鏡海亭 Kagami-Tei  ネット小説黎明期から続く、生きた化石?

孤独と絆、感傷と熱き血の幻想小説 A L P H E L I O N(アルフェリオン)

・画像生成AIのHolara、DALL-E3と合作しています。

・第58話「千古の商都とレマリアの道」(その5・完)更新! 2024/06/24

 

拓きたい未来を夢見ているのなら、ここで想いの力を見せてみよ、

ルキアン、いまだ咲かぬ銀のいばら!

小説目次 最新(第58)話 あらすじ 登場人物 15分で分かるアルフェリオン

第54話(その5・完) その想いで、道を切り開け!

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第54話 その5
 
 《地》の御子・アマリアの姿をそのまま写した思念体は、ゆらゆらと陽炎のように揺らめきながらも、虚ろな者とは思えない圧倒的な存在感でもってルキアンに語りかける。
「手を出せ、ルキアン・ディ・シーマー」
「は、はい……」
 ルキアンが恐る恐る右手を差し出すと、その上にアマリアは手を重ね、何か一言つぶやいた。実体のない手で触れられても直接的な感触はない。だが、ルキアンは掌から体中の血管の隅々に至るまで何かを送り込まれたような感覚に陥り、思わず寒気を覚え、次いで爪先から頭頂に至るまで電気が走ったかのごとく身体を固くした。そして最後に、掌の中心部に焼けつく痛みを感じる。
 ――おにいさん! 大丈夫ですか?
 ルキアンの肩にとまっていた黒と銀の蝶は――すなわち、エレオノーアの心が彼の支配結界《無限闇》の力で具現化され、結界内にとどめられた姿は――驚いたように羽根をばたつかせている。
「これは?」
 火傷に似た感覚がまだわずかに残る手のひらを、ルキアンが見つめる。麦の穂を思わせる黒い紋章が浮かび上がっていた。
「《豊穣の便り》の刻印だ。私が支配結界《地母神の宴の園》を通じて大地から吸収する魔力は、この刻印を持つ者にもいくらかは送られ続ける。楽になっただろう?」
 そう告げたアマリアの言葉ひとつひとつから、ルキアンはいわば「言霊」のような不思議な重みを感じつつ、驚いて指を何度も開いたり閉じたりしている。
「本当です! すごい……。ありがとうございます」
 失神寸前だったはずのルキアンの体中に、普段以上に力がみなぎり、朦朧としていた頭の中も心地よく澄みわたっている。背後に果てしなく広がる《ディセマの海》の水面を見据えながら、彼は、この不気味に黒々とした《虚海》に対し、今ならば立ち向かえるという自信めいたものを実感するのだった。
「闇の御子よ、君とは初めて会うという気がしないが、一応、初めてお目にかかる、と言うべきじゃな」
 アマリアの隣に、いつの間にか地面から生えてきたような、一切の気配を悟らせずに現れた者がいる。緑色の着古したローブをまとい、同じく緑色のよれよれの帽子を被った老人の姿をしたそれは、いったい幾百の年を生きたのだろうかと思わせる長い白髭を風に揺らしながら、ルキアンに語りかけてきた。
 ――この人も、パラディーヴァ……なのかな? リューヌと同じような雰囲気を感じる。
 ――そうじゃよ。地のパラディーヴァ、フォリオムと申す。以後よろしく、我らが盟主よ。
 パラディーヴァと相対したときには、向こうにその気があればこちらの心の中が筒抜けになってしまうということを思い出し、ルキアンは複雑な面持ちになった。
「いや、悪かった。契約を交わしていない者の心を勝手に覗いてしまって。わしには、わが主(マスター)と違って趣味はないからの。その、のぞきの……」
 アマリアに無言で睨まれ、フォリオムは慌てて口を閉じた。
「の、のぞきって、どういう……?」
 不可解そうに首を傾げたルキアンは、フォリオムを睨んだアマリアの目に途方もない恐怖を感じ、万が一にも、あの眼差しが自分に向けられたらどうであろうかと、苦笑いをするのだった。
 ――もう、お爺さん! おにいさんの頭の中を勝手に覗かないでください。は、恥ずかしいじゃないですか。
 ――はて。本人はともかく、そこの蝶々さんが何故にそんなに恥ずかしがるのかの。
 そしてエレオノーアとフォリオムの間で、いまそんな滑稽な念話がやり取りされたことも、ルキアンは知らないのだった。
「さぁ、二人の闇の御子よ。ディセマの深海の底にまで進み、為すべきことを為すのだ」
 アマリアが威厳のある調子で語る。もしここが、全てが沈黙し凍り付いた《虚海ディセマ》ではなく、燦々と陽の光の満ちるごくありふれた海岸だったなら、彼女の金の髪はさぞ好ましく風になびいたのであろうが。
「これは海のかたちをしているけれど、あくまでも虚像であり、実体を持たないデータの集合体だ。それに、この空間は君自身の支配結界の中でもある。本来、ここのすべては君の意思でどうにでも変えられる。見た目にとらわれず、その想いで、道を切り開け」
 そう伝えると、アマリアはフォリオムとともに精神を集中し、《虚海ディセマ》を実体化させたまま維持するため、それに必要な膨大極まりない魔力を発し始めた。
「分かりました、やってみます! 行こう、エレオノーア。君を取り戻しに」
 ――はい、おにいさん。どこまでも一緒です!!
 ルキアンとエレオノーアは、言葉を交わし、互いの覚悟を確かめ合った。
「これは海の姿をしていて、海ではない。それに、この場所では、目に見える距離や広さも実際のような意味を持たない。アマリアさんの言ったように、僕の、この想いで道を切り開く」
 あまりにも広大で、身震いするほどの水量に満ちた《ディセマの海》に対し、そこでひとつの探し物をすることが決して荒唐無稽な挑戦ではなく、自らの心の持ちようでどうにでもなるということを、ルキアンは実際に言葉にし、噛みしめるのだった。
「それに、ここが僕の支配結界の中で、今は魔法力も十分にあるのだから、だったら……」
 彼は蝶のエレオノーアを掌の上に乗せ、じっと見つめた。
 ――君の姿は、はっきりと覚えている。
 
 まさに、いま目の前にいる蝶のように、
 森の小道をひらひらと舞うように歩き、
 ルキアンを導くエレオノーアの姿。
 振り返って、
 いっぱいの笑みを浮かべる銀髪の少女。
 
 自分の胸、心臓の上に掌を置き、
 その上にルキアンの手を取って重ねる彼女の姿。
 
 隣に座って、目に涙を浮かべながら、
 これまでのことを語るエレオノーア。
 
 ルキアンの前に立ち、
 剣を構え、山賊たちと対峙する勇敢な後ろ姿。
 
 純白のドレスを身に着け、
 僅かに顔を赤らめながら
 その姿をルキアンに披露するエレオノーア。
 
 いま幸せであるということを
 何度も何度も口にして、
 突然に号泣し
 ルキアンの胸に伏したエレオノーア。
 
 《ヴァイゼスティアー》の白い花を差し出し、
 いつになく真剣な目で
 ルキアンを見つめるエレオノーア。
 
「まずは君の姿を呼び戻す。これから何が起こるか分からないあの《海》で、君が身を守り、一緒に戦えるように」
 ルキアンが念じると、掌の上の蝶は激しく光を放ち、輝く霧のようになって背後に流れた。それは次第に人のかたちを取り、その細部がやがてルキアンのよく知るものとなって、彼の前にたたずんだ。
「こ、これ! 私の姿、戻ったのですね」
「本物ではなく、この結界の中だけの、仮の姿だけど。でも、すぐに本当の君も取り戻す」
 《無限闇》の力でかりそめの体を得たエレオノーアは、それに気づくが早いか、精一杯の想いを込めてルキアンの胸に飛び込んだ。
「十分です! 十分です、だって、この体があれば、こうやっておにいさんに飛び込むことができますから!!」
 あまりの勢いにルキアンは後ろに倒れ、上に乗ったエレオノーアは、ルキアンの胸に頬を擦り付けてはしゃいでいる。
「あ、あ、エレオノーア、ちょっと待って。待ってよ。その、アマリアさんたちが見てるじゃないか……」
 エレオノーアは、澄んだ青い目をルキアンの同じく青い目に合わせ、悪戯っぽく微笑む。
「やりました! やっぱりお兄さんに飛び込んだときの感触は、最高です。だって……」
 彼女は瞳を潤ませ、神妙な顔つきに変わると、率直に気持ちを明かした。
「もしもまた、さっきみたいに消えて、今度こそ私が消え去ってしまって……おにいさんと二度と会えなくなったら、手遅れですから。いつそうなるか分かりませんし、いますぐにでも、こうして想いをぶつけておかなくては、と。本当に、本当に心残りだったんですよ? このまま死んじゃうのかなって。でも今のは一方的だったですね。嫌でしたか? おにいさん」
「い、いやだなんて。とんでもない。だけど、びっくりして、その、言葉が出ないよ。なんて言ったら、いいのかな。よく分からないけど、ええっと、僕も……嬉しい、の、かな? たぶん……」
 ルキアンは、自身でも意味のよく分からない言葉を伝えるのだった。
「それよりエレオノーア、その格好、早く何とかした方が」
 ルキアンに指摘され、エレオノーアは、ようやく落ち着いて今の自分を確認した。頭から湯気が出そうなほど、瞬時に赤面する彼女。
「え? え、何ですか、これ!?」
 エレオノーアがまとっているのは、美しくも勇猛なワルキューレを彷彿とさせる、戦乙女風の衣装だった。ルキアンが《無限闇》の力で《想像し創造した》その服装自体は凛々しいものだとしても、問題はエレオノーアの振る舞いである。衣装の裾やあちこちがかなり短めであるにもかかわらず、彼女は慎みも何もない格好でルキアンの上に被さっているのだ。それをアマリアたちの方から見たら、多分、あられもない姿態が目に入るのだろう。
「お、お、おにいさん? この衣装のこと、先にひとこと言ってください! ところでその、これ、おにいさんの好みなんですか?」
「いや、好みかどうかは……。何というか、頭に浮かんだのがそれで。ごめん。でも、教える間も無く、いきなりエレオノーアが飛び込んでくるから……」
 そんな二人の姿を横目で見ながら、フォリオムが高笑いする。
「ほっほっほ。惨めな少年少女を助けに来たと思ったら、あんな幸せそうな二人組は、なかなか見たことがないのぅ。まったく、《もう君たちに、これ以上の悲しい涙は一滴たりとも流させはしない》と、誰かさんがすまして言っておったが、ちょっと格好つかんかったかの?」
「良いではないか。私が流させないといったのは、あくまでも《悲しい涙》だ。うれし涙なら、いくらでも流せばよいであろう」
 アマリアも微かな笑みを目に浮かべ、フォリオムの言葉に同調する。だがすぐに、彼女の表情が再び厳しくなった。
「しかし、この《海》を代わりに支えるとは言ってみたものの……。これは相当だな。闇の御子は、たとえわずかな間ではあろうと、本当に独りでこんなものを支えていたのか。信じられない」
 そう言いつつも、彼女は何の問題もないかのように頷くのだった。
「もっとも、だから私は、自らここに来るのではなく、思念体を送ったのだがな。他の御子の支配結界の中に干渉するのは、たとえ御子であろうと《通廊》を通さないと無理だ。だが《通廊》を使える御子は、今のところ私とルキアンのみ。それで不足するような事態になったら……」
「それはつまり、魔力が足りない場合、他の御子の力も借りようと?」
「そうだ、フォリオム。私が支配結界の外にいれば、他の御子たちの魔力を私に集約してもらい、私がそれを結界内に送ればよいのだから。ただ、そのためには、それぞれの御子のパラディーヴァの役割が重要になるだろう」
 これからの大きな試みに向け、アマリアは、いったんは緊張感をもって口元を引き締め、しかし次の瞬間には、今度はわずかに唇を緩めた。今の状況を半ば楽しんでいるかのように。
 
「《あれ》の《御使い》たちと《御子》との長きにわたる戦いの流れが、ここで少し変わるかもしれない。《あれ》の因果律を万象の生成流転へと具現化する、この世界の歴史の筋書きに、ほころびが生まれるかもしれない。たとえそれが、蟻の穴のようにささやかなものであったとしても。一度でも亀裂ができることは、つまりゼロがもはやゼロでなくなることは、決定的な変化だ」
 
 必ず的中するという彼女の占いが、そのことをすでに予見したとでもいうのだろうか。
 
 
【第55話に続く】
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第54話(その4) 紅の魔女

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第54話 その4
 
 エレオノーアは無数の微細な光の粒に姿を変え、あたかも風化し砂塵となって舞い上げられていくかのように、この世からあっけなく消え去った。
 失うものを持たなかった者が、戸惑いつつも大切な人と出会ったばかりのときに、それを失った。その喪失感の重さは想像を絶する。ルキアンは、泣くことや悲しみを表に出すことすら忘れ、ただ力なく座り込み、途切れ途切れ、震える声でエレオノーアの名を繰り返すだけだった。
 失意のあまり、ルキアンは、彼の周りで起きた驚くべき変化にもしばらく気づくことができなかった。そしてようやく異変を理解する。どの方向に目を向けても、見通しがまったく効かない。暗黒の世界だ。音もせず、ましてや動くものなど感じられない。ここは、どこなのだろうか。
 だが、そんな空っぽの暗闇の中に、ただひとつ、奇跡のような声が浮かんだ。
 
 ――お……おにい……さん? おにいさんなのですね?
 
 とはいえそれは、現実の音の響きを伴った声ではなく、ルキアンの心に直接語りかけてきている。ちょうどパラディーヴァと話しているときと同様に。
 ルキアンは反射的に叫んだ。
「エレオノーア!? エレオノーア、どこにいるの?」
 彼の声に応えようとしているのか、漆黒の世界にひとつの灯りがともった。仄かな青白い光に包まれ、小さな何かが宙を舞っている。
「蝶? どうしてこんなところに」
 ルキアンがそっと手を伸ばすと、蝶はひらひらと近寄り、彼の手にとまった。真っ黒な羽根に、幾筋かの銀色の模様の入った美しい蝶だ。
 ――おにいさん!
 またルキアンに呼び掛けるものがある。しかし、その話し手の姿は見当たらなかった。
 ――おにいさん。エレオノーアです、私はここです。
 ルキアンは、何も見えないのを理解しつつも、改めて周囲の闇をのぞき、手で探ってみた。唯一、この空間に存在する者。それは、やはり……。
 手の上の蝶を見つめ、しばらく黙った後、意を決して話しかけるルキアン。
「まさか、エレオノーアなんだね?」
 ――よかった! 気づいてくれましたね、わたしのおにいさん!!
 蝶は羽根を何度もはばたかせ、円を2,3回描いて飛んで、再びルキアンの指先にとまった。その様子は、喜びを体全体で表現しているようにみえた。
「こ、これは一体……」
 安堵の涙を目に浮かべながらも、蝶になったエレオノーアを心配して複雑な気持ちになるルキアンに対し、彼女の方は意外に平然と話している。
 ――おにいさん、《支配結界》を展開しましたね。闇の御子の支配結界は《無限闇》。御子が想像したことを創造する、果てしなき闇の世界。
「え、それって……どういう……?」
 ――もう、仕方がないな。おにいさんは、御子のこと、本っ当に……何も知らないんですね。
 エレオノーアが可愛らしく嫌味を言った。
 ――多分、おにいさんは何とかしたくて、無意識のうちに支配結界を発動させたのだと思います。私の体が消え去り、ぎりぎりのところで、最後に残った私の心を《無限闇》の力で実体化し、結界内の世界に留めた。
 ルキアンは、《楯なるソルミナ》の化身と戦った時のことを思い出す。ソルミナの夢幻の世界の中で、ルキアンは闇の支配結界を知らず知らずのうちに展開し、黒光りする鋼の荊を創造して、ソルミナの操る魔人形たちを引き裂いたのだった。
「あれが、想像を創造に変える結界の力? 無限、闇……」
 ――ありがとう、おにいさん。さっきはいきなり消えてしまったので、心の準備が、何もできていなかったです。今なら、もう少し落ち着いて話せます。だけど……。
 エレオノーアが言葉を詰まらせると、羽根を閉じた蝶が妙にしょんぼりとしてみえた。
 ――今も私、徐々に消えていっているのです。おにいさんの《無限闇》のおかげで仮の存在を保っていますが、因果の鎖からは逃げられません。この支配結界もいつまでも続くものではありません。おにいさん、本当は、力がもう足りなくなってきているのでしょう?
 敢えて黙っていたことをエレオノーアに指摘され、ルキアンには返す言葉がなかった。支配結界を展開してから、ルキアンは一瞬ごとに体力や気力が恐ろしい勢いで削られていくのを感じていた。それを無理に隠していたのである。
 ――私をこの世につなぎとめるために、一緒に、あんなものまで実体化してしまったのです。それを維持するのは、いくら御子の力でも難しいことです、おにいさん。
 彼女の言葉に、ルキアンはふと足元を見た。彼は慌てて大声を上げそうになったが、必死に落ち着きを取り戻した。そこに、落ちないように。
 水が――ひたひたと、あくまでも静かに、暗闇の中をつま先まで迫ってきている。そこから何の間合いもなく、その水面は果てしなく深海底にまで、ほぼ垂直に、地獄の底までも落ち込んでいる。目には見えないが分かる。莫大な量の水、底無しの深みに対する、人間のもつ根源的な恐怖感が警告しているのだ。
 ルキアンの恐れが《無限闇》に影響を与えたのか、先ほどまでの完全なる闇が、今度は永遠に明けない薄明の世界に変わった。そしてルキアンと一匹の蝶の前には、彼らの足元から水平線の彼方まで、死に絶え、黒々とした海が、茫漠として際限なく広がっている。たとえば一方で、極点を遥か沖合に臨む、世界の果てを感じさせる寒々とした北の海原と、他方で、夜の工業都市に口を開けた真っ黒な運河の淀みと、いずれも見る者を飲み込みそうな無言の威圧感を漲らせた海のありようが、ひとつに交じり合っている。静けさの中に突き刺すような拒否感を露わにした水面(みなも)が、不気味にこちらを見つめている。
 ルキアンの背筋に冷たいものが走った。彼は思わず後ずさりする。
 これに対して、蝶になってからのエレオノーアは、奇妙に淡々としていた。
 ――これは《ディセマの海》、あるいは《虚海(きょかい)ディセマ》といいます。過去の《アーカイブ》たちの蓄えてきた膨大な情報が思念データとなって保管されている、虚と実の狭間にある情報空間。いま私たちが見ているのは、その一部が《無限闇》によって具現化されたものです。《アーカイブ》の命が尽きると、あの《ディセマの海》に還って、暗い海底に降り積もるのです。
「今なら、そこから、無くなったエレオノーアの体を取り戻すことはできないの?」 
 そう尋ねてみたルキアンだったが、こうしている間にも、《ディセマの海》との対峙の中で秒刻みに力が激減している。
 ――できるかも、しれません。でも、その前におにいさんの力がもうすぐ尽きる……。無理をすれば、おにいさんまで消えてしまいます。
 ルキアンは即座に答えた。自身でも、なぜそう判断したのかいまひとつ分からないままに。
「構わないよ。エレオノーアとなら、一緒に消えてもいい」
 ――おにいさん、嬉しい……。ありがとう。でも、おにいさんは生きて、私の分まで生きてください。
 蝶がルキアンの指から離れ、顔の前を何度も行き交う。 
 ――私がいたこと。私が確かに生きていたこと。おにいさんが覚えてさえいてくれれば、ずっと、私も失われずにそこにいます。
 ルキアンの目の前で、今度は黒い蝶の輪郭がぼんやりと薄れ始めた。エレオノーア自身が消えたのと同じように、この蝶もじきに光の粒となって散ってしまうかもしれない。
 彼女に何か言おうとしたが、突然、ルキアンは胸を押さえ、吐血した。
 ーーおにいさん! もう十分なのです。これ以上続けたら、おにいさんまで本当に死んでしまう。
 泣き出しそうな声でエレオノーアが止めた。死に直面するような凄まじい負担が、ルキアンの心身にかかっている。こうしている間にも体中の力が結界に吸い上げられていく。
「駄目だ。僕は、エレオノーアと必ず一緒に帰るんだ!」
 ルキアンは口から一筋の血を流しながら、目を見開く。右目に闇の紋章の魔法円が浮かび、輝きを増した。だがそれとは裏腹に、ルキアン自身の体力は極度に低下し、文字通り、命を削っている状態である。
「消したくない! 僕の大事なエレオノーアを」
 めまいがして、ルキアンの上体が大きく揺れ、彼はがっくりと片膝をついた。
「もう、力が……。でも、助けたい」
 ルキアンの視界が闇に落ちた。周囲の暗さのためではなく、彼自身がもう目を開けていられなくなったのだ。気を抜くと一瞬で意識を失いそうな中、ルキアンはうわ言のようにつぶやいた。
「誰か、力を、貸して、ください……。助けて……」
 死にゆく二人に、天からの迎えの光か。にわかに暖かく眩い光にすべてが包まれる。
 だが、それと同時に、光の向こうで力強い声が聞こえた。
 
 ――そうだ、諦めるな。君が最後まで諦めなかったから、私が間に合った。
 
 ルキアンの背後で光が門のようなかたちを取り、その中から、白い衣の上に真っ赤なケープをまとった女性が、ふわりと舞い降りた。
「《通廊》を開いてきた。もっとも、いまの私も実体ではなく、急ごしらえの思念体に過ぎないが」
 後ろで一本に編み上げられた金色の髪を揺らしながら、彼女は、相手の心の奥底まで見通すような闇色の瞳でルキアンを一瞥した。夢うつつで、ルキアンを見ながらももっと遠いどこかに焦点が合っているような眼差しだ。それでいて視線が少し重なっただけで、ルキアンは石に変えられたのかと見まがうほど、身動きが一切取れなくなった。
 ――な、何なんだ、この人は……。いや、本当に人間なのか。
 半ば眠るような彼女の瞳の奥に、身震いするほどの魔力をルキアンは感じ、魔道士としてのあまりの「格」の違いに気圧され、硬直してしまったのだ。
 ――あのクレヴィスさんからも、これほどの魔力のうねりは感じなかった。
 何か神的な存在と相対しているような感覚に陥ったルキアンが、ようやく指先程度は自らの意思で動かせるようになったとき、彼女が不意に目を細めた。笑顔は、普通に人間のそれであり、思いのほか優しくみえた。
「遅れてすまない。独りで、よく頑張ったな。この状況でも、そして今までも……。たった一人になっても戦い続けることができる者は、真の勇者だ。誰にでもできることではない」
 そう言いながら彼女は姿勢を低くして、水晶柱の付いた杖を左手で高く掲げ、右の掌を開いて地面に着けた。彼女の言葉が、シェフィーアがルキアンに告げたそれとよく似ていることが、ルキアンには何故か嬉しかった。
「私はアマリア・ラ・セレスティル。《地の御子》、つまり君の友となる者だ。人は《紅の魔女》と呼ぶ。私が来た限り、もう君たちに、これ以上の悲しい涙は一滴たりとも流させはしない……。闇の御子よ、結界を上書きする。魔力を開放するから、気を付けて伏せていろ。大切なその子を吹き飛ばされないように」
 その言葉の通り、爆風がルキアンを襲った。彼は体を丸めてしゃがみ込み、蝶のエレオノーアが飛ばされないよう、手の中で大事に守っている。アマリアが言ったように、彼女は単に魔法力を開放しただけ、いわばそれは、体を動かす前に深呼吸をする程度のことだ。だが凄まじい魔力の奔流がルキアンを飲み込む。
「君の結界の特性を残したまま、私の結界で上書きした。この支配結界《地母神の宴の園》は、大地から魔力の源をいつまでも吸収し続け、私に与える。実体化された《ディセマの海》は、私とフォリオムで支える。その間に、君は彼女を海の底から取り戻して来い」
 心配そうな顔になったルキアンに、彼女は頷いた。
「そう。もし《地母神の宴の園》を本気で使えば、その土地の魔力を宿した霊脈は、向こう何十年かは霊的加護を一切失うほど、空っぽに枯れ果てるのだが。だが、心配しなくてもそんな使い方はしない」
 日頃は感情を露わにすることの無いアマリアが、さも楽し気に口元を緩ませた。
「闇の御子を助ける。人類が初めて報いる第一矢だ。さぁ、フォリオム」
 
「《宿命》とやら、曲げてやろうか」
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第54話(その3) 尽きる命

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第54話 その3
 
 何らかの神を祭った聖堂、それとも、ある種の聖域を思わせるような、よく磨かれた白い石造りの廊下のあちこちに、壁や柱の隅から次第に這い出してきた夕刻の影は、近づく落日に応じてその懐を広げている。静寂を揺るがせ、足早に駆け寄る音。これに対してもうひとつの足音が止まり、そして、荒い息遣いとともに、ひとりの《女》の甲高い声が、高い天井とそれを支える柱列の間に響いた。
「ねぇ、待ってよマスター! どうして、いつまでも……」
 言葉の調子はさらにヒステリックになり、声の高さも一段上がる。
「いつまでも、いつまでも、なぜ、あんな《廃棄物》を処分しないのさ!?」
 ふんわりとした水色の簡素な上着を羽織った銀髪の若者、いや、よく見ると銀髪の娘が、自身よりも遥かに長身かつ頑健な僧衣の男を見上げ、青い瞳で睨み据えている。
「何とか言って、マスター! マスター・ネリウス」
 ネリウス・スヴァンは振り返りもせず、その体躯に似合わぬ小さな声で答える。
「ゼロツー、あれのことは捨て置け……」
 不満そうに何か言おうとしたヌーラス・ゼロツーに対し、ネリウスは繰り返す。今度はもう少し大きく、低めの声で。
「捨て置けといったのだ。《片割れのアーカイブ》など、放っておけば、じきに消える。わざわざ追うだけ時間の無駄だ」
「そんなこと言っても、あの女はもう何年も生き延びているじゃないか。それで、普通の人間のように安逸をむさぼって……」
「それでも長くはもつまい。完全でない限り、《アーカイブ》は《執行体》よりも不安定な存在。もともと単独では現世に定着し難い。それに……」
「それに?」
 なおも不満に満ち溢れたゼロツーに対し、ネリウスは一息おくと、諭すように言う。
「かげろうのような儚い命のあれに、せめて一瞬の悦びくらい、許してやっても悪くはなかろう」
「……はぁ? あはは、おかしいね。それ、本気で言ってる?」
 挑発するような物言いの後、ゼロツーは首を傾げるそぶりをした。
「本当にマスターは甘いよ。これまでに数え切れないほどの人間を泣かせ、それどころか虐殺してさえいるのに、まだ甘さが抜けない。一体、どうしてなのかな」
 彼女がそう言い終わる前に、無視して離れようとしたネリウス。
「でも、マスターのそんな強そうで脆そうなところも、大好きなんだけど」
 憎悪の眼差しから瞬時に一転、青い目は妖艶な光を帯びる。ゼロツーはネリウスの腕を取ると、絡みつくように胸を押し付け、甘えた声でささやいた。
「ねぇ……。あんな《廃棄物》にまで慈悲をかけるなら、僕にも、少しぐらいは愛をちょうだいよ」
「やめろ、エリス。いや……ゼロツー」
 ネリウスは、無表情に自身からゼロツーを引きはがすと、言葉もなく立ち去った。
 
「……ったく。これだから聖職者(坊さん)は。僕だって、いつ死んじゃうか分からないのに」
 
 夕闇がまた近づいた。
 薄暗がりの中にひとり取り残されたゼロツーは、声を喉の奥に詰まらせたかのように、引きつり狂気じみた笑いを漏らすのだった。
 
 ◇
 
「遅いなぁ。せっかくのスープが冷めちまう」
「そうですね」
 ブレンネルとルキアンは、顔を見合わせて誰かを待っていた。彼らはこれから夕食のようだ。白いテーブルクロスの掛けられた、折り畳み式の木製の食卓には、大皿に乗った鳥の燻し肉を中心に、豊かな森の恵みを生かしたキノコや山菜の煮物、同じく近隣の谷川で獲れたであろう魚、玉ねぎを思わせる根菜の入ったスープ、チーズにソーセージなど、素朴ながらも多様な料理が並んでいる。
 それらを目の前にして「おあずけ」の状態となり、ブレンネルは今か今かと体を揺すっていた。対して食べ物にはあまり思い入れがないのか、ルキアンはおとなしく椅子に座っている。
「まぁ、仕方がないか。あの年頃の子の着替えには、何かと時間がかかるんだろう。特にお洒落したいときには。《おにいさん》に見せたいだろうしな」
 ブレンネルは顔を上げた。その先に天井のかわりに広がっているのは、料理に負けず劣らず素晴らしい星空だ。日中は快晴であった今日、晩の澄んだ夜空には無数の星々が、それこそばら撒いたかのように散らばっている。なおかつ、即席の野外食堂は渓流沿いの河原に設けられており、流れる水の音も心地よい。
 
「ごめんなさい。慣れない服だったので、遅くなりました」
 燭台の明かりに照らされ、そう言ったのはエレオノーアである。隣には追加で料理を運んできたリオーネが立っている。
 声の方に目を向けたルキアンは、どういうわけか、そのままの姿勢で動かなくなってしまった。何か信じられないものに遭遇したときのように。ブレンネルは、これは参ったという顔で賞賛の口笛を吹いた。
「あの、それで」
 ルキアンと目が合ったエレオノーアは、頬を薄紅に染め、うつむき加減で尋ねる。
「この服、似合ってますか? おにいさん」
「も、もちろん……」
 当然に肯定しようにも、ルキアンは息を呑み、返答のための言葉を失っている。先ほどまでのエレオンの姿とはうって変わって、白いワンピースに身を包み、髪の流れを櫛でよく整え、衣装と同じく純白のリボンを添えた彼女は、ルキアンのいまだ知らなかったエレオノーアである。その変わり様には、好感を通り越して恐ろしいところすら感じられる。輝く銀の髪、神秘的な青い光を帯びた瞳も、その魔性の力をいっそう増したように艶めいた。
 ――どうしよう。今のエレオノーア、真っすぐ見られないよ……。
「ほら、もう格好いいところをルキアンに見せたんだから、食べ物の汁で大事な一張羅を汚さないよう、これでも付けておきなさい」
 そう言ってリオーネは、質素な木綿のエプロンを手渡した。
「先生、何ですか、これ。ご飯前の子供みたいに」
 文句を言いながらもエプロンを身につけ、エレオノーアはルキアンの隣の席に座った。腰を下ろしてから、遠慮がちに、ひそかに体を寄せる。
「やった、おにいさんの隣です!」
「ど、どうぞ……」
 背筋を伸ばし、ルキアンがわずかに身震いした。ただ、その表情はエレオノーアへの温かな想いに満ちていた。
 そんな二人の様子を見守るリオーネの眼差しも、いつもより優しく、また嬉しそうでもあった。
「さぁ、みんな。用意はいいかい」
 彼女に促され、ブレンネルがグラスを手に取り、軽く持ち上げた。続いてルキアンとエレオノーア、そして最後にリオーネが祝杯の用意を終えた。彼女は目でルキアンに合図をする。彼は不慣れな調子で音頭を取った。
「あ。は、はい。それでは皆さん。今日の日に……」
 リオーネがしきりに黙って口を動かし、ルキアンに何か言えと伝えている。それに気づいて苦笑いしたルキアンは、隣のエレオノーアに微笑みかけ、二人の目が合ったところで穏やかにつぶやいた。
「エレオノーアの未来に」
 四人の声が見事に合わさった。
「乾杯!!」
 まずリオーネが豪快に飲み干す。彼女のこだわりで、最初の酒は、薄桃色に澄んだ泡の立つワインになったようだ。話によれば、タロス共和国の某修道院で作られた貴重なものらしい。
「あぁ、生き返るね。これぞ生命の水だよ。近々こんなこともあろうかと、わざわざ街の市場で買っといてよかった」
 騎士は引退しても、酒豪としてはまだまだ現役のようである。続いてブレンネルも一気に杯を空にし、皆が気勢を揚げた。
「いやぁ、旨い! 昨日今日は大変だったから、一通り終わった後の酒は格別だな」
 ちなみにイリュシオーネでは、地域や身分によって多少の差はあれ、15、16歳程度になれば基本的には成人である。18歳のルキアンはもちろん、エレオノーアも多少童顔だが歳自体はルキアンとあまり変わらないだろうから、普通に飲酒をしていておかしくない年頃である。だが不慣れな二人は、薬でも舐めるように神妙な顔をしてグラスを傾ける。お互いのそんな格好が何だかおかしくて、二人は無邪気に笑い合っている。
 彼らを母親のような眼差しで見守りながら、リオーネは大きめのナイフを手に、自慢げに言った。
「今日は魚は釣れなかったみたいだけど、先日たまたま手に入った上等の燻製がある。ほら、ごらんよ」
 鴨か雉のような野鳥を燻したものだろう。表面に飴色のつやを浮かべ、鼻の奥をくすぐる香りを漂わせた丸ごと鳥一匹のスモークが、テーブル中央の皿に載っている。今宵の食の主役を果たそうとしているかのようだ。
 リオーネが慣れた手つきで切り分けるのを、ブレンネルが待ち構える。その表情が思いのほか真剣で、第三者が見たら噴き出してしまいそうだった。
「パウリさん。お魚でよければ、こっちにも燻製ありますよ」
 小山のごとき燻製鳥に遠慮したのか、机のもう少し端の方に置かれた皿には、スモークサーモンに似た魚肉の薄切りが、野菜と一緒に何切れも盛り付けられている。それを指さし、エレオノーアが小声で告げた。
「お、おぉ、これはこれでなかなか。渓谷の地ならではの逸品だな」
 すぐさま味見を始めたブレンネルを尻目に、エレオノーアも燻製一切れをフォークで取ると、そのまま手を伸ばし、ルキアンに差し出した。
「実はですね。これ、私が釣って、私が燻したお手製なんです。おにいさん、どうぞ!」
 フォークを口元に突き付けられるかたちとなり、ルキアンは餌を待つひな鳥のように、エレオノーアから直接、手作りの燻製スライスを口に運んでもらうこととなった。そんな彼らのやり取りを眩しそうに眺めながら、ブレンネルが笑って冷やかす。
「おうおう。見せつけてくれるねぇ」
「本当だよ。何か、いい感じの二人じゃないか……」
 便乗したリオーネの言葉に、エレオノーアは、してやったりという顔で何度も頷き、逆にルキアンは顔を赤くして固まっている。
 
 昨日のルキアンたちの状況では想像もされていなかった、思いがけぬ愉しげな晩餐はさらに続いた。こうした集いにおいて、よく分からないタイミングで、宴席がなぜか偶然に静まり返る瞬間が時々ある。そういうとき、神や精霊が通ったのだと、昔の詩人は描写したものである。そして、今ここでも、不意に皆が静まり返った。にぎやかに飲み食いする彼らをのぞけば、深い谷間のこの場所では、今日のような静かな夜に音を立てるものは、すぐ側にある渓流のせせらぎくらいであろう。
 冷涼な谷間の流れが奏でる、さらさらとした響きを背景に、エレオノーアの声だけがぽつんと響いた。
「わたし、幸せです」
 残りの三人は食事を続けながら、彼女の言葉に頷いている。
「はい。とても幸せです」
 先程と同様に、三名は黙って頷いている。
「わたし、こんなに幸せです」
 なおも……。
 だが次の場面で、エレオノーアは突然大声で泣き出した。
「私、わ、わたし、こんなに幸せで、こ、こ、こんなに幸せで……いいのかな!?」
 不意に号泣し、周囲も気にせずとめどなく涙を流して、天を仰ぎ見るエレオノーア。
 ルキアンは慌てて胸元からチーフを取り出し、彼女の涙を拭おうとする。だがエレオノーアは首を振って断ると、三人の目をはばからず泣き続けた。
「おにぃ、さん……」
 嗚咽が止まらず、エレオノーアは、倒れ込むようにルキアンの胸元に顔を埋めた。そして彼にしか聞こえないようなささやき声で、ある物語を伝える。
「あの白い花、ヴァイゼスティアーの話。続きがあるんですよ。花になった最後の一粒の涙のこと。魔界の側に堕ち、人間の世に背を向けて闇の英雄となった黒騎士、フィンスタルという人の残した言葉。《次の世では、きっと》。どういう意味だと思いますか、おにいさん」
 エレオノーアは不意に顔を上げた。涙を目に溜めながらも、真剣なまなざしで。
「人は言います。フィンスタルは、次の世では、今度こそ聖女と結ばれると……。彼自身も死の間際にそう願ったのだと。でも私は、そうは思いません」
 強い意志の力を宿した瞳だ。エレオノーアの真摯な語りにルキアンは気後れしそうになるほどだった。
「私は勝手に信じているのです、おにいさん。フィンスタルには、聖女様よりも、もっと彼にふさわしい人がいたかもしれないのです。いや、いたと思います。でも出会えなかった。彼の生きた世では二人の道が交わることはなかった。だから次の世では必ず、もう迷わずにその人と巡り合えるようにって、私はそういう意味だと思ってきたのです。ううん。もっといえばですね、フィンスタルはきっと生まれ変わって、今度は、彼と同じような黒い瞳の、似たようなちょっと物悲し気な顔をした闇の一族の娘と、静かに微笑みながらいつまでも幸せに暮らしたのです。はい、そうに違いありません」
 色々と思い込みの強い彼女の言葉に、ルキアンは、つい自分自身の妄想癖を重ねていた。沈黙したままのそんなルキアンの気持ちが、エレオノーアには自然と想像できたようだ。彼女は涙を拭いて、いくらか無理のある感じで作り笑いを浮かべてみせた。
「私はそういう都合の良い物語を作って、独りで満足していたのです。私はずっと、おにいさんのことを想って……でも、たまには絶望し、あきらめそうにもなりました。そんなとき、私は、逃げ道を作るような気持ちで、無理に自分に言い聞かせようとしました。たとえおにいさんと会えないまま死んでしまっても、今度生まれた時には必ず出会える、と。私のお話の中の、フィンスタルのように」
 ヴァイゼスティアーの白い花に、エレオノーアがそのような想いを込めていたと分かって、ルキアンは、あのとき彼女の振る舞いに戸惑って真剣に話を聞いていなかったことを、申し訳なく思うのだった。エレオノーアが差し出した花の姿を、彼は再び思い出そうとする。
 ふと、そこで我に返ったルキアンは、いつの間にかリオーネとブレンネルが川の方に降りて立ち話をしているのに気付いた。グラスを手に、とりとめのない思い出話をしているようだが、多分、ルキアンたちに気を使って席を外してくれたのだろう。まだ肌寒くもあるが、夜の清流沿いはとても心地よさそうだった。
「エレオノーア、僕らも、川の方に行ってみようか」
 ルキアンはそう言って立ち上がり、エレオノーアに手を差し出した。
「はい、おにいさん」
 エレオノーアも嬉しそうに手を取り、立ち上がろうとするが。
 
「あ、あれ?」
 突然、エレオノーアの声が震えた。
「あれ? おかしいな。何、これ……」
 戸惑いを口にする余裕もほとんどなく、彼女は椅子から崩れ落ちそうになる。ルキアンと手をつないでいたおかげで、何とか転げ落ちずには済んだ。
「おにい、さん?」
 エレオノーアは、ふらふらと椅子に座り直そうとするも、腰を下ろすことさえできず、気を失ったようにルキアンに抱き留められた。
「エレオノーア! どうしたの!?」
「え、え、え? おにいさん、私、私、これ、どうなって……」
 暗がりの中、エレオノーアの身体が青白い光を放ち始めた。気が動転して、彼女の気持ちは、まともに言葉にさえならない。ルキアンの視界の中で、エレオノーアの身体が揺らぎ、輪郭がぼんやりと薄れていく。ルキアンは思わず目を擦ったが、まぎれもなく、いま実際に起こっていることだ。
「え、やだ、ちょっと、待って! わたし……わたし、消えちゃう? い、いや、いやです!!」 
 エレオノーアがなりふり構わず叫び始めたので、リオーネとブレンネルも、ただ事ではない様子に気づいた。二人が駆け寄る中、ルキアンはどうしてよいのか分からず、ただただ、エレオノーアを抱きしめた。だが、腕の中にある大切なエレオノーアの感覚が、次第に虚ろなものに変わっていく。そしてリオーネたちが隣まで来たときには、ルキアンの胸には、もうエレオノーアの体のぬくもりも、確かな存在感も、ほとんど残っていなかった。
「エレオノーア! 何があったんだい!?」
 事情はともかく、エレオノーアの命にかかわる事態であることは、リオーネにも分かる。ブレンネルはルキアンを心配し、彼の背中を支えるように後ろに寄り添った。
 すると、今まで慌てふためいていたエレオノーアが急に落ち着き、風の音のような、しかし人の声で、静かに伝え始めた。
「私、消えちゃうみたいです……。いつか、こんな日が来ると覚悟はしていました。《片割れのアーカイブ》は、《聖体》の定着が不安定なため、独りでは長く存在できないのです」
「だめだ、消えないで、エレオノーア!!」
 しかしエレオノーアは、ルキアンの言葉に対して悲しげに首を振ると、もはや悟ったような口ぶりで答える。
「私だって、消えたくないです。生きたいよ……。だけど、私を作り出すために生贄にされた人たちは、同じように、生きたいと願いながら、命を奪われていったのですよね。そのこと、ずっと考えないようにしていました。怖かったから。それでも、本当は生きたいです。自分だけ助かりたいという私は、地獄に落ちますか?」
「そんな…そんなこと……。エレオノーアに罪はないじゃないか!」
「ありがとう。だけど、もうお別れのようです、おにいさん。会えて、一日だけど一緒に居られてよかった。それだけで、私は世界で一番幸せでした。でも、もしもひとつだけ願いが叶うなら」
 彼女は、静けさの中に寂しさがあふれ出しそうな、微かな笑みを浮かべた。
「おにいさんのアーカイブになりたかったな……。だって、私は」
 もう生身の体すらなく、影のように揺らめくだけのエレオノーアが、ルキアンに口づけをした。
 最後の言葉を残して。
 
「わたしは、あなただけのために咲く花です」
 
 ひとしずく、実体をもって最後に落ちる涙。
 
 何度も彼女の名を呼び、絶叫し、錯乱状態で首を振るルキアン。彼の腕の中で、エレオノーアが見る見るうちになくなっていく。霧散するエレオノーアをかき集めようとするように、必死に両手で空をつかんだ。だが、彼の抗いは無力だった。
 
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第54話(その2) 「予め歪められた生」と「永劫の円環」

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第54話 その2
 
 ◆ ◆

 今から約20年前――新陽暦283年、オーリウム王国の都・エルハインにて。

 その夏、王国は近年稀な猛暑に見舞われ、この時間、日暮れも近くなってから、夕涼みがてら、人々の姿が街にようやく増え始めるのであった。そして、真夏の長い陽がラプルス山脈を遠く望む方角へと、満足げに沈んでゆく頃、王国あるいは世界中から俊才の集まる王都の神学校でも、学生たちがこれから三々五々、お気に入りのカフェや酒場へと繰り出そうとしていた。
 そんな中、平然としつつも、どことなく周囲の様子を気にするような態度で、一人の神学生が校地の奥まった方へと歩いていく。彼が向かっているのは、王立神学校の広大な敷地の中でも普段はあまり使われていない、古い建物のひとつ、《メラクの青の礼拝堂》であった。現在では、図書館や研究棟に入りきらなくなった蔵書を仮に収めている場所であり、いつもなら、特にこのような夕方遅くになると、周辺では人の姿はあまり目につかない。
 神学生は、念押しといわんばかりに、振り返って周囲を見た。向こうから別の学生がやってくる。そして別の方向からも、また一人。大扉のある礼拝堂のファサードは、古いなりにも、いや、むしろ古びた石彫がかえって重厚さを醸し出す様相だが、その脇を通り過ぎ、建物側面の小さな庭園に隣り合う通用口のようなところから、神学生たちは礼拝堂に入ってゆく。
 《青の礼拝堂》という通称の起源になった、深みのある藍色を中心とする壮麗な天井画は、現在の世界の神々を題材としつつ、どことなく《前新陽暦時代》のレマリア帝国の壁画様式をも想起させるタッチで描かれていた。けれども残念なことに、今では天井画の変色が激しく、かなり剥げ落ちてもいる。その様子を頭上に仰ぎみながら、一見すると地下墓地への入口にも思われる階段を降りていく学生たち。その先にある小部屋に集まると、彼らは、猛暑の中で敢えて二重にまとっていた法衣を払いのけ、皆が同じように黒衣の姿となった。
 この黒ずくめのいでたちは、異端として弾圧されるほどではないにせよ、イリュシオーネの神殿における正統派教義からは外れており、多くの神殿関係者から批判の目を向けられる教派、《連続派》のものである。この場合の《連続》というのは、ひとことでいえば、世界観・歴史観において現世界と旧世界との連続性を敢えて強調しつつ、信仰も含め物事の理解を図ろうという意味である。魔道士たちからみれば、現世界の文明は旧世界と切っても切り離せない一方で、この世界の正統教義に立つ神官たちからすれば、いわゆる《イノツェントゥスの誓い》以前のこと、つまりは《新陽暦》が始まる前のことは、ほとんど省みる価値のない《暗黒時代》や《突飛な言い伝え》にすぎない。いや、正統派としては、そういうことにしたいのである。《新陽暦》以前の伝説の蓋を不用意に開けることは、時にはむしろ危険思想ですらあった(なお、旧世界滅亡の真実につながる《沈黙の詩》を研究していることを、以前にシャリオが隠していたのは、この種の研究が神殿関係者の間ではタブー視されているからに他ならない)。

「諸君。我々の有志による調査団が、イゼール樹海の遺跡にて《石板》第7編を発見したことは、周知の通りだ。そこに書かれていたことも事実だと考えている」
 おそらく定期的に開催されている教派の会合、先ほどのような事情のため、一種の秘密結社のような集まりなのであろう。学生のリーダー役と目される一人が口火を切った。
 それに耳を傾ける者たちの中には、学生だけでなく、近隣の神殿の神官や神学校の教授とみられる者も何人か混じっている。教授の一人が、静かな物言いの裏にも興味を押さえられないような様子で尋ねる。
「第7編の位置づけは、よくてもせいぜい外典、いや、別の時代に後付けされた偽書ともいわれてきたが……。その実際の姿、早く聞きたいものだ、コズマス君。これまで推測されていたように、第7編には《御子》に関する重要なことが書かれていたのかい?」
「はい、先生。しかし、我々にとっては認めたくない内容も含まれています」
 神学校きっての傑物と呼ばれるコズマス・バルトロメアが答えた。彼は、離れて座っている者には聞き取り難いような、微かで長い溜息をついた後、皆の顔を見渡した。
「これでは、たとえ何回、いや、何千、何万回……人の子が《あれ》のことに気づき、《御子》とともに抗ったところで、結局は毎回、世界はただ《あれ》の導く歴史をなぞり、いつかそこから外れたときには《再起動(リセット)》されて無に帰すだけだ。過去にも無数の世界がそのような結末を迎えてきたと、石板には記されている。永遠に同じことの繰り返しだ……」
 コズマスが話し終わるのを待てず、一人の学生が激高し、立ち上がって叫ぶ。
「それでは、我々の世界とは、歴史とは、いったい何の意味がある!?」
 対するコズマスはあくまで冷静だった。もっともそれは、他に先んじて石板第7編の真実に接し、それを受け止めるための時間が今日に至るまでに幾らかあったからだろう。
「我々の生(なま)の存在や、この世界で生起する生(なま)の事実に意味などない。その意味というのは、我々が自ら与えることにより初めて生じるものだ。破滅に向かうまでの生きざま、日々の道のり、そして滅びの日を迎えたという結果に、人として生きた《意味という爪痕》を刻み込むのだ。たとえ、来るべき世界ではすべて忘れ去られようとも」
 いささか抽象的な言い方で言葉を濁したコズマスに対し、次の一瞬は沈黙が広がる。彼は続けた。
「そう、単に、この世界の本質をなす《絶対的機能の自己展開》をなぞり、因果の鎖が日々現実化していくための無数の作用点として生きること、そうすることが、《人の子》に与えられた存在理由、すなわち、《あれ》の自己展開を賛美し、《あれ》の生み出した世界を予定通りに、できる限り忠実に描き出していくこと。それだけが人間の役割なのだと」
 その言葉を受け、先ほど激高しながら尋ねた学生が言う。
「信じられない。《人の子》は《あれ》の一人遊びの駒でしかないと? しかも、遊戯が間違った局面を迎えれば世界もろとも捨てられるだけの……。あぁ、ならば人は、何のために生まれ、死んでいくのだ? 少なくとも、いま実際に我々の生きているこの世界、我々にとっての唯一本物の、この世界にすら、いったい何の意味があるというのだ」
 別の学生からも発言が次々と飛び交う。
「仮にそうなら、正直なところ、人や世界に意味など求めても空しいだけなのでは? 少なくとも普通の人々にとっては。否、むしろ何も知らない方がよいだろう。それにコズマス、《あれ》の駒として自ら演じさせられてきた現実に、いくら懸命に主観的な《意味》を付与しようとしたところで、それは我々が単に《解釈》を施したということにしかならないのではないか。そんなことは、ただの自己満足だ。《あれ》への抵抗にすらならない」
 だが、喧噪のもと、一人の学生が立ち上がり言葉を発すると、彼のもつ不思議な落ち着きや説得力によって皆が再び静まり返る。コズマスの盟友にして、噂では錬金術にも手を染めているといわれる男、カルバ・ディ・ラシィエンだ。見事に手入れされた現在の彼の口髭とは異なり、無精な状態であった若き頃の髭を撫でながら、彼は告げる。
「だが、どうせよと? 《御子》には二つの呪いが掛けられている。《予め歪められた生》の呪いと《永劫の円環》の呪いだ。たとえ御子が生まれても、御子は《予め歪められた生》の呪いに押しつぶされ、大抵は、自らの使命を知ることもなく惨めな生を終える。そして《御子》が己の使命を自覚しても……」
 彼の言葉に頷きつつも、狭い地下室に溢れた熱気を避けるかのごとく、敢えて奥で腕組みしている学生がいた。まだ当時は不完全な闇の紋章も刻まれていない、その思慮深い瞳で、ネリウス・スヴァンはカルバを黙って見つめている。
 手を打ち合わせ、コズマスの声が響いた。
「諸君、静粛に!」
 それまでよりも低く、重々しい声で彼は皆に伝える。
「そう、第7編の石板は伝える。《永劫の円環》の呪いの詳細を。これでは、あるひとつの時代にすべての御子が揃うことは、《絶対に》あり得ない。絶対にだ。人の子が《あれ》に立ち向かうことなど《最初から》不可能だったことになる」
 常に論理的なコズマスが《絶対に》などという表現を使ったのは、もちろん浅慮や高揚からではない。

 続く言葉が、地獄への戻れぬ道の始まりだった。

「だがそれは、人の子の営みを自然の摂理に任せている場合のこと、つまりは《あれ》の仕掛けた《いかさま》のルールに従っている限りでのこと。諸君、敢えて言おう。《永劫の円環》に背いた存在を《人の子》が作り出す秘術は、同じく第7編の石板に示されている。だからこそ、第7編は禁断の石板と呼ばれ、秘匿され続けてきたのだろう」

「それが、《聖体降喚(ロード)》だ」

 コズマスがそう告げ、一連の説明を続けた後――静寂を突き崩し、地下室から無数の怒号や絶叫、机や壁を叩く音が、すなわち集まった者たちの非難や絶望の表明が、空しく響きわたるのだった。

 ◆ ◆

「おやまぁ、あんたたち……」
 あたかも子守りをする老婦人が、幼子の思わぬ反応に呆れながらも目を細めたときのように、リオーネ・デン・ヘルマレイアは、予定より遅く帰宅した二人の姿をみた。
 扉を開けてルキアンが中に入ってくると、後から続くエレオノーアが――いや、今は少年の装いと振舞いに戻ったエレオンが――遠慮がちに、慌ててルキアンと変な距離を取る。そうかと思えば、リオーネとブレンネルの顔つきを横目でちらちらとうかがい、エレオンはまたルキアンににじり寄る。今度は、二人の間は妙に近い。ルキアンの背中で、エレオンの指がルキアンの指に触れ、また離れた。
 ――なんだい、これ。何があったんだろうね。
 リオーネがエレオンを手招きすると、《彼》(彼女)は熱に浮かされたような足取りで、しかし心地よさげな顔をしてそれに応じた。ルキアンの横を通り過ぎるときにも、《彼》の目が意味深にルキアンに向けられ、二人とも一瞬固まったような動きをして、うっすらと頬を染める。
 明らかにおかしく、だが初々しくもある二人の様子をみると、座って地図をみていたブレンネルは口元を緩めた。
 ――あはは。いいね。これが、いわゆるひとつの……青春って、やつか。
 ルキアンたちのいる居間を離れ、リオーネはエレオンを台所に連れて行く。そして急に、頬が擦り合うくらいのところまで顔を近づけると、リオーネは声を潜め、鋭くささやいた。

「ねぇ、あんた……。もしかして、人を斬っただろ? 初めての匂いがするよ」

 経験を積み重ねた戦士の直感、その前ではごまかしはきかない。エレオンが上着の袖をあたふたと触り、どこかに血でも付いていないか探そうとすると、リオーネは仕方なさげに苦笑した。
「馬鹿だねぇ。そういう匂いのことじゃないよ。あんたの感じ、雰囲気のことだよ」
「そ、それは……。はい」
「何か大変なことがあって、あんた自身やルキアン君を守るために、仕方なくやったんだろうけど、人を傷つけた、いや、まだうまく加減できないあんたなら、たぶん何人かは《殺した》ということは事実だろうからね。たとえ相手が悪党でも、あるいは戦場であったとしても」
「は、はい。先生がいつもおっしゃっていたこと……。剣の重さ。それを咄嗟によく考えられず、必死で戦ってしまいました。ご、ごめんなさい」
 エレオンが言葉に迷って頭を下げると、リオーネは《彼》を正面から見据え、首を傾げた。その静かな気迫にエレオンが少し慄いている。
「おや。なんで謝るんだい? そこで謝られたら、あたしの仕事は騎士だった……いくらきれいごとを言っても戦いで人を殺すことが生業だったんだよ。なら、あたしなんか、これまで生きてきてごめんなさい、なんてことになるだろ」
 エレオンの柔らかな銀の髪を撫でながら、リオーネは小声で付け加える。
「手首と足首。その跡、ひどいね。何があったの?」
 赤く腫れ、擦り傷もできている。山賊たちに縛り上げられていたときのことを思い出し、エレオンは誰に弁解するともなく慌てて答えた。
「ち、違います! その、ちょっと跡がついただけで、それ以上、変なことは……されていません!」
「そうかい。無理に、根掘り葉掘り聞かないことにするよ。分かった。いずれにしても、あんたの誇りを汚されるようなことは、されていないんだね。私のかわいいエレオノーア」
「あ、あ、当たり前です! 先生の意地悪……」
 勿論、ルキアンがエレオンにそのような酷い振る舞いをすることなど考えられなかったので、別の事件に巻き込まれたのだろうとリオーネは思った。何があったのか心配だが、彼女は敢えて異なることを言った。
「それに、あんた……。顔が、女になったね。もうエレオンは廃業かもね」
「あ、その、はい?」
 出し抜けに指摘され、驚いて、頭から抜けるような甲高い声で返事をしたエレオン。
「その見た目、いつまでも子どもっぽさが抜けきらないし、いつになったら大人になり始めるのかと思っていたけど……。なんか親離れっていうのか、寂しい気もするよ。変わったのかね」

「人とは違った重荷を抱え、苦しみ抜いて生きてきて、やっと初めての恋をして」

 リオーネが率直な物言いばかりするため、エレオン、いや、エレオノーアは恥ずかしくて卒倒しそうな心持ちになった。《彼女》は必死に首を振る。なぜ否定しようとしているのか、自身でも呆れつつ。
「あ、いえ、そのですね! おにいさんは、私の、大事なおにいさん、であって……。そんな、恋しているとか……いえ、その……つまり……」
 何か言葉を発するたびに、エレオノーアはむしろ深みにはまりつつ、顔もますます赤らめていく。そんな様子をみて、リオーネは、もうお手上げだというふうに肩をすぼめ、両掌を返した。そして居間に戻っていくとき、去り際にひとこと。
「ふぅん。恋かどうかはともかく、でも、一番大事な人なんだろ、ルキアン君」
「はい、それは! もう、もちろん。世界で一番大切な、私のおにいさんです!!」
 結局、エレオノーアは全力で認めている。気持ちを押さえておけないのだろう。

 淡く、可愛らしいエレオノーアのそんな想いとは裏腹に、造られた不完全な御子としての宿命は、まもなく彼女を残酷極まりない結末に向き合わせようとしていた。

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第54話(その1) エレオノーアの危機と遠き世のネクロマンサー

目次これまでのあらすじ | 登場人物 鏡海亭について
物語の前史プロローグ

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第54話PR |


消えたくないです。生きたいよ。
だけど、私を作り出すために生贄にされた人たちは、
同じように、生きたいと願いながら、命を奪われていったのですよね。
それでも自分だけ助かりたいという私は、地獄に落ちますか?

(エレオノーア・デン・ヘルマレイア)


第54話 その1
 
「私は絶対に負けません。だって、おにいさんと会えたから。何があってもおにいさんと一緒に行くって、決めたから」
 エレオノーアは、戦いのさなか、ルキアンへの想いを率直に口にする。否、その強すぎる気持ちが、自覚も曖昧なまま、自然に言葉となって流れ出たのだろう。大勢で詰め寄る山賊たちに囲まれないよう、彼女は渓谷の岩や木を巧みに利用する。そして油断した相手を確実に潰していく。また一人、剣を抜いて襲いかかるも、その足を払ったエレオノーアは逆に剣を奪い取り、直ちに構えるのだった。
 
 ――灰式・隠密武闘術、一群。剣舞風波(けんぶかざなみ)
 
 大気に遊ぶ風の精(シルフ)のごとく、エレオノーアは、次の流れを予想し難い動きで敵を翻弄する。そこから瞬時の隙をついて繰り出される彼女の一撃は、真空の刃のようだ。剣を手にしたエレオノーアは、素手で戦っていたときよりも遥かに手強い。
「こ、こんなの聞いてないぞ。少しは使えるどころか、強すぎる!」
 相手は小柄な娘一人、本気で戦う必要もないだろうと高を括っていたならず者たちが、明らかに動揺し始めた。身体の動きが悪くなり、太刀筋にも怯えがみえる。その変化をエレオノーアは見逃さなかった。
「に、に、逃げようぜ、殺される!」
 浮足立って統率が取れず、もはや数の多さを活かせない山賊たちは、エレオノーアに一人ずつ次々と狙いうちにされていく。最初、賊たちは30名ほど居たはずだが、まともに動ける者の数はもはや半分近くに減っていた。
 
 ――これで勝てる。おにいさん。
 
 だが、エレオノーアがそう思ったとき、しゃがれ声で山賊の頭が迫った。
「お嬢ちゃん、見ろよ。少しでも動いたら、大事な《おにいさん》の頭が吹き飛ぶぞ」
 咄嗟に振り向いたエレオノーアの目に映ったのは、両手を縛られ、無念そうにうなだれるルキアンの姿だった。彼の頬骨近くに銃を突き付け、したり顔の頭目がエレオノーアをからかうように言う。
「王子様をお姫様が守り、しかも王子様が捕まってお姫様の足を引っ張るなんて、こんなふざけた話は聞いたことがないな。おっと、動くなというのが聞こえなかったのか」
 エレオノーアの顔が怒りに満ちたのを恐れ、頭目はルキアンに銃を強く押しつけた。
「エレオノーア……。すまない。僕はいいから、君は逃げて……」
 泣き出しそうな表情でエレオノーアを見つめたルキアン。本気で決意したはずなのに、今回も大切な人を守れなかった、この惨めさ。悔恨にまみれたルキアンの顔つきは、目を反らしたくなるほど悲痛なものだった。
 エレオノーアは周囲の敵を威嚇するように剣を鋭くひと振りし、断固とした口調で言った。
「人質なんて卑怯です。おにいさんを放してください」
 一瞬、沈黙が支配した後、山賊たちは下卑た笑いを爆発させ、エレオノーアに罵声を浴びせた。その響きがルキアンをますます辛い気持ちにさせる。
 山賊の頭も、黒い眼帯をこすりながら大笑いした。
「卑怯ねぇ。ちょっと頭を使って勝つことの、どこがいけないんだ。世間知らずのお嬢さん。それで、お嬢さんよ」
 頭目がエレオノーアの方を顎でしゃくって、何か指示をする。口元を緩ませながら、数名の手下がエレオノーアの方に近づいていく。
「まずは剣を捨てろ。今すぐ下に置かないと、こいつに一発ぶっ放すぞ」
 勢いに乗った頭目が引き金をひくような素振りを見せたため、エレオノーアは、黙って剣を手放した。石の多い地面に鋼がぶつかり、転がる音。剣は横たわり、日光を反射して眩しく光った。
「捨てました。おにいさんを今すぐ返して」
「駄目だ。お嬢ちゃんは素手でも怖いからな。おい、お前ら」
 手下が二人、両側からエレオノーアの腕をがっちりと掴む。
「何をするんですか! 触らないで!!」
 彼らはエレオノーアを向こうに連れて行こうとする。そこには、真っすぐに伸びる2本の太い木が立っており、別の男たちが縄を何本も手にして待ち構えている。その意図に気づいたエレオノーアの横顔から、一瞬で血の気が引いた。かぶりを振る彼女の姿をにやにやと見て、山賊たちは一緒に来るよう促す。何度もためらいながら、エレオノーアは青い顔をして無抵抗のまま従った。
「やめろ、エレオノーアに手を出すな!」
 ルキアンは必死に叫び、身を乗り出したが、周りの山賊に取り押さえられてしまう。何もできなかった彼は、血が滲み出しそうなほど唇を噛みしめた。自分が不甲斐ないせいで、今度こそ守りたかったエレオノーアを犠牲にしてしまうのだから。しかも、普段は少年エレオンとして振る舞うエレオノーアが、その仮の姿に隠して大切に守ってきた、花開いたばかりの女としての秘めやかな本性を、今から悪党たちの手で無理やり暴き出され、弄ばれることになるのかと思うと、ルキアンは正気を保てなくなりそうだった。それでもなお凛として悲壮な覚悟で臨むエレオノーアを、ルキアンは直視できなかった。
 
そのとき……。
 
 ――やれやれ。いくら御子だといっても、大切な一人さえ守れないような軟弱者に、この世界の命運を託してよいはずがなかろうよ。
 この声に、それ以前に声の主の気配に、ルキアンにははっきりと覚えがあった。目の前が暗転し、果ての無い灰色の世界に飲まれ、時間が凍り付くような感覚に落ちていく。その異様な場で、ルキアンは、ひとつの影と向き合っていた。
 影が次第にはっきりとした輪郭をとる。縮れた黒髪をなびかせ、飾り気のない法衣をまとい、羊飼いのような素朴な木の杖を手にした姿。広い額、彫りの深い顔に、奥まった黒い目で悠然と睨むような中年の男。彼は小さな苦笑いを浮かべる。
 ――俺を知っているな。そう、ルカだ。正しくは、かつて生きたルカ・イーヴィックという闇の御子の、残された思念のなれの果てかもしれない。あの可愛らしい娘、俺たちの大事な血族を、野盗ごときにいいようにされるのは気に入らないから、わざわざ出てきてやったぞ。
 唖然とするルキアン。返事を待たずにルカは続けた。会話になっているように思われて、それでいて実はただ一方的に語っているだけにもみえる、いかにも残留思念にありがちな振る舞いであろう。いや、ルカは曲がりなりにも聖職者だったはずなのだが、そのわりには口調が少々野卑だ。
 ――最初に言っておく。俺は、困っている者を放っておかないが、そのためには手段を選ばない。必要なら、どんな汚い手でも平気で使う。何故だか分かるか?
 空間に深々と音を刻み込むように、ルカは静かに、かつ重々しく告げた。
 
 ――なぜなら俺は、僧侶(プリースト)で……しかし、死霊術師(ネクロマンサー)だ。
 
 彼がそう言い終わる前に、ルキアンは急に目眩がして意識が遠のくのを感じた。
 ――あの娘を助けたいのだろ。お前の体を少し貸せ、新しい御子よ。
 そう言ったルカは、いくらか上機嫌そうですらあった。
 
 静まりかえった渓谷に、山賊たちの密やかな笑い声が漂う。ようやく捕らえたエレオノーアを彼らは取り囲んでいた。
 エレオノーアは、僧衣のような濃紺のローブを脱がされ、白いブラウスとキュロットという格好で、2本の木の間に立たされていた。その姿は、これまでの印象よりもずっと華奢で繊細だった。すらりとした腕は、万歳をするように、左右それぞれの木から縄で吊るし上げられている。ほっそりと白い脚も、同じく縄で左右の木につながれ、開かれたまま閉じることができない。蜘蛛の巣に掛かった惨めな蝶のように、四肢を大きく開いた屈辱的な姿を晒されているエレオノーアは、恥じらいに頬を染め、目を閉じて深々とうつむく。悔し涙で睫毛も濡れていた。
「戦っていたときのあの強気は、どこに行ったのかな、お嬢ちゃん。だが、お楽しみはここからだ」
 山賊の頭目は、すっかり勝ち誇った顔つきになり、エレオノーアの耳元でささやく。不意に、その汚らわしい手がエレオノーアの腰を撫でる。避けるすべのない彼女は、引きつったように震え、声にならない悲鳴を上げた。この反応に嗜虐心をかき立てられた頭目は、血走った目でナイフを手にすると、刃を入れて切り裂こうとエレオノーアのキュロットをつまんだ。
 もはや風前の灯火だ。
 ――おにいさん、見ないで。こんなの嫌です!
 エレオノーアの目から大粒の涙がこぼれ落ちる。
 
 だがそのとき、頭目は不自然に息を呑んだ。
 彼に銃口を向けられていたルキアンが、ゆっくりと目を見開き、一転、今までとはまったく違う口調で話し始める。
「まず教えよう。後悔したくなければ聞くがいい」
 彼がそう言うが早いか、その場をすべて飲み込み、凍てつかせるような、吐き気を催すほどの威圧感がルキアンを中心に広がった。
 ――おにいさん? 違う。これは、違う人……。でも、遠い昔、この人とどこかで会ったことがあるような、懐かしいような。
 自分の知るルキアンではない姿に違和感を覚えつつも、エレオノーアは彼を凝視する。たとえ不完全でも闇の御子であるエレオノーアが、ルカ・イーヴィックに関する遠い記憶を引き継いでいるのは当然のことだ。
 一方、ルキアンは、いや、ルキアンの姿を借りた者は、人差し指を立てて目を細めたかと思うと、腐っても僧侶、落ち着いた説教を連想させる物言いになった。
「では、一つ目。ネクロマンサーと対峙したとき、決して彼らに触れられてはいけない。なぜなら高位のネクロマンサーは、自らも《不死者(アンデッド)》と同じ。その指先は生ける者を麻痺させ、毒で侵し、体力や魔力を吸い取り、時には触っただけで命をも奪う」
 ――か、身体が、動かねぇ……。
 山賊の頭は、いつの間にか体中が完全に痺れていることに気づいた。ルキアンは頭目の握りしめている拳銃を悠々と奪い、背後に無造作に投げ捨てた。そして右手を前方に突き出すと、指で何かを招く仕草をする。
「二つ目。ネクロマンサーの呼び出す不死者はたしかに恐ろしい。だが、ネクロマンサーはそれ以上に強い。気を付けろ。そうでなければ、死霊たちを従わせることなどできはしないからだ。遊んでやれ、《惨禍の騎士》よ」
 その言葉に応じて、手前の地面が揺れ、地表を押しのけて灰白色の何かが盛り上がってくる。まず頭部を見せ、するすると這い出し、地の底から全身を現したそれは、穴だらけの黒い衣に身を包み、赤い楯と青白く不気味な輝きを宿す長剣とを持った、骸骨の騎士だ。同じように次から、また次へと、地面から白骨の騎士たちが姿を現す。
「だから、この呪われた骸骨たちがいくら恐ろしいからといっても、間違っても俺と戦う方がましだとは考えないことだ」
 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、人の限界を遥かに超える強さの不死の剣豪たちは、容赦なく山賊たちを切り刻んでいた。頭目以下、一人残らず殺戮の嵐に巻き込まれ、屍の山が築かれた。穏やかな谷の風景も血だまりの海に変わった。
「最後に三つ目。大抵の不死者には心がない。だから彼らには、恐怖も躊躇も、憐憫も損得勘定もない。今ので実際に分かっただろう? いや、そうだったな、お前たち……俺の助言を活かす機会を永遠に失ったな。何なら、お前たちも不死者にしてやろうか。いや、やめておこう。素材の質が低すぎる」
 淡々と語ったルカの心にも、また、一切の乱れがなかった。あたかも彼自身、もはや人間ではなく不死者であるかのように。
 
 ――返すぞ、ルキアン。お前の体。
 ルカの心の声が響き、ルキアンは意識を取り戻す。
 その体が自分自身のものだと、再び感触が戻ってくるのを確かめる間もなく、ルキアンは飛び出していた。
「エレオノーア!」
「お、おにい、さん……」
 エレオノーアも落ち着きを少し取り戻したようだ。安堵の空気に包まれた二人だが、やがて遠慮がちにエレオノーアは首を振った。
「あ、あの、ですね……おにいさん。こんな格好……すごく、恥ずかしいです。早く、縄をほどいて、ほしい……です」
「そ、そ、そうだね。ごめんね」
 彼女の言葉にルキアンも頬を染め、申し訳なさそうに、なんとも言えない表情でエレオノーアの戒めを解いた。その途端、今までおずおずと喋っていたエレオノーアが、ルキアンの胸に思い切り飛び込んできた。そのまま二人とも後ろに倒れてしまいそうなほどに。
「おにいさん、私のおにいさん!」
 言葉にすることで彼の存在を確かめるかのように、エレオノーアは繰り返し呼ぶのだった。
 ぐしゃぐしゃに泣き 、それでいて、泣き腫らした顔に心からの微笑みも浮かべながら。
 
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