鏡海亭 Kagami-Tei  ネット小説黎明期から続く、生きた化石?

孤独と絆、感傷と熱き血の幻想小説 A L P H E L I O N(アルフェリオン)

・画像生成AIのHolara、DALL-E3と合作しています。

・第58話「千古の商都とレマリアの道」(その5・完)更新! 2024/06/24

 

拓きたい未来を夢見ているのなら、ここで想いの力を見せてみよ、

ルキアン、いまだ咲かぬ銀のいばら!

小説目次 最新(第58)話 あらすじ 登場人物 15分で分かるアルフェリオン

第56話(その5)イアラの世界、エレオノーアの歌

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物語の前史プロローグ

 


5.イアラの世界、エレオノーアの歌


 
「笑える……。《あれ》は、本当に神様じゃないかしら。だって、こんな醜い世界を《再起動(リセット)》して、最初からきれいにやり直させようとしているのだから。《御使い》も、そんな神の意志を実現しようとする天使かもしれない。アハハハ、そうだよ、そうに違いないもん!」
 灯りの消えた部屋に座り込んだまま、イアラは甲高い声で笑い出し、この世界と人間に対しておよそ思いつく限りの怒りと憎しみの言葉をぶつけ始めた。やがて声は枯れ、彼女は涙を垂れ流しながら、力なく床に両手をついた。苦しげに胸を抑え、肩で息をしているイアラに対し、アムニスは、その身を実体化して彼女を支える。
 イアラの呼吸が整ってきたのを見計らい、アムニスは彼女と意識を共有する。他のパラディーヴァと同様、現在、アムニスもアマリアと《通廊》でつながっており、支配結界《地母神の宴の園》の中で何が起こっているのかを、アマリアを通じて手に取るように把握することができる。そしてアムニスを介し、マスターのイアラも、御使いの竜と戦う御子たちの姿を心に鮮明に浮かべることができた。
 幾重にもうねりながら宙空を埋め尽くす長大な尾と胴、輝く六対の翼を広げた四つ首の巨竜。言葉で語られ得る限りで最も遠い、どんな古の時代よりも、さらに久遠の彼方に霞む開闢のときから、この世界の背後に存在するもの――万象の管理者《時の司》、すなわち《始まりの四頭竜》。それを絵に描いた程度のものでしかない虚ろな似姿ですら、御子たちをこうして圧倒し、人の子がどれだけちっぽけな存在にすぎないのかを如実に知らしめている。
 四頭竜の姿は、目に見える形を取った絶望そのものであった。イアラは何か言おうとしたようだったが、言葉を呑み込んで、ただ口を開いたにすぎない。そのまま呆然と唇を緩めたままの彼女。人知を超えた御使いの印象は、イアラの麻痺した心さえも揺るがすものであった。内心の微かな畏怖の感情が大きく膨らみ、彼女の表情にもありありと現れ出るほどに。
 
「どうだ、怖いだろう?」
 日頃は気取った表現も多いアムニスが、率直に、ごく簡潔にイアラに問うた。
「彼らも、とても怖いに違いない。それでも戦っている。なぜ、何のためにだと思う?」
 答えがすぐには浮かばなかったのか、それとも答える気が無いのか、黙ったままのイアラに対し、アムニスが先程よりも言葉に熱を込めて告げる。
「御子が御使いたちと戦い続ければ、《今回の世界》が守られるから? その分だけ滅びの日が来るのは後になり、《人の子》たちは、より長く生き延びられる? だが、そういったことは《結果論》だ。彼らが戦う本当の理由はそこにはない」
 こうしている間にも、四つ首の神竜の魔力に押されながら、それでも《天使の詠歌(エンゲルス・リート)》の効果を必死に封じ込めている少年と少女。彼らを支える御子とパラディーヴァたち。その無謀にすらみえる戦いの光景を、イアラは突き付けられている。彼女の空っぽの胸に、アムニスの言葉が反響した。
「彼らも君と同じ、《予め歪められた生》の呪いを背負って生まれてきた。だから御子たちはそれぞれ、この世界に対して違和感、あるいは嫌悪の情すら覚えていたり、人間の中で孤独や疎外感に苛まれていたりする。たとえば彼のように」
 アムニスに促され、イアラがみたのは、以前にも目にしたことのある少年の姿だった。眼鏡をかけた脆弱そうな銀髪の少年が、魔力の著しい消耗に体をふらつかせ、意識を失いそうになりながらも、《光と闇の天秤(ヴァーゲ・フォン・リヒト・ウント・ドゥンケルハイト)》の力で御使いの竜に立ち向かっている。
「彼の世界は《ここ》ではなかった。あのルキアンという少年が信じていたのは……いや、信じることができたのは《空想》の世界だけだった。自分の中の閉ざされた世界で、光から目を背け、じっと息をひそめていた」
 暗がりに満たされた部屋をアムニスは見渡した。ここがイアラの《世界》だ。もう何年もほとんど外に出ず、彼女は一日の大半をここで過ごしている。他には特に目立ったものもないこの場所に山と積まれた画材や、描きかけあるいはすでに完成した様々な絵を、アムニスは慣れた様子で眺めている。
「その狭くて、いびつな居場所の中だけで、彼は、自身の空想の翼を自由に広げることができた」
 アムニスの視界には、イアラが思いを形にした、あるいは情念をぶつけた絵が所せましと並んでいる。中には、自然の風景や季節の花を題材にした作品、滅多に開くことのない部屋の窓からみえる庭園を描いた作品も少々ある。
 だが多くは、一様に暗く、息苦しく、画布の中から狂気が外にまで滲み出してくるような、陰惨で不気味な絵ばかりであった。無数の剣や槍の突き刺された墓場と思われる場所で、真っ赤な夕日を背に首を吊る男。動物の死骸らしきものを手に下げ、表情の抜け落ちた顔で、異様に大きい口を開けている子ども。多数の手、鋭い爪を持った妖怪が、人影を引き裂き、つまんで呑み込み、飽食している姿。秩序のない色合いで乱雑に殴り重ねられた線の上、怨霊のような顔を持った女が叫ぶ姿。陰鬱な笑みを浮かべた三日月のもと、黒い衣をまとった死の天使たちが誰かを探している様子。
 こうして彼女が描き出したのは、悪夢の只中にいるような昏き夢の世界だ。
「だが、彼は時々、閉ざされた暗い世界から、恐る恐る外を覗き見たくなることがあった。あたたかいもの、きれいなものにも、ふれてみたいことがあった」
 言葉静かにアムニスが語る。自分でも知ってか知らずか、イアラは身じろぎもせずそれに耳を傾け始めた。
「けれども、そういうとき、異界から這い出てきた獣を相手にするかのように彼をさげすみ、踏みつけにする者は少なくなかった。慌てて彼は、元の暗闇に心を逃げ帰らせる。だが今度は、彼の存在自体を危機に陥れ、この世界の平穏そのものを乱す戦争がはじまった。それに巻き込まれ、泣きながらあがいていくうちに、彼は新しい世界を手にし始めた。本当に彼のことを思う者たちが、手を差し伸べてくれた。その絆を守るために、自分自身にとって大切なものを奪われないために、ルキアンは戦っているのだと思う」
 夜のとばりと、分厚いカーテンとによって重く閉ざされた窓の方へ歩みながら、アムニスが言った。
「彼は君に似ている。孤独な闇の世界に安住を求めながらも、漏れ伝わってくる微かな光に本当は憧れを感じ、それに心惹かれながらも歩み出せずにいた。だが、彼は歩き始めた」
 窓際に少したたずんだ後、青い長髪を揺らめかせ、おもむろに振り返ったアムニス。
「君も恐れずに手を伸ばせ、彼らとともに心を集わせよ、イアラ」
 何か答えようとして、イアラが口を空けたが、そこで彼女は再び黙ってしまった。無言で待つアムニスに、イアラが遠慮がちに話し始めた。
「それは……。だけど、こわい。できないよ……。もっと、私に信じる勇気があれば」
 アムニスがイアラに歩み寄り、少し強引に顔を覗き込むと、イアラは無意識に一歩退いた。後ろを探った彼女の手が壁に当たる。アムニスがさらに踏み込んで、イアラは壁際に追い込まれるようなかたちになる。どういう気持ちの表れかは分からないが、震えて、目を大きく開いたイアラ。アムニスは、パラディーヴァ独特の青い瞳を輝かせて言った。
「マスター。失った勇気は、向こうから帰ってくるものではない。自分自身で取り戻すものだ」
「うぅ……」
 呻き声のような言葉を小さく口にし、イアラはうつむく。
 だがそこで、アムニスとイアラの心の目に恐ろしい光景が映った。
「あのドラゴンが再びブレスを放とうとしている。敵の《天使の詠歌》を抑えるだけで精一杯である今、灼熱の炎に襲われたら、彼らには防ぐすべがない!」
 御使いの竜の四つの首、それぞれの口元から今にも暴発しそうに炎が漏れ出しているのを、アムニスとイアラは目の当たりにする。
「君が必要だ、イアラ!!」
 アムニスが彼女の名を叫んだ瞬間、二人の《視界》は閃光と爆炎に遮られ、次いで天空まで濛々と立ち昇る煙が見えた。
 
 ◇
 
 神竜のブレスは、御子たちを焼き尽くし、この世から一瞬で消滅させたかにみえた。だが、その火焔の嵐が過ぎ去った後、なおも踏み留まる御子たちの影が目に映った。
 彼らを守り、御使いの竜に立ちはだかった小さな勇者が、ふらふらと空中に漂う。
「火には火を、ってね……。どうよ、そう簡単には、やられてあげないから」
 苦しげにつぶやきつつも、やせ我慢して四頭竜に向かって中指を立てているフラメアが、力尽き、目を閉じて落下した。慌ててグレイルが抱き止める。腕の中に簡単に収まるフラメアの小柄な体。まるで大人に抱き上げられた子供のようだ。
「無茶しやがって! 《炎》のパラディーヴァが、焼け焦げちまってどうする」
「あたしの炎の攻撃は、あいつにはあまり効かない。だけどそれは、向こうも同じ……はずなんだけど、それでもかなり痛かった。舐めてたかな」
 竜が炎のブレスを吐いたのと同時に、飛び出したフラメアは、燃え盛る盾のような魔法壁を創り出し、相手の《火》の属性の力に同属性の力を正面からぶつけたのだった。フラメアが相当の傷を負いながらも無事であるのをグレイルは確信し、安堵の溜息をついた。彼は敬礼のポーズを取り、わざとらしく厳かな調子で告げる。
「さらばだ、炎のパラディーヴァ、フラメア。嗚呼、君の名は英雄として語り継がれるだろう」
「こ、このお馬鹿! 勝手に退場させるな」
 こんなときにも冗談を言い合っている二人の様子をみて、エレオノーアが悲壮な面持ちの中にも口元を緩めた。
「おにいさん。あの人たち、こんなに苦しい戦いの中でも、不敵に笑って決して諦めていないのです」
 揺れる銀髪の向こうに、意志の力を秘めた目を輝かせるエレオノーアの横顔。それを見ながらルキアンも応じる。
「そうだね。僕らも、まだ諦めるわけにはいかない。多分、また《天使の詠歌》が来る。僕らの《光と闇の天秤》の効果は消えちゃったけど。でも、何度だって……」
 地面に膝をついていたルキアンが再び立ち上がる。ふらつきながらも互いに支え合って立つエレオノーアが、彼の言葉に頷いた。
「はい、絶対負けないのです!」
 ルキアンを励まそうと、必要以上に気力を込めて言ったエレオノーア。だがルキアンは、上級の闇属性魔法を休みなく濫発しており、彼の心身は疲労の限界に近づいている。もし、アマリアの《豊穣の便り》の刻印によって魔力を分け与えられていなかったなら、とうに彼が倒れていてもおかしくない状況だった。
 ――おにいさんは魔力を使い過ぎています。御使いが《天使の詠歌》を次に発動させるとき、さっきと同じように《光と闇の天秤》で防ぐことは、もう無理なのです。
 さらにエレオノーアは、他の仲間たちの方を見回す。幸い、アマリアとフォリオムは見た目には今までと変わらない。だがフラメアは竜のブレスに正面から対抗して深手を負った。彼女に守られたにせよ、それでも《炎》属性と元々相性の悪い《風》属性のカリオスとテュフォンも、少なからぬダメージを受けているようだ。
 ――《光》属性の御使いに対して効果的に戦えるのは、おにいさんの《闇》属性の魔法。ここで、おにいさんを回復してもらうためには、アマリアさんがかなり上位の魔法を詠唱するための時間が必要。だから、その時間を稼ぐために、《天使の詠歌》を私が何としてでも防がないといけないです!
 エレオノーアは拳を固く握る。その目は、いつになく真剣で、彼女は何か重大な決意をしたらしい。
 ――ルチアさん。あなたから託された《歌い手》の力、わたしにも、もっと引き出せるでしょうか。やってみます。見ていてください。
 炎のブレスに続いて、やはり再び《光》属性の《天使の詠歌》を発動しようと、四頭竜が魔法力を集中し始める。思い通りに動くこともままならない仲間たちの傍を通り過ぎ、エレオノーアが御使いに向かって立ちはだかった。
 ――我とともに歌え、《言霊の封域》。
「わたしはルチア・ディラ・フラサルバスを継ぐ者、この身に宿るは《光と闇の歌い手》の力。わたしの歌は、人魚の歌姫(セイレーン)のごとく心をとらえ、泣き女の精(バンシー)のごとく敵を狂気に突き落とす。天の歌い手すら、わたしの声には心震わせ、我を忘れるだろう」
  《言霊の封域》によって《歌い手》としての能力強化を自身に掛けつつ、エレオノーアは、使い方を覚えたばかりの例の支援衛星《マゴス・ワン》にサポートを依頼する。この衛星は、本来はアルファ・アポリオンを核とする戦略システムの一部なのだが、それを彼女は早くも自身の手足のように扱っている。
 ――《マゴス・ワン》へ、エレオノーアより緊急通信なのです。《メルキア》さん、さきほど記録した《天使の詠歌》の音を分析して、それを最も効果的に打ち消すことのできる魔曲を生成してください。それでですね、曲調は、厳かな雰囲気がいいかな。前新陽暦時代のレマリア風?みたいに。粛々と勇士を讃える歌、という感じで。依頼はできるだけ具体的に、でしたよね。
 ――お帰りなさい、《リュシオン》(=エインザール)の遥か未来の友人、エレオノーアさん。《マゴス・ワンの柱のAI》こと《メルキア》です。《詠歌》の分析は完了しています。これを打ち消す強力な呪力のノイズなら、もう何パターンか準備してありますが、歌の方がお好みですね。はい、人間の感覚ではそうなるのですね。了解……。曲データが完成しました。転送します。どうぞ、良き舞台でありますように。
 無言のわずかなやりとりのうちに、エレオノーアの青い瞳に不思議な自信が浮かび上がった。
「何を? 戻れ、独りでは危ない!」
 アマリアが叫び、ルキアンが後を追って駆け出す中、エレオノーアは目を閉じ、静かに、大きく息を吸い込んだ。そして御使いの呪歌が始まったとき、エレオノーアも澄んだ声で歌いはじめた。
「これは!?」
 人間の精神を破壊する《天使の詠歌》の発動に身構えたアマリアだったが、何かの異変に気付いたようだ。
 すでに頭を抱えていたグレイルとフラメアも、拍子抜けしたような顔で見つめ合う。
「御使いの呪歌が響いているのに、頭が痛くない。いったい何故なんだ」
「キミの場合、脳みそが入ってないからじゃない?」
「うむ。……って、お前な!」
 騒がしい《炎》の組に比べ、目立ちはしないが、この戦いにおいて常に沈着な《風》の組。マスターのカリオスが言う。
「この歌は? よく分からないが、《天使の詠歌》と重なり、その波動と混ざり合い、打ち消しあっているかのようだ」
 カリオスの言葉に気づいて、御子たちが視線を集めたその先には、神々しい空気感を伴って声を響かせる少女の姿があった。
「エレオノーア、その歌は」
 ルキアンには思い当たるところがあった。闇の血族に受け継がれてきた、代々の御子の記憶の中に。
「《光と闇の歌い手》、ルチアの……」
 12枚の翼を広げ、押し寄せる津波のごとく《天使の詠歌》を轟かせる御使いに対し、エレオノーアは、あくまでも静かに、胸元で両手を合わせて歌っている。だが不思議なことに、御使いが声をますます大きくするほど、逆に、風に木々がそよぐように、ごく穏やかなエレオノーアの歌が、相手の呪歌と混じり合ってその音をかき消していく。
「あの娘には、本当に何度も驚かされるな」
 自分では魔法をほとんど使えない《アーカイブ》のエレオノーアが、特殊能力である《歌》を使って《天使の詠歌》を防いでいることに対し、アマリアは素直に賛辞を贈った。だが彼女の深刻な表情は何ら緩まない。
「しかし、ここまでやっても、我々はただ、敵の攻撃から身を護り、何とか生き延びているという程度か。このままでは、いずれこちらの方が先に消耗し、地力の大きさの違いで御使いに力負けしてしまう。五属性の御子が心を一つにして《星輪陣》を使わぬ限り、我々は勝てない」
 
「イアラ、すべては君にかかっている。私の占いもそう告げていた」
 
 
【続く】
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第56話(その4)響き渡る天使の詠歌、目覚める御使いの竜の力

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物語の前史プロローグ

 


4.響き渡る天使の詠歌、目覚める御使いの竜の力


 
 アマリアの描いた五芒星陣の頂点のひとつに、不意に炎が浮かぶ。それは激しく燃え上がり、宙に逆巻いて少女の姿を取った。
「《炎》のパラディーヴァ、フラメア様参上! 一番乗りだわさ」
 彼女は周囲を見回し、ルキアンの姿を認めると、真っ赤な髪を振り乱していきなり食って掛かった。
「あんたが闇の御子? リューヌはどうしたのよ、リューヌは!?」
 ルキアンは気まずそうに視線をそらし、何度も言葉に詰まった。
「リューヌは……。その、僕のせいなんだ。僕が弱かったから、彼女は……」
「そうよ! 後でぶっ飛ばすからね。あのリューヌが消滅するなんて、マスターのあんたがよっぽどダメダメだからでしょ」
「おいおい、いきなり乱暴なこと言うなよ。悪いな、こいつ、口のきき方ってものを知らなくて」
 いつの間にかフラメアの後から出てきた金髪の男が、頭を掻きながらルキアンに愛想笑いをする。気さくそうな印象だが、頭髪や髭など、全体的に少し無精な雰囲気も漂わせている。結界の外から送られてきた思念体がまだ安定していないためであろうか、時々、彼の輪郭が揺らいだり、画質の粗い映像のように姿がぼやけたりしていた。
「俺はグレイル。君と同じ、御子だ。《炎》の。よろしく頼む。で、こっちのガラの悪いのが、相棒のフラメア」
「こら、何が悪いって?」
「よろしく、お願い、します……。あ、僕はルキアン」
 
 多少困惑しているルキアンの挨拶を、アマリアの声が打ち消した。
「竜が動くぞ。呑気に自己紹介している余裕はない」
 ルキアンの放った《シャローンの鎌》で重力の呪いを掛けられ、容易には身動きできないほど重くなっているはずの四頭竜が、それでも強引に御子たちに突進してくる。その巨体と迫力たるや、こちらに向かって山脈が一気に崩れ落ちてくるかのような、とてもこの世のものとは思えない威圧感だ。
 一瞬、立ちすくむグレイルとルキアン。対照的に、口元に好戦的な笑みを浮かべ、二人の前に出るフラメア。だが突然、空間そのものを引き裂くような爆風の大断層が、彼女と御使いの竜との間を走り抜けた。両者は暴風の壁に切り離される。凄まじい勢いで気流が上昇し、吹き飛ばされそうになりながらも、フラメアが拳骨を振り回している。
「危ないだろ、《風》のクソガキ! あたしらまで切り刻むつもり?」
「そう? 君たちなら簡単に避けられるだろうと思って、気にしてなかったよ」
 一陣の風と共にルキアンたちの前に現れたのは、空色の羽衣をまとって宙に舞う気儘な男の子。彼、《風》のパラディーヴァ・テュフォンと、それに。
「あ、あなたは。エクター・ギルドの……先日、ネレイの街で……」
 森の木々を想起させる深い緑色の髪、ただでさえ細い目が無くなってしまいそうに、伏し目がちで、物静かな表情。そこにいるのは、ネレイの運河沿いでクレドールの乗員たちがくつろいでいたとき、特段に目立った様子もなく通りがかったあの男だ。平凡な風貌からは想像し難いが、その実、ギルド最強のエクターに他ならない。この強烈なギャップをルキアンは忘れることができなかった。
「カリオス・ティエントさん」
「君は、たしか、クレドールの」
 決して不愛想というわけではないにせよ、どちらかというと口数は控えめなカリオスが、ぶっきらぼうに呟いた後、微笑を浮かべた。
 
 だがそのとき、エレオノーアがいつもより声を大きくして言った。
「竜の中心部から、今までにない魔力が急激に高まってきます! ものすごいです、何もかも飲み込みそうな、巨大な《光》属性の力の渦です!!」
 テュフォンが創り出した暴風の境界を避け、御使いの竜はいったん上空に後退している。だが勿論、逃げたわけではなかった。長い尾と四つの首をすぼめ、球状になって空中で静止している姿は明らかに不自然だ。
「お、おい、これは……。急に、脳みそを揺らされているような感じで、気持ち悪くなり始めたんだが。やばいんじゃないか?」
 頭を抱えるグレイルの姿を見て、アマリアには思い至るところがあった。
「大気に波動が伝わってくる。知っている、この感じは……。あれは竜の姿をしているが、魔物ではなく天に属する存在、《御使いの声(エンジェリック・ヴォイス)》が来るぞ、気をつけろ! 《闇》以外の属性では防御困難だ」
 その間にも四頭竜は白熱する光に包まれ、巨大な光球となり、透明な輝く翼が一枚、また一枚と竜の背から花咲くように広がってゆく。その翼が完全に、おそらく12枚の翼が開き切るとき、何か恐ろしいことが起こりそうであるのは分かった。
「化け物め。とうとう本気を出してきたようじゃ、《人の子》相手に……。《闇》の嬢ちゃん、どうしようかの」
 それまで飄々と目を細めていたフォリオムの顔つきが変わり、老練さを感じさせる眼差しがエレオノーアに向けられた。彼女はすでに次の一手を持っているようだ。《闇のアーカイブ》を司る彼女なりの最適解、ここにきて迷いも恐れもない表情で、エレオノーアはルキアンに告げる。
「おにいさん、今から伝える呪文を復唱してください、早く!!」
 エレオノーアが呪文を口にし、言われるがまま、その言葉をルキアンが繰り返す。
「光あるところ、必ず影あり……」
 少女の言葉を追う少年の言葉。繰り返すうちに、両者の距離は縮まり、二つの声はひとつに近づく。
「光強きところ、影もまた色濃く。昼と夜は、とこしえに繰り返し」
 エレオノーアが呪文を口に出すより早く、彼女の心に浮かんだそれがルキアンに共有され、同時に発声されているのだ。
 そんな彼らの変化を目の当たりにして、フラメアが興奮気味に言った。
「何よ、あの子たち! 完全に《魔力共鳴(シンクロ)》してる。あの娘、パラディーヴァでもないのに、あり得ない。違う……まさか、同じ時代に闇の御子が二人!?」
 ルキアンの左目の紋章とエレオノーアの左目の紋章が同時に輝きを増し、次の瞬間にいずれの瞳も闇色に染まる。ルキアン、そしてエレオノーアの髪も漆黒に変わった。大嵐の中のように二人の髪が舞い上がる。
 
 闇は光に、光は闇に。
 相克せよ、根源の両極。
 それは絶対にして永遠の理(ことわり)。
 青天の日輪、常夜の月輪(とこよのげつりん)。
 天界の槍を受け止めよ、冥界の楯。
 
 エレオノーアとルキアンの声がひとつに重なる。《光》属性による効果のみを、ただし完全に打ち消す《闇》属性の絶対防御呪文が完成する。
 ――もしこれで防げなければ終わりなのです。すべて託します、おにいさん!
 
「《天冥相殺・光と闇の天秤(ヴァーゲ・フォン・リヒト・ウント・ドゥンケルハイト)》!!」
 
 わずかに遅れ、12枚・6対の光の翼を四頭竜が開き、悠々と、空を覆い尽くすように羽ばたかせる。
 
 ――畏れよ、跪け、罪深き人の子ら。
《天使の詠歌(エンゲルス・リート)》
 
 天から降り注ぐ、輝く霧雨にも似た光とともに、たちまちに心奪う清麗たる歌声、しかしながら聴く者を狂気の底に突き落とす御使いの呪歌が、周囲一帯に響き渡った。
 ルキアンとエレオノーアが互いの手を取り、握り合って前に突き出す。御使いの歌とルキアンたちの魔法が正面からぶつかり、拮抗している。だが明らかに《光》側の力、天の御使いたる四頭竜の方が優っており、このままでは、じきにルキアンたちは押し負けそうだ。
「全員で支えるぞ。フォリオム」
 アマリアがルキアンとエレオノーアの後ろに立ち、彼らに急激に魔力を送る。彼女のパラディーヴァ、フォリオムが光となってアマリアの体に溶け込む。一体化してさらに力を高めるつもりだ。
「マスター、あんたも早く、力を貸しなさいよ!」
 同じようにフラメアがグレイルとひとつになる。グレイルのまとうオーラが爆発的に高まり、真っ赤な光を放って紅蓮の炎のごとく渦巻いた。
「テュフォン、俺は今まで、魔法など使ったことがないんだが……」
 落ち着いているにせよ、ひとり残って突っ立ったままのカリオス。彼の肩のあたりに、ふわりと乗るようにして、テュフォンが耳打ちする。
「安心して、僕とひとつになって」
 押し負けそうになっていたルキアンとエレオノーアが、三人の御子とそれぞれのパラディーヴァの力に支えられ、《光と闇の天秤》の効果が御使いの呪歌を再び押し返す。一進一退。だが神竜は、余裕を見せつけるかのように四つの首をもたげ、轟雷にも等しい雄叫びとともに、さらなる力を解き放った。
 その強烈な勢いに、エレオノーアは思わず目を閉じる。
 歯痒そうな表情でアマリアが首を振った。
「押されているぞ。まがい物だとはいえ、さすがに《始まりの四頭竜》の力を一部でも得た相手。こちらには頼みとなる《闇》属性のパラディーヴァが居ない。厳しいな。いや、その前に、まだ足りない……」
 
「もう一人、《水》の御子はまだ来ないのか。彼女も、アムニスも何をしている?」
 
 ◇
 
 真っ暗な部屋の中、独りで過ごすには広すぎる空間。
 灯りさえ何ひとつ点けられておらず、すべてが闇に呑まれた、もう長らく時に忘れられた部屋。
 これが今の彼女にとっての《世界》だ。ただひとつ、許された居場所だ。
 
 暗闇の真ん中に、ヴェールを目深に被り、仕立ての良い黒の衣装を着た女性が座り込んでいる。時々、身を小さく振るわせる他には、彼女は凍りついたように動かず、何の変化もない周囲の暗さも相まって、本当に時が止まっているのかとしばしば錯覚しそうになる。
「我が主、イアラよ。君の力が必要だ。御使いの竜の力は想像以上に強い」
 暗がりに微かな光を従えて、水のパラディーヴァ・アムニスが、たまりかねて言葉を発した。流れるような青き長髪に、怜悧な瞳。彼の表情自体は常に冷静だが、内心までそうであるとは限らない。穏やかな水面(みなも)の底で、渦巻く暗流のごとく。
 《水》の御子・イアラから返事は帰ってこず、閉ざされた部屋いっぱいに再び静寂が広がる。アムニスがさらに何か告げようとすると、ようやく彼女は無言で首を振った。
「何度も言わせないで。いまさら、都合、よすぎる……。こんな世界のために、こんな人間たちのために、戦って、もし私が死んだなら……」
 涙をのみ込み、喉をしゃくり上げると、イアラは狂ったように憎悪を吐き捨てた。
「そんなの、私、ただの馬鹿みたいじゃない! アハハハ、おかしいよ!! 頼まれてもいないのに? 頼まれるどころか、私は憎まれ、傷つけられ、この世界から排除されただけ」
 
「私なんて居ない方がよい世界。それが《人の子》たちの、あなたたちの世界なら……自分たちで戦って、勝手に死んだら?」
 
【第56話(その5)に続く】
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第56話(その3)絆の力

目次これまでのあらすじ | 登場人物 鏡海亭について
物語の前史プロローグ

 


3.絆の力


 
 それは爆炎。絶大な魔法力の集中が頂点を迎えたとき、四つ首の神竜が咆哮し、瞬時に閃光が視界を呑み込み、嵐の如き爆風と灼熱の炎が牙を剥いた。そして、それは煉獄。《御使い》の化身、《始まりの四頭竜》の似姿は、自然の力を超越した炎と熱を猛り狂わせ、現世に呼び出された異界の獄炎は、ルキアンたちの姿をたちまちかき消した。それでも竜は、勢いを緩めず超高温の炎を吐き続ける。
 すべてを焼き尽くす紅蓮の激流の先、噴き上がる爆煙の向こうに、六角形の板状の光が無数に輝き、幾重にも壁を作って竜のブレスを受け止めている。その防御結界を挟んで、一方には四つの頭を持ち上げ、火力をいっそう強める御使いの竜が、もう一方にはルキアンとエレオノーア、アマリアとフォリオムの四人が互いに宿敵と対峙する。
 決死の形相で両手を突き出し、結界を内側から押すようにして魔力を注ぎ込んでいるルキアン。彼の隣ではエレオノーアが状況の変化を刻々と伝え、サポートする。
「第一防壁、第二防壁は最初のブレスで消失! 第三防壁も、損傷率85%……いま破壊されました。第四防壁の損傷率35%、おにいさん、防壁パターンを組み替え、正面に集中します!」
 結界を構成する手のひらほどの六角形の光が、エレオノーアの声に応じて移動し、特に側面からルキアンたちの正面へと集まって結界をいっそう厚くし、同時に全体として平板な形状から丸みを帯びた盾のような形状に変化していく。ルキアンが防御魔法で結界を展開し、支えている中、エレオノーアは敵の出方やこちらの被害状況に合わせて、随時、結界を最適化しているようだ。銀色の神秘的な髪、儚さと強さを宿した青い瞳、同じ《しるし》を共にもつ二人の若者が戦う姿を、フォリオムが眩しそうに見つめる。
「うむ、この見慣れぬ結界は、《旧世界》のアルマ・ヴィオによる魔法防御を思わせる。純粋な魔法というよりは、むしろ、いにしえの高度な魔法と科学の融合……《対魔光壁(アンチ・マジック・バリア)》に近いじゃろうか。《降喚(ロード)》された《聖体》が人の姿をとった者たち、真の闇の御子は、こんなものまで生身で操るのか」
「彼らの力……。フォリオム、二人の御子は我らの理解を超えている。一度は消滅したエレオノーアは、こうして蘇った。ルキアンは、二つ目の闇の紋章を呼び覚ますという奇跡によって、《あれ》の因果律を乗り越えて彼女を取り返したのだ。真の闇の御子は二人で一人。そう……」
 アマリアはしばし俯き、そしてまた天を見上げて呻くようにつぶやいた。
 
「死すらも彼らを分かてなかった。これが、《絆》というものか」
 
 アマリアたちの告げたことを省みる余裕も勿論ない中、闇の御子二人は神竜のブレスになおも立ち向かう。
「おにいさん、第八防壁の損傷率50%を超えました。もうすぐ突破されます!!」
 ルキアンたちを竜の炎から護る最後の障壁が、いまにも失われようとしている。だがエレオノーアの真剣かつ落ち着いた表情は、彼女が何ら勝負を諦めていないことを物語っている。彼女はルキアンに体を寄せ、小声でささやいた。
「《盾》は《鏡》に。おにいさんは、さらにその次の呪文を」
 ルキアンは、平然とした彼女の姿に目を見張りつつ、対照的にかなり動揺している自身の気持ちを表に出さないよう、黙って頷いた。エレオノーアと言葉を交わしたことで、ルキアンは少し落ち着いたようだ。彼の瞳には、エレオノーアに対する絶対的な信頼が漲っている。それは、これまで彼が、自分自身も含めて、この世界のどんな人間に対しても心からは向けられなかった思いだった。
 そんなルキアンの瞳を見つめ、エレオノーアも嬉しそうに一度頷いた。
 ――わたしは《失敗作》なんかじゃない。おにいさんと一緒なら、おにいさんの《アーカイブ》になれたのだから、わたしだって……。
 彼女とルキアンを囲む複合立体魔法陣が――それぞれに文字や記号が細部までびっしりと書き込まれた光の円陣が、大別して約6層に積み上がり、高さは彼らの背丈を超えている――その複雑怪奇な機構が動き出し、各層が入れ替わって形を変え始めた。
 今にも砕け散りそうなルキアンたちの結界を前にして、四頭竜は、とどめとばかりに火勢を一気に強めた。残された結界に亀裂が走る。だが、そのとき。
「鏡に映る汝を見たか。それは今際の顔……闇に消えゆくその目に、焼き付けよ……」
 ルキアンが詠唱する。いや、それは呪文ではなく、すでに詠唱済みの呪文を発動させるための鍵となる言葉だった。
 小さく息を吸い込んで、彼は一言ずつ刻み込むように言った。
 
「《影の魔鏡(ツァウバーシュピーゲル・イム・シャッテン)》」
 
 ルキアンの前の空間が歪み、陽炎のように揺らぎながら、見上げるほどの高さの《魔鏡》が顕現した。いばらのツタと骸骨の手足の装飾で埋め尽くされた禍々しい鏡は、これが《闇》属性の高位魔法であることを無言のうちに告げている。結界が全壊したのはその瞬間だった。これと入れ替わりに、魔鏡の表面に不気味な人影が浮かんだような気がした。その影が口を吊り上げて冷笑すると、影の魔鏡は、あたかも亡者の肌の色のような、呪わしき青白い光に満ちた。
 そのとき何が起こったのか、簡単には把握できない。少なくとも、津波のごとくルキアンたちを呑み込もうとした竜の炎が、確かに逆流したように見えた。実際、その通りだった。気が付くと、四頭竜は自身が敵に吐き出した火焔に取り巻かれ、体中が火だるまになっている。
「おぉ、魔力反射(リフレクション)の類か!? 結界の後ろにそんなものを隠していたとは」
 フォリオムが声を上げ、その驚きも覚めやらぬ次の瞬間、二人の御子が動いた。
「今です、おにいさん!」
 ルキアンの左目に闇の紋章が浮かび上がる。
「冥府の川を渡せ……」
 なおも炎に包まれ、くすぶる御使いの竜の背後に、にわかに黒雲が湧き上がる。そこから稲妻とともに現れたのは、風に翻る空っぽの黒衣の下に、骸骨の顔だけをのぞかせた死神のような、あるいは練達の死霊術師が己自身を不死の術者(リッチ)に変えたような――いずれにせよ、それはおそらく幻影であろう冥界への導き手は、四頭竜に比べるとさすがに小さいものの、神話の巨人さながらに大きい。
 
「《シャローンの鎌》!」
 
 ルキアンの言葉とともに、死神の手に握られた大鎌が四頭竜に向かって振り下ろされる。
 だがその一撃は、竜の鉄壁の鱗や、それ以上に何か、不可視の護りの力に弾かれただけだった。
 ――天の系譜に属する者だけあって、即死系の魔法はやはり効かないですか。でも二撃目が本命です、おにいさん!
 エレオノーアの言った通り、ルキアンがすかさず次の力の言葉を発した。
「地の底に落ちよ!!」
 死神の鎌が竜の背に打ち下ろされる。刃の先端と竜の背の間で火花が散り、耳をつんざくような激しい音、そして大気を揺らして体の奥底にまで伝わってくる振動が、周囲に走り、さらに広がっていく。特に外傷はないようだが、それにもかかわらず竜の体に異変が起こった。宙に浮かんでいた四頭竜が突然に姿勢を崩し、地面に向かって落下しかけたのだ。再び浮かび上がるものの、竜の動きが遅く、見るからに鈍重になったように思われた。
 
「闇の御子たちよ、よく防いでくれた。おかげで私の方の準備も整ったぞ」
 涼しげな顔で告げるアマリアだったが、彼女にとっても、内心、二人の若き御子のここまでの働きは想定外だったようだ。
 ――たった二人だけでも、闇の御子は《御使い》相手にこれほど戦えるのか。まず結界でブレスの威力を削り、それでも受け切れない分は《魔鏡》の術で跳ね返す。もしいずれか一方だけだったなら、今ごろ我々は灰になっていただろう。そのうえで、なまじの攻撃は通らない敵を無駄に攻撃せず、重力魔法で動きを鈍らせるとは良い判断だ。しかもあれは《闇》の《地》の属性魔法。私の支配結界《地母神の宴の園》の中では、《地》属性と同様に効果が飛躍的に高まる。
 アマリアはエレオノーアの方を横目で見た。正確には、エレオノーアの作り出した精緻かつ大規模な立体魔法陣を改めて見ていた。
「先ほどの結界、失われた旧世界の科学道士の術に近い系統だな。恐らくアルフェリオンの《ステリア》の力と同様、《無属性》か。そこから闇属性の魔力反射に、闇の地属性の重力魔法の連撃……。そのために必要な魔法陣、これほど高度なものを、あのわずかな時間でどうやって構想して描いたのやら」
 深刻な状況のもと、エレオノーアは意外なほどにあっけらかんとした調子で答える。
「はい! おにいさんの《紋章回路(クライス)》を介してアルフェリオンのコア・《黒宝珠》にアクセスし、そこから周回軌道上の支援衛星のうち、《マゴス・ワン》とのデータリンクを復旧しました。それをこちょこちょと」
「こちょこちょ、か?」
「そうです。《マゴス・ワン》の《メルキア》さん、人間ではなくて、《えーあい?》とかいう種族の方らしいのですが、この方とお話して、《マゴス・ワン》の霊子コンピュータというのをこちょこちょと、触ってみたのです。それで、この魔法陣の設計と描画に必要な演算をお願いしました。頼んだ瞬間に、もう全部完了していましたが。すごいです!」
 エレオノーアが無邪気に語っている内容に、アマリアは寒気すら覚えた。彼女ほどの魔道士が、いや、彼女ほどの魔道士だからこそ、エレオノーアの行ったことの真価を理解できるのだ。
 ――正直、恐ろしいな。《あれ》に抗うためだけに、地を這う者たちの怨嗟が天を落とそうと、世界の摂理に背いて人間が人間を創る、しかもそのために多数の同胞、自分たちと同じ人間を生贄にするという……何重もの禁忌を犯して召喚された《聖体》の化身。
 
 ――彼らは、定められた因果の鎖を断ち切る刃。自らを《主》から閉ざそうとする世界が歪みの果てに呼んだ、《ノクティルカの鍵》の器。
 
 いつも白日夢の中にいるような面持ちをしているアマリアが、不意に右目を大きく見開いた。瞳に浮かぶのは大地の紋章。
「そして我ら御子は、彼らと共に戦う。今ここに心を集わせよ、自然の四大元素を司る御子たち」
 アマリアとその隣に従うフォリオムの足元から、地面を這うように一筋の光が走る。さらにもう一筋。次々と光が行き交い、彼らの立ち位置をひとつの頂点にして星を描き、続いて五つの頂点を光が結ぶ。古の時代より、数知れない術者に用いられ、基本にして最奥にまで至る魔法陣、五芒星の陣だ。
 そこに、いくつかの影が――アマリアと同じく、本人ではなく思念体が――姿を現した。
 
【第56話(その4)に続く】
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第56話(その2)予め歪められた生――イアラ、壊れた心

目次これまでのあらすじ | 登場人物 鏡海亭について
物語の前史プロローグ

 


2.予め歪められた生――イアラ、壊れた心


 
 ◆ ◆
 
「いま、君は心から助けを求めた。それは、君が自分以外の誰かを、まだ信じようとしていることの証だ」
 日没近づく藍色の空のような、濃い青の髪がなびき、同じく青の衣が翻る。
 長い髪を揺らしながら《彼》が振り返ったとき、荒野を貫く疾風さながらに何かが駆け抜けたかと思うと、いくつかの影が血しぶきを上げて弾け、切り刻まれた肉塊が折り重なった。それらは人に似ていたが、人間ではなく、たとえばオークやゴブリンのごとき亜人型の魔物のものだった。そして最後に、見えない無数の刃は、役目を終えると多量の水に変わり、空中から滝のように流れ落ちた。
「あなたは……」
 イアラは涙声で尋ねた。水の魔術がもたらした恐るべき結果を、それ以上に、誰かが自分を救いに来てくれたことを、まだ本当だと認識できない表情で、彼女は乱れた黒髪の奥から見知らぬ救い手を仰ぎ見る。
「俺はアムニス。古の契約により、君を守る」
 彼の落ち着いた声が心地良く沁み通ってくる。他人の背中がこれほど心強く感じられたことは、今まで彼女には無かった。
 好色な魔物たちに引き裂かれた着衣を、イアラは胸元で押さえ、床に座り込んだまま動かない。露わになった彼女の背中、二の腕や脚など、身体の所々に、爬虫類を思わせる濃い緑の鱗が痣のように浮かび上がっている。その姿は、竜と人間との間に生まれたという伝説上の《竜人》が蘇ったかのようだ。
 「こんな私を、あなたは助けてくれるの? アムニス……」
 彼を見上げるイアラの素顔は――いつものような薄布で覆われておらず、右半分は、ごく普通の若い女性のそれであるのに対し、左半分、額から目の周囲、頬の上の方にかけて、例の鱗が広がり、そこに大きく開いた左目には、焔の色で揺れる人ならぬ者の瞳が輝く。
「イアラ、君の《竜眼》はとても美しい。誇り高き竜の血を引く御子よ」
 アムニスは羽織っていた長衣を脱ぎ、彼女の震える肩からそっと掛けた。
「そんな高貴なわが主を、魔物呼ばわりして侮辱し、辱めようとした貴様らは万死に値する。いや、そう簡単に死ねると思ったら大間違いだ」
 人間に似ているだけに余計に目を覆いたくなる無残な魔物たちの死体と、そこから流れ出た毒々しい色の血だまりとを踏み越えて、アムニスは、ごく平然と歩む。先ほどイアラにかけた優しい言葉とは完全に異なる、温情の一片すら感じさせない、凍てついた響きで彼は告げる。
「ここで行われていたことは、おそらく、この王国の名誉のために決して外に漏らされることはないだろう。だから、貴様らがここで命を失っても、その事実も闇に葬られるだけだ」
 イアラたちの周囲は高い壁に囲まれ、かつてのレマリア帝国の円形闘技場を模した造りになっている。その分厚い壁の後方、ひな壇状になった客席部分では、仮面舞踏会のようなマスクで顔を隠した身なりの良い人々が、呑気に酒を呑みながらイアラたちを見下ろしていた。
 こんな噂がある。国の上流階級のうち、普通の娯楽ではもはや満足できなくなった者たちが、権力と金の力で裏の組織を動かし、口にするのもはばかられるような残虐あるいは淫猥な見せ物を違法に楽しんでいるのだと。これもその手の闇の催しのひとつであろう。
 だが、支配者たちの享楽の場は、アムニスによって、今度は彼らを主役とする阿鼻叫喚の地獄絵図に変わった。
 
 ◆ ◆
 
 思念の中でフォリオムと向き合ったアムニスが、厳格な口調で過去を振り返っている。
「イアラは、いにしえの竜の血が遥か隔世を経て強く発現したその姿により、両親も含めたすべての人間から、生まれながらに疎まれていた。そんな彼女を初めて受け入れ、優しくしてくれた……そのように思われた相手に、イアラは裏切られた。最初から騙されていたのだ」
 アムニスに向けられていたフォリオムの目が、無言のまま閉じられた。白髭に覆われた顎を押さえ、そのまま黙り込んでいるフォリオムの前で、アムニスの独白が続く。
「彼女は《人間に似た魔物》として売られた。人間の欲望には……とりわけ、現世のすべてを得た者たちの強欲には、彼らの傲慢な勘違いのせいもあって……際限というものがない。人間の剣奴同士の戦いや、魔物同士の殺し合い、あるいは魔物が人間を喰らう様にも飽食した彼らは、もはや遠い時代に滅びたといわれていた貴重な竜人を思わせる存在、しかも美しい女性であるイアラを、自分たちの欲望への新奇な供物にしようと狙っていた」
 アムニスは、パラディーヴァらしからぬ怒りの感情を、隠すこともなく全面に浮かべ、吐き捨てるようにつぶやいた。
「イアラの人間性を否定し、所詮は同じ《魔物》同士の野蛮な本能による行為だとして、彼女をオークやゴブリンどもが寄ってたかって犯そうとする姿を、魔物以上に醜いあの人間どもは楽しんでいたのだ。これほどおぞましいものが、この世にあるだろうか」
「人間というのは実に酷い生き物じゃな。《あれ》の御使いたちの言うように、《愚かな人間ども》は一度滅びてしまってもよいのかもしれん。いや、悪い冗談じゃったか……」
 フォリオムは、アムニスとは対照的に心の揺れをまったく感じさせない様子で、その意味ではパラディーヴァらしく淡々と答える。
「かつての時代から、《水》の御子は、他の御子よりも特に膨大な魔力量をもって生まれてくることが多い。イアラもそうかの。その魔力の影響が、彼女の中に眠る遠い竜の血を必要以上に目覚めさせてしまったということか。たとえば旧世界において、あの《永遠の青い夜》の《魔染》により、魔物化まではしなかったにせよ、魔物の因子を持ってしまった人間は少なくない。あるいは、それよりもさらに古い時代、伝説上の本当のドラゴンの血を引く一族の末裔、かもしれん」
 頷いたアムニスの言葉からは、その声の力強さに反して、未来に対する明るい希望は感じられなかった。
「人間であるのに、同じ人間たちからは人として扱われなかったこと、それどころか自らの人間性を完全に否定されたこと、そして何よりも、この世でただ一人の信じた者に裏切られたことで、イアラの心は壊れてしまった」
 
 ◇
 
「そんな自分が、なぜ人間のために、この世界のために、御子として命をかけて戦わねばならないのかと、イアラは拭いきれない疑問を抱いているのじゃよ。分かるであろう、その気持ち自体は」
 フォリオムの言葉に、アマリアは顔色ひとつ変えずに向き合っていたが、ルキアンとエレオノーアは動揺を隠せなかった。特にエレオノーアは、吐き気を催したような様子で、目に涙を溜めながらルキアンの胸に額を押し付けた。
「酷いです、酷すぎます。自分だけが他人と違っていて、それでも受け入れてくれた唯一の人に、裏切られるなんて……。初めて信じることのできた人に騙され、魔物たちに襲われるなんて」
 彼女は心の中で、言葉を震わせた。思い浮かべたくもないことを、それでも想像してしまって。
 ――私の立場だとしたら、それは、おにいさんに裏切られたようなもの。もし、そんなことがあったら、私は……。
 自らも《聖体降喚(ロード)》によって生成された存在であるエレオノーアは、生まれつき普通の人間とは違うものを抱えたイアラのことを、とても他人事とは考えられなかった。感受性の強い、あるいは思い込みの人一倍強いエレオノーアが、イアラの悲劇を我がことのように受け止め、心をかき乱されているのを見て、ルキアンは彼女を支える腕に力を込めた。
 そのとき、自身も何らかの術式の完成を粛々と進めながら、アマリアが二人に告げた。そこには何の心情の変化も感じられない。
「気持ちは分かるが、私情に心を乱されている場合ではない。己が為すべきことを全力で果たせ」
 薄情にも思えるほど冷静なアマリアの様子だったが、彼女の言う通りだ。たったいま、ルキアンたちが対峙しているのは、本物ではないにせよ、あの《始まりの四頭竜》の力と姿とをもった化け物なのだから。
 意外にも、アマリアの言葉に最初に反応し、強大な敵を見据えたのは、ルキアンではなくエレオノーアだった。
「イアラさんも、《御子》として生まれてきたから、《あれ》によって《予め歪められた生》の呪いをその身に受けることになったんですよね。だから、そんな悲しい目にあったのですよね。そうですね、アマリアさん?」
 アマリアが無言で頷くのを待たずして、エレオノーアは青い瞳に怒りの焔を燃え立たせて言った。
「だったら、イアラさんのためにも、まずは、この竜を必ず倒しましょう。《あれ》の《御使い》は、《御子》の敵です」
 エレオノーアの左目に闇の紋章が浮かび上がる。彼女の霊気が高まり、背中に青いオーラが立ち昇った。
「む? これは、また……」
 フォリオムが帽子のつばを持ち上げ、小さな吐息とともにエレオノーアの方を見つめる。見る間に彼女のオーラは色濃く、大きく広がり、やがて蝶の羽根の形となって、爆発的な魔力を開放して羽ばたいた。
 その《光の羽根》を見て、ルキアンはあることを思い出した。
「ものすごい力を感じる。そういえば、僕が、この結界にエレオノーアを取り込んだとき、彼女は《蝶》に変わった。あれは偶然じゃなかったんだ。彼女の力、アーカイブとしての力を象徴するのが、あの輝く蝶の羽根……」
 驚きを隠せないルキアンに対し、エレオノーアは、普段の彼女からは想像できないほど、てきぱきと指示をする。
「おにいさん、いますぐ防御呪文の詠唱に入ってください。発動までに複合立体魔法陣を構築する必要がありますので、私は術式生成の演算に集中します。それからすいません、フォリオムさん、呪文の発動まで、わたしとおにいさんを守ってください。お願いします!」
「わ、わし? おお、構わんぞ」
 フォリオムは苦笑した。たしかに、いまルキアンとエレオノーアは高度な防御魔法の構築に全力を注いでおり、竜のブレスからの守りを彼らに委ねたアマリアも、何か次の大きな策を講じている。手が空いているのはフォリオムだけだ。
 ――やりおるわい、この娘。《あれ》と戦うために《ロード》で作られた御子というのは、やはり桁違いじゃ。
 
 
【第56話(その3)に続く】
 
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第56話(その1)いにしえの神竜と御子たち、決戦の始まり

目次これまでのあらすじ | 登場人物 鏡海亭について
物語の前史プロローグ


もしも君がいなくなれば、
後で必ず彼らが悲しむ。

そして君がいなくなれば、
俺には存在する理由がなくなる。

 (水のパラディーヴァ アムニス)


1.いにしえの神竜と御子たち、決戦の始まり


 
「堕落した《人の子》たち、愚かな人間どもよ……」
 地の底深きところから、常世の国から、現世へと漏れ出し、地表に染み渡っていくような不気味な声。何らの感情も帯びてはいない、淡々と、しかし一定の節回しをもって送り出されるその声音(こわね)は、生身の人間の発するそれであるとは到底考えられなかった。
 何処とも知れない暗闇の中で、揺らめく炎の玉が宙空に現れる。その青白き鬼火のもと、黄金色の仮面が闇に照り映えた。紫がかった深い紅色の頭巾の下、にこやかに破顔した翁の面は、眺めているうちに次第に狂気をも感じさせ、魔界から来た道化師のようにも思われてくる。
「汝らは、尊き《絶対的機能》の御業に手を触れ、二つの大罪を犯した」
 《老人》の黄金仮面は言葉を続ける。反響するその声は、天の御使いたちが裁きを告げる歌や、生者を黄泉路へといざなう死霊の呼び声と同様に、実際の音として伝わる以上に、むしろ聞く者の魂に直接的に浸透してくる類のものだ。
 さらに鬼火が現れ、次なる黄金仮面、長いくちばしをもった鳥のような《それ》が言葉を継ぐ。
「ひとつは、《人の子》の分際で《人》を創ったこと。その罪の重さに震えよ!」
 《鳥》の黄金仮面がけたたましく鳴くように嘲笑したとき、その背後から霧のごとく湧き上がり、実体化したのは《兜》の黄金仮面である。凝った装飾など何もない平らな面相の中で、赤みを帯び輝く二つの目だけが異様な威圧感を放っている。《それ》は言った。
「もうひとつの罪は、人の手で創られし禁忌の命を、大いなる摂理との矛盾ゆえに短き定めの……その命を、世界を統べる因果律に反して書き換えたこと」
 それからしばらく、漆黒の広間は静まり返り、四つのあやかしの炎とそれらに照らされる四体の黄金仮面が無言でたたずむ、異様な光景が闇の中に取り残された。
 やがて沈黙を切り裂くように、多数の女たちの声が、最初は遠いところで、いつの間にかすぐそこで幾重にも反響し、最後には老婆のしわがれた声と少女のあどけない声とが入り乱れ、ひとつの高笑いとなって暗黒に消えていった。《魔女》の黄金仮面が、荒野を吹き抜ける寒風のような、生気の無い乾いた声によって、怒りを静かに滲ませる。
「許し難い。闇の御子を決して帰してはならぬ」
「帰してはならぬ」
「帰しては、ならぬ……」
 他の黄金仮面たちが復唱する中、《老人》の仮面が前に歩み出た。
「帰してはならぬ。だが、今の条件のもとでは、我らが直接手を下すことは禁じられている。法の定めは絶対である。それゆえ、我らの力を分け与えたかりそめの御使いを遣わし、闇の御子よ、汝らを滅ぼす」
 赤紫の長衣の下から骸骨さながらの細い腕が差し出され、その先にある干乾びた骨の指は、チェスの駒を連想させる何かをつまんでいた。おそらくは竜をかたどったのであろう、象牙色の駒が仮面の手から離れ、そして、床に落ちる音を立てる前に、空間に吸い込まれるように忽然と消えた。
 
 ◇
 
 実体化されている《虚海ディセマ》の中に巨大な竜が姿を見せたのは、そのときであった。ようやく生還したエレオノーアとルキアンの目の前に、それは降ってわいたように現れ、想像を絶する巨体で彼らの行く手を阻もうとしている。
「おにいさん、このままでは神殿ごと押し潰されてしまいます! アマリアさんたちのところまで転移呪文で一気に戻りましょう。アーカイブの検索、始めます」
 とぐろを巻くように、自らの巨躯の下に神殿を抑え込んでいる竜。その姿を窓の外に見ながら、激しい揺れの中でエレオノーアが言った。不意に、そこで彼女は姿勢を律し、右手を胸に当てて厳かに告げる。
「エレオノーア・デン・ヘルマレイアは、闇の御子として共に使命を遂行します。わたしのアーカイブのすべてをあなたに捧げます、おにいさん!」
「ありがとう。一緒に乗り越えて、必ず帰ろう、エレオノーア。ほんのわずかだけど、僕が時間を稼ぐ。その間に呪文を頼む」
 神々しさすら感じさせる真剣な彼女の眼差しに、ルキアンは思わず圧倒されるが、それ以上に、彼女の言葉に込められた熱意に心動かされた。その熱意の源は、限りある命を最後まで生きようとする者の強さ、生まれ変わった彼女の強さである。朗らかながらも心の底では常に《死》を基準にして生きていた、これまでの虚ろな彼女とは、いまルキアンの前に立つエレオノーアはまったく違っている。
「アマリアさんの支配結界とともに、まだ僕の支配結界の力も残っている。それなら……。御子の名において命ずる。異界の暗き海より、闇の眷属きたれ!」
 ルキアンの想像力が闇の力を具現化し、実体となって御使いの竜に襲い掛かる。薄い鋼板でできた帯のような、黒光りしつつ、魚の姿をした、水の中で波打つ何かが、何百、何千、深海の底から無数に現れる。《無限闇》の力で生成された暗闇の魚たちは、刃のごとく研ぎ澄まされた体をぎらつかせながら、異様に大きい口とそれに見合う長大な牙を剝き出しにして、竜に向かって殺到する。
 山脈のようにそびえる古の竜に比べれば、一匹一匹の怪魚は小さくみえる。だがそれでも彼らは、人や、それどころか牛馬より遥かに大きく、体中が金属でできており、痛みも恐れも感じることのない鋼鉄の軍勢だ。
 払っても次々と絡み付き、喰らい付き、刻一刻と数を増して召喚される深海の魔物たちに、さすがの始まりの竜も忌まわしげに四つの首を持ち上げ、怒りの雄たけびを上げた。
「この程度の牙では、竜の鱗をかみ砕くことはできないけれど、わずかな間、動きを止め、注意をそらすことくらいはできそうだ」
 実際、決定打を欠きながらも絶え間ない抵抗が、あの四頭竜に対して予想以上の効果をあげている。これによって得られた数秒の間に、エレオノーアは最適な呪文を探り当てていた。
「海の外まで《跳んで》ください! 今のおにいさんなら、この程度の呪文は詠唱無しで使えるはずです」
「分かった、ありがとう。アマリアさんにも連絡する」
「その間、今度は私が竜を足止めします」
 ルキアンとエレオノーアは、事前に何の話も交わしていなくても、交互に竜の動きを封じている。お互いにあまりコミュニケーションが上手な方ではない二人だが、今は、ふたつの精密な歯車のように嚙み合い、寸分違わずに連携していた。
 ――あの竜は大きすぎて、《言霊の封域》に取り込むことは無理ですね。それなら、闇に潜む魚たちに降り注げ、《言霊の封域》よ。
 ルキアンが《無限闇》で呼び出した怪魚の群れを、エレオノーアが《言霊の封域》で強化する。
「汝らの体は、絹よりもしなやかで、天の鍛冶が鍛えし剣よりも、いや、まさに竜鱗(りゅうりん)よりも強靭となる。その牙で喰らい付き、竜を食いちぎれ!」
 エレオノーアの左目に闇の紋章が浮かび上がる。より力を増した深海の魔魚たちに幾重にも取り巻かれ、一時は四頭竜の姿が見えなくなりそうだった。
 エレオノーアから呪文の情報を受け取ったルキアンは、例の《刻印》を使ってアマリアに連絡する。
 ――アマリアさん、エレオノーアを完全に救出できました。《ディセマの海》の実体化は、もう解いてもらって構いません。僕たちはそこまで転移します。
 ――了解した。《ディセマの海》を支えたままでは、その化け物と戦うことなどできはしない。
 ルキアンはエレオノーアの手を取り、転移の呪文を念じ始める。
「エレオノーア、行こう」
「はい、おにいさん。私たちの反撃開始です!」
 エレオノーアはルキアンに寄り添い、握った手に力を込めると、片目を閉じて微笑んでみせた。
 一陣の風のごとくルキアンたちの姿が瞬時に消え、それから一息遅れて神殿が崩壊し、建物内部に黒い海水が膨大に流れ込み始めた。
 
「大地にあまねく眠る元素を司るものたち、この地、かの地に棲まう精霊たちよ。我が呼び声に応え、地表に集いて帰らずの園を拓け」
 《ディセマの海》をつなぎ留める大役から解放されるが早いか、アマリアが杖を掲げ、呪文の詠唱を始める。低めの良く通る声で、歌うように彼女は呪文を紡ぐ。
「取り囲め、汝らの贄を狩れ。貫く万軍の槍、煌めく鉱石の梢、無限の結晶の森……」
 ルキアンたちがアマリアの隣に転移し、姿を見せたのはそのときだった。
 完成する呪文は狙っていた。二人の闇の御子を滅しようとする四頭竜が、彼らを追って目の前に現れる瞬間を。
 アマリアは紅のケープをはためかせ、杖を掲げて舞うように回ると一息溜めて、周囲の空気に沁み通り、大気を震わせるような気合いで口にした。
 
「《永劫庭園(エーヴィガー・ガルテン)》」
 
 突然、空を覆い隠すほどの体で、天高く伸び、四つの鎌首をもたげた始原の竜。その刹那、地表から無数の鉱石の柱、いや、槍状のものが瞬時に上空まで伸びて貫いた。さらには反対に天上から、同様の槍が豪雨のごとく落下する。地の精霊力によって生成された、超硬度と強靭さとを兼ね備える謎めいた多結晶の槍先は、伝説級の魔法武器すら弾く神竜の鋼鱗をも、容赦なく突き通した。
「す、すごい……」
 紅の魔女、地の御子アマリアが最初から極大呪文を使って四頭竜を仕留めにいった一連の流れを、ルキアンは体を細かく震わせながら見つめていた。
 大聖堂の尖塔にも比肩するような、巨人の武器のごとき大きさの槍が、宙に浮かぶ神竜に何本も突き刺さり、ヤマアラシのように体中から棘を生やした姿にさせている。なおも竜が体を動かそうとすると、アマリアが杖を振る。再び、大地から空まで貫く槍の列と、天上から地に降り注ぐ槍の雨が、即座に竜を襲った。
 ルキアンが勝利を確信したそのとき、四頭竜が突然光り輝き、その体が目の前から消え、獲物を失った無数の槍も轟音と共に大地に落ちていった。
「ほう……」
 アマリアが嘆息した。
 その直後にして、彼女らの前に閃光とともに再び現れたのは、無傷のままの四頭竜の姿だった。
「どうして!? あんなに沢山の槍に突き刺されて、あの竜は息の根を止められたのでは?」
 エレオノーアは目を疑ったが、勘の良い彼女は思い出し、息を呑んだ。
「まさか、おにいさんが使ったような《絶対状態転移》の魔法で……」
「そうだ。あれの本体である《始まりの四頭竜》、すなわち《万象の管理者》は、我々がいうところの《神》、しかも《主神》や《唯一神》とほぼ同格の存在。たとえ、いまここにいる竜が《始まりの四頭竜》の単なる似姿、本体とは比較にならないものであるとはいえ、それでも最高位の光属性の魔法を扱えるくらいのことは当然にあり得る」
 アマリアが、半ば予想していたように、仕方なさげに首を振る。
「そう知っていたから、最初から私の使い得る最大の攻撃呪文のひとつで狙ったのだが……あの竜が肉片ひとつも残さぬほどに、どこまでも槍を突き立て続けるべきであったか。《永劫庭園》の名の通りに」
 竜の次の動きに注意を払いつつ、ルキアンが不安げに尋ねる。
「それでは、僕たちは一体どうすれば?」
「あの古き竜を倒すには、その絶対的な防御を超えて、かつ、先ほどのような恐るべき回復力を、さらに上回るだけの致命傷を与え続け、一気に消滅させなければならない」
「アマリアさん、そんなことができるのでしょうか……」
 ルキアンの予想に反して、アマリアはまずは否定した。
「私たちでは無理だろう」
「そんな!?」
「いや、私たち《だけ》ではできないという意味だ」
 そのとき、エレオノーアが話に割って入った。
「おにいさんたち、あの竜を中心に、凄まじい魔法力が蓄積されていっています! 相手はドラゴン、たぶん次に来るのは……」
「的確な観察眼だな、うら若き闇の御子よ。竜の焔の息、しかも神竜の吐く天災級のブレスが来るぞ。エレオノーア、ルキアン、次の一撃を防げるか」
 アマリアがエレオノーアを見た。エレオノーアは意外にも落ち着いた様子で頷いた。
「はい。いま、効果的な防御魔法を検索しています。その間に、アマリアさんは次の手を用意するのですね?」
「察しも良いな。その通りだ。同じ御子として、君たちの力を信じる。あの神竜のブレスを一度でよいから防いでくれ。その間に私は……」
 アマリアが隣に視線を向けると、フォリオムが姿を現し、にこやかさの奥に底知れない怖さを秘めた眼差しで、ゆっくりと手を上げた。
「わが主よ、《炎》と《風》の者たちはいつでも大丈夫じゃ。だが、残る《水》の御子が……」
 
 
【第56話(その2)に続く】
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