鏡海亭 Kagami-Tei  ウェブ小説黎明期から続く、生きた化石?

孤独と絆、感傷と熱き血の幻想小説 A L P H E L I O N(アルフェリオン)

生成AIのHolara、ChatGPTと画像を合作しています。

第59話「北方の王者」(その1)更新! 2024/08/29

 

拓きたい未来を夢見ているのなら、ここで想いの力を見せてみよ、

ルキアン、いまだ咲かぬ銀のいばら!

小説目次 最新(第59)話 あらすじ 登場人物 15分で分かるアルフェリオン

まとめ読みキャンペーン?

連載小説『アルフェリオン』各話を前編・後編にまとめたものを、これまでの投稿とは別にアップ中です。

本日は第1話から第5話まで。物語の「目次」にも、現在アップ中のまとめ版の方を随時リンクしていきます。

ブログ形式の連載小説はまとめて読むのが非常に面倒ですから、そういうまとめ版があると読みやすいですよね。特に、最近『アルフェリオン』を知られた方が、第1話から読み始めるのは、とにかく面倒(^^;)。

※なお、本家サイト「鏡海庵」の方にいけば、1話ごとにまとまったテキストが途中まであるのですが…。ブログ版では後で気づいた細部の誤植の訂正などもしておりますので、こちらでお読みになる方がオススメです。

かがみ
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第5話・後編


【再々掲】 | 目次15分で分かるアルフェリオン




 そのころメイは船の医務室で休んでいた。寝台の上に楽な姿勢で腰掛けて、ぼんやりと足をぶらつかせている。
 メイの手を取って診察しているのは、白衣ならぬ法衣を着た女性である。足首にまで達する長くてゆったりとしたローブは、上から下まで純白に染められていたが、袖や首周りの部分には、目が覚めるように鮮やかな青の縁取りも施されている。白の四角い帽子を被っていないことを除けば、オーリウムの神官の標準的なスタイルである。
 彼女のこの服装のため、医務室はどことなく不思議な様相だった。事情を知らない者が見れば、まるでメイが聴罪か何かを受けているように見えるかもしれない。しかし例の白色・空色・若草色のトリコロールの帯を腰に結んでいるところからみると、この法衣の女性もクレドールの乗組員に違いない。本物の神官にしてギルドの医師の一人、シャリオ・ディ・メルクールであった。
「身体の方は大丈夫です。でも疲れているのでしょう?」
 彼女はメイを気遣いながら、手近な机の上の書類にあれこれ書き込んでいる。落ち着いた柔らかな手の動き。温和な雰囲気は、おそらく30代後半という年齢も手伝い、患者を優しく受け止める包容力をそのまま体現していた。
 そんなシャリオの暖かさに幾分遠慮してか、メイの口からは、今の自分の客観的な様子とはおよそ矛盾する言葉が出た。
「ありがとう。でも、もう平気なんだけど。ほらほら、私はこんなに元気!」
 メイはベットから床に飛び降りると、つま先立ちになって、シャリオの前でくるりと一回転して見せたが……バランスを崩して膝をついてしまった。まだめまいが残っているのだ、無理もない。
「あ、あれ? あはは」
 床に座り込み、苦笑しているメイ。
 その様子を見てシャリオは吹き出しそうになり、上品な仕草で口元を押さえている。
「エクターにとっては精神の疲れが最も大敵なのです。それはあなた自身が、私よりもよく知っているはずでしょう? 副長も休めと言っていることですし、しばらく横になっていけばどうかしら」
「うん……」
 メイは膝を抱えて、素直にうなずいた。
「よく眠れるようにお薬を用意しておきましょうね」
 シャリオはこぢんまりとした部屋の中を歩き回って、二、三の棚から薬瓶を取り出している。彼女がこうして立ち上がっていると、腰まである丁寧に編み込まれた黒髪が、とても際だって見える。小柄な女性だけに、ボリュームのある長髪がいっそう目立つのかもしれない。
 メイは珍しく無口になって、まだ床に座ったままである。心配したシャリオが彼女の肩にそっと手を置いた。
「どうしたの?」
「あのね……いま眠ると、いやな夢を見そうなの」
「大丈夫よ。ゆっくりお休みなさい……」
 シャリオはメイを抱きしめる。その腕は聖母のごとく暖かだった。
 だが――多くの人間は気づかないであろうにせよ――微笑を湛えるシャリオの目元には、一種独特の愁色が秘めやかに漂っていた。

 ◇ ◇

 今なお妖精が棲むといわれる広大なイゼール森は、オーリウム王国の中央に位置している。その黒々とした樹海を南東へ抜けると、王国東部の小高い山地に沿って流れるアラム川にぶつかる。この美しい大河のほとりに開けた街が、エクター・ギルドの本拠地、ネレイである。
 ガノリスやミルファーンとの国境を流れるヴェダン川をのぞけば、アラムはオーリウム随一の長さを誇る。流域には大小多数の港が存在するが、ネレイの街にはひときわ大きい港――正確には一種の軍港があった。

 幼い兄と妹が、柵の向こうから港をのぞいている。兄は興味津々で、すでに10数分以上も食い入るように見つめていたが、妹の方は退屈そうな顔でそれにつき合っていた。
「ねぇ、おにいちゃん、まだぁ?」
 妹は木の枝で地面に絵を描きながら、不満げに時間をつぶしている。
「もう少しだけだってば。ほら、見ろよ。大きいなぁ。あれがギルドで一番強い船、《ミンストラ》だぜ」
 少年は妹の様子などお構いなく、夢中で一隻の船を指さした。
 手前に並ぶ小さい船は、ギルドの個々の会員が所有する《飛空艇》である。せいぜい1、2体のアルマ・ヴィオを載せられる程度のものがほとんどだった。

 港の奥の方に別枠で設けられた埠頭に、それらの飛空艇とは問題にならない規模の艦が停泊している。グレーの船体はクレドールよりもひと回り大きいが、同様に魚体を模した流麗なシルエットを持っていた。エクター・ギルドの戦闘母艦、ミンストラである。
 もう一隻の戦闘母艦、つまりクレドールの姿は港には勿論なかった。





「あ、アルマ・ヴィオが飛んでるぞ! ほら、たくさん飛んでる!!」
 無視を決め込んでいる妹の背中を揺すり、彼は有頂天になって空を見上げた。
「何かなぁ。《オルネイス》かな……あれ? 知らないヤツもいるぞ!」
 ギルドの基地に降りるのであろう。かなり低空まで高度を下げているため、アルマ・ヴィオの姿ははっきり確認できる。少年が言ったとおり、まず飛行型の《オルネイス》が4体。つまり議会軍のアルマ・ヴィオだ。以前にルキアンとメイが戦ったように、反乱軍でも用いられている機体だが……騒ぎになっていないところを見ると、正規の議会軍らしい。
 さらに新鋭の飛行型《アラノス》も3体。どちらかというと飛行機のような外観を持つオルネイスよりも、こちらの方が本物の鳥にいっそう近い姿をしている。青と銀の見るからに速そうな機体は、おそらくメイのラピオ・アヴィスに劣らない性能を有する。通常の魔法金属をたやすく引き裂くであろう大型の鉤爪も、格闘戦において威力を発揮しそうだ。
 このアラノスは、議会軍の中でも限られた部隊にしか配備されていない。それが3体もいることから察するに、相当重要な任務を受けているのだろう。
 これらの飛行型は2体のアルマ・ヴィオを護衛している。
 一方は、ルキアンたちにとっては忘れられない姿、あの天駆ける猛獣、翼を持った荒ぶる獅子、アートル・メランだった。周知の通りミシュアスの愛機でもある。だが本来は議会軍の最新鋭アルマ・ヴィオだ。反乱軍の機体と区別するためか、あるいはエクターの趣味か……赤と黒であるはずの機体が、赤系統のグラデーションでほぼ統一された色に塗り替えられている。
 もう1体は紛れもなく汎用型である。ただし、このタイプには通常あり得ないはずの速度で飛行していた。全体的に白を基調として、所々にブルーとカナリヤイエロー(たまご色)のアクセントが目立つ。その容姿は、ごくオーソドックスに、鎧をまとった騎士を模している。だが武装に関してはなかなか凝った造りである。大型のマギオ・スクロープと一体化された、それでいて攻撃にも使えそうな鋭利な菱形のシールドが左腕に備えられている。どういうわけか、魔法力を収束した光の剣《MTソード(=マギオ・テルマー・ソード)》や、同じく刃先の部分が光でできた槍《MTジャベリン》等を装備していないことから考えて、接近戦時には何か特殊な武器を使うのかもしれない。
 ネレイではアルマ・ヴィオの姿など少しも珍しくはない。しかしながら、これらの見慣れぬ機体による整然とした飛行は、少年の目を大いに驚かせた。
「よぉっし! 俺も大きくなったら絶対エクターになってやる。エイミ、行くぞ! ぶぅーん!!」
 少年は両手を左右いっぱいに広げると、飛行型アルマ・ヴィオの真似をして突然駆け出した。上空をいく本物とは違って、彼の物まねはごくかわいらしく、他愛のないものではあったが。
「待ってよぉ! ウィル兄ちゃん!!」
 妹の方は、今の今まで待ちくたびれていたのに、今度は急に置いていかれそうになったものだから、むくれた顔で叫んでいる。

 ◇ ◇

「お待たせしました、《グランド・マスター》。議会軍少将マクスロウ・ジューラです。お初にお目にかかります」
 にこやかだが決して単に穏和ではない、鋭い瞳をもつ男――40代前半の軍士官は、絹が撫でるように繊細な声でささやいた後、一礼した。
 情報将校のマクスロウ・ジューラと言えば、知る人ぞしる議会軍のエリートである。総司令官の懐刀と呼ばれる切れ者だ。肩まである銀髪と細身の体は、軍人とは思えない上品な雰囲気を醸し出す。
 背後にいた彼の部下たちも、同様に慇懃な態度で黙礼する。
 みな、白地にマホガニー、そしてローズという三色でさっぱりと彩られた、軍にしては幾分なりとも洒落た制服を身につけている。議会軍の《機装兵団》、つまりアルマ・ヴィオ専門の部隊のものに他ならない。マクスロウのみ、その上に皮のコートを羽織っていた。女性の士官も1名おり、彼女は白のスカーフをゆったりと首に巻いている。
 東部丘陵特産の《白鳥石》のタイルが敷き詰められたテラス。その白亜の建造物にはどこか不似合いな豪傑風の男が、その容貌に見合った高笑いで出迎えた。すでに白髪が目立つ年頃だが、気勢は溌剌とし、体力の衰えなど微塵も感じさせない。この男デュガイス・ワトーは、《グランド・マスター》つまりエクター・ギルドの最高責任者である。
「いやいや、待たせたなどとおっしゃるが、ずいぶんお早い到着で……こちらは茶の準備がようやく間に合ったところですぞ。しょせん我々は戦いのみに生きる無骨者ですから、この手の上品な会合には不慣れでしてな。はっはっは」
 灰色のフロックをラフに着こなし、ギルドの一員として当然のごとくエクター・ケープをまとっている他には、これといって礼装などしていない。
 グランド・マスターの隣には、どこか神秘的な雰囲気をもつ、目の細い男が座っていた。彼が時折ほほえむと目がなくなってしまい、眠っているようにも見える。年は20代半ばから後半、耳の際で刈り込んだダークグリーンの髪をもつ学究肌の男だった。ギルドの人間に対する世間的な印象とはほど遠い容貌だが、彼もエクターケープを身につけていることからして、立派な繰士に違いない。





 マクスロウ少将は、ごく簡単な挨拶の後、事務的に切り出した。
「ご丁寧なお心遣い、感謝申し上げます。では、さっそくですが……」
「まぁ座ってください、ジューラ少将」
「はい。コーサイス少佐以外は下がっていなさい」
 話の重要性を考え、マクスロウは人払いをした後に着席する。
 彼の後ろに一人だけ残ったのは、几帳面そうな金髪の女だった。女性で少佐の地位にある人物は、おそらく議会軍でもほとんど例がないであろう。その割には、一見するとごく平凡で、やや控え目な雰囲気の人間にみえる。
「こちらは私の部下、エレイン・コーサイス少佐です」
 マクスロウは彼女をデュガイスに紹介した。
 エレインが一礼して席に着いた後、今度はデュガイスが隣の男を紹介する。
「彼はカリオス・ティエント。飛空艦ミンストラのエクターで、副官並(副官ではないが、それに準ずる地位)です。ギルドの人間には珍しく、なかなか博識な男でしてな。普段はギルド本部で相談役のような仕事もさせております」
「噂はおうかがいしています。エクターとしても、ギルドで指折りの腕だということですね」
 うつむき加減のカリオスの方を見ながら、マクスロウが言った。
 カリオスはゆっくり首を振る。
「もったいないお言葉です。噂など、世間の買いかぶりにすぎません」
「ご謙遜を。近い将来、あなたのお力を借りることもあるでしょう……。それで、グランド・マスター、例の件ですが」
 マクスロウは声を多少落として話を続ける。
「まずガノリスの戦況は、正直申し上げて苦しいところです……エレイン、資料をこちらへ」
 エレイン少佐から書類の束を受け取り、マクスロウは言った。
「首都の一件は、ギルドの方にも伝わっていますね。ガノリスの誇る飛空艦隊が郊外で迎撃したのですが、やはり《エレオヴィンス》には太刀打ちできなかったようです。都が焦土となった後、国王イーダン1世はいまだ行方不明。帝国側も飛空艦隊にかなりの打撃を受けたものの、あの空の要塞は……信じられないことに無傷らしい。詳細についてはこちらをご覧ください」
 彼はデュガイスに資料の一部を手渡した。
「しかし、ジューラ少将、まだ本当のこととは思えませんな。あの広大なバンネスクの街が、たった一撃でこの世から消え去ったなどと……」
 眉間にしわを寄せて、デュガイスは考え込んでいる。
 マクスロウは彼方の景色に目をやった。
「ガノリスは国土が広いですから、帝国に対する抗戦自体は当分続けられるでしょう。しかしながら……もはや帝国軍の足を止めることはガノリスにも不可能です。こういう最悪の事態になることも考えていなかったわけではありません。だが予定よりも早すぎました。ガノリスがもう少し粘ってくれると思ったのですが、早計だったというべきでしょうか」
 不意に、彼はデュガイスの目をじっと見つめる。
「帝国軍はほどなくガノリスの主要都市を制圧し……その進路はおそらく、わがオーリウムかミルファーンに向かうでしょう。現在のところ、地形的な問題等から考えてオーリウムに侵攻してくる可能性が高い」
「そうすると、考えられる進路は……やはり《レンゲイルの壁》ですな」
「えぇ、グランド・マスター。そこが問題なのですよ。幸い、エレオヴィンスの足は非常に遅い。それが唯一の弱点といえば弱点です。しかし陸上部隊や先遣隊の飛空艦が一歩先に攻めてくるのは必然的……」





 《レンゲイルの壁》とは、ガノリスとの国境をなすヴェダン川の中流域に作られた、オーリウムの誇る要塞線のことである。
 緑の水を滔々と湛えたヴェダン川だが、《壁》付近の地域では、例外的に水深が極端に浅くなっている。したがって大軍も難なく渡河できるのだ。実際、過去にガノリスとオーリウムとの間に戦争が起こった場合、ガノリス軍は常にヴェダン川中流域の浅瀬を侵攻ルートに選んでいる(*3)。この地形的弱点を補うために堅固な《壁》が作られたのは、無理もない話であろう。
 しかし難攻不落の要塞線が、今では……。
 無表情なマクスロウも、さすがに少しは苦しげな面もちだ。
「ご存じの通り、《壁》の軍備は攻防両面にわたって強力です。少なくともエレオヴィンスがオーリウムに乗り込んでくるまでは、帝国軍の攻撃にも十分持ちこたえられるでしょう。そう、そのはずでした……だが現在では……」
「レンゲイルの壁の中枢・《要塞都市ベレナ》が、こともあろうに反乱軍の本拠地になっていますからな。それで、ベレナは一体いつになったら落ちるのですか? このまま持ちこたえられては、反乱軍は狙い通り、帝国軍に要塞線を明け渡してしまいますぞ」
 グランド・マスターは、聞きにくいことをあっさり質問した。
「議会軍としても全力を挙げて攻囲しております。しかしベレナ市および《壁》の防衛力は非常にやっかいです。時間がない以上、持久戦で相手の物資が途絶えるのを待つこともできません。正面から攻めてもいたずらに犠牲を増やすばかり。しかも……」
「しかも?」
「実は、謎の黒いアルマ・ヴィオが現れまして。考えられないことなのですが、このたった一体のアルマ・ヴィオが……ベレナ包囲軍の陣地を各地で撃破しているのです。我々の技術では考えられない兵器を用いて、たちまち街ひとつでも丸ごと消し去ってしまう。エレオヴィンスほどではないにせよ、やはり恐るべき脅威です」
「黒いアルマ・ヴィオですと? 反乱軍のものですか」
「おそらく。竜のような姿をした真っ黒なアルマ・ヴィオです。汎用型であるにも関わらず、その速度は最新の飛行型・アラノスを遙かに上回る。そのうえ、あらゆる魔法弾を無効化するバリアと、さきほど申し上げた超破壊兵器を持っており……」
 デュガイスはカリオスと顔を見合わせた。
「カリオス。そんなことができるアルマ・ヴィオ、知っているか?」
「さぁ。しかし私たちの想像を遙かに超える旧世界のアルマ・ヴィオがどこかで掘り出されることは、程度の差はあれ、よくあることです」
 大した動揺も見せず、カリオスは機械的に答える。
 マクスロウもエレインと何か喋っていたが、頃合いを見て話を戻した。
「それでも……これまでお伝えしてきた通り、ベレナ総攻撃の予定を変更することはできません。そのためにはギルドとの共同作戦が欠かせないのです……例の件ですが、ご承諾いただけますか?」
 デュガイスはしばらく考え込んだ後、すっと立ち上がって、テラスの端の方へと歩き始めた。
 いにしえの静謐を緑に秘めたイゼールの森、悠然と流れゆく母なるアラム。
 まったく素晴らしい眺望を持つ場所である。
「今回は、ギルドといえども損得勘定を言っている場合ではなさそうですな。この美しい国を守るために……」
「引き受けて、いただけるのですね?」
 マクスロウとデュガイスは無言でお互いの心を確認しあった。
 ほどなく後、会合は終わった。


【注】

 (*3) ちなみに外国の軍隊が陸路でオーリウムに侵攻するためには、このヴェダン川中流域を通過する以外に適当な方法がないと考えられる。王国の北と東は大洋に面し、そもそも、これらの方向には敵対しうる国そのものが存在しない。南はタロス共和国と向かい合いつつも、内湾のレマール海が間に横たわる。他国と地続きになっているのは、唯一、王国西側の国境だけである。この西部国境線のうち、まず北部は友好国ミルファーンに接している。次いでオーリウム・ガノリス・ミルファーンの三国が接する中部は、イリュシオーネ最高峰が連なる山岳地帯なので、大規模な軍隊がこれを越えるためには相当の時間と労力とを要する。そうなると、残されたのはヴェダン川の流れにほぼ一致する南部のラインだが、この川の下流域は幅・水深ともに並大抵ではなく、しかも周囲に湿地帯が広がっているため通行困難である。結局、ヴェダン川中流域だけが、オーリウムへと容易に侵攻しうる唯一のルートとなるのだ。


【第6話に続く】



 ※1999年12月~2000年1月に鏡海庵にて初公開
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第5話・前編


【再々掲】 | 目次15分で分かるアルフェリオン


  夢を信じることに、人々がとうとう疲れ果ててしまったので、
   世界は本当の姿を保てなくなり、目に見える国と虚ろな国へと
    永遠に引き裂かれてしまったのです。
(イリュシオーネの昔話より)

◇ 第5話 ◇

 夜の闇も、荒れ狂う嵐も消え失せて……視界の中に忽然と光が溢れ、輝き始めた。
 世界はどこまでも明るく、人の匂いのしない太古の風に満ちていた。
 空は天上高く澄み渡り、柔らかな霧に包まれた大地には、手つかずの深い緑が広がっている。
 草の海を思うがままに流れるせせらぎは、大小無数の湖沼に清冽な息吹を送り込んでいた。
 誰もがその美しさに目を奪われたことであろう――もしも、この場所に至る経緯さえ、これほどまでに異常でなかったならば。そして何よりも、目前に危険が迫っていなかったのなら。

 クレドールがまた大きく揺れる。この不思議な場所に出た直後と同様に、船全体がつんのめるような感覚があった。何かとてつもなく重い物に船体が引っかかっている……そんな手応えだと言えばよいだろうか。
 船が左右に激しく傾き、まともに立っていられない。
 体の小さいメルカは壁際に飛んでいきそうになる。
 メルカを必死に支えようとするレーナも、床に膝を打ち付けてしまった。それでも彼女はみんなに迷惑を掛けまいと、けなげなに痛みをこらえている。
「レーナ、大丈夫かい? ちょっと見せてごらん」
 自分もよろめきつつ、ノエルが危なっかしい足取りで近寄った。
「ありがとう。私は平気よ。それよりメルカちゃん、何ともない?」
 メルカは黙ったまま、ちょこんとうなずいた。レーナを見つめる澄んだ瞳が、無言の中に恐怖を訴えている。
 さすがに操舵長カムレスは、事態に動ずることもなく舵輪を握っている。経験豊富な彼ならではの落ち着きだ。その手に普段より少し力が入っているのは、仕方がないことだとしても。
 だがカムレスは、トーンを落とした声でとんでもない事実を告げた。
「実はここに来てから、船が動かないんだ……」
 クレヴィスは当然のごとくうなずいた。彼もまた、いつも通り悠々と微笑を浮かべている。それを見てランディが冷やかす。
「なるほど、魔法使いにかかれば、超常現象の類も日常茶飯事の現象なのかねぇ」
「いや、ランディ。魔法使いは普通の世界に奇跡をもたらすにすぎません。しかし《この世界》は、魔法の力など借りるまでもなく、不思議に満ちているのですよ」
「この世界?……おいおい、まさか、これがあの世だとか言い出すんじゃなかろうな。いくら綺麗な川があって、お花も沢山咲いてるからって、まさかね」
 ランディの軽口も、今日ばかりは少し語気が重い。
 と、そのとき。
「あ、あれを! クレヴィス副長、外を、下の方を見て下さい!!」
 クルーの1人が窓をのぞき込んで慌てふためいている。窓際に近い席の者たちの間から、次々とどよめきが起こった。
 もう1人、大騒ぎしているのはメイだ。こちらはいつものことだが。
「ちょっとヴェン、あんた、景色ばっかり楽しんでないで調べなさいよ! 何なのよ、一体?!」
 《鏡手》のヴェンデイルの肩をメイがひっぱたく。そんなメイの言葉になど構っていられない様子で、彼も懸命に《複眼鏡》を操る。
「んなこと言われても、複眼鏡ってのは、近くの物はかえって見づらいんだぜ!ちょっと黙ってくれよ……あ? ありゃ、何だ?!」
 ヴェンデイルに操られた魔法眼が捉えたもの、それは恐らく巨大な植物だった。
 妖しいぬめりを持った、奇怪極まりない深緑の化け物だ。外観はツタに近いのだが、またどこか動物的であって、イソギンチャクの触手をも想起させる。しかもその大きさは、森の巨木どころかクレドールをも優に超える。よく見ると、触手の塊とも言うべき部分が空に浮遊しており、それにつながったツルのような本体が、はるか下の大地まで続いていた。
「こ、コイツは飛空艦を喰う気なのか?!」
 うわずった声でヴェンデイルが叫んだ。
 クレヴィスも窓の側まで寄り、外を見て溜息をついている。なぜか彼にとって、事態はさほど深刻ではなさそうだった。
「肉食性の巨大植物の一種ですか。こんなところに生えていたなんて、運が悪かったですね。《ここ》に出たとき、きっと真正面からぶつかってしまったのでしょう。この手の植物は《ファイノーミア》の辺境にも希に生えていますが、普通はせいぜい人間や馬を捕食する程度の大きさです……これほどのものは、さすがに」
 メイが今度はクレヴィスのところに走っていき、地団駄を踏んでいる。
「呑気なこと言ってないで、クレヴィー、どうすんのよ?!」
「困りましたねぇ」
「ふざけないでってば!」
「いや、本当に。この植物の脅威など取るに足らないですけど、問題は時間の方ですよ」
 クレヴィスは、自分の席に取り付けられた大きな時計を眺めている。そうかと思うと今度は、珊瑚色のウエストコートを飾る鎖の先、懐中時計を取り出して時間を見る。要するに2つの時計を交互に見比べているのだが、一体何のために……。





「こんな時に、時間なんか気にしてる場合?!」
「違うの! 静かにして、メイ。席に戻ってて」
 空気を切り裂くような鋭い声で、セシエルが言った。美人ながらもどこか堅苦しい面立ちの中、怜悧な光を宿した目がいつになく厳しい。仕事に集中しているときのセシエルは、普段から傍目にも近寄りがたいほど、冷徹で無機質な感じがするのだが……それにしても今回は、少し口調がきつすぎたかもしれない。さすがのメイも、少々しょげ込んでいる。
 セシエルは、球体と天秤が合わさったような器具、つまり例の《星振儀》をじっと見据えている。時計をにらむクレヴィスとも、時々何かやり取りする。
 すぐに頭に血が上る自分に反省しつつ、メイが座席に戻ろうとすると、クレヴィスが彼女の背中をぽんと叩いた。
「ところでメイ、さきほどの戦いで受けた《ラピオ・アヴィス》の損傷は、どの程度でしたか?」
「胴体や翼にいくつか裂傷があるけれど、飛行能力に問題はないと思う。ルキアン君のおかげで助かったわ。何? 必要なら、いつでも出られるわよ」
「そうですか、ありがとう。でもあなたはかなり疲れているはずです。誰か代わりになりそうな人を捜しますよ。別に戦いに出てもらうわけではないですから、あなたほどの腕の持ち主でなくとも十分です」
「戦わなくていいのなら、大した負担にはならないわ。私に行かせて」
「いや、少しでも体を休めておいてもらわないと……またいつ本当の戦いになるかわかりませんし。その時には、メイオーリア、あなたの力が必要なのです」
 口では強がっていても、実際のところ、メイは時折めまいを感じるほど疲れていた。アルマ・ヴィオを操るとき、ただでさえエクターは極度の精神集中を必要とする。しかもメイは、圧倒的に多数のギベリア強襲隊を相手にして戦い、生死の瀬戸際まで追い込まれたのだから。
「……そう。わかった。クレヴィスがそこまで言うのなら」
「えぇ。あなたは一流のエクターなのです。あてにしているのですよ」
 一瞬の沈黙の後、メイはおどけて頬を膨らませた。
「エクターと言えば、えらく静かだと思ったら、あのバカども……この大変なときにどこをほっつき歩いているのかしら?!」
「ベルセアなら、戦いの時からずっと格納庫にいるぜ。さっきの新しいアルマ・ヴィオをよく見たいとか言って。バーンもご飯を食べた後に来たよ」
 ノエルが艦橋の隅の方から答えた。彼の隣で、レーナとメルカも心配そうに壁にしがみついている。
 3人のそんな姿を見てクレヴィスが苦笑する。
「ノエル、君も早く格納庫に戻って仕事を続けるのです。ついでに、バーンとベルセアに、至急ブリッジに来るよう伝えて下さい。私の《デュナ》の武装交換も、念のためガダック技師長と一緒に頼みます」
「えーっ。デュナはまだ本調子じゃないって、ガダックのおっちゃんが言ってたよ。あの、玉みたいな……ランブリなんとかっていう、そうそう、おっちゃんが《蛍》と呼んでたヤツは使えるけど、別のあれ、何だったっけ……精霊がどうとかっていう方が、まだ調整が足りないみたい。あれ、分かんないや?」
「《ネビュラ》(*1)のことですね。私はあれの力を借りなくても、いざとなれば自分で《本物の》精霊を呼び出すこともできますから、まぁ今回は無理に取り付ける必要はありません。《ランブリウス》(*2)の方が使えれば、問題はないです」
「副長のデュナの仕組みはさっぱりわかんないよ。アトレイオスやリュコスなら、オレ、独りでもう整備できるんだぜ。でももっと変わってるのが、あの銀色のアルフェなんとかっていうアルマ・ヴィオだよ。中を少し見せてもらったんだけど、普通のヤツと全然違うんだ。おっちゃんも、半分ぐらいの器官は何のためのものか全然分かんないって」
「おや、技師長でも知らないというのは、それはかなり特殊な……。私も後でぜひ拝見したいものです。そういえば、ルキアン君とカルはまだ来ないですね」


【注】

 (*1) ネビュラ――別名《人工精霊》とも言われる。アルマ・ヴィオの本体から供給される魔力を使って精霊を擬似的に作り出し、敵を攻撃する。普通のエクターなら、一度に複数のネビュラを操ることは困難であろう。ネビュラは本物の精霊と違って意志を持たず、能力も限定されている。ただし精霊使いでない者にもある程度扱うことができるというのは、大きな利点である。火、風、水、土のネビュラ等、多くの種類が存在する。

 (*2) ランブリウス――多数の発光する球体を射出し、それを使って空中に魔法陣を描く。個々の球体はエクターの意思によって自在に移動するので、様々な魔法陣を作り上げることが可能。こうして作り出された魔法陣によって、エクターは、人間が呪文を唱えるのと同様の仕方で、しかもアルマ・ヴィオの力を上乗せして魔法を使うことができるようになる。ただし一般のエクターがランブリウスを起動させるのは不可能である。自分自身が魔法を使える者、つまり魔道士でもあるエクターが用いてこそ初めて効果を発揮するのだ。なおランブリウスは、光る球が飛行する様子から、《蛍》という通称で呼ばれている。





 クレヴィスは、なぜか手元の時計をまた心配そうに眺めている。
「ランディ、ちょっと頼まれて下さい。今、他のメンバーは手が放せません。カルを急いでここに呼んできてほしいのです。ルキアン君もね。それから、レーナとメルカちゃんも、ランディと一緒に厨房まで戻ってください。ここは危険ですから」
「あぁ、分かった。それではご婦人方、行きましょうか」
 襟元に手を添えて純白のクラヴァットを整えると、ランディは大げさな身振りで一礼し、レーナとメルカを伴って出ていった。均整のとれた体格、灰色のフロックの後ろ姿は、なかなかどうして高貴なものだ。ふだんのお調子者の顔からは想像できないが、彼の背中には、名門マッシア家の御曹司らしき、あるいはイリュシオーネ全土の文壇や社交界にわたって高名な、著作家マッシア伯らしき、ある種の風格を垣間見ることができる。
 クレヴィスは、そんな親友の背を目にしながら思案していた。
 ――さて、《ほんの数分ほどの間に、早くも1時間近く》経ちましたか。急がないと、何のために危険を冒して近道したのか分かりませんね。まぁそれでも、バルジナスを迂回しつつ反乱軍のまっただ中を進むよりは、ネレイの街によほど早く到着するに違いないでしょうが。
 彼は艦橋の面々に向かって、独り言のように言う。
「こんなお伽話を聞いたことがありませんか? 妖精の国に迷い込んだ子供が、楽しく暮らした後……元の世界に帰ってみると、とてつもない時が流れ去っており、家族も家もすっかり消えてなくなっていた……そんな困った夢物語を。あれは事実なんですよ。ただ、妖精の国ではなくて、本当は《パラミシオン》のことを言っているのです」

 ◇ ◇

 ルキアンはカルダインと共に艦橋へと急いでいた。もう1人、頼りなげに舞う蝶のように、白いドレスをそよがせて後に続くのは――《柱の人》こと、エルヴィン・メルファウスだった。
 振り返りざま、カルダインは背後のルキアンに言う。
「船がえらく揺れるな。何が起こっているのかわからんが……こんな肝心なときに艦橋に顔を出していないなんて、俺はいつもながら艦長失格だ」
 恐らく冗談のつもりでそう言ったのであろうが、カルダインはにこりともせず、低く押し黙った表情を崩さない。
 ルキアンは無言で足を早める。彼の視界の中、カルダインの頑丈で無表情な背中が妙に目立って見えた。何ともいえない影……艦長の体に染みついた憂いが、敏感なルキアンにとっては、無視しがたいほどに強く感じられるのだ。
「おとなしいのね、あなた」
 エルヴィンがくすくすと笑う。彼女はルキアンの隣に並ぶと、今にも触れ合いそうなところまで無邪気に顔を寄せる。
 頬をうっすら染めるルキアンに彼女はささやいた。うっかりすると聞き逃しそうな、風の精の言葉を思わせる声で。
「怖い人。そんな静かな顔をして、恐ろしいものを背負っているくせに」
 ルキアンが驚いて見ると、エルヴィンは何も言わずに首を傾げた。ガラス玉のような青い目が、くるりと大きく見開かれる。天井を走る薄明かりの下、彼女の瞳は、ある種の狂気じみた光と、この上なく美しい輝きを宿していた。
 ルキアンの背中に寒気が走る。この得体の知れない美少女といるとどうも落ち着かない。
「恐ろしい、もの?」
 こわばった唇。異様な空気を感じながら、彼は答えに窮した。





 沈黙の中……そのとき、廊下の前の方から別の声が響いてくる。
「カル! クレヴィスがお待ちかねだよ」
 気取った感じだが、どこかとぼけた口調。
 その声の主、長いフロックをまとった影はランディだろう。彼の後ろには女の子が2人並んでいた。
「あ、ルキアン? ルキアンだぁ!!」
 転びそうなほど勢いづいてメルカが駆け寄ってきた。ルキアンが突き飛ばされはしないかと、ランディとレーナが笑っている。
 ルキアンはメルカを胸に受け止め、そっと抱きしめた。
「心細かっただろ。大丈夫?」
「うん、心配ないよ。おねえさんたちが一緒にいてくれたもん」
 そんな二人を見て、レーナがランディに言った。
「メルカちゃん、とても安心した顔をしています。今までと全然違いますね」
「まったくだねぇ。ほぉ、あれが噂のルキアン君か……」
 メルカの変わり様を見て、ランディも少し驚いているようだ。彼はルキアンを値踏みするようにニヤニヤと眺めていたが、すぐに襟を正して艦長にこう告げる。
「カル、急いでブリッジに行ってくれ。船が大変なことになってる。なにしろツタの化けもんがクレドールを喰っちまおうとしているんだからな」
「化け物……すると《パラミシオン》に入ってしまったというわけか」
 カルダインも事態を何となく予想していたのか、それほど慌てた様子を見せない。パラミシオンの名を聞いて顔色が変わったルキアンを後目に、ランディとカルダインは話を続けた。
「あぁ。クレヴィスはお見通しだったみたいだから、今のところ心配ないと思うがね。俺はこれから、嬢ちゃんたちを炊事場に送り届けて、エクター連中にも召集をかけてくる」
 ふと、ルキアンとランディの目が合った。
「君がルキアン君か。さっきは命拾いした。ありがとうよ」
「あ、いえ、そんな……僕は別に。申し遅れました、僕はルキアン・ディ・シーマーです。貴方は?」
「俺はランドリューク・ディ・マッシア。この船の居候ってとこだな」
「ランドリューク……マッシア?」
 ルキアンはランディの顔をじっと見つめ、急に目を輝かせた。
「もしや、あなたが有名なマッシア伯でいらっしゃいますか? そういえば、この前にギルドの船を舞台にした小説をお書きになって……」
 興味津々のルキアンに対して、ランディの方は迷惑そうな顔つきである。
「よしてくれよ。俺はただの風来坊ランディ。うさんくさい物書きさ」
 しかし身なりや雰囲気から察するに、彼が高名なマッシア伯爵であることはルキアンにも明らかだった。
「マッシア伯! あなたのお書きになった『新たな共和国について・第1巻』、拝読しました。悪く言う人たちもいますが、僕にとってはすばらしい内容です。第2巻が待ち遠しいですよ」
「いや……」
 ランディが珍しく表情を曇らせた。彼はカルダインに向かって手を振りながら、ルキアンたちの隣を通り過ぎていく。すれ違いざま、彼はなぜか自嘲気味の声でこう言った。
「第2巻なら出ないよ。たぶん永久にね」
 予想外の言葉に、呆気にとられるルキアン。
 カルダインも艦橋の方へと歩き始めたので、ルキアンはランディに訳を尋ねるタイミングを逸してしまった。そして、ぼんやりと立ちすくむ。
「ルキアン、じゃあ、また後でねっ!」
 かわいらしい声で、ルキアンは我に返った。
 メルカが愛用の熊のぬいぐるみを抱いて彼を見上げている。ルキアンは、彼女の頭をなでながら、少し傾いていた桃色のリボンを直してやった。
「メルカちゃんのこと、よろしくお願いします」
 彼はレーナに一礼した。曲がりなりにも貴族であるルキアンに頭を下げられ、彼女は遠慮していたが、はにかんだ笑みをすぐに浮かべた。
「はい、メルカちゃんは、私がしっかり面倒を見ます」





 最後にメルカに手を振って、ルキアンはカルダインとエルヴィンの後を追う。
 ――マッシア伯が、あの本の続きを書かないって……なぜ?
 彼は不思議に思った。『新しい共和国について』という著書は、実は思想家としてのランディの名を一躍イリュシオーネ全体に知らしめた作品である。その内容は、旧来の身分制的な社会に対する改革を叫び、すべての人間の自由と平等を情熱的な筆致でつづったものだ。
 ひとことで言えば、この本はタロスの革命の成果を賛美し、さらに世界中に広げようとする意図で書かれている。14年前のタロス王国(現・共和国)での革命後、各地の王権は、自らの国にも革命が伝播するのを恐れ、領内の急進勢力に対して時に妥協し、時に弾圧したりを繰り返して今日に至っている。このような状況のもと、第2・第3の革命の引き金となりかねないような過激な内容の本――『新しい共和国について・第1巻』が出版された。今から約7年前のことである。
 同書が公になるまで、ランディの作品など大貴族の放蕩息子が暇にまかせて書いた駄文にすぎないと、文化人の多くは内心で馬鹿にしていた。他方、この書物が登場して以来、各国当局はランディの作品を慌てて禁書目録に加える始末だった。
 《自由を! さもなければ革命を!!》
 これがランディの出世作を締めくくる言葉に他ならない。ルキアンも、さすがにここまで言われると穏当ではないと感じたものだが。
 ――革命?
 そのとき、メイの顔が不意に心に浮かんだ。
 賑やかでさっぱりとした性格の彼女が見せた……カルバの研究所前での、あの痛々しく沈んだ横顔、そして夕刻にクレドールの廊下であらわになった、冷たく歪んだ彼女の口元。
 そして、ルキアンの前を歩いていくカルダイン――彼の部屋でルキアンが見た、ゼファイア王国の旗、あの美しく高貴な女性の肖像画。
 ――ゼファイアは革命に巻き込まれて滅んでしまった小国だった。もしや?
 ルキアンは色々と考え始めたが、たいして思いを巡らせる間もなく、やがて艦橋の前に辿り着いていた。

 ◇ ◇

「ようこそ、クレドールに」
 ルキアンの姿を認めると、クレヴィスは改めて歓迎の意を示した。同時に他の乗組員の拍手や歓声が飛び交う。
 多くの視線にさらされたルキアンは、艦橋の入口にもじもじと突っ立ったままだ。
 エクター・ギルドというのは、きっと荒くれた賞金稼ぎの集まりに違いない――日頃そう思い込んでいたルキアンは、海賊船に捕らわれた哀れな犠牲者さながらに、室内の様子を恐る恐るうかがっている。
 そんな彼の両肩を、分厚い掌が後ろから押した。
「遠慮しなくていい。さぁ、入った入った」
 聞き覚えのある豪快な声。ルキアンが振り返ると、幅も背丈も常人以上の巨体によって目の前が遮られている。堂々たる体躯を見上げていくと、歯を見せて笑うバーンの顔があった。
 その隣にもう1人、バーンに劣らぬ長身だが、もっと華奢な男がいた。やや癖のある髪は、濃い亜麻色の光を湛えて肩まで伸びている。街を歩けば少なからぬ数の女性が振り返りそうな、なかなかの男前だ。
「俺はベルセア・ヨール。よろしく頼むよ」
「あ、こちらこそ、よろしくお願いします。ルキアン・ディ・シーマーです」
 ベルセアが冗談めかして言う。
「それにしても、女の子顔負けのかわいこちゃんだよな。少なくとも誰かさんより、ずっとドレスが似合いそうに見える」
「そう言やぁ、誰かさん……いや、メイはどこ行ったんだ?」
 珍しく彼女の怒号が飛んで来ないので、バーンは辺りを見回した。
 ルキアンの目にもメイの姿は映らなかった。彼は、広い部屋の中を残念そうに眺めていたが、やがてバーンに押されるままブリッジの中に入っていく。
 時を同じくしてクレヴィスが話し始める。彼の緊張した声に、クルーたちは水を打ったように静まり返った。
「集まりましたね。時間がありませんので……いや、これは日常的な意味ではなく、《もっと特殊な、切迫した意味において》時間の制約があるということなのですが……ともかく、これからの予定を説明します」


【続く】



 ※1999年12月~2000年1月に鏡海庵にて初公開
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第4話・後編


【再々掲】 | 目次15分で分かるアルフェリオン




 ――こんな馬鹿なことが信じられて? バンネスクという都市は……地図から消えたということになるのよ。
 メイの言葉が彼の脳裏に蘇った。
 帝国の浮遊城塞《エレオヴィンス》の誇る超兵器《天帝の火》によって、ガノリス王国の都バンネスクは、事実上この世から消えてしまっている。破壊されたなどという生易しい事態ではない。元の形を一切留めぬほどに、滅ぼされ尽くしたのである。少なくとも客観的に見た場合、カルバの生存の可能性は極めて低いと言わざるを得ない。
 憂鬱に包まれたルキアンは、せっかくの芳醇なワインを前にしても、それを味わう気持ちではなくなってしまった。

 そのときグラスの向こうに揺らいで見えたもの、壁に飾られた一枚の絵――ルキアンの目、そして心さえも、絵の中の人物にたちまちのうちに惹き付けられてしまった。
 柔らかに波打つ栗色の髪に、黄金の宝冠を戴いた美しい女性。やや神経質そうな気色を漂わせる尖った顎と、細く華奢な首。それでいて冒しがたい威厳と誇りとを湛えた、凛とした面差し。
 何にもましてルキアンの心をとらえたのは、《彼女》の深い碧の瞳であった。その透徹した輝きのうちには、世を憂う隠者のごとき諦念が影を落としつつも、同時にまた、全てを慈しむ聖母を思わせる限りない優しさの光が見て取れる。
 ルキアンは、絵の中の気高い人物を目にしたとき、いつか見た女神セレスの像を無意識のうちに連想せずにはいられなかった。
「艦長、このご婦人は……」
 興味深げに尋ねるルキアン。その言葉にカルダインは答えなかった。
 しばしの沈黙の後、艦長はようやく口を開き、逆にルキアンに尋ねる。
「この酒、美味いだろう?」
 まともな返事が戻ってこなかったので、少し面食らったルキアンだった。
 カルダインは感慨深げに言う。
「長き伝統を持つ、この類い希な銘柄が醸し出されることは、もうない……」
 愁いの色をいっそう強く帯びたカルダインの瞳。彼が見つめる先の壁には、ルキアンも見知っている《旗》が掛けられていた。
 それを目にしたとき、ルキアンの頭の中で様々な連想の糸が互いに結びつき、ぱっと視界が開けたような……そんな気がした。
 ルキアンは、自分が幼い頃に起こったあの歴史的な事件を、うろ覚えながらに想起する。13年前、イリュシオーネ全土を揺るがした《タロスの革命戦争》のことを。そしてさらに思い出した。大乱の犠牲となって滅んだ、あの美しい森と湖の小国のことを。
 ――あれは、もしや《ゼファイア王国》の……。
 ルキアンがそう言おうとしたとき、船体が突然激しく揺れた。
 幸いにも椅子に座っていたため、床に投げ出されることはなかった。けれども、先ほどまでグラスの中で優美に落ち着いていた液体が、ルキアンの胸元で派手に飛び散っている。
「な、何?!」
 動揺するルキアンを、カルダインが無言でたしなめる。その落ち着いた様子、さすがに飛空艦と人生を共にしている艦長だけのことはある。
「浮遊している島にでもぶつかったのだろう。心配ない。この程度の衝撃でどうにかなるクレドールではないよ。しかし、だ……」
 揺れが収まったのを見計らい、カルダインは椅子から立ち上がった。
「そろそろパルジナスの上空にさしかかったらしい。君とは色々と話したいことがあったが、艦橋へ戻らねばな。そうだ、一緒に来るかね?」
 そう言いつつも、カルダインはすでに部屋の扉に手を掛けている。
 ルキアンは慌てて何度もうなずき、彼の後に駆け寄った。あの高貴な女性の絵姿に心ひかれ、振り返りながら……。





 艦長の言葉通り、クレドールは今まさにパルジナスの上空を飛行していた。竜の背を連想させる険しい山脈。それを包むヴェールのように雲が広がり、闇の中に白く光って見える。その間から点々と顔をのぞかせているのは、空に浮かぶ島々。
 夜間の飛行であるため、ただでさえ視界が悪いのに加えて、濃い雲海が行く手に立ちふさがる。雲と共に漂う無数の岩を避けて通るのは、極めて困難だ。
 しかも山頂付近の空間の歪み、その影響による霊気の不安定のために、凄まじい乱気流が発生している。クレドールの巨体さえも、嵐の中を必死に飛ぶ小鳥のように頼りなげに見える。
 カムレスの熟達の舵捌きをもってしても、比較的小さな――と言っても人の身体よりは遥かに大きいが――岩塊まで回避することはできず、それらが時折クレドールをかすめ、船体を激しく揺さぶった。
 艦橋の面々は騒然となる。
「浮遊岩礁帯に入ったようです、各自、安全装置の着用!」
 自らも座席に寄りかかって、クレヴィスが指示する。
「岩礁帯だぁ? ヴェン、どこ見てやがった!!」
 カムレスの怒号。
「知らないよ! 真っ暗で、この雲の中なんだぜ。よく見えないんだ……」
 ヴェンデイルの表情に真剣味が加わる。
 今度は右舷の側から衝撃が伝わり、岩が砕け土砂が崩れ落ちる音が、地響きとなって聞こえてくる。
 セシエルの傍らの星振儀が激しく回転した。それは揺れのためだけではない。周囲の霊気の流れが極度に乱れていることを感知し、反応するせいである。
「副長、星振儀の動きが! 霊気が渦を……きゃァ!」
 彼女は背後から何かに突き飛ばされた。
 食器の割れる音。砕けた白い破片が飛び散る。同時に幾つかの派手な悲鳴。
 ヴェンデイルは頬を膨らませて笑いをこらえ、懸命に複眼鏡を操作する。じきに彼は、一転して真剣な口調で報告した。
「尖った岩山が、柱のように……」
 彼の《目》が闇の中に無数の視線を走らせ、艦の四方の様子を一瞬で把握する。ヴェンデイルの精神とリンクした魔法眼。そのひとつひとつに、辺りの危険極まりない様相が少しずつ映し出されていく。
 とんでもない状況と言えば、今の艦橋内部もそうではあった。こちらは多分に滑稽さを伴っているけれども。
 セシエルは隣の座席に体ごと押しつけられている。
 彼女の上に折り重なるようにして横倒しになっているのは、艦橋に戻ってきたメイである。
 さらにメイの足下にしがみついて……メルカと、もう1人、メイドのような格好をした小柄な娘が、将棋倒しになっていた。
 丸くて愛くるしい目と頬のそばかすが印象的な、14、5歳程度の少女だ。
 彼女の顔をのぞき込みながら、同じ年頃の少年が頭をかいて笑っている。尻餅をついたまま動こうともせず。
「えへへ。レーナ、大丈夫かい?」
 少年の額には油汚れの跡が薄黒く付いていた。
 彼の無邪気な笑い顔を見て、メイが大声で言う。
「何してんのよ、ノエル! あんたまで」
「何……って、俺もクレドールの一員だぜ! どうなってるのかと思って、見に来てやったんじゃないか」
 アルマ・ヴィオ技師見習いのノエル・ジュプランは、得意そうに鼻をこすると、《一員》という言葉に力を入れてみせた。





 メイは溜息をつくと、腰を押さえてゆっくり立ち上がる。
「痛たた……。ごめん、セシー。大丈夫? 服、汚れなかった?」
「えぇ、見れば分かるでしょ。それより、こっちを手伝って」
 セシエルの若干いらだった表情と、メイの苦笑いとが好対照であった。
 不幸中の幸いとでも言うのか、彼女たちのお気に入りの衣装にはシミひとつできていない。ただしその代わりに、床の赤い絨毯の上でコーヒーが茶色の水たまりを作っていた。
 粉々に砕けたポットと、いくつかのカップ。こんなときに呑気に飲み物など持ってくるメイもメイだが……。
 ともかく艦橋の面々は、彼女たちの騒ぎなど気に掛ける余裕もなさそうだ。
 そんな中でクレヴィスが仕方なさそうに笑う。
「やれやれ。みなさんお揃いで、どうしました?」
 メイはクレヴィスの視線からわざと目をそらして、知らんぷりをしている。
 一生懸命に弁解するのは、先ほどの少女。
「あの、あの……メルカちゃんが、恐いからみんなのところに連れてって欲しいって。で、でね、そこにメイさんが来て、コーヒーを……それで、今度は母さんが、みんなにも持っていけって……それで、えーっと」
 彼女は半泣きになりながら説明しようとする。
 クレヴィスは黙って頷いた。
「レーナ、大体の事情はわかりました。あなたはお母さんたちの所へ戻って、厨房の仕事を手伝ってあげてください。山を越えたら私も食事をとろうと思っています。腹が減っては戦もできぬと言いますから……頼みましたよ」
 彼の微笑を見て、少女も安堵の表情を見せる。
 しんと静まった艦内。何となく心苦しい空気を散らそうと、メイが無理に冗談でも言おうとしたとき、メルカがそっとつぶやいた。
「ルキアンは……?」
 か細い声。
 しかしその小さな声は、艦橋にいた人々の耳にひときわ大きく響くのだった。
「ルキアン、どこにいっちゃったの? パパも、お姉ちゃんもいなくなっちゃったのに。ルキアンも……」
「さぁ、メルカちゃん。お台所に戻って美味しい果物でも食べましょ」
 レーナがメルカをそっと抱きしめる。
 無表情に宙を見上げたままのメルカの顔が、痛々しかった。
「ルキアンは艦長の部屋にいるわ。じきに戻ってくるから安心してね。さぁ、メルカちゃん、レーナと一緒におばちゃんたちのところに帰ろうね」
 メイは、メルカの横にしゃがみ込んで、彼女の頭を優しく撫でる。

 一瞬、切なげな雰囲気の漂い始めた艦内だったが、敢えてそれをかき消すことも辞さず、ヴェンデイルが声を上げた。
「なんだよこれ……」
「どうした、何が見える?」
 カムレスは大きく身を乗り出して、窓の外の闇を見つめる。勿論こうしても、ほとんど外の様子を目にすることが出来ないのを知りつつ。
「悪夢の空中庭園……ってとこだな」
 ヴェンデイルの唇がこわばっている。
 山脈上部に広がる台地状の地域にさしかかり、状況はますます険悪になってきた。
 巨大な獣の角を思わせる尖った峰々が、天をも突き通すかのごとき険しさで林立する。しかも山並みの中腹から遙か天上まで、木々の生い茂る浮島の群と、小石をばらまいたような浮遊岩礁帯が、夜空をびっしり埋め尽くしている。
 みな無言で振り返り、クレヴィスの指示を待つ。
「結界を……」
 クレヴィスがぼそりと言った。
「結界を増強し……」
 メイとセシエルが顔を見合わせたかと思うと、2人とも厳しい視線をクレヴィスに送る。
「ちょっと、クレヴィー、まさか」
「あんなところ、どうやって通るのよ。正気?」
 クレヴィスは静かに、冷徹に、必要な言葉だけを繰り返した。
「結界の出力を増強し、このまま前進します」
 しばしの静寂。最初に口を開いたのはカムレスであった。
「分かった。進路は変えず、そのまま真っ直ぐ前へ……」
 黙礼するクレヴィスに、彼は親指をぴんと立てて笑って見せた。
「命令、だろ? 副長」
 いつも厳つい表情のカムレスだが、こんな時に珍しく微笑んでいる。





「いったい何が起こって……嵐ですか? それともやはり空間の歪みが……」
 手を壁に添えて体を支えながら、ルキアンはカルダインに尋ねた。
「さぁな。急がないと、じきにもっと大変なことになるぞ」
 カルダインは、あっさりと聞き流して廊下を進んでいこうとする。
 と、艦長を追うルキアンの目に映ったのは……。
 彼は足下が揺れるのも構わず立ち止まる。
 ――あっ?
 真っ白なドレスの少女が、廊下の前方の曲がり角から、ふわりと舞うように現れた。
 暗くてはっきりと確認できないが、優雅な姿態と整った顔立ち。見た目には、由緒正しい貴族の娘といった感じだが。
 しかし彼女を取り巻く雰囲気は、普通の人間のそれとは明らかに違っていた。はかなげに、ぼんやりと漂うような、霧の精を思わせる娘。それでいてはっきりと伝わってくるのは、紛れもなく強大な魔力。
 異様な感覚を覚えたルキアン。
 カルダインは、歩幅を広げて少女に歩み寄る。
「どうした、エルヴィン。部屋で休んでいなくていいのか?」
 彼女は黙って頷いた。その眼差しが不意にルキアンに向けられる。
 ――この感じは?!
 射すくめられたというのは、こういう状態のことを言うのかもしれない。少女の一瞥は、ルキアンの心の奥底までも貫き通すようであった。
 その無表情な瞳は、最果ての地に広がる透徹した湖を――人の手が触れるのをあくまで拒む、あの青白く輝く水面を想像させる。息を飲むほどに美しく、それでいてあまりに冷たい。あるいは澄み切った冬の夜の月、見る者の心を鋭く突き刺す光。
 これが、クレドールの《柱の人》エルヴィン・メルファウスと、ルキアンの出会いであった。
 少女は、聞き手のことなど意識していない様子で、何かに憑かれたようにつぶやき始めた。
「天の白い騎士の乗り手……」
 エルヴィンの動作は夢遊病者のそれを思わせ、あるいは託宣を告げる巫女の仕草にも似ていた。彼女はルキアンを指さしてゆっくりと語っている。
 機械人形を思わせる笑顔。ルキアンはなぜか背筋に冷たい物を感じた。
 こんなに優しげな少女のほほえみなのに
 子供の頃に見た恐ろしい夢が、脳裏に蘇ったように。
 少女の半開きの口から、予言詩めいた言葉が流れ出る。

   あなたの影がいることを私は知っている。
   でも私には、その影のことが本当は何も分からない。
   あなたは自分の影のことを知っているはずなのに、
   それがどうしてそばにいるのか分からない。
   ずっと前からそばにいたのに。

   もうすぐ、手遅れになるよ。
   もう、手遅れだよ。

   水晶の中の涙は、どれだけの血でも贖えない。
   けれど新しい血で、凍てついた胸を癒そうとするよ、
   すべてが終わるときまで。
   流した血と同じだけの、涙を流しながら……。



10

 三人の時間は止まっていた。
 周囲の薄暗がりが、いっそう闇に近くなったような気がする。
「えっ?」
 ルキアンは言葉を飲み込んだ。
 どのくらい時が経ったのか、たぶん数秒ほど後のことであったろうが、それはとてつもなく長い沈黙に感じられた。
 たまりかねたカルダインが、息苦しそうに口を開く。
「エルヴィン、やはり少し休んだ方がいい……」
 彼にそっと背中を押されて、エルヴィンもぼんやりと頷いた。
 だが、そのとき異変が起こった。
 突然明かりが消え、ルキアンたちは真っ暗な廊下に取り残されてしまう。

 ◇ ◇

 時を同じくして、艦橋からも全ての光が失われた。
 メイの叫び声が聞こえた。気丈に見える彼女だが、もしかすると暗闇が恐いのかもしれない。
「どういうことよ、なに、何?」
 メイは周囲をやみくもに手探りした。なめらかな織物の感触が指先に伝わる。
 彼女はセシエルの袖をつかみ、身体を寄せた。
「大丈夫、心配ないわ」
 セシエルが落ち着いた声でささやく。
 ゆっくりと深呼吸する音がした。
 それに続いて厳かな声が唱えたのは、ある古代聖典の一節。
「声あり、光は満ちぬ……」
 艦橋の後ろの方にぱっと光が灯った。
 クレヴィスの手のひらの上に、暖かなオレンジ色の炎が揺らめいている。
 一同の間からざわめきが起こった。
 軽く口笛を鳴らしたのはヴェンデイルであろう。
 不安げなクルーたちの顔を、魔法の光がぼんやりと照らした。もっとも、この即席の光源も、わずか十数秒で用済みになってしまったのだが。
 天井の明かりが再びぽっと灯り、少しずつその輝きを強めていく。
「衝突のショックで、一時的に船のどこかの調子がおかしくなったのか?」
 元に戻った光の下で、カムレスがほっと一息付いた。
「びっくりさせるぜ、まったく……いや、これは?!」
 舵輪を手にしたカムレスが、まず異常に気づいた。
 次の瞬間、船体が大きくつんのめったような動きを取る。
 皆、身体を激しく揺さぶられた。
「どういうことだ?」
 カムレスがクレヴィスの方を見た。
 クレヴィスは無言のまま、手振りでヴェンデイルに指示する。
 しばらく複眼鏡に全神経を集中していたヴェンデイル。
「みんな。窓の外……見えてるよね」
 彼の声は少し震えている。

 眩いばかりに、煌々と降り注ぐ太陽の光……。
 青空は美しくも、しかし不自然なほどに雲ひとつなく晴れ渡っている。

 メイは大きな音で息を飲み込んだきり、言葉を失った。
 彼女はまず目を疑い、自らの視覚に問題がないことを何度も確認すると、今度はこの世界自体の現実性さえも疑った。これは夢でないかと。しかも、たちの悪い、とびきりの悪夢ではないのかと。
 つい今まで眼前に広がっていた暗闇が、抜けるような青一色の背景と真昼の輝きによって、もはや完全に塗りつぶされているのである。
 他のメンバーも慌てて窓に駆け寄った。
 そんな中でクレヴィスひとりだけが、予定でもしていたかのように、平然とつぶやいた。
「そうですか。そういう、ことですか……」
 クレヴィスの視線が、セシエルの傍らに据えられている星振儀に注がれる。激しい回転を繰り返していたはずの球の動きが、いつの間にか安定し、ゆっくりとした一定の速さを維持しながら、時計回りに自転している。



11

「今晩はやけに冷えるぜ」
「まったくだ。また冬に戻っちまうんじゃねぇか?」
 厚い毛皮のコートを羽織った歩哨が2人、季節外れの寒さに肩を震わせながら、闇に包まれた陣地の周囲を巡回している。
 風もない夜。肌を突き刺す寒気が、体の奥底まで静かにしみ通っていく。もう春たけなわだというのに、その晩はひどく冷え込んでいた。
「不気味な月だな……」
 兵士の一方が夜空を見上げ、冗談めかしていった。
「こんな青い月の日にゃ、悪い妖精や魔物がうろつくって話だ」
 他方の兵士が、力の抜けた顔で笑った。寒さも手伝ってか、ぞくりと背中を震わせながら。
「はは。馬鹿言うなよ。いまどきそんなことが……」
「わからねぇぞ。俺の田舎じゃ、今でも時々いるんだ。青い月の晩に、妖精にたぶらかされて……パラミシオンに迷い込んで二度と帰って来なくなるヤツが」
「おどかすなって。縁起でもない」
 そんな話をしていると、周囲の様子がなにやら異様に見え始めた。
 石壁や土嚢の後ろでは、ぼんやりと光る妖精が、何か悪さをしようとしてこちらの様子をうかがっていそうに思えた。陣地わきに置かれているアルマ・ヴィオの異形の影が、今にも魔物と化して襲いかかってきそうにも感じられた。
 歩哨たちは顔を見合わせ、足早になって詰め所に戻ろうとする。
「早く帰って一杯やろうぜ。俺、気味が悪くなってきた」
「そっちが言い出したんだろうが。くわばらくわばら……」

 月の明かりが不意にかげりを帯びたような気がしたのは、その時だった。
 黒い何かが地上に向かって舞い降りてくる。
 その姿は見る見るうちに大きくなっていった。
 夜の深い闇の中、いっそう濃い漆黒の影が上空に浮かんでいる。
 黒光りする刺々しい鋼板に身を固め、その背中にはコウモリのそれを思わせる巨大な翼、そして蛇のような長い尾を不気味に揺らめかせる様は――地獄から現れ出た巨大な妖魔の騎士そのものである。
「あ、あれは?!」
 兵士が悲鳴を上げる。
 身も凍るような雄叫びが闇を引き裂いた。
 それと同時に天空から激しい雷光が一閃、大地を貫き、生き物のごとく地面を縦横に走り、暴れ狂った。輝く光の帯がうねり、地面が裂け、木々が燃え上がる。兵舎や砲台を巻き込み、行く手に存在するいかなる物をもたちまち切り裂き、焼き払っていく。
「敵襲だ!!」
 歩哨がそう叫んだときには、すでに周囲は火の海と化していた。
 寝込みを襲われた兵士たちは、慌ててそれぞれの持ち場に着こうと、取る物もとりあえず、銃を担いで右往左往している。
 陣地に据え付けられたマギオ・スクロープが上空に向けられ、迎撃のために多数のアルマ・ヴィオが飛び立つ。
 しかし時はすでに遅かった。
 刹那、凶暴な破壊の嵐が全てを飲み込んだのである。
 火焔と閃光が大地を覆い尽くし、凄まじい爆風が、陣地に立ち並ぶ建物を木の葉のように吹き飛ばす。石造りの壁でさえ、あまりの高熱のためにその表面がガラス状になって溶解している。
 おそらく付近一帯の街や村の人々は、空が真昼のように明るくなったのを感じて、何事かと騒ぎ立てたに違いない。
 それは一瞬の悪夢だった。反乱軍の本拠ベレナ市を包囲する、オーリウム正規軍の陣地のいくつかが、数多くの兵や砲台、アルマ・ヴィオとともに完全に消え去ったのだ……。


 【第5話に続く】



 ※1999年2月に鏡海庵にて初公開
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第4話・前編


【再々掲】 | 目次15分で分かるアルフェリオン


  「飛ぶ? いったい何処へ……」
    そう問いかけることを覚えるよりも以前から、
    おさな子は飛び方を知っている。


◇ 第4話 ◇

 春の日暮れは意外に早い。白い翼を残陽に輝かせ、悠々と空を行く飛空艦は、先刻コルダーユの港に別れを告げて、所々に深い森の広がる丘陵地帯を見下ろしながら、内陸側へと進路を取っていた。
 朱と金の光に美しく染め上げられた海が、緑の地平の向こうに遠く霞んでいくにつれて、薄明の中に黒々と連なるパルジナスの諸峰が、その美しくも険峻な姿をクレドールの行く手に現し始める。

「天の《歪み》が強まってきているわ……」
 夕空を映したセシエルの薄いブルーの瞳に、先ほどから陰りが浮かびつつあった。不安な気持ちを紛らわそうとしているのか、彼女は、胸元の青紫のスカーフの端をしきりに指に絡めている。
 クレヴィスは、艦橋の中央の一段高い部分で地図を広げ、操舵長カムレスと何やら話し込んでいた。彼はセシエルのささやきを聞きつけ、いつもののんびりとした調子で言う。
「そのようですね。セシー、《星振儀》の方も引き続きお願いしますよ」
「了解」
 セシエルは自分の座席にある鍵盤を操作しながら、一定のリズムに合わせて手前の水晶玉に触れていた。そして隣の空席に据え付けられた風変わりな装置にも、彼女は忙しそうに目を配る。
 目盛りの付された数本の金属の輪に取り囲まれた、人間の頭ほどの大きさの黒い球体が、様々な方向に向けて不規則な回転を繰り返す。その隣にある天秤に似た器具も、黒い球の動きに連動しているような、していないような感じのタイミングで上下動している。見る人が見れば、付近の霊気の流れを大まかに把握することが可能な、魔法めいた――否、まさに魔法の――道具がこの《星振儀》に他ならない。
「おや、大変そうだな。メイかベルセアでも来ると楽だろうに……」
 ひとりの男が、セシエルの後ろでさも大儀そうに腕組みしつつ、そのくせ見るからに暇を持て余した態度で突っ立っている。彼がランディこと、ランドリュークである。
「それだけご存じならもう少し気を利かせて、手を貸していただけなくって?マッシアの若様」
 彼女の嫌みっぽい声に押されて、ランディはすごすごと後ずさりする。
 セシエルは他にもまだ何か不平を言いたそうに見えたが、すぐに真剣な眼差しに戻った。丁寧に切り揃えられた長い黒髪が、知的な雰囲気を漂わせてふわりと揺れる。
 2人のそんなやり取りを眺めていたクレヴィスは、おそらく彼自身にしか分からないであろう、本当に微かな笑みを浮かべた。ただしその口元は、幾分の深刻さを同時に感じさせる。というのも……。
「パルジナス山脈の上を通り過ぎるあたりから、空間の亀裂が至る所に生じてくるはずです。操舵長、念のため《パラミシオン》航行の準備を頼みます」
 クレヴィスの紳士的な物言いとは対照的に、続いてカムレスが野太い声で号令をかける。
「了解。いいか、操舵班は霊気濃度の変化をこまめに調べ、揚力の微調整を怠るな! それから、風がかなり出てきた。これからの気流の乱れは半端じゃないから注意しろよ」
 翼や鰭を自在に使って空を舞う、クレドールのしなやかで精妙な動きを、舵輪のみで制御することは勿論できない。カムレスを中心に、操舵係たちがそれぞれの分担箇所を調和的に操って初めて――船自体がひとつの生き物であるかのような錯覚を、見る者に与える――あの魂が吹き込まれるのだ。
 巨大な計器板に並ぶ数多くのボタンやダイヤルは、真鍮に似た滑らかな肌を輝かせている。数名の操舵係が、左右に慌ただしく行き来しながら、それらのひとつひとつを懸命に押したり回したりしている。
 部下たちの仕事ぶりを注視するカムレス。彼は大きく息を吸い込んだ後、背筋をぴんと伸ばした。その厳格な視線が今度はクレヴィスの方に向く。
「もう一度聞くが、副長……迂回路を行かずに、本当に山を越えていくのか?」
「はい。カルとも再度話し合ったのですが、今の《戦況》を考えれば、あまりのんびりしているわけにも……」
 クレヴィスの返事を聞くと、カムレスは沈黙し、額の大きな傷跡を指でなでさすり始めた。考え事をするときの彼の癖である。
「《幻夢の高地》と呼ばれるパルジナス、何が起こるか分かったもんじゃない。クレヴィス……命は預けたぞ」
 セシエルやランディ、艦橋の残りのメンバーたちもうなずく。
 クレヴィスは穏やかに、それでいて自信ありげに言う。
「私も魔道士のはしくれ。パラミシオンでいかなる出来事が発生しうるのか、多少は知っているつもりです。それなりの計算はしてありますよ……」





「艦長はどうしたのかな?」
 前方に何か変化が生じないか見守りつつ、《鏡手》のヴェンデイルが誰にともなく尋ねた。《複眼鏡》を自らの視角のごとく操る彼の技術には、感嘆すべきものがある。しかもその人間離れした芸当を、雑談を交わしながら気楽にやってのけてしまうのだから。
「そう言えば、メイもいないわね」
 セシエルが首を傾げた。
 クレヴィスは、窓の外の山並みをじっと見据えて言う。
「あぁ、カルなら、あのルキアン君と何か大切な話があるらしいですよ。メイが艦長室まで案内してくれています」
「この非常時にかい? 艦長も物好きだね」
 苦笑するヴェンデイル。

 ◇ ◇

 クレドールの上部側面を伸びる細い通廊は、賑やかな艦橋の様子とは対照的に、ぼんやりとした暗がりと意外なほどの静寂に包まれている。数時間前まで激しい戦闘が行われていたとは思えないくらい、ここは静かであった。うら寂しく、がらんとしていて、どことなく肌寒い。
 天井には、少しずつ間隔をおいて、橙色の灯火の列が廊下の奥の闇に向かって列をなしている。
 ほのかな明かりの下に2つの影が見て取れた。
 立ち止まって窓の外を眺めているのは、瑠璃色のフロックに銀の髪の少年、ルキアンの後ろ姿……。
 いつもより目深に被った帽子の下、彼は、ほとんど聞こえないような小さな声でつぶやいた。
「海が……だんだん遠くなっていく。もうすぐ、見えなくなる」
 ルキアンの数歩先を進んでいたメイが、彼の足音が聞こえなくなったのを感じて立ち止まった。薄暗い廊下に映える鮮やかなエメラルド色のジャケットに加えて、昼間見た時とは違い、羽根飾り付きのベレーと、精緻な薄い生地で織られた三重の白いケープ――エクターの称号を持つ者だけが着用を許される、いわゆる《エクターケープ》――をさらに身につけている。そのせいか、あるいは夕闇も手伝ってか、彼女は最初の印象よりもずっと落ち着いて見えた。
「ネレイへ向かってるのよ。私たちのギルドの本部があるところ」
 しばらくの間、メイは前を向いたままじっと突っ立っていたが、やがて仕方なさそうな微笑を浮かべ、ひらりと振り返った。
「元気ないのね。疲れた?」
「はい。というか、僕……」
 しょんぼりとうなだれるルキアン。
 無言の彼の肩を、メイがぽんと叩いた。
「分かってる。君は、戦うの、初めてだものね」
「ねぇ! アルフェリオンのせいで、いや、僕のせいで……たくさんの人が死んでしまった。違う、殺してしまった……それなのに僕、わけが分からなくて」
 ルキアンのすがるような瞳が、彼女には不憫でならなかった。
「メイたちを助けようと思って、夢中で、戦っているときには考える余裕がなかった。でもそのあと、哀しくなって……。自分のしたことが許せなくなって」
 あのときアルフェリオンから放たれた《ステリアン・グローバー》は、巨大な死の閃光となって海を切り裂き、恐らくガライアの1隻を跡形もなく消滅させ、別の艦をも瞬時に海の藻屑に変えた。残る1隻の行方は定かではないが。
 敵とはいえ、同じオーリウム人の命、多くの命の火が、ルキアン自らが引いた引き金によって永遠に失われてしまったのである。彼の後悔と落胆は計り知れなかった。
「優しい想いね……」
 しかし、そう言ったメイの表情からはいつもの暖かさが消え失せており、そのかわりに、彼女のものとは思えない歪んだ冷笑が口元に浮かんでいる。
「でも君はただ、彼ら自身のやり方に合わせて、彼らと渡りあっただけなのよ。物事を力ずくで動かそうとする人間が、より強い力に倒される……それは彼らが自ら行った決断に対して、当然負わなければならない結果だわ」
「メイ……」
 ルキアンは驚きと疑念、そして哀しみの入り交じった目で彼女を見た。
「もし彼らが、最初から暴力とは違うやり方を選んでいたなら、あんなふうに命を失ったりしなかったのよ。暖かさや優しさを捨ててむき出しの力に走った人間なんかに、情けをかけてやる必要なんて……全くない」
 彼女は無機質な口調で言い捨てる。
 ――気まずい沈黙。





 言葉を失ったルキアンの顔には、疲れの色が濃く現れている。
 メイは彼のそんな様子を気遣いつつも、窓の外を指さして、素っ気ない調子で言った。先ほどの冷ややかな言葉遣いではなくなっているが。
「あの山々……もうすぐ私たちが越えるパルジナス。山の上にいくつも《島》が浮かんでいるのが見えるでしょ?」
 メイの言葉通り、大小無数の岩――いや、それこそ島と形容する方が似合う巨大な塊が、空に幾つも漂う。それらの浮島では、赤茶けた地肌を覆って緑の草木が豊かに茂っている。
「あの島々の間を通るのですか?」
 それが相当危険な行為であることを、ルキアンは知っていた。
 無論、メイも。
「そうみたいね。元々はコルダーユから南下し、海沿いを通ってパルジナスを迂回する予定だったの。だけど、議会軍の旗色が思ったより悪いので、私たちも悠長なことをしてる場合じゃなくなった……ってわけなのよ。パルジナスを飛び越えて最短距離でネレイに向かえば、少なくとも4、5日分ほど行程の短縮ができるって、クレヴィスが言ってたわ」
 彼女の説明を聞くにつれて、ルキアンが次第に難しい表情になっていく。
「それはそうですけど、あの……でも、知っていると思うけど……」
 ルキアンがこれ以上話すまでもなく、メイが言葉を継いだ。
「パルジナスでは妙な出来事が起こるって、言いたいんでしょ? そうね、もしお化けなんか出てきたときには……」
 メイは悪戯っぽい笑みを浮かべると、ルキアンの眉間に人差し指の先をそっと押し当てた。
「そのときには、頼りにしてるからね。魔・法・使・い……」
 ルキアンは慌てて身体を硬くしている。

「あら?」
 メイは口を開けたまま、いぶかしげに外を見る。
 青い月が出ていた。
 薄墨を引いたように広がる雲の中で、凍てついた光を放つ満月が妙に大きく見える。窓から差し込む輝きは、普段の柔らかな月明かりとは何か違っている。
 ――月が見ている、こちらを見ている?
 ルキアンにはなぜかそう思えた。
 蒼ざめた冷たい硬玉、あるいは闇に浮かぶ獣の目……月の輝きに秘められたあやかしの精を、彼の内に潜む道士の魂が感じたのであろうか。
 イリュシオーネには2つの月がある。
 毎晩、普通に目にすることができるのは、黄色い月。
 そして通常はその月の陰に隠れて見えないけれども、2つの月の運行に応じて時折こうして現れるのが、もうひとつの青い月。
 青い月に関しては色々な伝説が知られている。ただし言い伝えの内容は、きまってどことなく陰鬱な雰囲気を漂わせ、時に凄惨で血生臭いものでさえある。
 《歓迎されない月》
 青い月はそう呼ばれている。
 闇の力を秘めたその輝きが大地を照らす夜……魔に属する者たちが、うつし世に這い出てくると古老は言う。あるいは、人間界と隔絶された場所に隠れ棲む妖精たちが、人里近くの丘や野辺にまでやってきて夜会を繰り広げたり、時には牛馬や子供をさらったりするとも、世人は伝え聞く。
「さい先が悪いわね……」
 メイは他にも何か言いたげな様子だったが、彼女の口をついて実際に出てきたのは、全く事務的な言葉であった。
「さぁ、あそこ。艦長が待っているわよ」
 2人の行く手は奥の方で行き止まりになっており、その突き当たりの右側に、ランプの淡い光に照らされた扉がちらりと見えた。メイは、そのドアを片手でそれとなく示す。
「それじゃあ、私は艦橋に戻るから」
「ありがとう……」
 ルキアンの視線は、窓の外に広がる夜空から、廊下の向こうの薄暗がりへと転じられた。





 夢なら早く覚めよと、ガークスは思った。
 聞こえるのは苦しげな吐息ばかり――彼は深刻な面もちで腕を組み、椅子に深く掛けたまま、彫像のようにじっとして動こうともしない。
 あのときの、そう……白銀に輝く翼を広げた破壊の天使、アルフェリオン・ノヴィーアの幻影は、ガークスの胸の内に深く刻まれ、彼の心を苛んでいた。
 怒り、衝撃、そして彼自身認めたくないことだが、紛れもない恐怖のせいもあって、彼の顔は青白く血の気を失っている。
 ガライアの一室、張りつめた空気の中で、動力炉の鋼の心臓の鼓動だけが伝わってくる。
 部屋の中にはもう1人居る。ガークスの後ろ姿を、先ほどからじっと黙って眺めている男が。真っ黒なフロックに包まれた長身を壁にゆだね、うねる長い髪の下に表情を隠して……。
 彼が髪をかきあげると、オニキスのピアスが、艦内の暗い照明を映して鈍く光った。彼の瞳に宿った怜悧な輝きが、周囲の静寂をさらに凍り付かせる。
「ほぅ……貴方ほどの武人でも恐れに震えることがあるのですね」
「何だと?」
 ミシュアスの言葉がかんに障ったらしく、ガークスは不機嫌な声で応えた。
 対照的にミシュアスは、あくまで冷ややかである。
「優れた部下1人と最新の機体1つを失って、正直、私も内心穏やかではありません。しかし貴方の痛手に比べれば……。同情しますよ。ガライア1隻の戦力は、従来型の飛空戦艦の数隻分には軽く匹敵するでしょうからね」
 同情したと言いつつ、ミシュアスは、感情のない醒めた微笑を浮かべている。
 ガークスは突然椅子を蹴って立ち上がり、ミシュアスの胸ぐらをつかんだ。
「余計なお世話だ! 言わせておけば……」
 ミシュアスは能面のように表情を崩さず、侮蔑的な目でガークスを見ている。
 怒りに腕を振るわせるガークスだったが、ふと我に返ったとき、ミシュアスの体中から発せられている異様な妖気に、ぞっとするほどの圧迫感を覚えた。
「み、見ていろ。ギルドの飛空艦め、この借りは必ず返してやる」
 ガークスは言葉を吐き捨て、再び椅子に座った。
「それにしても、たった1体のアルマ・ヴィオに飛空戦艦が沈められるとは。2隻も……しかも一瞬で《消された》んだぞ」
 黙ってうなずき、ミシュアスはふと視線を脇にそらした。
 丸い窓の向こうに海が広がる。薄暗い水の中を魚の群が通り過ぎていく。
「これまでのデータにはない機種ですね。エクター・ギルドが密かに開発していた新型かもしれません」
「あんな化け物を造り出す技術が、ギルドにあるとでも言うのか?」
「さぁ、どうでしょう。私も初めて目にする攻撃です。一見、極めて高レベルの火精系魔法を放ったのかと思いましたが、破壊力が根本的に違いますね」
 冷静に分析するミシュアス。
「少なくとも、通常の魔法を使った兵器ではなさそうです。もしかすると……昔、聞いたことがあります。無属性の魔力そのものを、精霊界の触媒を経ずに物質界へと強制的に実体化させ、その際に生じる想像を絶する余剰エネルギーを利用したシステム」
「何だそれは?」
 ミシュアスは窓の方に向かってゆっくりと歩き始めた。そしてつぶやく。
「まさかとは思いますが……古代の超魔法文明を破滅に導き、禁断の力、大いなる災いとまで呼ばれた、あれは、そう……」
 怪訝な表情のガークス。
 ミシュアスは不敵な笑みをたたえて振り返った。
「なぁに、つまらないおとぎ話ですよ」

 コルダーユの遥か沖合、海底深く藍色の暗い水の中を、ガライアの巨大な影が進んでいく。不気味なほど静かに。
 この恐るべき相手がクレドールの前に再び姿を現すのは、きっと近い将来のことに違いない。





 部屋の扉は半開きになっていた。よく磨かれた分厚い木のドアは、まるで部屋の主の個性に合わせたかのように、飴色の重厚な光を放っている。扉の向こうから漏れ出しているのは、白っぽい微かな灯りだけだ。中からは物音ひとつ聞こえてこない。
 《艦長 カルダイン・バーシュ》
 角張った古風な活字体でこう書かれた木札が、ドアの脇に掛けられている。
 ルキアンは気後れを感じながらも、そっとノックする。妙に乾いた音が廊下に響いたのを気にして、彼は思わず背後を振り返った。
 数秒ほど経ったが何の返事もない。ルキアンは、多少ゆっくりとした調子で改めてドアを叩いた。
 部屋の中には確かに人の気配がある。彼は、扉と壁との間にできた隙間を恐る恐る広げてみた。
 すると、そのとき。
「君……」
 かすれ気味でいて、そのわりによく通る低い声が、ルキアンの耳に突然飛び込んでくる。彼はつい仰天して、転がり込むような勢いで部屋の中に入ってしまった。
「し、失礼」
 ルキアンはそろりと顔を上げる。
 またもや何の前触れもなく、同じ男の声が響いた。今度は幾分なりとも心地よい、弦の調べを思わせる低音ではあったが、話の中身はいささか唐突だ。
「白で良いか?」
「え?」
「ワインは白で構わんかね? それから、チーズがそのあたりに……」
 全体としてセピアの色調でまとめられ、時が止まったような空間の中。その雰囲気に見事に溶け込んだ、焦げ茶のフロックの男――カルダイン・バーシュは、革張りの頑丈な椅子に雄大な体躯を落ち着かせている。
 ――この人が、艦長の……。
 どことなく憂いを帯びたカルダインの瞳に、吸い込まれそうな強い意志の力を感じたルキアンは、無言で彼の様子に見入っていた。そんなルキアンのことなど気にも留めていないのであろうか、カルダイン艦長は、背後の大きな棚の引き戸を開け、その奥を探っている。
「君は運がいい。半年ぐらい前に、たまたま一樽だけ手に入った上等のやつを、瓶に詰めていくらか残してある。滅多にお目にかかれない代物だ」
 船の上でも倒れないよう工夫された、三角フラスコの胴をもっと平たくしたような形のボトルを、カルダインはいつの間にか手にしている。濃い髭に覆われた頬が、心なしかゆるんで見えた。
「このワインが仕込まれた年は、私にとって何かと忘れ難い年でね……」
 ルキアンの返事を聞くまでもなく、カルダインはよく磨かれたグラスを2つ取り出し、慣れた手つきで酒を注いでいく。
 きょとんとした顔で突っ立っているルキアンを見て、彼は苦笑した。
「ルキアン君、だったな……遠慮はいらんよ。君はこの船の客なのだから」
 カルダインは、手近な所にあった椅子を指し、そこに座るよう彼に告げる。
「えぇ、では」
 遠慮がちに腰掛けたルキアンの前に、グラスがぶっきらぼうに差し出される。
 ルキアンは慌ててグラスを受け取ると、軽く会釈した。銀色の前髪の下に浮かぶ恥ずかしげな微笑、それを見たカルダインが慇懃な口調で言う。
「若き勇士に乾杯」
 よく熟した果物を思わせる香りが、ルキアンの鼻腔をくすぐる。濃厚な芳しさであった。グラスを天井の灯りにかざしてみると、黄金さながらに光る麦藁色の水面が、魔法の泉のごとき神秘的な輝きを見せる。自分のような貧乏貴族には縁のない美酒だと、ルキアンは思う。
 しかし余韻に浸っている場合ではなかった。ルキアンは姿勢を正して、艦長の方に向き直る。
 彼の胸中を察してカルダインが言った。
「分かっているさ。事情はメイとバーンから聞いている。本部に着いたら、ガノリス王都の現状を調べたうえで、君の師と一刻も早く再会できるように取り計らおう。その間、君とあの少女の滞在場所や食事等については、私たちが責任を持って支度させる。安心したまえ」
「いま、あの子は、メルカはどうしていますか?」
「厨房係の娘が相手をしてくれていたよ。荒っぽいエクターたちに子供の世話役は務まらんだろうから、ちょうどいい。他に何か希望は?」
 ルキアンはグラスに口を付け、喉の渇きを潤すと静かに言った。
「いえ、艦長。十分なお気遣い、ありがとう……ございます」
 カルバとの《再会》という言葉に、本来なら希望をつながねばならないはずである。だが簡単にはそう思えないことが、ルキアン自身、とても辛かった。


【続く】



 ※1999年2月に鏡海庵にて初公開
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第3話・後編


【再々掲】 | 目次15分で分かるアルフェリオン




 ――みんな……。
 メイは我に返り、決意した。
 彼女の念信がしっかりとした響きでルキアンに伝わってくる。
 ――ルキアン、よく聞いて。これからアルフェリオンを切り離すわ。そちらが泳げるかどうか知らないけれど、このままでは2人ともやられてしまう。私は敵を引きつける。キミはクレドールとともに脱出しなさい。
 ――そんな!
 ルキアンが動揺している間に、メイは一方的にアルフェリオンを切り離しにかかった。
 ロックを外され、アルフェリオンが風圧でぐらりと傾く。
 ――待ってください! 死んじゃだめだっ!!
 アルフェリオンの体が宙にふかれ、ラピオ・アヴィスの上から吹き飛ばされていく。そして凄まじい速さで海面に向かって落下し始めた。
 ルキアンの心の中に、メイの落ち着いた声が伝わってくる。
 ――ルキアン君、ほんとに短い間だったけど、なかなか面白かったよ。バーンたちにもよろしく。
 そこで念信は途切れた。
 ラピオ・アヴィスは、重荷から解き放たれて素早く飛び立ち、さらに上空へと登っていく。
 敵のアルマ・ヴィオが群をなしてそれに続いた。

 ――そんなの、そんなのないよ……。
 わずかの後、大きな水しぶきと轟音を立てて、アルフェリオンが海面に叩きつけられた。
 海の底へと機体がゆっくり沈んでいく。それにつれてルキアンの意識も薄れていく。

 だが、そのとき。

 ――お友達を見捨てて、すぐにあきらめるのは……いけないことだわ。
 ルキアンの脳裏に、不意にぽつりと言葉が浮かんだ。
 水面に落ちたひとつのしずくが、波紋となって周囲に広がっていくように、謎の声が彼の心中に響きわたる。
 ――誰?
 そう言いつつも、ルキアンはこの声に聞き覚えがあった。
 忘れもしない。カルバの研究所をアルフェリオン・ドゥーオが破壊したとき、ルキアンを導いたあの女の声である。
 なぜか彼の意識のうちに、必死に抗戦するクレドールの姿がくっきりと浮かび上がった。
 ――見なさい。あの船には、あなたのことをきっとよく分かってくれる人たちが……あなたの仲間になるはずの人たちが乗っている。空の上でも、大切なお友達が苦しんでいるじゃないの。
 ――僕のことを、分かってくれる人たち……。
 無数の痛ましいイメージと、薄暗いほこらの中に白く浮かんだあのセラス像の姿が、ルキアンの心の中で絡み合い、激しい渦となった。
 ――《あそこ》には、僕の探している《未来》はなかった。
 ――《ここ》ならきっと見付かるはずよ。あなたの《未来》を指し示してくれるものが。
 ――でも、僕にはどうすることもできないよ。
 ――そんなことはない。あなたが望めばいいの。ただ望めば……。
 ――望む?
 ――そう。大切な人たちを助けたいと心から祈りなさい。未来を取り戻したいと強く願いなさい。そして、自分にはそれができるのだと、まずあなた自身が信じるのです。

 ルキアンの心に小さな炎が灯った。
 それは、たちまちのうちに大きく燃え広がり、薄れつつあった彼の意識を呼び覚ましていく。自分でもわけがわからないままに、激しい闘志と勇気がわき上がってくる。
 ――僕に力を貸して、アルフェリオン……。
 ルキアンの気持ちに呼応するかのごとく、巨大な閃光が海を覆い尽くした。
 満ちあふれる魔力。
 海面は嵐の最中のように荒れ狂う。
 輝く翼が羽ばたき……白銀のアルマ・ヴィオが天に向けて咆哮する。





「大変! メイったら、1人で敵を引き付けるつもりだわ!」
 セシエルが叫んだ。
 クレヴィスが立ち上がり、廊下に向かって歩き出した。
 彼はすれ違いざま、カルダインにそっと告げる。
「私もアルマ・ヴィオで出ましょう。メイを死なせるわけにはいきません」
「しかしクレヴィス、お前の《あれ》は整備中だったが」
「えぇ。でも動けば、それで十分ですよ」
 だが艦橋の出口のところまで来たとき、クレヴィスがふと立ち止まった。
 彼は、日頃あまり見せることのない神妙な顔をしている。
「とてつもない力を感じます。これは、いったい……」
 ――エルヴィン、今の力を感じましたか?
 ――はい。
 少女の声。ただしそれを聞くことが出来たのは、艦橋の中ではクレヴィスのみであった。
 クレヴィスは目を閉じて、音にならない心の声に耳を傾ける。
 ――この魔力の源が分かりますか?
 ――すぐ近くに《それ》がいる。安心して、敵ではないと思う。身震いするほどの魔力、哀しい叫び……。

 クレドールの中央部分、艦の心臓部に位置する一室。
 少女の声はここからクレヴィスに届いていた。
 この広間の中には、植物のつた状の暗緑色のチューブが無数に《茂って》いる。それらは床を這い、壁面までをも何重にも埋め尽くし、天井に至る。ときおり、そこかしこのチューブがまるで生きているように脈打つのが、不気味と言えば不気味である。
 この異様な空間の真ん中に1本の《樹》が生えていた。大小さまざまなチューブは、全てここに端を発している。
 《樹》をよく見ると、幹の真ん中に透明なクリスタルでできた部屋らしきものがあった。その形態は、ちょうどアルマ・ヴィオの《ケーラ》(コックピット)に似ている。ただし、こちらの方が一回り、あるいは二回りほども大きいが。
 その中には美しい少女がいた。やや青みがかった長い黒髪に、天の芸術家によって造られた白磁の像を思わせる、異常なまでに白く滑らかな肌。
 細い肩、どこか寂しそうに沈んだ顔つき、風でも吹けば壊れてしまいそうに繊細な、硝子細工の妖精。
 彼女は生まれたままの姿で、水晶の棺の中を満たす緑色の液体に浮かんでいた。植物の根のごときチューブがその中に繁茂し、彼女のからだに幾つも絡みついていた。
 彼女は眠っているようにも見えた。ただし、ときおり小さくうなずいたり、囁くような、吐息とも、うめきともつかぬ声を上げている。
 驚くべきことに、このか弱い少女から凄まじい魔力が感じられる。
 おそらく、特別な感覚を持たぬ普通の人間でも、この広間に入った途端、肌を刺す霊気のほとばしりを感じるであろう。
 ここはクレドールの心臓であり、この少女はクレドールの命であった。彼女は、艦の《柱の人》あるいは単に《柱》と呼ばれる役割を果たしている。
 実は飛空艦もアルマ・ヴィオ同様に半ば《生きて》いる。ただし《柱》はエクターとは違って自ら艦を操ることはない。そして何よりも、エクターよりもさらに大きな魔力を持っていなければならない。その力を利用して、飛空艦は大気中の霊気をより効率よく動力に変換することができるのだ。
 《柱》の力は常に必要なわけではない。もちろん飛空艦は自分自身の力で飛ぶことが出来るのである。しかし戦闘の場合等、船の全力を出そうと思うと、《柱》の力が欠かせなかった。
 彼女、エルヴィン・メルファウスがこの船の《柱》であり、同時にいまクレヴィスと話しているその人であった。

 ――翼が見える。鎧に身を包んだ天の騎士が来る。
 エルヴィンはクレヴィスに伝えた。彼は黙って聞いている。
 ――なんて痛々しい、寂しそうな……傷ついた、こころ。
 ――そして《もうひとつ》は。
 ――あまりに哀しい、けれど憎しみに満ちた、全てを飲み込もうとする破壊への意思……。





 正体不明の強大な魔力が一帯を覆い始める。
 それに気付いたのはクレヴィスたちだけではなかった。
 ――隊長、パンタシア感覚器に異常が発生しました! 計測不能な超高出力の反応あり!! 場所は……馬鹿な、すぐそこ?!
 配下のアートル・メランから、ミシュアスに念信が入る。
 ――慌てるな。
 そう言った矢先、彼も異変を感じた。
 息苦しいほどの威圧感。空気が重い。
 ――何? この凄まじい力は。どこだ、海の方から……まさか?!
 ミシュアスは本能的に危険を感じ、ほとんど第六感によって回避運動をとった。
 それとほぼ同時のことである。まばゆい光の帯が海面から上空まで一閃し、直後に鞭のごとくしなって左右に揺らめいた。
 ほんの一瞬の出来事であった。光が弧を描いた場所で、2機のオルネイスが両断されていたのである。ナイフでバターを切るように、いとも簡単に真っ二つにされ、炎上したまま海面に落ちていく。
 メイは、そこで何が起こったのか理解できなかった。
 ――白い、影?
 眼下の海面の方に何かが見える。
 それはまさしく奇跡に感じられた。
 クレドールのクルー、そしてミシュアスやガライアの乗組員たちまで、
 この場に居合わせた誰もが身を震わせる。
 それは白く輝く巨大な十字架を思わせた。
 静かに、気味が悪いほど静かに、宙に浮いているのは……。
 翼を大きく広げたアルフェリオンである。

 凍った、時間。そして……。

 甲冑同様の分厚い金属製の外皮が、鈍い音を立てた。
 アルフェリオンの左右両方の肩当てがゆっくりとスライドする。
 胸部の鋼板も開き、青く光る楕円形のレンズ状の装置が姿を見せた。
 ルキアンの心の中に、聞き慣れたアルフェリオン・ノヴィーアの声、あの中性的で無機質に歌うような声が伝わってくる。
  ――パンタシア変換最大値、急激に上昇中。通常動力に代わって、ステリア系を作動させます。
 アルフェリオンの肩と胸の部分には吸気口が現れ、まるで巨大な生き物が呼吸をしているかのごとく、その吸気音が周囲に不気味に響きわたる。
 最後に、突撃を前にした騎士が兜頬を下ろすのと同じく、頭部のバイザーが顔面に降りていく。
 その奥で赤い眼が光った。

 ――何をしている? 敵だ!!
 ミシュアスが部下に念信を送りつつ、自らも攻撃の態勢を立て直そうとする。
 アートル・メランの1体が海面の方に向かおうとした、そのとき……。
 空を引き裂くような鋭い鳴き声が、辺りにこだました。
 アルフェリオンは、信じられないほどの速さで海面から上空まで一気に上昇し、アートル・メランの横に並ぶ。
 ――馬鹿な?! 汎用型のアルマ・ヴィオがどうしてこんな速さで。
 アートル・メランのエクターは絶句した。
 彼の脳裏にミシュアスの念信が響く。
 ――かわせ! 早くしろ!!
 だが既に遅かった。
 アルフェリオンのマギオ・スクロープの砲身が、瞬時に背中から左肩に跳ね上がり、アートル・メランに強烈な雷撃を叩き込む。
 青白い電光が、太いビームとなってアートル・メランを頭部から串刺しにした。
 光はそれでも直進を止めず、クレドールと交戦中の敵艦の目前で海面を貫き、大きな水柱と水蒸気を立てた。
 ガークスの乗ったガライアが激しく揺れる。
「どうした、新手の敵艦の砲撃か?!」
 思わず椅子から立ち上がったガークス。そのたくましい体も、大揺れの中でふらつきそうになる。
「分かりません。上空から、恐らくあのアルマ・ヴィオからの雷撃です!!」
 そう返答した部下に、ガークスは声をやや震わせていった。
「まさか、あのアルマ・ヴィオのマギオ・スクロープは、飛空戦艦の主砲並みの威力を持っているというのか?! ありえん、そんな……」



10

 ぼんやりとしていたメイは、アルフェリオンの姿を見て我に返った。
 一瞬の隙をついて、ラピオ・アヴィスもオルネイスに向かって猛進する。その金属の鋭い爪が敵の首をとらえ、くちばしが頭部を打ち砕く。
 ――勝てる……勝てるわよ。
 メイはもう1機のアートル・メランに向かって、マギオ・スクロープを発射した。
 しかし敵も、慌てながらもそれを素早く回避する。
 アートル・メランの胸部にある2門のマギオ・スクロープから、轟々と燃える炎が走った。それを皮切りに、ラピオ・アヴィスとアートル・メランは空中で激しく交差し、離れ、闘い始めた。

「カムレス、右舷の砲列を敵旗艦に向けろ! 砲手長に連絡、一斉射撃!!」
 カルダインが叫ぶ。アルフェリオンの思わぬ加勢によって、艦内の士気も上がっている。
「敵は怯んでいる。砲撃しつつ、退路を確保」
「了解!」
 カムレスは大きく舵をきった。
 そしてクレヴィスが、カルダインと無言でうなずき合う。
 クレヴィスは気軽な声で囁くように言う。
「セシー、メイに念信を伝えてください。今のうちに帰還するように」
「わかったわ」
 セシエルは念信のコンソールを操り、メイに連絡を始めた。

 ――敵艦をなんとかしたい……どうしたらいい?
 ルキアンはアルフェリオン・ノヴィーアに尋ねる。
 ――《ステリアン・グローバー》を使用するのが良いでしょう。味方を巻き込まぬよう、出力はこちらで縮減させます。
 ノヴィーアは機械的に即答した。
 空中でアルフェリオンの動きがぴたりと止まった。
 4対の大きな翼と2対の小さな翼が、背中で機械的な動きをし、X型に重なる。翼は次第に白熱化し、つけ根の方からまばゆく輝いていく。
 膨大な魔力がアルフェリオンに向かって流れ込んでいるのがわかる。アルフェリオンの体がぼんやりとした光を放ち始め、周囲の気圧さえも急激に変化していくように感じられた。
 風の流れが、海が……自然に満ちあふれる霊気が共振している。
 アルフェリオンの胸のレンズがその青白い光を強めていく。
 光の渦が次第にはっきりと目に見え、アルフェリオンの周囲を取り囲む。
 この様子を見ていたミシュアスは、底知れぬ危険を直感的にとらえた。
 ――いけない。あれは恐らく……。
 彼はもう1体のアートル・メランに退却命令を出し、自らもこの場から急速に後退し始める。

 ガークスは、アルフェリオンに対する砲撃を命じる。
「ミシュアスめ、口ほどにもないわ。あのアルマ・ヴィオが何をしようとしているかは分からんが、あれでは撃ってくださいと言わんばかりではないか!」
 ガライアの艦砲が上空のアルフェリオンめがけて発射された。
 だが……。
 ガライアの放った魔法弾は、アルフェリオンの近くで急に軌道をねじ曲げられ、向きを変えたのである。

「霊気濃度差による屈折現象です。こんなことが実際に起こるとは」
 クレヴィスがつぶやく。
「ん? そのなんとか現象ってのは?」
 ランディが皮肉っぽい笑みを浮かべて尋ねた。
「簡単に言うと、ある物体の周辺の霊気の濃度が、周囲のそれよりも異常に濃くなると……現実にはあり得ないほどの濃度差が必要なのですが……その物体に向けて進む別の霊気の流れは、進行方向をねじ曲げられてしまうのです」
 クレヴィスの説明を聞いて、ランディはニヤニヤしながらお手上げのポーズを取る。
「しかし、霊気濃度差による屈折現象については、私は本で読んだことしかありません。現実にはありえない、あくまで理論上のことだと思っていました」
 クレヴィスは感慨深げに言うと、アルフェリオンの姿をじっと見つめた。
「ただ、かつての極めて高度な魔法工学によって造られたある仕組みが、この現象を発生させることがあり得るとは聞いています。それは《ステリア》……その昔、旧世界を滅亡寸前にまで追い込んだという、魔の力だと言われています」



11

 アルフェリオンに向けた砲撃がまったく効果を発揮しなかったのを見て、ガークスも不安になってきた。
 彼は歯ぎしりしつつ数秒ほど考えていたが、大声でこう叫んだ。
「全艦、急速潜行!! ここはひとまず退け!」
 彼の命令を、部下が念信で各艦に慌てて伝えている。

 アルフェリオンの翼がいっそう輝きを増した。
 胸のレンズがぼうっと赤みを帯びたかと思うと、その赤い光が急速に強まっていく。
 それに呼応するかのごとく、アルフェリオンの前に、陽炎のようにゆらめく光のかたまりが現れた。それは次第に大きく膨らみ、こちらもレンズのような形を取り始める。
 周囲を取り巻く霊気の渦が徐々に収束され、強烈な熱と光を放っている。
 ルキアンの気合いが高まり、彼の中で何かがぷつりと切れた。
 と……心のむこうで誰かが振り向いたような気がした。
 姿はよく分からない。
 ただ、ルキアンはその人影にとても懐かしさを覚えた。

 白い閃光が全てを飲み込んだのは、そのときであった。
 何が起こったのか、理解できた者は少ない。
 海が二つに裂けるのを見た者がいた。
 光の柱がガライアを飲み込むのを見た者もいる。
 気が付くと、跡形もないほどに粉々になったガライアの残骸が、海面に漂っていた。
 やがて海は何事もなかったかのように静まり、クレドールは穏やかな波間にぽつりと浮かんでいた。

 ◇ ◇

 白い海鳥が飛んでいく。
 岸辺に打ち寄せるゆったりとした波の向こう、つい先ほどまで激しい戦闘が行われていたとはとても思えなかった。
 港の埠頭近くの小さな浜辺に、アトレイオスの姿があった。
 その足下に大柄な若者が腕組みして立っており、波打ち際で遊ぶ少女を見守っている。
 少女は、熊のぬいぐるみの腕を持って、それを振り回すほどの元気で波と戯れていた。岸辺で砕けた波と、春の穏やかな日差しとが創り出す、光の幻想の中で、彼女は無心に遊んでいる。

「ねー、バーナンドぉ」
「こらこら、メルカちゃん、俺はバーナンディオだってば。バーンって呼んでくれよ」
「んじゃぁ、ばーん。あのね……」
 メルカは風で乱れた髪を片手で押さえながら、無邪気に微笑んだ。
 それを見て、バーンも不器用な笑顔を浮かべ、いかつい肩をすくめた。
「奇跡って、信じる?」
 何の脈絡もなく、メルカの口から不意にこんな言葉が飛び出した。
 バーンはしばらく黙っていた。
「どうだか。でも、もし奇跡ってのがこの世にあるとしたら……たぶん、ただひとつだけ、自分の全てを賭けて信じたときに、初めて起こるのかもしれねェな」
 独り言に近い答えだった。
「ふぅーん」
 メルカはちょこりと首を傾け、不思議そうに目を丸くしている。
「さぁ、お仲間のお帰りだぜ。迎えに行こうか」
 バーンは彼女の背中をぽんと叩いた。
 彼が指さした方角には、沖合から港へと帰ってくるクレドールの姿があった。

【第4話に続く】



 ※1998年6月に鏡海庵にて初公開
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第3話・前編


【再々掲】 | 目次15分で分かるアルフェリオン


  みにくいあひるの子が、笑ったよ。
    ずっとずっと、微笑みの奥に嘆きを押し込めていた……
    だけど最後に心から笑ったよ、優しい白鳥たちの中で。


 ◇ 第3話 ◇

 夜の静寂が限りなく愛しかった。
 震える体にそっとかけられた天鵞絨(ビロード)の外套のように、
 ひっそりとした暗がりが、青ざめた肌を柔らかに包み込む。
 小窓から差し込む月明かりが、冷たい石の床を照らし出し、
 おぼろげな光の円を描いている。
 微かな輝きの中に浮かび上がるのは、
 惨めな薄茶色に色あせつつある、白い蝶の羽根……。
 その周囲には細かな埃が、雪化粧のようにさらさらと積もっている。

 じっとひざまずいているルキアンは、足下の蝶の死骸から視線を転じ、目の前の物言わぬ相手を見上げた。
 女神セラスの彫像が、あくまで柔和な微笑をたたえて彼を見守っている。
 滑らかな象牙色の石の肌に、月の光が照り映えては、深い闇の奥へと吸い込まれるように消えていく。

 《すべてに哀れみを》
 像の足下の台座に、そう彫り込まれていた。

「僕は……こんなところで自分を見失ってしまうのは嫌です」
 ルキアンは目を閉じ、何度も首を激しく振った。
 わななく声が小さなほこらの中に響く。
「でも、どうしても止められない怒りが……怒りが次第に僕の中に満ちあふれていくことが……心が荒んでいくことが、自分自身、耐えられないのです。穏やかなままでいたい。いつも静かに笑っていたい。それだけなのに!」
 流れるように美しく彫られたセラスの裳裾に、彼はすがりついた。
 静寂の中で、悲痛な溜息だけが大きく響く。
「僕が、僕が何か悪いことをしているのでしょうか? 分からない。誰かを苦しめたりしたのでしょうか? 僕はただ、良いことであると今まで教えられてきたことを、やっているだけなのに」
 ルキアンの上体がセラス像の胸から足下へと、絶望を背負って崩れ落ちる。
「ここには、僕の探している未来はありません……」
 セラスの背中で誇らしげに広げられた翼が、ルキアンにはうらめしかった。
 今にも羽ばたこうとしているように見える、白い翼が。





 ――どうして、こんな時に?
 突然に蘇った忌まわしい記憶の中から、ルキアンは現実へと帰ってきた。余計なことを考えている場合でないというのは、彼にもよく分かっている。しかし、なぜか……。
 メイのラピオ・アヴィスは、7機の敵を相手に圧倒的に不利な戦いを強いられている。それなのに、ルキアンには何もできなかった。今のアルフェリオン・ノヴィーアは、ラピオ・アヴィス本来の俊敏な動きを邪魔する重荷になっているにすぎない。
 鋼の怪鳥の群が銀色の翼を閃かせて襲いかかる。矢尻のような形の頭部が特徴的な、議会軍の飛行型アルマ・ヴィオのひとつ、オルネイスだ。性能は中の上あたりというところだろうか。ラピオ・アヴィスの方がスピードの点では上である。あくまでアルフェリオンを乗せていなければの話だが。
 メイは並々ならぬ腕前を見せていた。ラピオ・アヴィスは、鋭角的な方向転換と急激な加速・減速とを巧みに組み合わせ、不規則な動きで相手の狙いをうまく攪乱する。そのおかげで、吹き荒れる魔法弾の嵐の中にあっても、今のところ直撃は回避できている。
 しかし敵のエクターたちも、議会軍のエリート部隊に所属していただけあって、みな相当の訓練を積んだ手練れに違いない。息のあったコンビネーションで次第にメイとルキアンを追いつめていく。
 ラピオ・アヴィスと接近した瞬間をとらえ、1機のオルネイスが刃物のような爪で激しくつかみかかった。ラピオ・アヴィスの翼から、精巧な薄い羽根がぱっと飛び散り、はるか下の海面へと落ちていく。
 メイも上手くかわしているが、やはりアルフェリオンが重荷になって、どうしても飛行のバランスを崩しがちになる。姿勢を何度も立て直しながら攻撃を回避するのは、さすがの彼女にとっても容易ではない。
 自分がメイの足を引っ張っている――その思いがルキアンの胸を締めつけた。
 戦闘の中、初めて経験する過酷な動きに、ルキアンの感覚はついていけなかった。今の状態ではアルフェリオンも動くことができず、じっと耐えているしかない。
 ――すいません、僕のせいで。
 ――黙って! キミはしっかりつかまっていればいいの!!
 ラピオ・アヴィスの正面からもオルネイスがまた1機、猛然と襲いかかる。
 ――数が多いからって、いい気になるんじゃないわよ!
 メイは間一髪で機体をひねってかわすと、振り向きざま、瞬時に脚で敵の脇腹を蹴飛ばした。バランスを崩した敵めがけて、ラピオ・アヴィスの背中のマギオ・スクロープが発射される。後方へ弾き飛ばされていくオルネイスを、雷撃弾のまばゆい電光が包んだ。オルネイスは網に掛かった鳥のごとくもがいたかと思うと、きりもみ状態で海面へと落下していく。
 ルキアンはメイの見事な攻撃に目を奪われた。だが次の瞬間……。
 ――ど、どうしたんですか?!
 突然、アルフェリオンの機体が不安定に揺れ始める。
 メイからの念信が伝わってきた。
 ――ルキアン、大丈夫? こんなのかすり傷だからね!
 敵を1機倒したと思った矢先、ラピオ・アヴィスの腹部に別の相手からの魔法弾が命中したらしい。幸い大事には至らなかったようだが、やや飛行速度が落ち、機体が小刻みに揺れ始めている。





 追いすがる敵をかわし続けるメイ。
 その様子を遠巻きにうかがっている者たちがいた。悠然と宙に浮かぶ3つの影。ミシュアスとその部下の操るアートル・メランである。
 黒と赤の魔獣たちは翼を軽く羽ばたかせ、ときおり上体を猛々しく反らして雄叫びを上げていた。鷲の頭を持ちながらも、獅子の体を備えた姿にふさわしく、その声は荒々しい野獣のそれに近い。
 横一列に並んだうち、中央の1体……その頭部には、燃えさかる火焔を思わせる真紅の鶏冠が、誇らしげにそそり立っている。ミシュアス専用の機体である。
 黒の貴公子・ミシュアスは、余裕たっぷりに戦いを見守っていた。敢えて自分が手を下すまでもない、といったところだろうか。
 ――所詮は悪あがきに過ぎないが、あのアルマ・ヴィオ、思ったより頑張るものだな。まぁ、勝てる戦いでも、こんなところで無駄な損失を出すのは好ましくあるまい。そろそろ終わりにするか。
 ひときわ鋭い鳴き声。ミシュアスのアートル・メランが、敵を威嚇するように大きく翼を広げ、前足の爪を立てる仕草をした。それを合図に、残り2体が前方のラピオ・アヴィスに向かって猛然と飛び立つ。
 真に恐るべき敵が、新たに戦列に加わったのである……。

 ◇ ◇

 海上のクレドールも、敵のガライア艦3隻の砲火を浴びることになった。
 ガライアは、飛空艦でありながら潜水能力をも兼ね備えている。水面下から密かに忍び寄った3つの巨大な影は、艦砲の射程距離内にクレドールをとらえた時点で浮上し、突然、エイに似た不気味な船体を現した。
 轟音と共に、クレドールの周囲にいくつもの水柱が立ち上る。
 何発かは船体を直撃した。
 艦が大きく揺れ、不意をつかれたブリッジの面々は騒然となる。
「マギオ・スクロープによる攻撃! 第二波、来るぞ!!」
 金髪の若者が甲高い声で叫ぶ。
 どことなく猫のような雰囲気を漂わせた、小柄な、やさ男だ。
 18、9の年頃に見える童顔だが、実際の年齢は外見から予想されるよりも上なのだろう。リボン状の黒い帯紐を使って、髪を頭の後ろで一本にまとめている。
 彼は《鏡手》のヴェンデイル・ライゼスである。
 この男の席に向かって、壁から床を経て何本かの鉄管が配されている。それらの管全てが、ヴェンデイルの前に据え付けられた大きな黒い金属球へと至る。そして、このひと抱えもある黒い球と沢山のコードで接続された、鉄仮面のような物を、ヴェンデイルが被っている。これらの設備一式が《複眼鏡》の操作装置なのである。
 カムレスが舵輪を操りながら言った。
「メイたちが交戦中の飛行型アルマ・ヴィオか?!」
 クレヴィスが冷静な表情で答える。
「いや……威力から考えて、敵の艦砲でしょう。大口径の火系魔法弾です。船の前面に結界を展開しつつ、こちらも応戦を! 相手は戦艦3隻です。もともと正面から戦って勝てる相手ではありません。メイたちの回収を最優先にし、その後はとりあえず退却です。手早くね、長引くと大変そうですから……」
 相変わらずの微かな笑みを浮かべつつ、クレヴィスは指示した。
 この非常時に呑気すぎるという感じもするが、これまで、どんな激戦の中でも彼はこの調子を崩さなかった。
 そして、これが彼のいつもの口癖である。
「まぁ、なんとかなりますよ」
 クレヴィスが単なるのんびり屋でないことは、皆が承知している。だからこそ、彼の落ち着いた言動が仲間たちを勇気づけ、落ち着かせるのだ。彼のにこやかな表情の裏側では、状況を冷徹に分析する素早い判断が、今も行われているに違いない。





「敵艦ですって? どうして……」
 セシエルが怪訝そうな顔で振り返った。
「幽霊じゃあるまいし、突然降ってわいたとでもいうの? さっきまで舟影ひとつなかったのに」
 レーダーやソナーの存在しないイリュシオーネでは、《鏡手》が見つけられないものは、事が起こるまで発見のしようがないのである。ヴェンデイルの探索も水中までには及ばない。
「いいえ、セシエル。敵は海の中から現れたのです。うかつでしたね。あれがもう実戦に投入され、しかも反乱軍側についていたとは。潜水型の飛空艦ですよ。議会軍が新たに発掘し、量産に取りかかったという噂は聞いていたのですが、なんと言う名前だったか……」
 細い顎に手を当てて、首を傾げるクレヴィス。
 そのとき艦橋の入り口の方から、通りの良い低い声がした。
「ガライアだ」
 押し黙ったような表情の中で、澄んだ眼光の鋭さが際だっている。闘争心に溢れた瞳、見る者を吸い込むようなまなざし。骨張った顎に、短く刈り込んだひげ。赤茶け、波うった髪。床に裾が着きそうなほどに丈の長い、焦げ茶色のフロックが、その長身をいっそう高く見せていた。彼の腰には、かつての騎士を思わせる長大な剣がさげられている。
 クレドール艦長、カルダイン・バーシュである。
 彼を呼びに行ったランディが、指でクラヴァットを弄びながら後に続く。
「艦長!」
 乗組員たちが口々に声を上げた。
「気を抜くな。あの船を持っているのは議会軍の特殊部隊、ギベリア強襲隊だ。昨日の野武士連中とはわけがちがうぞ」
 カルダインは艦長席に腰を落ち着け、仲間たちにげきを飛ばした。
 そして、傍らに立っているクレヴィスに声をかける。
「遅れてすまない。ところでベルセアはどうした?」
「すでに格納庫に向かわせましたよ。とりあえず《リュコス》に乗って待機しています」
「そうか。しかし飛べないリュコスでは、砲台のかわりぐらいにしかなるまい。まぁ、最悪の場合には、あいつにも出てもらうしかないか。狭い甲板では、陸戦型は使いづらいがな」
「ふふ……カル、最近ベルセアも腕を上げてきました。彼もなかなかあなどれません」
 カルダインは、クレヴィスの話にうなずくと、戦況をじっと分析するかのように黙り込んだ。無言のまま、彼の厳しい視線が敵艦に向けられている。

 クレドールの格納庫では、狼に似た精悍な姿をした四つ足の巨獣が、薄暗い光の中にたたずんでいた。陸戦型アルマ・ヴィオ、リュコスである。
 優美でもあり力強くもあるその鋼の足に、背の高い痩せた男がもたれかかっていた。暗めの亜麻色の長髪に、どことなくお茶らけた感じの甘いマスク。なかなかの色男、ベルセア・ヨールだ。
 格納庫中に響きわたる勢いで、彼はくしゃみをした。
「おいおい、また誰かが噂してんのかァ? まぁ、なんせこの男前だから……おねぇちゃんたちが噂したくなるのも分かるってもんだが。うわっ、何だよ、あぶねぇな?!」
「邪魔だよ、ベルセア。どいてどいて!」
 ベルセアを押しのけ、1人の少年が弾薬を積んだ台車を動かしていく。
「出撃の準備しなくていいの? もうすぐリュコスに魔法弾を詰め終わるからさぁ」
 印象的な大きな目を持つ男の子が、にっこり笑って言う。アルマ・ヴィオ技師見習いの少年、ノエル・ジュプラン。乗組員の中で最年少の14歳ながらも、クレドールの三色の剣帯を身につけ、一人前に仕事をこなす。
 一方、ガライア艦隊の旗艦では、勝利を得たと半ば確信したガークスが、ほくそ笑んでいた。
「ギルドの船など所詮は敵ではない……。砲火を絶やすな! 3隻の集中攻撃で一気に沈めるぞ」





 その頃、アトレイオスはようやくコルダーユの港まで来ていた。
 クレドールが敵と戦っていることは、艦からの念信を受けてすでにバーンも知っている。そして今、沖合で交わされる砲火を彼は目の当たりにした。
 ――ちくしょう、海の上じゃ、こいつは何の役にもたたねぇ……。
 バーンは埠頭の向こうに広がる海を眺め、苦々しく思った。アトレイオスはほんの申し訳程度にしか飛行できず、水上・水中を移動することもできないのである。何よりも、同乗しているメルカを危険な目に遭わせるわけにはいかなかった。
 そのとき、アトレイオスの乗用席からメルカの声が聞こえてきた。彼女のひとりごとである。
「どうしたのかなぁ? あとれいおす、急に止まっちゃった」
 無邪気なものだ。バーンは、ほほえましく思った。
 乗用席は、実際に人間が乗ってみると相当に窮屈である。だから普段は荷物を載せる程度にしか使われない。
 その狭くて暗い小部屋の中、メルカはうずくまるようにして座っている。膝と体との間に熊のぬいぐるみを抱いて、それを相手に小さな声でつぶやいている。
「ルキアンたち、もう船に着いたのかなぁ? パパ、大丈夫かなぁ……お姉ちゃんや、ヴィエリオはどうしたのかな。神様、みんなを守ってください」
 メルカは、イリュシオーネの神々の姿をひとつひとつ思い浮かべた。この地は多神教の土地柄であり、様々な神が信仰の対象になっている。中でも、メルカはセラス女神が一番好きだった。というのは、彼女の大好きなルキアンが、いつもセラスのことを話してくれたから。
「セラス様、みんなをお守りください。メルカは戦争が嫌いです。セラス様も嫌いでしょ? 大人は、喧嘩しちゃダメって子供を叱るくせに、自分たちの方こそ喧嘩ばっかりして、ずるいよね。大人はどうして戦うのかなぁ?」
 バーンはメルカの素朴な言葉に、ひどく胸を揺り動かされる気がした。
 ――ちっ、言ってくれるぜ。でも、この子の言うとおりかもしれない。
 ギルドのエクターとして戦いに明け暮れる毎日の中で、迷う余裕さえないままに、好むと好まざるとにかかわらず、いつも争いの方がむこうからやってくる。
 自分はなぜ戦うのか?――久しく忘れ去っていた思いだった。
 ぬいぐるみの柔らかな手触りと、胸に抱いたときのその存在感が、いつもメルカを安心させる。彼女は熊の頭をなでながら言った。
「くまさんには見える? 私には見えるよ……お空の上から、白い羽根をはばたかせてセラス様が降りてくるの。そしてみんなを守ってくれるの。でもね、セラス様はとっても悲しそうな顔してるの。どうしてかなぁ」

 ◇ ◇

 アートル・メランがどんなに恐ろしい相手であるか、メイは今、身をもって思い知らされていた。
 その力強い動きに具現化された圧倒的なパワーや、頑強な装甲で覆われた獅子の体もさることながら、とりわけ接近戦における格闘能力の高さは凄まじかった。逞しい腕からバネのように柔軟な動きで繰り出される鉤爪は、ラピオ・アヴィスのそれよりも遥かに太く、分厚く、破壊力に満ちている。
 その血に飢えた野獣の爪をかろうじて避けるだけでも、メイは精一杯である。
 しかし、そちらに気を取られていると、今度はオルネイスの魔法弾が機体を鋭くかすめていく。直撃は避けているものの、小さなダメージが次第に積み重なって、ラピオ・アヴィスの動きはどんどん悪くなっていく。
 アルマ・ヴィオが傷つくと、その機体と融合しているエクターの精神も、自分の体が傷ついたかのごとき感覚に陥る。追い込まれたラピオ・アヴィスの状態が、メイの精神をも次第に蝕んでいく。
 彼女は少しずつ気が遠くなっていくように感じた。極度の精神集中を継続していることが、メイの心に過度の負担をかけていた。眠気にも似た疲労感が、寄せ来る波のように次々と襲いかかり、そのたびに緊張の糸がぷっつりと途切れそうになる。しかし、そうなれば一瞬のうちに、ラピオ・アヴィスは敵の餌食になってしまうだろう。
 ――もう、駄目かも……。





 ――いや、頑張らなきゃ。クレドールを、そしてルキアンを守らないと。
 メイの心は絶望の嵐の中で必死にもがいていた。仲間を思う気持ちが、彼女の精神力を奇跡的なまでに高めている。それには理由があった。彼女なりの深いわけが。
 ――危ない!
 アートル・メランがラピオ・アヴィスに急接近し、背後から襲いかかった。
 メイはぎりぎりのところで避ける。
 しかし、そこにもう1体のアートル・メランの爪が待っていた。何とその手が突然飛び出し、うなりをたててラピオ・アヴィスの鼻先をかすめていく。
 この黒い魔獣の手は、鎖状の器官で腕とつながれており、鎖鎌さながらに相手を攻撃することができるのだ。
 アートル・メランの変幻自在な攻撃はそれだけではない。接近戦において、その機体はさらに都合の良いかたちに変形できる。翼の生えた獅子の体は、粘土細工さながらに複雑な動きを繰り返し、驚くべき精巧さで、鷲の頭を持った人型の姿に変貌する。そして鋭利な光の剣で斬りかかると、また元の姿にもどって飛び去っていく。
 ――ごめん、みんな……。
 気性の激しいメイも、非情な現実の前に、自らの敗北を悟らざるを得なくなっていた。
 ――でも私なりに、これまでけっこう頑張ってきたよね。父さんや母さんも、よくやったねって、そう言って私を迎えてくれるよね。だめかな……。
 メイの心の動きが、開かれたままの念信を通じてルキアンの中に入ってくる。彼女の痛みや、はっきりとした感情にならない精神の影のような部分までもが。
 ――僕のせいで。僕さえいなければ! こんなことには……。
 メイが苦悶し、追いつめられていくのをただ見ていることしかできない自分。
 いや、何の助けにもなれないどころか、今のルキアンはただの足手まといである。
 彼は心を引き裂かれそうな思いだった。己の弱さに、不甲斐なさに。
 そんな彼の気持ちも、いまのメイには届いていない。
 無我夢中で敵と戦い、さらに心の中の絶望に対しても激しく抗っているメイには、ルキアンの声に耳を傾ける余裕などありはしない。
 メイの目が次第にかすんでいく。
 そのとき、ぼんやりとした空の青の中に、不意に浮かんだ幻、いや遠い記憶は……。

 ◇ ◇

「逃がすな、殺っちまえ!」
「よくも今まで、オレたちから好き放題に絞り取ってくれたな!!」
 暴徒と化した群衆の罵声が飛び交う。何も聞こえない。怒号が耳を塞ぐ。
 少女の視界の中で赤い飛沫が舞った。
「お父様ぁ!」
 メイは、手に手に武器をもった人間たちに必死にすがりつき、泣きわめいた。
「うるせぇ、ガキは引っ込んでろ!」
 彼女は荒々しく蹴飛ばされ、屋敷の外を囲む煉瓦の壁に叩きつけられる。
 地面をうつぶせで這うメイ。彼女の口の中に土の味が広がった。
「あ……」
 ごろりと音がして、メイの顔の横に丸い影が転がり落ちてきた。
 彼女にもよく見覚えがあるもの。今では物言わぬ父の首。
 目を見開き、息絶え……。
 歓声が上がった。彼女は発狂したように地面をかきむしり、ただ絶叫した。

 真っ暗な闇の中で、幼いメイが泣いている。
 暗くて、寒くて、恐ろしいほどに静かだった。
 そんな彼女の肩に暖かな手がそっと置かれる。
「お嬢ちゃん、どうして泣いているのです?」
 涙を拭いてそっと顔を上げると、見慣れた人影があった。
「クレヴィス副長……」
 メイの顔をのぞきこむようにして、クレヴィスが穏やかな笑顔でうなずいている。
「どうした、お前らしくないぜ。さぁ、来いよ!」
 今度はバーンががっしりとした手を差し伸べた。
 メイはじっと震えている。
 彼女の背後でガシャリという剣の音がする。
 振り返ると、焦げ茶色のフロックをなびかせ、カルダインが悠然と立っていた。
「この船の中では、身分も、国も、宗教も、貧富の差も、男も女も全て関係ない。ただクレドールの旗の元で、己の信じるもののために……それに忠誠を誓い、胸を張って生きていけばいい。それぞれの夢のために、それぞれの力で支え合って」


【続く】



 ※1998年6月に鏡海庵にて初公開
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第2話・後編


【再々掲】 | 目次15分で分かるアルフェリオン




 細波だつ青い海の向こう、獲物に近づく獰猛な肉食魚のごとく、何かが密やかに浮上した。
 波間に見え隠れする黒い小塔のような部分の下、水面下には巨大な影が潜んでいる。エイに似た扁平な姿は、背部の面積だけなら、クレドールと比べてさえひと回りは大きい。腹部に切れ込んだ、えら穴を想起させる溝からは、少しずつ、少しずつ、気泡が不気味に水面に立ち上っては消える。
 人知を超越した魔物たちが棲むイリュシオーネだとはいえ、これほどの巨体をもつ海の生き物は、島と見まがうほどの大ダコ(あるいは大イカという説もある)クラーケンか、海の主とも言われる海竜シーサーペントぐらいのものである。
 しかし、謎の影から深い海の底へと響きわたる機械的な鼓動……血の通った生き物がそれを発しているとは、到底思えない。
「コルダーユ付近の海域には、ギルドのものと思われる飛空艦が1隻停泊しているだけです。他のギルドの艦船は勿論のこと、国王軍や議会軍の部隊の姿も見あたりません」
 潜望鏡型の複眼鏡をのぞきながら、兵士が言う。
 真鍮製のよく磨かれたボタンが光る、青いジャケット、そして同じく青色のバイコーン・ハット(*2)を被り、ズボンは黒のブリーチズ……明らかに議会軍の水兵である。
 けれども、今では議会軍には2種類の人々がいる。一方は正規軍、他方は……この兵士の右腕にも巻かれている黄色い帯、それを仲間の印とする反乱軍である。
 議会軍の海軍兵士たちについては、そのジャケットの袖のボタンの数で所属が分かるのだが、彼の4つボタンはまさに海軍屈指のエリート戦士たち、海兵隊の印である。
 議会軍の約何割が反乱軍側についたのかは、現在明らかではない。しかし少なくとも3分の1以上が正規軍と敵対、中立を守る者たちも含めれば、半分以上が正規の議会軍から脱退したことになっているらしい。
 この船も、反乱側についた議会軍の飛空艦だった。潜水能力をも有することで、他の船とは一線を画する最新鋭艦《ガライア》である。ガライアとは、イリュシオーネの言葉で、文字通り《エイ》のことをいう。
「そうか。ギルドの飛空艦はいかなる船なのか?」
 片方の目に眼帯をした男が、艦橋中央部の座席から言った。
 大柄な体躯に、野太い声。軍の司令官と言うよりも、むしろ海賊の親玉に近い雰囲気を漂わせている。腰に差した時代錯誤な広刃の剣も、サーベルの優美な曲刃とは違って荒々しい。
「はっ、キャプテン! 大きさは主力の戦艦クラスよりも多少小さめですが、おそらく戦闘母艦かと思われます」
 様々な船の絵図が綴じられた、分厚いバインダーを必死にめくりつつ、別の兵士が答えた。
「戦闘母艦……ということは、アルマ・ヴィオを積んでいるということだな?」
「はい。敵艦の後部はアルマ・ヴィオ発着用の飛行甲板に改造されています」
 司令官は濃い髭の生えた顎をしきりに撫でさすって、しばらく考えていた。
 容貌の割には、声の質からして、思ったより歳が若いように思われる。もしかすると、まだ30代半ばというところかもしれない。
 やがて彼の目の奥底から、不敵な眼光がじわじわと浮かび上がってきた。挑戦的な声で彼はつぶやく。
「ふん……たかが1隻の飛空艦で何ができる。我らは議会軍に其の名を轟かせたギベリア強襲隊だ。ミシュアス、アルマ・ヴィオ隊の用意は?」
 司令官の背後で静かにうなずいた男……歳の頃21、2ばかり、青みがかったクセのある黒髪は肩口にまで伸び、その間からときおり鈍い光を放つのは、オニキスらしき石でできた漆黒のピアス。
 艦橋の他の兵士たちと違って、彼だけは制服を身に着けていない。大きく開いた二重袖の、黒いフロックをまとい、その袖口からは銀灰色のフリルがのぞく。森の奥深くに住む妖精族を思わせる、細身でしなやかな長身。
「いつでも出撃できます。ガークス艦長」
 彼、ミシュアス・ディ・ローベンダインは、一見とても穏やかな顔で司令官に答えた。その実、彼の青磁のような目は……見るもの全てを凍てつかせるような、冷たい恐るべき輝きを宿している。
「艦長、提案があります。我々は、おそらく飛行型アルマ・ヴィオの数においては相手に勝っているでしょう。なぜならギルドの船は、たいてい単独で作戦行動するがゆえに……1隻のみでも様々な状況に対応できるよう、色々なタイプのアルマ・ヴィオを積んでおかねばならないからです。一般的な搭載力から考えて、敵艦が有する飛行型はせいぜい1体か2体。残りは陸戦型や汎用型でしょう」
「ふむ、広く浅くと言うことか。それを逆用するわけだな」
「いかにも」
 ミシュアスの目が一段と光を増した。その姿は狡知に長けた大鴉のように見える。
「陸地近くで戦えば、敵の陸戦型アルマ・ヴィオや、汎用型に活動の余地があり、なにかと面倒です」
「なるほど……」
「当初の予定では、コルダーユの港を強襲制圧することになっていましたが、どうせ敵はあのギルドの飛空艦1隻のみ。それならば、まず飛空艦を海上で叩いておいてから、上陸しても十分ではないかと。海上での戦闘なら陸戦型は無意味、汎用型など空の上では飛行型に手も足も出ません。護衛に出てきたアルマ・ヴィオさえ倒せば、図体が大きいだけの飛空艦など、簡単に落とすことができます」
 ガークスは、ミシュアスの意見におおむね賛同の意を示した。
「よろしい。君の提案を受け入れよう」
「ありがとうございます。もし戦力が不足であれば……私の《アートル・メラン》も、飛行型に劣らぬ働きをすることができます」
 ミシュアスが穏やかに、それでいて自信たっぷりに言った。
 格納庫へと向かう彼を見送って、ガークスが命じる。
「水中用アルマ・ヴィオの出撃準備もさせておけ。二番艦と三番艦にも作戦の変更を伝えろ」
 ガライア一番艦の背後で、さらに2つの影が、暗い海から水面近くにゆっくり浮上しつつあった。敵は1隻ではなかったのだ。


【注】

 (*2)この場合、前後のつばを上向きに折り返した帽子をいう。二角帽子とも。特に18世紀末前後によく見られる。ナポレオンも、この種の帽子を被った姿でしばしば描かれている。





「メイとバーンからの連絡はまだないのか……」
 比較的小柄でがっちりとした体格の男が、舵輪の前を行ったり来たりしながらつぶやく。
 まだ20代後半ながら、すでに世慣れた奥深い貫禄を持ち合わせている。やや禿げ上がりつつある広い額、縮れた黒髪の向こうに、縫い跡も生々しい刀傷が刻まれていた。少年時代からギルドの飛空艦に乗り込み、幾多の修羅場をくぐり抜けてきた強者の証だった。
 この男が、若くして経験豊富なクレドールの操舵長、カムレス・バーダーである。
 自前の衣装は上着とズボンだけに限り、あとはクレドール乗組員の準制服――濃紺のベレー帽、同じく紺の縁取り付きの白いウエストコート、例の3色の剣帯、そしてギルドの青紫のクラヴァット――を全て身につけている。
 公の儀式の場ならともかく、普段もこれらの準制服をきっちりと着用しているクルーは、カムレスの他にはほとんど見られない。秩序の中にも個人の創意を最大限に生かすという、ギルドの気風ゆえに、制服の着用の仕方は個人の趣味に任されていた。服装ひとつをとっても、カムレスの謹厳さが反映されているようで面白い。
 ちなみに彼が、ベレーの色に合わせてフロックとブリーチズも紺で統一しているのは、衣装のセンス云々と言うよりは、むしろその実直な性格の反映であろう。
 彼の側面の席にいる女性が、若干取り澄ました表情で返事をする。ツンとした高い声が周囲に響く。
「えぇ、何も言ってこないけど……どうやら取り越し苦労だったかもしれないわね。このあたりで反乱軍が活動しているという話は、まだ聞かないし」
 座席のコンソールには奇妙な設備が色々と並んでいる。彼女の右手は、大きな水晶球の上に置かれたままじっと動かない。他方で左手は、ピアノの鍵盤が何層にも重なったような装置の上で忙しく働いている。実はこれがクレドール艦橋の念信装置だった。
 彼女は、いわば通信士と各種データ収集係を兼ねている。
 セシエル・エスポルトン……腰の辺りですっぱりと切り揃えられた黒髪、落ち着いたまなざしの中にも厳しさを漂わせる切れ長の目、細身の体つき……それらが相まって、独特の緊張感ある知的な雰囲気を醸し出している。華やかさや柔らかさに少し欠ける感もなくはないが、やや近寄りがたいほどの凛としたイメージは、彼女に個性的な美しさを与えている。
 ごく薄いあさぎ色のタイトなロングスカートに、上着はチャコールグレーのスペンサージャケット(*3)、双方とも、余分な装飾をなるべく省いた仕立てになっており、それがかえって洗練された大人のイメージを漂わせる。男性クルーとは違って例の剣帯を付けず、その代わりにベルトの上に、あの3色で染められたリボン地の帯を巻いている。これは他の女性乗組員も同様だ。
「あら?」
 彼女の手がふと止まった。
「どうした、セシエル」
 振り向いたカムレスを制止しつつ、セシエルは目を閉じ、右手の下にある水晶球に精神を集中させた。
「メイからよ。反乱軍の仕業ではなかったようだけど……でも、なんだか変なことを言ってるわ」
 セシエルはメイと交信する。
 ――メイ、それはどういうことなの?
 ――この街のラシィエン導師の弟子で、ルキアン君。例の爆発に関係あるの。それから……彼のアルマ・ヴィオ、ぜひ艦長たちに見せる必要があると思って。あなたもきっと驚くわよ。連れていってかまわないでしょ。
 ――ちょっと待ちなさいよ。見知らぬアルマ・ヴィオを艦内に入れるわけにはいかないわ。反乱軍でないっていう保証はあるの?
 ――えぇ、私が保証する。お願い。
「副長……」
 困った顔をしているセシエルを見て、クレヴィスがにっこり笑って近づいてくる。
「どうしました? 何々、ふんふん……」
 クレヴィスはセシエルから一通りの説明を聞いた後、呑気に言った。
「ラシィエン導師は、このあたりでも高名な魔道士です。そのお弟子さんなら心配ないでしょう。入れてあげればどうですか」
「副長がそうおっしゃるのでしたら……」
 セシエルは辺りを見回した。カムレスやランディもうなずいている。
 ――メイ、着艦を許可します。艦長にはこちらから伝えておくわ。
 ――無理言って悪かったわね。


【注】

 (*3)燕尾服を身頃の真ん中あたりから水平に断ち切ったような、短い上着を想像してもらえばよい。ただし、ここでは、現在の夏期の夜会服であるスペンサージャケットとは違って、その原型となった19世紀頃の本来のスペンサーのことをいう。





 ルキアンは再びアルフェリオンに乗り込んだ。メイたちとともにクレドールに向かうためである。
 メルカを一人で残しておくわけにもいかず、色々と考えた結果、バーンのアトレイオスの乗用席(エクター以外の人間を同乗させるための狭い座席)に乗り込ませるのが一番安全であろう、ということになった。
 ――ふぅ。俺は置いてけぼりかよ。
 念信を通じて、バーンの声がルキアンとメイに伝わってくる。
 メイは面倒くさそうに返事をする。
 ――仕方がないでしょ、ルキアン君はほとんど飛んだことがないんだから。
 アルフェリオンは、さきほどアトレイオスがそうしていたように、上体を低くしてラピオ・アヴィスの上に屈み込んでいる。ただし、どことなく不格好な姿勢だ。
 過去に数回ほど、ルキアンも練習用のアルマ・ヴィオで低空飛行をしたことがあるにはあるのだが、それは雛鳥の羽ばたきに等しい……よちよち歩き程度の飛行訓練に過ぎなかった。一人でまともに飛べる自信はない。まして使い慣れないアルフェリオンでは。
 結局アルフェリオンがラピオ・アヴィスに乗ったため、アトレイオスは自力でクレドールまで帰らなければならなくなった。
 アトレイオスを含めて、汎用型(人型)アルマ・ヴィオも、理屈の上では飛行が可能ということになっている。しかし、よほど性能の良い物でない限り、あくまで《飛ぼうと思えば無理ではない》という次元であって、空中戦など望むべくもない。風の精霊界の力を借りて、魔法による揚力とごく緩慢な推進力を生み出すのだが……その動きについては、飛ぶというよりも《浮遊する》と表現する方がたぶん適切だろう。何しろ翼がないのだから仕方がない。
 バーンの念信がまた入る。
 ――アトレイオスで飛んで帰れってか。冗談だろ。
 ――そうよ。10数分もあれば着くでしょ。それがイヤなら歩けばどう?
 ――へいへい。メルカちゃんものっけていることだし、とりあえず港までは歩いてゆっくり帰る。
 ルキアンには、ラピオ・アヴィスの背中がとても狭く思えた。少しでもアルフェリオンを動かせば、ずり落ちてしまいそうなほどに。実際には十分な余裕がある。だが不慣れなルキアンは、もし途中で落ちたらどうしようかなどと心配をめぐらせ、ひとりで緊張している。
 そんな彼の心にメイの念信が浮かぶ。
 ――ルキアン、用意はいい? ゆっくりと飛ぶから、心配しないで。
 ――このまま動かなければ良いのですね。落ちたりしないですか?
 ――大丈夫だってば。飛行に入ったら、自動的にラピオ・アヴィスと何重にも接合されることになっているから、たとえ宙返りしたって落ちないわ。
 ――お願いします。うう……。
 ――もぅ、心配性なんだから。おねぇさんにまかせなさいって!
 ルキアンがようやく覚悟を決めたとき、ラピオ・アヴィスが羽ばたき始めた。人家に近いので加減しているとはいえ、付近は大嵐のような様相を呈している。木々の枝は激しくしなり、強風が草原を波のように駆け抜けていく。
 ――飛んだ!
 ルキアンは、自分の体……いや、アルフェリオンの体が宙に浮いたのを感じた。
 それと同時に、予めメイに指定された位置にあるアルフェリオンの手足を、彼女の言った通り、留め具の役を果たす器官が固定する。
 ここまではルキアンにも状況がよく分かっていた。その後、ラピオ・アヴィスが次第に加速し、空高く昇っていくにつれて、彼は必死にしがみついているだけで精一杯になる。

 ルキアンがようやく落ち着き、我に返ったときには、ラピオ・アヴィスはすでに港の上空にあった。
 沢山の船がひっきりなしに出入りしている。
 恐らく他国から来たのであろう、大型の商船が隊列をなして通っていくと思えば、小さなはしけの姿も転々と見える。
 港近くの広場には市が建ち並ぶ。人々の熱気が空にまで伝わってきそうなほど賑わっている。コルダーユはこの地方有数の港街なのだ。
 逆に言えば、そんな重要地点をろくに警備していないのだから……オーリウムの当局がいかに平和に慣れきっていたかが分かる。反乱軍との主戦場に力を集中するため、部隊数が不足気味になっているせいも勿論あろうが。
 ――ルキアン、気分はどう?
 メイがくすくすと笑い、念信を送ってくる。
 なんとか返事をする余裕の戻ったルキアン。
 ――え、えぇ、元気です。
 ――ふふ。思ったより簡単でしょ。今度は自分で飛んでみなさいよ。





 そこでメイの心の声が、真面目な調子に変わった。
 ――ところで、例の話、キミの兄弟子……ヴィエリオさんのこと。これは私の考えすぎかもしれない……失礼なことを言って申し訳ないけど……ドゥーオの一件、どうも変だと思わない?
 ルキアン自身考えていなかったことではなかった。しかし、言われたくないことを指摘されたように彼は感じた。気まずい心持ちである。
 ――ドゥーオの動かし方を知っている人間は、キミの先生の他には、ヴィエリオさんしかいなかったわけでしょ。そして、現に今も姿を消している。まさかとは思うけれど……ねぇ、私が何を言いたいか、分かるでしょ?
 ルキアンはしばらく黙っていたが、仕方なく答えた。
 ――えぇ。でも、ヴィエリオ士兄に限って、そんなことをするはずがありません。だいたい、あんなひどいことをして、士兄に何の得があるというのです?
 ――問題はそこよ。本当に、思い当たることはないの?
 ヴィエリオは、カルバの跡継ぎとして将来を約束されていた。人間的にみても、礼儀正しい紳士だった。そんな彼が……ドゥーオを奪い、研究所を破壊し、そしてソーナをも連れ去るなんて、ルキアンには到底考えられなかった。
 ――そ、それに……。
 ルキアンにとっては、むしろこの言葉の方が口にしたくないことだった。
 ――ソーナさん、ヴィエリオ士兄のことがかなり好きだったようですし……。
 ソーナにほのかな恋心を抱いていたルキアンであったが、実は彼女の本心を、その言動を通してよく理解していた。
 彼は少し不機嫌になった。
 ――それなのに、なぜヴィエリオ士兄がソーナさんをさらわなければ?
 メイはあきれたといった口振りである。
 ――それを早くおっしゃいよ。だったら、さらわれたんじゃなくて……ソーナさんが、自らヴィエリオさんと一緒に逃げたと考えられなくもないでしょ?
 ――そんな、ばかばかしい!
 ルキアンが珍しく反抗的な口調になったのを聞いて、メイが彼をなだめるように答える。
 ――そんなにカッとしないのっ。あ、見えたでしょ、あれがクレドールよ。

 そのとき、予想すらしていなかったことが起こった。
 ――これはっ?!
 激しい衝撃と共に、メイの悲鳴が伝わってくる。
 ラピオ・アヴィスが素早く旋回した。
 ルキアンは本当に振り落とされるような気がして、必死にしがみつこうとする。それに応じてアルフェリオンの手足にも力がこもった。
 間一髪、今までラピオ・アヴィスがいた場所で、爆音を轟かせて炎が燃えさかる。火精系の、しかも相当レベルの高い魔法弾だ。
 ――何よ、敵?! ルキアン、しっかりつかまって。
 なおも幾つかの攻撃が炸裂する。
 風精系の魔法弾が、凄まじい衝撃波を起こしてラピオ・アヴィスの羽根をかすめていく。
 ――こちらメイ! クレドール、応答して、いったい何なのよ?!
 メイは念信を送りつつ、ラピオ・アヴィスを急上昇させる。
 ――こちらクレドール! メイ、敵は飛行型アルマ・ヴィオ、え?……5、6、いいえ、7機!!
 セシエルが答えた。

 ◇ ◇

「メイを援護します。マギオ・スクロープ全砲門開け! カムレス、前方の敵艦からの攻撃を避けつつ、ラピオ・アヴィスを急いで収容してください!」
 クロークをひらりと翻して、振り向いたクレヴィス。
 クレドールの艦橋も、突如として緊迫した雰囲気に覆い尽くされた。
 彼の隣にいたランディが、周囲を見回した後に走り出した。
「みんな持ち場を離れられないな。俺はカルを呼んでくる」
 カル、つまり艦長のカルダインに知らせに向かったらしい。
「ラピオ・アヴィスを収容したら直ちに結界防御を! それから……」
 クレヴィスの表情が険しくなった。
 ――困りましたね。こちらの飛行型は、ラピオ・アヴィスだけですか。
 クレドールの今回の出動は、アルマ・ヴィオを使って村々を襲う野武士たちを、某所で制圧するためだった。深い森や渓谷地帯での戦いが予想されていたので、主に陸戦用アルマ・ヴィオをいつもより多く積み込み、その分、飛行型はほとんど用意してこなかった。実際それで野武士たちを首尾良く退治できたのだが……。
 いくら戦闘母艦のクレドールとはいえ、1隻で搭載できるアルマ・ヴィオの数など、たかがしれている。ミシュアスの狙いは見事に的中したというわけだった。

 ◇ ◇

 ラピオ・アヴィス同様に、鳥の姿をしたアルマ・ヴィオが4機、銀色の翼を煌めかせて接近してくる。威圧的な声で鳴き、金属の鋭い鉤爪をこれ見よがしに開いたかと思うと、マギオ・スクロープから魔法弾を放つ。
 だが、いっそう注意すべき相手だと予想されるのは、その一群の背後で不気味に静まり返った3つの影である。
 異様な姿は、伝説の魔獣……獅子の体に鷲の翼・頭をもつヒポグリフを思わせた。安定した軌跡を描いて高速で飛ぶ様は、飛行型のようにも見えるが、それでいて陸上でも恐るべき力を発揮しそうな逞しい鋼の手足を備えている。
 ミシュアス麾下の3体のアートル・メランであった。赤と黒で塗り分けられた色使いが毒々しい。

 ――さて、それでは狩りを始めましょうか。
 黒の貴公子ミシュアス。
 心の闇の奥底に浮かぶのは、
 妖しくも氷のように冷ややかな……死のほほえみ。


【第3話に続く】



 ※1998年4月に鏡海庵にて初公開
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第2話・前編


【再々掲】 | 目次15分で分かるアルフェリオン


  空と海とが接するところ、船は漂う。
    折からの上げ潮に心地よく揺られながら。


 ◇ 第2話 ◇

 空――風と雲とが、青に織りなす気ままな万華鏡。
 無限に多様な旋律を、いかに考え抜かれた技巧よりも鮮やかに、
 精緻な調子をもって奏で続けている。
 昼には世界の王たる太陽の光が、地に生きる命を育む。
 夜には慈悲深い月の光と、星々の白い瞬き。
 明暗二つの楽章。

 海――底知れぬ深淵を抱いた、紺碧の聖地。
 幾度となく魔所と化して、舟人に牙をむくことがあろうとも、
 やはりそこは生き物たちを産み出したふるさとに違いない。
 時に凪ぎ、時に荒れ、自在な緩急を見せつつ、
 あの半ば永劫のリズムを刻み続けている。
 ……寄せては返す懐かしい波の音。
 波濤は砕け、潮の華は白く泡立ち、やがて沖へと帰る。
 いわば世界の鼓動である。


「もしも世界を果てしない音楽に例えるなら……さしずめ、海はその通奏低音というところかもしれません」
 魔道士クレヴィス・マックスビューラーは、艦橋の硝子の向こうに広がる光景を指さして、感慨深げに言った。
 30代に差し掛かったばかりの年頃である。一見して生真面目で、少し神経質そうな人物にも見える。
 それでいて、にこやかな微笑を絶やさない面長の顔に、ツーポイントの眼鏡がよく似合っていた。腰辺りまで伸びた長い髪は背中で一本に束ねられ、やや暗めの、燻したような金色の光を放つ。
「なぁんだよ。黙って海を見ていたと思ったら、そんなことを考えていたのかい。まったくクレヴィスらしいな。しかし、あれだけ雄大な海が伴奏となれば、見劣りしない歌い手をさがすのが大変だねぇ。メロディを受け持つことができるとしたら、この世界広しといえども……そう、あの空ぐらいだろうよ」
 同じく窓際から外を眺めていた男が、とぼけた口調で応える。ほぼ同年代であろう。こちらの方はどこか茶化した感じの物言いをする。
 オーリウムの名門マッシア一族の異端児にして、思想家あるいは変わり者の文芸家として知られる、ランドリューク・グラフィオ・ディ・マッシア、すなわちディ・マッシア伯爵である。オリーブ色の髪を耳元で小ぎれいに切りそろえ、ウエストコート(=今日で言えばヴェストに近い)とブリーチズはどちらも黒、その上に灰色のビロード地のフロックをまとっている。高い襟のシャツと、首に巻いたクラヴァットは、ともに白だ。
 モノトーンでまとめられた彼の服装とは対照的なのが、他方のクレヴィスの格好である。茶色のクロークの下に鮮やかな珊瑚色のウエストコートを身につけ(*1)、それを懐中時計の金色の鎖でさらに引き立てている。地味な顔つきからは想像しがたい、粋な洒落者である。
 クレヴィスは軽い溜息と共に言う。
「至当ですね。ではランディ……この世界という楽曲の中で、私たち人間の営みをどう位置づけますか?」
「難問だな。まぁ、今日この頃の人間様のやってることは、悪趣味な不協和音ってところか……内乱なんて、不調和の極みとしか思えないねぇ」
 彼らは苦笑して、言葉を詰まらせる。

 飛空艦《クレドール》のブリッジには、2人の他にも多くのクルーたちが居合わせていた。
 服装はそれぞれ異なるが、揃って目立つのは、肩から腰へと懸けられた鮮やかな剣帯である。空色・白色・若草色で塗り分けられた帯は、《空、雲、緑の大地》を象徴するクレドールの三色旗にちなんだものだ。この旗のもと、艦長カルダイン・バーシュ以下、様々な乗組員たちがひとつに集っている。
 現在、同艦はコルダーユ港の沖合に停泊していた。港内に浮かぶ大小様々の船と比べて、ひときわ異彩を放つ白い巨体は、回遊魚を思わせる見事な流線型である。その右舷・左舷では半月状の曲線を描いた翼が休んでいる。飛空艦の外観は、一般的な船の姿とはかけ離れており、むしろ生き物に近い。
 むかし、海の中からいつも空を眺めては、一度でよいから自由に飛んでみたいと願った魚がいたという。ある日、神は気ままな思いつきで、魚のそんな願いを一日だけかなえた。翼を与えられた魚は歓喜に満ちて空を舞い、雲の間を気持ちよさそうに泳いだ……。クレドールの姿は、この伝説の魚を彷彿とさせる。
 《飛空艦》は、かつてイリュシオーネに栄えた文明――今日では《旧世界》と呼ばれる――の遺産である。魔法と科学とを巧みに融合した当時のテクノロジーは、文字通りに空を飛ぶ船を創り上げたのだ。現在、飛空艦はしばしば発掘され、保存状態の良い場合には、改修を経て実用に回されている。

 クレヴィスとランディとの間で交わされる、舞台めいた独白的な台詞のやり取りを耳にしながら、艦橋の面々は臨戦体制で待機していた。
 コルダーユの町外れの丘で起こった爆発を調査するために、メイとバーンがアルマ・ヴィオで出動してから、もう1時間半ほど経つ。万が一の連絡がメイたちから届き次第、つまり件の爆発が反乱軍の策動によるものである場合、必要に応じて直ちに行動に移れるよう、クレドールは準備を整えているのだ。


【注】

 (*1)イリュシオーネの紳士たちの中でも、ウエストコート(ヴェスト)の上にフロックをまとわず、直にクロークを羽織るという出で立ちの人々がいる。すなわち彼らは魔道士である。かつての魔法使いの――ミステリアスな長いローブに身を包んだ――姿の雰囲気が、今風の形で受け継がれているのだ。クレヴィスやカルバの服装を参照されたい。





 まだ残り火のくすぶるカルバの研究所を前にして、ルキアンは呆然と立ちつくしていた。
 彼の顔は心なしか青ざめている。
 怒りゆえか哀しみゆえか……震える唇、重苦しい吐息と共にはき出されたのは、風にかき消えそうに微かな言葉。
「まさか……信じられない」
 ルキアンは何度も小声で繰り返しては、首を振った。
 そんな彼の背中をじっと見つめた後、バーンは逞しい肩をすくめて、恨めしそうに天を仰いだ。
 メルカはメイの胸に顔を埋め、力無く泣いている。お気に入りの茶色い熊のぬいぐるみは、無造作に草の上に投げ出されていた。皮肉にもその玩具の表情は、哀しいほどに穏やかである。
 ふんわりと膨らんだ、メルカの亜麻色の髪を、白い手袋をしたメイの掌が撫でる。
「パパぁ……」
 メルカがか細い声ですすり泣く。
 そのときメイは、思わず腕に強い力を込めてメルカを抱きしめた。
「お姉ちゃん、痛いよ!」
 メルカは体をよじらせて言ったが、メイは何かにつかれたかのように、遠い目をしてつぶやいている。
「罪なき子らの澄んだ瞳を、哀しい涙でどれだけ汚せば気が済むというの?時代という名の魔物よ、進歩という名の身勝手な思い上がりよ……」
 メイの口から、彼女のものとは思えない言葉が紡ぎ出された。
 メルカが苦しそうに身悶えするのを見て、バーンが慌ててメイの肩を叩く。
「おい、よさないか! メイ、お前が動転しちまってどうするんだ」
「もしもこの世界の発展が……たとえ、それが人類の解放という偉大な夢につながろうとも、いつも沢山の血で贖われなければならないのなら、私は、わたしは未来など……」
「しっかりしろ! 何を、わけ分かんねェこと言ってんだよ!!」
 バーンはメイの両肩をがっしりと掴んで揺さぶった。


 ようやく我に返ったメイ。彼女は慌てて目を大きく開いた。
「ごめんなさい! 私、どうかしちゃって。ごめんね、メルカちゃん」
 メイはメルカの顔にそっと頬ずりした。
 べそをかきつつも、メルカはきょとんとした顔でメイを見ている。
 何事かと振り向いたルキアンの視線は、バーンの気まずそうな顔とぶつかった。一同の間にしばしの沈黙が漂う。
「すまないな、ルキアン」
 息苦しい空気の中、バーンがルキアンの耳元でささやいた。
「メイの親父さんとおふくろさんは……」
 バーンの声がそこでいっそう小さくなる。
「目の前で殺されちまったんだ。《タロスの革命》のときにな」
「お願い。やめて、バーン……」
 しっかりとした低めの声で、メイが話をさえぎった。
 ルキアンの瞳の中には、ぼんやりとうなだれるメイがいた……痛々しい姿で。
 彼は口を半開きにしたまま、一言も発することができなくなってしまった。
 バーンもそこで言葉を途切らせたが、話題を変えようとして続ける。
「それにしても、ゼノフォスのやつ、人間のする事じゃネェよ。何が《神帝》なもんか。あいつは血も涙も持っちゃいない《魔王》だ!」
 ルキアンも怒りを隠せない様子であった。
「本当にそんな酷いことが出来るものなのでしょうか。何かの間違いということはないですよね? メイオーリアさん」
 メイはメルカの手を両掌で柔らかく握ったまま、首を振った。
「えぇ、間違いないわ。私も誤報だと思いたいのだけれど……それからキミ、《メイオーリアさん》なんて改まって呼ばれると、なんだか気恥ずかしくなっちゃうじゃないの! 私のことは《メイ》でいいって言ったでしょ」
 しばらく曇っていたメイの表情が、苦笑いを伴って少し柔らかくなった。
 照れながら頭を下げるルキアンを見て、今度はバーンが笑う。
「何も謝る必要はないって。こんな男みてぇなヤツが、メイオーリアなんて、お上品な名前で呼ばれてるのを聞くと……こっちが変な気持ちになるぜ」
「もぅっ、失礼ね! 男、男って!!」
 海の香りを運んできた風がふわりと通り過ぎ、風車の丘で花々の匂いを一杯に吸い込んで、今度は街に向かって降りていく。
 可愛らしいフリルをそよがせながら、メルカがぽつりと言った。
「パパ、まだ助かるかもしれないよね?」
 もしここで誰かが、本心ではなくとも直ちに首を縦に振っていたなら、メルカの気持ちはどれほど落ち着いたことであろう。たとえ気休めにすぎないと分かっていたにしても……。





 しかし、そんな淡い希望さえも失わせてしまうほどに容赦ない、あまりに非道な事件がカルバを襲ったのである。いや、カルバだけではない、ガノリスの王都バンネスクの人々すべてをも。
 昨日バンネスクに起こった惨劇を、さきほどメイはルキアンたちに不承不承語ったところだった。
 ルキアンの師匠であり、メルカの大切な父親であるカルバ・ディ・ラシィエンは、不運にもその巻き添えになった可能性が高いのだ。
 周知の通り、ガノリス王国はエスカリア帝国と交戦中である。軍事大国としてその名を轟かせていたガノリスだが、今や各地で帝国に連敗を重ね、領内深くにまで敵軍の侵攻を許している。そして昨日、神をも恐れぬ暴挙が帝国によって行われた。
 帝国軍のシンボルであると同時に、世界中の人々の畏怖の対象となっているのが、浮遊城塞《エレオヴィンス》に他ならない。エスカリア皇帝ゼノフォス2世は、自らこの天空の魔城に乗り込んで、軍の指揮を執っている。
 エレオヴィンスがガノリスの首都に迫りつつあるという話は、オーリウムの人々も知るところとなっていた。しかしガノリスも、精強を誇る飛空艦隊とアルマ・ヴィオ兵団とをもって首都防衛にあたっていたため、エレオヴィンスとてそう簡単にはバンネスクに近づけないであろうというのが、世間のもっぱらの噂だった。いや、各国の軍部の首脳たちでさえ、恐らくそう信じ込んでいたに違いない。
 だが予想は見事に裏切られた。エレオヴィンスは、ガノリスの最終防衛線をいとも容易く突破したのである。数で勝っていたガノリス飛空艦隊は、帝国の飛空艦隊とまともに砲火を交えるにさえ至らず、エレオヴィンスに備えられた不可思議な兵器によって、瞬時に全滅させられたという。話の中身には誇張もあろうにせよ、少なくともガノリス艦隊壊滅という結果自体は、厳然たる事実だった。
 バンネスク上空を制圧したエレオヴィンスから、ゼノフォス2世はガノリス国王イーダン1世に対し、ある報復措置を振りかざして無条件降伏を迫った。
 これに対してイーダンは降伏を拒否。仮に首都が陥落したとしても、広大な国土を持つガノリスには、まだ徹底抗戦の用意がある。戦力の面でも、連合軍は地上部隊を中心に相当の余力を残している。そして何より、イーダン国王や彼の重臣たちは、ゼノフォスがその《報復》を本当に行うであろうとは信じていなかったし、まさか実際にそんなことが可能であるとも思っていなかった。
 だが王の考えは甘すぎた。ゼノフォスは、いかに多くの人間の血が流れ、無数の尊い命が失われようとも、自らの狂信的な理想の実現のためには決して妥協しないのだ。しかもエレオヴィンスには、彼の野望を実現するに足りる恐るべき力が秘められていた。その水準は、現在のイリュシオーネにおける最先端の技術をも遥かに凌駕する。
 ゼノフォスが予告した《報復》とは、エレオヴィンスに搭載された最終兵器《天帝の火》によって、バンネスクを一瞬にして壊滅させるというものである。
 この暴挙は冷酷に実行された。エレオヴィンスから放たれた《天帝の火》は、地上に降りそそぐ神の怒りさながらに、壮大な都を瞬時に焦土に変えてしまったのだ。無数の雷が同時に鳴り響いたような音、この世の果てにさえ届くだろうと思わせる巨大な閃光……刹那の悪夢の後、バンネスクは広大なクレーターに変わり果て、ただ瓦礫の山が王都の跡を埋め尽くすばかりであった。
「ねぇ、ルキアン君。こんな馬鹿なことが信じられて? バンネスクという都市は……地図の上から消えたということになるのよ」
 メイが吐き捨てるように言った。
「そりゃあ、ルキアンやメルカちゃんだって信じたくないだろうさ。俺だって、何万の人間が一度に殺されちまったなんて思いたくねぇよ。しかしな、メイ、あの化け物、エレオヴィンスが現に……」
 押し黙っているルキアンの横顔を、バーンが一瞥する。
 そのときメルカが手を伸ばし、ルキアンの袖をきゅっと握った。
 彼女は上目遣いにルキアンの顔をじっと見つめている。
 かすれた声でメルカはささやく。ルキアンの耳にかろうじて伝わるほど、その声は小さなものであった。
「パパも、お姉ちゃんも、みんないなくなっちゃった……でも、ルキアンだけは、私と絶対に一緒にいてくれるよね」
 今になって思えば、そのような不幸の中で追い打ちをかけるように、先刻の事件――ソーナの誘拐と研究所の破壊、が起こってしまったということになる。慎ましい幸せに見守られて育ってきたメルカは、昨日と今日のわずかな間だけで、その全てを失ってしまった。
 ルキアンはメルカが哀れに思えてならなかった。ついさきほどまで、彼女があんなにも無邪気であっただけに、ルキアンの心はなおさら激しく痛んだ。
 もちろんカルバはルキアンにとっても大切な師である。この2年間、同じ研究所で寝食を共にし、様々な教えを受けてきた。ルキアンの受けたショックも相当のものに違いない。
 そして……こんなとき頼りになりそうな兄弟子ヴィエリオも、あろうことか行方不明のままである。今しがたメイやバーンにも手伝ってもらって、研究所の隅々まで調べたのだが、ヴィエリオの姿はどこにもなかった。





 胸に秘めた呪わしい過去が、脳裏一杯に広がりそうになるのと必死に戦いつつ、メイもメルカの身を自らに重ね合わせ、深く嘆いている。
 ――あのとき、ちょうど私もメルカちゃんと似たような年頃だった。
 そこでメイはわざと明るい調子で言った。ルキアンとメルカを励まそうと……あるいは自分自身にも言い聞かせるように。
「エレオヴィンスだか神帝だか知らないけど、メルカちゃんのパパはきっと生きてるわよ。ねぇ、元気出そっ。お姉様だって必ず戻ってくるわ!」
 ルキアンは、自分よりもかなり大柄なバーンを見上げた。
「バーナンディオさ……いや、バーン。ソーナさんがさらわれた件……あのとき《アルフェリオン・ドゥーオ》が研究所を破壊して、飛び去ったはずなのですが、あなたがたの飛空艦の方でドゥーオらしきものを捕捉しませんでしたか?あれが向かっていった方角だけでも分かれば……」
 バーンは難しい顔で腕組みする。
「その通りだ。しかしよ、運悪くちょうど昼時だった。船からの見張りは普段よりも手薄だったと思うぜ」
「えぇ。しかも《鏡手》のヴェンは、私たちと一緒に昼食を食べていたじゃないの。あのとき見張りをしていたのは、誰か、代わりの素人ね」
 メイは残念そうに頭を抱えた。
 《鏡手》とは、《複眼鏡》と呼ばれる特殊な望遠装置で見張りを行う、早期警戒専門の技術者である。複眼鏡は、多数の魔法眼の集合体をレンズの代わりとしている。個々の魔法眼の視覚は、アルマ・ヴィオをエクターが操るのと似たような原理によって、鏡手の視覚と一時的にリンクされる。慣れた鏡手なら、数キロ先に群をなして飛ぶ鳥たちを、一匹ずつ別々に追跡することも可能だと言われている。
「でも、もしかしたら……」
 メイは何か思い出そうとして首を右に傾け、しばし目を閉じ、今度は左側に首をちょこんと傾けた。
「誰かが偶然ドゥーオを見ているかも。あるいは、近くのギルドの施設の複眼鏡にひっかかっているかもしれないわ」
 彼女はそう言うが速いか、真紅の翼を持つ怪鳥――飛行型アルマ・ヴィオの方に駆け寄っていく。
 走り出したメイの後ろ姿を目で追うルキアン。
 そのとき彼の視界にふと飛び込んできたのは、アルマ・ヴィオの翼に流麗な筆記体で書かれた名前である。
「ラピオ……アヴィス……?」
「あぁ、あれな。メイの《愛鳥》こと《ラピオ・アヴィス》さ。俺は飛行型にはどうも上手く乗れねェんで、メイにまかせっきり……。で、こいつが《アトレイオス》だ」
 騎士の姿をした青いアルマ・ヴィオの方を、バーンは顎でしゃくった。
「《蒼き騎士》って、俺が勝手にそう呼んでるだけなんだけどな」
 柄にもない気取った声で、彼は得意げに笑う。
 ルキアンも彼につられて微笑んだ。
 メルカも、べそをかいた目をこすりながら、2体のアルマ・ヴィオの間で視線を行ったり来たりさせて、興味深げに眺めている。
「それより、あれ見ろよ」
 メイが、ラピオ・アヴィスに登ってハッチの中をのぞき込み、何かしようと盛んに手を動かしている。
 バーンはそれを見上げるようにして、ニヤニヤしながらルキアンに顔を近寄せた。
「アイツな、あんな男みたいなヤツだけど……よくよく見ると、さすがは《元》貴族のお姫様だけのことはある」
 ルキアンも言われるままにメイの方を見た。
 彼女は昇降用のステップに片足を乗せ、背伸びするような姿勢で、もう一方の足先をさらに上のハッチの縁に掛けて作業している。形よく伸びる長い脚が少年の目に入った。続いて、彼女の持つシャープな外見に相応しい……美しく引き締まった腰。反面、意外に肉付きの良い部分。
 何故かルキアンは後ろめたい気持ちになると同時に、遠慮がちな胸の高まりを覚えた。
 バーンが下卑た声で笑う。
「いい眺めだろ。あのくびれがなんとも……いててっ、何すんだよ!」
 うす笑いを浮かべるバーンの頭に何かがぶつかって、地面にどさりと落ちた。
 大きな蜜柑だった。
 それを投げつけたメイが頬を膨らませ、大声で言う。
「何がくびれよ、ニヤケた顔しちゃって!」
「あはは。気のせいだってば……」
「あんたの考えることぐらい、ちゃんとお見通しなんだから。最低っ!」
 メイの剣幕に押されて苦笑しているバーン。
「いや、ルキアンも何のかんの言って、こんな目をして見ていたぜ」
 バーンが両目を指で大きく開けておどけてみせた。
 ルキアンは白々しく笑ってごまかしつつ、バーンの広い肩に隠れるようにしてうつむいている。サラサラとした銀髪を、風がゆるやかにかき分けていくと、その向こうには薄紅に染まった頬が見えた。どこか嬉しそうでもある。
 メルカは不思議そうに、ルキアンの真っ赤な顔をしげしげと眺めている。
 メイが元気よく叫んだ。
「今からクレドールに連絡する。バーン、戻るわよ! あ、ルキアンたちも一緒にどう? もしかしたらドゥーオのこと、それから……バンネスクのことも、何か情報が入ってるかもしれないもの」
 彼女は例の《念信》で、クレドールと交信しようとしていたところだった。
 いつしか重苦しい空気は消えていた。
 どん底に突き落とされた心持ちのルキアンであったが、バーンの戯言にのせられて、知らず知らずのうちに笑っていた。
 そしてルキアンの笑顔はメルカを何よりも安心させた。
 春風の柔らかさを肌で感じるだけの余裕が、一同に再び戻っていた。


【続く】



 ※1998年4月に鏡海庵にて初公開
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第1話・後編


【再々掲】 | 目次15分で分かるアルフェリオン




 半壊した研究所の傍ら、怯えきって震えているメルカの前で、ノヴィーアがそっと地面にしゃがみ、顔が地に着きそうになるまで身をかがめた。その背の一部がゆっくりと左右に開いて、中から人影が現れる。
「ルキアン!」
 メルカが何度もつまづきつつ駆け寄っていく。
 精一杯に前屈みの姿勢をとっているとはいえ、それでもかなり高いノヴィーアの背中から、昇降用の足場をつたってルキアンが不格好な様子で降りてくる。
 メルカは彼の腕に飛び込んだ。
「ルキアン、お姉ちゃんが! ソーナ姉ちゃんが!!」
 涙ながらに訴えかけるメルカを静かに抱きしめ、ルキアンは彼女を落ち着かせようとした。
「メルカちゃん、もう大丈夫。落ち着いて。ソーナお姉さんが、どうしたの?」
「お姉ちゃんが……あの黒くて大きいのと、一緒に行っちゃったの! さらわれちゃったの!!」
 ルキアンはドゥーオが飛び去った方角を見やったが、もはや姿は全くない。
 ――なんて速さだ。飛行型のアルマ・ヴィオでも追いつきそうにないな。
「それより、ヴィエリオ士兄は無事かい?!」
 研究所の中で燃える炎の勢いが激しくなってきたのを見て、ルキアンは慌てた様子で言った。
 ヴィエリオ・ベネティオールはルキアンより三つ年上の兄弟子である。物静かだが、若くしてすでに有能な魔道士で、いずれはカルバの後継者になると思われている男だ。どこか寂しげな鋭い目と長い黒髪が印象的な美男子だった。
「それがね、どこにもいないの……」
 燃えさかる研究所の中に入っていこうとするルキアンを、メルカが腕を引っ張って止めた。
「ルキアンまで死んじゃったら、あたし、独りぽっちになっちゃう」
「師匠ももうすぐ帰ってくる。心配いらないよ」
 だが、そう言っている間にも火の手は研究所全体を舐め尽くしていった。このままでは近くの家々にも燃え移ってしまう危険がある。
「メルカちゃん、ここからなるべく離れるんだ、街の方にむかって……」
 ルキアンは、再びアルフェリオン・ノヴィーアの背中をよじ登ると、開いていたハッチの部分から内部に入った。
 そこは非常に狭く、大人の男性一人が横になって寝そべれる程度の大きさしかない。様々な文字や図形が刻み込まれた、少し青みがかった金属の壁、底の部分には赤いクッションが敷き詰められている。アルマ・ヴィオの操縦席、いわゆる《ケーラ》である。
 ――まるで棺桶だな。
 ルキアンは苦笑しつつ、その《棺桶》に横たわった。実際、ケーラという言葉は、イリュシオーネの日常では棺桶とか狭い部屋の意味で使われている。
 何重にもハッチが閉じ終わると、ケーラの壁面がぼんやりと輝き始めた。ルキアンはゆっくりと目を閉じる。光は次第に強まっていき、それに応じてルキアンの意識が遠のいていく。
 そして体が浮き上がるような感覚をルキアンが受けた後、ケーラの内部の空間は一瞬にして透明な何かで満たされた。ちょうどルキアンは水晶の柱の中に閉じこめられているように見える。
 ルキアンの視界が突然開けた。しかも肉眼では見えない遥か彼方の風景まで飛び込んでくる。彼は視界を調節しつつ、こう思った。
 ――何度やっても気持ちが悪いな。
 今度はケーラ内部に自分の体が死んだように横たわっているのを、ルキアンは見た。正確には彼の心の中にケーラの様子が投影されているのだが。
 今やルキアンの精神はもとの体を一時的に抜け出し、アルフェリオンの《魂》となったのである。
 ――研究所の火を消したいんだ。マギオ・スクロープに水精系のカートリッジを。
 アルマ・ヴィオの脳は、エクターの精神とは独立しており、一種のアシスタントの役目を果たす。ルキアンはアルフェリオンに話しかけた。
 するとそのとき、彼自身予想だにしなかった答えが帰ってきた。
 ――わが主よ、《はじめまして》。私はアルフェリオン・ノヴィーア。
 中性的な高い声は、歌うようなリズムを持っている。
 アルマ・ヴィオの声が心に響いてくる。それもルキアン自身が何かを思いついたときのように、彼の意識の中に直接浮かんでくるのである。ちょうど、真剣に考え事をしている最中によそごとがふと思い浮かんでくるのに似ている。それでいて自分の意識とはやはり違う。慣れないエクターにとって、アルマ・ヴィオとの会話は気持ちが悪い。
 それにしても、初めましてというのは変であろう。すでにルキアンはこのアルフェリオンに一度乗っているのだから。しかし考えてみれば、ルキアン自身もノヴィーアの声を聞くのは初めてだった。さきほどは謎の声に導かれるままに、無我夢中で行動していただけなのだから。アルマ・ヴィオの伝達系の一時的なトラブルだろうと思って、この時にはそれほど意に介さなかったルキアンだが……。





 アルフェリオン・ノヴィーアは、水の精霊の力を封じた魔法弾をマギオ・スクロープに込め、研究所の方に砲身を向けた。首尾通りにいけばたちまちに鎮火するはずである。だが慣れないルキアンは、思うように狙いを付けられずに手間取っている。
 メルカは木の陰に隠れて心配そうに様子を見守っている。そんな彼女が急に悲鳴を上げた。突然の強風に吹き飛ばされそうになって、木にしがみつくメルカ。
 丘の下の方から大きな物体が猛然と飛来し、けたたましい声で何度か鳴いた。
 それは翼を広げるとアルフェリオンよりもひと回り大きく、まさに鳥そのものの形をしている。飛行型のアルマ・ヴィオであった。悠々と空を舞う深紅の体に、鋭利な鉤爪とくちばし……魔法金属という強固な外皮に覆われた猛禽である。
 赤い飛行型は、アルフェリオンの背後をかすめるようにして丘の頂上の方へ急上昇すると、そこで旋回飛行に移った。その機体の上には、人型、つまり汎用型のアルマ・ヴィオがもう一体乗っている。
 ――こちらはオーリウム・エクターギルドの飛空艦《クレドール》の者だ。そこのアルマ・ヴィオ、所属と名前を言いたまえ!
 ルキアンの心の中に見知らぬ男の声が浮かんできた。いわゆる《念信》だ。無線などという便利な物とは違って、ごく近い距離での会話しかできないのだが、アルマ・ヴィオ同士の有効な交信手段ではある。
 ――え、えっと、ギルド……あれ、聞こえてない?
 念信装置の使い方をほとんど知らないルキアンは、必死にコミュニケーションをとろうとしても思うように声を伝えることができない。
 ――あんた、聞こえないのかい? 砲身を引っ込めなさいよ!!
 今度は女の声だ。なかなか威勢がいい。アルフェリオンのマギオ・スクロープがカルバの研究所を破壊しようとしている……と勘違いしたのであろうか。
 突然のことで気が動転しているルキアン。そのためアルフェリオンも、情けないことにぼんやりと突っ立ったままである。
 ――ちょっと、返事しなさい!
 と言うが早いか、ルキアンがまごついている間に、飛行型のアルマ・ヴィオが背中のマギオ・スクロープを本当に発射した。威力は加減されているが、風の精霊の雷撃弾である。
 ――待ってくださいよ!
 ルキアンは思った。いきなり攻撃してくるなんて、あの飛行型アルマ・ヴィオにはどんな野蛮なエクターが乗っているのだろうかと。あるいは内乱騒ぎのせいで、怪しい者は直ちに攻撃せよとの命令でも受けているのかもしれない。
 だが、そんな呑気なことを考えている余裕などあるはずがなかった。
 轟音と青白い電光をまき散らしながら、雷撃弾がアルフェリオンに命中した。見た目には、確かにそのはずであった。しかし雷撃弾の光は、アルフェリオンの外殻付近で、周囲の空間に吸い込まれるようにして消えたのである。
 ――背後より雷撃系の風精魔法攻撃……《次元障壁》を張って消去しました。
 相変わらず歌うようなノヴィーアの声が聞こえてきた。アルマ・ヴィオには防衛本能が備わっている。したがって今のように、エクターにかわって自ら回避行動をとる場合も少なくない。
 驚いているのは、ルキアンよりもむしろ上空のアルマ・ヴィオの方だった。
 ――新型のシールド? 何なの、あれ……全然効いてないじゃない!!
 ――この馬鹿、いきなり撃つやつがあるか!
 ――馬鹿とはなによーっ!!
 相手も混乱しているのだろうか、向こうの念信が開きっぱなしでルキアンにも会話が聞こえてくる。意外に間の抜けた感じの2人であるようにも思える。
 ルキアンはとりあえずマギオ・スクロープを発射し、研究所の火を消しにかかる。砲門から放たれた一筋の光は、研究所のところで花が咲くように広がり、周囲が見えなくなるほどに水蒸気が立ち上ったかと思うと、炎はたちまち消え去った。
 ――あの、ちょっと……。
 ルキアンの声がようやく相手に伝わったらしい。
 ――子供なの?!
 確かにルキアンの声は甲高くて子供じみているが、それにしてもこの女はせっかちな性格のようだ。
 ――あのなぁ、いまから降りるから、いいからそっちも出てこい!
 もう一人の若い男の声。こちらもなかなか元気がよい。
 飛行型アルマ・ヴィオがゆっくりと舞い降りる。その上に乗っているアルマ・ヴィオが、攻撃の意思はないというふうに手を振った。アルフェリオンとは違って、鎧を着た人間がほぼそのまま大きくなったような格好をしている。したがって動物的な雰囲気は感じられない。その手に握られた長槍の先端には、黄白色の光でできた穂が輝き、もう一方の手の外側には、ちょうど楯の形に広がった不思議な光の幕が張られている。
 紅の翼をゆったり羽ばたかせ、飛行型アルマ・ヴィオが着陸する。金属製の鋭い爪のついた二本の足で見事に大地をとらえた。土煙が激しく舞い上がり、周囲の草むらが狂ったように頭を振っている。
 着地の直前を見計らって、青いアルマ・ヴィオも素早く飛び降りた。甲冑が鈍い音を立てて鳴り響く。重厚な金属の塊であるにもかかわらず、思ったよりも軽やかな動きであった。しかしその衝撃で地震さながらに地面が揺れ、メルカがまた恐そうに木にしがみつく。



6・完

 飛行型アルマ・ヴィオの方から、上下とも鮮やかなエメラルド色の衣装の人物が優雅な身のこなしで現れた。丈の短いぴったりとしたダブルのジャケットと、膝下までのタイトなズボン……いわゆるブリーチズ、を身につけている。かなり身分の高い紳士を思わせる。そして襟元には、エクターギルドのメンバーの印である青紫のクラヴァットが、誇らしげに巻かれていた。
 ルキアンもアルフェリオンを離れた。ぼんやり立っているルキアンの方に向かって、その人物が毅然とした様子でやってくる。
 ――あれ?
 右手で眼鏡を微かに持ち上げ、ルキアンは目を凝らした。
 ――女のひと?
 国や身分の違いによって多少の差はあるが、イリュシオーネの女性は、概して足首まであるような長いスカートを身につけている。髪もほとんどロングであり、少なくとも肩より上の長さに切っていることは希である(男性も長髪の方が多い。ちなみにかつらを被る習慣はない)。まして視力のあまり良くないルキアンが、この相手を男性と勘違いしたのも無理はないかもしれない。
 しかしすぐに分かった。いかに男装でも、彼女の服装は、女性特有の身体のラインを否応なく強調している。やや抑えがちに優美な曲線を描いた胸元にも、ルキアンはつい目を奪われてしまったが……何やら恥ずかしくなって顔を背けた。思わぬ誤解に驚かされたせいか、心臓の鼓動が速まっている。
 少し遅れてもう一方のアルマ・ヴィオから、赤毛の大柄な青年が面倒くさそうに降りてきた。180センチは軽くありそうな長身は、たくましく引き締まっている。ルキアンよりもかなり年上のようである。
 らくだ色の生地に、濃い茶色の太いストライプという怪しげなフロックは、見た目にもあまり趣味がよいとは言えない。彼の大きな体には少し窮屈そうなサイズでもある。いい加減に扱っているせいか、あちこちにしわが寄っている。せっかくのエクターギルドのクラヴァットも、何やら雑な巻き方だ。手ぬぐいのような感じで太い首にかけられている。
 例の女がルキアンのところまでやってきた。彼とほぼ同じ背丈の彼女は、細い体に似合わぬ大声で言った。
「ちょっと、こんなところでアルマ・ヴィオなんか出して、何やってんのよ?」
 紫がかった黒髪を、耳が隠れる程度の長さに切り、少しはね散らかした無造作な髪型にまとめている。たぶん20代前半であろう。それにしても威勢がよい。彼女のきびきびとした口調は、ルキアンのそれよりも遥かに男っぽい。
 まるで鬼教師に叱られている生徒のように、もじもじと上目遣いに見ているルキアン。
 女は居丈高な様子でルキアンの方を見ていたが、やがて仕方なさそうに微笑むと、白くてしなやかな人差し指でルキアンの額を小突いた。
「こらっ、少年! もっとシャキッとしなきゃ駄目じゃないの」
 彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべている。こうしてにこやかな顔をしていると、思っていた以上に若く見える。彼女の瞳には、まだ少女のようなあどけない光さえ微かに浮かんでいる。もう怒っている様子はほとんどない。
「私はエクター・ギルドのメイ。本当の名前は長ったらしくてあまり好きじゃない……メイオーリア・マリー・ラ・ファリアル。だからメイって呼んで。キミは?」
 最初の時よりも、彼女の声は随分柔らかくなってきている。
 ちなみにメイはその言葉の訛りと名前からして、生粋のオーリウム人ではないようだ。おそらくタロス共和国系の旧貴族の出身であろう。そんなことを色々と考えつつ、ルキアンも挨拶する。
「僕は、ここの研究所のラシィエン導師の弟子で、ルキアン・ディ・シーマー」
 もう一人の男の方もぼちぼちとやってきた。絵に描いたような熱血漢というのはこういう人間のことを言うのであろう。太い眉の下には、曲がったことがいかにも嫌いそうな澄んだ目。そしてきりりと結んだ口元。
 はじめは少し乱暴なタイプにも見えたが、彼は気さくな顔でさらりと言った。
「よぉ、すげぇな、このアルマ・ヴィオ。雷撃弾が全然効かなかったじゃないか。いったいどうなってんだ?」
 男はアルフェリオンを眩しそうな目で見上げた。
 メイに肘で脇腹をつつかれて、彼は思い出したように挨拶する。
「あ、そうだ。俺もギルドのエクターで、名前はバーナンディオ・ドルス。ギルドのバーン様っていったら、そりゃもう、おまえ……」
「ドジで間抜けなヤツだって、知らない人は誰もいないわねぇ」
 メイが口を挟んだ。
「こら、なんてこと言いやがる!」
 バーンことバーナンディオは、文句を言いつつも歯を見せてにこにこと笑っている。結構お気楽な男のようだ。
「ここのすぐ下の港に、私たちの船が昨日から停泊しているの。さっきね、街の人が、この丘に二体のアルマ・ヴィオが現れて、しかも大きな爆発があったと言って駆け込んできたのよ。だからこうして慌てて飛んできたってわけ。反乱軍が何かやらかしたのだったら大変だもんね。ここの街には議会軍も国王軍もほとんどいないみたいだから……」
 メイも横目でアルフェリオンをちらちらと見ながら言う。
「ギルドの……船に乗っているんですか?」
「あぁ、飛空艦クレドールさ。俺たちはその乗組員で、かつエクターだ。昨日、ある街の近くで、アルマ・ヴィオに乗った野盗たちを退治する仕事を片づけてきたところなんだ」
 バーンは少し遠くの方を顎でしゃくった。
「ところで、あそこのお嬢ちゃんは何だ? こっちをずっと見てる……」
 ルキアンはメルカを手招きした。彼女は小走りにやってくる。
「君の妹?」
 メイは彼女の方をしげしげと見た。
 メルカはルキアンの背中に隠れ、メイとバーンの方をそっと覗いている。
「この子はメルカちゃん。師匠の娘さんです」
 ルキアンが紹介すると、メルカは黙って頭をぺこりと下げた。
「ふぅん。お人形みたいなかわい子ちゃんじゃないか」
 バーンが大声で笑った。
「それで……この騒ぎはいったい何なの?」
 メイが辺りを見回しながらルキアンに尋ねる。
 いつの間にか、近所の人々や野次馬が沢山集まってきている。あれだけ派手にアルマ・ヴィオが飛び交えば、誰だって気になる。反乱軍と正規軍との戦いが始まったのかと思った人も多いかもしれない。
 ルキアンは、さきほどのアルフェリオン・ドゥーオの一件のことを、バーンとメイに手短に説明した。ルキアン自身も、これからどうしたら良いのか決めかねている。師匠はまだ数日間は帰ってこないし、ソーナはさらわれ、兄弟子のヴィエリオは行方不明……。困ったルキアンはそのあたりの事情も含めてギルドの2人に話してみた。
「そうねぇ。まず、ソーナって人のこと、なんとかしないとね。でもこの反乱騒ぎじゃ、お役人もなかなか動いてくれないわよ」
 メイが腕組みする。そして彼女は冗談ぽく言った。
「依頼料さえ払ってくれるのなら、誘拐事件の解決、ギルドがいつでもお手伝いするわよ」
 ルキアンがむっとしたのを見て、メイが苦笑いする。
「うそだってば。でもちょっと悪い冗談だったわね、ごめん。ところでお師匠はどこに行ったの?」
「ガノリスの都……」
「それって、バンネスクのことだよな?!」
 バーンがメイと顔を見合わせた。
 二人はしばらく黙っていたが、言葉に詰まったバーンをメイが一瞥し、彼の代わりに溜息混じりに話し始める。
「そうなの……昨日、ギルドの本部から連絡があったんだけど、実はね……バンネスクは、いま大変なことに」
 メイは同情するような目でルキアンとメルカを見つめた。


【第2話に続く】



 ※1998年3月に鏡海庵にて初公開
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『アルフェリオン』まとめ読み!―第1話・前編


【再々掲】 | 目次15分で分かるアルフェリオン


 ――流れる雲とともに、
    緑なす大地の上に無数の島々が浮かぶ
    不思議な世界。それがイリュシオーネ。


 ◇ 第1話 ◇



 季節は少年を詩人に変える。
 胸元に巻いた朝霧色のクラヴァットをそよがせながら、ルキアンはひとときの美しい光景に見入っていた。真白い羽根飾りも鮮やかな、サルビアブルーの大きな帽子の下からは、銀色のあどけない前髪がのぞく。小さく丸い眼鏡の奥で優しげな瞳がゆっくりと瞬いた。
 春の穏やかな陽光のもと、潮風吹く丘に若草は薫り、空と海の青に抱かれて緑は萌える。可憐な花たち。霞の向こうに金華銀華は揺れて、霊妙な光を散らしつつ、おぼろげに輝く。その姿は春に酔う妖精たちの輪舞を思わせる。
 そう、こんな身近なところにも、おとぎの国はある。

 白い風車……その古ぼけた煉瓦屋根は、いつの頃からかずっとコルダーユの街を見守ってきた。何万何千と繰り返されてきた昼と夜の中で、幾多の平和な日々が流れ、あまたの戦乱の炎が燃え上がった。その間、丘の風車は休むことなく動き続けて今日に至っている。
 ルキアンはこの風車台が好きだった。いつも暇があるとここにやってきては、広大な海の眺めを詩にしてみたり、柔らかな草の上に寝そべって本を読んでみたりする。それというのも、この丘が単に景色の良い場所であるだけではなく、ルキアンにとってごく身近な場所でもあったから。彼が住み込んでいる研究所は、この風車の丘の中腹に立っているのだ。

 コルダーユに研究所を構える魔術の求道者、とりわけ錬金術実験の過程で様々な化学反応の法則を発見したことで名高い、カルバ・ディ・ラシィエンのもとに、ルキアン・ディ・シーマーは2年前に弟子入りした。当時16歳だった。
 ルキアンは、ここオーリウム王国の小貴族の息子である。貴族と言っても、必ずしも何不自由ない暮らしの中で育ったわけではない。新しいものの勃興とともに古いものが次々と没落していく今の時代、彼の一族のように、由緒だけあっても資力の乏しい零細な貴族たちは、多くの借金を抱えつつ、それでもプライドを保つために精一杯虚勢を張って生きていくしかなかった。
 貧乏貴族の次男や三男たちは、贅沢な館や華やかな社交界とは無縁の生活を送っていた。なけなしの財産は長男が全て継いでしまう。貴族の体面をかろうじて維持していくためには、決して豊かとは言えない財産を今以上に細かく分割してしまうことはできないからである。
 弟たちが生きていくための方法は、一般的に言えば、幸いにも多少の読み書きができるということを生かして、僧侶や教師あるいは官吏となって自立的に生活を送る道だった。そしてルキアンの場合のように……この世界でいわば技術者的な役割を果たしている《魔道士》、つまり魔法使いを目指すケースもしばしば見られる。

 ルキアンは何気なく空を見上げた。海に散らされた群島のように、青天井に様々な影が漂っている。蒼穹の島々は私たちの目には奇怪な眺めと映るかもしれない。しかし異世界イリュシオーネの人々にとっては、ごく日常的な光景にすぎなかった。
 少年がこうして立ち止まっている間にも、太陽の光が浮島にときおり遮られては、また目映い日ざしとなって大地を射る。光と影の移ろいが数え切れないほど続いていく。
 そのとき一陣の強い風が吹いた。ルキアンが手にしていた書類の束が飛ばされ、ひらひらと宙に舞う。
 好き勝手な方向に飛び去ろうとする紙をかき集めようと、彼は慌てて走り出した。師匠から手渡された重要な計画の書類であった。こんな大切なものをなくしてしまっては大変だ。彼は懸命に拾い集める。

「ルキアン、一枚忘れてるよっ」
 彼の背後で鈴の鳴るような可愛らしい声がした。
 茶色い熊のぬいぐるみを抱いた女の子がにっこり微笑んでいる。たっぷりとした金色の巻髪に、ピンク色の大きなリボン。リボンとお揃いのような薄桃色のドレスには、襟元や袖に幾重にもフリルが付いている。
 彼女は紙切れをひとつルキアンに手渡した。
「あ、メルカちゃんか。ありがとう」
 少し屈み込んで、彼女のサラサラした髪の毛を撫でてやるルキアン。
 メルカは彼の師匠の末娘である。些細なことでも話し相手になってくれるルキアンに、彼女はいつもなついていた。
「ねぇねぇ、ルキアン」
 少女は小さな手でルキアンの服を引っ張った。
 金の縁取り付きの瑠璃色のフロックは、ちょうど彼の膝下あたりまでの丈がある。メルカはその裾を無邪気に揺さぶっている。
「どうして、吹き飛ばされた紙は落ちてくるのに、空に浮かんでる島は落ちてこないの?」
 メルカは今年で11歳になるが、とてもそうは見えない。まだ甘えん坊が抜けきらないような話し方、幼い顔つき。
「それはねぇ……」
 ルキアンはどう説明したものかと、ずれた眼鏡を直しながら少し考え込んだ。
「僕たちのいる普通の世界では、何て言えばいいのかな……鳥さんや雲さんの他は空を飛んじゃいけないっていう、お約束があるんだよ。でもね、高い空の上は《パラミシオン》の世界と隣り合っているから、約束ごとがまた違うんだ」
「ふぅーん。ぱらみしおん……ってなぁに?」
 メルカは少し首を傾け、薄く青みがかった綺麗な目を丸くした。
「パラミシオンっていうのは、簡単に言うと妖精や魔物たちの住んでいる別世界、というところかなぁ。空の上や、海の真ん中、深い森の奥……みんなパラミシオンにとても近い場所なんだ。だからその力に影響される。ねぇ、もうひとつ教えてあげようか?」
 ルキアンの言葉にメルカは興味津々で、元気良く何度もうなずいている。
「僕たちの住んでいる普通の世界は《ファイノーミア》って言うんだよ」
「なんで、ふぁいのーみあって言うの?」
「そ、それはねぇ……」
 メルカにとって、見る物や聞く物すべては不思議に満ちている。学者肌の父親に早くも似てきたのであろうか。彼女は好奇心旺盛に次から次へと質問をしては、よくルキアンを困らせている。しかし優しい彼は、メルカが理解するまでいつも丁寧につきあってあげていた。
 困った顔をしているルキアンの背中をぽんとたたく者があった。
「勉強熱心な生徒さんに、さすがのルキアン先生もお手上げね」
 しなやかで繊細な金髪に、透き通るような白い肌、やや黒みがかった瞳は理知的な光をたたえている。カルバの長女ソーナである。
 彼女はルキアンより1歳だけ年上だが、彼とは比べものにならないほど大人びて見える。ソーナはメルカと違って、カルバの前妻の娘である。そのあたりの事情が彼女の気苦労を増やしているからかもしれない。そして二人目の母(カルバの後妻)さえも数年前に病死してしまった。生みの親と育ての親を短い間に両方失うという過酷な運命に、ソーナは翻弄されてきたというわけだ。
 彼女は黒っぽいレディンゴート(*1)風の上着をまとい、胸元に赤いスカーフを結んでいる。どこか神秘的な雰囲気を漂わせているのは、著名な魔道士を代々輩出してきたラシィエン家の血を濃く引いているからであろうか。
「メルカ、お菓子が焼けたから食べておいで」
 ソーナはメルカにそっと言った。
「ほんと?! 今日は何かなぁ。じゃあまたね、ルキアン」
 メルカはお菓子という言葉を聞くと、いてもたってもいられない顔になって、下の方に見える研究所の赤い屋根めざして走り出していった。
 懸命なメルカの様子に少し吹き出した後、ソーナは言う。その表情が不意に曇った。
「ルキアン、今朝の新聞の号外……見た?」
 首を振るルキアンに、彼女は何やら派手な言葉が並ぶ紙切れを見せた。
 《コルダーユ市民の友・号外 親エスカリア帝国派によって内乱勃発》
「だ、そうよ。こんなことになるんじゃないかとは思っていたけど、まさか……」
 ソーナは号外の記事を続けて読み上げる。やや低めの声でささやくような彼女の話し方に、ルキアンはよく心を奪われた。彼女の声に耳を傾けているうちに、彼はいつしか頬を赤らめているのだ。
「西の大都市ベレナを中心に《反乱軍》は勢力を拡大。《議会軍》も分裂し、一部は反乱軍に合流……」
 ルキアンも思わず記事をのぞき込んだ。やはり顔が軽く上気している。この年頃、少年は少女に比べてまだまだ子供じみているのかもしれない。
「議会軍は混乱していて、かわりに《国王軍》が各地の都市を守っているのか。前に聞いたんだけど、国王直属の兵士の数は議会軍の六分の一ぐらいなんだって。仮に議会軍の半分が反乱側に荷担していたら、国王軍だけではちょっと大変そうだよね」
 変に緊張しているルキアンが何分の一だのと数字を並べ立てたので、ソーナは少し上の方を向いて、頭の中で話を整理している。
「私は軍隊のことはよく分からないけれど、父から先週聞いた話では、反乱側に味方する人たちはこの街にもかなりいるみたいよ」
 それを聞いて心配そうな顔をするルキアン。そんな彼を安心させようとするかのように、ソーナがまた記事を読む。
「あら、《エクター・ギルド》が国王や議会に味方するらしいって書いてある。えっと、ギルドには内部分裂は今のところ起こっていない……だって」
「ギルドが動くんだね。じゃあ、反乱軍もそう簡単に無茶なことはできないな。でも……内乱が収まらない間に帝国軍が攻め込んでくることにでもなれば、それこそ大変だよ」
 《帝国》という言葉が出た途端、ソーナは不安の色を隠しきれなくなった。
「私たち、どうなるのかしら……」
 ルキアンはソーナを勇気づけてやりたかった。しかし彼は無意識のうちに、深い溜息をついてしまったのである。沈黙の後、何だか気まずい雰囲気になっている。ルキアンはとりあえずつぶやいた。そしてこれが彼の本心であった。
「戦争なんて、消えてなくなってしまえばいいのに……」

 ソーナがひと足先に研究所に帰った後、ルキアンは再び一人に戻った。
 彼は内乱の発生を知って憂鬱な気分になっている。ソーナが置いていった号外記事の内容を、ルキアンは悲しそうな目で追う。
 反乱の引き金となったのは、ちょうど一週間前の王国議会の決議だった。
 現在のイリュシオーネは、世界を二分する大乱のさなかにあった。すなわちエスカリア帝国を中心とする《帝国軍》と、ガノリス王国を中心とする《連合軍》との戦いである。
 オーリウム王国は戦いの成り行きをしばらく見守っていたのだが、戦場が拡大するにつれて、もはや日和見は許されない状況になってきた。そこで王国の臨時議会が招集され、帝国軍と連合軍のどちらを支援するかについて連日の激論が交わされた。議会は紛糾し、会場に軍隊まで導入する騒ぎになった末、わずかな差で連合軍支持の決議が行われたのだ。
 しかし現実としては帝国軍が優位に立ってきており、連合軍に味方することはオーリウムの破滅につながるのではないかという声も強い。そのため、議会内で敗北した親エスカリア派は、実力でもってオーリウムを帝国側に加盟させようとして反乱を起こしたというわけである。
 ルキアンは震える手で号外を握りしめながら、丘の周囲を見渡した。人間世界の醜い争いとは無縁のように咲き誇っている野の花も、やがて戦いになれば軍靴に蹂躙され、痛いほどに美しい春草の絨毯も、無情な炎に包まれて荒れ野と化してしまうのだろうか。
 そんな忌むべき戦いのイメージから……ルキアンがふと連想したことがあった。数週間前、師のカルバから見せられた《あれ》の姿である。


【注】

(*1) レディンゴートとは、18~19世紀に西洋で見られた軽めのコート風の女性服である。上半身の部分は割合体にぴったりとしており、下半身部分はスカート状になっている。羽織るのではなく、ボタンを留めて普通のワンピースのようにして着ていたらしい。





「新型のアルマ・ヴィオ、もうすぐ完成ですね」
 研究所の地下、むき出しの岩壁の大ホール、ルキアンは薄明かりの中にそびえる黒い影を見上げていた。辺りの静寂すべてを支配しているかのように、圧倒的な存在感を放ちつつ、その巨体は闇の中にたたずんでいた。
 一見すると甲冑をまとった騎士の姿にも似ている。
 《アルマ・ヴィオ》というのは、イリュシオーネの言葉でもともと《生ける鎧》という意味であるから、この黒い巨人はその名を如実に体現していると言えよう。
「そう。《アルフェリオン・ドゥーオ》だよ」
 カルバは少し白髪が混じり始めた頭を掻いた。やや頬のこけた温厚そうな顔に、丁寧に刈り込んだ口ひげを生やしている。40代にさしかかったなかなかダンディな男である。ラシィエン家もルキアンの家と同じく、財産には恵まれていないが長い伝統を持つ貴族の血筋なので、それを反映してかカルバも立派な紳士であった。
 自らの流派の紋章をあしらった飾り付きの長いクロークは、いわばこの世界の魔法使いの正装である。その下の黒のベストと白のシャツはどこか燕を思わせる。
「辺境で発見した例の残骸を色々と分析してみたところ、かなりの器官については何とか模造することができた。液流組織や伝達系は干からびていて使いものにならなかったが、骨格や動力筋なんかは健在だった。恐ろしいほどの耐久性だな、まったく」 (*2)
 カルバは眠そうな目をこすりながら満足げに言う。おそらく研究のために徹夜を繰り返していたのであろう。あまり無理をしない方がよいのに、とルキアンは思った。しかし、カルバにとっては余計なお世話というところである。
「もう《生きて》いるのですか?」
 ルキアンは再びアルフェリオン・ドゥーオの方を見やった。よく目を凝らしてみると、この黒騎士の異形の姿が次第に分かってくる。背には半月型の二対の大きな翼、甲虫のそれのように節くれだって棘のある手足、仮面を思わせる顔。何よりも竜を彷彿とさせる尾は、見る者に強い威迫感を与える。
 どうも好きになれないとルキアンは思った。戦うためだけに生まれてきたようなドゥーオの姿は、生理的にやや受け入れ難い。アルマ・ヴィオが結局のところ戦いの道具であるにしても、もう少しなんとかならないものか。
「実はいくつかの器官については、残骸から取り外した物をそのまま使っている。模造しようにも、内部の構造が理解できなかったのでな。下手に分解して壊してしまっては元も子もなくなる。特に、古い記録に名前が残る《ステリア》という技術なんだが……我々の知識ではどうにも理解不可能な点が多すぎる」
 正体不明の器官をそのまま利用していると聞いて、ルキアンは不審そうな顔つきになる。カルバはドゥーオを見上げつつ、その巨体の周囲を歩き出した。
「もちろん全くわけが分からないのではないよ。各器官の司る機能それ自体については、ほぼ確かめることができた。ただし……」
 カルバはそこで言葉を少し詰まらせる。
「ひとつだけ、どうにも手に負えない部分があったので、ドゥーオには組み込まずに残しておいた。その後ドゥーオを作りながら調べてみたら、どうやらアルマ・ヴィオの力を増幅するものらしいことは分かってきたよ。完全に働かせることはできていないのだが、比較的安定した動きを見せている。他の器官に接続しておけば、何かとてつもない力を発揮するかもしれない。残念なことに、その結果については、実際にアルマ・ヴィオを動かしてみない限り想像しがたい。そこで《もうひとつの方》に組み込むことにした」
「先生、もうひとつの方って?」
「そうか、ルキアンにはまだ教えていなかったな。ヴィエリオにはこの前に見せたんだが、《アルフェリオン・ノヴィーア》のことだ。もうすぐ君にも見せてあげるよ」

 ◇ ◇

 いま彼の手元にある書類の束には、件の《もうひとつのアルフェリオン》の詳細が記されていた。カルバは5日前から、隣国ガノリスの都に出張中である。この戦争の成り行きをめぐって、魔道士たちも色々と動いているようだ。カルバはガノリスに出かける前に、ノヴィーアのテストをそのうちルキアンにやらせるかもしれないと言って、この資料を彼に手渡したのだった。
 ルキアンはぼんやりと考え込んでいる。草の上に物憂げに寝そべった彼の目には、ゆっくりと流れゆく雲の姿が映っていた。西の方の空からやや厚い雲が広がってきている。夜には雨が降り出すかもしれない。
「僕も戦場にかり出されるのだろうか、エクターとして?」
 《エクター》あるいは《繰士》とは、アルマ・ヴィオを駆る《乗り手》のことをいう。ただし《乗る》という言葉には、正確に言うと語弊がある……そして実際に動かすためには、特殊な訓練と才能とが必要なのである。
 誰もがエクターになれるわけではないので、少しでもアルマ・ヴィオを操れる者は、ひとたび戦争になれば真っ先に最前線に送られるであろう。なにしろアルマ・ヴィオは、この世界で最大最強の兵器なのだから。
 しかし、おとなしいルキアンはもともと争い事が好きではない。ましてや人間同士が殺し合う戦争などに行く気には、到底なれない。

 ルキアンは、研究所の方に向かって丘をゆっくりと降りていく。頬をそっと撫でていく春風は、落胆した彼の気持ちを優しく慰めてくれているようにも感じられる。
 彼はふと立ち止まり、振り返った。風に草がぱぁっと散り、小さな花びらが一枚、彼の額をかすめていった。
 彼の瞳に丘の上の風車が映る。やや強くなり始めた向かい風によって、かなり勢いよく回り始めている。ぼんやりとした花影の向こう、なぜかソーナの顔がふっと目に浮かんだ。ルキアンはしばらく立ち止まっていたが、再び歩き始めた。


【注】

(*2) アルマ・ヴィオの液流組織は普通の生物でいう血管に相当する。伝達系とは同じく神経、動力筋とは筋肉のことを指す。アルマ・ヴィオは、魔法を使って作り上げられた人工の(半)生命体なので、その内部構造も機械よりむしろ自然の生物に近い。





 すると、そのときである。ルキアンは誰かに声をかけられたような気がした。
 ――少年よ。急ぎなさい。
「はっ?!」
 彼は周囲を見渡したが、どこにも人の姿は見えない。
 ――こちらです。
 少し沈んだ感じの女の声である。
 花園に見とれているうちに、いつしかパラミシオンに紛れ込んでしまって、悪戯好きな妖精にたぶらかされているのであろうか。ルキアンは目をこすった。
 しかし、その声は彼の心の中に直接響いてくるように思われる。
 本能的に引き寄せられるものがあった。しかも謎の声が彼を導こうとしている方向には、カルバの研究所がある。
 ――さぁ、早く。手遅れにならないうちに。
 やや早足のルキアンは、研究所の一室の前をちょうど通りかかった。窓の向こうでメルカがクッキーを頬張っている。別にこれといって大変な様子はない。
 ルキアンは声に誘われて研究所横の小塔の前に来た。その中に入って地下に降りるように、と声の主は言っているらしい。
 当惑した顔つきで塔の扉に手をかけるルキアン。どういうわけか鍵が開いている。
 そしてルキアンの姿が塔の中へと消えた後、少したってからのこと……不意に建物が崩れ落ちる音がして、メルカの悲鳴が響き渡った。

 突然、身の丈10数メートルの黒い影が、研究所の一角を破壊して現れた。それは天をさして獣さながらに咆哮し、背鰭のような鋭い棘をいくつも逆立てる。黒光りする翼が広がり、竜のごとき尾が、金属でできているとは思えないほどなめらかに輪を描き、大地を打ち据えた。
 紛れもなく、あのアルフェリオン・ドゥーオであった。
 崩れ落ちる研究所。実験施設が破壊されたせいか、所々から火の手が上がっている。
 その一室で、メルカは床に膝をついたまま泣き叫んでいた。恐くて動けないのだろう。彼女は熊のぬいぐるみを抱きしめて、ただ泣いているばかりである。
 そこに、丸太でできた天井の梁や大きな石組みが真っ逆さまに落ちてきた。
「ルキアン、助けてーっ!!」
 絶叫するメルカ。
 ほんの数秒後だったが、彼女にとってはとてつもなく長い時間に感じられたかもしれない。もう駄目かと思ったメルカは、自分が屋根の下敷きになっていないことに気がついた。べそをかきながら上の方を見ると、何か大きな影が、落ちてきた天井から彼女を守ってくれている。
 白銀色の巨体が陽の光を浴びて輝く。その姿は甲冑に身を固めた騎士と荒鷲とを組み合わせたようにも見える。いくつもの曲線で構成される優美なシルエットは、鎧をまとった天使をもどことなく想起させた。
 これがもうひとつのアルフェリオン、ノヴィーアである。

 ノヴィーアは、その両手で受け止めた屋根の残骸を、建物の傍らに投げ捨てた。そしてゆっくりと上体を起こし、威嚇するような鋭い鳴き声を上げてドゥーオの方に向き直る。
 複雑に入り組んだ大小何対かの羽根がやや機械的に上下動をし、甲虫のそれを思わせるかたちで背中に閉じられた。
 一方、ドゥーオの左手首あたりからは、白い煙が立ち上っている。おそらく研究所の地下から脱け出した直後に、その《マギオ・スクロープ(呪文砲)》で塔を破壊したのであろう。
 ノヴィーアが置かれていた塔は、完全に瓦礫の山と化していた。もう一歩出るのがおそければ、ノヴィーア自体も大破していたかもしれない。明らかに邪魔なノヴィーアを片づけるための行動だった。
 マギオ・スクロープとは、様々な魔法の効果を弾薬に封じた銃砲である。発射する際には、呪文を唱えるのと同様に少し時間がかかるので、そう簡単に連射はできない。
 ノヴィーアの背中側に畳まれていた長い砲身が起きあがり、左肩にスライドする。こちらもマギオ・スクロープで反撃するつもりなのだろう。
 じっと向かい合う両者であったが、次の瞬間、目もくらむような閃光が辺りをつつんだ。それと時を同じくして、轟音と煙、そして炎が大地に走り、ドゥーオが空に飛び立つ。追撃する余裕もないまま、ドゥーオの黒い影はたちまち胡麻粒のように小さくなり、雲の向こうに消えてしまった。恐るべき速さである。


【続く】



 ※1998年3月に鏡海庵にて初公開
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