で、僕が強力な風の精霊魔法を使おうとしたら、予想通り団長は、同様の威力のある奥義で応える構えを見せた。でも、それって、釣られたんだよ?」
「ほう。あれは誘いの隙だったとでも言いたげだな。そんな深手を負っておきながら、よくも言えるものだが」
 呆れた口調で言い放ち、わざとらしく鼻で笑ったヨシュアン。だがファルマスの次の言葉を聞いた途端、ヨシュアンの顔から血の気が引いた。
「アタマ堅いなぁ、団長さーん。正直に言っちゃうとさ、僕の風の魔法はとどめの一撃ではなくて、単なる《おとり》だったんだよね……。団長ほどの使い手に隙なんてあり得ない。でも隙を作ってもらう必要があった。そう、奥義に集中すれば、どんな剣士でも、さすがに他のことにまで完全に注意は行き届かない」
 いつもの無邪気な残虐さが、ファルマスの表情に戻った。
「要するに、あの瞬間に注意をそらしたんだよ。だってこんな低いレベルの魔法、普通だったら、鍛えられた剣士にかかりっこないもん!」
 彼がそう言ったとき、ヨシュアンの身体に異常が現れ始めた。
 剣を手にした腕の感覚がおかしい――血や神経が通っていないような気がする。足も重い。痺れたような、あるいは石のごとき、自分の身体の一部でない感さえある。
「体が、う、動かない? 何をした、ファルマス!?」
 ヨシュアンは両手で剣を握り、相手に向かって構えたまま微動だにしない。いや、動きたくても身動きが取れないのだ。
 ファルマスは嬉しそうに目を細めて近寄ってくる。
「ただの《麻痺》の呪文だよ。普通の人でも精神力が強ければ、この魔法をかけられたときに抵抗して、無効化することができてしまう。《眠り》の呪文なんかの場合もそうだけど、便利な反面、精神を鍛え抜いた相手には全く通用しない困った呪文だよ。でも悔しいよね? 素人どころか名剣士なのに、全く気のつかない間に魔法をかけられれば、こんな安っぽい術に引っかかっちゃうんだもん!」
「卑怯な! 風の精霊魔法がおとりだったとは、こういうことか……」
「卑怯? 頭を使ったと言ってよ。あぁぁ、そうか、魔道士が同時に二つの魔法を使うなんて、あり得ないと思ってた? だから僕、わざわざ精霊を呼び出したんだよ。精霊魔法の場合、いったん精霊を呼び出しちゃえば、あとは術の完成をいくらか任せておけるからね。そうやってできた余裕を使えば、《麻痺》のように簡単な呪文なら平行して準備することぐらいできるよ? さすがに高度な呪文は無理だけど」
 悔しさが顔中ににじみ出ているヨシュアンだが、もはや喋ることすらできなくなっている。全身を細かく振るわせ、今まで以上の憎しみのこもった目でファルマスを睨み付ける。
 ――こんなところで終わってしまうのか? 俺がいなければ、王子やジェローム内大臣はどうなる。この国はメリギオスの思うがままだ!
 平然とヨシュアンの隣まで来ると、ファルマスはにっこり笑って肩を叩いた。
「それに、風の魔法で団長を倒しちゃったら、魔法の使える者がやったという証拠を残すようなものじゃない。その点、麻痺の呪文は便利。団長が死んじゃえば、自然に効果も消えて、魔法自体の形跡は残らない……。でもそうなると、暗殺者が団長を剣で殺害したように見えちゃうね。団長に剣で勝てる人なんているわけないのに。何だかウソっぽいかな? ははは」
 無垢な子供を思わせるファルマスの顔つきが、突然、凄惨な殺人鬼のそれのように一転する。彼はヨシュアンの耳元でささやき、彼の首筋に剣を突きつけた。
「楽しかったよ。バイバイ、これで貴方は伝説になれるね」


10 ついに姿を見せた、帝国軍のゼーレム…



 ◇ ◇

 ランプの淡い光に照らされた空間。フラスコやビーカーに似た多数の実験器具や、山と積まれている書類を背景に、高さ2メートルほどの硝子作りのカプセルが部屋の中央に立っている。硝子の表面には、呪文の文字列や幾何学模様などがびっしりと刻み込まれていた。床や壁には、不気味に脈打つ触手のごときものが、おそらく儀式魔術用のパイプか何かが、縦横に張り巡らされている。
 カプセルの中には、黒い霧、あるいは影のような《何か》が封じ込められている。魔法で強化された特殊な硝子の向こう、その何かが不自然にうごめく。さながら生きているかのように――いや、本当に生きているのではないかと思われる。
 白い長衣をまとった魔道士らしき女が、不思議なカプセルの様子を観察していた。彼女は《影》の様子を目で追いつつ、手にした分厚い書類の束をめくっている。二十代後半から三十代程度であろうか、肩口でうねるようなクセの強い黒髪と、妙な色気のある厚めの唇が特徴的だった。
 彼女の後ろには、同様に白い長衣をまとった魔道士風の男が立っている。金髪をオールバックにし、細い黒縁の眼鏡をかけたその姿は、端正ながらもいささか堅苦しそうな雰囲気である。女性の方よりもいくらか年下に見える。二人は、おそらくルキアンの師のカルバのように、机上の実験やアルマ・ヴィオの開発等を主に手がける技術者的な魔道士なのだろう。
「調子は上々ね。細かい調整の余地も残っているけど、それはまぁ、これから実戦データを取りながら手を加えても遅くないわ」
 女はそうつぶやくと、眠そうな目をこすった後、大きく伸びをした。
「あとは《ゼーレム》のマスターの到着を待つのみですね、ジーラ博士」
 オールバックの眼鏡男が尋ねる。ジーラと呼ばれた女魔道士は、何か含みの有りそうな言い方で答えた。
「えぇ。《この子》のマスターになる、ライ・ド・ランツェロー君――腕だけは超一流のエクターだということは、あなたも聞いているでしょう?」
「勿論です。軍の本陣の《コルプ・レガロス》の中でも、屈指の機装騎士であったとか」
「でも、今はもうクビよ、クビ」
 側にあった椅子に座ると、ジーラは気だるそうな様子で足を組んだ。
「彼、バンネスク攻めのときに重大な命令違反をしたそうよ。知ってた、マテュース? なんでも《天帝の火》の発射を妨害しかねないようなことをしたのだとか。それって、命令違反どころか、下手すれば反逆じゃないの」
「しかしそんなことをして、ランツェロー殿は、よく無事でいられましたね」
「そこは事情があるのよ。本来なら重罰に値するけれど、なんせあの名門の生まれだし、畏れ多くも、皇帝陛下の弟君や妹君の親しい御学友様だったんだそうで。裏で色々と取引があったんでしょうね。何より、戦時のまっただ中、あれだけの技量を生かさないのは勿体なすぎる。処置に困った軍のお偉いさんは、やんちゃの過ぎる厄介坊ちゃんを、あたしたちに体よく押しつけた。そういうことかも」
 二人の魔道士は、ジーラ・ド・エンドゥヴィアと、マテュース・ド・ラムリッツである。ジーラは軍の《ネビュラ》つまり人工精霊兵器の開発に主に携わっていた研究者であり、同じく軍の研究者であるマテュースは、若いながらもアルマ・ヴィオ創造の俊才と言われていた。

 ふと訪れた沈黙。
 すると突然、声が聞こえた。二人とも喋っていないにもかかわらず、である。

 ワタシハ、ヴィア。
 テイコクノテキハ、マッサツ、マッサツ。
 ヒャヒャヒャヒャヒャ!!

 例の黒い影が、人のような姿を取り――いや、厳密に言うと少女のような姿を取り、感情の匂いのしない、乾いた不気味な声で高笑いしていた。
 カプセルの中で硝子を突き破らんばかりに跳び回る影。赤い目のようなものが二つ、薄暗い室内で光った。


【第40話に続く】



 ※2007年10月~11月に鏡海庵にて初公開
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第39話・前編


【再々掲】 | 目次15分で分かるアルフェリオン


 力自体に善悪はなく、使う者しだいで善にも悪にもなる。
 そんなことは私にだって分かります。
 分からないのは……
 それなのになぜ神様が、悪い人にまで
 力をお与えになるのかってことです。
 (リーン・ルー・エルウェン)

 ◇ 第39話 ◇


1 技のデパート!? ファルマスの実力



「こういうの、知ってる? 元々はナパーニアの古い剣術なんだけど」
 意味ありげにニヤニヤ笑いながら、ファルマスは手にしたサーベルを鞘に戻した。
 ――戦いの最中、抜いた剣を収めた? そして再び斬り込む姿勢……。
 少し意表を突かれたヨシュアンだが、顔色ひとつ変えず剣を構える。
 ――おそらく一撃必殺を狙った抜刀の技。初撃の速さで勝負する気か。
 剣の柄を握ったまま、ファルマスは相変わらず憎らしげに笑っている。目を細め、緩む口元。満面の笑みが完成したと同時に、一陣の風のごとくファルマスの姿が消えた。
 激しく鋼のぶつかり合う音。大柄なヨシュアンの懐に、ひとまわり小さいファルマスが踏み込んでいる。つばぜり合いの中、ファルマスがおどけた声でささやく。
「あれぇ? 今のも防がれちゃった。僕の切り札だったのに……」
 彼は残念そうな顔で言ったかと思うと、何の気配もなしに次の一撃に移った。
「なぁんて、嘘だけど」
 目を爛々と輝かせ、ファルマスはヨシュアンの方を見る。先ほどまで互いの剣を交えていた二人だが、ヨシュアンは瞬時に退いていた。
「へぇ、今のもかわしたの。すごぉい。正直、あり得ないよ」
 わざとらしく、極端に緩慢な口調でファルマスが言う。彼は右手に剣を携え、もう片方の手を、左の拳を眺めて首をかしげた。
 ヨシュアンは対照的に無表情に剣を構えている。相手を凍り付かせるような鋭い眼差しで、彼はファルマスを見やった。
「なるほど、今の打撃、ただの格闘慣れした剣士というレベルではあるまい。小細工というには過ぎた技だな……。拳法の修行でも積んだのか」
 ファルマスは大げさに拍手した。
「さすが団長! あんなに密着した状態で拳の技が来るとは、予想してなかったでしょ? でも結局、かわしちゃうんだもんな」
 その言葉が終わらぬうちに、いつの間にかヨシュアンの目の前でファルマスが笑っていた。空間を飛び越えたかのように、息のかかりそうな距離まで近づいている。
「何!?」
 ヨシュアンの剣が空を切る。ファルマスは再び間合いの外に立っていた。
「こういう特殊な足運びの技も、僕は知ってる。あ、そうそう、魔法じゃないよ。瞬間移動だって思った? で、魔法っていうのはね……」
 だが言葉の途中で、ファルマスの無駄口を剣の閃きが遮った。ヨシュアンもさるもの、同様に一瞬でファルマスとの間合いを詰め、十分な防御の余裕も与えぬまま、怒濤のごとき斬撃を次々と打ち込む。目で追いきれぬほどの速さで、豪雨のように襲いかかるヨシュアンの剣。ファルマスは一方的に守勢に追い込まれ、一歩、また一歩と退いている。
 剣技にキレがあるのは勿論、ヨシュアンは腕力も半端ではない。彼の一撃は重く、その力をかろうじて受け流しているファルマスの剣は、いつ弾き飛ばされてもおかしくないように見える。ファルマスもさすがに大きな傷は負っていないが、服の所々を切り裂かれ、かすり傷程度はあちこちに生じている。勝負が付くのも時間の問題だと思われたとき……。
「だから、団長さん。話を聞いてよ」
 目映い閃光が二人の間に走り、周囲の森を突き抜けた。両剣士の激しい闘気がぶつかり合う中、異質な気が――ほとばしる魔力が――辺りに満ちた。
 漂う煙、何かが焦げた臭い。
 足元の下草は焼き払われ、その間から顔を出す建物跡の礎石にも、表面に黒い焦げ跡が付いている。
 ヨシュアンは胸元を押さえ、微かに身体をふらつかせた。周囲のものと同じく、彼のマントにも生々しい焼け跡がある。
 彼の様子を見て、ファルマスは呆れるように笑った。
「ほらね。せっかく教えてあげようと思って、《魔法》というのは、と、親切な僕が言いかけていたのに。人の話を途中で邪魔するから……」
 ファルマスの表情から笑みが消える。
「そう、魔法というのはこんなふうに使うんだって」


2 「天才」ファルマス、力の本質とは…



 狂気の美青年は、剣を手にした右手を高くかかげた。それに呼応し、森の精気がざわめいたように思える。木々が揺れ、風が満ちる。ファルマスの刃に向かって膨大な魔力がそこかしこから集まっている。
「魔法を使う……だと? しかも剣で打ち合いながら、いつの間にか呪文の詠唱を完成させていた。いや、呪文を唱えた気配さえなかった」
 剣を握るヨシュアンの手に、さらに力が加わる。表には現れないにせよ、彼の胸の内には少なからず動揺が走っている。
「ヨシュアン団長は剣一筋だから分からないかもしれないけど、今のは、まぁ、魔道士が一般的に使う……そうだなぁ、要するに普通の炎の魔法。普通っていうのも、変な表現なんだけど。で、これから見せてあげるのが、普通じゃない魔法? この手の魔法を使うことは、魔道士よりもむしろ精霊使いの領分だからね」
 ファルマスが天空に向けて突き上げた剣を、風が取り巻く。最初はそよ風のようであったが、次第に肌を刺すような魔力をみなぎらせ、強まる気流は辺りの草や枯れ葉を舞い上がらせ始めた。
「風の精霊って、何だか僕にちょっと似てる感じがする。相性が結構いいんだよね」
 気楽そうな口調だが、時折、言葉の端々に血も凍るような恐ろしさが漂う。無邪気な残酷さを存分に発揮し、ファルマスは言った。
「ね、口で説明するより実際に見てもらった方が、やっぱり、よく分かるでしょ? 僕は天才《騎士》でもなければ《剣》の天才でもないってさ。ましてや、天才格闘家でもなければ、魔法の天才でもないよ」
 うつむきながら、彼は陰惨な声で付け加える。
「僕は、普通の人より少し物覚えがいいだけ……。何て言うのかな、物事の《コツ》を掴むのが、子供の頃から人一倍早くて。目と頭がちょっと良くできてるのかも」
 その間にも、ファルマスの剣を中心に、二人の周りに物凄い勢いで魔力が集まってくる。姿は見えないにせよ、呼び出された多数の精霊たちが、ファルマスの剣を媒介として現実世界に巨大な力を作用させようとしているのだ。
「どういうわけか僕には、どんなに速い動作もどんな複雑な技も、この目でひと通り把握できちゃうんだ。そして、この頭は、一度でも見聞きしたことは確実に覚えてしまう。それは武術に限らない。例えば一回聴いた曲なら、すぐに弾けるよ。そういえば、さっきも新しい曲を弾いていたせいで、この《決闘》に遅刻しちゃった。あはは、ごめんなさい!」
 ヨシュアンの目に戦慄が走る。修羅場をくぐり抜けてきた練達の剣士であっても、ついに感情の揺らめきが、微かだが明らかに表情に出た。
 ――そうか。ファルマスの《天才》というのは、剣や魔法など、何か特定の事柄に天性の素質を持っているという意味ではない。あらゆる技能や知識を後天的に《習得する能力》に、こいつは異常に優れている!?
「そう、その顔、いいね! やっと分かったみたいだね。でも、僕の能力の本質、ヨシュアン団長は知っちゃった。困ったなぁ。そんな大事なこと、知られたからには……」
 人を食ったような声が、ヨシュアンの脳裏に反響した。
「ごめん、消えてもらっていいよね?」
 何らの罪悪感も、憎悪や敵意の欠片も浮かべないまま、彼は、己の剣に凝縮された魔力を一気に解き放とうとする。


3 暗闇に漂うグレイル、そこに現れたのは?



 ◇ ◇

 突然に行動不能となり、夜空から森に落下していったエクシリオス。地面に激突するかと思われたとき、激しい目まいに襲われるような感覚と共に、グレイルの目の前が真っ暗になった。
 今の一瞬の記憶が欠落している。その直後、彼はどことも分からぬ闇の中にいた。
「ここは? 異世界に飛ばされたとか、そういうとんでもないオチになってないだろうな。しかし、このふわふわした、足元に何も無い感じ……」
 相変わらず呑気なマスターに、フラメアが慌てて突っ込む。
「だから浮いてるんだって! 宙に浮いてる!」
「俺たち、とうとう天国行き? 冗談……。いや、本当に宙を漂ってるぞ」
 我に返ったグレイルは、エクシリオスの機体を通じ、自分の置かれた状況をようやく理解した。アルマ・ヴィオの手足を動かしてみても、周囲に何も触れるものはない。
 一転してフラメアが真面目な口調になる。
「この場所の主は何らかの方法で重力を操っているみたいね。旧世界につながる者なら、そんなの簡単か……。ほら、お出ましだよ、マスター」
 一心同体。何も説明されなくとも、今のグレイルにはフラメアの指示する場所が分かる。彼はエクシリオスの魔法眼の暗視力を上げて確認した。
 下の方に灯りがひとつ。ランタンのようだ。光が揺れる。こちらに向かって何か合図をしているように見えた。それと同時に、徐々に沈んでゆくような感じで、この空間の底に向かって機体が引き寄せられ始める。
「降りてこいってか。拉致まがいの強引なお誘いに続いて、これまた強引な口説き方をするんだな、正体不明のお嬢様たち」
 グレイルの《目》に、女性らしきふたつの影が映っていた。だが、彼の言葉をフラメアがすかさず訂正する。
「マスター、よく見てみ。クロークを羽織っている方は男だよ。でも、あのサラサラの長髪はうらやましい。いや、あれは反則!」
「あ、あぁ。暗くて分かりにくかった。ずいぶん華奢な体型だな。で、あちらは本当に女だが……それにしても背が高い。おまけに頭は小さいときてる。いったい、何頭身あるんだよ」

 ◇

「とにかく暗くて何も見えない。どうにかしてくれ、フラメア」
 手探りでハッチを開け、グレイルがアルマ・ヴィオから降りてくる。
「明かり? 光の玉でも鬼火でも、自分で出せるだろうに。魔道士殿」
「その、何だ、面倒くさい……。そう言わずに頼む」
「やれやれ、フラメア様がいないと何もできないんだから」
 グレイルの声に応え、彼女は姿を現した。いや、実体化の度合いを高めたといった方がよいだろう。少女のかたちを借りたパラディーヴァが、グレイルの背後に浮かんでいる。うねる真っ赤な髪は炎のごとく。揺らめく火焔を思わせる、ひらひらとしたフリルのついた紅色の衣装。
「あいよ、マスター」
 彼女が指をぱちんと鳴らすと、暗闇の一点に火柱が立ちのぼり、周囲の外壁に沿って炎が走る。気がついたときには、見上げるような紅蓮の壁によって辺りは完全に囲まれていた。明かりどころの騒ぎではない。暗黒の広間は、もはや隅々に至るまでその姿を照らし出されたが……。
「あ、熱っ! やり過ぎだろ、殺す気かー!!」
 両手で火の粉を払いつつ、グレイルは足元に迫る猛火を避けて跳び回っている。
「ごめんごめん。長いこと魔法なんて使ってなかったから、調子狂っちゃったよ。かなり加減したつもりだったのに」
 フラメアが指をもう一度鳴らすと、炎の壁はみるみるうちに低くなり、火勢も弱まった。
 落ち着いて見ると、ここは思ったより遥かに広い。アルマ・ヴィオ数体が自由に動き回れるほどだ。しかも頭上に向かっては、天上が見えないほどに高く伸びている。壮大な地下空間を前に、グレイルは今更のように驚嘆している。


4 時を超え、動き始める旧世界の盟約?



 赤いカーテンさながらに、空洞を壁沿いに取り囲む炎。その輝きに照らされ、前方に例の二人の姿が浮かび上がる。その一方、ウーシオンが拍手と共に言った。
「ククク。素晴らしい。あのような巨大な炎の壁を作り出すことさえ、火のパラディーヴァにとっては、まばたきする程度のことらしいですね。それに、私たちは一瞬で炎によって包囲されてしまっている。こちらが少しでも妙なそぶりをみせれば、逃げ場のないまま猛火に焼き尽くされるというわけですか。嫌いじゃないですよ、そういう容赦のなさは……」
 クロークの裾を揺らめかせ、彼は続いてグレイルを見つめる。ウーシオンの薄い水色の瞳が鋭い眼光を帯びると、時折、銀色にもみえた。
 彼の視線に反射したかのように、グレイルの肩や首がぴくりと動いた。身体に不自然に力が入っている。
 ――魔道士? しかも、俺なんかとは比べ物にならないレベルの術者だ。視線を向けられただけでも、突き刺すみたいな力が腹の底まで伝わってくる。
 一見、どこを見ているのか分からないような、無表情でぼんやりとしたウーシオンの眼差し。それでいて、グレイルは心の深層までも見通されている気分になってしまう。
 立ち止まったグレイルの前に、今度は、すらりとした長身の美女が現れた。その背丈もさることながら、まず目に付いたのは、彼女の神秘的な色の髪だった――白銀に淡い青磁色を溶かしたような不思議な色合いの髪は、肩口まで豊かに流れ、そこで外向きに跳ねている。
「非礼をお詫び申し上げます。やむを得ぬ事情があったとはいえ、我らの《御子》をお招きするにはあまりにも不躾な真似をしてしまったことを、どうかお許しください」
 彼女は深々と頭を下げた。そして再び顔を上げると、品の良い微笑を浮かべ、右手をさしのべる。
「私はシディア・デュ・ネペントと申します。《鍵の守人》を束ねるネペント家、その長女です」
 グレイルも妙に改まって握手する。
「ガキのお守り? いや、鍵の……守人って言ったか? 何だそりゃ。ともかく、俺、いや、私はグレイル。その、グレイル・ホリゾードだ。よろしく」
「グレイル様、火のパラディーヴァ・マスター。そして、そちらがパラディーヴァ……。初めて見ました」
 シディアと目の合ったフラメアは、皮肉っぽく告げた。
「フラメアだよ。随分と一方的な招待じゃないか、ネペントのお嬢さんとやら」
「申し訳ありません。広範囲に念信を発して呼びかけては、この場所が帝国軍に探知されてしまいます。交信するあなた方も見つかってしまう可能性がありました。そこでパラディーヴァにだけ直接気づいてもらえるような、ある特定の思念波を送り続けていたのです。しかし、その方法では具体的なメッセージまでは送れませんでした」
「ほぅ。そこにいる悪そうなお兄さんを使って、あたしたちに《電波》をしつこく飛ばしていたのは、そういうわけ」
 傍らで涼しげに聞いている魔道士に向け、フラメアが舌を出すような仕草をした。
「悪そうに見えるなどというのは、とんだ誤解ですよ。私は善良なウーシオン・バルトロメア。《鍵の守人》に所属する魔道士です。よろしく。クククク」
「だから、そのクククっていう笑い声が、いかにも悪者っぽいんだってば……。ねぇ、マスター?」
 グレイルの耳元でフラメアがささやいた。わざわざ言葉にするまでもなく、しかも小声で話すという面倒なことをせずとも、パラディーヴァとマスターは心で語り合うことができるはずなのだが。当のグレイルは、つかみどころのない現状を呆れて傍観しているような様子だ。
 そんな彼に対し、シディアが真剣な表情で訴える。
「グレイル様、急かせてしまって恐縮なのですが、父があなた方にお会いしたいと申しております。一緒に来てくださいませんか? すべてはそこでご説明いたしましょう」


5 抵抗する者―我らが母なる森の祝福を!



 ◇ ◇

 同じ頃、ガノリス王国のある地方都市にて。市壁の際に始まり、背後の山へと伸びる丘陵の上から、帝国軍に接収された倉庫街が見える。壁のように連なる煉瓦造りの建物。その間を走る通りに、相当大きい人型の影が点々とそびえている。肉眼でも確認できる大きさのそれらは、汎用型のアルマ・ヴィオだ。
 木立に身を潜め、丘の上から帝国軍の様子をつぶさに観察する十数名の人影があった。春とはいえ、寒冷な気候のガノリスでは、夜になると気温は急激に低下する。彼らの服装は、その寒さに十分対応したものとなっている。森の国に似合うダークグリーンの毛織りのコートに、同色の厚手のエクター・ケープ。どことなく烏帽子を思わせる、高く伸びた黒い帽子。この特徴的な服装は、ガノリス王家の近衛隊のものだ。ただし、従来のような華美な装飾部分と、そして階級章は外されている。
 深緑のコートをまとった一群のうち、声を抑えて一人の女が言った。
「冷えてきましたね。ロスクルス様……いや、ロスクルス隊長」
 彼女はそう言ってマフラーを締め直した。赤土を想起させる色の髪は、イリュシオーネの女性にしては珍しく、耳が半分出る程度の短さにまで切り詰められている。こざっぱりとして端正な雰囲気を醸し出しているものの、冷たい夜風の中では寒そうにも感じられる。
 ロスクルスと呼ばれた者――彼女の隣にいる男は、対照的に長い藤色の髪を風になびかせている。精悍な横顔が、雲間に見え隠れする月光に照らし出された。すでに若者という年齢ではなく、30代も後半くらいのようだが、気勢の衰えなど一切感じさせない若々しさだ。
 彼こそ、近衛隊最強の十人の機装騎士《デツァクロン》の一人、レオン・ヴァン・ロスクルスである。帝国軍によって王が焦土と化し、各地の主要都市や城塞が陥落した現在、事実上崩壊した正規軍に変わり、なおも彼はレジスタンスを組織して抵抗を続けていた。
「そう、冷えてきた。それに見よ、月も厚い雲間に隠される……」
 厳かな口調でロスクルスがつぶやく。感情の匂いの無い、あくまで静かに染み通る、凍てついた夜気を思わせる響き。それでいて、彼の声には圧倒的な力強さがある。
「帝国の者共には、ガノリスの夜の寒さはいささか厳しかろう」
 彼が目を閉じると、長い睫毛がひときわ目立った。切れ長の目を再び開き、彼は射るような眼差しを帝国軍の部隊に向ける。
「去るがよい。そう、貴様たち帝国の兵は、この地に居てはならないのだ」
 ロスクルスは音もなく立ち上がり、背後に姿を消した。風の中に、彼の声だけが残された。
「行くぞ。我らが母なる森の祝福を……」
 彼と同じ言葉が整然と復唱された――《我らが母なる森の祝福を》と。
 丘の木立の背後から、数体の汎用型アルマ・ヴィオが立ち上がる。
 他方、市内に続く道に集まった別の人間の一団もあった。近衛隊とは違う風体の男が先頭に立っている。無精髭が目立つものの、彫りの深い精悍な面構え。使い古しの穴だらけのマントと、縮れた黒髪が風に揺れている。一見、野武士か山賊を思わせる無頼の中年男にして、同業者の間では知らぬ者のない冒険者だ。
「いいな、奪うべき武器と食料の内容は打ち合わせの通りだ。残りの武器・弾薬・食料は、とにかく奴らが二度と利用できないよう、すべて投げ捨てるか焼いてしまえ!」
 そう指図するが早いか、彼は赤茶けたマントを翻し、小銃を手に駆け出す。
「ヨーハン隊長に続け、遅れるな!!」
 残りの者たちも後を追い、夜の闇に紛れていった。


【続く】



 ※2007年10月~11月に鏡海庵にて初公開
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第38話・後編


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6 アレスとイリスに迫る、エーマの影



 すると、後ろで拍手が聞こえた。
「やるじゃないか、アレス。それだけ使えれば、少なくとも剣士としては一人前だ」
「あ、フォーロックさん! やっと帰ってきたか。遅いからミーナさんが心配してたぞー」
 にっこり笑って握手するアレス。
 だが、お互いの手も離さぬうちに、アレスは心配そうな顔でフォーロックの方をしげしげと眺め始めた。
「疲れてるのか、フォーロックさん? 何だか昼間よりも顔がちょっと暗くない?」
「……そ、そうか。込み入った仕事の話で、気が滅入っちまったのかもな。気を使わせてすまなかった」
「ふぅーん。俺も難しい話は苦手だし、分かるような気がする」
 そう言ってアレスが練習を再開しようとしたとき、フォーロックが思い出したかのように呼び止めた。
「ちょっと待った、アレス。お前、突きに入る前に、わずかだが動きにいつも変なクセがあるぞ。手練れの相手には、あれだとすぐに読まれちまう」
「へぇ、そうなんだ。俺、剣の基礎ぐらいは父ちゃんに習ったけど、後は勝手に考えてやってたから。なんだっけ、自己流ってやつ?」
 答えるよりも早く、フォーロックは先ほどのアレスの練習をまね、手本のようにやって見せた。アレスとは比較にならない、自然で素早い身のこなしだ。
「こんな感じかな。ほら、やってみな」
「……って、ひょっとして教えてくれるのか?」
「あ? まぁ、構わないぜ。夕食が待ってるから、少しだけだぞ」
 目を輝かせて頷くアレス。フォーロックは周囲を見回している。
「二人で稽古するには、うちの庭じゃ狭いな。あぁ、あそこでやろうか」
 彼は家の裏を流れる小川の方を指さし、アレスを誘った。

 ◇

 そんな二人の様子を、遠くの木の陰から見つめる者がいた。
 すでに夜風と呼んでもよい、ひんやりとした空気の流れに、長い髪が揺れている。暗がりの中では黒っぽく見えるが、実際には赤だ。真っ赤に染めた髪……。
 黒のマントが風に吹かれるたび、その下から薄闇に白い肌が浮かぶ。夜気に晒した両の腕と脚は、女性のものだ。ヴェストと短いスカート、ブーツ、二の腕より下の部分を覆う長い手袋、すべて真っ黒な革製の衣装を身につけている。
 一見、彼女は、無造作に木にもたれかかっているだけのようだ。しかし、それでいて気配を完全に消していた。姿が見えないのではない。たとえ視界に入ったとしても、見えていることを相手に感じさせないのである。普通の人間にできる芸当ではないが、あのパラス騎士団の一員にとっては――中でも隠密行動を得意とするエーマにとっては――ごく簡単なことにすぎない。
 畑道を歩き、小川の岸辺に降りてゆくアレスたち。彼らの姿が小さく見えなくなるまで、エーマは鷹を思わせる視力で追った。
「おいしい話に飛び付いてみたものの、捕まえた獲物が可愛くなって、こっそり隠れて飼うことにしたっていう? そこそこ腕の良い便利屋だと聞いていたけど、こんな甘ちゃんだったとはねぇ」
 こぢんまりとしたフォーロックの家、窓の奥に淡い灯りが点っている。絵本に出てきそうな穏やかな眺めだ。そんな平穏な空気を切り裂くように、シャドー・ブルーの瞳から鋭い視線が走る。エーマは口元を緩め、声を立てずに笑った。
「ま、情が移ったかどうかには関係なく、あの子たちを見つけて連れ帰った時点で、あんたの役目は終わってたのさ。お馬鹿さん……」
 酷薄そうな細い唇を染める、鮮血のごとき紅色のルージュ。
 舌なめずりした後、彼女は動いた。いや、一瞬で視界から消えていた。


7 開かれる記憶の扉? 夕闇の幻想…



 ◇ ◇

 それぞれの夕空。
 残照の果てに馳せる各々の思い。
 だが誰にでも同様にやがて訪れる――夜。

 アレスがフォーロックに剣の手ほどきを受けていた頃、なおもルキアンは同じ場所に立っていた。クレドール最上層の回廊には、いつの間にか、もう誰もいない。ランディも下に降りていってしまったが、酒の臭いが微妙に漂う。
 ガラスの向こうをぼんやり見つめるルキアン。銀髪の少年は手すりに両手を乗せ、細い顎を支えている。正面の景色に残るほのかな明るさに意識を奪われ、自らの周囲がすっかり暗くなっていることにも気づいていないかのようだ。
 いや、むしろ暗がりが心地よいのであろうか。回廊の奥、天井、足元、いたるところに夜の影が静かに迫っている。だが、いつもと違い、ルキアンは闇の奥底に何も感じなかった。
 ――おかしいな。こうしていても、リューヌをほとんど感じない。
 彼は周囲の暗闇を見渡してみた。そのような即物的な方法で探しても無駄であると知りつつ。
 ――まだ《回復》していないのかな。ずっと眠ったままみたいだ……。
 ルキアンは自分自身に問うてみた。
 ――もしリューヌがいなくても、僕は戦えるのだろうか? 今日だってリューヌがいなければ、僕は死んでた。いま、ここに、こうして立っていることもあり得なかった。
 そう考えると心細くなったルキアン。不意に、昔どこかで同じような気持ちを感じたことがあったと彼は思った。いや、思い出したのだ。彼の忘れていた記憶を、夕暮れが微かに呼び覚ましたのである。
「そう、夕暮れだ! 何で、これまで一度も気づかなかったんだろう?」
 空っぽの廊下にルキアンの独り言が響いた。
「今みたいに、もうすっかり暗くなった夕方、心細い気持ちで歩いていたとき……。ずっと昔、いつ? 思い出せないほど前、僕が本当に幼かったとき?」
 彼の口から、途切れ途切れに言葉が漏れる。
「そのとき、僕は……。僕は、そのとき……独りでは、なかった?」
 はっきりとしたものが何もない、黄昏色の虚ろな記憶の中に。
 隣に誰かがいる。
 小さな手を、しっかりと握る、もうひとつの小さな手……。
 失われた幼き時代。ルキアンは無意識に懐に手を差し込み、例の子豚のぬいぐるみに手をふれようとした。そのとき。

「いけない」
 突然、通廊の向こうから声がした。
 ルキアンは驚いて大声を上げ、尻餅をついてしまう。
「それ以上、思い出してはいけない」
 硝子の鐘の音色を想起させる、透き通った少女の声が静寂を貫いた。
「エルヴィン?」
 寒気を感じながらルキアンは名を呼んだ。
 逢魔が時をさまよう、現世(うつしよ)ならぬ者のごとき、白いドレスの少女。普段以上に巨大な霊気のうねりをまとい、エルヴィンがルキアンの前に立っている。
 ――なんて霊気の強さなんだ。人間とは思えない。
 ルキアンが身動きできず、身体をこわばらせていると、エルヴィンは青白い手をすぅっと伸ばした。
「な、何を?」
 出し抜けに、頬に痛い感触を覚えたルキアン。
 つねっているのだ、エルヴィンが。
 無表情にルキアンの頬をつまんだまま、彼女は言った。
「まだ思い出しては駄目。ものごとには、そのために予め定められている《時》がある」
 漠然とした夕暮れの思い出に残る、手のぬくもり。それが再び記憶の淵に沈もうとしていたとき、ルキアンは別の新たな感触を手に感じた。
 手を握っているのはエルヴィンだった。
 声にならない叫びを上げ、ルキアンは身震いする。冷たい。単に、あるべき体温の暖かみが感じられないのではなく、明らかに冷たかったのだ。
 彼女はルキアンを引っ張って促す。
「帰りましょ。こんな時間に、そんな気持ちで、こんな場所にいると、戻ってこれなくなるかも……」
 薄気味の悪さと何とも言えない胸の鼓動を感じながら、ルキアンは黙って従うのだった。


8 「怪電波」を辿るグレイルたちだが…



 ◇ ◇

 夜の暗闇に広がる木々の海。その上空に、アルマ・ヴィオらしき影がひとつ、ぽつんと浮かんでいる。月明かりを反射し、硬質な冷たい光を放つ羽根。同様の堅牢な質感をもつ身体。節くれ立った手脚。その姿は甲虫が羽ばたいているかのようだ。それでいて、ハサミの付いた巨大な腕をも備えた様は、カニやエビのような甲殻類を連想させる。
 だが、この機体の全体的な形状は、昆虫型や魔獣型のアルマ・ヴィオではなく、人間を模した汎用型のそれに近い。人ではなく、人に似た妖魔をモデルにしたものであると表現する方が恐らく正確なのだろう。これこそ、異形の姿ゆえに、それ以上に恐るべき性能ゆえに、旧世界の時代に《魔界の重騎士》と呼ばれていたアルマ・ヴィオ――エクシリオスに他ならない。
 その乗り手であるグレイルは、現在、広大なガノリス王国をフラメアの指示に従って移動していた。漆黒に塗りつぶされた森林地帯が、ひたすら続く眼下の光景。まだ宵の口なのだが、人家の明かりは見当たらなかった。こんな場所に大きな街などなく、村や集落さえ、ごく希にしか存在しない。アルマ・ヴィオの魔法眼の暗視力によっても、闇の中に続く広漠とした木々の絨毯が見えるのみである。
 ――それにしても、本当に同じような景色ばかりだな。一面に木、木、木……。しかも夜だろ。《場所》が確実に分かるのか? そもそも、人なんて本当にいるのか?
 いい加減に飽きたという様子で、グレイルが尋ねた。いや、尋ねるというよりも、単に《思った》だけかもしれない。それに対し、もう一人の自分が自分の中で思考するかのように、パラディーヴァの声が心に浮かんでくる。
 ――大船に乗ったつもりでフラメア様に任せなさい、マスター君! ほら、感じるわよ、怪しい呼び声がザワザワだわさ。おまけにこの思念波、何かの力で増幅されているみたい。
 ふざけた調子でフラメアが答えた。
 ――《こいつ》ねぇ、ずっと前から、こうやって夜空に《電波》を送ってくる。誰なのかは分かんないけど。
 ――何だそりゃ……。お星様の世界と交信ってか?
 ――違うよ、マスターじゃあるまいし。どうやって知ったのか、あたしたちパラディーヴァにしか分からない特殊な波長の思念を、この辺りから広範囲に飛ばしてる。偶然ではあり得ない。旧世界の関係者様だってことは間違いないよ。敵意は伝わってこないし、むしろ歓迎されてるみたいかな。でも、向こうの正体を突き止めるまで油断は禁物ね。
 とはいえ、仮にも魔道士の端くれであるグレイルにすら、霊気の波動やテレパシーのようなものは何も感じられない。いまだ彼は半信半疑だ。
 ――大丈夫なんだろうなぁ。それ、ただの危ない人じゃないのか。
 ――あんたが言う? 電波の主、ひょっとしてマスターの同類かもよ。ふふふ。
 ――どういう意味だ! いや、待て。今のは……。
 何の前触れもなく、グレイルも変化を感じた。周囲の空よりも冷たい、ふわりとした空気の層を突き抜けたような感覚。いや、それは物理的な感触ではなく、霊的な次元で把握された印象だが。
 ――気をつけろ。何かを通り抜けなかったか。この感じ、結界?
 ――げっ、これは《そよぎのエオレウス》、偏向性閉鎖歪空間……。
 フラメアが素で慌てたのと同時に、突然、下方の森一帯が赤い光を放った。
 ――何だよ、その、容赦なく怪しげなものは!?
 エクシリオスと一体化している繰士のグレイルには、身体が金縛りにかけられたように思えた。抗し難い力に引き寄せられ、機体が制御不能となり、急激に落下し始める。
 ――旧世界のバカ高い空間兵器! 今頃、どうしてこんな所に?
 ――解説はもういい、何とかしろ、フラメア!
 ――無理! ひぃぃぃ、落ーちーるー!!


9 「鍵の守人」と「御子」、ついに接触か?



 不格好にもがく姿勢で固まったまま、なおも落下してゆくエクシリオス。ぼんやりと赤みを帯びて光る森に吸い込まれるかのように、物凄い勢いで地表に接近する。
 ――油断するなって言ったヤツは、誰だーっ!
 いや、本当に吸い込まれたのだ。森の木々と衝突するかに見えたとき、《魔界の重騎士》の姿は一瞬でかき消えた。地表の不思議な光も、その直後に消滅する。そして夜の森は、何もなかったかのように静寂と暗黒を取り戻すのだった。

 ◇

「何か飛んできて、引っかかりましたかね? ククク……」
 そう言って頭上を眺めると、白と紫のクロークをまとった青年は前髪をかき上げた。彼の長い金色の髪が、滑るようななめらかさで指に絡む。そして鈍い光を放ちながら、白く細い手から流れ落ちる。
 《鍵の守人》の魔道士、ウーシオン・バルトロメアが、広間の床一面を使った魔方陣の中心に立っている。現世界の通常の魔道士には全く縁が無いであろう、見たこともない記号やシンボルが描かれ、それらが薄暗がりの中で青白く輝く。魔法陣の円周に沿って連なる文字列は《力の言葉》、すなわち呪文であろう。その文章は荘重な古典語で記されている。だが、これまた現在の世界ではもはや使われていない、失われた表現や語彙が目に付く。
 しかも無数のケーブルが天井から床へと垂れ下がっている。地下室らしき、窓の無い箱の中のような広間。その壁や天井のあちこちには、明滅する光の玉と共に、時計や何らかの計器を思わせる不可思議な装置が埋め込まれている。同じく壁際には、人の背丈ほどもある正体不明の機械が並び、静かではあれ、ファンの回るような音を立てて作動していた。
 魔法と科学の融合――これは旧世界の科学道士の用いた高度な儀式魔術の類であろう。表面で小さな光が星屑のごとく明滅する丸い装置を、ウーシオンは片方の掌に乗せていた。普通のリンゴ程度の大きさである。その奇妙な物体は、数本の細いケーブルで床や天井とつながっていた。彼は古典語の呪文を何度か唱えた後、ケーブルを一本一本外してゆく。ビロード風の生地で出来た黒い巾着の中へ、ウーシオンは謎の球体を大事そうにしまい込んだ。
「まずは《御子》の一人目をご招待。それに炎のパラディーヴァのお嬢さんですか。クククク、賑やかになりそうです……」
 やがて部屋の灯りが消え、美しくも不気味な青年魔道士の笑い声だけが残された。


【第39話に続く】



 ※2007年9月~10月に鏡海庵にて初公開
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第38話・前編


【再々掲】 | 目次15分で分かるアルフェリオン


 あまりにも早すぎた勇者の死。
 残されたものは、ただひとつ。絶望だけでした。
 それでも私たちは
 背負いきれぬ全てを代わりに背負うしかありませんでした。
 英雄ではない、この身に。

 ◇ 38話 ◇


1 癒し手ルヴィーナ、不治の病との闘い



 エルハイン城の広大な敷地の外れ、点在する池や小川のような水路に囲まれて、王宮の東館が建っている。真白い壁に煉瓦色の屋根をいただいた姿は、こぢんまりとまとまった可愛らしいたたずまいである。王子や王女の住む宮殿であり、少なくとも表面的には浮き世の政務とあまり関わりのない場所であるせいか、城内の他の区域とは違った牧歌的な雰囲気も漂う。
 建物の端の方には、時を経て色褪せた空色の屋根をもつ、小さな塔が見えた。タマネギ型のその屋根は、細い塔が帽子を被っているかのようにも見えて面白い。多分、館に付属する礼拝堂のものと思われる。今日のような晴れ渡った日に塔に登れば、鳥の目でエルハインの街並みを俯瞰できるのみならず、郊外の田園地帯の果てに夕日が沈んでゆくところさえ、手に取るように眺めることができるだろう。

 そうした絶景を楽しめるはずの場所で、一人、溜息をつく者がいた。
 最上層に開いた窓のところに人影が――この塔の屋根と似た淡い空色の髪の女性の姿が、見え隠れしている。オーリウム人には比較的珍しい、クセのないサラサラとした真っ直ぐの髪質だ。
「どうして駄目なのかしら? あと少し……。たぶん、呪文のこの箇所さえ適切な文言に置き変えれば、効果が現れるかもしれないのに。いつも、あと一歩なのに!」
 机の上を覆い尽くすだけでは足りず、古びた図書が床にまでうずたかく積まれている。空色の髪の女は、今まで読んでいた本に付箋を挟むと、手近な本の山の上に乗せた。
「でもそのためには、また魔方陣の構造自体を構築し直さないと……」
 おそらく新陽暦初期の頃の文献であろう、羊皮紙を綴じ合わせた古びた本を彼女は開く。周囲には、かび臭い匂いのする巻物もいくつか転がっている。
 ここは展望のための部屋というよりも、奇妙なことだが、塔の屋根裏を利用した勉強部屋か何かのように見えてならない。天井も平らではなく、所々に太い梁がむき出しになっている。決して広くない室内は、大小無数の本であふれかえっていた。正確には、勉強部屋などというよりも――しばしばこの手の塔に籠もって研究する、占星術師や錬金術師の書斎に近い有様だと表現した方がよかろう。
 この部屋は、一応は、いや、一応どころか立派な神聖魔法の使い手である、ルヴィーナ・ディ・ラッソの事実上の《研究室》なのである。少女時代にシャリオと神殿で寝食を共にしていたということからも分かるように、もともと彼女はエリートの神官であり、特に治癒系の神聖魔法の秀才として将来を期待されていた。諸々の事情で王宮に来て《還俗》した後も、ルヴィーナは可能な範囲で研究を続けているのだ。
 彼女の研究は、近年までは、どちらかといえば個人的な知的探求という性格の作業であった。ちょうどシャリオが、王国各地の伝説やおとぎ話をヒントに旧世界の歴史を読み解こうと試みているのと同様に。しかし、身近に居る《不治の病》の人間のことを深く知るようになってから、ルヴィーナの研究の目的は変わっていった。そう、今や王宮でも数少ない王家の真の護り手であるレグナ機装騎士団長、ヨシュアン・ディ・ブラントシュトームを病魔から救うため、彼女は寸暇を惜しんで新たな魔法の考案に励むようになったのだ。

 ――ここ最近になって、ヨシュアン殿の病状が急激に悪化している。急がないと間に合わなくなってしまう。
 いにしえの呪文書を読み解くルヴィーナの作業にも、自然と力が入る。
 王国一の剣豪である堂々たる騎士ヨシュアンが、発作によって力無く倒れそうになる場面に、先日もルヴィーナたちは遭遇した。近頃、発作の起こる回数も増えている。
 彼女は部屋の中を行ったり来たり、机に向かったかと思うと、今度は立ったままで本を広げる。ときおり、床に座り込んで周囲の資料をかき回していることもある。その様子は、王女に対して学問だけではなく行儀作法をも教えている者らしくない。《研究》のことになると、格好も何も、とにかく我を忘れてしまう質なのである。普段は気品に満ちた貴婦人なのだが……。


2 いわく付きのダメっ子? リーン登場!



 落ち着かないルヴィーナ。すると、部屋を遠慮がちにノックする者があった。実際には、すでに何度もドアを叩く音がしていた。だが今の彼女の耳には入らなかったのである。
 読みかけの文献を手にしたまま、ルヴィーナは扉を開けた。
「巡回中です。お邪魔をしてすいません」
 開かれたドアの先、かつての馬上の騎士がまとったようなサー・コート風の衣装に、黒いエクター・ケープを着けた男がそう言った。この出で立ちからして、ヨシュアンと同じく、王宮を守護するレグナ騎士団の者だろう。パラス騎士団も同様の任務を負っているが、特に東館はレグナ騎士団の《縄張り》である。
 ルヴィーナより多少若い、二十代半ばの機装騎士だ。精悍な短い青の髪、何本かの前髪を額に垂らしている。やや肌の色が濃く、はっきりとした目鼻立ち。耳のところで銀色に光る輪はおそらくピアスだろう。
「これは、ジェイド殿。ここのところ人手不足とはいえ、副団長自ら見回りをなさるとは、お疲れ様です」
 本を持った手を慌てて背中に回し、ルヴィーナは軽く会釈した。
「変わったことは? 無いようですな。例の治癒魔法のご研究中ですか。いつもヨシュアン団長のために……我ら団員みな、ルヴィーナ殿には感謝申し上げております」
 ルヴィーナの邪魔をしてしまったと思っているのか、ジェイド副団長は申し訳なさそうに一礼した。彼は手にしたランプをかかげ、苦笑いする。
「その、ルヴィーナ殿、もう部屋の中はこんなに暗い。そろそろ灯りを点けませんと、目を悪くしますぞ」
 冗談やお愛想があまり得意ではなさそうな、生粋の武人という性格が、彼の堅い笑顔に浮かんでいる。
「言われてみれば……。そうですわね。調べ物にすっかり夢中で」
 そう言って彼女が上品に口元を抑え、微笑んだとき。
 突然、ジェイドの後ろの暗がりの方で、何か大きなものの転がり落ちる気配がした。副団長が振り向いた先は、塔の狭い螺旋階段である。続いて、石造りの床に金属がぶつかる響き、その他にも色々な物が投げ出され、滑り落ちたかのような音が聞こえた。
「あ、あの、今のは?」
 ルヴィーナは怪訝そうに尋ねた。ジェイドがあまり心配そうな顔つきでもないため、いずれにせよ、彼女もさほどの大事ではないと理解しているようだが。
「やれやれ……。お騒がせしてすみません」
 副団長は敢えて下まで見に行こうとはせず、慣れた調子で何かに呆れている。

 やがて誰かが階段を登ってきた。
「い、痛いです……」
 勢いよく転げ落ちたにしては、案外落ち着いた声が聞こえてくる。薄暗い影から、本人の姿より先に大きな弓が見えた。
 そっと様子をうかがうように、レグナ騎士団の黒いエクター・ケープをまとった者が、すなわち機装騎士が顔を出す。若い女性のようだ。射手の割には目が悪いのか、目を何度も細めてルヴィーナの方を見ている。
「すみません、ジェイド隊長。それに、ルヴィーネ……様」
 緩やかに波打った黒髪から、ぴんと尖った両耳が顔を出している。彼女の容姿は最初は十代の娘のようにも感じられたが、ランプの明かりに照らし出された表情は、すでに成人は過ぎている程度の年頃のものに思える。
「その、わたくし……ルヴィーネではなく、ルヴィーナです」
 小さな咳払いをした後、ルヴィーナは彼女の言葉を訂正する。どういう顔をして良いものやら、困っているようにも見える。
「失礼であろう! それに、私も隊長ではなく副団長……」
 そこまで言いかけて、ジェイドはやれやれと首を振る。
 副団長たちの声が聞こえていないとでもいうふうに、女機装騎士は自分の弓を入念に点検し、壊れたりしていないことが分かると、嬉しそうに小脇に抱えた。
「あぁ、不幸中の幸い。良かった。これは大事な大事な弓なので……」
 塗装や装飾のあまり施されていない、森の野武士の持つ弓のような素朴な作りだが、こんな華奢な女性に引けるのかと思うほどの大きな強弓だ。
 彼女は、いつの間にか手にしていた眼鏡を頭の上の方にかかげ、光に透かした。そして、しょんぼりした顔でつぶやく。
「涙です。片方、割れちゃった」
 この世界で眼鏡というものは、特にレンズは、職人の丁寧な手作業によって磨かれ作り出される貴重な工芸品なのだ。壊れたから気軽に買い換えるというわけにもいかない、とても値の張る買い物である。
「せっかく貯めたお給金が……」
 ひびの入ったレンズを残念そうに指先でつついている彼女。お世辞にも機装騎士らしいとは言えないその姿を横目で見ながら、副団長は改めて溜息をつく。


3 対峙するファルマスとヨシュアン…。



「こいつは、リーンは、あれしか取り柄がないもので。許してやってください」
 割れた眼鏡を右手でつまんだ彼女が、左手で大切そうに抱きしめている大弓。それに向けて顎をしゃくり、ジェイドは肩を落とした。
「本来、一流の射手というのは、高度な集中力をはじめ、騎士としての優れた資質を持っているものです。しかしリーンは、弓以外のことになると、何をやらせても間抜けで……。まったく、こんな機装騎士は見たことがありません」
 なおも鍵を落としただの、小銭が一枚足りないだのと探しているリーンを無視し、ジェイドの目が急に真剣になった。彼はルヴィーナに黙礼して事前に詫びた後、耳元に顔を近寄せる。
「失礼、お耳を。実はメリギオス猊下とパラス騎士団に、いよいよもって不穏な動きがあるようです。今は詳しく申せませんが、大事が起こってもすぐに動けるよう、心構えはしておいてください」
 そう告げたジェイドは、部下に呆れていた今までとうって変わって、怜悧な騎士の顔になっていた。
 ルヴィーナは恭しく頭を下げる。それは同時に、不安げな面持ちを隠すという振る舞いも兼ねていた。
「陛下やジェローム様のことも心配ですわ。もはやあなた方、レグナ騎士団だけが頼りです。ヨシュアン殿は治ります、私も力を尽くします」

 深刻な顔つきで階段を下りてゆくジェイド。すり減った石の階段は、確かに滑りやすいとはいえ――リーンが再び転びそうになり、慌ててしゃがみ込んでいた。

 ◇ ◇

 口笛を吹きながら、日没の迫る森の小径を行く一人の青年が居た。
 急に冷え始めた夜風に、ダークグレーの上着と柔らかな黄金色の髪をそよがせながら。夕闇に包まれてゆく道の先を、天真爛漫な笑顔で見つめる彼の表情は、穏やかながらも得体の知れない恐怖を感じさせる。
 美しくも狂気を秘めた横顔。パラス騎士団副団長――天才の名をほしいままにする機装騎士、ファルマス・ディ・ライエンティルスだ。
 木立が不意に開けた。
 野ざらしの白い石像を中心に、森の中にぽつんと存在する、小さな草の原。
 背後の木立の向こうにはエルハインの城がそびえている。さほど遠くはない。ここは、王城の建つ丘のすぐ裏手にある森なのだろう。
 周囲をよく見渡すと、建物の床石らしきものの名残が草の下から点々と顔を覗かせ、かつて柱を支えたであろう礎石もいくつか存在する。
 石像を挟んでファルマスと相対し、狭い野原の反対の端にも、もうひとつの人影があった。

「見ぃつけた……」
 普段よりもゆっくりした口調で、ファルマスが言う。その目は爛々と怪しい光を浮かべている。獲物を狙う、魔物のように。

 ◇

「自分から呼び出しておいて、約束の時刻をとうに過ぎているぞ、ファルマス……。さて、話とやらを聞かせてもらおうか」
 向かい側の小径から現れた男の声が、日の落ちた暗い森に響いた。茶色いマントを風になびかせ、隻眼の大柄な騎士がゆっくり近づいてくる。髭を伸ばした野性的な容貌に、優雅な金の長髪。ヨシュアン――レグナ騎士団の若き団長に他ならなかった。
 片目には黒い眼帯、もう一方の目が鋭くファルマスを見据える。さすがに王国に並ぶ者なき剣豪と言われるだけあって、静寂の中にも強烈な威圧感を漂わせる。
「いやだなぁ、ヨシュアン団長。大方の用件は分かってるくせに。だからわざわざ来てくれたんでしょ?」
 ファルマスは小馬鹿にするような顔で笑う。
 対するヨシュアンは、憮然とした表情で腕組みしている。そんな彼の姿を指さし、ファルマスが素っ頓狂な声で言った。
「睨まないでよー! ヨシュアン団長、ただでさえ怖い顔なんだから」
「くだらぬ遊びに付き合っている暇など無い。そういう態度を続けるなら、帰るぞ」
 声を落とし、ヨシュアンは汚物を見るような目でファルマスを睨んだ。
 双方とも何食わぬ顔をして、一寸の隙もない。さすがに達人同士、見事に殺気を抑えているのは分かる。が、それでも微かに漏れ出してくる怒りの気は、ヨシュアンのものだ。


4 決闘? 暗殺? ファルマスの陰謀



「あははは。怒った? ごめんね。じゃぁ、本題に入るよ」
 両手を広げ、踊るようなステップでくるくると回りながら、ファルマスが近づいてくる。
「僕も回りくどいことが嫌いだから、単刀直入に言うけど……ヨシュアン団長ってさ、もう、先、長くないんでしょ?」
 小首を傾け、片目を閉じてみせるファルマス。
「ふん。独りよがりの、相変わらずの天才馬鹿ぶりだな、ファルマス。意味不明な妄言などやめにして、相手にも明確に分かる言葉で、言いたいことをはっきりと言ったらどうだ?」
 まともに取り合おうとしないヨシュアン。
 わざとらしく何度も大げさに頷いて、ファルマスは告げる。
「実はね……。僕、これでもヨシュアン団長のこと、尊敬してるんだ。王国一の剣の使い手、いや、多分、イリュシオーネでも五本の指に入るだろうね。でも、そんな憧れの人が、じきに病の床に伏して武人らしくない最後を遂げるなんてさ、僕の美的感覚が許さないんだよ。今のあなたを見ていると可愛そう。嫌で嫌でたまらないんだ!」
 どこまで本気なのか、ファルマスは真に迫った悲しそうな顔で言った。
「団長のように英雄的な剣士は、やっぱり、伝説を残す義務があるもの。ベッドの上で死ぬなんて本望じゃないでしょう? 僕は優しいんだ。だから、憧れの団長のために考えたんだけどね……」
 そう言い終わるか終わらないかのうちに、にこやかに細められていたファルマスの目が、かっと見開かれた。何かが弾けたかのごとく、どす黒い巨大な殺気が辺りの木立を覆う。肌を刺すような、おぞましい気だ。
「《決闘》しようよ。分からないかな? 英雄としての死に場所を、花道を用意してあげようって、僕は親切に言ってあげてるんだけど」
 ファルマスの言動が常軌を逸しているのはいつものことだが、さすがに出し抜けに決闘などと言われては、ヨシュアンも面食らっているようだ。ただし《決闘》という表現自体はともかく、ファルマスの狙いを最初から予想したうえで、ヨシュアンもこの場所に来ている。
「決闘だと? 戯れ言もいい加減にしろ。はっきり、《暗殺》とでも言ったらどうだ」
 鼻で笑うヨシュアン。
「王から議会軍が離れたら、何か大きな動きが起こるだろうとは思っていたが……。なかなか尻尾を出さなかった狸たちが、こんな短絡的な方法で仕掛けてくるとは落ちたものだな。メリギオスの命令か?」
「だぁかぁらぁ、団長さん。僕の美的センスが許さないからだって、さっきから言ってるでしょ。ま、どうしても何か聞きたければ、僕を倒して力ずくで聞き出せばいいじゃない」
「そうか。だが、わざわざ話を聞く必要など無い。俺もこういう機会を待っていたのさ」
 ヨシュアンの手が剣の柄にかかる。彼も凄まじい闘気を解放したかと思うと、裏腹に淡々とした声で言った。
「貴様たちの野望は俺が潰す。生きて帰れると思うなよ……」

 突然、夕暮れの微かな残り陽に二つの剣がきらめく。次の瞬間には彼らは再び離れた。刃にかすめられた髪の毛が数本、宙を舞い、風に流されて飛んでゆく。
 剣を握る手を下げ、隙だらけの様子でファルマスが笑っている。
「うわぁ、危ない危ない。もうちょっとで死んじゃうところだった。やっぱりヨシュアン団長はすごいなぁ。あんなに鋭い斬り込み、生まれて初めて見たし、これからもたぶん見ることはないだろうね。今のは何とか受け流せたけど、次は無理かもー」
「本気でかかってこい、ファルマス。天才と呼ばれる貴様の力、実は俺も、一度は手合わせ願いたかったものだ」
 普通より分厚く重い刃のサーベルを軽々と構え、ヨシュアンが近づく。


5 謎の発言、ファルマスの「天才」とは?



「天才? 何か勘違いしてない?」
 ファルマスは、慌てて逃げるように一歩退いた。勿論、わざとだが。
「今のは本気だってば。僕の剣の腕なんて、せいぜい、あなたの剣を必死に受ける程度で精一杯だもん。それにしても、団長は世間のお馬鹿さんたちとは違うと思ってたんだけど、残念だなぁ……。僕を《天才騎士》とか《天才エクター》なんて呼ぶ人がいるけど、そんなの《不正確》な表現だから、やめてほしいんだよね。まぁまぁ、そう慌てないで、二人でゆっくり楽しもうよ!」
 今にも斬りかかろうとするヨシュアンに対し、ファルマスは無邪気に手を振っている。
「だってね、聞いてよ。僕、たまにダリオルさんに剣の練習に付き合ってもらってるけど、今まで一本も取ったことがないんだ。ラファールとも、たぶん10回やって1回勝てる程度なのかなぁ。神様みたいな剣聖ばかりのパラス騎士団の中では、僕なんて、ぱっとしないな。あ、でもアゾートさんは一応は魔道士だし、エーマさんやエルシャルトさんも、剣とは別の武器を使って戦う方が得意な人たちだから……数に入れちゃいけないか。あはは、だったら僕は、剣士としてはパラス騎士団で最弱だね!」
 気の抜けた声でぺらぺらと喋るファルマス。すぐにでも倒されそうに見えるが、実際には細かいところで巧みに距離を取ったり牽制したり、そう簡単にはヨシュアンを近寄せないのだった。
「たしかに剣術にしても、少しコツを覚えたら、すぐに上の下か上の並みぐらいの腕には達したんだけどね。さすがに本物の天才剣士と僕を比べるのは無理があるよ。じゃぁ、僕が何に優れてるのかって? えへへ、教えてほしい?」
 そこでファルマスの話が止まり、声が凄みを帯びる。
「なぁんて、ちょっと喋りすぎちゃった。口で説明するより、そろそろ、親切ついでに見せてあげた方が分かりやすいよね……」

 ◇ ◇

 珍客との会話に夢中であったミーナは、話疲れて再び横になった。彼女の側にイリスとレッケを残し、アレスは庭を借りて日課の剣の練習を始めている。
 暮れなずむ夕空。どことなく間の抜けた声で鳴きながら、鳥が群れをなして飛んでゆく。それ以外には音を立てるものもない静かな田園に、少年のかけ声だけが響いては消える。
 気合いと共に剣を振り降ろし、続いてなぎ払い、あるいは斬り上げる。鋭い突き、さらには惰力を利用して巧みに剣を振り回す。時折、蹴りも入れてみたり、背後に飛び退く動作を混ぜたりしている。雨の日も当然、いや、冬のラプルスに荒れ狂う厳寒の吹雪の中でさえ、毎晩欠かさずにアレスは鍛錬を続けてきた。日々の努力の積み重ねと、抜群の運動神経のおかげもあって、いまや一端の使い手である。
 持て余しそうなほどに立派な剣をじっと眺め、彼は一息ついている。
「父ちゃんの剣……。こんなに、ごつくて長い剣だと、実際に振り回してみるとかなり重たく感じるなぁ」
 村を出るときに母が手渡してくれた、父の形見だ。巻き貝を思わせる流麗な鍔が、まず見た目には特徴的である――優美な外見と同時に、敵の剣から手を確実に護り、受け流しもしやすいという機能性を兼ね備えている。そこから伸びる刀身は頑丈で、突くにも斬るにも向いた片刃の形状である。世界を股にかけた繰士の相棒だけあり、立派なものだ。
 普段と比べ、練習による疲労感がとても早く訪れた。だが、形見の剣を少しでも早く使いこなしたいと願うアレスは、再びそれを構える。


【続く】



 ※2007年9月~10月に鏡海庵にて初公開
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第37話・後編


【再々掲】 | 目次15分で分かるアルフェリオン



6 失われた過去の記憶、ルキアンは何者 !?



 下の階層へと戻る途中、階段の踊り場でルキアンは立ち止まる。そして、ふとポケットに手を入れた。
 柔らかな手触り。取り出されたのは、薄汚れてしまった子豚の小さなぬいぐるみ。あるいは布製の玩具。粗い縫い目は、お世辞にも上手だとはいえないが、素朴な手作りの味わいを醸し出している。
 ――僕は、どこから来たんだろう。そして、どこに向かっているんだろう?
 子豚のぬいぐるみを掌の上に乗せ、ルキアンはぼんやりと考えた。
 未来も分からないが、それと同様に、彼がどこから来た何者かも実は分からない。本人にさえ。両親も実の親ではなかった。そんなルキアンが、物心ついたときから手にしていた唯一のもの――それが、この子豚のぬいぐるみであった。

 ◇ ◇

 ルキアンの手にある古ぼけたぬいぐるみが、水晶玉にぼんやりと映っていた。薄暗い部屋の中、ランプのおぼろげな明かりが水晶の冷たい肌を照らす。
 さきほど眠りにつこうとしていた一人の女が、不意に何かを思い出したかのようにベッドから起き上がり、この場にやってきていた。クリスタルの輝きを夢うつつの目で見つめているのは、《地》のパラディーヴァ・マスター、《紅の魔女》アマリアである。
 就寝用の薄い衣の上にケープを羽織り、彼女は、机の上の大きな革張りの本――いや、ノートに掛けられた鍵を外した。
 天の啓示か、あるいは魔のささやきか。水晶玉の力を借りて、彼女は心に浮かんだ予言を分厚い冊子に書き付ける。
 羽根ペンがなめらかに文字を綴った。優雅だが、力のある筆跡だ。

  引き裂かれし二人。
  その本来の思いが、両者の邂逅によって取り戻されるとき、
  だが新たな悲劇が、たちまち二人をまた引き裂くだろう。
  再びの別れは永劫の別れとなる。
  そのとき青き淵に輝く光は潰え、憎しみの翼は羽ばたく。
  闇は解き放たれ、三つの凶星は滅びの天使を呼ぶ。

 ――やれやれ、夢の中でも未来が見えれば、さっそく書き残しておくとはの。おぬしの先読みの力も、因果なものじゃて。わが親愛なる主(マスター)は、落ち着いて眠れもせぬわ。
 暗闇の中から老人の声が聞こえた。彼自身は眠りを必要としない、人ならぬパラディーヴァだが。
 フォリオムの冗談を聞き流し、アマリアは真剣な表情で言った。
「あの少年から目を離してはならない。彼に関しては、良いことも悪いことも、我々の想像を超える早さで推移している。近いうちに、私も出向かねばなるまいな」
「分かっておるよ。リューヌもあのような状態じゃ。このままでは、ちと荒療治が必要かもしれん。お主には迷惑を掛けるが……」
 ただ、神秘的で端正な女性であるアマリアも、さすがに眠りの出鼻をくじかれては、気分がよいものではない。彼女にしては珍しく、少し不機嫌そうな――裸の感情のこもった顔つきで――つぶやいている。
「構わない。《闇の御子》は、我らエインザールの使徒の長(おさ)。彼を守護するパラディーヴァ、リューヌとやらは救わねばな。だが《封印》をいま解いてしまっては、すべては終わる。少し変則的な次善策を用いねばなるまい。それにしても、いい歳をした女の寝入りを邪魔するとは、あの少年もいささか無粋だな。いや、彼のせいではないか。彼の未来を勝手に幻視したのは、この私か……」


7 「一緒にいられれば、それだけで…」



 ◇ ◇

 正午を過ぎた後、午後2時、3時――時計の針が毎正時を指すたびに、柱時計の鐘の鳴る音も繰り返された。そして今も数度目の鐘が響いている。くぐもった音が、石造りの部分の目立つ壁や床に染み通ってゆく。
「遅いなぁ、フォーロックさん。もうすぐ日が暮れちゃうよ!」
 アレスはそう言うと、椅子に座ったまま、勢いよく伸びをした。
 食卓の向かいの席では、ミーナが申し訳なさそうに微笑んでいる。
「ごめんね、待たせちゃって。フォーロックがごちそうの材料を買ってきてくれたら、さっそく夕食の準備をするわ。もしかしてアレス君、お腹減った?」
「え? いや、俺は平気。へへ。えへへへ」
 ヤマアラシのように逆立った赤い髪をかきながら、照れ笑いするアレス。だが、間の悪いタイミングで彼のお腹が鳴った。絵に描いたようなお決まりの場面に遭遇し、ミーナも声を立てて笑う。一緒になって笑うアレスの声が、家中に響いている。
 そのとき急にミーナが咳き込み、苦しそうに胸を押さえた。
「やっぱり寝てなきゃ。無理しちゃだめだよ。のど、痛くない? 水か、お茶、飲むか?」
 心配そうに見つめるアレスに対し、ミーナは弱々しげに首を振る。
「ありがとう。でも今日は楽しい気分だから、ちょっと無理をしてでも起きていたいわ。もう大丈夫……」
 なおも数回、彼女の咳は続き、ようやくおさまった。
 二人の他にイリスも同じテーブルを囲んでいるのだが、ほとんど気配がしない。アレスとミーナの会話を聞いているのか、いないのか、もう何時間も似たような姿勢で行儀良く座ったままだ。目の前に出されたお茶とケーキにさえ、イリスはほとんど手を付けていない。
 イリスの足元では、アレスの相棒の魔物カールフ、レッケが床に伏していた。丸くなって目を閉じている姿は――額に角がなければの話だが――大きな犬に見えなくもない。ここ数日間の急激な環境の変化に《彼》もそれなりに疲れているのだろう、さきほどから眠そうな目を閉じたり開いたりしている。
 イリスはテーブルの下にそっと手を伸ばし、レッケの頭をなでた。

「でも、たしかに、ちょっと帰りが遅い。昨日もだったけど……」
 ミーナは不安げに窓の外を見つめている。もう、少し薄暗い。田園の上に広がる空の色は濃さを増し、青から濃紺へと近づいている。家の周囲の木々も、遠くの森も、黒々としたかたまりのように見え始めた。
「フォーロックったら、また真っ直ぐ帰らずに、ハンター・ギルドの人たちと飲んでるのかしら。今日はアレス君たちがいるのに、困った人なんだから」
 仕方なさそうにミーナはつぶやく。
「あの人ね、一杯だけ、一杯だけって言いながら、気がつくとビンを1本空けていたりするの……。あら? アレス君、どうしたの?」
 アレスはなぜか嬉しそうな顔つきで、黙って聞いていたのだ。
「あぁ、何でもないよ。ただ、あのさ、そうやってフォーロックさんの話をしているときのミーナさん、とても楽しそうだなって思ったんだ」
「そうかしら。そうかな。ふふふ」
 一瞬、恥ずかしそうに微笑んだ後、不意にミーナの表情が陰りを帯びた。彼女は再び目を外の風景に転じ、寂しげに言う。
「そう、楽しい……。私はフォーロックと一緒にいられるだけで、今の暮らしで本当に幸せよ。でも彼は、いつも私を《もっと幸せにする》と言ってばかり。大きな仕事で儲けて、病気も必ず治すからって。でもハンターやエクターの仕事は危険なんでしょ? 無理ばかりしていないかと、最近、特に心配なの」
 ミーナが真顔で尋ねたため、アレスは返答に迷う。困って天井を見上げている。
「そりゃ、危ないと言えば、普通の仕事よりは危ないかもしれないけど。でも、フォーロックさん、強そうじゃん! だから平気だよ。俺の父ちゃんも、冒険や戦いで怪我したことはほとんど無いとか言って、威張ってた。大丈夫さ!」
 ともかく思いつくことを並べ、彼女を安心させようとしたアレス。だが効果のほどは疑わしい。むしろ、普通は冒険や戦いの中で傷を負うことが多いからこそ、アレスの父の自慢が自慢になり得るのだが。
 ミーナは今度はイリスの方を見ながら、独り言のようにささやく。
「一緒にいられれば、それだけでいいのに……」


8 紫のフロックの男、衝撃の正体!



 ◇ ◇

「一緒にいられれば、私はそれだけで良かった。だけど、いつもあなたは、もっと遠くの方を見つめていた」
 淡い光をまとった金色の髪。そのしなやかな流れと同様に、ソーナの声もまた繊細だった。窓から差し込む夕日が、胸元の赤いスカーフの色を周囲の影から浮かび上がらせている。ほっそりとした体を包む黒い衣装。一見、彼女の眼差しは穏やかだが、その瞳に宿る普段の理知的な光は、今は感情の波に揺るがされている。
「置いていかれるのが怖かった。だから私も一緒に、遠くの同じ理想を見つめると決めた。でも……」
 外の方へ張り出した頑丈な二重窓。それを通して見えるのは、夕闇、その下に広がる平原。そして、点々と現れては消えてゆく赤い光、いや、それらは炎だった。立ちのぼる煙。多くの出城や塔を伴い、切り立った山脈のごとく延々と連なる巨大な城壁――見まごうはずもない、それは、オーリウムの誇る要塞線にして、現在は反乱軍の本拠となっている《レンゲイルの壁》だ。
「その理想のために、多くの人たちが犠牲になっている。お父様の造り上げた《アルフェリオン》が沢山の命を奪ってしまった。しかし、その手がどれだけ血に染まろうと、あなたの心は揺るがない……」
 彼女がそこまで言ったとき、背後から別の声が聞こえた。低く穏やかな響きでありながらも、確固たる意志を感じさせる。
「そう。揺らぎはしない。もし私がここで手を引いてしまったら、犠牲にした多くの命はすべて無駄になる。もはや取り返しがつかない以上、それらの犠牲に報いるためにも、私は同士とたち共に、この世界を必ず変えなければならない」
 落日が始まり、すでに室内を闇が支配し始めた。暗がりと溶け合う紫のフロック、背中まで届く藍色の長い髪。長身の男が立っている。
「ヴィエリオ!」
 すすり泣くような声を立て、ソーナは背後の影を抱きしめた。飛び込むように。
 ヴィエリオ・ベネティオール――ルキアンの兄弟子は、ソーナを優しく受け止める。彼女はヴィエリオの胸に顔を伏せたまま、声を震わせた。
「私もあなたと一緒に進む。でも、メルカやルキアンには何の罪もないのに……」
 かすかな溜息とともに、ヴィエリオは残念そうに言う。
「いや、ルキアンは……。彼には、どこか遠いところで静かに暮らしてほしかった。しかし今はもう、彼は私たちとは違う道を歩き始めている。ルキアンは《敵》になった」
「ルキアンが? それは、どういうこと!?」
 驚きのあまり、思わず顔を上げたソーナ。答えるヴィエリオの口調には、対照的に微塵の乱れもない。
「敵の戦士となった。そういうことだ。あの後も彼は《アルフェリオン・ノヴィーア》の乗り手にとどまり、エクター・ギルドの飛空艦と行動をともにしているらしい。彼自身はともかく、君も知っての通り、ノヴィーアは恐るべき兵器だ。我らの理想を脅かすほどに」
「まさか、あのルキアンが……。あんなにおとなしくて、争いを好まない人が。どうして」
 ソーナの動揺を静めようとするかのように、彼女を抱きしめるヴィエリオの腕にも、いっそう力が加わる。だがその腕のぬくもりとは裏腹に、彼の口調は氷の刃のごとく冷ややかだった。
「ルキアンにも彼自身の譲れない思いがあって、戦いの道を選び取ったのだろう。もし彼と戦うことになったとしても、私は躊躇せずに倒す……」
 ヴィエリオの物静かな横顔は、窓から差し込む残照の影となった。
 一転して、怜悧な光が瞳に浮かぶ。


9 メルカの見た悪夢、ルキアンの最期 !?



 ◇ ◇

 今度の夢の中でも――あの荒野は炎に包まれていた。

 乾いた草むらや立ち枯れた木々を舐め尽くし、風のような速さで燃え広がる火焔。みるみる勢いを増し、渦を巻いて荒れ狂う炎の様子は、あたかも自らの意志を持ち、命を宿している化け物にさえ見えてくる。
 鋼の巨人や巨獣の残骸。傷つき、血を流し倒れた兵士たち。持ち主を失い、地面に刺さったままのサーベル。うち捨てられた背嚢や小銃。
 多くの者が力尽き果てた凄惨な戦場で、見上げるように大きな二つの何かが、なおも敵意をむき出しにして対峙している。
 双方とも翼をもった、黒い影と白い影。

 両者が何なのか。両者の戦いの結末は……。
 そのすべてを《彼女》は理解し始めていた。もう何度も、この同じ場面を見たのだから。そして回を重ねるたびに、恐ろしい夢の中身は明確になっていった。

 ◇

「大丈夫ですからね。何があっても、私たちが必ずあなたを守るから」
 優しくささやくように、それでいて力強い思いを込めた言葉で、シャリオは言った。白い僧衣をまとった彼女の胸に、一人の少女が顔を埋めたままで震えている。少女の顔は見えないが、亜麻色の豊かな巻き髪とピンク色の大きなリボンから、それがメルカだと分かる。
「もう、やだよ……。こんなの、やだ……」
 メルカは、小さな手でシャリオの法衣にすがりつき、ほとんど聞き取れないほど弱々しい涙声で繰り返す。
「ルキアンが……」
 単なる夢・幻とは言い難い、抗し得ぬ現実感と明瞭さとをもつ何らかのヴィジョンを通じて、彼女には見えたのだ。

 全身を損傷し、大地に崩れ落ちた銀の天使・アルフェリオン。
 引き裂かれるように散り、風に吹かれる無数の黒い羽根のイメージ。
 そして、うつ伏せに横たわるルキアン。
 息絶えたかのごとく、彼の身体は微動だにせず、起き上がることもない。

 ◇

 どのくらい経ったのか、メルカは医務室のベッドで再び眠りについた。閉じられた目からは、なおも涙が流れ、頬を伝う。
 ベッドの傍らの椅子に腰掛け、シャリオはずっと見守る。ただ、時おり、彼女は部屋の奥の方にも目を向け、何か変化がないかと慎重に様子をうかがっている。現在、シャノンとトビーも、彼女の患者としてこの部屋で休んでいるのだ。
 音を立てぬよう、そっと近づいてきたフィスカ。彼女に向かってシャリオは頷いた。
「気持ちが安静になり、眠りも深くなるよう、薬を調合して飲ませました。でも果たして、これは薬でどうにかなる類のものでしょうか」
「えぇぇ? 薬、効かないんですか……。でもメルカちゃん、寝るたびに恐ろしい思いをするなんて、可愛そうですよぉ」
 さすがのフィスカも深刻な表情で答える。口調は相変わらず少し奇妙だが、それが彼女本来のものだから仕方がない。
 眠っているはずのメルカに遠慮するような様子で、シャリオは溜息を抑えた。
「何と言えばよいのでしょうか。彼女の繰り返し見ている《悪夢》は、疲れや不安のせいでもなければ、心の病などでもないかもしれません。端的に言えば、それがもしメルカちゃんの《力》のせいなのだとしたら?」
 フィスカは意味が分からず、首をかしげている。
 沈黙。白っぽい光で室内を照らす《光の筒》が、二人の頭上で不安定にちかちかと瞬き、また元の明るさに戻った。そろそろ交換しなくてはといった顔つきで、シャリオは天井を見上げた。そのまま天を仰ぐような目で彼女は語り始める。
「気になるのです。メルカちゃんは普通では考えられないほど直感の鋭い子だと、時々まるで未来が分かっているようだと、ルキアン君が言っていました。そのことは、ネレイで私自身も見知っています。何も知らされていなかったにもかかわらず、メルカちゃんは、ルキアン君がクレドールに乗ることになると明らかに予見していました。そう、《未来》を……」
 ベッドの傍らの椅子に腰掛け、シャリオはメルカを見守る。フィスカが話を理解しているか否かは問題でないといった調子で、自分自身に問いかけでもするように、シャリオはつぶやいた。
「ラシィエン家は代々続く優れた魔道士の家系。この子に特別な力があっても不思議ではありません。そして、その種の力というものは、しばしば何らかの《きっかけ》により、突然に本当のかたちで目覚めるもの。もしかすると、メルカちゃんを襲った今回の不幸が……」
 シャリオの胸元では、神々の力を象徴する聖なるシンボルが光っている。メダルのような形状をしたそれを彼女は握りしめた。
 ――これが試練であったとしても、オーリウムの神々よ、罪なき清らかなこの子をお守りください。どうか、あのときの私のような思いなど、決して……。
 彼女の白い首筋には急に鳥肌が立っていた。背後にいるフィスカには分からなかったが、シャリオの表情は何かを怖れ、あるいは憎悪に歪み、唇は震えている。


10 何を企む? ファルマス、狂気の微笑み!



 ◇ ◇

 ほぼ、日も暮れた時刻。エルハインの都の背後の丘に、広大な市街を見下ろして黒々とそびえ立つ王城にも、点々と灯りが輝いている。相次ぐ増築で複雑に連なる城郭のうち、奥まった建物にある一室から、窓の光だけではなく、不可思議な楽曲も周囲に漏れ出していた。ハープシコードを思わせる音色の独奏だ。だがその曲が普通ではないのだ。
 細かな音符の群れが狂ったように踊る楽譜を、機械仕掛けのような、あるいは魔法の技のごとき超絶的な指使いがひとつの曲として再現している。蔦や唐草を模した黄金色の化粧漆喰に飾られた《円卓の間》の白壁に、その人間離れした演奏が響き渡る。
 まさに無心という態度で、ひとしきり曲を弾いたかと思うと、演奏の主は急に笑い出した。誰もいない広間に子供のように無邪気な――ということは、子供ではないということに他ならないが――声が反響する。聞いているのは、天井のフレスコ画に描かれた巨大な神々ぐらいなものだろう。
「さて! 今晩も楽しい夜になりそうだよ。僕も仕事、仕事……」
 独り言というにはあまりにも大きな声で、彼は満足げに言う。男は立ち上がると、ビロードのような艶やかな光沢を浮かべるグレーのフロック・コートを、洗い立てであろう真白いシャツの上から羽織った。
 広間の一角、鏡面仕上げの壁に向かい、彼は首に巻いた漆黒のクラヴァットの具合を丹念にチェックした。そして腰に帯びた白と黄金色の派手な剣に触れる。瞬間、刃がきらめき、再び鞘に戻された。彼が抜刀して一振りしたその様子は、正面に向けて水を打ったかのように、スムーズで素早い。
 独りでにこにこと笑いつつ、彼は円卓の間を出た。
 同じく過剰な装飾で埋め尽くされた廊下。別の部屋から出てきた人影が、こちらを見て言った。
「ファルマス、お出かけですか?」
 大きな縁のついた帽子を小脇に抱え、落ち着いた声で尋ねたのは、同じくパラス騎士団のエルシャルトだ。薄暗い廊下では、長髪の彼の横顔は美しい女性のようにも見える。
 しばらく無言でにんまりしていたファルマスは、いたずらっ子のような調子で答えた。
「うーん。内緒!」
「おやおや……。珍しく副団長殿がわざわざ出向くとなると、例の旧世界の少女とあの少年の件でもないようですね」
 感心しているようでいて、少し呆れているようにも見える表情で、エルシャルトは微笑んでいる。仮にも王国最強、あるいは世界でも屈指の機装騎士団の者とは思えないほど、この《音霊使い》の表情は物静かで柔和だ。
 おもむろに、すれ違う二人。
 そのときファルマスはエルシャルトの耳元でささやいた。
「例のイリスちゃんと、あの誰だっけ……単純な子、そうそう、アレス君のことは、手配は済んでいるから。僕の仕事は、もっと手強い。そして、もっと楽しい。いわゆるこれは……」
 口元は笑ったまま、ファルマスの目は虚ろになり、狂気じみた殺意を帯びる。
「決闘。かな」


【第38話に続く】



 ※2007年8月~9月に鏡海庵にて初公開
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第37話・前編


【再々掲】 | 目次15分で分かるアルフェリオン


 所詮、神の視点を持たぬ我々は、悲しき道化にすぎない。
 物語においても、現実においても。
 運命のいたずらの、からくりを見抜くことさえできないのだ。
 (前新陽暦時代。爛熟期のレマリアを憂う、ある作家の言葉より)

◇ 第37話 ◇


1 パリスの死に、ナッソス家の戦士たちは…



「嘘でしょ……。何言ってるの? 嘘よ、そんなの。何かの間違いよ」
 カセリナは呆然と繰り返す。広間の入口に立ちすくんだまま、彼女はしばらく中に入ることさえ忘れていた。
「ねぇ、どうして誰も……。違うと言ってよ。これは間違いよね?」
 彼女の靴音だけが、冷たく堅い響きで空気をふるわせる。城の控えの間に集まったナッソス家のエクターたち。居並ぶ戦士は、みな沈黙を守っている。
 色合いの異なる板が巧みに組み合わされ、幾何学的な模様を描く床の上を、カセリナは不安定な足取りでさまよった。そして一人のエクターの前に歩み寄ると、不自然な笑みを浮かべ、一転して明るい口ぶりで告げる。
「ねぇ、ザックス。パリスは強いものね! 必ず帰ってくるわよ。そうでしょ?」
 あまりにも無理に作られた朗らかな口調は、場の雰囲気をいっそう悲痛にしただけであった。
「カセリナ様……」
 眉間にしわを寄せ、ザックスは首を微かに左右に振る。その小さな反応以外には、彼は身じろぎもせず、慰めの言葉も敢えて発しなかった。
 大柄なザックスを見上げるように、カセリナが痛々しい視線を走らせる。無言で見つめ合う二人。ザックスの思慮深い目が伝えようとしていた――戦場では事実と冷徹に向き合わねばならないのだと。現実から逃げることは何の助けにもならないばかりか、心に隙や弱さを生み、新たな犠牲の連鎖にもつながりかねないのだと。
「何とか、何とか言いなさいよ! ザックス……」
 カセリナは一度は声を荒らげたが、途中で消えゆくように言葉を飲み込んだ。
 パリスの死を信じたくないのは、ザックスにとっても同じことである。いや、若い頃から共に戦ってきた相棒を失ったのだ、彼の悲しみはカセリナ以上かもしれない。だが幾多の戦場を生き抜いてきた老練なエクターは、ここで気休めを言うほど感傷的ではなかった。弟分の死を深く悼む自分が一方にいながら、それを第三者の目で常に冷静に見つめるもう一人の自分が、無意識のうちに彼の中には存在する。
 心を乱しながらも、そんなザックスの思いを理解したカセリナは、拳をザックスの胸にそっと押しつけ、うつむいて涙をこらえている。
「分かってるわよ。これは戦争なのだと。分かってるけど……」
 そのとき、静寂を破って、一人の若いエクターが口を開いた。
「お嬢様。俺も、とても悲しい。だけど俺たちには、もっと、やらなきゃいけないことがあるんじゃないか? それは、何て言ったらいいのか、パリスが……」
 声の主はそこで少し考え込む。ナッソス家の四人衆の一人、ムートだ。室内にいる繰士の中でも、彼だけが独特のいでたちである。赤い布を巻き付けたような衣装で上半身を包み、むき出しの肩や、いくつもの輪で飾った腕の上に、深い藍色のマントをまとう。そして三日月のように反った分厚い曲刀を携えている。
「そう、パリスがいま俺たちに一番望むことがあるとすれば、それは何なのか。そのことを今は考えて、次の行動をすべきじゃないか?」
 炎のごとく赤い髪に象徴されるように、ムートは本質的には荒々しい気性の持ち主だ。しかし、それでいて彼には冷静さも同居している。火と氷を同時に内に秘めたようなその心は、生まれついての戦士である彼の出自ゆえか――ムートは、東部丘陵の辺境に住む少数民族の出身である。軍神に最も愛されし者共。すでに前新陽暦時代から戦いを生業とし、今日も傭兵やエクターとして各地に散らばっている。時には賞賛を伴い、時には軽蔑や恐れを伴い、世間は彼らを《古き戦の民》あるいは《戦闘部族》と呼ぶ。


2 カセリナとルキアン、悲しい宿命の二人?



 カセリナは、ぼんやりした表情でムートの言葉を繰り返した。
「パリスが、私たちに、いま一番してほしいこと?」
「あぁ。そうさ。もしお嬢様がパリスの立場だったら、どう考えるか。そんなところだ」
 ひとすじの光。窓の向こうで傾き始めた陽を、ムートの耳で揺れる銀色の輪の飾りが反射する。
「ムートの言う通りです。カセリナ様。それが我々にできる、パリスへの最良の弔いでもありましょう」
 四人衆のリーダー、レムロス・ディ・ハーデンが、褒めるようにムートの肩をぽんと叩いた。丁寧に整えられた口髭と、櫛のよく通った黒髪。戦いに赴けば勇猛なエクターながらも、伝統ある騎士の家系出身のせいか、普段の彼は洗練された中年紳士という風情である。
「決して怒りや悲しみに駆られて戦ってはなりません。口で言うのはたやすいが、実際には困難なこと。だが、このようなときだからこそ冷静になるよう、常に肝に銘じておかねば……命を落としますぞ」
 レムロスからそう告げられ、カセリナは当然のように頷く。彼女は冷静さを取り戻したかのように見えた。しかしその様子とは裏腹に、カセリナの心の奥では、夜叉のごとく怒りが渦巻いている。

 ――許さない。仇は私が必ず取る。

 瞬間、彼女の瞳に狂気にも似た光が走った。

 ――翼を持った白銀のアルマ・ヴィオ、この私が討ち取ってやる! パリスの命を奪ったエクターよ、その死をもって償いなさい!! 

 ◇ ◇

 これまで多くの傷病者を癒してきたクレドールの医務室。戦うために生まれた飛空艦の中で、この場所だけが独特の安らかな空気に包まれている。
 医務室の入口となる、簡素ながらも落ち着きのある木造の扉は、来る者すべてに暖かい手をさしのべるかのような雰囲気を漂わせていた。扉の上の方には、医療の場として不謹慎にならぬ程度に、ささやかな飾りが付けられている。緑の細かい葉を茂らせた枝――それは北オーリウム海沿いの荒野に茂る灌木を思わせた――で出来た小さな輪に、野バラの実のような赤く堅い木の実が点々と飾り付けられ、仕上げにリボンが結ばれている。
 たぶんシャリオには、そのような趣味はない。その飾りを作ったのは看護助手のフィスカであろう。

「むぅ~。シャリオ先生遅いですぅ……」
 頭から抜けるような、いつもの甲高い声ではなく、珍しく小声でフィスカはつぶやいた。向こうで眠っている者たちを起こさぬよう、気をつかったのだろう。彼女は椅子から立ち上がり、忍び足で背後の部屋を覗いた。
 二人の患者。昨晩、ルキアンによって運び込まれたあの姉弟がいる。一方は弟のトビー。シャリオの神聖魔法によって一命は取り留めたものの、いまだ昏睡状態にあり、延々と眠り続けている。本来なら多量の失血や、そのショックで死亡していてもおかしくない状況だった。だが今の彼の寝顔自体は、皮肉なほどに穏やかに見えた。
 もうひとつのベッドで眠っているのは、いや、ようやく先ほど眠りについたのは、姉のシャノンである。ならず者たちに暴行された彼女が、落ち着いた精神状態に戻る気配はない。シャリオとフィスカに看護されながら、シャノンは一晩中震え、時には泣き叫び、今日の昼過ぎになって疲れ果てて倒れるように眠った。
 寝息を立てるシャノンの傍らで、心配そうに見守るフィスカ。彼女もシャリオも徹夜明けである。姉弟が寝入って少し安心したせいか、フィスカは急に睡魔に襲われ、繰り返しやってくる眠気を何とかこらえている。


3 残酷な戦いの現実、苦しむシャリオ…



 と、医務室の扉が静かにノックされた。
 ドアの向こう――そっと小突くようなノックの音からは想像できないほど、緊迫した表情でシャリオが立っている。
「フィスカ、二人の様子に変わりはありませんか?」
 倒れるように医務室の中に入ってきたシャリオは、儀式用の立派な聖杖を文字通りの「杖」代わりにして、身体を支えている。慌ててフィスカが駆け寄った。シャリオを正面から抱き留め、しばらく無言でいたフィスカが、やがて微笑む。
「先生、医者と神官の二役って、やっぱり無理しすぎですよぉ……。あ、心配ないです。シャノンさんもトビー君も、よく眠ってますぅ」
「そうですか。ありがとう、私はもう大丈夫」
 シャリオは重々しい大神官の正装を脱ぎ、宝冠も机の上に無造作に置いて、いつもの白と青の法衣の姿になった。
「久しぶりにこんなものを着ると、余計に疲れます。でもルキアン君の大事な晴れ舞台のためでしたから」
「私もルキアンさんの儀式、見たかったかもぉ……」
 わざと頬を膨らましているフィスカ。
「ごめんなさい。フィスカに全部任せてしまって。本当は、私もこの場を離れるべきではなかったのですが。埋め合わせは、そのうち必ずしますわ」
 そう言ってフィスカの背中に手を当てた後、シャリオの表情が曇る。
「でも本当に大変なのはこれからです。シャノンさんが少し落ち着いて、状況を理解したとき、ルキアン君のことをどう思うでしょうか」
 悲痛な面持ちで頷くフィスカに、シャリオは敢えて単刀直入に言った。
「シャノンさんにしてみれば、私たちギルドの人間は、自分たちの穏やかな暮らしを破壊する敵です。ルキアン君が実は敵だったということになれば……。考えてもみてください、フィスカ。万が一ということはありえます。今日、ルキアン君が戦った相手は、シャノンさんのお父様だったかもしれないのですよ? あるいは明日にでも明後日にでも、戦うことになるかもしれません。こんなひどいことって……」
「そんなぁ……」
 目に涙を浮かべながらも、必ずしも深刻そうには見えないフィスカの顔。シャリオはうつむいたまま、フィスカの頬に手をやった。シャリオの表情は、長い黒髪に隠れて見えない。そして、いつもより低めの声で、感情をかみ殺すようにシャリオは言う。
「お互いに命を奪ったり、奪われたりするかもしれないんですよ? ルキアン君と、シャノンさんのお父様が……。あるいはカセリナ姫とだって、もし戦場で会ったら、ルキアン君は戦わないわけにはいかないでしょう?」
 シャリオの指先が震えている。
「それなのに、先ほど、ルキアン君本人は不思議なほどに冷静でした。私はむしろ心配です。彼の、あの、次第に迷いから解き放たれてゆく瞳が……」
 フィスカはシャリオを黙って見つめている。いつもの気丈さが揺らぎ、シャリオは急にフィスカの胸に顔を埋めた。そしてつぶやく。
「これは、わたくしの責任なのです……。ルキアン君をネレイの本部で戦いに引き込んだのは、結局、わたくしなのですから」
「シャリオ先生……。そんなに自分を責めるのは良くないです。きっと疲れてるんですよぉ」
 フィスカの呑気な声が、妙に救いのあるものに聞こえた。おそらく自分の倍近く年上であろうシャリオの頭を、フィスカは子供をあやすように撫でている。その無邪気な助手に抱かれたまま、シャリオは独り言のように繰り返していた。
「わたくし、強くならなくては……。気持ちを強く持たなくては」


4 午後の雲海を眺める…そして火酒の味?



 ◇ ◇

 薄暗い階段を抜けると、目の前に空が広がった。淡い朱色を浮かべ始めながらも、まだ青の色が濃い、午後遅くの空だ。夕暮れまでにはもう少し時間がある。
 蒼穹の屋根、その下に広がる雲海。起伏に富む複雑な雪原を思わせる雲の絨毯に、手を伸ばせばあとわずかで届きそうに感じられる。だが実際に手を差し出しても、もちろん雲に触れられるはずもなく、透明な硝子の壁が指先に触れるだけだった。
 細い指をガラスに這わせ、ルキアンは思った。
 ――アルフェリオンに乗っていたときには、落ち着いて眺める気持ちの余裕が無かったけど……こうしてみると、きれいで、不思議な景色だな。
 ガラス張りの狭い回廊に囲まれた、クレドールの最上層。この場所にルキアンは初めて上がってみた。普段、特に昼時であれば、ここで乗組員たちが気分転換に空を眺めたり、雑談に興じていたりする。だが、臨戦状態である今は、人の姿もまばらである。おそらく交代の休憩時間を取っているのであろう、数名のクルーが点々と立っているだけだった。
 ルキアンは回廊の奥の方に歩いてゆく。途中、まだ名前を知らない乗組員の一人とすれ違ったとき、彼はルキアンに簡単な祝いの言葉をくれた。そう、ルキアンが先ほどエクターになったことに対する祝福だ。
 表面上はにこやかに礼を言ったルキアン。しかし彼は違和感を覚えていた。
 ――おめでとう、って……。これ、そんなにおめでたいことなのかな? 僕にも覚悟はある。だけど、もしアルフェリオンに乗る必要がなかったなら、繰士になろうとは思わなかったのに。
 ガラスの前にある手すりに寄りかかり、ルキアンは溜息をつく。

 と、向こうの方から、ちゃかすような声で誰かが言った。
「浮かない顔だねぇ、ルキアン君。繰士の称号を受けたヤツってのは、普通、もっと晴れ晴れしい顔をしているもんだよ」
 聞き覚えのある声に、ルキアンは思わず答える。
「伯爵……じゃなかった、ランディさん!」
「あぁ、その顔さ。まだ、そういう顔つきの方がいい。ちっとは明るくなったねぇ」
 琥珀色の蒸留酒で満たされているであろう、銀のピューターを手に、ランディが笑っている。彼は乾杯をするようなそぶりをして見せた。
「君も飲めよ。俺からのささやかなお祝いだ」
「あ、あの、そんなに強いお酒……。僕は……」
 ルキアンは遠慮するが、何となく断りにくかったので、ランディの手からピューターを渋々受け取った。勿論、この世界では、麦酒程度なら、大人だけではなくルキアンのような少年も普通に口にしている。ただ、ランディの愛飲するような火酒は、さすがに大人の飲み物だと相場が決まっているのだ。
「では、いただきます……。うわっ!」
 喉を刺す強烈なアルコール。強い酒を不用意に流し込んだため、ルキアンはむせてしまった。苦しげに何度も咳が続く。
 最初から予想されていたかのような、いわば「お約束」的なルキアンの振る舞いに、無頼の伯爵は大げさに声を立てて笑っている。
「おいおい、そんな、水みたいに飲むから……。少しずつ、舌で転がして味わうつもりでやってみなよ」
「す、すいません」
 むせびながらも、照れ笑いをしているルキアン。その表情をみてランディが頷いた。
「それでいい。で、クレヴィスに勧められたんだって? 今後、なし崩し的にアルマ・ヴィオに乗り続けるのもなんだから、ともかくエクターになっておかないかと」
「はい。そんなところです。エクターになるだけなら、それは必ずしも戦士になることを意味するとは限らないですし。運び屋や発掘屋を専門にするエクターも、ギルドに沢山いると、そんな感じで……。でも僕にも、戦う覚悟はあります。その覚悟を確認するために、エクターになることを受け入れたんです」
「なるほどねぇ。コルダーユからここまでの君の功績を考えると、エクターとしても立派に通用するさ。そりゃ、クレヴィスでなくとも、君に繰士になるよう勧めるだろう。で、どうしたよ? 暗い顔して、こんなとこまで来て、何か悩みでもあるの?」


5 贖えぬもの―命の重さと「償い」の矛盾?



 深刻そうに心配されるよりも、ランディのあっけらかんとした軽薄な口ぶりの方が、今のルキアンの耳には心地よかった。うなだれたのか、それとも頷いたのか、いずれとも解せるような動きで頭を垂れると、少年は曖昧につぶやき始めた。
「あ、その……何だか、じっとしていると、いろんな変なこと考えてしまって。だから散歩に来たんです。ちょうどクレドールの中でも、まだここには来たことなかったですし」
「そうかい。俺もここは好きな場所だ。昼間っから酒を飲んでいても、ここなら迷惑がられない。それに、この景色。いいもんだよ」
「えぇ。僕も驚きました」
 どこか遠い目で空を眺めるランディ。ルキアンも同じように外に視線を向ける。しばらく二人は言葉を発せず、徐々に暮れかかってゆく春の空を見つめていた。
 やがてルキアンが、ぽつりと言った。
「静か、ですね」
「あぁ」
「その……。世界も、いつもこんなに穏やかだったらなって。僕は」
「そうかい? 俺は、もうちょっと刺激があっていいと思うがねぇ」
「そ、そうですか」
 他愛もない会話が途切れ途切れに続く。
 不意に、自分が繰士になると決めた理由を、ルキアンが独り言のように語り始めた。
「このイリュシオーネが、今日の空みたいに穏やかな、《優しい人が優しいままで笑っていられる世界》になってほしいと僕は願っています。僕が繰士になったのも、その願いのためです。自分自身、何かできないかと、僕なりに悩んで考えたんです」
 黙って聞いているランディ。少年のか細い声がさらに続いた。
「《完全に正しい選択肢》や、何の《犠牲》も伴わない理想や未来なんて存在しないと……分かってるんです。それでも、出来る限り悪くない、今の自分に考えられる範囲での最善の《答え》を選び取ってゆくことが、この世に生きる者の背負った《責任》なんだって、頭では分かってるんです。だけど……」
 ルキアンの声が重くなり、口調にも若干のわななきが混じった。
「覚悟したはずなのに。でも、自分の選択の結果として生まれる《犠牲》の重さに、僕は耐えられるのかなって……そう考えだしたら、また不安になってきたんです。自分の守るべきものや大切な人たちのために戦えば、相手の命を奪ってしまうことも出てくる。しかも、その相手だって、僕と同じように守るべき何かのために戦っているし、本当は戦いたくないのかもしれない。独りでじっとしてると、そういう不安ばかりが頭に浮かんで、決心が揺らいでしまいそうなんです。だから、こうして気持ちをまぎらわせて……。それは《逃げてる》ことになるのかもしれませんけど、でも、僕は……」

 言葉をつまらせ、うつむく少年に、ランディは淡々と尋ねた。
「そういえば、君は人間だよねぇ、ルキアン君?」
「えっ? それは、はい……」
 不意に投げかけられた奇妙な問いに、ルキアンは慌てて口ごもるだけだった。酒を一杯あおった後、ランディは肩をすくませ、今度はおどけた雰囲気で言う。
「真面目すぎるヤツはこれだから困る。お前さんも、そう、クレヴィスもだ。他人の《犠牲》を償う? 一人の人間の命や人生……そんな途方もないものを償えるとしたら、君は一体何なんだ。神なのか?」
 返答できないルキアンに、ランディは話を続けた。
「まぁ、人間ってのは、つくづく矛盾に満ちてる。《人の命は世界よりも重い》と語ったのと同じ口から、今度は、その《世界よりも重い》はずのものに対する償いを、ちっぽけな人間である自分ひとりで果たすことができるかのように、言い出すんだからねぇ」
「そ、それは……」
「ましてや、何人、何十、何百もの人の犠牲を、たった一人が、あるいは何人かかっても、背負えたり償えたりするわけなんてないんだよ……我々、人間ごときに。だから《神》とかそういったものが、必要なんだろうさ」
 ランディは、何か言いたそうなルキアンに、再びピューターを差し出した。
「勿論、背負えないものを背負おうとし、償えないものを償おうとし続けるのなら、それは好きにしたらいいと思うよ。個人の気持ちの問題、ま、お堅く言えば、良心の問題だからね。ただ、それを一度始めたら《終わり》なんてない。《永遠に解き放たれることのない贖罪の鎖》で自らを縛ることになる。まぁ、もう一杯飲みなよ」
 今度は慎重に銀の入れ物を傾け、ルキアンは火酒を徐々に口に含む。
 ランディは雲海の彼方に目をやり、声を落としてつぶやいた。
「どれほど頭をひねってみても、理想を成し遂げるためには、その理想が大きければ大きいほど、他人の犠牲はつきもの。避けられない。だったら、せめて償いたい。が、それは不可能を棚に上げた偽善や自己満足じゃないのか? なぁんて、そういうことを考え出すと、怖くて一歩も前に出られなくなっちまう」
 そう言った後、伯爵は寂しげに尋ねる。
「ルキアン君と初めて会ったとき、俺は『新たな共和国について』の続編を書かないと言ったろ? 今ならあの理由、分かるかもねぇ……」
 そう告げたきり、ランディは窓外の風景を見つめたまま、何も言わなくなってしまった。
 姿勢を正したルキアンは、黙礼してゆっくり歩き去ってゆく。


【続く】



 ※2007年8月~9月に鏡海庵にて初公開
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第36話・後編


【再々掲】 | 目次15分で分かるアルフェリオン


◇ ◇

 すでに夕刻に向けて傾き始めているとはいえ、午後の太陽は、まだ思ったより高い位置で輝いている。長い冬が終わり、本格的な春の訪れたオーリウムでは、最近、日毎に夕暮れの時刻が遅くなっている。
 クレドールの艦橋――窓際で中央平原を見下ろしながら、クレヴィスとバーンが何か雑談をしている。バーンは珍しくエクター・ケープを羽織っていた。緻密な刺繍入りの生地を幾重にも重ねたケープは、バーンのたくましくも無骨な後ろ姿には、残念ながらあまり似合っているとはいえない。
 彼の隣に立つクレヴィスは、床に付きそうなほど丈の長いチャコールグレーのクロークに身を包んでいた。黒っぽいマントを着けた彼の姿は、魔道士を絵に描いたようであった。これで眼鏡を外し、杖でも手にしていれば、あたかも伝説の物語の中から現れた魔法使いといったところだ。その衣装の上に、彼もエクター・ケープをまとっている。
「何だか肩がこりますね。魔道士の正装をするのは、その昔、魔道士の称号を授けられたとき以来かもしれません。エクター・ケープを着るのも何年ぶりでしょうか」
 クレヴィスは苦笑いしている。実際、彼がエクター・ケープを着ている姿など、付き合いの長い仲間たちでさえ、カルダイン艦長をのぞけばほとんど見たことがなかっただろう。
 エクター・ケープは、いわば繰士にとっての晴れ舞台の装束である。かつてイリュシオーネの騎士がまだ鋼の鎧と兜に身を固め、馬上で手柄を競っていた時代、出陣する騎士たちが武勲を祈願して誇らしげにまとった衣装に、エクター・ケープは由来するという。メイのように、出撃の際には毎回のようにエクター・ケープを身につける者もいる。しかし格式を重んじる機装騎士の間ではともかく、何か特別なことでもない限りケープを着けないエクターが近年では増えているらしい。
「あいつ遅いな。何を手間取ってんだ?」
 先ほどから、艦橋の入口の方をバーンが何度も振り返っている。
「まぁまぁ、まだ夕暮れまでに時間はあります。ただ、ミトーニア市との会談までに、一応、こちらの打ち合わせももう少し詰めておきたいところですが」
 クレヴィスは愛用の懐中時計の蓋を開けたり閉じたりしていた。手持ち無沙汰なときの彼のくせだ。
「もっとも……よりによってこんなときに、今回の話を持ち出したのは私です。後で日程が窮屈になっても、その原因は私自身にあるのですけどね」
 いつも通り眼鏡の奥に涼しげな微笑を浮かべているクレヴィス。彼に向かって、バーンが不思議そうな顔で尋ねた。
「でもよ、クレヴィー。この話をルキアンがよく受けたもんだな。俺は意外だよ」
「えぇ。私も無理を承知で持ちかけてみたのですが。多分、いまルキアン君の中で何かが変わり始めている、あるいは目覚め始めているのかもしれません」
「その、なんだ、心境の変化……ってやつか?」
「そんなところでしょうね。おや、来たようですよ」
 クレヴィスの視線の先で、艦橋の入り口が開いた。


6 艦長の回想―もうひとつのクレドール



 わざとらしい咳払いの後、まだまだあどけなさの残る少年が姿を見せた。ノエルである。クラヴァットをおそらく初めて巻いたのであろう、彼の首や襟元はとても窮屈そうに見える。このやんちゃな少年には、本格的な正装はいまひとつ不似合いだった。大人用の衣装を子供が着てみたという感じの、滑稽な様相だ。
 彼は両手に短剣を持ち、予めどこかで教わったような大仰な動作で刃をゆっくりと合わせ、打ち鳴らしている。剣の先は丸く、鍔や束には込み入った装飾が施されている。実戦用ではない儀式用の物だ。
「え~、オーリウム・エクター・ギルドの誇り高き、白き翼の船……白き……あれ? 何だったっけ?」
 頭をかいて笑っている彼の背後、入口の奥から、メイが声を抑えて叱っている。
「あんたね、あれだけ教えたのに! 《大空の神アズアルから白き翼を賜りし伝説の魚――フォグ・フィクスの似姿にして、かの争いでの猛々しき戦船(いくさぶね)の名を受け継ぐもの、誇り高きクレドール》の諸君。だってば。いや、そうだった、かな。あはは」
「へいへい。大空の神……」
 メイから告げられた長たらしい言葉を、少年はオウムのように繰り返す。要するに、この船に与えられている格式張った舞台での称号のようなものらしい。艦橋のクルーたちは思わず爆笑し、ヤジや冷やかしが方々から飛び出した。
 そこで大きな咳払い。今度はノエルではなく、メイが彼に続いて艦橋に入ってきた。
「うるさ……いや、諸君、静粛に!」
 似合わない口ぶりで彼女が叫ぶ。それが余計に仲間の笑いを呼んでいる。艦橋の席の方からカルダインが一声かけ、ようやく周囲は静かになった。

 ――かの争いでの猛々しき戦船の名を受け継ぐもの。
 艦長は心の中で繰り返す。

 ◇ ◆

「だったら、カルダイン! あなたの船の名前は私が付けてあげます。クレドール、そう、《クレドール》というのはどうかしら? 《希望》を意味する、この国の古い言葉です」
 若い娘の声。元気に弾んだ口ぶりだが、そんな気さくさの中にさえ、優雅な空気が漂っている。
 記憶の向こうに、今も鮮明に刻まれている笑顔。
「勿体ないお言葉。このカルダイン、エレア様のお言葉、謹んでお受けいたします」
 青年カルダインは、レマールの海で日焼けした顔を伏せ、深々とお辞儀をした。
 ゼファイアの王女エレア・ルインリージュは、身体が弱く病気がちであるにもかかわらず、今日、ここでは快活さに溢れていた。決して大きくはないが、見事な調度品や天井画に彩られた広間。そよ風に栗色の長い髪を揺らし、王の座のある一段高いところから姫君が降りてくる。
 エレア王女は不意に真剣な面持ちになって告げる。
「カルダイン。この国は小さく弱い……。オーリウムとタロスという大国に囲まれ、それらの国から少し風が吹けば、消し飛んでしまいそうに見えます。そんなゼファイアを支え、広大なレマール海での貿易を担う国として発展させてきたのは、あなた方のような勇敢な冒険商人たちです。そう、あなたの新しい船は、私たちゼファイアの《希望》です。これからも頼みますよ。これは私からのささやかなお祝いです」
 彼女は再び、たおやかな笑みを浮かべる。その白い手には銀の腕輪があった。
 背後にいた部下の者たちとともに、カルダインは王女に――いや、正確には、国王の急死を受け、じきに女王として即位するであろう人に――ひれ伏した。
「このご恩は生涯忘れません。世間では海賊呼ばわりされる私たちのような者にさえ、いつもこのようなお心遣いを……」
 そう言い終わるが早いか、彼は機敏な動作で立ち上がり、鞘に入ったままの短剣を胸に当てた。ゼファイア海軍の敬礼か、そんなところであろう。
「この命、すべて姫様のために! ゼファイアに栄光あれ!!」

 ◆ ◇

 ――エレア様、私は貴女との約束を守れませんでした。タロスの飛空艦隊を追い詰め、勝利を目前にしながら、最後の最後で敗れてしまった。ゼファイアの《希望》を守り抜くことができなかった……。
 しばし目を閉じ、カルダイン艦長は、そんな感傷など微塵も起こさなかったかのように、いつも通りの厳めしい顔つきに戻った。

 そう、《クレドール》というのは、元々はカルダインがゼファイア時代に有していた飛空艦の名前なのだ。その旧クレドールは、貿易用の船ではあれ、空の海賊の出没するイリュシオーネでの広範な航行にも耐えうるよう、最初から多少なりとも武装を備えた船だった。そして革命戦争の勃発以降、何度も武装を重ねて軍艦同様の船となり、タロス新共和国の大艦隊を相手にレマール海一帯で神出鬼没のゲリラ戦を展開することになる。《ゼファイアの英雄》の指揮した飛空艦に他ならない。
 革命戦争の一応の終結の後、オーリウムのエクターギルドは、亡命したカルダインを組織に迎え入れようと躍起になった。その際、彼は次の2つの条件を主張して決して譲らなかったのである。《ひとつ、自分の乗るべきギルドの新造飛空艦にはクレドールという名を付けること。ふたつ、同艦の副長への就任を、魔道士クレヴィス・マックスビューラーが承諾すること》というものだ。
 双方の条件が満たされ、カルダインはギルドの飛空艦の長となった。


7 シャリオさんのターン! 大神官の衣装に…



「準備は整ったな。時間のない折、略式ではあるが、これよりルキアン・ディ・シーマーを繰士と為すために式を執り行う」
 カルダイン艦長が重々しい声でそう告げると、艦橋の面々は、真ん中の通路の左右に整然と並び始めた。だが、若干心配そうな表情の者もいる。それを目ざとく見つけたカルダインは、上機嫌そうに言った。
「かまわんよ。もうナッソス軍には、高空にいる飛空艦を攻める手だてはほとんど残されていない。いま動くことは奴らにとっても好ましくないだろう。それに……昔は、戦いの最中に騎士が多数討ち死にして足りなくなり、見習いを慌てて戦場で騎士に任じたことも、希にあったと聞いている」
 艦長はクレヴィス副長を伴い、通路の奥に臨時に設けられた段の脇に立った。クレヴィスの合図により、ノエルが再び剣を打ち鳴らしつつ、両側に分かれた人の壁の間をおもむろに進んでくる。ちょうど先払いのような具合だ。
 それに続いて廊下から艦橋に姿を見せた者がいた。周囲からざわめきが起こり、嘆息が漏れる。
 しきたりに従い、神官が入ってきたのだ。勿論、シャリオ・ディ・メルクールである。王や諸侯の臣下が繰士になる場合には、自らの主君によって任ぜられるのが常である。しかしギルドの繰士の場合、そうもいかないので、手近な神殿の聖職者に叙任の役を委ねるのが慣例になっている。
 ただしシャリオは普通の神官ではなく、準首座大神官という極めて高位の聖職者である。彼女自身も最初は遠慮したのだが、周囲にせがまれ、大神官の正装でこの場に姿を現すことと相成った。
 その壮麗な姿は一同を驚かせ、水を打ったように艦橋が静まりかえった。シャリオは大神官の位を表す黄金作りの二重の宝冠をいただき、普段の白と青の法衣の上には、赤地にこれまた黄金色で刺繍の施された長衣をまとっている。裾を床の上で静かに滑らせながら、彼女は儀式用の聖杖をかざして前方の段に歩み寄ってゆく。先端が渦巻きのように大きく湾曲し、玉石の散りばめられた巨大な杖だ。小柄で細身のシャリオには、少し重荷に過ぎる感さえあった。だが、そこはさすがに手慣れた様子である。
 列に加わって見守るベルセアが、隣にいるサモンに耳打ちする。
「おいおい。俺のときは、田舎のしみったれた坊さんが出てきただけだったぞ。これじゃ戴冠式みたいじゃないか。すげぇな」
 侍女を思わせる出で立ちのレーナが、長剣を重そうに両手で抱えてシャリオの後に続く。どうやら、先ほどのノエルの場合といい、この儀式の補助は年若い少年少女が行う習わしのようだ。
 カルダイン艦長、クレヴィス副長となにやら簡単にささやき合った後、シャリオは段に立って厳かに告げた。儀式が始まるらしい。
 が……。艦内が微妙にざわめいた。
「ルティーニ、いま、彼女は何て言ったんだ?」
 ウォーダン砲術長が怪訝な顔で口髭をなでている。いまばかりは彼も砲台から艦橋に上がり、ミルファーン海軍の制服で正装していた。彼をはじめとして、かつて所属していた組織の衣装を今でも式典の際には利用するという者が、ギルドには多い。そのため室内は様々な格好の人物であふれている。奇妙な眺めだった。
 傍らにいたルティーニが小声で彼に教える。
「あれは古典語ですよ。大きな神殿の儀式では、普通はオーリウム語ではなく古典語を使いますからね。たぶん《それでは新たな繰士にならんと欲する者、進み出よ》と言ったはずです。でも全部は聞き取れませんでした」
 周囲の雰囲気の変化に気づき、シャリオは頬を少し染めた。
「あら、いやですわ。わたくしとしたことが」
 段の脇に立つクレヴィスが、そのまま続けて構わない、と彼女に頷いている。
「分かりました。では、皆さん。神殿の正式な作法に則り、儀式の進行は古典語で行いますが、大切な部分はオーリウム語でも繰り返します」
 シャリオはそう言い、深く息を吸い込んだ。古典語の荘重な響きの後、同じ意味のオーリウム語が繰り返された。
「神の御名において、汝を祝福し、繰士に任じます。ルキアン・ディ・シーマー、入りなさい……」


8 誓い―優しい人の優しい笑顔を守るために



 ◇

 シャリオの言葉を受けて、艦橋にルキアンが入ってくる。正装した他のメンバーに比べ、彼の出で立ちは普段と変わらない。瑠璃色の生地に金の縁取りの入ったフロック。その胸元を飾るのは、朝の高原に漂う霧を思わせる、非常に淡い青の――よほど注意深く観察しない限り白にしか見えない――いつもと同じ色のクラヴァットである。もっとも、普段着としてはいささか堅苦しいその服装自体は、このような場にも相応しいものであろう。
 艦橋入口から両側に並ぶクルーたちの間を通って、ルキアンは、臨時に設置された正面の祭壇へと進んでゆく。ブリッジの一番手前で待っていたバーンが、ルキアンの肩を揺すりながら言った。
「よぉ、ルキアン! これでお前も正真正銘のエクターだな。これからもよろしく頼むぜ!!」
 ただ、口ではそう言いつつも、ルキアンが繰士になる決意をしたことに対し、彼自身は少なからぬ違和感を覚えていた。
 ――でもいいのか、本当に? たとえ王国のためでも正義のためでも、不本意ではあろうとも、エクターってのは、戦ってりゃ結局は人を何度も殺すことになるんだぜ……。それを誰よりも嫌っていたのは、お前自身だったろ。
 バーンは心の中でルキアンに語りかける。勿論、それはルキアンには聞こえない、胸の内での独り言だったが。
 ルキアンの頼りなさげな表情や、居並ぶ面々に向けられる彼の穏やかな笑顔、華奢な肩や腕などは、以前と何も変わらない。遠慮がちな足取りも同じ。だが、いつもうつむいてばかりであった彼の顔は前を見ていた。これまでのルキアンとはどことなく雰囲気が違うことに、その場の何人かは気づいている。
 ベルセアは、敢えて無言のまま、にこやかにルキアンに手を振っている。ベルセアの隣に居たサモンの前を、ルキアンが通り過ぎてゆく。一瞬、サモンの瞳の奥に強い意志の光が浮かんだ。
 ――なるほど。以前より目に迷いが無くなったな。何かをつかみ始めたか。
 緩慢な口調と飄々とした風貌からは想像できないほどに、鍛え抜かれた精神をもつ剣士、サモン・シドー。今は無きナパーニアにかつて存在したという《兵(つわもの)》の魂を現世界に受け継ぐかのような、恐るべき剣の達人だ。その黒い瞳は、ルキアンの戦士としての微かな目覚めをも見逃さなかった。
 だがルキアンの変化を最も明確に意識しているのは、正面の壇上にいるシャリオと、その傍らに立つクレヴィスに他ならない。二人とも淡々と式の進行を司っているにせよ。
 ゆっくりした足取りで、シャリオの前までやってきたルキアン。彼は片膝を突き、神官のシャリオに向かって恭しくひざまずいた。彼女は問う。
「まずは尋ねる。ディ・シーマーよ、汝の守護者たる神は?」
 イリュシオーネは多神教の土地柄である。その中でも、本人の身分、職業、居住地、あるいは人生観等の違いによって、いかなる神を信仰の中心とするかは人それぞれだ。ただし、いかに見習いであるにしても、魔道士の卵であるルキアンが守護者とあがめるべき神は限られてくる。なおかつルキアン自身が、幼い頃から《翼》のイメージに自分の夢や救いを重ねていたことから、彼の守護者たる神は明らかだ――月と魔法の神、翼を持つもの、闇の中の光、すなわち女神セラス以外にはあり得ない。
 ルキアンは信仰する神の名をシャリオに告げた。勿論、すでに例のパラミシオンの《塔》での一件以来、彼女はそのことを熟知している。あくまで儀式なのだ、これは。
 今まで大儀そうに抱えていた長剣を、レーナがシャリオに手渡す。意外にも手慣れた様子でシャリオは剣を鞘から抜き放ち、自らの胸元に引きつける。彼女の細腕では、こうして長剣を支えていることは、本当はかなり大変なことかもしれない。しかしシャリオは平然とした表情で、そして厳かな古典語とオーリウム語でルキアンに告げた。
「新しき繰士ルキアン・ディ・シーマー、汝の崇敬する、月と魔法の女神セラスに誓いを立てよ」
 ひざまずいたままのルキアンは、黙って頷く。
「小さき者たちの盾となり、あるいは優しき者たちを護る剣となり、その力を正しい道のために用いんことを」
 シャリオが言ったその表現は、エクターの叙任式にしばしば登場する文言に彼女が多少アレンジを加えた程度のものにすぎない。と、続けてシャリオは、ささやくように言葉を付け足した。彼女はルキアンに視線を合わせ、本当に小さな笑みを目に浮かべた。
「誓ってください。《優しい人が優しいままで笑っていられる世界》のために……」
 静かに息を吸い込んだルキアンは、普段より大きな声で答える。
「はい。私は、貴族の誇りと、この一命をかけて、セラス女神に誓います」
 その言葉に頷いたシャリオは、手にした剣の峰の部分をルキアンの肩に当て、そのまま、祝福の祈祷を手短に行った。全員の拍手が巻き起こる。歓声と拍手の渦の中、シャリオは壇から降り、真新しいエクター・ケープを携えたカルダイン艦長と役目を交代した。
 カルダインは普段とあまり変わらない口ぶりで、ルキアンに尋ねる。
「これで君はエクターになった。勿論、エクター・ギルドに加わるかどうかは、これからゆっくり時間をかけて決めればよい。ただ今回のような場合、たとえ居候であろうとも君が共に旅をしている飛空艦クレドールの長として、私がエクター・ケープを君に掛けるというしきたりになっている。構わないか?」
「はい。ありがとうございます。艦長」


9 闇の予言、終焉の門を飾る血染めの荊!?



 しかしカルダインの次の言葉は、ルキアンには初耳だった。おそらく事前にルキアンに儀式の進行について説明したメイあたりが、教えておくのを忘れていたのだろう。
「繰士としての、この場での君の《称号》を自ら定めたまえ。一応、儀式の際に必要なのだ。勿論、ここでの称号なんてものは形ばかりで、本当に優れた繰士には、放っておいても後から勝手に世間が《通り名》を付けてくれるものだがな。たとえば《緑翠の孤剣カリオス》だとか。あるいは昔、《地獄の猟犬》などと物騒な名で呼ばれていた奴もいたっけな……」
 彼の傍らで、クレヴィスが苦笑いしている。
「カル……。こんなときに、それは趣味の悪い冗談ですよ」
 ルキアンは慌てて考え込む。今までとひと味違う雰囲気だったルキアンが、いつもの頼りない彼に戻ってしまったような気がする。
「そんな、急に言われても、適当な名前が浮かびません……困ったな」
 彼の横からシャリオがそっと助言した。
「どうしても思いつかなければ、代わりに艦長に考えてもらうというのも、儀式の流れとしては構いませんのよ」
 だが、急にシャリオの目が真剣さを帯びる。
「難しく考えなくとも、ルキアン君、あなたが掴んだ何かを、そのまま言葉にすればよいのです。それは何ですか? 私も知りたいですわ」
 そう告げたシャリオの顔が、ルキアンにはなぜか不意にあの女性のイメージと重なって見えた。ミルファーンの機装騎士、シェフィーア・デン・フレデリキアだ。
 シェフィーアの言葉がルキアンの胸の奥で繰り返される。

 ――《拓きたい未来》を夢見ているのなら、ここで《想いの力》を私に見せてみよ、いまだ咲かぬ銀のいばら!!

 ――今度会うときには、もっと強くなっているように。期待している、《オーリウムの銀のいばら》、ルキアン・ディ・シーマー。

 ルキアンは、おずおずと口を開いた。
「あ、あの……。ちょっと偉そうな名前で、僕には似合わないんじゃないかと、恥ずかしいんですけど。みなさんも笑わないでくださいね」
 彼は艦長とクレヴィス、シャリオの表情を順番に見つめ、その後、艦橋に居並ぶ仲間たちを見回した。
「構わんさ。新しき繰士ルキアン・ディ・シーマー、告げてみよ」
「はい、艦長。では……。僕は、そのぅ……。銀の……。銀のいばら。オーリウムの《銀のいばら》と、この場では名乗ります」
 ルキアンは恐る恐るそう告げた。その途端、艦橋全体に再び大きな拍手がわき起こる。
 カルダインはルキアンの肩にエクター・ケープを掛けてやった。
「よし。オーリウムの銀のいばら、ルキアン・ディ・シーマー。汝の誓いを受け、繰士の証を与える」
 艦長がそう言い終わるか、まだ言い終わらないかのうちに、儀式的な雰囲気は一挙に崩れた。ブリッジにあふれかえるほど集まっていたクレドールの乗組員たちが、我先にルキアンめがけて押し寄せ、思い思いに祝い始めたのだ。飛び付いたり、抱きしめたりするのはもちろんのこと、中にはルキアンに頭から酒をかけたり、自分まで頭から酒をかぶって踊り出す者もいる。この場ばかりは何でもありだと、カルダインもクレヴィスも敢えて止めずに見守っていた。

 だが、そんなお祭り騒ぎに、艦橋の外から凍り付いた眼差しを向ける者がいた。
「水さえやらなければ、暗闇の奥で眠っていた種が芽吹くことはなかったのに。もう遅い。銀のいばらは目覚めてしまった。くすくす……。これからどうなるのかしら」
 薄暗い廊下に純白の衣装が怪しく浮かぶ。その色が本来は崇高さや清純さを表す色であることを疑わせるかのごとく、不気味な闇の光を放つ白……。同じく影の中で爛々と輝いているように見えたのは、美しくも呪わしき少女の瞳。
「銀のいばらは、血にまみれた蔦(つた)で終焉の門を飾り、すべての終わりのときを真っ赤に彩るだろう」
 エルヴィン・メルファウスは目を大きく見開き、何かに乗り移られてでもいるかのように、あるいは預言者のように語り始めた。

  暗き淵に、すなわちその蒼き深みに宿りし光が
  憎しみの炎となりて、真紅の翼はばたくとき、
  終末を告げる三つの門は開かれん。

 そう。シャリオとクレヴィスのいう《沈黙の詩》のあの一節だった。


【第37話に続く】



 ※2007年7月~8月に鏡海庵にて初公開
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第36話・前編


【再々掲】 | 目次15分で分かるアルフェリオン


 新しき繰士ルキアン・ディ・シーマー、
 汝の崇敬する、月と魔法の女神セラスに誓いを立てよ。
 小さき者たちの盾となり、あるいは優しき者たちを護る剣となり、
 その力を正しい道のために用いんことを。

◇ 第36話 ◇


1 シェフィーア



 アルフェリオンがゼフィロス・モードから元の姿に戻るにつれて、今まで機体を取り巻いていた強大な魔力も、あたかも風が通り過ぎてゆくかのように何処へともなく消失していった。
 パリスの命を救えなかったことへの慚愧の念と、ともかく戦いを終えた安堵感とが入り交じり、ルキアンからも気力が急激に抜けてゆく。考えてみれば、昨晩からずっと、しかも徹夜でアルフェリオンに乗り続けていたのだ。その後、現在の時刻はとうに正午を過ぎている。特に戦闘の際にパラディーヴァの力を借りていなかったなら、これほどの長時間、連続でアルマ・ヴィオを操るのは不可能だろう。その過酷な事実を自覚できるだけの余裕がやっと生まれたせいか、ルキアンの中で緊張の糸がぷつりと切れてしまったらしい。
 すると、彼とひとつになっていたリューヌの意識も、一瞬、感じられなくなった。彼女が消えてしまったかのような錯覚に陥り、不安になったルキアンは思わず呼びかける。
 ――リューヌ、ちゃんと《居る》よね? 返事をして。
 いつもなら問いかけとほぼ同時に、彼女の声が自分の心の中に浮かぶはず。だが今回は返答が数秒間遅れた。
 ――大丈夫です。力を少し使いすぎただけ……。
 ――リューヌに頼ってばっかりで、ごめん。負担をかけすぎだね。
 やはり今までとリューヌの様子が違う。大丈夫だと言いながらも、彼女の心の声はみるみるうちに弱まり、精神を集中させないと聞き取れないほど小さくなっていた。
 ――しばらく休めば回復します。
 そう告げたきり、リューヌからの反応は、かき消えるように無くなってしまった。今も彼女の存在自体は感じられる。しかし呼びかけに対する答えは完全に途絶えている。おそらくリューヌは休眠しているのだろうが、ルキアンはとても心細く思う。
 闘技場の周囲に並ぶ観客席のひな壇に沿って、ぼんやりと流れていく彼の視線が、シェリルのティグラーの姿とぶつかった。鎧をまとった重装備のティグラーがゆっくりと地面にしゃがみ込む。背中のハッチが開き、ハシゴ状の足場を伝って一人の女性が降りてくる。
 金属板が擦れ合うような音、軽くぶつかり合うような響き。彼女は、いわゆるスケール・メイル――鱗状の鋼の板をつなぎ合わせた鎧――を思わせる胴着を身につけ、通常よりも丈の長い赤のエクター・ケープをその上に羽織っている。この独特の防具に加えて、銛(もり)のような形状をもつ短い槍を背負った彼女の出で立ちは、ルキアンにとっては見慣れないものだった。どこか別の国、異邦の戦士という印象である。さらには、かつてミルファーンやオーリウムの北洋沿岸に栄えた民族の戦士を連想させた。
 ――この人が、シェリルさん?
 こちらに歩いてくる彼女に向けて、ルキアンはアルフェリオンの魔法眼の倍率を上げた。
 午後の日差しに輝く黄金色の髪は、背中で一本に編まれている。整った鼻筋や引き締まった口元には、こざっぱりとした気品が漂う。それでいて彼女の全体的な容貌には、ある種の野性的な雰囲気も感じられる。
「君も降りてこないか、少年。いや、ルキアンと呼んだ方がよいか?」
 シェリルの実際の声や喋り方も、念信のときの《声》のイメージと同様に厳めしかった。だが、上目遣いにアルフェリオンの方を見ている彼女は、飄々とした笑みを微かに浮かべている。見た目の印象では20代後半くらいに見えるが、ちょっとした仕草や顔つきに一定の落ち着きが感じられ、声の質もそれほど若くはない。
 ――外国の人? そういえばミルファーンの話をしていたけど。
 彼女の生の言葉を耳にしてすぐ、ルキアンはそう思った。流暢で聞き取りやすいとはいえ、彼女の話すオーリウム語のアクセントやリズムは、ルキアンのそれとは明らかに異なる。

 言われるがままに、ルキアンもアルフェリオンから降りた。
 二人の視線がぶつかる。シェリルの青く澄んだ瞳は、これまでの間にルキアンの中に作られていた彼女のイメージよりも、ずっと穏やかな印象を醸し出している。
「さっきは、どうもありがとうございました、シェリルさん」
 ぎこちなく礼を言ったルキアン。
「なるほど……。こういう子だったか。大体、思った通り」
 シェリルは小さく頷いた。耳慣れぬ響き。言葉の意味までは理解できないにせよ、とりあえず彼女がミルファーン語を口にしたことは、ルキアンにも分かった。続いて、再びオーリウムの言葉が聞こえた。
「帝国軍は、次は間違いなくオーリウムに侵攻してくる。この国も君も厳しい状況に置かれるだろう。いよいよ困ったらミルファーンに来たまえ。王城に行き、シェフィーアという機装騎士を訪ねるといい。《灰の旅団》のシェフィーア・リルガ・デン・フレデリキアの知り合いだと言えば、分かってもらえるだろう。オーリウムとミルファーンとの今後の関係にもよりけりだが、少なくとも個人的には君の力になってくれる」
 そう告げた後、彼女は指を立てて口元に当てる。
「君がミトーニアで会ったのは、ただの傭兵のシェリルだ。内緒だぞ」
 彼女はルキアンの頭に手を置き、彼の髪を軽く揺すった。
「今度会うときには、もっと強くなっているように。期待している、《オーリウムの銀のいばら》、ルキアン・ディ・シーマー」
 最後にミルファーン語の短い言葉が聞こえた。
「君のことを少しは気に入っているのだから。興味深い少年」
「え? 今、何て?」
「さぁ。こういう台詞は、わざわざ説明すると無粋になるものだ。君の国の言葉でどう言い換えたら一番適切なのか、私には分からないし」


2 ナッソス軍、ミトーニアを目前に後退



 彼女はおもむろに右手を高くかかげる。すると突然、その手の指す方向、空の一角が陽炎のように揺らめいたかと思うと、蒼天と同様の薄いブルーの機体が姿を現した。
「《精霊迷彩》で姿を隠していた? いつから上空にいたんだろう。飛空艇、いや、あれは船ではなくて飛行型の重アルマ・ヴィオだ」
 先ほどまではゼフィロスの超空間感応の圏外に浮かんでいたのであろうが、大型のアルマ・ヴィオが気配すら微塵も感じさせず《潜伏》していたことに、ルキアンは少々驚いている。
 機体は再び精霊迷彩を展開し、二人の視界から消えた。その姿が次に現れたのは、遺跡のすぐ上空にまで高度を下げた後だった。動きの特徴からみて明らかに飛行型のアルマ・ヴィオなのだが、トビウオを思わせるその機体は、むしろ飛空艦のクレドールをそのまま小さくしたような形状である。
「す、すごい。さすがはミルファーンの……」
 ルキアンが感嘆を交えてそう言ったのも無理はない。ミルファーン王国は、飛行型アルマ・ヴィオに関してはイリシュシオーネ随一の技術水準を有するのだ。ちなみにサモン・シドーの愛機《ファノミウル》も、おそらく長期のミルファーン暮らしの間に彼が入手したものだろう。
「迎えが来た。そうそう、そのティグラーは借り物だから、ミトーニアに返しておく。なかなかよく調整されていたよ。ではルキアン、生きて再び会おう。死ぬなよ」
 背を向けて歩き出していた彼女は、振り返って片目を閉じた。
「今日の調子で、何があっても諦めるな」

◇ ◇

  ――ザックスの兄貴、すまねぇな。後のことは頼む。
 突然の念信。相棒のパリスから届いた心の声は、達観したかのように妙に澄み切った調子を帯びていた。あまりに静かな思念の波が、かえってただならぬ事態を思わせる。
 ――パリス、どうした? 応答しろ!!
 なおもレーイと戦闘中のザックスは、最悪の結果を直感的に予想せざるを得なかった。信じたくないが、パリスからの次の知らせは、その予感が的中したことを告げていた。
 ――例の白銀のアルマ・ヴィオは危険だ。高速型への変形に気をつけろ。俺はここまでのようだが、差し違えてでも、こいつを……。
 言葉の背後にあるのは、失われゆく命。長年の戦友からザックスへの返事は、それが最後だった。

 相手の動きが微かに鈍くなったことを見逃さず、レーイが鋭く斬り込む。手練れのエクター同士の戦いにおいては、刹那の隙によってさえ戦いの行方が大きく変わってしまう。カヴァリアンの手に輝く光の剣が、一振りごとにいっそう近く、レプトリアの機体に肉薄する。
 ――ちっ、ひとまず退くしかないか!?
 崩れた体勢のまま、今の攻防の流れの中でレーイの剣を受け続けていては、じきに回避しきれなくなる。ザックスは瞬時にそう判断した。驚異的な跳躍力でレプトリアが背後に飛び退く。
 ――あれほどの戦士が……いま一瞬だが、たしかに動揺した。
 レーイは敢えて深追いせず、周囲に気を配っている。この距離を一太刀で詰めて、ザックスに攻撃を浴びせるのは不可能だ。後手に回った後、かえって敵に主導権を与えることになる。カヴァリアンは悠々と光の盾を構え、敵に対して十分に優位な位置関係を築こうとしている。激戦の中でも我を忘れず、滅多なことでは熱くならないレーイらしい動きだった。
 頼みの先鋒を封じられ、一騎当千の繰士を失うことになったナッソス軍は状況を不利とみたのか、ザックス以下、いったん退却を始める。

 ――レーイ、無事か。それにしても、さっきの急襲も敵ながら見事だったが、引き際も整然としたもんだな。
 聞き慣れた声で念信が入った。クレメント兄妹の一方、兄のカインからである。
 ――ナッソス家の本隊を城門付近に到達させないよう、何とか押しとどめたよ。お前があの黒いやつを引きつけておいてくれたのと、サモンやプレアーが空から上手く援護してくれたおかげで、この大物を抱えて降下できたからな。
 銃身の長い巨大な魔法銃を担いで、後方から味方のアルマ・ヴィオが近づいてくる。その特別製のMgSドラグーンは、強固な装甲に身を包んだ陸戦型の重アルマ・ヴィオでさえ一撃で仕留めるだろう。他にも両肩に多連装のMgS、背中には口径の大きい長射程MgSが2門――普段にも増して火力を強化した《ハンティング・レクサー》だ。


3 



 ◇

 上空に浮かぶクレドールでも、歓声の渦が巻き起こっている。
「ルキアン君が! 勝った……。アルフェリオンが勝ったわ!!」
 念信装置の前に座っていたセシエルが、ルキアンからの報告を受けて思わず叫ぶ。これほど興奮気味の彼女の姿を目にするのは、仲間たちにとっても珍しいことだ。単なる勝利ではなく、見るからにか弱そうな新参者の少年が強敵を倒したという状況に、彼女も多少なりとも感激したのだろうか。
「あぁ、勝ってもらわないと困るとは思ってたけど、本当に勝っちまうなんて。すごいな。敵のアルマ・ヴィオは、あのレーイが苦戦していた相手と同じ機体だろ?」
 敵軍が城の方に撤退してゆく様子を《複眼鏡》で追いながら、ヴェンデイルが言った。
 士気の上がる艦橋で、クレヴィスだけは普段と同じく微笑している。
「ふふ……。カル、私が言った通りだったでしょう。別の主役たちがいて、脇役たちがいて、形の上では筋書きも決まっているような、そんな《舞台》に横から出てきた彼が――本来なら《端役》であるはずの目立たない一人の少年が――いつの間にか物語全体を違う方向に持っていってしまう。そういった不思議な力がルキアン君にはある。結局、今回も彼によって《因果の流れを変えるダイス》が振られたのですよ」
 クレヴィスの言葉にカルダイン艦長が黙って頷いた。相変わらず言葉は少ないが、普段よりも幾分、その表情は機嫌良さげに見える。

 ◇

 同じ頃、勝利に沸くギルドの面々には知るよしもないところで……。
 音も光もない暗闇に、不意に鬼火と共に何者かの声が浮かんだ。
「《御子》の中でも最も小さき光でしかなかった者が、まさかこれほど急激に目覚めつつあるとは。やはり恐るべきは、エインザールを継ぐ《闇の御子》よ」
 地底の割れ目から吹き上げる風の音、あるいは竜の寝息を思わせる不気味な空気音と共に、しわがれた声がする。
「この18年の間、《予め光を奪われし生》の中で生ける死人も同然であったあの者を、何がそうさせた? なるほど、それが人の《想いの力》だとでもいうのか」
 宙に揺れる青白い炎を浴びて、鈍く光るのは黄金色のマスク。それがひとつ、またひとつ、不可思議な空間の中に姿を現す。
「だが、この戦いで、闇のパラディーヴァは相当に消耗した様子。あの《封印》を越えて召喚に応えることを何度も続ければ、あやつでも無事では済むまい。おそらく次で消え去るだろう」
「いかに《御子》とはいえ、所詮、《人の子》のあがきなど……我ら《時の司(つかさ)》の前では、塵が風に舞う程度の現象にすぎぬ」
 あやかしの笑い――餓狼の遠吠え、けたたましく鳴くカラスの声、悟りきった老賢人の高笑い、そして幼子のごとき声、あるいは伝説の魔女を思わせる冷たい微笑――それらがすべて混じり合い、木枯らしや地鳴りのような音と共に、がらんどうの闇に響いては消えてゆく。こんな声を立てるものなど、この世には、あるいは、あの世にすら居ないかもしれない。


4 北洋の騎士、鏡のシェフィーア



 ◇ ◇

「シェリル様……いや、もう作戦は終了しましたから、シェフィーア様とお呼びして構いませんね。お帰りなさい」
 抑揚の無い声と共に現れたのは、透き通った微笑をたたえる長身の女だった。金属質な輝きをもつ銀髪と、不自然なほどに鮮明な青色の瞳は、どこか人間離れした冷たい雰囲気を漂わせている。
「ただいま、レイシア。いつものを頼む。いや、いつもよりベルリの実を少し多い目に入れてくれ」
 シェフィーアは質素な木製の椅子に座り、くつろいだ様子で吐息を漏らした。彼女は肩に背負った銛のような手槍を降ろし、出迎えた忠実な部下・レイシアに渡す。
「傭兵ごっこには疲れたよ。それでも今回のように《用心棒》というかたちで潜入できれば、下手に口で素性をごまかさねばならぬ場合より、相手の信頼を得るのはずっと楽なんだがな。ギルドに包囲されて猫の手も借りたいミトーニアが相手なら、なおのこと簡単だ」
 二人の居る場所、周囲には、ちょっとした応接室ほどの部屋が広がっている。アルマ・ヴィオの乗用室(ただし《操縦席=ケーラ》ではない)にしては非常に広い部類に入る。いかに飛行型重アルマ・ヴィオであろうと、これだけの内部空間を――しかも戦闘には直接関係のない、ある意味で無駄に広い空間を――有している機体など通常は見かけない。彼女たちの乗っているアルマ・ヴィオが飛空艇並みに大きいせいもある。飛空艇と同様、1体か2体程度のアルマ・ヴィオなら内部に格納することさえできるようだった。

 しばらく奥に行っていたレイシアが、湯気の立つポットを運んで戻ってくる。香りからして、野草と果実をブレンドした飲み物のようだ。
「しかし、お戯れが過ぎましたね。計画外の行動は、オーデボー団長にまた怒られますよ」
 そのように諫めつつも、レイシアは笑っていた。笑っていたといっても、目と口元のほんのわずかな変化に過ぎない、小さなものだが。
「分かっている。お望みならば、座敷牢にでも何にでも入るよ。ふふ。だが、わざわざミトーニアまで来て、遺跡見物だけで帰っては面白くないだろう。それに伯父上は、私に勝手な《戦闘》は許可しないとおっしゃったのだ。今回、私自身は誰とも剣を交えていないが?」
 シェフィーアは、だだっ子のように強引な理屈を並べている。呆れた顔でポットをテーブルに置くレイシア。
「すまないな。名にし負う《霧中の剣レイシア》に小間使いなどさせて。だがお前は何にでも有能だから困る。茶をひとつ入れるにしても、陛下のお付きの者たちより上手い」
「《霧中の剣》は貴女の剣でございます。いつでも何にでもお好きに使ってください」
 単調な声でレイシアは答えた。一見、感情のこもっていない声で二人がやりとりしているふうに聞こえるが、彼女たちの間には、言葉を越えた不思議な信頼関係があるようだ。
 野草と果実の茶が十分に引き出されるのを待ちながら、シェフィーアは呑気につぶやく。
「結局、私の気まぐれな行動は、抗戦派のボスたちにとっては降ってわいた災難だったか。たぶん今頃、共に市庁舎前を守っていた2体のティグラーは、押し寄せる市民に道を明け渡してほっとしているかもしれない。《邪魔》なお目付役の私も居なくなったことだし、心おきなく、己の良心に従ってな」
 そこまで言うと、シェフィーアはレイシアに向かって苦笑した。
「何だ、その疑わしそうな目は? ふふふ。私は別に何もけしかけてはいない。もともと、あのティグラーの繰士たちはミトーニアの市民。群衆の中には彼らの家族もいたようだ。ほどなく、例の市長秘書と神官は市庁舎開放の英雄になって、胴上げでもされるかもしれない。救出された市長らがギルドと予定通りに和睦すれば、市街戦も避けられる。あのルキアン少年の夢みたいな願いが、今回は本当に実現する、か……」
「それだけ結果を予想しながら、あの場をわざと離れて決闘の見物にお出かけでしたか。シェフィーア様も意外に意地悪ですね。それに今回の任務はあくまで情報収集。ミトーニアを内部から攪乱することや、ましてオーリウムのエクター・ギルドの手助けをすることは含まれていません。偶然の成り行きでそうなったとでも、団長には申し開きをなさるのですか。いつもの悪いくせです」
 レイシアには弱いのか、釘を刺されたシェフィーアは、子供のように笑ってごまかしている。
「だったらレイシアは、私があのまま傭兵という役柄を演じ続け、抗戦派を守って少年のアルマ・ヴィオと戦えばよかったと? 冗談だろう。いずれにせよ、ミトーニアの開城が早まることはミルファーンにとっても大いに好都合。その手柄でもって、伯父上にも、私の独断に対する責任を帳消しにしてもらいたいものだ。つまるところ、アール副市長をはじめ、抗戦派の者たちが甘すぎたのがいけない。自業自得だよ。いかに腕の立つ手駒が少ないとはいえ、得体の知れぬ私をあのような防衛の要に配置するなど、愚かしいこと」
「貴女の腕前を見せられれば、雇い主なら誰でも頼みにしたくなります。いかに《鏡のシェフィーア》の通り名は伏せていようと、手を抜いてみせても、実力は歴然ですから。もっとも、市長を裏切った抗戦派としては、ミトーニアの市民兵を身近に置くのが内心では怖かったのかもしれませんね」
 ふと、シェフィーアの脳裏に、ルキアンの姿が鮮明に浮かび上がった。
「だからこそ、ナッソス家にすがったのだろう。そこに選りすぐりの先鋒を送ってきたナッソスの読みは賢明だったが、これまた運悪く、あのルキアンという災難が降ってわいた……というわけだ」


5 珍しく正装のクレヴィス? 儀式の始まり



「そろそ飲み頃です。どうぞ」
 カップに茶が注がれる。レイシアの手は機械のように整った動きをしているが、逆に言えばロボットを連想させてしまう。振る舞いといい、容貌といい、一風変わった女性である。
「ありがとう。レイシア、お前も飲め。しかし本当に《偶然》とは怖いものだ。そうは思わないか?」
 ミルファーンの首都近辺で焼かれた貴重な白磁のカップを手に、シェフィーアは自問する。
 ――人間には抗し難いその力は、むしろ《必然》か? あの場に居合わせた私さえも、ひょっとすると《偶然という名の必然》の実現に無自覚に力を貸した、単なるコマであったのかもしれぬ。あの少年……ルキアン・ディ・シーマーには、何かそういう不思議な力を感じる。考え過ぎか? いずれにせよ、思わぬ種を蒔くことができた。

 二人を乗せたトビウオのようなアルマ・ヴィオは、精霊迷彩でその姿を隠し、遠くミルファーン王国をめざして羽ばたいてゆく。イリュシオーネの旧六王国のうち、オーリウムと最も関係の良い国、北方の王者ミルファーンに。


【続く】



 ※2007年7月~8月に鏡海庵にて初公開
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地味主人公ルキアン・超覚醒、第30話~第35話まとめ版

連載小説『アルフェリオン』まとめ読みキャンペーン、第2週目です。
今晩は第30話~第35話を更新。

今晩は、スーパールキアンナイト!(^^;)
見どころは何といっても第35話「パンタシア」。主人公のルキアンが超覚醒か!?
いや、機体の方が超覚醒しただけで、別に乗り手のルキアン本人は変わっていないという話もありますが…。ともあれ、鬱回想から延々と続く妄想と独白を経て、ゼフィロス・モードを爆発的に発現させるルキアンから、目が離せません。

ナッソス家の四人衆とギルド側のキャラとの戦い、ロボット戦闘のシーンも充実です。

謎の組織「鍵の守人」も登場し、旧世界に関する情報が一気に明らかになるのも見逃せませんね。新キャラも続々。

アマリアとフォリオムの解説&実況も好調ですし、シェフィーアが偽名を使って傭兵として出てくるところなんかも面白い(ネタバレやんけ^^;)。初登場で正体不明のキャラだった頃から、シェフィーアさん、何かと格好いいです。

ただ浮かばれないのは、ナッソス四人衆の一人、パリスです。ルキアンに「正々堂々と一騎討ちだ!」と言われて戦ってみたら、シェフィーアさんが裏でルキアンに助言するわ、ルキアンはチートな超覚醒をやってのけるわで、パリスは騙し討ちにされたような感もなくはないです(汗)。それでいいのか主人公…。

そういえば、ルキアンだけでなく、何気にグレイルも超覚醒(笑)するんですよ。
第31話「御子」の回です。

かがみ
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第35話・後編


【再々掲】 | 目次15分で分かるアルフェリオン


 ――空振りして武器を地面にめり込ませたように見せかけ、わざと大きな隙を頭上に作ったか。素人だと思っていたが。
 ――僕は連想したんです、竜の力を。そして上空に向けての攻撃なら、強力なブレスを放っても街を巻き込む可能性は低い。
 相手の被害の状況を確認しながらルキアンは言う。
 若干、レプトリアの動きが重くなっている。本来の竜の場合であっても、炎の息や電光の息と比べれば、凍気の息それ自体の威力は劣る。だが本当に恐ろしいのは、敵を凍結あるいは麻痺させ、動きを奪う効果の方なのだ。
 アルマ・ヴィオでの戦いの基礎さえ知らないにもかかわらず、ルキアンは機体を己の身体同様に扱い、一流のエクター相手に奮闘している。その戦いぶりに、シェリルは彼のエクターとしての才能を垣間見た。
 ――先ほどの一瞬、あの少年は《竜》のイメージと自らをひとつに重ね、人ではなく竜と化し、機体と完全に一体になっていた。驚くべきは彼の想像の力、いくら魔道士の卵であるとはいえ、ここまでとは。それに、受けたダメージは積み重なる一方だというのに、彼の《パンタシア》の力は逆に高まり続けている。
 レプトリアの身体からゆるやかに蒸気が立ちのぼる。機体の発する熱を一時的に上昇させ、内部にまで入り込んだ氷を溶かしているのだ。
 ――ドラゴンブレスとは油断した。だがそんな手は何度も通用せん!
 地を蹴ってレプトリアが反撃に転じる。回避すらできずに倒れるアルフェリオン。とうとう衝撃に耐えかね、甲冑の右肩にひびが入り、音を立てて砕け散った。
 ――駄目だ。強すぎる……。これが本当のエクターなのか。
 降りそそぐ流星のごとき敵の攻撃は、さらに同じ箇所を正確に狙ってくる。ルキアンは機体を動かすことすらできない。
 ――何をしようと、力の差は埋めがたいぞ!!
 パリスの攻撃が続く。このままでは、アルフェリオンが破壊されるよりも先に、乗り手のルキアンが苦痛で気を失ってしまう。
 ――身体が砕けたみたいだ。痛くて、何も感じられない。もう僕は……ダメかもしれない。
 ――右腕部の動力筋、第一、第二、断裂。右肩の伝達系組織、中枢ラインの反応がありません。補助系統のラインも途絶えれば、腕は完全に制御不能になります。
 非常事態であるにもかかわらず、アルフェリオン・ノヴィーアの声は滑稽なほど平静であり、感情の起伏にまったく欠けている。そんな奇妙な警告に違和感を覚えることさえないまま、ルキアンの意識は急激に薄れてゆく。
 ――胸部装甲に亀裂、《ケーラ》に攻撃が達する危険があります。脱出してください……。脱出してください。


7 根深い自己否定…



 ◇

 《機体=仮の我が身》から受ける激痛に苦しむあまり、もはやルキアンの中では、朦朧とした意識に浮かぶものと現実との区別が曖昧となっていた。
 ――結局、何もできなかったじゃないか。やっぱり僕は駄目なんだ。
 自らの身体の存在する感覚すら失い、ルキアンの心だけが冷たい精神の谷底に落ちていった。
 ――でも僕だって、それなりに頑張ってる、はずでしょ?
 何故か、幼い頃からこれまでの記憶が鮮やかに浮かび上がる。過ぎ去った経験は憎々しいほどに明確なかたちをとり、ルキアンの辿ってきた仄暗い心の旅路が、残骸の山のように次々と重なって現れる。

  そこに光はなかった。
  少年の瞳から無邪気な輝きが失われたのは、
  いつのことだったろうか。
  思い出の中の時間が、新しい記憶の方へと巻き戻されてゆく。
  時が辿られるにつれ、夕暮れの道を行くように、
  記憶の中の風景を包む翳りは次第に深くなるばかり。

 ◇

 ――どうした、少年? 早く立て、立って戦え!!
 念信。音としての声にはならないが、激しい思念でシェリルが呼びかける。だがルキアンからの正常な返事は完全に途絶えている。
 本人の意思によらず、いや、本人が拒否したいにもかかわらず、めくられてゆくルキアンの記憶のページと、それに対する彼自身の解釈のページ。それらは、開かれたままの念信を通じてシェリルの心へと漏れ伝わってくる。
 ――何という、孤独で、暗いあきらめに満ちた心。
 少年の精神に巣くう虚無の果てしなさ、魂の奥底まで伸びた自己否定の根深さに、彼女は言葉を飲み込む。

 《どうせ》、どうせ僕は。僕なんか……。
 思っても、願っても、そんなの何の力にもならない。
 《やっぱり》、また駄目だった。

 だがシェリルは敢えて問う。
 ――そんなに駄目だというのなら、やめてしまえばよかろう?
 ルキアンの心が微かに反応した。彼の意識を現実の世界に引き戻そうと、シェリルは続ける。
 ――やめられまい。いま、君の心をのぞかせてもらって……いや、成り行きで否応なく見せられたというべきか……それで私にはようやく漠然と分かった。どうして君にそこまで強いパンタシアの力があるのか。少年、君自身、気づいているか? 自分は駄目だと思いこんでいながら、それでも今まで立ち上がって生きてきたのは何故だ? 何度倒れても、懲りずにまた、あきらめを深めるだけのために、失敗するだけのために、そのたびに起き上がって手を伸ばし続けてきたのは、どこの誰だ!?
 再び目覚め始めたルキアンの心を、シェリルの声が揺さぶる。
 ――君はあきらめたくなかったのだろう? 現実がどうあろうと、せめて想いの中だけでも……。それが無意味な空想だとは、むなしい妄想だとは、認めたくなかった。なぜならその想いの世界だけが、君のたったひとつの自由の場であり、君の帰れる、君が安らいでいられるところだったから。だからどうしても失えなかったのだろう?


8 主人公超覚醒!? 僕にとって空想だけが…



 ◇ ◆

 暗闇の中、幼い姿をしたルキアンがしゃがみ込んでいる。
 ――こんなの違う。何で僕だけ、だめな、いらない子なの? 何で僕だけ、どこにいてもうまくいかないの? 僕が本当に帰っていいところって、どこなの?
 銀の前髪の奥に表情を隠し、引きつるような、かすかな声ですすり泣いている。
 ――《おうち》に帰りたいよぅ……。

 今度は成長した少年ルキアンが、深くうつむき、握りしめた拳を振るわせながら立ちすくんでいる。
 ――帰る? 僕の本当の《家》なんて、この世界のどこにも無かったじゃないか。

  そう、気がつけば居場所はひとつしかなかった。
  手も届かぬほど果てしない闇の底に向かって
  僕は転がり落ちてゆくしかなかったのだ。
  でもそれ自体は苦痛ではなかった。
  この漆黒と静謐だけが、僕を受け止め、抱きしめてくれた。
  魂の深き淵。
  この無限のくらやみの中でだけ、
  僕の想いの翼は
  本当に自由に羽ばたくことを許された。

 ◆ ◇

 ――そう。この世でただひとつ、君の帰れる場所であった空想の世界。たとえそこが美しい光の園ではなく、どれほど暗い影につつまれていたとしても、虚ろな夢の庭であったとしても……その中で羽ばたく想いの翼は、唯一、君が手にした自由への大切な鍵だったのだろう?
 ――空想の世界。自由への鍵。この世界で僕がたったひとつ手にしたもの……。
 うわごとのように答えたルキアンに対し、シェリルは力強く断定的に言った。

  人にはみんな、見えない翼がある。
  夢や空想という名の、どこまでも飛べる羽根がある。
  それこそがパンタシアの力。
  現実への絶望が深いほど、
  あるいは現実が理想を失って著しく歪んでいるときほど、
  内なる幻想の翼は、いっそう大きく羽ばたこうとする。
  まずは君自身が認めることだ、己にその翼があることを。

 ――僕の、つばさ……。そ、そうだった!
 正気に返ったルキアンに向け、待っていたかのように彼女は叫ぶ。
 ――現実と夢想の狭間で、君の涙は無駄に流れ続けてきたのか? 《拓きたい未来》を夢見ているのなら、ここで《想いの力》を私に見せてみよ、ルキアン・ディ・シーマー、いまだ咲かぬ銀のいばら!!

 ◇

 鼓動……。ルキアンの胸の奥で何かが脈打った。

 突然、パリスは自分の身体を不可思議な力が通り抜けていったように感じた。何が起こったのか分からないうちに、透明な恐怖が指先から頭まですべてに染み渡っている。
 ――これは。全てを飲み込もうとする、この冷たく暗い妖気は……。
 巨大な黒い魔物が目の前にそびえ、こちらに迫ってくる。彼にはそう思えた。


9 果てなき妄想が、記憶の檻さえも突き崩す



 ◆

 ルキアンの記憶の中、いや、現実の記憶と空想とが入り交じったイメージの中。薄暗い深緑につつまれた森の奥に向かい、一本の小道が伸びる。苔むした老木の根元に銀髪の子供がうずくまっていた。小さい身体、華奢な背中いっぱいに、あどけない男の子が背負うには重すぎる孤独が、影のように染みついている。
 弱々しい、かすれた声で、幼いルキアンはつぶやく。
 ――おうちに帰りたいよぅ……。
 いつの間にか、黒い衣装に身を包んだ女が彼の前に立っている。腰まで届く長い髪も同じく闇の色、彼女の背中には漆黒の翼があった。
  ――私と一緒に、本当の家に帰りましょうね。
 翼をもった黒衣の女は、そっと手をさしのべる。
 みじめな幼子は不意に顔を上げ、何かに気づいたかのように周囲を見回した。しかし、誰もいないことを知ると、再びうつむいてすすり泣き始める。
 黒衣の女は血の気のない真白い手を伸ばし、彼の頭をなでた。だが彼女の手はルキアンの身体を通り抜ける。指先は、むなしく宙をつかむ。
 ――もう泣かないで。私の大切な……。
 ルキアンの額に、彼女は届かない口づけをした。ガラス玉のような瞳に感情の光を見て取ることはできなかったが、その背中には一抹の寂しさが漂っているようにもみえる。黒き闇の天使は翼を開き、いずこへともなく消え去った。

 ――リューヌ。あの頃からずっと見守ってくれていたんだ……。
 心象の世界の中に立つルキアンが、瑠璃色のフロックをまとった現在の彼の姿に変わる。いま再び、恭しく差し出された白い手を、ルキアンはしっかりと握りしめた。
 ――すべては御心のままに。《我が主(マスター)》よ。
 闇を司るパラディーヴァは、厳かにひざまずく。

 ◆

 周囲に重い魔力が満ちあふれ、冷たく息苦しい霊気が渦を巻いてアルフェリオンに流れ込んでゆく。地面の砂や木の葉が舞い上げられ、古びた遺跡の壁から剥がれるように石粒が落ちる。
 ――この毒々しい力、先程までと大きさも桁違いだ。これが同じ人間から発せられているとでも?
 目に映る風景がたちまち色を失い、どす暗い闇の色に塗りつぶされたようにシェリルには思えた。彼女は直感的に感じ取る。
 ――違う。こんな途方もない妖気が人間のものであるはずはない。精霊や妖魔の類か? 何か強大な力を持った存在が確かに居る。どうした、この私が震えているとは。
 この場に降臨した恐るべき何かを、彼女の心や体が知覚している。得体の知れない寒気がする。
 ――ルキアン? この感じは彼の霊気だ。あの絶大な闇の力の中に、小さい点のようだが、確かに感じられる。取り込まれず、それでいて完全に融合している。
 にわかに空が暗くなり、立ちこめる黒雲。気圧が急変し、周囲の気温も異常な速さで低下する。自然界の霊的バランスを狂わせるほどの巨大な力が発生しているのだ。
 ――あの白銀のアルマ・ヴィオの様子が急に完全に変わった! 理由は分からんが、今朝と同じか。
 あまりにも濃い魔力、いや、暗い情念に満ちた妖気の渦に巻かれ、パリスは吐き気すら感じる。


10 ゼフィロス・モード、真の発現!



 ルキアンの《目》が不意に見開かれた。実際の彼の身体は《ケーラ》の中に横たわって動かない。開いたのは彼の心の目である。
 アルフェリオンに流れ込む霊気の渦が、さらに風を呼び起こして竜巻のように成長する。
 ――目覚めよ、呼び声に答えよ、僕のパンタシア。思い浮かべるんだ、あれの姿を。《風の力を宿した飛燕の騎士》を。そして力を貸して、リューヌ!
 突風の壁の向こうで機体が青白く輝き始める。白銀のアルマ・ヴィオの姿がみるみるうちに変わってゆく。まず頭部から、兜の両脇に伸びる角のような部分が小さくなるに連れ、額の部分が光り、そこから翼を思わせる飾りが左右に伸びる。頑丈な肩当てや分厚い胸甲は縮み、甲冑全体のシルエットがずっと細身になりつつあるようだ。
 ――シェリルさん、これが僕の《想いの力》です。見てください、僕がずっと心の奥で育てていた《銀のいばら》を!
 激しい気流の壁を切り裂き、光が一閃する。途端に竜巻は天に昇ってゆくかのように消え去った。姿を現した《それ》の手に握られているのは、輝く三つ叉の刃を持った槍。
 そして最後に、背中の6枚の翼が2枚の流線型の翼に変わった。流れるような形の羽根は、まさに燕を思わせる。

 ――無駄なことだ!!
 竜巻が消え、アルフェリオンの姿が再び現れるやいなや、パリスはレプトリアを駆って突撃した。今度こそ勝負を決しようと全身の力をこめたレプトリアの攻撃は、たしかにアルフェリオンを正確に狙って繰り出されたはず。しかも、人の目ではとらえられぬ刹那の間に。
 だが手応えは無い。光の爪、敵を引き裂く必殺のMTクローは空を切っていた。
 ――まさか、かわしたのか?
 パリスが焦っているのは、単に渾身の一撃が当たらなかったからではない。
 ――どこにいる? 今の攻撃を回避することなど不可能なはず。それを、かわすどころか、一瞬で俺の間合いの外に出ただと。あり得ない、あんなところに!?
 闘技場の端、観客席のある古びた石積みの斜面の前に、彼は白銀色の機体を発見した。

 ――あ、あれ? 攻撃を避けようとしただけなのに、ひとっ飛びでこんなところまで……。どうなってるんだ?
 先程までと全く異なる機体の具合に、ルキアンの方も戸惑っていた。
 ――これは何、リューヌ? 分かるんだよ、何でか分からないけど、全部分かるんだ……。僕の周りに何があるか、どんな大きさの建物がいくつぐらい、そして何が動いているのか。これって、目で見てるんじゃないよね? 左右、上、いや、後ろの方まで手に取るように分かる。気持ちが悪いよ、落ち着かない。
 動揺気味のマスターに対し、リューヌはいつも通りの口調で静かに告げる。
 ――我が主よ、それがゼフィロスのもつ《超空間感応》による感覚です。今、あなたは自分の周囲の空間に存在するものを個別に把握しているのではない。空間そのものを丸ごと認識しているのです。そこに存在するものは、たとえどれほど速きものであろうと、姿なきものであろうと、ゼフィロスの《眼》から決して逃れることはできない。
 超高速の己をさらに凌駕する速さを誇り、しかも底なしの妖気をまとう敵を前にして、レプトリアもわずかに後ずさりする。
 ――怯むな! これしきのこと!!
 自らの機体に鞭打つかのように、パリスは意を決してなおも先手を取った。瞬間移動さながらに、広場の端まで一気に跳躍する速さだ。


11 目覚める銀の荊―ダメ主人公に才能が?



 だが……。レプトリアの輝く光のかぎ爪を、白銀の騎士の手にした三つ叉の槍が受け止めている。
 ――見切られただと。いや、人の目では追い切れない速さだったはず。まさか、当てずっぽうか?
 互いの刃が火花を散らすせめぎ合いから、パリスはさらに一撃を繰り出す。だが、機体の触れ合うほとんどゼロ距離からの攻撃が、またもや外れてしまった。しかも、アルフェリオンは敵の爪を武器で受け止めたのではなく、身体をひねる動きだけでかわしたのだ。
 ――これは何だ。これは! こんなことがあるか!?
 一瞬、練達の繰士パリスも我を忘れ、力任せに相手を押し倒そうとする。アルフェリオンは、あっけなく弾かれるように後ろに飛んだが、翼を開き、ひらりと宙で一回転して後方に着地する。
 その様子をじっと観察していたシェリルは、ルキアンの操る機体の特性が、速さ以外の点でも大きく変化したことに気づいた。
 ――おそらく今の形態に変わってからは、運動中枢や全身の伝達系、あるいは感覚器などにほとんどの魔力をつぎ込んでいるというところか。その分、装甲や結界などの守備力は下がり、パワーも格段に落ちた。先ほどまではルキアンのアルマ・ヴィオの出力の方が上回っていたが、今では反対に押し負けている。すべては、あの圧倒的なスピードと鋭敏な感覚を得るための代償だというわけか……。
 だが彼女は満足げに言った。
 ――それにしても、あれほどの《変形》を経た後の機体であるにもかかわらず、彼は何とか上手く使いこなしている。恐るべき共感レベルの高さ、いや、エクターとしての才能?

 その間にも、ゼフィロス形態のアルフェリオンとレプトリアは、ぶつかり合う二つの疾風のごとく、常識を越えた高速の戦闘を繰り広げていた。いずれの動きも肉眼ではとらえきれない。両者が激しく衝突する音で、位置がかろうじて分かる。だが音のしたときには、その場所にはもういないのだ。
 シェリルの目をもってしても、しかもティグラーの魔法眼を通して強化された動体視力であるにもかかわらず、闘技場を縦横無尽にふたつの影が飛び交っているとしか把握できない。
 空中で両者が交差した後、地上に降りたレプトリアが急旋回し、振り向きざまに背中のMgSを放った。青白く輝く雷撃弾が飛来する。だが炸裂するはずの魔法弾はアルフェリオンを通り抜け、奥の遺跡の壁に激突してようやく発動した。
 ――残像か? さすがに速い。だが!!
 MgSを放つと同時に、魔法弾にも劣らぬ速さで突進していたレプトリアは、弾を回避したばかりのアルフェリオンに飛びかかった。
 ――雷撃は、おとり? くぅっ、パワーが足りない……。
 レプトリアの爪をかろうじて受け止めるも、勢いに乗った敵に押され、アルフェリオンは地面をすべるように後退する。
 ――速くなったのはいいが、腕っ節は弱くなったようだな!
 素早く飛び上がったレプトリアが、機体の重さを乗せてMTクローを叩き付ける。地面が割れ、砂や石が舞い上がった。
 後ろに飛び退いたアルフェリオンの方で何かが光った。土煙を貫いて光の筋が宙を走り、レプトリアの足元に突き刺さる。光は鞭のようにうねり、なおもレプトリアを追う。魔法力で形成された鎖・MTチェーンだ。
 輝く鎖の先端には同じくMT兵器の刃が付いている。生き物のように襲いかかる鎖を、レプトリアは巧みに回避する。
 だが2本、3本、鎖の数は次々と増えた。
 ――同時に4方向からだと!?
 さすがにかわしきれず、MTチェーンの一本がレプトリアに命中した。
 鎖に気を取られていると、今度はアルフェリオンの本体が攻撃を仕掛けてくる。絶叫しながら槍を振り下ろすルキアン。飛燕の騎士の槍先は次第にレプトリアに近づき、直撃はしないにせよ、機体をかすめるようになり始めていた。繰り出される高速の突きは、一撃ごとに鋭さを増してゆく。
 全力を出しているとはいえ、パリスは徐々に追い詰められつつあった。
 ――負けられん。ここで勝たねば、ナッソス家の勝機が!!


12 決着、全方位から自在に襲う「縛竜の鎖」



 だが相手のルキアンは、今この瞬間にもゼフィロスとの交感レベルを爆発的に高め、すでに従来のフィニウス・モードのときと遜色ないほどにゼフィロスを操れるようになっていた。アルフェリオン自体も、パラディーヴァと融合したため、今までとは比較にならない膨大な魔力を宿している。
 ――とらえることのできないものを狩る者。風の力を宿した、飛燕の騎士。
 ルキアンはその姿をイメージし、自らの身体と同様に白銀の機体を動かす。
 ――行け、《縛竜の鎖》よ!!
 彼が念じると、4本のMTチェーンが不規則な軌道を描き、レプトリアに向けて殺到する。繰り出される鎖の動きも矢のように速い。
 ――くっ! 地面すれすれか!?
 光の鎖に足元をすくわれ、レプトリアが初めて倒れた。
 動きが止まったが最後、他の3本の鎖もたちまち飛んでくる。今の状態では回避できず、チェーンの先端に付いたくさび型の刃先が、レプトリアの脚に突き刺さった。さらに一本が首に絡みつき、最後の一本も後ろ脚をとらえる。
 たった一瞬の隙が、状況を大きく変えた。これではパリスは完全に動きを封じられたも同然だ。光の鎖を引き絞りながら、ルキアンが念信で伝える。
 ――降伏してください。もう勝負は付いています……。僕は相手を殺すために戦っているのではありません。

 ――ザックスの兄貴、すまねぇな。後のことは頼む。
 別の念信でパリスはそうつぶやいた。
 ルキアンは、自分に対しては無言のパリスに、もう一度呼びかける。
 ――これ以上の争いは無意味です。降伏してください。
 レプトリアがふらふらと立ち上がる。軽量化を最優先した高速型のため、その機体は意外なほど華奢な作りである。脚にまともにダメージを受けてしまっては、もはや動くことさえ困難らしい。
 パリスはなぜか微かな笑いとともに答えた。
 ――いいか、若造。最初に言ったろ、俺が剣を置くのは相手を倒したときか、相手に倒されたときだけだと……。
 次の瞬間、レプトリアは不自由な動きでアルフェリオンに飛びかかろうとする。だが四肢に絡みついた細い光の鎖が、恐るべき強靱さでその動きを封じている。あとわずかのところで、レプトリアの牙は届かなかった。
 ――お願いです。もう戦いをやめてください。僕はあなたを……いいえ、誰も、もう誰も殺したくない!!
 悲壮な声でルキアンが言った。
 しかしパリスは怒号を上げて彼の言葉を遮る。
 ――甘い、甘すぎる。素人同然の相手に無様に敗れ、しかも敵から情けをかけられるなどとは、機繰騎士として俺は死ぬよりも苦痛だ。そんな屈辱を受けるならば……。今すぐ俺を殺せ! 殺さぬなら、こちらが君を殺すぞ。
 ――そんな、命を失ってまで守る名誉なんて……。
 わずかな隙を見逃さず、残る全力をかけてレプトリアが襲いかかった。ゼフィロスの装甲は薄く、黒い竜の牙が肩に食い込む。ルキアンは慌てて突き放そうとするが、レプトリアは決して離そうとしない。
 ――本当の繰士とはこういうものだ。よく見ておくがいい!!
 パリスがそう叫ぶと同時に、リューヌがルキアンに警告する。
 ――我が主よ、敵は自爆する気です。ゼフィロスの防御力では、こちらも大破を免れません。とどめを刺すのです、早く。

 ――申し訳ない、カセリナお嬢様……。ナッソス家に勝利を!!
 パリスの最後の言葉が終わろうとするとき、ゼフィロスの手にした槍がレプトリアを深々と貫いた。
 ――えっ?
 何が起こったのか分からないルキアン。
 彼の心の中にリューヌの冷たい声が浮かぶ。
 ――お許しください、マスター。しかし、たとえどのような手段を使ってでも、あなたを守ることが私の使命です。
 ルキアンの意思に反し、リューヌがアルフェリオンを動かしたのだ。
 三つ叉の槍は敵の《ケーラ》を完全に貫通していた。乗り手が即座に息絶えたため、自らも《命》を失ったレプトリアの機体は、急に力が抜けたように地に崩れ落ちる。
 ――そんな。そんなのって……。
 ルキアンは言葉を失う。彼は呆然と宙を見つめたままだ。アルフェリオンも地面に膝を付き、動きを停止した。ゼフィロス・モードは解け、白銀の騎士は元の姿に戻ってゆく。


【第36話に続く】



 ※2007年6月~7月に鏡海庵にて初公開
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第35話・前編


【再々掲】 | 目次15分で分かるアルフェリオン


現実と夢想の狭間で、君の涙は無駄に流れ続けてきたのか?
    拓きたい未来を夢見ているのなら、
       ここで想いの力を私に見せてみよ、
  ルキアン・ディ・シーマー、いまだ咲かぬ銀のいばら!

  シェフィーア・リルガ・デン・フレデリキア
   (ミルファーン王国「灰の旅団」機装騎士)

  ◇ 第35話 ◇


1 未来を賭けた一騎討ち、ルキアンの挑戦!



 真昼の一瞬の静寂を切り裂き、鳥と獣のいずれともつかぬ声が古都の石壁に響いた。家々の窓は閉め切られ、日頃の賑わいも人の波もみられぬ大通り、2体のアルマ・ヴィオが睨み合い、鋭い鳴き声で相手を威嚇する。
 白銀の鎧をまとう、翼をもった竜の騎士、アルフェリオン。
 黒き蜥蜴あるいは竜の体に疾風のごとき速さを秘める、レプトリア。
 一定の距離を取ったまま両者は動かない。

 ――市庁舎周辺に不穏な動きがあると聞いて来てみたら、また君か。どうやって市街に入ったのかは知らんが、ことごとくナッソス家に刃向かうとはな。君は危険だ、今度こそ倒さねばなるまい……。
 冷たく険悪な口調でパリスが告げる。今朝の戦闘でアルフェリオンの力を知っているためか、いつもの気楽さのようなものが彼の言葉に感じられない。
 ――僕だって別に、ナッソス家に恨みがあるわけでも、そ、その、あなた方と戦いたいわけでもありません。
 ルキアンの心に不意にカセリナの姿が浮かぶ。
 初めて出会ったときの、凛とした印象の中に危うい儚さを漂わせる姫君。
 かすかに無邪気さを浮かべ、ルキアンの手帳に書き付けた言葉。
 そして広間での再会、憎悪の火をともしたカセリナの瞳。

  ――あなたも私の敵だったの。ギルドの艦隊の人間だったのね。

  ――私から大切なものを奪おうとする憎い敵なのね、あなたは……。

 気高くも冷え切った彼女の声。敵意をむき出しにした言葉が、次々と鮮烈によみがえってくる。それらをルキアンは必死に消し去ろうとした。
 かろうじて冷静さを保ち、彼はパリスに尋ねる。あまりにも愚直に。
 ――やっぱり……どうしても戦わなければいけませんか?
 相手の答えは決まっていた。レプトリアが、体側に生えた翼状の器官を広げ、けたたましく吠えたてる。
 ――今更、何を言うかと思えば……。すでに私は剣を抜いている。それを再び置くのは、敵をすべて倒すか、自分自身が敵に倒されたときのみ。
 無駄だということはルキアンにも分かっていた。
 もう後には引けない。自分の心を何度も確かめ、覚悟したはず。
 今にも刃を交えようとする2体のアルマ・ヴィオの後方で、シェリルたちの乗ったティグラー3体は依然として動かない。むしろ、これから起こる戦いを見届けようとしているかのようだ。
 ――僕は《いばら》になる。シェリルさんにもそう言ったばかり。
 ルキアンはついに決意し、ある提案をパリスに行った。
 ――分かりました。あなたがナッソス家のために戦わねばならないように、僕にも戦う理由があります。しかし、この場所で戦っては、市街に大きな損害を与えるばかりか、街の人々を犠牲にしてしまうことだって考えられます。それは、あなただって望まないでしょう? ナッソス家の誇り高き繰士とお見受けして、僕は乞います。市民を巻き込まずに戦える場所で勝負をしてください。この願いは聞いてもらえますか。お願いします……」
 迷いもなく一気に言ってのけたルキアンに、パリスも堂々と応じる。
 ――よかろう。良い気構えだ。そういうことだから、そこのティグラーたちは戦いに手を出してはならない。よいな?
 彼が念信を送ると、シェリルが答えた。
 ――もとより我らにそのつもりはない。ただ、私は、貴殿らの戦いを見届けたい。それはお許し願えるか?
 ――立ち会うと? よかろう。残りのティグラーに守備を任せ、君は我々と共に来たまえ。では白銀のアルマ・ヴィオのエクターよ、戦いの場所へ……。


2 ルキアンの切ない記憶 想いの力なんて…



 ◇ ◆ ◇

 白壁に開かれた窓を通じて、うろこ雲の浮かぶ青い空と、いっそう濃い蒼のレマール海が見える。それは簡素な土壁に掛けられた額と絵のようだ。
 かすかな潮の香りと湿り気を帯びた風が、コルダーユの港の方から流れてくる。体にまとわりつくような生ぬるさはいくぶん薄らいでおり、それと混じり合う心地よい冷たさが、じきに来る秋を予告していた。
 研究所の一室、二人の少年を前に、カルバ・ディ・ラシィエンの熱心な講義が続く。残暑にもかかわらず、カルバは敢えて額に汗を浮かべながら、胸元のクラヴァットをきっちりと締めている。さらに黒のベストの上に、魔道士特有の長いクロークまで羽織って正装していた。
「アルマ・ヴィオになぜ人が乗るのか。たしかに《繰士》とも呼ばれるけれど、エクターは単なる乗り手や御者ではない。もうひとつ、エクターには大事な役割がある。さて、まずは昨日の復習からだ、ルキアン」
 入門祝いにカルバが与えた革表紙のノートに、少年が懸命に羽根ペンを走らせている。先日、知人の紹介で半ば押しつけられるように弟子入りしてきたばかりの、地方の落ちぶれた貴族の末子。そう言えばまだ聞こえはいいが、実際には、貴族の体面を損なわぬかたちで親が《口減らし》を行ったも同然だ。
 気が小さく、人見知りが激しく、何をやらせても不器用この上ない。真面目さだけが取り柄。いや、頭はそれなりに良いし、魔道士に必要な直感や霊性も平均以上には備えている。しかしあまりにも、やることなすことすべて要領が悪すぎる……。ため息をつきながら、カルバは少年の名をもう一度呼んだ。
「ルキアン? ノートを取る時間は後であげるから、まず答えたまえ」
「え? は、はい、すいません……」
 蚊でももう少し大きな声で鳴くのではないかと思うような、小さな声。
「それは……人の《パンタシア》の力がないと、アルマ・ヴィオは、えっと、何だったかな……。そうだ、この世界に漂う魔力、《アスタロン》でしたか? そ、それを、動力に変換できないから、です?」
 彼の答えにカルバは途中までうなずきかけた。そして意味ありげにルキアンの顔をのぞき込み、首をかしげている。
「そうかな? パンタシアとエクターの役割の基本は理解できたようだが、今の解答にアスタロンは関係ない。惜しいな。アスタロンは、魔力そのものとは違うんだ。まだルキアンには詳しく教えてなかったが、ヴィエリオ、説明してみなさい」
 黙って座っていた長い黒髪の若者が、年齢の割に大人びた声で答える。
「はい、先生。魔力は、我々の現実世界およびこれと対をなすアストラル・プレーンの両側にまたがるような具合で作用し、効果をもたらします。たとえ魔力が何らかの《結果》を《表側》の世界で発生させる場合であっても、結果発生までの《過程》は、《裏側》の世界においてアスタロンまたは《霊子素》と呼ばれる媒介項を通じて進行します。勿論、アストラル・プレーンを人が物理的に知覚することはできず、修行を積んだ魔道士があくまで霊的次元でその存在を直感しうるのみです。ましてやアスタロンの存在を証明することは、現段階では不可能だと言われています。ただし、仮説の上に仮説を重ねることになりますが、アストラル界というものを仮定し、そこにおいて魔力を媒介するアスタロンの存在をさらに仮定すれば、魔法の発生と作用の基本的諸原理をひと通り整合的に説明できることも確かです」
「その通り。ルキアン、アスタロンの話はいずれ詳しく教える。先程の質問に話を戻そうか。自然界に満ちあふれている魔力は、敢えてたとえればアルマ・ヴィオの燃料のようなものだ。しかし、それだけではアルマ・ヴィオは動けない。魔力を動力に変えるためには、エクターのパンタシアの力が、いわば触媒として不可欠なのだ。だからエクターは、乗り手であると同時にアルマ・ヴィオの《器官》でもあることになる。では、ルキアン、パンタシアとは?」
 カルバは再び尋ねる。時々こうして質問を投げかけないと、この少年は書き写すことばかりに必死で、師の話を自分の頭で理解しながら聞いていない場合がある。
「えっと……。パンタシアとは、人間の……心の力、というか、妄想、いや、間違えました、《夢想》する力。《心の中に何かを思い描いて、それを現実にもたらそうとするほど強い想像――創造――の力》です。それが魔力をこの世の力に変える、そうだったと思います」
 緊張して妙な言葉も混じったにせよ、ルキアンは比較的正確に答えることができた。それというのも、この《パンタシア》という概念を、なぜかとても彼は気に入っていたからだった。
 ――夢に想うものを、現実にもたらそうとする強い想像・創造の力……。
 ルキアンは頭の中で繰り返した。
 少年の解答に満足げに頷くカルバ。彼がさらに講義を続けようとしたとき、部屋の反対側で声がした。
「お父様ったら、またお昼の時間になっても続けているんだから。みんな、そろそろお昼ごはんにしましょう? お腹を空かせたメルカが、半時間も前から文句ばかり言って、手が付けられないわ」
 ――ソーナ。
 ルキアンは遠慮がちに振り向いた。部屋の入り口に立っている娘と目が合い、彼は慌ててうつむく。強く、美しい眼――理知的な意志の光を瞳にたたえる娘に、少年は否応なく惹かれるものを感じていた。馴染みにくい新たな環境の中、彼女を近くで日々見られることは、ルキアンの生きる力の素にさえなっている。
 にっこりと笑って、片目を閉じてみせる金の髪の少女。
 だがそれはルキアンに対してではない。
 隣のヴィエリオが、ソーナの方へ微かに笑みを返す。
 ――想ったって、現実とかけ離れすぎていることばかりじゃないか……。
 ルキアンは背を向け、黙って意味もなくペンを走らせた。
 ――そう、想うところまでなら誰にでもできる。だけど、いくら想いを現実に変えようとしてみても……。結局、《想いの力》なんて、無力な場合の方が多いじゃないか。
 紙面に押しつけられたままのペン先が、インクの黒い染みを広げてゆく。
 揺れ動く、そよ風。
 銀色の前髪が弱々しげに揺れた。


3 円形闘技場



 ◇ ◆ ◇

 ――なるほど、円形闘技場跡とは考えたな。
 ルキアンの言葉に従い、戦いの場である前新陽暦時代の遺跡に赴いたパリス。蛇のような首を伸ばしてレプトリアが周囲を見渡す。
 いま3体のアルマ・ヴィオがいるのは、市街の東の外れ、周囲の土地から盆地のように陥没した広い空間である。単に物理的に周辺と隔絶された様相を呈しているだけではなく、この場所だけが時間に取り残されているかのごとき、一種、不思議な空気の漂うところであった。
 前新陽暦時代の頃から、平時の貿易上の集積地としても戦時の要衝の地としても、ミトーニアは中央平原の中心となり栄華を誇っている。古代の繁栄ぶりの面影は、市庁舎に残された例のモザイクの壮麗な床からもうかがえるが、他にも大きな遺跡が同市の内外に多数残されている。この闘技場も遺跡のひとつだ。価値ある文化遺産を傷つけてしまうことは、ルキアンにも非常に残念である。しかし街の人々の命や安全には代えられないと、彼はやむを得ず決断した。
 シェリルのつぶやきが、ルキアンとパリスに念信で伝わる。
 ――旧世界が滅亡した後にどれほど経ってからのことか、我々の時代と直接につながる範囲での古代、つまり前新陽暦時代が始まった。極度に衰退した文明は改めて発展し始め、やがて《レマリア》の大帝国が、旧世界の《エルトランド》に変わる《新たな大地=イリュシオーネ大陸》における覇者となった。現在の《レマール海》という地名も、沿岸周辺国を統べたレマリアの名に由来する。
 ――エルトランドって、旧世界の《地上界》に当たる大陸のことですか?
 今、ルキアンは、特別な自覚のないままに《地上界》という言葉を使った。たしかにクレヴィスやシャリオとの会話では、この言葉がごく当然に用いられている。だが一般的には、旧世界が天と地の2つの世界に分かれていたことなど、果たしてどれほどの者が知っていようか。
 ――そうか。分かっているのだな……。
 シェリルは若干の感嘆を込めてそう言うと、何事もなかったかのように、古代世界の話に戻った。
 ――歴代の皇帝の治世が続くうち、レマリアの社会は爛熟し、やがては熟し過ぎた果実が腐ってゆくのと同様、人心は荒廃していった。レマリアの民は旧世界人の過ちを忘れ、異民族を支配しながら怠惰と悦楽に浸り続けた。このミトーニア、当時の言葉でいえばミソネイアに住むレマリア人たちも、安逸な日々の中で退屈しのぎの娯楽ばかりを求めていたらしい。アルマ・ヴィオを闘技場で戦わせたのも、娯楽の一環。そしてレマリア帝国も崩壊し、前新陽暦の時代も終わった。ここに残る苔むした瓦礫の山から、ミトーニアの人々は何を学んだのか。そう、何を。
 ――ほほぅ、一介の傭兵風情にしては、なかなか博識だな。
 冷やかしたパリスに対し、シェリルは面倒そうに答える。
 ――どうだかな。それより、この地に眠るレマリアの民たちも、貴殿らの戦いを草葉の陰から眺めているかもしれない。早く見せろと催促しているぞ。
 むき出しの地面では草が伸び放題だが、所々、赤茶けた土の間から石畳の一部が顔をのぞかせる。その空間の周囲をひな段状の観客席がぐるりと取り囲む。遺跡全体としては、鉢を思わせる形状であろう。壮大な規模の観客席、その最上層はちょっとした丘のような高さにまで達している。だが周囲の遺構は今ではかなり風化・倒壊しており、実際に残っている構造物は3分の1程度だろうか。
 それらの古代の遺産に見おろされ、アルフェリオンとレプトリアが地上で向かい合っている。闘技場の端、少し離れた場所にティグラーが立つ。

 ルキアンとパリス、両者はいつでも戦える構えである。
 この期に及んで、いま以上に時間を引き延ばす意味もない。先に動きを見せたのはルキアンの方だ。
 ――僕は戦います。本気ですから!
 アルフェリオンが一歩踏み出そうとしたそのとき。
 ――本気? そんな隙だらけでもか。
 何の前触れもなくレプトリアが跳んだ。両者の距離が瞬時に詰まる。


4 一方的に叩きのめされ続ける主人公 !?



 ◇

 ――速い!?
 そう思ったとき、ルキアンは自らと融合した機体の《全身》に痛みを感じていた。続いて何かが頭に浮かぼうとする次の瞬間、そのまた次の瞬間、状況の理解もできないままに無数の攻撃が飛んでくる。
 ルキアンが気づいたときには、アルフェリオンが地面に仰向けに倒れてゆく途中だった。そこでようやく最初の回避行動が可能となる。背中に大地の衝撃を感じ、それから地面を転がるように機体をひねる。間一髪、アルフェリオンが一瞬前まで倒れていた場所で、土煙を巻き上げて大きな爆発が起こった。
 魔法弾の炸裂の名残、空気中にかすかに漂う電流のような感触を、ルキアンは金属の《肌》で感じていた。
 ――致命傷を受けるのは、かろうじてかわしたか。運だけは良いようだな。その機体がいかに堅固な装甲を持っていようと、ここまで近接してMgSを放てばさすがに風穴が開く。それは今朝の戦いでも実証済みだ。
 白煙と土煙の混じり合う視界の向こうから、パリスの声が伝わってくる。
 ルキアンは立ち上がろうとしたが、《痛み》のあまり機体がよろめき、アルフェリオンは片膝を着いてしまう。生身で負った傷でないとはいえ、ダメージは繰士本人にも相当の苦痛となって感じられる。
 ――何が起こったんだ? 敵のアルマ・ヴィオが飛んで、気がつけばこちらは地面に倒れて。いつの間にか、体中に傷。い、痛い……。
 姿勢を崩しながらも立ち上がったアルフェリオン。
 だがすでに、レプトリアの爪による攻撃が襲ってくる。黒い竜の前脚の残像が目に映った瞬間には、機体のまた別の部位に続けて打撃が。ルキアンは、もはや打たれるがまま、されるがままであった。

 ――苦戦どころか、これでは《戦い》のかたちにすらなっていない。決定的なダメージは受けずに済んでいるが、時間の問題だろう。もし少年が他のアルマ・ヴィオに乗っていたなら、今頃はもう12、13回程度は死んでいるところだ。これでは冗談にすらなるまい。
 シェリルはティグラーに乗ったまま、じっと様子を見守っている。
 ――だが、ここで手を出してナッソス家と事を起こすのもまずかろう。それに《機繰騎士(ナイト)》の建前から言っても、一騎打ちに介入するのは褒められたことではない。もし少年がここで命を落としたなら、所詮はその程度だったということで片付けるしかあるまいか。
 レプトリアの鋭い牙で腕に噛み付かれ、そのままの勢いでアルフェリオンは地に押し倒される。苦しむ白銀の騎士を視界にとらえつつ、密かにティグラーの目が光った。
 ――しかし、それはそれで、面白くも何ともない……。

 倒れたアルフェリオンに覆い被さるように、レプトリアが食らいつく。その深く切れ込んだ口には、肉食恐竜さながらに、槍先のような牙が並ぶ。凶暴なうなり声。強靱な顎の力によって、腕の装甲の一部が食いちぎられた。
 ――この場所では街全体を巻き込むゆえ、あの強大な光の《剣》を使うことはできないだろう。だが小さな危険でも封じておくのが闘いというもの。
 パリスは攻撃の手をゆるめない。
 苦痛に耐えられず、ルキアンは声もなくうめいた。声を出そうとしても出るはずはないが、さすがに自らの腕の肉を引き裂かれているのと同様の感覚、叫ばずにいられない。
 ――今朝のような《再生》の時間はやらぬ!
 素早く飛び退いたレプトリアが、再び飛びかかる。アルフェリオンの胸部を前脚で踏みつけ、右腕を破壊しようと食いついてくる。


5 思わぬ助言?



 ――そこで抱きつけ! そして頭突きだ!!
 ――えっ?
 痛みで意識がぼやけていたルキアンは、何も考えられず、急に飛び込んできた念信に反射的に従った。牙をむいて見下ろすレプトリアに対し、その脚も胴体も構わず、アルフェリオンが力任せにしがみつく。
 ――離せ!!
 ルキアンが今までとは全く違う動きに出たことに、パリスは予想を外され、急いで敵の腕を払いのけようとする。だがスピードでは劣っていても、パワーならアルフェリオンの方が上だ。
 無我夢中のルキアン。アルフェリオンの上体が急激に起き上がり、敵の細い顎すれすれを兜の先端が通り過ぎる。たしかに歴戦の強者であるパリスに対し、いかに不意打ちとはいえルキアンの攻撃など当たりはしない。だがレプトリアの姿勢は崩れ、足元がふらついた。
 そのわずかな隙にルキアンは立ち上がる。
 ――そ、そうか。こうなったときは、組み付いてしまえばいいんだ。どんなに動きが素早くても、一度つかまえれば、ともかく敵の動きを止めることはできる! いや、あ、あの、シェリルさん?
 我に返ったルキアンは、念信が彼女のものであることに気づいた。いつの間にか、呆気ないほど素早く鮮やかに、他者には感じ取れぬ一対一の念信の《回線》が二人の間に開かれている。
 シェリルは答えず、鋭く指示を出す。
 ――まず、アルマ・ヴィオの性能には頼りすぎるな。《乗って》いるという気持ちだからそうなる。それは君自身の《身体》だと思え。基本だ。
 ――は、はい!
 ルキアンの先ほどの攻撃を受け、レプトリアは速さを生かした本来の戦い方に切り替えた。距離を取って攪乱しながら一撃を与えて離脱、その繰り返しで、相手にダメージを蓄積させてゆく戦法である。
 ――ぼやぼやするな! 剣でも槍でも、装備されている武器を出して間合いを稼げ!
 不慣れな戦い、強敵の猛攻。ルキアンは気が動転し、武器を使うことを忘れていた。いや、相手のあまりの速さに、使いたくても使えなかったのかもしれない。
 ――わ、分かりました。
 腰の収納部からMTランサーのシャフトが飛び出す。アルフェリオンはそれを引き延ばして構える。柄の先端部分にまばゆい光が輝き、斧槍のような複雑な刃が形作られた。
 ――ひどい構え方だが、いま教えている暇はない。大振りしても外すだけだ。とにかく相手に当てろ、引っかけるつもりで脚を狙い、まずは少しでも動きを封じろ!
 だが、あのレーイの剣をもかわすレプトリアの俊敏な動きに対し、ルキアンの腕ではかすりもしない。狙うどころか、MTランサーを振り回して相手を寄せつけないよう、それだけで精一杯だ。
 パリスはそれを嘲笑する。
 ――長物を装備していて助かったな。何とも無様な闘いぶりだ。
 ――無様でも何でもいい。僕のやることはみんな、もともと格好良くなんかないんだ! とにかく必死で戦う、それだけです!!
 ルキアンはそう叫んで、相手の足元をなぎ払おうとした。
 攻撃は読まれており、レプトリアは流れるような動きで回避する。
 ――そうだ、少年。最初より動きがましになってきている。
 ルキアンには、シェリルの声がとても心強く聞こえた。的確な指示以上に、心理的な支援の効果の方が大きいのかもしれない。
 瞬間、瞬間、彼は必死に次の手を読もうとする。そのたびにレプトリアの牙や爪がアルフェリオンに傷を与えるが、今度は武器を構えているため、簡単に懐に飛び込まれることはない。
 ――考えろ、考えろ、止まるな、考えろ!!
 ルキアンは自分に言い聞かせた。
 ――僕の身体。これは僕の身体。そう思えば、どうすればいいか、もっとよく分かるはずだ。
 彼は自らの心の中を探った。それは、いま自分と一体化しているアルフェリオンの能力を探るということ。己の力に気づくということ。


6 ルキアン反撃!? 己と竜をひとつに…



 ――アルフェリオンは、翼を持った竜の化身。そう、白銀の竜だ。
 すぐにルキアンはイメージをつかみ取った。彼はそのイメージを広げ、想像する。膨らむ幻想。
 ――白銀の竜は、雪と氷の谷の果てに住むという、氷の竜。だから、アルフェリオンにも……。そうか、これがある!
 ルキアンは武器を大きくかざしてレプトリアに真正面から突っ込む。
 ――少年、何を馬鹿な!?
 シェリルが止めるのも構わず、ルキアンはMTランサーを力一杯振り下ろした。その衝撃で大地に地割れが走り、沢山の土や砂が舞う。
 ――上を取られた、上だ!
 シェリルが伝えたときには、レプトリアはバネのような身体を生かしてアルフェリオンの頭上に飛んでいた。
 ――この時刻、太陽も真上、かわせまい!!
 とどめの一撃を狙い、レプトリアの爪から、さらに長い刃のような光の爪が伸びる。だが……。
 ――かかった!
 突然、兜が開いてアルフェリオンの口が現れ、凄まじい雄叫びとともに突風が吹き抜ける。それは、白く輝く極低温の吹雪。
 ――これは、凍気の息(ブレス)!?
 レプトリアの動きが宙で一瞬止まった。アルフェリオンにあとわずかで必殺の一撃を加える距離にあったが、突然もがき、落下するように地面に降りる。さすがにパリスは上手く着地した。だがレプトリアの首や脚や胴、あちこちが凍結し、白い霧氷がこびりついている。


【続く】



 ※2007年6月~7月に鏡海庵にて初公開
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第34話・後編


【再々掲】 | 目次15分で分かるアルフェリオン


 ――ベルセア……生きてる? 
 ――あぁ。しかし、俺ら揃って、敵に指一本触れられないまま脱落とはね。これじゃ恥ずかしくてバーンに合わせる顔がないぜ。
 ――そうね。ルキアンにも、大きな顔できなくなっちゃうか……。とりあえず、そっちも動けることは動けそう?
 命は取り留めたものの、結局、ベルセアとメイでさえ、パリスの操る《レプトリア》には歯が立たなかった。


6 止まらない独走、パリスの勝利…



 ――こちらパリス。ギルドの戦闘母艦から降下した陸戦型1体と、ついでに飛行型1機を撃破した。《奇跡の船》クレドールなどと世間で騒がれていても、所詮は空の海賊やゴロツキの冒険者の寄せ集め、他愛もない。
 パリスが味方に念信を入れている間、レプトリアは赤い目を爛々と輝かせ、周囲の獲物をうかがっていた。蛇のように細長く伸びた首が、金属で覆われていると思えないほどしなやかにうねっている。
 ――このまま城門まで突破する。俺に続け!
 パリスがそう伝えるが早いか、レプトリアは疾風のごとく飛び出した。背後から彼の戦いを見守っていた陸戦型・高速仕様のリュコスが6体、懸命に後を追う。ナッソス家も一筋縄ではゆかない。主力とは異なる別働隊が、目立たぬよう少数で忍び寄っていたのだ。

 たった1体のパリスのレプトリアのために、彼の進路付近に位置するギルドのアルマ・ヴィオは皆、為すすべもなく撃破されていく。熟達のエクターの手で旧世界の機体が十分に実力を発揮すれば、現実はこうなのだ。もはやパリスを止められる者は誰もいなかった。
 ――あきらめるんだな。現世界の凡庸なアルマ・ヴィオが何体たばになろうと、無駄な悪あがきにすぎん。レプトリアは《レゲンディア》クラスの機体、最初からそちらに勝ち目などない!
 レプトリアのあまりの強さに、乗り手のパリスすら悦に入っている。
 いわゆる《レゲンディア》――元々は、ハンター・ギルドの発掘屋たちが、掘り出した機体のオークションの際に使っていた隠語である、神話上の魔物や聖獣を意味する古典語に由来するという。旧世界のアルマ・ヴィオの中でも特に優れた能力を持ち、なおかつ保存状態も極めて良好で劣化の少ない機体が、別格扱いでそう呼ばれているのだ。

 ◇

 戦いの様子を上空から注視するクレドールの乗組員たち。
 さすがのクレヴィスの唇も、微かにではあったが、苦々しそうに歪んだ。
「ギルドの地上部隊がミトーニアの守備隊と抗戦し、なおかつナッソス家の先鋒隊と衝突していたとき、別の方向から手薄なところを突かれましたね。そういう事態もあり得るとは思っていましたが、まさかたった1体であれほどの働きをするとは。敵ながら、見事だと言わざるを得ませんか……」
 頼みのメイとベルセアがあっけなく倒されてしまったことで、艦橋のクルーたちにも動揺が生じていた。顔には出さないが、これまでに起こったことのない事態に誰もが不安を覚えているに違いない。
 そんな雰囲気を敏感に感じ取ったのか、ずっと無口であったカルダイン艦長が、敢えて荒々しい声で一喝する。
「何をぼんやりしている! 戦いの中じゃ、そうそう運良く敵ばかりが倒れるとは限らない。仲間が倒れたり死んじまったりすることも、当然あり得るってだけの話だ。いいか、ここは戦場だ。山賊や夜盗相手の戦いとはわけが違う。気を抜くと……死ぬぞ」
 後は何事もなかったように、カルダインは上着の胸ポケットから煙草を取り出し、黙って火をつけている。それだけで十分だった――かつてタロスの革命戦争で幾度も死線を乗り越えた艦長の言葉には、理屈では抗しがたい力が漲っていた。


7 魔少女の予言―銀の荊と飛燕の騎士



 一瞬、静まりかえったブリッジ。

 すると突然、艦橋の入り口が開き、何者かが中に足を踏み入れた。
 ふわり。音もなく、白いものがゆらゆらと揺らめくように。
「くすっ」
 無邪気でいてどこか薄気味の悪い、かすかな笑い声が聞こえた。
 簡素な純白の衣装と、その色にも見まごうばかりに白い、血の気のない肌。
 長い黒髪の少女が背後に立ったとき、にわかに漂った強い霊気に、艦橋にいた人々はみな寒気を覚える。魔道士でもない普通の人間にさえ感じられるほど、娘の内に秘められた魔力は強大だった。

   銀のいばらの芽は頭をもたげ、
   はがねの刺を持つ蔦は たちまち地を覆う。
   いばらを踏みつけた者は、抜けない刺の痛みに震えるだろう。
   暗闇から芽吹いた あのいばらには、
   弱々しく揺れる花の仮面の裏側に、おそろしい毒があるから。

 謎めいた言葉、あるいは歌。それを口にする、エルヴィンの冷たい声。
 彼女の虚ろな目は、艦橋の硝子を越えてミトーニアの方角に向けられている。
 少女の唇がつり上がり、口元だけが微笑んだ。
「大丈夫。風の力を宿した飛燕の騎士は、すでに一度目覚めているのだから。すべてを写し出す鏡には姿なき敵の影が浮かび、竜を繋ぎとめる鎖は敵をとらえ、空に住まう精霊たちの鍛えた槍は敵を貫く。私には見える」
 エルヴィンはそう告げると、霧が引くように艦橋から出て行く。
「くすくすっ」
 薄暗い廊下の奥から、かすかに笑い声だけが聞こえた。
 それだけを後に残して。

 ◇ ◇

 勢いに乗るレプトリアは、行く手を遮るギルドのアルマ・ヴィオをなおも蹴散らし、疾風のごとく城門前まで駆け抜けた。パリスの配下であろう6体のリュコスは、ただ遅れぬよう後に着いていくだけで精一杯であり、また、それだけこなせば十分であった。
 ――ははは、あっけないものだ! ギルドの力などこの程度か。どうだ諸君、俺はここにいるぞ。遅い遅い。
 勝ち誇って笑うパリス。
 ミトーニアの門の前に立ち、レプトリアの動きが止まって、ようやく人の目にもその姿が完全に露わになった。周囲ではギルドと市民軍の戦いが激しさを増しているが、その戦場をたちまち越し去ったのである。
 ギルドのエクターも市民軍の兵士たちも、あの黒い陸戦型が何かの魔法でも使ったのではないかと、呆然と眺めている。
 城門付近で戦っていたギルドの陸戦型が数体、一斉に飛びかかる。だが、それを全てかわして相手を打ち倒すことは、レプトリアにとって赤子の手をひねるに等しかった。
 尖った舌を出し入れしつつ、レプトリアは、息を――あるいは吸気・排気の音を発する。耳障りな、神経をいらだたせる響きだ。黒き疾風の竜の力の前に、もはや攻めかかろうとする者はいない。パリスはミトーニアに難なくたどり着いたばかりか、城門周辺の敵をも一掃したのだ。
 ――ザックス兄貴、まだ手こずってるのか。俺は予定通り、先にミトーニアに入城して、市庁舎周辺の事態の鎮圧に向かう。そちらの先鋒隊の接近も、俺の部下に手引きさせる。悪ぃな、おいしいところをいただいて。じゃぁ、武運を祈る……。
 パリスは古い兄弟分のザックスに念信を送ると、今度は市壁の守備軍に呼びかけた。
 ――ナッソス四人衆筆頭、パリス・ブローヌ、要請に応えて参上した。さぁ、ミトーニア市民軍の諸君よ、この扉を早く開けたまえ!


8 争いに不向きな彼が、なぜ敢えて戦う?



 ◇

 ――落ち着け、落ち着くんだ。僕はここで、まず何をすればいい!?
 自分にそう言い聞かせるだけでルキアンは必死である。
 その隙にティグラーの鋭い牙でアルフェリオンの喉笛を狙おうと思えば、いつでもシェリルには可能なはずだった。しかし彼女はそう望まず、3体のティグラーもバリケードの前に立ちふさがったまま動こうとしない。
 ――どうするつもりだ、少年? もし一歩でもこの守りを越えようとするならば、私は君を討つ。
 シェリルが《念信》で伝えてくる。彼女の予想通り、ルキアンはしばらく返答できなかった。呆れたような調子で、シェリルはさらに告げる。
 ――気が散っているようだな。市民たちがまた暴れ出さないかと、そんなに落ち着かないか。敵と向き合っているときに余計なことを考えるのはやめたまえ。それでは命がいくつあっても足りない。
 ――す、すいません……。
 無意識のうちに、つい謝ってしまったルキアン。こうした反応はもう、彼の本能に近い次元にまで刻み込まれているのだろうか。
 ――アルマ・ヴィオの乗り手としては、君のセンスは悪くない。ろくに念信も使えぬ初心者らしいが、それにもかかわらず、機体と見事に一体性を保っているのは少々驚きだ。だが結局、君は戦士には全く向いていないようだな。
 当然のことを指摘されながらも、ルキアンは少し不機嫌そうに答えた。
 ――そんなこと、僕にだって……分かってます。
 ――ならば、なぜ戦う? 正直言って、君のような繰士の相手をするのは初めてだ。他人の流血をひどく怖れる手で震えながら剣を握り、引っ込み思案の心で気迫負けしながら敵と対峙する。そこまでして、なぜ君が戦う必要があるのだ?
 戦う理由。どれだけ迷っても、この場に適当な表現は思い浮かばず、ルキアンは馬鹿正直に答えるしかなかった。
 ――たしかに僕は血を見たくない。争いも大嫌いです。敵と傷つけ合いたくないどころか、ほんとは誰ともぶつからずに、どこか遠いところで、隅の方で静かにいられたらと思っていました。だからなのか、そういう、何ていうのか、僕みたいな……争いごとに向いてない人の気持ち、よく分かるんです。
 語り始めたルキアン。シェリルは黙って聞き続ける。
 ――でも世の中には、《帝国軍》や《反乱軍》のように何でも《力》を基準にして判断し、《力》によって物事を進めようとする人たちがいます。相手の方が自分より弱いと分かったり、相手が力に訴えることを避けていると分かったら、それにつけ込んで自分の言い分を無理矢理に押し通そうとする人たちがいます。相手の《言葉》に耳を貸そうとはせず、相手の立場を考えず、どうすればもっと今より自分の方だけが得をするか、そればかり考えて一方的に他人を犠牲にする人たちがいます。あの《神帝》ゼノフォスのように。
 ルキアンは残念そうに告げた。単に帝国軍や反乱軍のことだけを言っているのではなく、彼自身がこれまで生きてきた中での体験も、心の中で反芻されているのだろう。言葉の端々に、辛い思いがにじみ出ていた。
 ――そんな人たちがいるから……どんなに穏やかで争いの嫌いな人だって、苦しめられたあげく、本当は争いたくないのに、《戦う》ことを選ばないといけない場合も出てくるんです。だけどやっぱり、決して望まない争いの中で、どれほど心が痛むか、言いようのない苦痛を抱えながら戦うことがどんなに辛いか、僕にはよく分かるんです! 分かってるからこそ、そういう思い、他の人にはさせたくない。
 ――だから僕が戦うことに、決めたんです……。


9 北の国の伝説、イバラに刺があるのは…



 シェリルはしばらく言葉を返さなかった。そして意外な問いを投げかける。
 ――君は、なぜ荊(いばら)に刺があると思う?
 唐突な質問に面食らうルキアン。
 ――ミルファーンに、こういうおとぎ話がある。君はオーリウムの人間だから聞いたことはないかもしれないが……。
 入り江にひたひたと打ち寄せる波のように、静かに、淡々と、ルキアンの胸にシェリルの思念が伝わってくる。
 ――世界に人間が現れるよりも昔、生きとし生けるものすべて、草や木にまでも心があったという。そこに《いばら》がいた。その頃のいばらには、まだ刺がなかった。いばらは優しく強い心の持ち主だった。だから自分と同じような他の草木が獣に踏みつけられたり食べられたりして、いつも泣いているのを、黙って見ていられなかった。そこである日、いばらは神に願ったという。

  私に《とげ》をください。
  私を踏みつけ、むしり取ってゆく獣たちが、
  それと引き替えに刺されて痛みを知ることになれば、
  獣は草木にも鋭い爪があるのだと怖れ、
  木々や花たちに簡単には手を出さなくなるでしょう。
  それができるなら、私はどんなに傷ついてもかまいません。
  他の草木がもう辛い思いをしなくて済むのなら。

 シェリルは尋ねる。
 ――こんな夢物語と同じようなことを、現実の中で行おうとでもいうのか。ならば覚悟はあるか? 他の者の痛みを代わりに己の身に受け、自らの血と敵の血にまみれた、孤独で傷だらけの荊の戦士になる覚悟が。
 さらに彼女は念を押すように言う。ルキアンに対して賞賛も呆れも、肯定も否定も感じさせない、とても気持ちの読み取りにくい透明な心の声で。
 ――敵に傷つけられ、敵を傷つけることでますます傷ついてゆくのは君だ。疲れ果てた君が、結局、現実の中では英雄でもなんでもない、ただのお人好しにしかなり得なかったとしても……それでも戦うか?
 ――でも、あの……。
 ルキアンは彼女の話を遠慮がちに遮った。
 ――人のためとか、自己犠牲とか、英雄的な振る舞いだとか、多分そんなんじゃなくって……。単に《自分自身がそうしたいから》なのかもしれません。《いばら》だって本当はそうだったんじゃないでしょうか。平気で他人を力で踏みにじる、身勝手な人や狡い人ばかりが大きな顔をし、穏やかに暮らしている人がどこまでいっても割を食うような……そんな世の中を目の前にして、そういう状況を一番見ていられないのが僕自身だから、というだけかもしれません。
 この間の様々な事件が、ルキアンの脳裏に浮かんでは消える。師のカルバが《神帝》ゼノフォスのバンネスクに対する攻撃によって行方不明になり、ルキアンたちの住んでいた彼の研究所も何者かに破壊され、みんな散り散りになってしまった。ルキアンを暖かく迎えてくれたシャノンやその母・弟も、理不尽にならず者たちの犠牲になった。そしてルキアンが知った旧世界のことも――光に満ちた《天上界》の影で、あの《塔》の残虐な人体実験に送られた人々、衛星軌道上から降り注ぐ破壊の光によって命を奪われていった《地上界》の人たち。
 彼の脳裏に浮かんでは消える生々しい記憶が、言葉にならぬイメージのまま、シェリルの心に突き刺さる。
 嘆きながらも、ルキアンは断固としていった。
 ――そういうの、黙って見ているだけなんて、もう嫌だと思ったんです。もっと、こんなふうに世の中が変わっていけばいいなって、僕にも夢ができた。だから戦うんです。

  《優しい人が優しいままで笑っていられる世界のために。》

 ――そうか。そんな大それた考えが出てくるとは思っていなかったが。夢想ばかりしているようでいて、《拓きたい未来》があるのか、君にも。
 シェリルは仕方なさそうに心の中でつぶやく。
 ――やれやれ。私も甘い。


10 「少年、今のは貸しておく…」



 ルキアンを過剰に刺激せぬよう、シェリルのティグラーは緩慢に一歩踏み出した。何気ない動作であったが、その間、巨大な鋼の虎の気配は消えていた。達人の域にある動きだ。
 ――そこから少し下がれ、少年。
 さらにもう一歩、性能と釣り合う限界までの甲冑をまとったティグラーが、その超重量に似合わぬ自然な動きで前進する。
 ――いいから君は待ちたまえ。大丈夫だ、市民に攻撃などしない。
 シェリルはルキアンに告げる。
 なぜ彼女の言葉を信じたのかは分からないが、ルキアンは言われる通りにしていた。そう、抗し難い言霊とでもいうのか、無意識のうちに。
 抗戦派側のアルマ・ヴィオが動いたのを見て、市民は口々にわめき始めた。
「敵が向かってくるぞ!」
「は、早く止めないか、何をしてるんだ! こっちのアルマ・ヴィオは?」
「踏みつぶされるぞ、逃げろ!!」
 先ほどまで剣や小銃を手に気勢を上げていた人々も、思わず怖じ気づく。ルキアンが畏敬の念すら感じた重武装のティグラーが、じわじわと向かってくる様相は、とても人間が立ち向かえるものには見えない。あっという間に市民たちは浮き足だち始める。
 獰猛な鋼の虎の巨躯と、その前にさらされた鼠の群れのごとき人間たち。
 にらみ合い。無言の秒間。
 両者の間に火花が散るも、流れは最初から決していた。
 かろうじて成立していた均衡が崩れ去ったのは――シェリルのティグラーが石畳の街路に響き渡る轟音で咆吼し、上半身を猛々しく立ち上がらせたときだった。おそらく攻撃してこないと分かっていても、背後の市庁舎まで揺るがしかねないその迫力に、人々は本能的に恐怖を感じたのだ。

 ――こういうものだ。人は、頭では死を忘れて情熱に浮かされたとしても、本能の次元では死への恐怖を決して拭い去れない。体は無意識に反応し、それは意識をもすぐに支配する。少なくとも生きていて、壊れていない限り。
 そう言いながらシェリルは、散り散りになって後退していく市民たちの様子を見つめていた。
 激昂から恐慌へと一転した人々をなだめるかのごとく、リュッツ主任神官とシュワーズ市長秘書が再び群衆の前に進み出てくる。事態を荒立てず、抗戦派兵士に対して改めて説得を試みようとしているのだろう。手を合わせ、祈るような仕草を見せながら、リュッツがバリケードの方に懸命に呼びかける。その背後では、反対側の市民たちに向け、シュワーズが大きな身振りで何か叫んでいる。
 二人の様子を見て、ルキアンは少し安心する。
 ――少年、これで余計な心配はしばらく必要なかろう。今のは貸しておく。
 シェリルはルキアンにそう言ってから、別の者との念信に切り替えた。
 ――レイシア、ナッソス家とミトーニアの動向は把握しているな?
 ――はい、シェリル様。城門が開きます。
 いずこからともなく念信の返答があった。感情の匂いのしない、旧世界に存在したという機械の人形を思わせる、年齢不詳の女の声である。答えの中身も極めて素っ気なかった。だが、言外に含まれるものを、シェリルは非常に信頼しているようだった。
 ――そうか。守備隊があっさり入城を許したということは、ギルドではなくナッソス側のアルマ・ヴィオか。しかし予定より早いな。今の時点でギルドの囲みを突破できたと? ただ者ではあるまい。
 ――記録に無い例の機体だと思われます。識別不可能です。動きが速すぎて、ロストさせないように追うのが精一杯でした。その機体に率いられていたリュコスが6体、ミトーニア側のアルマ・ヴィオと共に城門前の支配を確立しようと動いています。ナッソス家の先鋒隊を城内に誘導するため、その進路の確保を進めている模様です。
 ――分かった。レイシア、気づかれないように監視を続行せよ。私の迎えの用意も頼む。ギルドとナッソス家、いずれがミトーニアを押さえるにせよ、この街の現状は長くは続くまい。


11 「僕は、イバラになるんだ」



 シェリルは再びルキアンに念信を送る。
 ――さて、おしゃべりは終わりだ。幸か不幸か、もはや私と戦う暇など君にはなくなった。ナッソス家のアルマ・ヴィオの一部がギルドの囲みを突破し、ミトーニアもそれを受け入れたのだよ。混乱がなかったところをみると、市民軍の指揮系統は、アール副市長の息のかかった者たちが事前にほぼ掌握していたようだが。
 ――そんな……。じゃぁミトーニアは本当に、ナッソス家の兵力を市内に呼び込み始めたっていうんですか。クレドールやラプサーの力でも……止められなかった? みんな大丈夫なんだろうか!?
 ――今は自分の戦いのことを考えるべきだ。城門から入ったナッソスのアルマ・ヴィオは、もうこちらに向かっている。まず市庁舎周辺を完全に統制下に置こうとしているのだろう。おそらく君のことも、すでに相手に感づかれてしまっているに違いない。
 だが、それにしても奇妙なのはシェリルだ。ミトーニア方に雇われていると言いつつルキアンに攻撃を仕掛けず、ここにいながらにして、ミトーニアやナッソス家の動きを把握しているかのようでもある。傭兵らしき者だとはいえ、アルマ・ヴィオの扱いも常人離れしている。
 ――あ、あの、あなたは一体、何者なんですか? シェリルさん。
 ――ただのシェリルだ。もっともそれは、誰かさんが適当に付けた、ここでの私の名前にすぎないが……。君が知る必要はない。それより来るぞ!
 ミトーニアの城門からルキアンのいる場所までは一直線である。門から大通りが伸び、その先に広場、そして市庁舎が位置している。あの信じがたい速さを誇るレプトリアにとっては、距離とさえ言えない程度の距離だ。
 ――来た!
 ルキアンも異変に気づく。アルフェリオンの強化された《目》や《耳》が何か巨大な物体の動きををとらえ、機体が地面の震動を感じ取る。
 思い出したかのように、彼は慌ててクレドールに念信を送った。
 ――そうだ! セシエルさん、聞こえますか? セシエルさん!
 向こうも今か今かと待ち受けていたのか、ほぼ間髪入れずに返事があった。
 ――ルキアン君!! それで……そう、もう気づいているのね? ナッソス家のアルマ・ヴィオが1体、城門から市庁舎の方に向かっているわ。今朝、ルキアン君が戦ったあの機体よ。
 ――はい。艦長やクレヴィスさんの指示は?
 ――指示も何も、そのアルマ・ヴィオを撃破せよと! 今はあなたに全てがかかってるって、クレヴィーが言ってるわ。
 一瞬、ルキアンは躊躇したが、気持ちは定まっていたようだ。
 ――分かりました。でも、その、ここでは狭すぎて、家々や市民を巻き込んでしまいます。どこかできるだけ広い場所……なるべく大きめの広場か何か、いや、もっと、とにかく広いところです! 市街にありませんか?
 彼は昨晩の広場での戦いを思い出す。周囲の建物を破壊したり火災を起こしたりせぬようにと、細心の注意を払いながら戦ったにもかかわらず、結局は、思うようにいかなかった。街の人々を巻き込むという最悪の結果だけは避けられたにせよ。
 わずかな沈黙の後、セシエルが答えを見つけたようだ。
 ――そうね、そこから市門に向かって戻り、大通りと最初に交差している道を東へ真っすぐ、ただ真っ直ぐ。今は公園のようになっているのかしら、よく分からないけれど、もう長らく放置されている遺跡があるわ。
 ――遺跡? そういえばミトーニアには、僕たちの時代の《古代》の遺構が沢山残ってましたね。広さは十分そうですか?
 ――他の場所よりはね。《複眼鏡》でヴェンに見てもらったところ、あれは《前新陽暦時代》の闘技場のようだと言ってるわ。アルマ・ヴィオ同士の格闘を当時の人々が眺めて楽しんでいたって、物語に時々出てくるでしょう? それ以上のことは分からないわ。

 セシエルに礼を言い、クレドールとの念信を終えたルキアン。
 ――もしここで僕が戦いを避けてしまったら、ナッソス家と抗戦派がミトーニアを完全に押さえてしまうかもしれない。そうなれば戦いは長引くだろう。長引けば長引くほど、その間に帝国軍はオーリウムに近づき、ギルドや議会軍にとって状況はどんどん不利に……。
 彼は何度も繰り返して念じた。自分自身に言い聞かせるかのように。

 ――そう、僕は《いばら》になる。荊になるんだ。


【第35話に続く】



 ※2007年6月に鏡海庵にて初公開
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第34話・前編


【再々掲】 | 目次15分で分かるアルフェリオン


 愛する者のためになら、誰だって戦士になれる。
   大切な人を守りたいのも、人間の当然の心だ。

 だから戦いはなくならない。
   互いの愛する者を守るために、
 本来は望まなかったはずの争いを、
   いつの間にかそれが絶対に正しいと思い込んで……。

 (レーイ・ヴァルハート)

  ◇ 第34話 ◇


1 膠着状態の戦場に、迫るナッソス軍



 アルフェリオンを威嚇する低いうなり声。地響きを伴って、敵のティグラーが体を揺さぶる。鋼の虎が身にまとう甲冑の表面では、魔法合金の盾をも貫く角状の突起が、その姿を誇示するかのように陽の光を生々しく反射している。同じく両脚に備えられた分厚いブレードも、獣が微動する度にきらめく。
 ルキアンは動かないのではない。不用意には踏み出せないのだ。敵の数も力量もこちらを上回る。そして何より、彼には攻撃を躊躇する理由があった。
 ――ここで戦ったら、沢山の市民を巻き込んでしまう。それどころじゃない、早くあの人たちを止めなきゃ! でもどうやって……。
 市庁舎を占拠し、市長らを拘束した抗戦派に対し、反対する市民たちは武装して押し寄せた。ルキアンはアルフェリオンを盾にして彼らを守りつつ、だが同時にその守るべき市民たちが、次の瞬間にも再び暴徒化しかねないということをも、気遣わねばならない状況に陥っていた。
 目の前の敵・シェリルとの戦いにも、ルキアンは乗り気ではなかった。交わした《念信》から感じ取ることのできた、ある種の威厳と気品。ルキアンはそれに一定の感銘を覚えていた。そして無駄な争いを必ずしも望んでいない、相手の姿勢。この点はルキアン自身と共通している。
 ――僕は、この人とは戦いたくない。
 当初から衝突を回避しようと努めているルキアン。ここに至って、彼の戦う意志にはますます陰りがみえてくる。

 ◇ ◇

 だが、そうして睨み合っている間にも、ナッソス家の地上部隊はミトーニアに迫っている。敵方の城とミトーニアはさほど離れていない。足の速い陸戦型はおろか、重装騎士さながらに武装した汎用型でさえも、このままではじきに街へと到着するだろう。
 ナッソス四人衆の精鋭2人の操る、あの恐るべき相手も市門へと向かっていた。荒野を駆け抜け、疾風のごとく走り去る漆黒の機体。旧世界の超速の魔獣《レプトリア》2体だ。

 ◇ ◇

 ミトーニア市の城門付近では、街を包囲するエクター・ギルドの陸上部隊と市民軍との戦いが続いていた。ミトーニア側は、堅固な市壁とそこに据え付けた強力な砲列を頼みに、徹底的な防戦の構えである。いかに荒くれの腕自慢が揃ったギルドの繰士たちといえども、予想以上の抵抗に攻めあぐねていた。
 膠着状態の戦場。その上空に向かって三つの巨大な影が近づいてくる。ギルドの飛空艦3隻――陽の光を覆い隠さんばかりに長大な、白き翼を羽ばたかせ、悠然と浮遊するクレドールの姿もあった。
「あれじゃ、市壁は手つかずも同然だ。壁の外側の陣地を、あそこと、こちらと、他にも若干押さえた程度か……。俺たちもナッソス家の空中竜機兵の奇襲で足止めを食らったけど、ギルドの地上部隊もかなり手こずってるな」
 《鏡手》のヴェンデイルが、《複眼鏡》で地上の戦況を確認する。
「クレヴィー、この状況のままだと、じきにギルドの部隊はナッソス軍に背後からも攻められて、挟み撃ちになる」
 冷静な観察者、クレドールの《眼》の役割に徹しようとしながらながらも、ヴェンデイルの声には苛立ちが現れている。
 だが、対するクレヴィスの表情には、特に目立った感情の色は見られない。カルダイン艦長と視線で何か合図を交わしたかと思うと、クレヴィスはセシエルに《念信》を送るよう指示を出した。
「《アクス》は、敵飛行型に対する警戒を続けつつ、艦砲でラプサーを支援。セシー、連絡を。ただし市内に被害が及ばぬよう、極力、市壁への直接攻撃は避け、周辺の敵陣地を狙って妨害せよと。バーラー艦長は荒っぽいですからね。ふふ」
「了解。《ラプサー》の方も準備はできてるって」
 昨晩、若干の休息を取ったせいか、セシエルの集中力は日頃以上に高まっているようにみえた。凛と背筋を伸ばし、念信の水晶球に手を添え、別の手でも複雑な制御板を意のままに操作している。
 クレヴィスは目を細めて頷いた。
「ラプサーに搭載のアルマ・ヴィオも、打ち合わせ通りの体制ができていますね? この状況なら、さほどの困難はなく地上に降ろせるでしょう。降ろすだけなら……容易ですがね」
 窓外からの日差しを受け、ツーポイントの眼鏡が光る。
「クレドールもラプサーの支援にあたります。セシー、さっそくサモンに出撃を指示。《ファノミウル》を出して敵の対空放火を牽制。ラプサーからレーイが切り込んだら、こちらもすぐに《リュコス》を降ろして、続くカインの降下を支援。カインの機体は、今回、色々お荷物を抱えてますから」
「えぇ、分かったわ」
「お願いします。で、《アトレイオス》は《攻城刀》装備で待機。それでよいですね。カル?」
 クレヴィスは背後の艦長席に座っているカルダインを見上げて言った。
「ナッソス軍の陣容によっては、アトレイオスの武装を変える必要もなくはないですが……。レーイがいますから、彼が何とか対応するでしょう」


2 活路を開くか!? 強襲降下艦ラプサー



 クレドールの艦橋から指示が出るが早いか、残りの2隻も行動に移った。
 いち早く前に出た飛空艦ラプサー。その形状は、やや扁平な船体に鋭角的な甲冑が幾重にも重なったような、カブトガニや三葉虫を想起させる奇異なものだ。強襲降下艦――この特別な船は、今回のような攻城戦において威力を発揮する。アクスやクレドールの火力に支えられつつ、ラプサーが徐々に高度を下げてゆく。
「このタイミングだと、ナッソス家の先鋒隊と鉢合わせか。《鏡手》は、敵軍の侵攻状況を報告! 下部《接舷塔》の全砲門開け、《カヴァリアン》と《ハンティング・レクサー》の降下を支援する」
 謹厳なわりに、どことなく頼りなく聞こえるノックス艦長の口ぶり。ラプサーの艦橋を見渡すと、やはり賞金稼ぎや野武士のような風体の男どもが多い中、彼一人の雰囲気だけが変にいかめしく、規律を絵に描いた軍人のような態度で浮いている。実際、以前は議会軍の士官だったのだが。
「しかしこれは、ミトーニアからの対空放火も半端じゃないな。さすがに王国最大級の自由都市、市壁の防衛線も並みの要塞以上か……」
「何よその格好。艦長殿、肩に力が入り過ぎじゃないの!」
 シソーラは、やれやれと笑いながら、ノックスの背中を勢いよくはたいた。艦長の隣の席で、彼女は脚を組んでふんぞり返っている。これではどちらが艦長なのか分かったものではない。
「いざとなれば下手に回避せずに、この艦を《壁》にぶつけちゃいなさいな。にわか軍隊なんぞにギルドをなめてもらっちゃ困るワケよ、ヴェルナード」
 相変わらず過激なことをいうシソーラ――だが、強襲降下艦は、実際にそういう使われ方をすることがあるのだ。いわば船体のあちこちが衝角のような構造だから、敵方の城壁に艦を接触させてアルマ・ヴィオを突入させたり、地上から対空砲火を放つ塔を体当たりで破壊することもある。甲殻類を思わせる強固な鎧に身を包んだ姿は、元々そういった運用の仕方に由来する。
 おそらくこの船の《鏡手》であろう、クルーの1人が緊迫した声で告げる。
「ナッソス家のアルマ・ヴィオ、いよいよお出ましだ。敵の第一陣、ティグラーとリュコスを中心に陸戦型が約30、ミトーニアに高速で接近中。あと2、3分もあればギルドの陸戦隊と接触するぞ!!」
「さて、と。来たわね……」
 呑気そうに聞こえるシソーラの声にも、彼女なりに緊張感が増す。念信係の肩をぽんとたたいて、彼女は叫ぶ。
「プレアーの《フルファー》は出撃せよ! 後は《ファノミウル》のサモンに従うようにと。それから念信手、降りるタイミングは任せると、レーイの方にも伝えて」

 ◇

 シソーラがアルマ・ヴィオの出撃を指示すると同時に、ラプサーも速度を増し、ミトーニアに急接近した。激しい砲火にもひるまず、頑強な装甲と大きな図体には似合わない俊敏な動きで、さらに高度を落とす。
 地上、複雑な多角形型の市壁を堀が取り巻き、その外側に相手方の陣地が転々と築かれているのが見える。ギルドの部隊と市民軍が一進一退の衝突を繰り返す中、はるか上空のクレドールとアクスから敵陣めがけて多数の魔法弾が打ち込まれる。堀のあちこちで水柱が立ち上り、水蒸気が立ちのぼった。風の精霊魔法が小規模な嵐を起こし、突風が敵のアルマ・ヴィオを翻弄する。主として威嚇のための砲撃であり、過度の爆発や炎上を伴う魔法弾の使用は控えられているようだ。
 味方の飛空艦2隻に後方から援護され、ラプサーはさらに高度を下げる――いや、地上へと突撃する。船腹の装甲も非常に厚く、そこから地面に向かって強固な角のようにもみえる《接舷塔》が大きく突き出している。強襲降下艦独特の構造だ。飛空艦同士の戦いにはあまり向いている船だとは言えないが、その分、地上の敵を掃討する際に本領を発揮する。味方のアルマ・ヴィオを降下させる間隙を開くため、大地に雨のごとく魔法弾を降らせながら、敵に有無を言わさずラプサーが接近していく。

 ――プレアー・クレメント、《フルファー》、行くよ!
 開かれたハッチの奥、見事な枝振りの《牡鹿の角》が、暗がりから姿を見せた。それに続いて鎧をまとった巨人の身体、旧世界の異形のアルマ・ヴィオだ。金属的な高い鳴き声とともに、その背でコウモリを思わせる黒い翼が開く。
 ――《鳥》になれ!
 船から飛び出した機体が、乗り手の少女の声とともに瞬時に姿を変える。飛行形態に変形したフルファーは、螺旋の如き複雑な軌道を描きながら、地上からの攻撃を見事に回避し、雲の下へと降りていく。
 ――俺がしっかり場所を作ってやるから、気をつけて降りてこい。間違ってもプレアーを泣かすなよ。
 カインに念信を発すると、レーイも出撃した。
 ――レーイ・ヴァルハート、《カヴァリアン》、只今より降下を開始する。
 小銃型の手持ちのマギオ・スクロープ、《MgS・ドラグーン》を構えて、一本角の兜を身につけた汎用型アルマ・ヴィオが飛び降りた。次の瞬間、機体の背後に輝く光の翼が伸び、風にあおられて落下しつつ、ふわりと気流をとらえる。


3 激突、レーイ対ザックス!



 《翼》で制御しているとはいえ、やはり凄まじい速度で落下しているため、瞬時に変化していく大地との距離。だがその条件をものともせず、カヴァリアンの《銃》が地上に向けて精確に火を噴き、敵方のアルマ・ヴィオを次々と撃ち倒してゆく。
 ――な、何だあいつは!? 人間業じゃない!
 繰士の心の動揺を鏡に映すかのように、ミトーニア側の《リュコス》の一体が不意に足を止めた。
 ――はっ!?
 刹那、目の前に影が舞い降りる。リュコスは身動き一つとれぬまま、上空から走った光の白刃に脚を破壊され、地に崩れ落ちた。土煙を巻き上げて着地するカヴァリアン。
 間髪入れずに、レーイはMgS・ドラグーンを背に固定し、二本目の光の剣を抜き放つ。なおも敵方のアルマ・ヴィオが激しく殺到するも、もはや姿勢と足元の安定したレーイの敵ではなかった。二刀を手にしたその《剣》さばき、MTサーベルを振るわせたらギルドのエクター中、最強。
 が、そのとき……。

 ◇

 輝く靄のごとき球体がカヴァリアンの周囲を覆ったのと、ほぼ同時だった。
 視線の彼方から強力な雷撃弾が飛来し、球状の結界と衝突して空気を揺るがす。カヴァリアンは《結界型MTシールド》を発動して無事であったが、近くにいた他のアルマ・ヴィオは、混戦状態の敵味方のいずれをも問わず、相当の被害を被ったようだ。
 ――どこから? 長射程のマギオ・スクロープか、何!?
 レーイが地平の向こうを見たとき、新たな衝撃が襲いかかる。今度は機体の正面。黒い影が鋭利な爪をかざしてカヴァリアンに肉薄する。さながら瞬間移動のように。
 ――あの距離を一瞬だと!? 飛行、型か……?
 腕を突き出し、結界を前面に集中して見えない敵を防ぎながらも、カヴァリアンの機体はみるみるうちに背後に押されていく。飛び散る火花。光の刃と牙がぶつかり合う。

 ――正直、君には驚いたよ。ギルドにも良い乗り手がいたものだ。
 降ってわいたかのような敵から、出し抜けにレーイに念信が届く。だがその間も、両者は激しい戦闘を続けていた。念信から感じられる雰囲気からして、相手は初老の男のようだとレーイは思った。
 ――未知の敵の、しかも加速した《レプトリア》の不意打ちを何とか避けたとはな。反射神経だけでは今の回避は間に合うまい。魔道士か。いや、普通の繰士のようだが、ならば旧世界人の言う《超能力》か何かだと?
 いかに強化されたカヴァリアンの《目》をもってしても、敵の黒い獣の動きを十分に追うことはできなかった。剣を構えた瞬間、敵はもう手の届く範囲にはいない。同じく目にもとまらぬカヴァリアンのMTサーベルが、空を切った。剣の間合いで敵に攻撃をかわされることなど、レーイにとっては本来あり得ないはず。
 敵は余裕をみせ、レーイを翻弄でもするかのように呼びかけてくる。レプトリアの速さのおかげとはいえ、人の感覚を越えたその動きを自由に操るナッソス家のエクターも、尋常な腕前ではなかった。
 ――レプトリアの加速を真正面から受け止めず、剣で爪を巧みに受け流しつつ、背後に飛び退く。瞬時の判断力もたいしたものだが、やはりその機体の並外れた機動力もあってこそ。それも旧世界のアルマ・ヴィオのようだな。
 ――どうかな? いずれにせよ、どんなアルマ・ヴィオであろうと、そちらの速さには追いつけないと言いたげだが。姿を見せろ!
 レーイがそう言うが早いか、カヴァリアンは、即座に剣を背中のMgS・ドラグーンに持ち替えて発射した。
 ――魔法弾の軌道が曲がった!?
 得意の早撃ちをかわされた瞬間、レーイは次弾を放っていたが、再びあっけなく方向を反らされてしまう。
 ――それがMgSの軌道をねじ曲げる件の兵器……。やはり、クレドールの少年が今朝戦ったという、旧世界の超高速の陸戦型か。どんな魔法か手品かは知らないが、こちらの飛び道具も通用しないというわけだ。
 MgS・ドラグーンに変えて、再び剣を右手に構えたカヴァリアン。同時に左腕が目映く輝き、魔法力の盾、MTシールドが形成される。
 敵はその間に悠然と間合いを取り、恐るべき姿を現した。全身漆黒の機体は、爬虫類、いや、四つ足のほっそりした恐竜を思わせる体つき。あたかも大地を滑空するかのように、超速で駆けるための翼。
 ――ほぅ、こちらのことを少しは知っていたようだな。私は、ナッソス家の四人衆が一人、ザックス・アインホルス。いや、かつて四人衆であった者だと言うべきか。君の名を聞こう。
 ――俺はレーイ・ヴァルハート。ギルドの戦士。それ以上でも以下でもない。
 その名を聞けば、ザックスも知らないはずはなかった。
 ――ギルド随一の繰士と呼び声の高い、あのヴァルハート。確かにな……。本来ならば、もっと別な形で手合わせ願いたかったが……。これもナッソスの殿とカセリナ姫の御ため、参る!!
 レプトリアがバネのような動きで大地を一蹴、轟音と共に、その姿はレーイの視界から瞬時に消失する。
 いったんは戦いの場を退き、剣を鍬に持ち替え、妻や子供たちと静かに暮らしていたザックス。だが今や彼は、再び勇猛なる戦場の鬼神に戻っていた。


4 ベルセア、まさかの惨敗!?



 ◇

 ――あれは、いったい何? レーイは何と戦ってるのよ!? 
 ミトーニア上空、深紅の翼を羽ばたかせ、ラピオ・アヴィスが接近してくる。一足先に出撃し、ナッソス軍の動きを追跡してきたメイ。彼女は、市の城門を目前にしたところで、未確認の敵、謎の影と戦うレーイの姿を発見した。
 光の剣と盾を自在に操り、レーイのカヴァリアンが前後左右に激しい打ち合いを続けている。だが彼と交戦中の相手の動きはあまりにも俊敏で、上空からはただの黒い物体としてしか把握できない。
 強いて言うなら、あの速さは――アルマ・ヴィオというより、もはや砲弾だ。それをカヴァリアンが剣で必死になぎ払っているようにも見える。
 敵の正体を確認する間もなく、メイの念信に連絡が飛び込んでくる。
 この感じは、セシエルの心の声だ。
 ――こちらクレドール。いま、リュコスが降下した。ラプサーみたいに街に接近するのは無理だから、少し離れたところにしか降ろせなかったわ。場所を伝える、援護して!!
 ――了解。それからレーイが敵に押されてるようだけど、まさかね。どっちみち、あたしはベルセアの援護に向かって問題ないでしょ? だって、あいつはレーイだからね。
 メイはわざとふざけてみせた。そして、途中から深刻な声に変わる。
 ――レーイのくせに、苦戦なんかしてんじゃないわよ、まったく、さ。悔しいけど、あんな凄い速さの剣さばきで戦っているところに、あたしが出て行ったって……足手まといにしかならない。
 ラピオ・アヴィスは急速に方向転換し、ベルセアの乗ったリュコスの支援に駆けつける。

 ◇

 同じ頃、地上では、硝煙に霞んで見えるミトーニアに向かい、持ち前の俊足を生かしてリュコスが走る。駆け出して間もなく、火系の魔法弾が機体の周囲に何発か着弾し、次々と爆炎を呼び起こす。
 ――狙ってんのか流れ弾かは知らないが、俺のリュコスがこんなトロい砲撃くらうかっつーの!
 軽口をたたきながら、ベルセアは愛機を巧みに操る。金属の輝く肌をまとった狼は、火の海と煙の壁の中を突っ切って、軽快なフットワークで敵弾をかいくぐっていく。
 ――こんな調子なら、城門まであとひとっ飛びだぜ。このへんじゃ、お仲間さんも善戦してるようだしな。
 進路前方にギルドのアルマ・ヴィオ数機を確認し、余裕のベルセア。彼が口笛でも吹きたくなったそのとき――突然、それらのアルマ・ヴィオの群れが何者かに襲われ、瞬時になぎ倒された。
 ――おいおい、褒めた途端にこれか……。だが気をつけろ、相棒よ。何か見えたが、敵だな。今のは何なんだよ!?
 自らと一体化しているリュコスに、ベルセアが思念を送る。
 ――残念だ。確認できなかった。あまりに動きが速く……。
 必要最低限、機械的な声が帰ってきた。普通のアルマ・ヴィオの返事は大体似たり寄ったり、そんなものだ。
 ――せいぜい前はよく見て走れってか。何!?
 目で理解する前に、機体=身体に激震が伝わる。一瞬、ベルセアの目の前が真っ暗になり、ほとんど跳ね上げられるような姿勢でリュコスが空中に舞った。半分は回避し、半分は敵からの打撃を受けた結果だ。
 相手の接近の気配すらなかった。攻撃前、攻撃後、敵は己の位置を全くさとらせていない。姿無きアルマ・ヴィオ。
 だがベルセアも腕は確かだ。吹き飛ばされたリュコスは宙で一回転して姿勢を戻し、見事に着地する。
 ――そこか!?
 いま着いたばかりの地面を蹴って、リュコスが果敢に飛び出す。しかし手応えは空しかった。今度は確かに気配も察知しての反撃だったはずだ。それにもかかわらず、敵は戦いの間合いから離脱し、とうに近くにはいない。
 ――なんて速さだ、ほんとに相手はアルマ・ヴィオなんだろうな?
 急に寒気を感じ、ベルセアは慎重に周囲を警戒する。昼間の日差しのもと、しかも視界を遮る背の高い木々は生えていない。それでも敵の姿をはっきりと捉えることができないとは……。
 ベルセアには動揺する余裕すらなかった。敵の第二、第三の攻撃、それ以上の攻撃が息つく間もなく飛んでくる。かわし続けるのは不可能だ。致命傷は避けたものの、ついに直撃を受けてしまい、リュコスの動きが重くなった。
 ――ちっ! 後ろ脚をやられた。これはさすがに冗談じゃ済まねぇぞ……。
 音もなく迫る伝説の影の魔物のごとく、敵は反撃の機会も与えぬまま、ベルセアを圧倒する。


5 強敵・ナッソス四人衆! メイも敗北?



 ◇

 リュコスの位置を確認したメイが、ラピオ・アヴィスの翼を駆る。その速さは陸戦型とは比べ物にならない。鉤爪を開いた赤い怪鳥が、地上めがけて猛然と滑空する。
 ――動かないでベルセア、あんたも当たっちゃうわよ!!
 空から急降下して襲いかかると同時に、ラピオ・アヴィスは氷結弾を放ち、敵の動きを少しでも封じようとする。
 リュコスの周囲の地面を白い凍気が覆うが、肝心の敵には冷気の魔法弾は避けられてしまった。一瞬見えた敵の姿。だが続いてラピオ・アヴィスの鋭い爪が掴みかかったのは、空っぽの地面に対してだった。そこに、もう何も見あたらない。
 ――凍結の呪文をMgSに込めたのは、賢明な選択だったな。だが上空から狙ったところで、魔法弾が地上に届いたときには、俺はもうそこにいない。
 見知らぬ繰士からの念信。敵のエクターだとメイが思ったときには、下から雷撃弾に狙い撃ちにされていた。
 翼に被弾し、ラピオ・アヴィスの姿勢が崩れる。
 ――くそ! これってルキアンが今朝戦った旧世界の……。さっきレーイが戦っていたのも、こいつと同じ?
 根性だと言わんばかりに、メイは必死に上空に舞い上がろうとする。ラピオ・アヴィスも、傷ついた翼を力の限り羽ばたかせ、彼女に応えた。鋭い鳴き声が辺りに響き渡る。
 ――動け、ラピオ・アヴィス! ルキアンが互角に戦った相手だったら、あたしは、まだ負けられないんだ!!
 しかし彼女の意気込みも及ばなかった。続く敵弾にラピオ・アヴィスは尾を貫かれ、もはや飛行困難な状態に陥ってしまう。
 ――馬鹿にするんじゃないわよ。いま、一撃であたしを殺れたくせに、わざわざ翼や尾に当てただろ!?
 強がってみせたものの、メイには次の手がない。
 ――飛行型でも、いや、ラピオ・アヴイスでさえスピード負けするなんて。不覚。これじゃ、レーイだって苦戦するわね……。
 墜落は免れそうだが、動きの自由がまだ利く間に不時着した方が良いのは確かだ。白煙を上げてふらふらと地上に向かうラピオ・アヴィス。敵の飛行型が周囲にいなかったのが、せめてもの幸いだった。
 ――俺はレディーに手を上げるのが何より嫌いなんでな。そこでおとなしく休んでるがいい、お嬢さん。ついでに教えとくが、俺はパリス・ブローヌだ。ナッソス四人衆のパリス、覚えておきな……。
 何故か心地よい響きの、しかし多分にキザな感じの中年男の声。大地に足音だけを残して、黒い機体は城門の方へと消えた。


【続く】



 ※2007年6月に鏡海庵にて初公開
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第33話・後編


【再々掲】 | 目次15分で分かるアルフェリオン


5 旧世界の歴史は予め定められていた!?



 ◇ ◇

 風吹く丘の上。手入れの行き届いた木々が、夜の郊外に黒々と立ち並んでいる。豊かに茂った生け垣に囲まれて、白壁に煉瓦屋根のこぢんまりとした屋敷が建っていた。麓に転々としていた街の灯火もわずかになり始めた頃、屋敷の一室、薄明かりの漏れる窓の向こうで、時を告げる仕掛け時計の音が聞こえた。
 そして、かすかな声も。
「星々は動き始めた。北の空にひとつ冷たく浮かんでいた銀の星は、その従者たる常闇の守護星を伴い、天球における自らの運行を早めている。そして火の衛星の赤さが色濃くなり始めたのに呼応して、あの星も本来の輝きを取り戻す時期にきている」
 古い天球儀を傍らに、深紅のケープをまとった女性が夜空を仰ぎ見た。
 星を読み、天空のことわりを解し、人や世の行く末を見通す者。魔道にも深く通じたタロスの占星術師、アマリア・ラ・セレスティル。遠見の水晶によって、遥かレマール海を隔てたオーリウムで戦うルキアンとアルフェリオンの姿を見通し、さらにはガノリスでのグレイルの覚醒をも見守ったことは、《紅の魔女》アマリアにとってはごく簡単な術にすぎない。
「緑翠の星はすでにその力強く……しかし、彼(か)の元に本来あるべき気まぐれな風の遊星は、いましばらく天宙(そら)を漂うだろう」
 彼女の意味ありげな言葉は、夜空に浮かぶ実際の星々のことを指しているのではないようにも思われる。眼差しも顔色も変わらぬまま、アマリアの声の響きだけがわずかに重くなった。
「水の守護星は目覚めた。だがその主なる星は未だ暗く……いや、その弱々しい光は消えつつあると言うべきか。フォリオム、どう見る?」
 小さなランプひとつが灯るばかりの部屋の中、暗がりの向こうから、老人の声がアマリアの言葉に続いた。
「たしかイアラとか言ったかの? 《あらかじめ歪められた生》は、あの娘には重すぎたか。彼女は自分自身の心の壁によって囚われている。彼女が己の運命と向き合い、《あの存在》の掌から抜け出すために最も必要なものは、何も《御子》としての特別な力ではない。生きようとする……ひとりの人間としての意志の強さに他ならぬよ。それが決定的なんじゃが」
 堅い木が石の床を打つ、乾いた音。暗闇から生えてきたかのように、緩やかにねじ曲がった杖が見えた。
「そもそも《あれ》が人の世に《御使い(みつかい)》を遣わすのも、絶対者の定めた予定調和が《人の子》の《意志》の力によって歪められる場合があるからなのじゃ。そのほころびを《修正》するのが彼らの役目。時の経過による自然修復が難しいほどに、予め定められた道程から人の歴史が大きく外れた場合には、そうやってしばしば《書き直し》が行われてきた。勿論、人間はそれには気づいておらぬ。リュシオン・エインザールをはじめとする、ごく例外的な者をのぞけば」
 アマリアは椅子に深く腰掛け、眠ったように沈黙している。そんな彼女を前に淡々と話し続けるフォリオムの姿は、子守歌を歌い、お伽の物語を語る老人のようにみえた。影絵さながらにぼんやりと揺れていた彼の姿が、次第にはっきりとした形を取っていく。
「しかしあの時点で気づいても、旧世界にとってはもはや遅かったのじゃよ。結局、人の子はみな絶対者の定めた因果を展開する《駒》でしかなかった、ということをただ知って、だからといってどうしようもできなんだ。人類が母なる惑星にとどまらず、星の海に《天空植民市群》を作り上げたことも、豊かな大地が《永遠の青い夜》に閉ざされ、魔の世界となり果て、《アークの民》がそこから旅だったことも――その結果、人間が《天空人》と《地上人》とに分かたれていったことも、要するに《旧陽暦》時代の歴史すべてが最初から筋書き通りだったのだと、エインザール博士は思い知らされた。その流れを変えようとすることが、《人の子》には許されぬ行いだったともな」
 普段より実体化の度合いを強めたフォリオムは、深い緑色のローブをまとい、白く長い髭を口元や顎に生やした、いにしえの魔法使いか老賢人を思わせる姿である。
「お主が間違いなく未来を見通せるのも、ことによれば、この世に生起する出来事が予め一定の筋書きにしたがっているからかもしれんのぅ。それならば、何らかの力で事前に読み取ることもできる。ほっほっほ。」
 椅子に背をもたせかけたまま、アマリアは、乾いた口調で言う。
「あまり楽しくない冗談だな。もし本当に未来が変えられないなら、人は占いなど聞きに来るまい。何もせずとも変わらぬし、何をしても変えられない……ならば最終的には無意味だ。それに私も、未来に何が起こるかまでは読めても、その結果までは読めないことも多い」


6 恐るべき「御使い」たち



「はての。いつも言っとるように、お主にはもう少し可愛げがないといかん。そう何もかも真正面から返答されても困るわい。ともかく、考えてみよ。人間の中から《アークの民》が現れ、その血を受け継ぐ者たちが《天空人》として生き、残された《古い》人間たちは《地上人》として大地に残された。こうして人が二つに分かたれたこと――二千数百年に及んだ《旧陽暦》の最終局面で、《新しい人の子》が生まれるに至ったこと――これは果たして偶然じゃろうか?あるいは《人類の進歩》だとか《旧世界の魔法科学文明》のもたらした《結果》だとか、そう説明すれば済むことだと思うかの?」
 パラディーヴァの翁の目が、くらがりで光を増した。
「たしかに、《アークの民》は人によって選ばれ、人の力で《星の海》に送り出された。計画を決めたのもみな人間自身じゃ。ただ、その過程において――もし旧世界人たちが《主体》として振る舞っているようにみえ、自分でもそう意識しつつ、実は因果律の定めを現実化する役割を自覚なしに担っていたのだとしたら、どうかの?」
 アマリアは椅子から立ち上がると、部屋の隅の棚から膝掛けを取り出した。
「冷えてきたな、フォリオム。いや、パラディーヴァには寒暖など関わりないことか……。失礼、ご老体の言いたいことは分かる。《アークの民》や《天空人》の件は、《成り行きの結果》でも《人間の意志の産物》でもなく、《予め定められた必然》だったというのか。しかし《アークの民》というのは、《永遠の青い夜》によって変わり果ててしまった《母なる星あるいは地上界》から、種としての人類が滅びぬように選ばれた者たちなのだろう? つまりは《永遠の青い夜》という降ってわいた災厄がなければ、《アークの民》など選ばれる必要はなかった。それでもやはり《必然》なのか、違うのか」
 彼女の口元が微かに緩んだのを、フォリオムは見逃さなかった。
「こらこら、《年寄り》を試すものではないぞ、アマリア。お主も分かっているだろうに。まさに《偶然》を装い、《あれ》はこの世に一定の《契機》を与える。そうやって蒔かれた《種》とも知らずに、人間たちは物事の流れを受け取り、さらなる現実へと展開させてゆく。偶然の災害を《天》災と呼ぶことにしたとは、昔の人間は物の本質をよく見抜いておったものよ……」
 ふと、フォリオムの瞳の中で感情らしきものが揺れた。あるいは、外観的にそう見えただけで、目の錯覚かもしれない。部屋の出窓には、簡素な白い野花の鉢植えが置かれている。その向こうの星空をフォリオムは見つめる。
「昔、エインザール博士は、リューヌだけでなく、わしにも時々語っていた。《新たな人の子》を創造すること、言い換えれば《人間》をより《高次》の存在へと《昇華》させるという《目的》が、《何か》によって自分たちの歴史に予め定められているような気がする、と。《解放戦争》の始まる以前から、博士はそう感じていたらしい。直感の鋭い男であったからの」
 しばらくアマリアは無言で話を聞き続けた。淡い黄金色の灯火のもと、彼女の髪もよく似た色の光を浮かべている。
 フォリオムの知識は深い。《地》のパラディーヴァは、同時に《智》のそれでもあるのだろうか。エインザールの戦いの背景にあった本当の事情を、当時の断片的な情報に頼りつつも、彼は的確にとらえていた。
「そして《地上界》の勝利が確実となり、二つに分かたれた《世界》及び《人》がひとつに還ろうとしていた頃、皆が勝利への期待に酔う中で、博士の不安だけはいっそう強まった。仮に、人間の歴史に先ほど言ったような《目的》が定められていたとしたら、自分たちの戦いは、連綿と続いてきた旧世界の歴史をいったん白紙に戻すことを意味するのではないかと。それが現実となったとき、《目的》の実現に向かって因果の輪を着々とつなげてきた《力》の側からの、つまり《あれ》からの、何らかの反作用が必ず生じるのではないかという漠然とした危惧を持っておった。それは、途方もない妄想・杞憂のたぐいであるように思われた。じゃが、たしかに《天上界》の崩壊によって、因果の定めは、もはや修正し難いほどに覆されることになった。《あの存在》の前では塵以下にすぎない一人の《人の子》、リュシオン・エインザールによって、世界の向かうべき方向は大きく変えられたのじゃよ。いま思えば、だから……」
 押し殺したような声でフォリオムは付け加える。

  《御使いたちが、それを見逃すはずはなかった》


7 世界を統べる因果律と、もうひとつの力



 ◇ ◇

「するとリュシオン・エインザールは、二度と戻れないと分かっていながら、最後の戦いに向かった。そういうことなの?」
 娘は甲高く声を上げた。どうも落ち着かないその声色に比べて、彼女の髪は、見る者に神秘的な印象を与えるものであった。険峻な高山の谷間で冷たい水をたたえ、生き物の気配もなく静まりかえる湖――そんな場所の水面はしばしば、こういった白みがかった緑色をしている。ちょうど彼女の髪のように。
 彼女の隣には、同じ色の髪をもち、顔の作りもよく似た年上の女性が立っている。例の《ネペントの一族》の姉妹だ。姿は似ていても、全体的な印象は好対照だった。姉シディアの方が、落ち着いた優雅な雰囲気である。他方、高い声で好き放題にさえずる小鳥のような妹のエイナは、まだ十代で表情にあどけなさが残り、髪型が姉に比べて短いせいもあろうが、とても活発な感じを受ける。
「そうですね。エイナお嬢様……。だが未来に希望がないわけではなかったと思いますよ。むしろ未来に希望をつなげるため、エインザールは最後の戦いに赴いた。クククク、なかなかの英雄ぶりではありませんか。彼も漠然と予感していたのです。《あの存在》の力とは異なる《もうひとつの力》が、因果律にしばしば影響を与えていることを」
 好感の持てる姉妹とは対照的に、お世辞にも近寄りやすいとは言いがたい、魔術師ウーシオンが答える。顔立ちは意外に、いや、相当の美形だと言えるほど整っており、男性にしてはとても美しい流れるような髪をしていた。だが、薄ら笑いを浮かべた冷たい口元や、無表情な目つき、陰湿そうな顔つき等々、見れば見るほど病的な要素にあふれている男だ。しかも話し方には――特に小声で気味悪く笑う声には――背筋が寒くなる。
 そんな彼にも不自然さを感じないのか、あるいは慣れっこになっているのか、ネペントの姉妹たちは普通に話に聞き入っている。案外、ウーシオンも見た目ほど怪しい人間ではないのかもしれない。冷笑的な物言いが気にならなければ、彼の話には豊かな博識も感じられる。
「ククク……きわめて単純化して言えば、この世界のことがらは、歴史の縦糸たる《必然の力》のようなものと、それを揺さぶる《偶然の力》のようなものと、両者の相互の影響のもとで生成し、流転しています。我々の世界は基本的に前者によって因果的に定められています。その《必然の力》自体、またはその力を司る何かが、おそらく《あの存在》と呼ばれているのでしょう。しかし、《あの存在》の因果律の枠内における《特異点または作用点》を通じ、《もう一方の力》も、この世界に影響を及ぼしうるのです。《作用点》は《人の子》のかたちを取ります。特定の人間を媒介とする力の《流出》……。その《作用点》である人間こそが、《御子》と呼ばれる者たちです。かつてエインザールがそうであったように。クックック……」
 彼の話に半信半疑で、しかめっ面をするエイナ。それが目にもとまっていないような表情で、心地の悪いウーシオンの語りは続いた。
「だが《あの存在》の側にも、この《像世界》の現実において、直接的に力を行使するための化身――《御使い》がいます。《御使い》たちは、《あの存在》が世界や人に対して影響力を及ぼすための単なる道具ではなく、自らの明確な意志を持ち、《あれ》の定めにしたがって因果系列を維持・発展させるためには、あらゆる手段を用いるのですよ。フフフ。人間の持つような大儀や道理などとは無縁に、目標の達成のみを最大限に追求する彼らの手段は、我々の価値観からみる限り、往々にして狡猾・非情・卑劣・残忍……もっとも、彼ら自身はそんな意図や感情は持ち合わせていないでしょうが。結果としてそういうものになりがちなのです。ある意味、人間にとってもっとも忌まわしき敵は、この《御使い》たち……」


8 人が人でないものと戦うための「鎧」?



 退屈そうな顔をしていたエイナが手を打った。
「ねぇ、ウーシオン。だったら、《御使い》なんてご大層な名前をつけられているわりには、そいつらは悪者じゃないの?」
 冷笑――この言葉がこれほど似合う男はいない。ウーシオンは一笑に付した。別に悪気はないのだろうが、それは、慣れているはずのエイナにも決して気持ちよいものではない。
「ククク。お嬢様、《善》や《悪》とは関係ありません。《あれ》の予定調和のシステムの中には、我々の価値に基づいて個別に判断すれば、善悪両方の要素が含まれています。だが、その善悪は《人の子》の基準に過ぎません。《あの存在》や《御使い》にとっては、予め定められた因果律に従ってこの《像世界》における現象を生起させていくことが、我々の概念でいうところの《善》であって、因果律を乱すものはすべて《悪》ということになるのです。ですから《御使い》にしても、場合によっては我々にとって《天使》であり、場合によっては《悪魔》でもあるのです。いや、《神》や《天使》、《悪魔》などという概念によって、《あの存在》と《御使い》を説明しようとするのは筋違いでしょうが」
 二人のやりとりを見ていたシディアがため息をついた。感嘆したのか、呆れたのか、それは分からない。彼女は、静かに、しかし力を言葉に込めてつぶやいた。自らの決意を確認するかのように。
「《あれ》や《御使い》が何であろうと、ただひとつ言えることがあります。もしこの世界の事象が、人の歴史が、一人一人の行いが、すべて因果律によって予め定められた結果なのだとしたら、私たちは《生きた人形》か《駒》でしかなく、《主体としての存在性》を喪失する。未来が決定されることにとって、人間の《意志》が意味を持たないのだとしたら、そんな世界に《人間の尊厳》を求めることは空しい。たとえ何が《敵》であろうと、私たち《鍵の守人》は、《御子》と共に戦わねばなりません。すべての《人の子》のために……」

 ◇

 三人の背後では、《帝国軍》の侵攻に備え、《オンディーヌ》の出航準備が進められている。開かれた船腹から、巨人の兵士――いや、汎用型のアルマ・ヴィオが列をなし、次々と自ら乗り込んでいく様子もうかがえる。それらの統一的なシルエットからして、この艦に搭載される機体は、ほとんどが同じ種類であるようだ。だが搭乗口までの距離がありすぎ、周囲の照明も不十分であるため、どのような形や色のアルマ・ヴィオなのか、いかなる武器を持っているのか、細部までは把握しがたい。
 それほどにオンディーヌは大きいのだ。いったい何百メートルあるのか、あるいは1キロ前後の長さがあるのかもしれなかった。艦首はおろか、船体の大半は、遠く闇の向こうに隠れて見えない。
 ネペント家の姉妹は去り、一人残されたウーシオンはつぶやく。
「よいお覚悟ですね。シディアお嬢様は……。ククク、考えてもみてください。《アルファ・アポリオン》の力は、この世界を七度も灰にすることができると恐れられていました。人間にとって、いや、《人と人との戦い》のために、そんな途方もない力が必要だったとでも? あれは本当は《何のため》の兵器なのか……。そう、あれは……」
 ウーシオンは目を血走らせ、珍しく興奮気味に笑った。
「《人が、人でないものと戦う》ための剣であり鎧なのですよ。それを身にまとうことができるのは、エインザールを継ぐ《闇の御子》のみ。おそらくその者こそ、《ノクティルカの鍵》の力を発現させる《通廊》となりうるかもしれません。クク、ククク……」

 ◇ ◇

 自らの真の役割を未だ知らざるルキアンは、人の世界の成り行きに翻弄されたまま、ミトーニアにいた。市庁舎前に続く大通りをバリケードが遮り、さらにその手前には、黄金色に縁取られた甲冑をまとう重装型のティグラー3体が立ちふさがっている。
 それらと対峙する白銀の天使、アルフェリオン・ノヴィーア。


【第34話に続く】



 ※2003年1月~2007年5月に鏡海庵にて初公開
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