鏡海亭 Kagami-Tei  ネット小説黎明期から続く、生きた化石?

孤独と絆、感傷と熱き血の幻想小説 A L P H E L I O N(アルフェリオン)

・画像生成AIのHolara、DALL-E3と合作しています。

・第58話「千古の商都とレマリアの道」(その4)更新! 2024/01/09

 

拓きたい未来を夢見ているのなら、ここで想いの力を見せてみよ、

ルキアン、いまだ咲かぬ銀のいばら!

小説目次 最新(第58)話 あらすじ 登場人物 15分で分かるアルフェリオン

第57話(その5・完)「嘆きよ、我に集え」

目次これまでのあらすじ | 登場人物 鏡海亭について
物語の前史プロローグ

 


5.「嘆きよ、我に集え」


 
 魔術が一時的に造り出した仮想の世界か、あるいは本人の残留思念のようなものを相手にしているのか、いずれにせよルキアンの目の前に現れたアマト・コドゥエは、彼に駆け寄ると、感極まった様子で握手を求めた。
「こんな日が来るなんて。君の名は、《僕の死後(あと)》になってから初めて知った。ルキアン・ディ・シーマー君!」
 初対面でのその勢いに、引っ込み思案のルキアンはいささか戸惑った。だが、アマトはルキアンの様子を気にすることもなく、彼の手をひったくるようにして強く握手をすると、次いで彼の背に腕を回し、親しげに何度か軽く叩いた。
 どう反応してよいか、こういうやり取りが苦手なルキアンにはよく分からず、なされるがままに突っ立っている。
 ――この人は、《嘆きよ我に集え》に応えたはずなのに……。でも、恨みや怒りを吐き出すのではなく、こんなに嬉しそうだなんて。
 もっとも、ルキアンのそんな違和感も長くは続かなかった。アマトはルキアンを抱擁したまま、突然に言葉の調子を抑え、陰惨な声になってつぶやいたのである。その声は物静かながらも、ルキアンの背筋に冷たい感覚を走らせるほどの憎しみを帯びていた。いかに温和で人当たりの良いアマトであろうと、この世を離れる際に彼の抱いていった怒りは、微笑みの仮面の下に隠しておけるほど生易しいものではなかった。
「明けない《永遠の青い夜》のもと、何日も、幾月も、やがては幾年も、僕らは息苦しい地下都市に潜み、ただひたすらに耐え、あの日の青空をいつしか忘れていった」
 アマトの目から活き活きとした光が失われ、瞳孔がやや開いたかのような、虚ろな瞳にルキアンの姿を映している。苦渋に満ちた表情で何かを回想しながら、アマトは問うた。それはむしろ自問だった。
 
 なぜ僕らは、命を奪い合わなければならなかったのか。かつて自身の愛する人や友であったものと。
 
「すべては《エルフ》たちの……いや、宇宙から来た《イルファー》たちの、魔石《ケレスタリウム》がもたらした悪夢だ。彼らを責めることができないのは、頭ではよく分かっているんだ。いや、彼らは、むしろ人類を新たな繁栄に導き、常に善意にあふれ、僕たち愚かな人間に尽くしてくれてさえいた。だが、そもそもの、彼らとの最初の遭遇さえなければ」
 人類とは異なる知的生命体との史上初の接触、そんな未曽有のニュースに目を輝かせる少年時代のアマトの姿が、一瞬、ルキアンの脳裏をかすめた。偏見や雑念のない、純粋な好奇心に胸躍らせる彼の瞳が、ルキアンにはとても眩しかった。その穢れのない輝きに打たれ、ルキアンの青い目からなぜか涙が流れ落ちる。その涙の理由も把握できないままに。
 幼いアマトと入れ替わりに浮かび上がったのは、黄金色の髪とルビーを思わせる澄んだ紅の瞳、そして尖った長い耳をもち、人間より華奢ながらも背丈はひと回り高い、イルファーの女性の姿だった。彼らの民族衣装か何かであろうか、体に密着し、銀の金属光沢を浮かべて輝く水色のスーツを彼女は身に着け、困惑した表情で立ちすくんでいる。多くの人間たちが彼女に詰め寄り、中には殴りかかろうとしている者までおり、さすがに他の人間に腕を抑えられ、なだめられていた。その群衆の後ろでは、アマトがうつむき、拳を握り締め、無言で体を震わせている。
 幻燈のごとき光景が流れ去り、ただ一人残されたアマトがルキアンと再び向き合う。アマトは感情の色のない声で――いや、正確には、嘆きの情念を必死に押さえつけ、自身の奥に封じ込めようとするかのように――遠き未来から来た少年ルキアンに、あの《永遠の青い夜》のもとで起こった出来事を語り始める。
「《ケレスタリウム炉》が稼働直後に暴走、大爆発を起こし、大気中に拡散された青い灰のもたらす《魔染》によって、人間は正気を奪われ、その体さえも人外の者と化し、伝説や昔話の中で《魔物》と呼ばれていた存在と同様のものが僕たちの前に次々と出没することになった。今の時代に君たちが、オークやゴブリン、さらにはトロールなどと呼びならわしている魔物たちの祖先は、《魔染》によって異常な遺伝子変異を起こした僕らの同胞たちなんだよ」
 過去の御子たちから受け継いだぼんやりとした記憶や、パラディーヴァのリューヌから教えられた話などから、ルキアンは《魔染》のこと自体、曖昧には知っていた。けれども、それがやはり真実なのだと、こうして経験者の口から直接に受け取る結果になり、ルキアンの受けた衝撃は想像以上に大きかった。
 決して溢れ出さぬよう、アマトが押さえつけていた怒りが、痛恨の思いが、彼の心の重石を乗り越えて流れ始める。
「僕は、ショウを、息子を……魔物と化したわが子を……彼の命をこの手で終わらせなければならなかった。歪んだ笑顔で僕を見つめる1匹の魔物を。しかし、本当は僕は最後まで手を下すことなく、あの子の意思のまま、殺されるべきだったのではないかと。いや、そうではない。あれでよかったのだと。他の誰かではなく、僕自身が彼の魂を解放してやることが、父としての最後の義務だったのではないか。分からない。僕はあれからずっと迷い、苦しんでいる。もう答えを出してしまった、二度と戻らないあのときのことに」
 アマトの言葉は、御子としての彼自身からルキアンが受け継いだおぼろげな記憶をも呼び覚まし、それに具体的なかたちを与え、互いに共鳴し合ってルキアンの気持ちをなおさらに搔き乱す。
 
 ――パパ、いつか、灰の晴れる日が来たら、一緒に星を見ようね。それから青い空も。約束だよ。
 
 アマトの息子がまだ幼かったときの声が、その姿が、ルキアンの思いの中で、同じ年頃のアマト自身と交錯する。似たように星空に憧れていたアマトが、以前から欲しかった小さな天体望遠鏡を父から手渡され、いっぱいの笑顔を弾けさせている姿と。
 
 己の中に次々と浮かび上がる幻をルキアンは受け止め切れず、うめくように声を上げ、何度も首を振った。
 そんな彼の肩にアマトがそっと手を置いた。
「でも、《永遠の青い夜》のもとで起こったことは、もういいんだ。そこについては、僕は一定の区切りをつけなければ、生きていけなかった。あれは仕方がなかった。誰も悪くない。みんなの善意が、偶然の事故で最悪の結果を招いた。そういうことだと思ってる。だけど許せないのは」
「アマトさん……」
 彼の名を、ただ口にするしかなかったルキアンには、抑えられない怒りをアマトが向けている相手のことが、はっきりと分かっていた。アマトの声が遠くなっていく。
「許せない。僕たちがあんなに苦しんで、日の光の差さない薄闇の世界の中で、大切な人たちを次々と失い、それでも必死に生き延びようと、変わり果てた《地上界》を這いずり回った後、やっと戻ってきた青空と陽光を……ショウが待ち望んだものを……《天上界》の奴らは奪った。自分たちが見捨て、《天空植民市(スペース・コロニー)群》からよそよそしい目で見下ろしていた地上を、僕たちが血の滲むような思いと沢山の仲間たちの屍の山の先に取り戻した惑星《エルトランド》からの恵みを、《天空人》たちは一方的に取り上げた!」
 
「奴らは、ショウが死してもなお、あの子が夢見たものを、まだ奪い取るのか!!」
 
 何かの歯止めが砕け散ったかのように、一気に、アマトの怨念がルキアンの中に流れ込んできた。激しい負の力の奔流を受け止めきれず、心の目を閉ざされかけたルキアン。すると、幻の中で星空の向こうを見つめ、呆然と立ち尽くすアマトの姿がそこにあった。
「そうか……。はは。あはは。これは報いだ。地上人を踏みつけにし、自分たちの繁栄のために散々奪い取った天空人たち。奴らの思い上がりに対して、裁きの刃が振り下ろされたに違いない」
 アマトは、今までの彼とは異なる狂気に満ちた目をして、何かに喝采を送っている。
「そうだ。燃えろ、全部燃えてしまえ、天上界よ。コロニーなんて全て落ちてしまえばいい!!」
 
 いまのアマトは見ていた。《紅蓮の闇の翼 アルファ・アポリオン》が炎の翼を羽ばたかせ、彗星のような長い尾を引いて星の海を飛ぶ姿を。リュシオン・エインザールの呼び声に応え、召喚された《闇》のパラディーヴァ、黒き羽根の天使リューヌがアルファ・アポリオンと一体化し、その機体は、漆黒の宇宙にゆらめく青白い炎の十字架のように変わった。天上界の12の天空都市を防衛する連合宇宙艦隊が、アルファ・アポリオンの放った《ステリアン・グローバー》の莫大な閃光と灼熱に呑まれ、全長数キロにも及ぶ規模の戦闘艦が次々と消滅していく様子を、アマトは身じろぎもせず眺めていた。そして、星空に際限なく伸びた《炎の翼》によって――それは揺らめく炎のように見えるも、実際には人工的に造り出された時空の断絶面なのだが――空間ごと切り裂かれ、数百隻単位の艦が真っ二つとなり、あるいは次元の裂け目に呑み込まれてかき消えてゆく信じ難い光景を。
 
「だから、だから僕は……《紅蓮の闇の翼》を決して蘇らせてはならないと、僕がただの兵器みたいになってアルファ・アポリオンが意のままにすべてを破壊し尽くすことは、絶対に避けなければいけないと。これを見れば、分かる、じゃないか……」
 ルキアンは唇を震わせ、アマトに対してでもなく、誰に対するでもなく呆然とつぶやいた。
 
 もはや守り手を失った天空諸都市を睥睨し、アルファ・アポリオンが《司牧の大鎌》と畏怖されたそれを高々とかかげると、生命を持たない機械の軍勢が、漆黒の宇宙空間を埋め尽くす無人の戦闘ユニットや自律型の《アルマ・マキーナ》の大軍が、コロニーに向かって殺到していく。それを食い止めようとする防衛側の無人機も羽虫の群れのごとく湧き出でたが、怒れる天の騎士の大鎌が輝くと、それらの制御はすべてアルファ・アポリオンに奪われた。
 エインザール博士に従う3つの《柱のAI》、大規模支援衛星システム《マゴス》に搭載された《メルキア》、《ベルサザル》、《キャスペリーネ》は、数多の無人機を戦略レベルでも個々の機体レベルでも完璧に運用し、天空軍の動向をすべて手に取るように把握しつつ、残らず殲滅した。それはもはや《人の子》が立ち向かえる相手ではなかった。何の恐れも哀れみも感じない無人の兵器の大群が、人知の及ばない超AIに制御されて襲い掛かる状況は、魔王に操られた不死者(アンデッド)が押し寄せる有様を思わせる。否、それ以上に戦慄すべきものであった。
 そもそも勝敗は戦いが始まる前に決していた。《柱のAI》は、天空植民市のインフラやネットワークはもとより、同じく天上界側の政府機関・軍事組織の主要な管理AIを、開戦と同時にほぼ支配下に置いていたのである。その上で《天帝宮》と《世界樹》をネットワークから孤立させ、戦いが進む中、最終的には当該惑星圏の制宙権までも掌握するに至った。
 
 アマトは引きつった顔で、生気のない不自然な笑みをルキアンに向けた。
「僕にも、やっと見えたよ。天上界は、天空植民市群は滅びたんだね。そうだね? あの炎の翼に、裁きの大鎌に、天空人たちの街は焼き尽くされたんだ。ははは。よかった、ショウ、見ているか。僕たちの恨みは《紅蓮の闇の翼》が晴らしてくれたんだ。いいじゃないか。あはははは。それで、それで……よかったんだ……天上界なんて、滅びてしまえば……」
 しかし、復讐が果たされたことに歓喜し、最初は狂ったように笑いながらも、やがてアマトの声は徐々に小さくなり、途絶え、そして、静かにしゃくり上げるように彼は泣いていた。
 ルキアンは、どこで語り掛けようかと、その瞬間を探して迷っていたが、意を決したように粛々と告げた。
「あなたの次の御子、僕の先代の御子であるリュシオン・エインザールによって、彼の生み出したアルファ・アポリオンによって、天空植民市のいくつかは破壊され、無数の天空人の命が宇宙に失われました。僕は、エインザール博士が狂信的なテロリストだったのか、地上を天上界から解放した英雄だったのか、まだよく分かりません。ただ……ただ、おそらく、アマトさんも今は知っているように、人類は……」
「そうだね。僕は知っているよ。地上界が天上界に勝利した後、人類は何らかの理由で滅亡して、僕たちの世界は……君たちのいう《旧世界》は消え去った」
 気が付くと、アマトはいつの間にか再び、彼らしい穏やかな表情を取り戻していた。
「ねぇ、ルキアン君。旧世界の人類は、天と地の争いの果てに滅びた。それは、救いのない愚かな人間という者に対する、神のくだした罰だったのかな。僕らは争い合って、やられたらやり返し、取られたら奪い返し、殺されたら、その何倍も殺し返そうとした。愚かだった。でも、そうするしかなかった。ただ奪われ続け、ただ黙って命を踏みにじられるだけというのは、地獄よりも辛く、そして何より誤っている。そんなことを認めてよい道理などない。だから、たとえ一方的な正義でも、一瞬の勝利でも、力ずくでもそれを示さなければ……。だけど、結果だけみれば、そんな憎しみの応酬の果てには何もない。それは地獄にしか続かない一本道なんだよ」
 複雑な面持ちで彼の言葉を聞いていたルキアン。彼は、争いの連鎖は何も生まないというアマトの想いに半ば共感し、半ば疑問を覚えながらも、慎重に、静かに言葉を返す。
「あの、アマトさん……。僕も同じような問いかけを、ある人にぶつけたことがあります。言葉で分かり合おうとしない相手に対して、ただ蹂躙されるままに耐え続けるよりは、双方が傷つくことになっても戦う方がよいのか。そうではなくて、たとえ理不尽や暴虐に目をつぶってでも、長い目で見れば戦わない道が正しいのか。分かりませんでした。でも、迫る現実の中では、そこで答えを選び取らないわけにはいかないのです。人が己の存在をかけたそのような選択に対し、それがどのようなものであろうと、間違っているだなんて簡単に否定することは、僕にはできません」
 これから何か大切なことを伝えようと姿勢を正し、御子としての威厳をにわかに浮かべたルキアンに、アマトは少し驚いている。
「ですが、その選択を……たとえその道の先には破滅しかなくても、人が自由に選択すればおそらく誤った道を選ぶことになるのだとしても、それでも、選び取るのは僕たち人間自身じゃなきゃ、だめだと……思うんです。この世界に予め定められた目的、《人の子》のさらなる高みへの昇華に向けた筋書きに、僕らのような《愚かな人間》たちが何も知らずに背いたとしても、だからといって、人間自身の選んだ道の先にある様々な未来を摘み取り、地獄に続く道だけを残して、そこに人を追いやり、世界を《リセット》するようなことは絶対に許してはいけないんです。たとえそれが《神の意志》、つまりは《あれ》が本来備えている《絶対的機能》の一環なのだとしても」
 一気にそう言ってのけると、頬を紅潮させ、上気して眼鏡を少し曇らせて、ルキアンはアマトに頭を下げた。
「だから、僕にあなたの想いを預けてください、アマトさん」
「ルキアン君……」
 アマトは困惑しながらも、やがて彼の表情の中で、希望や信頼がそれを超えて広がっていった。
「君を信じる。必ず、《あれ》の《御使い》に勝って。僕の、ショウの、気持ちを晴らしてほしい」
 
「あの青空を、澄んだ星の海を、今度こそ必ず取り戻してほしい」
 
 そう願ったアマトの顔に優しい微笑が戻ったことを、ルキアンは無性に嬉しく思った。
 --そうですね。《優しい人が優しいままで笑っていられる世界》に近づきたいんです。アマトさん。
 そんな彼に頷きながら、アマトは後ろの方を手で示すのだった。
「ありがとう。君のおかげで、僕の気持ちは落ち着いたよ。だけど、まだ沢山の人たちが君を待っているようだ」
 しばしの沈黙の後、ルキアンは厳かに一礼し、アマトのもとを去った。
 
 ◆ ◇
 
 アマトの意識が離れていくのを感じた直後から、異なる人々の無数の思念が、また新たにルキアンに流れ込んでくる。それは、暗闇に投げ込まれたたったひとつの灯に、失われた沢山の魂が手を伸ばしてくるようなイメージとして、彼には感じられた。
 真っ暗ではないのに、何も見えない――むしろまばゆい光の中で、数多くの気配に埋め尽くされているのだが、そのひとつひとつは認識できないという不思議な状況の中、ひときわ強い想いが伝わってくる。先ほどのアマトのときと同様に。そのうちでも明らかに大きい、つまりは憎しみや悲しみの情がいっそう深い、負の感情の力の一段と強いところに、ルキアンは精神を集中する。
 前ぶれもなく肩や背中がずっしりと重くなり、負のエネルギーの大きさにルキアンは吐き気を催すほどだった。気が付けば、時計と人形、そして精密な工具であふれかえった部屋の中に、彼は呼ばれていた。その片隅で作業用のスツールに腰掛けていた職人が、薄紫色の大きな瞳を不自然に透き通った笑みで満たし、おもむろに振り返った。茶色い髪を頭の後ろで無造作に束ね、あくまでも穏やかな面持ちの青年の姿と、彼を前にして得体の知れない寒気を感じ、再び嘔吐感を覚えざるを得なかったルキアンの姿とが、強烈なコントラストを成している。
「この、息苦しい空気感は。この場を支配する底無しの……あきらめの……心は」
 職人の青年は、自ら造り上げたのであろう愛らしい少女の人形を手にして、寂しそうに瞼を閉じ、そして言った。
 
「本当に美しいものは、創り物の中にしかありません」
 
 そう告げた彼が口元に哀しい微笑を浮かべるが早いか、彼の愛した世界を――自らの手になる作品に囲まれ、その物言わぬ体に宿した命が息づくような無数の人形たちと、精巧無比の仕上がりで時を刻み、整然と協奏を続ける数多くの時計とともに、彼の姿を――荒れ狂う業火が一瞬で呑み込んだ。炎はさらに勢いを増し、手を伸ばしたルキアンまでも舐め尽くさんばかりであった。
 青年の心の本質的な部分に何ひとつ触れられなかったことに、落胆するルキアン。だが、先も見えないほど燃え盛る火焔の渦の中から、安堵の思いに包まれた心の声が響く。
 
 ――ありがとう。僕の嘆きを受け止めてくれて。悲しまないで。僕は最後の最後で、大当たりを引いたらしい。次の世で生まれる御子、新たなる地の御子、その名はアマリア。悪いね、あなたにすべてを託そう。もう、疲れた……。
 
 ◇ ◆
 
「あれ? 僕は、あの後、どうして」
 意識を失っていたことを、いま目がさめて、初めてルキアンは自覚した。行く手を阻む猛火がまだ燃え広がっているように錯覚して、彼は思わず起き上がり、その場から夢中で退いた。すると背中が何かに当たった。それは温かい、人間の体の感覚だ。
「目が覚めたか。ほぅ? そちは、いずれ来る世の御子のようじゃの。なんじゃ、《闇》ではないか。《水》ではないのか」
 おっとりとして穏やか、気品がある一方、どことなく、取りすまして高飛車な感じもする中年の女性の声だ。
「すべて言わずともよい。分かっておる。そなた、名は何と申す? 我は《海皇(かいおう)》ソラ。この地において大海の民を統べる者。水の御子じゃ。海の王にして水の御子たる我が、ソラ(空)などという名、奇妙じゃろ?」
 人跡も稀な氷の海を連想させる、透き通るような水色の髪を、頭上で左右に巻き、天女の衣を思わせる衣装をまとった彼女の姿は優美にして、しかし他者を寄せ付けない透徹した威厳があった。
「僕は、ルキアン・ディ・シーマー、闇の……あ、あ、あの! すいません!!」
 気が付くと、高貴な竜宮の女王の膝を枕に借りている形になり、その柔らかな感触にルキアンは慌てて起き上がろうとした。
「よい、よい。気にするでない、兄弟よ。そなたは御子、魂で結ばれた御子の絆は深く、それに比べれば、我に流れる人の世の王の血など、薄い水のようなものじゃ。もっと近こう寄れ。その顔をよく見せよ」
 最初の印象とは異なり、ソラには包み込むような温かさもあった。
 ――この人は、王として、御子として、求められる役割を忠実に果たすことに慣れ過ぎて……幼い頃からそういうふうに教えられながら育ったのだろうか……自分自身として、ひとりの人間として生きることを忘れて。
 結局、ソラの言葉に甘え、彼女の膝枕で安らぎを覚えつつあったルキアンは、選ばれし者としてのソラの孤独を、得意の妄想癖であれこれと勝手に思い浮かべ、悲しい想いに満たされた。そんな彼の耳に、何気ない調子でソラが口にした言葉が、寂しげに響いた。
「弱さを……みせられなかった。いや、他者に対してではない。我自身が未熟であったがゆえ、己の弱さを認めたくなかったのじゃよ」
 独り言のようなソラの言葉に、どう答えてよいものかと固まっていたルキアン。彼女は飄々とした様子で言った。
「強くなど、なりとうなかったわ」
 しばらく二人の間で沈黙があった。
 続いて海皇ソラは改まった調子で告げる。その口ぶりが、なんともぎこちなく、ぶっきらぼうな感じがしたものの、ルキアンはそれを悪くは思わなかった。むしろ快く受け止めた。
「のう、闇の御子よ。おりいって、その……水の御子のことを頼む。あれには、弱さを打ち明け、支え合える仲間が必要じゃ。我らの世界には、残念なことに闇の御子はおらなんだがの」
「はい。イアラさんのことは、僕たちで、何とか頑張ってみます。それで……」
「分かっておる。我の嘆きを汝に託そうぞ」
 ソラはルキアンの手を取った。最初に会った時よりも、血の通ったぬくもりを感じられたような、ルキアンにはそんな気がした。彼は黙礼し、海皇のもとを去った。
「良いひとときであった。若き御子よ」
 彼の去り際、霞の向こうに消えゆく姿とともに、ソラの声が遅れて届いた。
 
 ◆ ◇
 
 なおも様々な時代の、様々な世界の、人々の想いがルキアンめがけて渦を巻く。
 東の果て、古の時代の気高き伝説の戦士《サムライ》、その姿はナパーニア人のことを、たとえばギルドのサモン・シドーのことを思い起こさせるような――そんな一人の若武者が、焼け落ちる城を前にして、彼らが人前で見せることを避けたという、それでも今はとめどなく流れる涙を、敢えてそのままにしていた。
「何故(なにゆえ)か。こんなことであれば、最初から大切な者たちのために、拙者は……」
 大小二振りの刀を腰に帯び、ルキアンには見慣れぬ異国の鎧、しかし細部まで見事な縅(おどし)によって堅牢かつ美しく仕上げられた甲冑をまとい、侍は何かに詫びるように、両手を地面につき、深くうなだれてしめやかに落涙するのだった。
 その姿は哀しくも、ある種の極限的な美しさをたたえており、ルキアンは、不謹慎だと言われようとも、もっと彼の姿を見ていたいという心持ちになった。だが、そんなとき、目の前に揺れる幻の風景が変わった。
 
「わたし、どうしようもなく、愚かだった……」
 
 青い髪の少女、まだうら若い娘が、その身を鋼の鎧に包み、手に余るような長剣を振りかざして軍勢の先頭に立ち、突撃してゆく。
 
「私のしたことって、一体、何だったの? 何だったの!?」
 
 彼女は絶望に引きずられた目で、狂戦士のように剣をふるい、敵の返り血にまみれ、それでも獣のように雄たけびを上げつつ、さらに多くの敵軍の中に分け入っていった。その壮絶な姿は、神々しくも異様であった。敵はもちろんのこと、味方の兵すらも彼女の殺気に押され、本能的に退き、戦う姿を遠巻きに見ているしかなかった。
 ルキアンは彼女に声をかけようとしたが、彼女の狂気の度合い、他者を拒否する心の壁があまりに大きすぎて、今のルキアンでは青い髪の騎士の乙女に言葉が響かなかった。
 先ほどからの短い経験の中でも、嘆きが深すぎて想いの声の届かない相手がいることを、ルキアンは理解しつつあった。彼女の場合もそうなのだろう。自身にそう言い聞かせ、彼女の思念からひとまず離れたルキアン。だがその後も、数え切れないほどの嘆きが、負の情念に満ちた強い想いが、ルキアンに集まってくることをやめない。
 
 未来の星の海で、昆虫のような姿をした異形の宇宙怪獣と戦う人類の艦隊、敵のあまりの規模と強さに絶望する彼ら。残った旗艦が、最後の意地のために無謀な特攻を仕掛けてゆく。
 
 そして今度は、過酷な戦いに支配されたこれまでの世界とは別に、一見、平和を満喫しているような近未来風の壮大な都市が現れた。ただ、満ち足りた環境の中で、ひとたび道から外れた人々の心の闇が深まっていく様子は、《旧世界》の天上界の社会情勢をルキアンに想起させた。あの《パラミシオン》の旧世界の塔における一連の経験と同様に。
 電子機器の端末を目の前にして、薄暗く狭い部屋にひとり、とてもではないが健康的とは言いづらいジャンクフードの包装の山や高カロリーの飲料の空きボトルに埋もれつつ、無心にキーボードを叩く男の姿が、いくつか、ルキアンの目に焼き付いた。彼らの中には、いまの自分の置かれた世界に憎しみを募らせ、すべてを犠牲にしてでも爪痕を残したいという恐るべき心情が感じられ、何が彼らをそこまで追い詰めたのか、ルキアンはここでも闇の深さに言葉を失うのだった。
 
 彼は目を閉じ、静かに息を吸い込んだ。
 それが何かの決意の表れだったのか、ルキアンの心はそこで元の世界に戻ってきた。エレオノーアに支えられ、隣に立つルキアンの身体がゆっくりと息を吐き、再び動き出す。
「おにいさん、やりましたね! お帰りなさい、なのです」
 エレオノーアが声を弾ませ、ルキアンに微笑んだ。彼女たち、こちらにいた者にとっては一瞬の間だったが、その間にルキアン自身の魂はどれだけ多くの世界を渡り、時を超え、いったいどれほどの嘆きの声を聞き届けたのかを、エレオノーアは理解していた。
 重々しい動作で、辺りを支配する静謐の中で、ルキアンは脚に力を込め、しっかりと大地を踏みしめ、両手を掲げた。
「もういいよ。もう、繰り返してはいけない。あんな想いを永遠に繰り返させることは、やめさせなければ。この世界を《リセット》させることなど、決して認めない」
 かけがえのない我が子をその手にかけなければならなかったアマトの、絶望の叫びが。心を凍らせ、ほほえみを捨て、王として、御子としての使命に殉じた海皇ソラの、表情を失った瞳が。あまりにも深い断絶をこの世界との間に感じていた孤独な天才職人の、底知れない諦念を浮かべた笑顔が。御子たちの想い、そしてルキアンに気持ちを託した数え切れない人々の嘆きが。あらゆる時間と空間を超えて、このか細い背中の、銀髪の年若い御子のところに集まり、ひとつになり、巨大な霊気の柱となって天を突き、さらに大きく広がり、強い輝きを放つ。
 無数の嘆きの向こう側、彼らが本当に望んだ優しい世界の姿を理解しつつも、その上でルキアンは、夥しく集まる嘆きの念を敢えてそのままに受け取り、怨念に満ちた力の言葉を、短く口にした。
 
  暗黒よ、呪いよ、滅ぼせ。
  現世(うつしよ)にいでよ、憎しみに満ちよ。
 
  嘆きよ、我に集え。
 
 闇の御子に集い、この世界に熱量をもって具現化された《嘆き》の力が、御使いの竜をまさに葬り去ろうとしたそのとき。
 
「止めよ、ルキアン・ディ・シーマー!」
 突然、緊迫したアマリアの声が響く。ほぼ同時に、視界が不自然に揺らぎ、身体はもとより意識すらも無理やりに震わされたような、強大な霊的振動波がルキアンたち全員に伝わった。
「何だこれは、頭が……。立っていられない」
 グレイルが苦痛に顔をしかめ、よろめくように片膝を突いた。
 エレオノーアは慌ててルキアンを抱きかかえる。
「おにいさん!」
 何が起こったのか、よく分からないまま、再び皆が正常な状態を取り戻した時には、すべてが終わっていた。
 
「引いたか……」
 アマリアが杖を宙空に向け、何かを放とうとしていたようだったが、彼女は杖を下ろした。
「今の強烈な時空振動。御使いの本体が、あの似姿を取り戻すために転移魔法を用いた際の影響だろう。御子の結界を超えて影響を及ぼすとは、さすがに《時の司》というところか。しかし、これでよい」
「アマリアさん!?」
 不安げに近寄ってきたルキアンとエレオノーアに、アマリアは一瞬言葉を呑み込み、わずかな黙視の後、表情を和らげた。この戦いを通じて、ルキアンが初めて見たアマリアの笑顔だった。 
「よくやったな。二人の闇の御子よ」
「え、あの。竜はどこに……。はい?」
 よく事情が分からず、顔を見合わせている銀髪の少年少女に、地の御子アマリアに代わってフォリオムが告げる。先程までは、老いてなお手強い大魔道士のような、近寄り難いオーラをまとっていた地のパラディーヴァも、今では好々爺のようにうなずいている。
「闇の御子よ、おそらく、お前さんの最後の魔法に集められた力が予想外に強すぎて、仮に正面からくらえば《化身》ひとつを完全に喪失すると、御使いどもが考えたからかもしれん。普通なら、たとえ倒されても、あの類の手駒は何度でも蘇るから、御使いにとっては捨て置けばよいものにすぎない。ところが、今の魔法を受ければ、あの化身は存在の根源すら喪失するところだったのじゃろう」
 フォリオムの言っていることが十分には理解できなかったルキアンも、ともかく四頭竜の化身が、その本体である《時の司》によって無理に引き戻されたことは理解できた。彼らの周囲で不思議そうな顔をしている他の御子たちにも分かるよう、次いでアマリアが説明する。
「御使いというのは、《人の子》に対して自ら手を下すことは基本的にできない。それが奴らの《法》の定めらしい。奴らは自分たちの《法》に絶対的に忠実だ。だから、もし、我々と戦っていたあの竜の似姿を完全に失った場合、奴らにとってそれは人間世界で動くための手足を永久にひとつ奪われたことを意味し、大変に面倒なことになる。だから、あの《時の司》が、敢えて逃げを選択したのだろうな」
 いつもの厳格で感情表現の薄い口調に戻ってそう告げると、アマリアは、ルキアンの方を見つめる。
「君に集った嘆きの力は、それほどまでに大きかった。闇属性魔法の秘奥義、《嘆きよ我に集え》、見せてもらったぞ。四頭竜の化身は取り逃したが、これで因果の糸はつなぎ直され、固定された。つまり、エレオノーアを取り戻したということだ」
 彼女の言葉を待っていたかのように、エレオノーアが有頂天になり、ルキアンめがけて飛び込んだ。
「おにいさん! もう、絶対に離さないでくださいね!!」
 勢いのあまりルキアンを押し倒し、彼ごと地面に横たわるエレオノーア。彼女はなおもルキアンに頬ずりしようとしている。まわりの目を気にして、そんな彼女を両手で押し返そうと慌てているルキアン。
 
 二人の姿を微笑ましそうに見つめる者、大笑いする者、呆れて溜息を付く者――この場にいるそれぞれの御子とパラディーヴァたちが、自分たちの勝利をようやく実感した瞬間だった。
 
【第57話 完】
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第57話(その4) アマリアの「呪い」と叫び。闇の御子よ、今こそ想いの力を!

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4.アマリアの「呪い」と叫び。闇の御子よ、今こそ想いの力を!


 
 大地の属性魔法において《人の子》が到達し得る最果ての高み、さらにその先、《永劫庭園・弐(ツヴァイテ・シュトゥーフェ・デス・エーヴィゲン・ガルテンス)》の呪文の詠唱をアマリアが終えたとき、張り詰めた不気味な静けさが御使いの四頭竜を取り巻いた。これから起こるであろう出来事に対して想像も及ばず、固唾を呑んで見守る御子たち。
 彼らの前では、アマリアに先んじてイアラの放った《絶対零度(アブソリュート・ゼロ)》の魔法が、なおも持続的に効果を発揮している。時をも凍らせるような極限の冷気が竜の体を徐々に這い上がり、白銀の氷壁で包み込もうとする。これに対して自らの体を灼熱化した鉄塊の如く変え、超高温によって氷結の進行を妨げようとする四頭竜との間で、見た目には静かな、しかしお互いに膨大な魔力を要する一進一退の攻防が続いていた。
 いかに竜の血を遠く引くとはいえ《人の子》にすぎないイアラが、《はじまりの四頭竜》の力を分け与えられた相手と正面から魔力で押し合う姿を、アマリアは気遣いつつも、低くこもった声で呟いた。
「勝負あったな。私も今、初めて理解したのだが、この《絶対零度》は、物理的に絶対零度を実現する魔法ではないらしい。単なる強力な凍結呪文ではなく、おそらく概念的にも《動く》ことすべてを封じる力があって、その効果だけをみれば、事実上、特定の対象に向けられた《時間停止》の魔法に近いものだといってよい」
 傍に控える地のパラディーヴァ、フォリオムに杖を預け、アマリアが合掌する。何らかの超自然的な効果のせいか、両の手の打ち合わされた音が異様に大きく響き渡る。限りなく黒に近い、濃い鳶色の目に、あるいは彼女の口元に、狂気じみた光が微かに滲み出た。極めて高度な魔法を使用するとき、術者は己の潜在意識の世界と合一し、人としての理性の歯止めを外した次元に自らを置くという。アマリアにもその兆候が徐々に顕わになっている。
「そして貴様の存在自体を対価とし、見るがよかろう。原初の主が去り、呪いの中で永遠に放置された、禁断の庭園の真の姿を」
 耳をすませば、ささやくような調子で一連の不可思議な言葉が聞こえてくる。
「エギレ……オ……ナイ・デイス・ボ……」
 アマリアの口から洩れるそれは、おそらく誰も耳にしたことがないであろうにせよ、何らかの言語らしきものを思わせる。その未知の音韻に導かれるように、鉱石の肌を鈍く煌めかせ、不気味に節くれだち、ねじ曲がったあやかしの巨木が宙空に次々と姿を現し、たちまちのうちに樹林となって御使いの竜の周囲を覆い尽くす。密生した超硬結晶の刃の森は、意思をもち、いましも襲いかかろうと獲物に狙いを定めているように感じられる。
 《星輪陣》がアマリアによる《闇》の《地》の相へと移行したのをその目で確認し、イアラは、息も絶え絶えに喉を鳴らして呼吸しながらも、不敵に満足げな表情を浮かべた。そんな彼女に、エレオノーアが青い目を潤ませて頷いている。
 ――イアラさん、とても辛いですよね、苦しいですよね……。《絶対零度》の呪文は、これを唱える時点で莫大な魔力を必要とするだけでなく、その発動後も、効果を維持するために想像を絶する勢いで術者の力を奪い続けるのです。でも、さすがなのです、イアラさん! まるで、とっくに限界に達した体で、険しい山道をさらに登り続けているような状態なのに。
 まともに立っていることができないのは勿論のこと、意識すら何度も失い、またかろうじて目覚めるということをイアラは繰り返している。だが、彼女と一体化したパラディーヴァのアムニスが、自身の魔力を供給してマスターをしっかりと支えきっている。
 その一方で、アマリアの術によって唐突に現れた悪夢の庭園の風景に、炎の御子グレイルが言葉を失っている。無意識に手を握りしめたまま、拳を震わせ、彼はようやく心の中でつぶやくことができた。
 ――これが、これが、本物の《魔法》だというのなら……。俺らが今まで接してきた魔法って、いったい何だったんだよ。一応、王国屈指の魔道学院の先生たちの術を、俺は身近に見ていたが。今となっては、そんな、茶番……笑うしか無いじゃないか。
 もともと癖のある髪をさらに手でかき乱しながら、グレイルは一種の絶望を感じた。
 ――子供と大人、いや、人と神。あまりにも格が違いすぎる。俺は、《紅の魔女》の足元にも及ばないどころか、足元の地べたを這い回る虫になることすら、今のままでは叶わない。
 アマリアが再度合掌し、さらに手を打った。次々と鳴り響く音に合わせて暗闇の中から、病的な青白さに染められた、艶めく魔性の肌を光らせた石造りの構造物が――今では人々の記憶から消えた太古の女神の像らしきものや、流れ落ちる生贄の血を集める釜を何故か連想させる空っぽの噴水、不可解な象形文字に飾られてそそり立つオベリスク――哀れな御使いの竜の周囲を、それらは別世界へと塗り替えていく。
「クシェ……ソ……クシレ・ボ」
 件の未知の言語らしきものによって、紡ぎ出される呪文。グレイルは、彼の肩に乗るようにして浮かんでいるフラメアに対し、必要以上に声を潜めて尋ねる。
「あれも呪文なのか分からないが、その、まったく聞いたこともない言葉だ。知ってるか?」
「あたしも知らない。分かる? 闇の……」
 尋ねられたフラメアの方も首を傾けるしかなく、何気なくエレオノーアと顔を見合わせる。闇の御子、銀髪のエレオノーアもお手上げのポーズを取る中、異界の言葉をアマリアがさらに紡いでいく。
 これに反応したのは、彼女らと対峙している敵、驚くべきことに、いままで御子たちと意思をほとんど交わさなかった御使いの竜だった。地の底から轟き渡るような思念波が、ただし、風に揺れる灯火にも似た不安定な様子でアマリアに伝わってくる。
 ――星産みの神話ノ時代に、失わレ、タ……第八天の……術式……記述言語ヲ、なゼ、ヒトノコが知っている? ナニ者、ダ……。
 ――偉大なる最も古き竜、その力を分け与えられた似姿よ。我々のような虫けらとようやく話をする気になったか。だが、ひどい有様だな。もう長くなさそうではないか。
 直接の念話でアマリアが応える。そうすることで、彼女は自身の言葉を、他の御子やパラディーヴァには敢えて聞かせなかった。
 ――私は、ただの御子にすぎない。それでも《人の子》としては、多少なりとも《長く》生きた御子だといってよいだろう。私の《予め歪められた生》の呪いのせいでな。
 不意にアマリアが一抹の寂しさを瞳に浮かべたようにみえた。だが、彼女らしからぬその気色は、次の瞬間には跡形もなく消え去っていた。
 ――それで、命を長らえ過ぎると、時には知らなくてもよいことを知ったりもする。分かるだろう?
 ――あり得ナイ。大いナル《絶対的機能》に従う、我ラ、ミツカイでも……達することは、デキ、ない。天の第七層ヨリ上は……原初の時以降、もはや抹消され、存在し、ナイ。
 ――意外にお喋りだな。身の上話でも聞いて、変に情が移って倒す気が失せたらどうしようか、我が宿敵よ。いや、冗談だ。
 アマリアは話を一方的に打ち切って、両手を胸の前で合わせた。
 ――本当に、過ぎた冗談だ。ははは。言っている自分自身に吐き気がする。魂の記憶として受け継がれ、蓄積された我ら御子の《あれ》や貴様ら御使いへの憎しみを思えば。私は、これでも人の子の中では割合に理性的な部類に入ると思うのだが、そんな私の中でも、この体が、この魂が、認めないのだよ。
 苦笑いを浮かべた何ともいえない表情のもと、アマリアが心の声を荒らげた。
 ――時が流れ、大切なものが次々と手のひらからこぼれ、いつも独りだけ取り残されていくどうしようもない無力感を、貴様は知っているか。知るはずもあるまい。ほぼ感情の無い貴様ら御使いは、私よりも遥かに長い永遠の命を持ちながらも、愛する者たちが消えてゆく苦しみを感じない。だが貴様らの戯れによって《人の子》にエルフや魔族のような長い命を与えれば、その《呪い》が何をもたらすか、分かるか。理解できまい。この魂は《呪い》によって鎖につながれ、無駄に現世に長く留め置かれて、私が愛着を感じた者は、あるいは物も、やがてすべて老いて、朽ちて、この世から去ってゆく。私を置いて!!
 アマリアは、怒りに震える手で杖をいっそう高く掲げる。
 ――他の御子たち、特に若いルキアンやエレオノーアたちには、こういう言葉は聞かせたくないものだ。ましてや、短い命と向き合いながら、明日には消えてしまうかもしれないと、一日一日を覚悟をもって生きてきたエレオノーアには。だが、この怒りは……憎しみがもたらす渇きは、恥ずかしながら止められない。たとえ貴様を百度や千度、滅ぼし尽くしたところで、我ら血族の恨みは消えそうもないな。はは!
「エ……ク……サーン!」
 アマリアが再び杖を手にして掲げると、先端に嵌められた青い霊石が輝いた。竜の腹の下、二層から成る黄色い光の魔法円が現れ、それぞれ逆方向にゆっくりと回転し始める。
 ――絡め捕れ、化石の幹で締め付け、汝の糧とするがよい。時に忘れられた魔界の万年樹、与えられた名さえも、もはや朽ちた久遠の石の花よ。
「エ・ク・サーン!!」
 アマリアが両手を広げ、何かを召喚する。例の二層の魔法円の中から、白く乾いた岩石の腕が、いや、うねりながら伸びる枝のようなものが次々と伸び上がり、見る間に成長して御使いの竜に絡みつく。竜にも劣らぬ体躯をもつ岩の大蛇のようにもみえる。だがそれは、化石のごとく硬質化した表皮をもちながらも、明らかに生命活動を伴う植物だ。巨大な石像が手で握り潰そうとするかのように、何本もの《樹》が竜に絡み付き、締め付ける力を徐々に強め、猛獣の牙さながらに鋭利な梢を竜の体にじわじわと食い込ませてゆく。
 ――私とイアラの力で、御使いは完全に抑え込んだ。貴様の滅びを象徴にして、新たにつなぎ直された因果の流れを固定する。
 後頭部で一本に結った黄金色の髪を揺らし、アマリアが振り返った。
「後は君がとどめを刺せ、我らが盟主。闇の御子、ルキアン・ディ・シーマー!!」
 
 ルキアンの名をアマリアが叫んだそのときより、少し前から――この戦いの背後でルキアンは何かを続けていた。《アーカイブ》のエレオノーアから、ある呪文の転送を受けた彼は、御使いの竜に気づかれないようにしつつ、延々と発動の準備を続けていたのだった。
 何かに語り掛けるように、小声でずっと呟いているルキアンの姿はあまりにも地味であったが、それが幸いして御使いに気取られることはなかった。皮肉なことに、彼の存在感の無さが武器になったのである。何もしていないように見えたわりには、ルキアンは相当な疲労を覚えているらしく、病人の付き添い同様、エレオノーアが隣で体を支えている。それでも瞳には逆に気迫を宿して、少しずれた眼鏡を直しつつ、ルキアンはアマリアの声に応えた。
「はい、アマリアさん。これが、僕たちの……いいえ、《みんな》の……想いの力です。イアラさん、グレイルさん、カリオスさん、そしてパラディーヴァたちも、見ていてほしい」
 ルキアンは心の奥で、自身に言い聞かせるように繰り返した。
 ――みんなの哀しみを、苦しみを、怒りを……遂げられなかった想いを、僕は受け取ったよ。いや、確かめたって、言う方がいいのかな。だって、僕は知ってた。この身体の、魂の、霊子のレベルにまで刻み込まれ、記憶されてきた想いを。
 ――僕は忘れないよ、みんなのこと。たとえ人間が、世界が、歴史が、君たちのことを忘却しても、僕は忘れない。
 ルキアンはエレオノーアと頷き合い、しっかりと互いの手を握って、銀髪碧眼の少年少女は声を合わせる。
 
「五柱星輪陣、最終全陣展開。《闇》の……《闇》」
 
 漆黒に閉ざされた心象世界の中で、時計の針が零時を示し、終焉の刻を告げる鐘が鳴り響いた。文字盤に浮かぶ闇の紋章の上に、風、炎、水、地の紋章が次々と重なる。その瞬間、ルキアンだけでなく、エレオノーアも合わせて、二人の髪と瞳が黒く染まり、ルキアンの両目とエレオノーアの左目の闇の紋章が爆発的な輝きを放った。突然、大気を満たし尽くした異様な霊気に、他の御子たちが身体を反射的に震わせる。
 
「暗黒魔法・究極奥義。《嘆きよ、我に集え》!!」
 
 ルキアンとエレオノーアの胸の内に、無数の声が飛び込み、沁み通ってゆく。その最初の声は、彼らの心の中に明確な記憶のある人間、つまりは、いつかの世界の、いつかの時代の《闇の御子》のものだった。
 
――こんなかたちで、やっと会えた。僕は君に会えたんだね。信じられない。よかった! 声は、声は届いたんだ。救いの人よ。
 
 宇宙服を思わせる特徴的な防護服、そこから彼の生きた世界と時代とを推測するのは容易いことだった――《永遠の青い夜》に閉ざされた世界で、《魔染》に怯えながらも、青い空と星空が蘇ることを切に願った一人の男。彼は、焦げ茶色の髪と瞳に、少年の面影を残した《地上人》の技師。己の《予め歪められた生》に支配されながらも、御子としての使命と力に気づかず、それでもひとりの人間として抗って生きた人、アマト・コドゥエ。
 
 
【続く】
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第57話(その3)見よ、五柱の力!!

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3.見よ、五柱の力!!


 
 五属性・六人の御子たちの声が揃い、高まる彼らの想いがひとつになったとき――いにしえより密かに受け継がれながらも、これまでただ一度も発動されたことのなかった御子の秘奥義  《五柱星輪陣(ペンタグランマ・アポストロールム)》が、遂にその全容を現すこととなった。現実と幻の狭間、何処とも知れない暗闇の表象に満ちた世界に、時計のような文字盤を背後に従えた五芒星陣(ペンタグラム)が浮かび上がる。時を告げる鐘が幾重にも響き渡り、次いでガタンと低くこもったような音を立て、五芒星陣が時計回りに動き始める。12時の位置に、闇の紋章の刻まれた星の頂点に代わって、風の紋章の記された頂点が回って来る。
「最初はカリオスさん、お願いします!」
 エレオノーアがカリオスとテュフォンの方を見て頷く。風の御子たちの答えであるかのように、そよ風がどこからともなく吹いた。銀色の髪を涼しげに揺らしながら、エレオノーアは今度はアマリアと視線を合わせる。
 ――星輪陣の扱いを知っているのはアマリアさんだけ。その意を汲んで、他の御子たちをリードするエレオノーア。すごいな、エレオノーアは。さっきのイアラさんのことといい、いま御子たちが結びついているのは、アマリアさんと何よりエレオノーアのおかげだ。
 感心しきった様子で見ているルキアンに、エレオノーアが、緊張感のある中にも可愛らしい声でささやく。
「任せてください、おにいさん! わたしは、おにいさんや皆さんをできる限りサポートします。おにいさんは、他のことは何も気にせず、星輪陣に《闇》属性の魔力を注ぎ込むことに全力を尽くしてください」
 さらにエレオノーアは、ルキアンに耳打ちした。彼女の唇が触れそうなほど距離が近寄りすぎて、ルキアンは平静を装いつつも頬を赤らめている。
「それに、おにいさん。私たちにはリューヌさんがいません。パラディーヴァがいなければ、足りない魔力を自分たちでどこかから調達しないとですね。ですから、わたしの《アーカイブ》に、あれがありまして、それで、あちこちから、いろいろ、こしょこしょこしょ……と」
「え? そんなことって、できるの……かな? でも、この戦い、そうできたらいいな。僕たちの想いだけじゃなくて。分かったよ。やってみる」
 エレオノーアとお揃いの銀色の前髪、その向こうで同じく青い色のルキアンの瞳が、希望と困惑の入り混じった光を浮かべた。
 その一方、カリオスたちは魔法の詠唱に入っている。
「僕の力を使って、カリオス。僕に続いて呪文を唱えてよ」
 テュフォンは実体化を解き、空色の光となって、渦を巻くようにカリオスの周囲を上昇しながら、彼の体に溶け込んでいった。
「この力は……。パラディーヴァと一体化すると、これほどまでに人の力は変わるのか」
 指先ひとつひとつに至るまで、全身に漲る魔力にカリオスは驚きながらも、自らの役割を果たし始めた。
「五柱星輪陣、《闇》の《風》!!」
「我は吹き鳴らす風神の呼び笛。三度(みたび)大気に響いたならば、集え、天空に遊ぶ風の精たち」
 カリオスが呪文の詠唱を開始したとき、御使いの四頭竜が、深手を負った身体をかばいながらも星輪陣の方に向かって突き進んでくる。だが詠唱の時点ですでに風の魔力が発動を始め、カリオスに集中してきており、いつの間にか星輪陣を取り巻いていた嵐の壁が四頭竜を押し戻す。その間にもカリオスは粛々と詠唱を続ける。襲い来る巨竜を前にしても微塵も怯まない彼の姿、さすがに練達のエクターだけのことはある。
「風精(シルフ)たちの歌声で目覚めよ。暴風と轟雷の主、失われし空の王国の守護者」
 呪文が終わりに近づくにつれて風は飛躍的に強まり、その凄まじい風速に巻かれた竜の体にすでに異変が生じ始めた。見えない無数の風の刃にふれ、身体の表面に切り傷がひとつ、またひとつと増えてゆく。そして傷は深くなる。
 その様子を見たアマリアが星輪陣の力を実感している。
 ――《闇》属性をまとった風の刃は、神竜の体を守護する《光》の防壁と鋼鱗すら切り裂く。まだ呪文が完成すらしておらず、本来は《炎》属性に対して不利な《風》属性であるにもかかわらず、ここまでできるとは。
「その限りなき翼を広げ、荒れ狂う風獄で敵を断ち、その雄叫びで稲妻を呼び……」
 カリオスが呪文を唱え終わろうとしている。最後のいくつかの言葉が発せられるのに合わせて、彼の背中に翼のごとき霊気が立ち昇り、大きく羽ばたいた。
 
「いかずちの鉄槌で打ち砕け、《鳳翼風雷破(フリューゲル・フォン・シュトゥルム・ウント・ドナー)》!!」
 
 空が歪み、黒雲から呼び出された嵐の結界が、闇の魔力を帯びた爆風が、御使いを呑み込み、四つの首を苦しげに振り乱す竜に対し、幾筋もの雷鳴がひとつになり、巨大ないかずちの柱となって撃ち下ろされる。
「手ごたえはあった、カリオス。敵は瞬時に防壁を張って防ごうとしたようだけど、雷撃は貫通したよ」
 テュフォンの声がカリオスの中で響いた。四頭竜の体のあちこちが焦げており、12枚の翼も幾つか折れ曲がり、見た目にもカリオスの雷撃が痛打となったことは分かる。
 
「やりましたね、カリオスさん! 次は《炎》、グレイルさんの番です」
 戦いが有利に展開していることを承け、エレオノーアの声にも力強さが増しており、これに導かれるように、再び暗闇の中で五芒星陣が時計回りに動いた。歯車が鈍く鳴る音。先ほどまで風の紋章が輝いていた12時の場所に、今度は五芒星陣の炎の紋章をもつ頂点が来た。
「五柱星輪陣、《闇》の《炎》」
「……のお!」
 フラメアとグレイルが二人で叫んだ。だが両名のテンポが少しずれ、グレイルの声が遅れて最後に響く。フラメアが呆れた顔をして、じっとりした横目でにらんでいる。
「グレイルさん、敵は《炎》属性の攻撃に圧倒的な耐性があります。ですから、わたしがフラメアちゃんに伝えた魔法でお願いします」
 エレオノーアがそう言うと、フラメアは頬を膨らませ、溜息を付きながら首を振った。
「……ちゃん? あのねぇ、あたしはアンタより遥かに長く生きてるお姉さんなんだけど」
「まぁ、見た目がそんな子供だから。いや、でも若く見られる分にはいいじゃないか、フラメア」
「あはは、そうね。そういうことね」
 エレオノーアは、グレイルとフラメアのやり取りを不可解そうな目で見つめている。そんな二人は呪文の詠唱を始めた。フラメアが告げる言葉をグレイルが繰り返す。
 
 陰黒(いんこく)の火精(サラマンダー)よ、
 我が呼び声に応え、
 煉獄の隠されし洞(ほら)より出でて、
 汝の力をこの指に宿らせよ。
 不滅の炎を黒曜の爪となし、
 我らの敵に
 禍毒の焔(かどくのほむら)を染み渡らせよ。
 
「中からしっかり料理してやる、《呪焔の毒爪(ブレネンデ・ギフトクラウエン)》!!」
 
 今度はマスターとパラディーヴァの声がぴったりと揃う。グレイルの人差し指に魔力が一瞬で集中し、その指先を向けられた四頭竜めがけて銃弾を撃つような動作をした後、解放された魔力の強烈な反動で、グレイルがよろめきながら後ずさりした。
「お……?」
 わずかな沈黙があった後、グレイルが首を傾げた。
「……何?」
 特に変化もなく空中に浮かんだままの御使いの竜を、フラメアもきょとんとした顔で見ている。炎属性の魔法らしい派手な爆発や、燃え盛る火焔が敵を一気に呑み込むような様子は何も起こらないからだ。
「はい、狙い通り、効いているのです。グレイルさん、フラメアちゃん」
 エレオノーアがそういって目を細めた瞬間、突然に竜が悶え苦しみ、その腹部に赤い《炎》の紋章が浮かび上がり、みるみるうちに大きくなっていった。
「この術は膨大な霊気を凝縮し、《炎》属性の銃弾のようにして敵に打ち込みます。弾は敵の内部で呪いの黒い炎を発し続け、相手の命が尽きるまで決して消えません。炎系のかなり珍しい暗黒魔法を私の《アーカイブ》から検索して、あなたの《パラディーヴァ》のフラメアちゃんに転送したのです」
「ケンサク? テンソウ? 何だか聞いたことない言葉だが。それに、この術、地味だけどな?」
 じきに元の状態に戻り、一見、特に深刻な攻撃を受けたようにもみえない御使いを前にして、グレイルが苦笑した。
「それでいいんです。神竜は《自然治癒(リジェネレーション)》の光魔法を常時発動している状態ですから、そのままでは、こちらが与えた傷をいつの間にか回復されてしまいます。そこで《呪焔の毒爪》を撃ち込んで、闇属性を帯びた炎のダメージを与え続ければ、リジェネレーションの効果を相殺できます」
「なるほど。じわじわと敵を焙り倒す、怖いわね。まぁ、あたしの好みは、もっと、こう、一撃でドカーンと……」
「でもさすがです、フラメアちゃん。鱗の比較的薄い竜のお腹を狙って、見事に直撃なのです!」
「だから、《ちゃん》じゃないってば」
 
 いつの間にか《炎》の組と打ち解けているエレオノーアは、即座に襟を正し、今度は彼女なりに真剣な眼差しでイアラに語り掛けた。また五芒星陣がゆっくり回転し、《水》の紋章を描いた頂点が12時の位置に来る。
「イアラさん、次の《水》属性の魔法が勝利のカギとなります」
「は、はい!?」
 やや慌てた調子で、声を裏返らせてイアラが返事をした。長身のアムニスに背後でしっかり支えられ、イアラが精神集中し、目を閉じる。
「どうしてかな。呪文が、言葉が浮かんでくる。いま私にできる一番の魔法を使う。アムニス、あなたの力を貸して」
「了解した。わが主イアラよ」
 アムニスが青い光となり、背中から彼女の中に溶け込んでいったように見えた。一瞬の静寂に続いて、イアラのオーラが爆発的に高まる。
 ――緊張……する。怖い。でも、私のこと、みんなが頼りにしてくれてる。なんとか、頑張り、たい。私がもって生まれた、《予め歪められた生》の呪いも……全部、凍り付かせて……やる。
「五柱星輪陣、《闇》の《水》!」
 《水》属性の一環である《氷》系魔法最上位の呪文のひとつを、イアラが唱え始めた。
 
 我は解き放つ水王の御蔵(すいおうのみくら)。
 目覚めよ概念の禁剣、封じられしグラキアルス。
 汝の極限の刃で
 繋ぎ止めよ、楔となりて。
 異界を渡り、
 死せる吐息を静かに歩ませよ。
 世界の脈動よ、停まれ。
 
 イアラの様々な思いが入り混じり、爆発した。それは彼女の中に鬱積した何かを解き放ったかのようでもあった。彼女のフードと髪が舞い上がり、右目に水の紋章が姿を現す。
「万物の営みを……零(ゼロ)に帰せ」
 露わになった左目の《竜眼》をイアラはもはや隠そうともせず、その燃えるように赤い瞳と、同じく竜である御使いの目が合った瞬間、彼女は叫んだ。
 
「《絶対零度(アブソリュート・ゼロ)!!》」
 
 閃光とともに、蒼ざめた色でゆらめく影が、剣のようなかたちをした何かが現れ,御使いの竜を刺し貫いた。突き刺さった刃から、竜の体表に沿って音もなく凍結が始まる。四頭竜は、体全体を焼け付くような高温にして氷結の進行を止めようとするも、静かに、だが確実に広がっていく氷の膜は、次第に厚みを増して氷塊となる。四頭竜の胴体は、たちまち氷の中に囚われた。
「やりましたね。すごいです、イアラさん! この魔法は魔力の制御が特に難しいのに。初めてで、これって……」
 エレオノーアが青い目を丸くして、イアラの方に手を振った。
「とても静かですが、こうしている間にも極低温の凍気が竜の体に浸透しています。内側では、グレイルさんの撃ち込んだ弾が炎を生み出し続けています。《闇》の力を付与された灼熱と冷気に次々とさらされ続け、竜の体はどんどん脆くなっていきます」
 極度の緊張から解けたイアラは、ようやく黙って手を振り、エレオノーアに応える。ふらつく彼女の肩をアムニスが受け止めた。常に怜悧な彼の表情に、刹那の笑顔が浮かんで消えた。
「わが主イアラ、よくやった。頑張ったな……」
 
 《絶対零度(アブソリュート・ゼロ)》で動きを封じられた御使いの竜に致命の一撃を与えるため、《地》の御子、アマリアがすでに魔法の準備に入っている。《地》の紋章が、五芒星陣の頂点でひときわ強く光を放った。
「イアラさんが戦いの流れを決めてくれました。いまです、アマリアさん! あなたの力で勝利を」
 手を合わせて、いや、思わず手を握って見守るエレオノーアをはじめ、御子たちがアマリアに期待を託す中、彼女は落ち着いた調子で呪文の詠唱に入る。
 エレオノーアの隣に立ちながら、ルキアンも《紅の魔女》の姿を食い入るように見つめた。
 ――やっぱり、僕たち他の御子と比べて、アマリアさん、術士としての経験が段違いだ。それに今のアマリアさんは本気だ。なんとなく分かる。
 ルキアンは小声で何事かをつぶやきつつ、別の何かを続けている。エレオノーアに耳打ちされた例の件だろうか。
 聞き覚えのある呪文がアマリアの口から紡がれる。
 
 大地にあまねく眠る元素を司る者たち、
 この地、かの地に棲まう精霊たちよ。
 我が呼び声に応え、地表に集いて帰らずの園を拓け。
 取り囲め、汝らの贄を狩れ、
 貫く万軍の槍、煌めく鉱石の梢、無限の結晶の森。
 
 ――今度は、最初のようには甘くないぞ。
 アマリアの右目に《地》の紋章が輝く。先ほど《永劫庭園》を使った際には無かった一節、この魔法の真の力を解き放つ呪文が付け加えられた。
 
 凍れる十月(とつき)の夜のもとで
 惨絶の門の戒めを解き、
 その狂える姿を現せ贖罪の庭園。
 
「五柱星輪陣、《闇》の《地》。《永劫庭園・弐(ツヴァイテ・シュトゥーフェ・デス・エーヴィゲン・ガルテンス)》」
 
「地獄へ、ようこそ」
 その言霊が向けられた相手を、心底から震わせるような、アマリアの冷たい声が響いた。
 
【続く】
 
 
 
 
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第57話(その2)水の御子、イアラ覚醒!

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物語の前史プロローグ

 


2.水の御子、イアラ覚醒!


 
◆  ◆
 
 ずっと暗闇の中にいた者にとっては、
 たとえ微かな光でも、それはあまりにも眩しく、
 抗し難い憧れをかき立てられずにはいられない。
 手の届いた光に恋焦がれ、
 私は追いかけるようにすがりついた。
 その光がどういうものか、確かめもせずに。
 
 イアラの部屋には窓が無いに等しい。窓はあるのだが、それが部屋の中と外の世界とを光で結びつけることは稀である。一日中閉ざされたカーテンの陰影をささやかに変化させながら、その向こうで朝に日が登り、夕に日が沈む。イアラは部屋から殆ど出ることがない。だが、そんな彼女も時々散歩に行きたくなることはある。たしかにそれは、夕暮れに近いほんのわずかな時間、庭の中を歩くだけにすぎないにせよ、トレーネア家の館の恵まれた庭園は、閉じた部屋に籠る彼女にとっては広大な野山にも等しかった。
 真昼の陽光はもちろん、今のような夕暮れの消えゆく残照のもとでさえも、それに当たり続けると溶けてしまうとでも言わんばかりに、庭を散策するイアラは物陰に隠れがちで、黒いヴェールをいつもより深めに被っている。しかし今日の彼女は、何かにそわそわする様子で、庭園の外れにある柵のところまで歩み出ている。それは彼女にとっては、小さくはない勇気の表れだ。
 
「今日も、会えましたね」
 遠慮がちに、わずかにだがイアラの声が弾んだ。
「明日も、頑張って、外に、出てみようかな」
 
 ◆
 
 なぜ私がいると皆の笑顔が凍り付くのか、
 なぜ私だけを置いてそこから離れてゆくのか。
 大人も子供も。父や母ですらも。
 私は、嫌われるようなことも、悪いことも、
 何もしていないのに。
 とても幼い頃、私には分からなかった。
 しかし、ほどなく理解した。
 私の存在自体が忌まわしく、否定されるべきものなのだと。
 私がどこに行こうとも、普通に生きようとしても、呪いは私自身に付いて回る。
 私は最初から、鍵のない見えない牢獄に囚われて生まれ、その中で生きていたのだ。
 この竜の左目が、醜い鱗が、私の人生も幸福も残らず喰らい尽くすのだろう。
 
 いつもならまだ薄明りの残る時。今日は生憎の雨模様で、ひと足早く夜が降りてきた。だが、降り続く雨を気にもかけず、イアラは傘を差して立ち続けていた。まるで心地よい陽光の中にたたずむように。
 
「今日は会えないと思っていました」
 喜びを抑えきれず、私は傘を投げ捨てて駆け出していた。
「本当ですか。こんな私でも、仲良くしてくれるのですか」
 
 ◆
 
 最初は偶然のように、それからは次第に偶然が必然になり、
 いつしか《彼》は、私に会いに来てくれるようになった。
 永劫の檻に囚われた醜い竜の眠り姫を、
 誰も助けようとせず、誰もがあざ笑い、
 それどころか存在すら忘却しようとしていた中、
 ただひとり、彼だけが呼び掛けを絶やさなかった。
 そして私は、差し出された手を信じて箱庭から飛び出した。
 何度か忍び会うたびに、初めて見る外の世界にふれるたびに
 私は自身が赦されていくような気がした。
 
 その幸せな時間が積み重ねられるほど、
 やがて来る絶望がいっそう深くなるとは、思うはずもなく。
 
 ◆
 
「ここ、は……?」
 頭が割れるように痛く、喉のあたりまで吐き気がよじ登ってきている。イアラは見知らぬ場所で目が覚めた。
 薄暗い倉庫のような場所。冷たい石造りの床に無意識に手を這わせると、苔や泥や、それから、こびりついた血の跡のようなものが、指の先にぼんやりと見えた。考えたくないことだが、おそらく、誰かに薬を盛られたのだろうとイアラは思った。
 意識がまだいくらか混濁していて、イアラは周りの様子をよく理解できない。足取りも定まらず、ふらふらと動いたとき、背中が鉄格子にぶつかった。掛けられた錠前が鈍く響き、絶望的な音がした。
「出してください! 誰か、誰か!!」
 イアラが悲鳴を上げると、奥の暗がりの方から二人の男が現れ、こちらに近づいてきた。一人は、でっぷりと腹の出た、よく肥えた猪のような中年の男だ。揺れるランプの明かりに照らされて見える彼の衣装にせよ装飾品にせよ、とても身なりが良いことはすぐに分かった。そのいでたちや雰囲気からして、おそらく、かなり位の高い貴族だろう。男は片目を開き、イアラを値踏みするように眺めると、無遠慮に言った。
「これが、失われた人竜の血を色濃く現した娘か。もっと化け物のような顔をしているのかと思っていた。これはこれで、相当の美形ではないか」
「はい。この間の出し物に飽き飽きしておられたお偉方やご婦人方も、次の秘密の夜会にはさぞや満足なさることでしょう」
 二人目の男がそう告げたとき、イアラは己の耳を疑った。いや、疑うというよりも、信じたくなかった。イアラが今の今まで愛しく思っていた、あの心地よい響き。その声の主である、小ざっぱりとした短い金髪の青年が、明らかに邪悪な笑みを浮かべている。見事に仕立てられた黒いフロックをまとって、いかにも貴公子然とした様子で立つ《彼》の姿ではあるが、身にまとう空気感が普段とは異なり――いや、これが本来の姿なのだろうが――世に疎い娘を惑わし、魂を魔界に引きずり込む妖魔の化身のようであった。
「なぜ……。なぜ、あなたが、ここにいるのですか!? どうして……」
 いまにも狂乱が溢れ出しそうな、目を剝き、青白く歪んだ表情で、イアラは何度も唇を震わせた。
 そんな彼女を《彼》は鼻で笑って、軽薄に気取った声で答える。
「なぜって、最初から君をここに連れてくるためにだよ。それにしても楽に騙せたな。いや、騙すためのあれこれも、ほとんど何もせずに済んだ。大体、君みたいな半魔や半獣の者は、心の奥で誰かに受け入れられることを切望しているから、上っ面だけの優しい言葉にも簡単に引っかかる」
「なぜ、こんなことを。お金の……ため、なのですか」
 イアラは、自身への慰めのようにそう言った。金のために、一時の迷いで《彼》の心がよこしまな方に流れたのであれば、まだあきらめがつくかもしれないと。《彼》が最初から悪しき人間ではなかったのだと。だが、《彼》は呆れたように大声で笑い、手を振って全否定する。
「金? 金なんか、もう飽き飽きするほど手にしている。僕はもっと高尚なのさ。君の今の顔が、その何もかも失ったような絶望の表情が見たかったんだよ!」
 この男は、どこぞの貴族の放蕩息子あたりだろうか、世俗にまみれた小悪党よりも遥かに厄介な、本質的にずっと悪魔に近い人間なのだろう。イアラはようやく理解した。否、直感したことを、とうとう受け入れた。これまで彼女に微笑みかけ、優しく扱い、温かい言葉をかけてきたのは、すべて偽りで、すべてが彼女という獲物を狩るためだったのだと。何か別の利益や別の快楽のためではなく、うら若い女性を地獄に堕とすそのような行い自体が、《彼》にとっては最高の遊戯であり、悦楽であるのだと。
 その間、もう一方の男が、恥も外聞も貴族の誇りすらも感じられない、どす黒い欲を露わにした顔つきでイアラを見つめている。
「生まれつき竜の血を色濃く現していなければ、今頃は幸せに過ごしていたであろうに、気の毒なことよ。それにしても《普通の人間》とはまた違う美しさも、時には良いものだな。この娘が亜人の魔物どもに弄ばれてどんな声で泣くのか、今から楽しみだ」
「《人間》であればたしかに気の毒です。でも《これ》は、しょせんは人の皮を被った《トカゲ》ですからね。それを襲うのが不潔なオークやゴブリンあたりですか。そんな魔物同士が交わる醜悪な様子をわざわざ大金を払って見物するなど、正直、何がよいのか理解できません。まぁ、僕には関係のない話ですが」
 イアラの人間性を全否定する《彼》の言葉が、彼女を奈落の底に突き落とした。もはや恐怖や嫌悪の情すらもほぼ浮かばないほどに、彼女の心は、その深奥に至るまで、ことごとく壊れてしまった。その後、イアラは間一髪のところでアムニスに救われたにせよ、彼女の心が元に戻ることはなかった。
 
 ◆ ◆
 
「イアラ、しっかりしろ、わが主イアラよ」
 本人の意思によらず、悪夢のようにこうして時折思い起こされる残酷な回想を、アムニスの力強い声が破った。虚ろな目をしたイアラを両腕で抱え、アムニスはかなり感情的になって彼女の肩を揺さぶっている。彼の長い髪の向こう、それでも呆然と宙を見つめる無反応なマスターに対し、とうとうアムニスは彼女の頬を張った。
「目を覚ませ!! 君が見るべきは、そんな過去じゃない。彼らとの未来だ。手を伸ばすんだ、イアラ」
 アムニスの精一杯の呼びかけに、イアラが突然に目を見開き、彼の名を呼んだ。
「アムニス!」
 彼の名を口にすると同時に、イアラの目から無意識に涙があふれ出た。
 
 ――届いてください! みんなが待っています、イアラさん。聞こえていますか、エレオノーアです。もしもし!!
 エレオノーアの心の声が再び響いてきた。それは騒々しいほどだったが、アマリアが仲間すべての想いをエレオノーアに委ね、支配結界の中から彼女とイアラとをつないでいるのだ。大きな賭けだった。しかし《紅の魔女》アマリアの直感は、その賭けが最善の方に転がると見抜いていた。
 ――この手を取ってください。あなたの居場所は、きっと、ここなのです。
 思い描いた幻影の中で、イアラは、エレオノーアの手がいま、そこまで届いたような気がした。その感覚通り、エレオノーアの声が胸の奥に浸透してくる。
 ――やりました! イアラさん、つかまえたのです。もう離しませんよ。
 ――エレオノーア……。
 互いに精神を一部共有し、幻視し合う中、イアラとエレオノーアが手を取り合い、空に舞い上がるイメージが浮かんだ。そして彼女たちの想いに応ずるかのように魔力の激流が迸り、空間を超えて二人の間をつなぐ。時を同じくして、イアラの背後に《ダアスの目》が悠然と姿を現し、彼女を見おろすようにゆっくりと瞼が開いた。
 そのときイアラの視界は《ダアスの目》とひとつになった。そして彼女の瞳に映ったものは。
 ――私には分かる。これが《深淵》。遠い昔にも見たことがある。魂の一番深いところに刻まれた記憶。何度か、この目に焼き付けたことがある。
 そのことを思い出したとき、イアラの中に多くの異なる人間の記憶が、想いが、次々と溢れた。見知らぬはずの、しかし知っている者たちの姿が次第に鮮明になっていく。
 乙姫のような衣装の、あるいは仙女を思わせる衣をまとった背の高い女性が、細長いショールのような布をなびかせて立っている。彼女は空色の髪を頭上で二つの輪に結い、さらに左右にふんわりと下ろし、思慮深くも厳しい眼差しでイアラの方を見ていた。その背後には、濃紺のフードと長衣をまとった、どことなく呪術師や祈祷師を思わせる一団が付き従っている。だが、奇妙な違和感があって、彼らには生きているものの気配がなぜか感じられなかった。
 続いて見えてきたのは、ルキアンと同じくらいの年頃の、黒髪の少年だった。彼は、その年には不似合いなほど何かを悟ったような表情をしており、そのくせ、いたずらっ子のような「悪ガキ」感も、その眼にときおり浮かべる。簡素な灰色のローブをまとい、手には杖を握っている姿から見て、おそらく魔道士か何かだろうか。ただ、よく見ると彼の周囲に三つ、四つ、ほのかに明滅する光が浮かんでおり、それらは明らかに意思をもった動きで遊んでいた。そう、彼は精霊使いだ。
 ほかにも数名の影が浮かんだものの、姿かたちが曖昧でよく分からなかった。
 ――困ったな。御子の魂の記憶、あなたたちの想いを真っすぐに継げるほど、私は、強くないもん。でも、分かるよ。辛いのは、私ひとりじゃ、なかったって。
 紋章を浮かべたイアラの右目、そして左の《竜眼》からも、はからずも涙が流れた。
 ――当たり前のことだよね。でも、苦しすぎて、そんな簡単なことも、分からなかったんだもん。だけど、私は……。
 イアラの背中から、何匹もの大蛇のようにうねる青いオーラが立ち昇り、彼女の体を覆い隠すほどに力強く、濃く、そして渦を巻いて広がっていく。
 
  私は水の御子。
  大海を統べ、凍った山々を眠りにいざない、恵みの雨を呼び地を満たす者。
  世を潤す大河から小さなせせらぎまで、見守り、導き、
  緑を支え、花を咲かせ、万物の命の源となる水を司る者。
  水は優しく、穏やかに、あらゆるものの形に寄り添って流れる。
 
 ――けれど、怒れる水の力は、すべてのものを吞み込み、打ち砕く。見るがいい。《あれ》の御使いよ。
 
 イアラの右目に澄んだ青い光が浮かび、遠い古の文字や記号で埋め尽くされた魔法円、《水の紋章》を瞳に描き、目映く輝かせる。
 
 ――よくやった、エレオノーア。本当に君は……毎回、私の予想を超えてくる。これでイアラの《紋章回路(クライス)》が起動し、《通廊》も開いたぞ。
 アマリアが頷き、先ほどまでの戦いの中では聞かれなかった安堵の声を上げる。
 ――イアラとアムニスの思念体をここに召喚する。皆、それぞれの位置につけ。五柱が揃う。
 彼女は紅色のケープを翻し、杖を高々と掲げた。これを合図に、既に描かれていた五芒星陣が改めて青白く輝き、いっそう輝きを増してゆく。そしてアマリアが強く念じると、残りひとつだけ空いていた五芒星の頂点に魔力が集まり始め、光となって、輝く扉の形を取り始めた。
 光の扉、その向こうから感じられるあまりにも大きい魔力に、カリオスは思わず寒気を覚えた。
「この感じ、何かとてつもない力が近づいてくる」
 御子たちの中でも、まだ魔法の世界に通じていない彼ですら、露骨に実感するほどの膨大な魔力だった。宙にふわりと浮き、カリオスの肩に乗るようにしてテュフォンが言う。
「来たね、マスター。最後の者たち、水の御子とパラディーヴァが。火を吐く竜相手に、《水》属性の彼らが来たのは心強いよ」
 あどけない少年の顔つきで、テュフォンは微笑を浮かべている。一方、その眼は鋭い光を帯びて四頭竜をとらえていた。
「それは御使いの方もよく分かっているみたいだけど……何としてでも止めに来るかな?」
「いや、ルキアンが全力で放った《天轟(イーラ)》の直撃を受け、あの竜は、単純な再生能力では回復しきれないほどの深手を負っている。そんなふうに見えるが」
 細長い目をさらに狭めて、カリオスが首を傾げた。御子としては未熟であるとはいえ、ギルド最強のエクターだ。いまだ経験したことのない、人知を超えた力がぶつかり合うこの戦いの中でも、カリオスは細部まで敵の様子を把握していた。そのつもりだったが、彼の表情が微妙に変化する。
「あんな状態でも攻撃に出ることを強いられるほど、《水》属性の御子の到来は、《炎》属性をもった火竜にとって脅威だということか」
「ご明察。そのくらい、相性が悪い」
 テュフォンの気楽な口調は、この戦いをまるで他人事だと思っているようにも聞こえる。もちろん、そんなつもりはないのだろうが。
「かといって、《炎》属性ではなく御使い本来の《光》属性の力に頼っても、エレオノーアとこれまた相性が悪い。《光》属性は防御や回復に絶対的な強みがあっても、攻撃する側に立ったときに決め手になるような力には、いまいち欠けるからね。エレオノーアのように《闇》属性かつ防御や支援に長けた相手がいると、意外に攻めあぐねる。どっちにしても、ほら、魔法がくるよ」
 緩やかに落下し始めていた神竜が再び浮き上がり、急激に魔力を集中させる。四頭竜の背後に火の玉が浮かび、時計回りにひとつ、ふたつ、と円を描くように増えていく。そしてひと回りするとすべての火球がつながり、後光のように眩く輝き、微かに目に映る灼熱の火炎が突風のごとき勢いで周囲に広がった。
「やばいって、どんどん桁が上がっていってる、あの温度!! マスター、とっとと後ろに隠れなさいよ。あたしも知らない超級火炎呪文、失われた竜の英知の一部。気を抜いていると、大火傷くらいじゃ済まないからね」
 《炎》属性のパラディーヴァのフラメアすら慌てさせるほど、超高温の魔法を、御使いが放とうとしている。グレイルはあっさりとフラメアの背後に回っていた。逃げ足は素早い。
「わりぃな、そうさせてもらった。だが、この気味の悪い音、いや、声は何なんだ?」
 幾重にも連なる枯れた声で、これまで聞いたことのない、未知の言葉らしき一連の音が轟く。それは詠唱、時の彼方に忘れられた竜の英知に属する言語体系。竜の胴体が立ち上がり、四つの頭が同時に口を開き、四本の首で猛火を絡め取り、握りしめるようにして巨大な火球を作り出していく。
 
「燃え尽きよ、愚かな人間ども……。《炎帝(イムペラートル・イグニス)》」
 
 炎を司る神帝の鉄槌が、天に背いた人の子たちに振り下ろされようとしたそのとき、信じ難い光景が御子たちの前で繰り広げられた。
 
 《海が落ちてきた》
 
 そうとしか表現できない。突然に目の前で大海が波打ち、荒れ狂った。だがその莫大な水量は、何もない空から轟々となだれ落ちてきたのだ。嵐の海は、多数の巨大な水柱となって天空まで貫き、そして再び、地の果ての大滝を思わせる勢いで海面を叩きつける。この海原自体がひとつの生き物のようだ。想像を絶するその水量と水圧に阻まれ、御使いの竜の放った灼熱の大火球は、大洋をも干上がらせそうな勢いで周囲の水を爆発的に気化させながらも、次第に小さくなり、波に飲まれ、最後には跡形もなく消失した。
「今のは、ただの膨大な水。それを操っただけ。魔法ですらない」
 無感情につぶやく声とともに、揺れる水の翼を広げた黒いドレスの人影が、御子たちの上空に姿を現した。
「来てくれたのですね、イアラさん!!」
 イアラの思念体が支配結界の中に現れたことに、エレオノーアが思わず声を上げる。それが聞こえているのかいないのか、イアラは右目を見開き、水の紋章が輝きを強める。彼女の背中で水の翼が大きく広がり、霧を伴いながら逆巻く水流の尾を幾筋も従え、神々しく羽ばたき始めた。その間に一瞬で解放され、劇的に増大したイアラの底なしの霊気を前にして、エレオノーアは思わず退き、後ろにいたルキアンの足を踏みつけてしまった。
「ごめんなさい、おにいさん! でも、ちょっとこれは……イアラさん、怖いくらいの魔力量です」
「たしかに。あの《ディセマの海》の、深海の淵と向き合ったときみたいだ」
 エレオノーアの背中を支えながら、ルキアンも息を吞んだ。
 イアラは上空に浮かんだまま、隣にアムニスを従え、無言でアマリアを見つめる。アマリアも黙って頷いた。直後、うって変わってアマリアは、よく通る低めの声で告げる。
「五柱の御子たちよ、我らが同じ時代に揃うのは本来起こりえないこと。だが《聖体降喚(ロード)》によって……皆、言いたいことは色々あるだろうが……世界を統べる《あれ》の《節理》から外れた闇の御子が生まれ、《永劫の円環》の呪いは瓦解した。紡ぎ直された因果の糸を、確定した事実とするために、御使いの化身をここで必ず仕留める」
 アマリアはルキアンと目を合わせ、彼に役割を引き渡した。
「今回の《星輪陣》では、君が《軸》となれ。ルキアン・ディ・シーマー。天に連なる《光》属性の御使いを倒すためには、《闇》属性の力が不可欠だ」
 五芒星のそれぞれの頂点に各属性の御子とパラディーヴァが立ち、そして星型の真ん中、最上部の頂点に、ルキアンとエレオノーアが手をつないで立った。
「どこまでもお供します。わたしのおにいさん」
「一緒に、みんなで帰ろう。宿命を超えて」
 全員の力が十分に高まり、心がひとつになっていくのをはっきりと感じつつ、ルキアンは口を開いた。彼に続いて、エレオノーア、そして残りの御子たちも言葉を継いでいく。
 
「我が名はルキアン、我が名はエレオノーア、共に闇を司る御子なり」
「我が名はグレイル、炎を司る御子なり」
「我が名はカリオス、風を司る御子なり」
「我が名はアマリア、地を司る御子なり」
 
 最後に、自らに言い聞かせるように、彼女は覚悟を決めて言った。
 
「我が名はイアラ、水を司る御子なり」
 
 五属性・六人の御子たちの声がひとつになる。
 
 我ら、御子の名において《通廊》を懸け、
 《対なる力》に至る《深淵》への扉を開かん。
 根源の御柱(みはしら)のもとに、五つの星に導かれ、
 予め記された終焉の一瞬に向けて、
 回れ、刻め、
 
 《五柱星輪陣(ペンタグランマ・アポストロールム)》!!
 
【続く】
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第57話(その1)二人の闇の御子、猛攻!!

目次これまでのあらすじ | 登場人物 鏡海亭について
物語の前史プロローグ

 


 
簡単じゃないですか。あなたとわたしは同じだからです。
《予め歪められた生》の苦しみを知っている、同じ光を瞳に宿した仲間だからなのです。
 
   闇の御子 エレオノーア・デン・ヘルマレイア
 

1.二人の闇の御子、猛攻!!


 
「イアラがまだ来ないとしても、私は今できることをやり遂げなければならない。それは、エレオノーアが切り開いてくれた好機を確実に活かすことだ」
 この場面を逃さずアマリアが動いた。
「フォリオム、久しぶりに《複唱》するぞ。もう、この土地の霊脈が枯れるなどと気遣っている場合ではない」
「心得た、我が主よ。《地母神の宴の園》も全面展開じゃな」
 アマリアが呪文を唱え始めると、隣に立ったフォリオムも別の呪文を紡ぎ出す。一見すると、二人並んでそれぞれが魔法を使おうとしているように感じられる。だが、彼らの様子を見ていたテュフォンが、思い出したかのように口にした。
「前に聞いたことがある。あれは、《紅の魔女》アマリアの詠唱術のひとつ。自身で呪文を唱えつつ、パラディーヴァの体にも憑依して、別の呪文を並行して唱える。彼女にしか使えない地属性の超級魔法の、同時詠唱……」
 一方では、声の高低や抑揚の変化に乏しい、地鳴りを思わせる口調でアマリアが精霊たちに呼びかける。
「慈悲深き大地よ、豊穣の女主人(ドミナ)の一群よ、その恵みを我らに分け与えたまえ。木々の宿り主(ドライアード)、森の精たちと共に、地の底より汲み上げし生命の力を……」
 
「《聖苑の門(トーア・ツム・ハイリゲン・ヴァルト)》」
 
 そっとささやくように、彼女が静かに呪文を唱え終わると、御子たちの足元が淡い緑の光に包まれる。そこから、黄金色に輝く植物が無数に芽吹き、蔓を伸ばしてたちまち成長して、彼らの姿を覆い隠すほどの丈になっていく。
「これは? この暖かく染み渡る感じは……。アマリアさん、ありがとうございます」
 天上の花園のような、金の蔓草とそこに開いた同じく黄金の花々の中で、ルキアンは体中に満ちていく力に思わず身震いした。立っているだけでも精一杯であった数秒前の彼の姿は、そこにはもはや無い。
 ――やりましたね、おにいさん完全回復です!!
 ルキアンの復活にエレオノーアも勇気づけられ、彼女の歌声にさらに磨きがかかる。少女の中で目覚め始めた、ルチアより受け継がれし《歌い手》の本性が紡ぎ出す、その音魂(おとだま)の防壁は、いまや御使いの竜の呪歌を上回り始めるほどに、戦いのさなかにも刻々と効果を高めている。
 ぐったりとした様子でグレイルに抱えられていたフラメアにも、劇的な変化が起こった。すべての傷が癒えるとともに、燃えるような活力が体に漲っているのを彼女は感じていた。
「来た来た来た、無限に魔力を供給する《地母神の宴の園》は、回復魔法と相性がいい。どうだ、私たちは、倒れても倒れても立ち上がる《不死者(アンデッド)》同然よ!」
「アンデッドって……あんまり、嬉しくないたとえだがな。これでまた戦えるぞ」
 アマリアは自らの詠唱で癒しの魔法を完成させる一方、フォリオムの口を借りて別の呪文を唱えていた。こちらの呪文は軽快で、小人たちが気ままに飛び跳ねるような個性豊かなリズムをもっている。
「目覚めよ、地の底深き坑道に眠る精たちよ。我、振る舞うは蟒蛇(うわばみ)たちの美酒。呑めよ、歌えよ。隠されし聖なる銀鉱、掘り起こし、鍛えて放て、魔銀のゴーレム」
 
「いでよ《白銀の巨像(コロッスス・アルゲンテウス)》、エレオノーアを護れ!!」
 
 指先で宙に文字を書くような仕草をアマリアが素早く3回繰り返すと、青い光で描かれた円形の魔法陣が、地面に一つ、二つ、そして三つと次々に浮かび上がり、それぞれの円陣から巨体をもった何かがせり上がってくる。
 ――え、え、えぇ!? こ、これ、何ですか?
 あっという間に、そびえ立つ塔のような巨人たちに取り巻かれたエレオノーアは、それが味方の魔法によるものであることを知りつつも、恐る恐る見回している。魔法で創造され、術者の命によって動く巨像、ゴーレム。通常、ゴーレムは土や石でできていることが多く、見た目も、ただ大きいだけの簡素な土人形のようだ。だが、ここに呼び出されたのは、銀色の金属でできた巨像であり、しかも重騎士さながらに頭からつま先まで、本体と同じ材質の鎧や兜に身を固め、さらに剣をも携えている。
 消耗した仲間たちを全回復しつつ、アマリアが同時に狙っていたこと。戦いの要となるエレオノーアを鉄壁の守りで保護するために、神秘の鉱石・聖魔銀から錬成された神話級のゴーレムを、彼女は一度に三体も創造したのだ。
 ルチア譲りの《歌い手》の能力を発揮し始め、戦いの流れを変えようとしつつあるエレオノーアを、御使いの竜は直ちに目ざとく狙ってきた。アマリアの読み通りである。四頭竜の首の一本が、その大きさに似合わぬ素早い動きでエレオノーアに迫る。そこに《白銀の巨像》が立ちはだかり、竜の首を掴んで引き倒そうとする。巨像の重量をものともせず、跳ね飛ばす神竜。だが、失われた時代の魔法金属の頂点《オリハルコン》にも匹敵するという堅牢無比、かつ、あらゆる魔法に耐性のある体をもった《白銀の巨像》は、こうした肉弾戦では絶大な力を発揮する。それが三体も立ちふさがるのを突破してエレオノーアを襲うことは、さすがの神竜にとっても簡単ではない。
 なおかつ、巨像との戦いに注力しすぎたために、四頭竜は小さな人の子たちのことを侮って――御子たちに不用意に接近し過ぎたのである。歌い続け、守られながらも、御使いのその隙をエレオノーアは見逃さなかった。
「今です、おにい、さん!!」
 エレオノーアが叫ぶと同時に、それに応えるようにルキアンも声を上げ、両手を高く掲げたかと思うと、目の前にいる四頭竜の固い外皮に向かって手のひらを叩きつけた。
「ルカさんが言ってたこと、《死霊術師との戦いでは、触れられないよう気をつけろ》!」
 ルキアンの両掌が神竜に密着し、竜の体を取り巻く不可視の防御壁のようなものとの間で、激しく火花を散らす。渦巻き状の黒い影がルキアンの手のひらから広がり、見る見る大きくなって壁を押し込むように膨らんでいく。ルキアンが魔力を右掌に集中し、左手を添えて右手首を支える。気合とともに彼の右掌が輝き、竜の肌を覆う防壁に闇の紋章が描かれ、広がり、刻印のごとく深々と刻み込まれた。防壁にひびが入り、そこから四方に伝わって、粉々になって砕けた。
 
「ルカさんの記憶が教えてくれた。魂から、奪い取れ、《エナジー・ドレイン》!!」
 
 さらに押し込まれたルキアンの掌が、神竜に密着し、生命力や魔法力を恐ろしい勢いで吸収し始めた。それに比例してルキアンの力が急速に増大していく。ゼロ距離での接触を必要とする能力であるため、強敵相手にそう簡単には使えない。だが成功すれば、敵にただダメージを与えるのみではなく、ダメージを与えた分だけ体力や魔力の最大値そのものまで削り取り、引き下げる。
「あれは、単純なドレインじゃない。高位の不死者(アンデッド)のみが、たとえば吸血鬼の始祖君主(バンパイア・ロード)や不死の魔道練達者(リッチ)がやっと使えるような、《レベル・ドレイン》では? 闇の御子は、生身の人間なのにそれを操るのか。どうなってるんだ、めちゃくちゃじゃないか!」
 仮にも魔道士の端くれであるばかりか、かつて魔道学院で学び、魔法理論にもそれなりに詳しいグレイルは、ルキアンの力、いや、《真の闇の御子》の力を正しく理解していた。
「いや、あたしってば、相手選ばず喧嘩売っちゃったかな……」
 一方的にルキアンに難癖をつけたことを思い出し、苦笑するフラメア。
 ルキアンのエナジー・ドレインが四頭竜に対して目に見える効果を発揮したのを受け、エレオノーアが間髪入れずに次の行動に移った。
「おにいさん。私たちの怒りを、見せてやるのです!」
 エレオノーアの姿が揺らぎ、荒い粒子で描かれた映像のように見えたかと思うと、また大きく揺れて、一瞬、尼僧のような黒い衣をまとった外観になる。そしてまた元に戻り……それが繰り返された。エレオノーアの歌声が徐々に高らかになる中で、彼女に何か変化が起こっているようだ。
「あれは……」
 二つの高位魔法を無事に発動させたアマリアが、一息もつかないまま、エレオノーアのいでたちを見て声を上げた。
「まさか、闇の御子の《固有外装》だと? 彼女の魔力が急激に上昇していく!」
 その一方、エレオノーアに生じた変化を自らも感じ取った四頭竜、その複数の頭が目を光らせ、怒りの形相で歌声を大きくした。途方もない魔力のこもった歌が怒涛の如く押し寄せてくる。
 ――うるさいのです。
 エレオノーアが大きく両手を広げ、目を閉じて一声唱えると、《天使の詠歌(エンゲルス・リート)》の力はたちまち霧散する。あとかたもなく消滅したのだ。
 ――もう二度と、ここで天使の声が響くことはありません。ルチアさんの想いと、メルキアさんの生成って(つくって)くれた歌が、私を支えてくれているのです。
 エレオノーアは、場違いなほど心地よさそうに歌い始めた。
 ――押し返します。今度は逆にこっちから、向こうの領域を浸食していきますよ。
 いつの間にか、丈の短い黒い僧衣を身に着け、これと一体となった黒頭巾を被り、エレオノーアがふわりと宙に浮いた。彼女の背中には、例の蝶の羽根のような形をとったオーラが青白く輝き、夢幻のごとく羽ばたいている。
「浮かんだ!? な、なんなのよ、あれ」
 まさに蝶のように舞うエレオノーアを見て、フラメアが怪訝そうにグレイルと顔を見合わせた。そこにエレオノーアが慌てて奇妙な警告をする。ただ、彼女の声自体は真剣だ。
「みなさん、念のため、耳、閉じてください! み、耳っ!!」
 
「《死仙の憤怒(ツォルン・デア・トーデスフェー)》」
 
 ひとたび深呼吸した後、エレオノーアが腹の底から耳をつんざくような高い声を発する。彼女の声は《天使の詠歌》を切り裂く一閃の刃であり、まさに音速で御使いの竜に到達した。目で確認できる物理的な傷はつけていないにもかかわらず、雷に打たれたかのごとく、竜の巨体、全身が震え、その直後、わずかな時間だが麻痺したように引きつった。
「魔法耐性では防げない、闇属性の呪歌です。効かないはずがありません! 固まってる間に、もう一回撃つのです!!」
 死を呼ぶ精の歌を、闇の世界から迷い出たバンシーの叫びを、エレオノーアが繰り返す。堅固なドラゴンに対し、物理的な破壊を主とする類の魔法はたしかに効果が薄いだろう。だが、エレオノーアの呪歌による精神攻撃や、生命力や魔力を直接吸い取るルキアンのエナジー・ドレインに対しては、ドラゴンの誇る鋼の鱗の防御力も意味をなさない。彼らの攻撃は確実に効いている。
 二人の闇の御子による猛攻に、アマリアは己の目を疑った。魔力の使い手の力を彼女が読み誤ることなど、普通は無いのだが。しかしこれは、嬉しい誤算だ。
「勝てる……勝てるぞ。このまま《星輪陣》で攻め落とせば。イアラ、アムニス、頼む!!」
 なおもアマリアの呼び声に応えない水の御子イアラ。ところが、そんなアマリアのところに、エレオノーアからの心の声が響いてきた。
 
 ――イアラさん、でしたか? あの、イアラさん。返事してください。
 
 相手に聞こえているのかどうなのかも分からないまま、真剣に話しかけるエレオノーア。仕方なさそうにアマリアが苦笑いする。
 ――そうか、この娘に賭けてみるか。
 いわば結界内と外界とを結ぶ中継アンテナのような役割を果たしているアマリアは、エレオノーアの言葉がアムニスを介してイアラに伝わるよう、うまく手配をした。
 ――すごいです、見えていますよ! はじめまして、イアラさん。アムニスさん。あ、わたしはですね、エレオノーアという者です。おにいさん、いや、ルキアン・ディ・シーマーと一緒に、闇の御子、やらせていただいてます。
 どうやら、声だけではなく姿までも、エレオノーアとイアラたちの間で鮮明なイメージとして互いに伝わっているようだ。
 多彩かつ何に関しても常識を超えるアマリアの能力に、エレオノーアは驚きつつ、とても素直にイアラに話しかけている。
 ――イアラさん、時間がありません。お願いします。一緒に戦ってください。あなたの力が必要なのです。
 だが彼女の言葉も空しく、無言を通すイアラ。
 一息、口を閉じた後、エレオノーアは何の飾りもひねりもなく、ただ真正面から告げる。
 ――私みたいなお子様に指摘されるの、腹が立つかもしれませんけど……。イアラさん、はっきり言って、ひとつ間違っています。
 そしてエレオノーアは、とんでもないことを言ってのけた。
 
 ――《この世界》のために、《みんな》のために戦えなんて、誰もあなたに言っていませんよ?
 
 彼女の言葉に対し、無感情だったイアラの瞳に精神の揺らめきがはっきりと生じたのは、そのときだった。そこにエレオノーアの想いが堰を切ったように流れ込んでくる。
 ――わたしだって、別にみんなのために戦ってるわけじゃないです。でもわたし、絶対に勝ちたいんです!  あの竜に。そして、生まれもった宿命に。わたし自身に。こう見えてもわたしはですね、会ったことすらない誰かの亡骸と、天から降ってきた《聖体》というものから創られた、わけのわからない存在なのです。わたしは人間じゃないかもしれないですし、実は死んだままなのかもしれないですし、本当は、どこにもいないのかもしれないです。
 ――だけど、わたしが誰なのか、何なのかなんて、関係ないのです。わたしとちゃんと向き合ってくれる人にとっては、いま、目の前にいるわたしが問題なのだと。もし、わたしの本性が、実際には動く死体であろうと、魂のないぬけがらであろうと、悪魔の化身だろうと、ただの幻だろうと、それでもエレオノーアはエレオノーアなのだと。わたしのおにいさんは、きっとそうやって受け入れてくれていると思います。
 
 ――そして、わたしも、おそらく他の御子の皆さんも、あなたのことを同じように想っています。イアラさん。
 
 ――どうして。どうして私なんかのことを、そんなに……。
 初めて口を開いたイアラに対し、エレオノーアは少し怒りも交えた声で即答する。
 ――《なんか》じゃないですよ、イアラさん。簡単じゃないですか。あなたとわたしは同じだからです。《予め歪められた生》の苦しみを知っている、同じ光を瞳に宿した仲間だからなのです。
 エレオノーアの言葉に驚いたのか、感極まったのか、イアラは返答できず、頭を抱えて床に擦り付けるように、大きく俯いた。
 
 ――イアラさん。こうしている間に、おにいさんが力を溜めたようです。わたしたちの本気、見てくれますか。わたしたちの想いの強さを、この想いに嘘がないことを。
 確信に満ちた声で、エレオノーアが堂々と告げた。
 ――想いの力は、神竜の鋼鱗すら貫くのです。そして、わたしたちの戦いは……。
 エレオノーアの言葉をそこで継いだのは、イアラの隣に立つ水のパラディーヴァ・アムニスだった。
 
 その戦いは、まず自分自身のために。
 宿命を乗り越えて先に進むために。
 そして、同じ光を瞳に宿した者たちのために。
 
 イアラに寄り添っていたアムニスが、彼女の肩にそっと手を置いて告げる。
「わが主、イアラよ。ここで一歩踏み出すことは、止まっていた時間を超えて君自身が未来へと歩き出すこと。いま、共に手を取り合える仲間たちを守れなければ、君が心の奥で望んだ未来に続く扉は、永遠に閉ざされるだろう」
 エレオノーアもルキアンの背後に立ち、彼の両肩を左右の手で優しく抱いた。
「おにいさん。魂の記憶。覚えてますよね。御子が御子たる所以……人が人でないものと戦うための力、御子の怒り、人の子に与えられた《神に仇なし得る》力」
 エレオノーアの言葉の後、ただならぬ何かをグレイルが感知したらしい。
「な、何なんだ、この容赦なくヤバい魔力は?」
「に、に、逃げるところないわよ」
 おっかなびっくり互いにしがみつくグレイルとフラメアの声をよそに、ルキアンが、漆黒の髪と瞳、二つの闇の紋章をすべて発現させ、両手を高く掲げて構える。
 ――全力で撃つ。二つの紋章を同時に発動させれば、その力に飲み込まれてしまわないか心配だけど……今は隣にエレオノーアが一緒にいてくれる。できる気がする。
 彼の手の間に、白熱する光の玉が浮かび上がり、次第に大きさを増す。ひと抱えもあるほどの大きさになった光球の前方に、空中に闇の紋章が大きく描かれ、その先にまたひとつ描かれ、さらに増え、御使いの方に向かって連なってゆく。
「闇の力を……わたしの……おにいさんの……わたしたちの、闇の力を思い知れ!」
 エレオノーアの声に続いて、彼女とルキアンは二人で叫んだ。
 怒れる御子の力、その真の名前を。
 
「《天轟(イーラ)》!!」
 
 すべてが白い世界につつまれ、何も見えなくなる。視界が元に戻った後、何度か立て続けに閃光が広がり、御使いの竜が呻く、大地を揺るがすような苦痛にまみれた咆哮が初めて聞こえた。高熱で溶けたような大穴が開き、四頭竜の首の付け根一帯が吹き飛んでいる。御使いの姿勢が大きく乱れ、もはや体制を維持できず、横倒しに崩れ落ちた。
 
 その決定的な瞬間をとらえ、アマリアが叫ぶ。
「とどめだ、御使いに《絶対状態転移》させる余裕を与えるな! いまこそ《星輪陣》のもと、五柱の力を、想いをひとつに。イアラ、頼む!!」
 
【続く】
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