鏡海亭 Kagami-Tei  ウェブ小説黎明期から続く、生きた化石?

孤独と絆、感傷と熱き血の幻想小説 A L P H E L I O N(アルフェリオン)

生成AIのHolara、ChatGPTと画像を合作しています。

第59話「北方の王者」(その1)更新! 2024/08/29

 

拓きたい未来を夢見ているのなら、ここで想いの力を見せてみよ、

ルキアン、いまだ咲かぬ銀のいばら!

小説目次 最新(第59)話 あらすじ 登場人物 15分で分かるアルフェリオン

第58話(その5・完)ふたり、北を目指す

目次これまでのあらすじ | 登場人物 鏡海亭について
物語の前史プロローグ


5.王都(ケンゲリックハヴン)へ


 
 朝霧のわずかに残る渓谷を、ただ、川の流れに沿って――両岸の鬱蒼とした樹々がいったん途切れるところまで歩く。分かりやすい道案内をここまで務めてくれた谷川のせせらぎに、しばしの別れを告げ、森の小径が街道の支道のひとつと交差する場所まで、ルキアンは辿り着いた。
 どこか不安そうに振り返る彼に対し、囁くような低めの声でアマリアが告げる。山歩きには不似合いな、長い裾かつ純白の法衣と、その上に羽織った真紅のケープとをそよがせながら、彼女は息も乱さず歩みを進める。
「闇の御子よ、心配は無用だ。単に、エリーは準備に手間取っているだけなのだろう。もちろん、君のためにな。鏡の前で何度も何度も着替えていたよ」
 そう言って、まだ肌寒い森のそよ風を味わうように、心地良さげに目を閉じるアマリア。こうして《紅の魔女》と二人で居ることに――彼女の圧倒的な力を間近で見ただけにいっそう――幾分の気疲れを感じながらも、眼鏡を掛けた内向的な銀髪の少年は、遠慮がちに頷いた。
「は、はい……そうでした。《エリー》でしたね」
 昨晩、長年の肩の重荷を降ろせたとでもいうふうに、同時に一抹の寂しさを漂わせつつ、ずっと朝方まで絡み酒をしていたリオーネの顔が、改めてルキアンの頭に浮かんだ。
 ――いつまでもエレオノーアだなんて長ったらしい名前を連呼せずに、この子を《エリー》と呼んであげなよ、白馬の王子様! あははは。
 そう言ってルキアンの頬に空の酒瓶を押し付けたリオーネを横目で見ながら、エレオノーアは眠そうに目を擦り、アマリアは素知らぬ顔でグラスを傾けていたのだった。その時とほとんど変わらない表情のアマリアが隣を歩いているのを見て、ルキアンは我に帰った。
「旅立ちの朝に君とここで待ち合わせするのだと、固い約束を交わして、それなのに何故かエリーが来ない。いつまで経っても彼女は来なかった……。そんな悲しい別れに至ったふたりを、いったいどれだけの物語が伝えてきたことか。しかし、君が同じことを経験せずに済んだのは、他の誰でもない君自身のおかげだ」
 アマリアは、彼女の恐ろしいほどの威厳や仰々しい言動からは意外にも思えるような、ごく気軽な調子で、ルキアンの胸に拳を押し当てた。
「誇ってよいのだぞ、少年。君は《あれ》の《因果の糸》を断ち切り、繋ぎ直したのだから。たとえ本物を写し絵にした程度の思念体が相手であったにせよ、仮にもあの《いにしえの四頭竜》を追い詰めたのだ」
 ――よかったのぅ、闇の御子よ。我が主アマリアが人を褒めるのは珍しいのじゃ。この大魔女は、これでも案外に不器用なものでな。
 姿を見せないまま、フォリオムのしわがれた声だけがどこからともなく響いた。実際に声がしたのか、それともルキアンの脳裏に心の声が反響したのか、いずれともよく分からない。一言も二言も多い《地のパラディーヴァ》に、アマリアが即座に釘を刺す。
「余計なことを……。それより見よ、ルキアン・ディ・シーマー。噂をすれば、やって来たようだ」
 
 ◇
 
「おにぃ~さ〜ん!!」
 少しとぼけたような、エレオノーアの陽気な声が風に乗って届いて来る。
「待ってください、おにいさーん!」
 昨日出会ったばかりの頃に感じた、当初のエレオノーアの印象通りの――いや、あのときの《少年エレオン》と同じ屈託のない口調で、いま、彼女は大声を張り上げている。白いシャツの胸元に紺色のスカーフをリボンのように結び、これとお揃いの紺のチュニックを羽織って、短めのベージュのキュロットを履いたエレオノーアが元気いっぱいに駆けてくる。
 そんな彼女を見つめつつ、何故か不安そうな表情になるルキアンに向けて、ごく真面目な顔つきでアマリアが言った。
「安心しろ。万が一、ここで何が現れて二人を邪魔しようとも、そのときは私が全力で守ってやる」
 ――ま、そんなことは起こらないがの。この谷一帯、今は不穏な気配はまったく感じられない。魔物も、野盗も、一切な。昨晩あたりから谷に《化け物》が現れたような気配を、感じたからじゃろうか?
 フォリオムが呑気に付け加えた。今のは、アマリアなりの冗談だったのだろうか。
 
「お待たせしたのです、おにいさん」
 誰かに袖口を引っ張られる感じ。そうこうしている間に、エレオノーアがルキアンたちに追いついていた。
「一緒に、連れていってください」
 そう言って笑顔を一気に弾けさせ、首を可愛らしく傾けたエレオノーアに、ルキアンの方が思わず顔を赤らめている。
「どこまでもお供します、わたしのおにいさん!」
 濃紺のベレー帽を手に取って被り、隣に歩み寄ってきたエレオノーアに対し、ルキアンはぎこちなく硬直している。突然、彼の背中を軽く叩く者があった。
「うちの大事な《娘》を頼んだよ、ルキアン」
 いつの間にか追いついてきて、気配もなく背後にいたリオーネを見て、ルキアンは必要以上に驚いている。
「何をびっくりしているのかと思えば……。あたしだって、若い者にはまだまだ負けないさね。たとえ二日酔いでも」
 リオーネは被っていたフードを払いのけ、ルキアンの横を通り過ぎようとする。そのとき、彼女はルキアンの耳元で囁いた。彼にしか聞こえないような密かな声で。
「王都に着いたら、シェフィーアのことも気にかけてやってくれ。あの子の力は、これからの戦いに絶対に必要だ」
 ルキアンは、微妙な居心地の悪さを一瞬感じながらも、その直後には嬉しそうに頷くのだった。彼の真横、エレオノーアが不可解そうな目で見つめている。無言のひとときを気まずく感じたのか、ルキアンがぶっきらぼうに尋ねた。
「エ、エリー、今回は《エレオン》の格好をしないんだね」
「はい! いまの私を、おにいさんにぜひ見て欲しくて。あ、でも、もしかして、おにいさんは《僕》の方が良かったですか?」
 そう言ってエレオノーアが、男の子のように声を少し作ったので、ルキアンは慌てて首を振っている。リオーネとアマリアは顔を見合わせ、特にリオーネが意味ありげに笑っていた。無反応で静観するアマリア。
「一応、今日泊まる町に着く前には、念のためエレオンになっておきます。よろしくね、おにいさん!」
 悪戯っぽく片目を閉じたエレオノーアと、落ち着かない様子のルキアン。エレオノーアに促され、ルキアンが彼女と一緒に頭を下げて、旅立ちの挨拶を告げる。元気のよい声を最初に発したのは、勿論、エレオノーアの方だった。
「それでは、リオーネ先生、アマリアさん、行ってきます!!」
「あぁ、気を付けて行っておいで。待ってるよ。いや……そうだね、もし帰りたくなったら……いつでも戻って来ていいからね」
 エレオノーアと手をつないで、あるいは彼女に強引に手を取られて、ルキアンは並んで一礼している。微笑ましい彼らを前に、リオーネがアマリアに誘いの声を掛けた。
「さぁ、後は若い者たちに任せて、あたしらはそろそろ帰ろうか。それで、もう一杯くらい付き合ってくれるのかい、紅の魔女」
「私は構わないが……どうせ一杯では済まないのだろう?」
 次第に離れていくルキアンたちに手を振りながら、アマリアが苦笑している。そして、木々の中へと再び伸びている道を銀髪の少年少女が辿り、二人の姿が遠くの曲がり角に消えていったのを見届け、アマリアはリオーネに念を押した。
「アルフェリオンはそちらで預かってくれるということで、本当によいのだな、リオーネ? あれを私の館まで転移させて運んでいくのも、まったく構わないが。簡単なことだ」
「あぁ、任せておくれ。何しろ、あたしの子たちの大事なものだからね。責任を持って預かるさ。なぁに、引退してから何年か経った後、あたしのアルマ・ヴィオを《灰の旅団》の後輩に譲っちまってからさ、それ以来、うちの大きな《保管庫》が、がらんと空っぽで……何だか寂しかったんだよ」
 ほとんど表情を変えないまま、アマリアが微かに笑ったような気がした。
「では、頼む。いくらミルファーンとオーリウムが友好国同士であろうと、今のご時世、重武装した未確認の機体が空から越境するのは、さすがに不適切だ。それに、あなたからの書状があれば、二人が街道を通って国境を越えるのも容易であろう」
 すると今度はリオーネも笑った。しかし、アマリアとは違って大声で、大口を開けて。
「お堅いねぇ、魔女様は。それ以前に、考えてもごらん。若い彼らが王都まで二人っきりで旅する道中ってのも……あたしゃ、なかなか良いものだと思うよ。そうさねぇ、今日か明日の晩あたり、何が起こることやら……。それにしても、若いっていいもんだね。あんたにもそんな時代があっただろ?」
 呆れたという反応が《紅の魔女》から帰ってくるかとばかり、リオーネは予想していた。だが、そうではなかった。当のアマリアは黙って目を細め、何かを想い起そうとするような瞳で遠くを見つめた。空の向こうを、しばらくの間。そして思い出したかのように、淡々と答えた。
 
「まったく、まだ酔っているらしいな。こちらの気も知らずに……。いっそのこと、もうそんな戯言を吐けないよう、眠りこけるところまで徹底的に飲ませるしかなさそうだが」
 
【第59話 北方の王者 に続く】
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第58話(その4)最強の盾

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物語の前史プロローグ

 


4.最強の盾


 
「このような時、このような場であることに鑑み、包み隠さずに本心を申し上げると……ここ数日における、ガノリス連合軍に対するエスカリア帝国軍の圧勝は、我々の予測を完全に超えていました。今後の戦略の前提が一気に激変してしまったと、認めざるを得ません」
 数名での会合に適した小ぶりな円卓からはみ出るほどに広げられた地図を、厳しい目で睨みつつ、議会軍の情報将校マクスロウ・ジューラは吐露するのだった。彼の隣には腹心の部下エレイン・コーサイス、彼女の対面にはエクター・ギルドの飛空艦クレドールの副長クレヴィス・マックスビューラー、その隣でマクスロウと向き合うのは、今次のギルド遠征部隊の指揮官にしてクレドール艦長、カルダイン・バーシュという面々である。場所は勿論、クレドールの艦内だった。目立った装飾もない単調な色・形状のいわゆる《旧世界風》の様式である内装に、議会軍の二人も慣れてきたようだ。この会議室内も、例に漏れず《旧世界風》の簡素な造形に統一されている。
 彼らの目の前の地図には、等高線に類する技法は使われていないにせよ、絵図でもって地形や土地の高低も一定程度は把握可能なよう、細部に至るまで緻密な描写があり、さらに数値や記号の書き込みが隅々にまで施されている。羊皮紙を想起させる素材で作られた、強度や耐水性にも配慮した目の前の地図は、立ち入りが厳格に禁止されている要塞線《レンゲイルの壁》一帯の念入りな測量に基づいて作成されたものだ。
 淡々とした口調の裏に、意外にも時として迸りそうになる情熱を敢えて押さえつけているような、独特の風情のもとでマクスロウはさらに続けた。
「我々の方にも判断の甘さが無かったとは言えません。王国を長年脅かしてきた宿敵ガノリスの強さに過剰な期待をして、ガノリスがエスカリア帝国に対する壁となって時を稼いでくれると、あわよくば互いに潰し合ってくれると都合よく思い込んでいた面がなかったといえば嘘になります。しかし、それ以上に、帝国軍の力を読み誤っていました。浮遊城塞《エレオヴィンス》によって、瞬く間にガノリスの飛空艦隊の主力が壊滅させられ、続いてガノリス王都も一瞬で消滅させられるなどとは……。そして敵方ながら、まさに戦えば全戦全勝、アポロニア・ド・ランキア率いる《帝国先鋒隊》の鬼神のごとき進撃ぶりも」
 マクスロウが忌々しげに言葉を呑み込むと、それまで黙って頷いていたクレヴィスが、物静かな心地良い声で尋ねる。
「浮遊城塞《エレオヴィンス》がガノリス王都バンネスクに放った大火力の攻撃、ギルドの方でもまだ詳細は把握していないのですが、軍の方でつかんでいる情報があれば教えていただけませんか」
「とある筋のガノリス軍関係者からの情報によれば、《エレオヴィンス》の下部に搭載された対地用の超大型の《マギオ・スクロープ》(呪文砲)か、それに類似した兵器であると思われます。発射前の魔力制御の状況や後に残った魔力の痕跡からみて、極大の無属性魔法による砲撃である可能性が高いということです。私は魔法については十分な知識をもっておりませんので、それ以上のことは、今後、専門家の報告を受けるまで分かりませんが」
 マクスロウの口から《無属性魔法》という言葉が出た時点で、クレヴィスがツーポイントの眼鏡の下で瞳を光らせた。いつもの彼から感じられる飄々とした印象とは異なる、隠された知識を貪欲に求める魔道士の目だった。
「それほどの無属性魔法……おそらく《ステリア》の力ですね。《霊的対消滅反応》を利用した《旧世界》の失われた技術。これを火器に用いた場合は、そうですね、当時の断片的な資料から推測する限り、《大陸》ひとつを消し去るほどの、いや、《星の海》において《星(わくせい)》そのものを破壊するような攻撃さえ可能であったと思われます。ただ、《旧世界》の超魔法科学文明それ自体、この《ステリア》の力を使った戦争によって滅亡したといわれています。それは果たして人間が手にしてよい力であったのか……あるいは、救いようのない人間という種族を自滅させるために、神が敢えてお与えになった呪われた果実だったのか」
 《ステリア》の力について告げたクレヴィスが、《アルフェリオン・ノヴィーア》の姿、そして《空の巨人》や《紅蓮の闇の翼アルファ・アポリオン》に関する伝説を意識していたのは当然である。その一方で、ギルド随一の魔道士として知られるクレヴィスの話を聞き漏らすまいと、エレインが几帳面にメモを取っている。彼女の真摯な様子を横目で見て微笑を浮かべながら、マクスロウは言った。
「帝国軍の強さを支えるもの、つまりは《旧世界の遺産》というのは、我々の常識では計り知れない力をもっているということですね。これまで我々は、いかに並外れた性能であったとしても、《旧世界》の技術を用いた兵器をひとつやふたつ投入したところで、所詮は局地における一時的な勝敗に影響するのがせいぜいであり、単体で戦争の大局を直接左右することなどあり得ないのだと基本的に考えてきました。しかし現実には、戦い全体の行方すら変えてしまうような一手さえ、旧世界の兵器は可能にします。それに対して凡庸な機体を何十体、いや、何百体差し向けたところで、おそらく結果は変えられないのでしょう」
 マクスロウの言葉にクレヴィスは満足げに頷き、内心で彼を誉めている。
 ――戦術レベルではともかく、戦略レベルでの局面を単機が一変させることなど普通は有り得ないのだという、そんな思い込みにとらわれず、《旧世界》の兵器の恐ろしさをよく理解されているではありませんか。この点について適切な認識をもっていない相手とは、今回のような戦いで手を組むのは危険ですからね。さすがは、議会軍のドラード元帥の懐刀といわれる人物です。
 彼のそのような様子を承け、マクスロウは話を元に戻した。
「帝国軍の圧勝により、《レンゲイルの壁》攻略の作戦も大幅に変更しなければならなくなりました。本来であれば、《壁》に籠もる反乱軍の消耗と補給線の不安定化や寸断、さらには士気の低下を狙う長期の包囲戦で進めることが望ましい。しかしながら、帝国軍がガノリス領内からオーリウム国境へと迫っている現在、そのような選択肢は絶たれました。とはいえ現状のまま、あの《壁》を短期決戦によって攻略しようとしたところで、成功の見込みは極めて低いでしょう。万が一、勝利したとしても、攻め手の我々も壊滅的な損害を被っていると考えられます。そのときには、もはや帝国軍に立ち向かえる力は残っていません」
 一方で、整った知性的な横顔や怜悧な銀の長髪から想像されるような、いかにも高級貴族出身のエリート将校らしい雰囲気や、他方で、情報部門での彼の長年のキャリアから推測される慎重さや老獪さといった印象とは裏腹に、マクスロウは、ごく率直に語っている。ひょっとすると、彼のそのような態度自体が、ギルドの警戒心を解き信頼を深めるための演出かもしれないにせよ。
 対するギルド側のカルダイン艦長は、縮れた髪と濃い髭で覆われた、武骨だが内心の読めない面差しのもとで、マクスロウの言葉に悠然と耳を傾けていた。こちらはこちらで、海賊まがいの冒険商人から身を起こし、タロスの革命戦争の際に《ゼファイアの英雄》にまでのし上がった百戦錬磨の飛空艦乗りである。マクスロウの話が一息ついたところで、艦長はそれまでよりも目をやや大きく見開き、わずかな沈黙の後、冷淡にさえ聞こえる乾いた感じの声で言った。
「たしかに、今の御見解には十分な根拠がありますな。軍事力ではオーリウムを大きく上回るガノリス王国ですら、その度重なる侵攻の試みを、《軍神レンゲイル》の盾によってことごとく退けられてきたのだから。この50年近くの間……。世界屈指の要塞線《レンゲイルの壁》と、現在これを守備する王国きっての名将トラール・ディ・ギヨット、そしてガノリスとの戦いの経験により鍛え抜かれてきた《レンゲイル軍団》。これらの力は、《敵》として向き合った今、改めて痛感させられるものです。普通に攻めたところで、《最強の盾》を貫くことはできますまい」
「仰せの通りかと。それでも我々は、帝国軍の到達前に《レンゲイルの壁》を取り戻さなければいけません。そこでエクター・ギルドの力もぜひお借りしたいという次第です」
 ギルド側の協力について改めて念押しするマクスロウに対し、カルダインが重々しく頷いた後、彼に代わってクレヴィスが尋ねた。
「では早速ですが、今後の戦いに向け、確認したい点がひとつあります。お尋ねするまでもないことかもしれませんが、あくまで、念のためです。議会軍として、ガノリス側から《壁》を攻める作戦は考えていないとみて、よろしいですか? ガノリス軍が混乱している現状なら、幾分の工夫や遠回りが必要にせよガノリス領に越境し、そちらから《壁》を奇襲させることも不可能ではないですからね。もっとも、背後のガノリス国境の側は……いや、元々、ガノリスの侵攻に対して設けられた要塞線ですから、本来はそちらが《正面》だというべきでしょうか……そのガノリス側は《壁》の防御力も火力もいっそう強力で、なおかつ、川幅も水深も圧倒的である大河ヴェダンを堀同様に伴っています。それでもなお、この正面突破のための奇策がおありなら、と」
 マクスロウは即座に首を軽く振り、皮肉っぽく微笑んだ。
「あの《壁》を正面から攻略することを可能にするような、そんな妙手は残念ながら思いつきません」
 そう、クレヴィスが確認したのは、反乱軍がほぼ想定していないであろう、ガノリス側からの奇襲・計略の可能性を議会軍が有しているかどうかだったのだ。
「確かに。それはギルドとしても同様です。では、オーリウム国内側から攻めるしかないわけですが、《レンゲイルの壁》付近一体には手付かずの湿原が広がっています。これが厄介ですね。《壁》を落とすためには、陸戦型を中心とするアルマ・ヴィオが何個師団か必要でしょうし、それも、大火力を備えた重アルマ・ヴィオを集中的に投入しなければ、多数の要塞砲や重アルマ・ヴィオを擁する《壁》側の火力にたちまち押し負けてしまいます。けれども、あの沼地をアルマ・ヴィオで進むという選択も、原則的には有り得ません。たちまち沼地に沈んで機体を放棄することになるか、移動できずに四苦八苦しているところを《壁》から狙い撃ちにされるのがせいぜいです」
 クレヴィスの主張に、マクスロウもほぼ同感のようだ。ガノリス側からの攻め、そしてオーリウム側の《壁》周辺からの攻め、という二つの指し手は否定されたことになる。そのうえで、最後のひとつになりそうな選択肢をマクスロウは挙げ、地図上の大きな街道を指で辿った。
「湿原を避け、アルマ・ヴィオの大部隊が《壁》付近まで進軍できるという前提を満たすルートは、エルハインの都から《王の道》を経てガノリスに向かう街道のみです。しかし、それがぶつかる先は《ベレナの門》、すなわち《レンゲイルの壁》の正門と一体化した要塞都市ベレナの真正面……ガノリス側に向いた箇所の構えほどではありませんが、それでも、《壁》の防御力が最も高い箇所のひとつです。そこを攻めるとなれば……」
 ここにきて、さすがに言葉を濁すマクスロウに対し、クレヴィスは即座に告げた。
「無理がありますね、それも。いや、見通しの良い街道で、正面から不用意に行列で攻め寄せたりすれば、先日、議会軍が大打撃を被ったときのように、反乱軍側についた例の《黒いアルフェリオン》の《ステリアン・グローバー》で一掃されてしまいます。これも《旧世界》の兵器の脅威というところです。困りましたね」
 《黒いアルフェリオン》、それはルキアンの兄弟子ヴィエリオ・ベネティオールが操る《アルフェリオン・ドゥーオ》に他ならない。その存在もまた、この間に《壁》周辺の議会軍の動きが慎重になっている理由の一つである。とはいえ、何の考えもなしに、あらゆる攻め手の可能性をただ否定し尽くすことが、クレヴィスの狙いではないだろう。彼は意味ありげに目を細めた。
「いや、そういえば、いまの一連のおさらいの中で、どこかに見落としがありませんでしたか。これまで軍事大国ガノリスは、ありとあらゆる手を使って《壁》を落とそうとしましたが、確かに無駄でした。しかしそれは、あくまでガノリス側からの侵攻に限られていました。自国であるオーリウム側から《壁》が攻撃されることなど、一度もなかったわけです。そして《レンゲイルの壁》は、天然の要害である沼地に守られていますが、味方側の土地において、敢えて部隊の移動や物資の搬入の困難な場所を背にする必要などあったのでしょうか。むしろ、それまでの歴史的な経緯で、そこに要塞線を構築せざるを得なかったためではないでしょうか」
 何か奥の手があるのだろうかと、黙って話に聞き入るマクスロウとエレインに対し、クレヴィスはさらに告げる。
「要塞線が造られるよりも遥か昔、前新陽暦時代の頃から、オーリウムの民はガノリスの民との境界に簡単な土塁を築き始めていました。その土塁が後に城壁となり、おそらく何百年もかけて強化され、我々の時代に至って、それを基礎にして現在の要塞線となるに至ります。では、かつてのオーリウムの人々が壁を設けたとき、それは湿原の中にあったのでしょうか? いや、敵の進軍を阻む湿原がもし広がっていたのなら、その中にさらに防壁を設けるという困難な工事など、わざわざ行う必要もないでしょう」
 調査を事前に進めていたのか、それとも彼の博識ゆえなのか、いずれにせよ《壁》の起源にかかわる知識を、クレヴィスはすでにある程度有しているようだった。
「少なくとも、オーリウムもガノリスも《蛮族の地》としてレマリア帝国の支配下にあった時代には、レマリアがその版図全体に張り巡らせた《王の道》は、オーリウムとガノリスの境界など関係なく両者の地を貫いて伸びていたのです。ヴェダン川に橋を架けやすい、比較的浅い場所に面したところを、つまりは、今の《レンゲイルの壁》付近を通って。多くの旅人や馬車、それからアルマ・ヴィオも、そこを行き来していたのですよ。おそらく、その通行を遮るような湿原も、まだそれほど存在していませんでした」
「なるほど、もしや、我々が見落としていた点というのは……」
 かの智謀の魔道士の思惑に、マクスロウが気づいたようだ。彼はクレヴィスに対して頷き、エレインにも何か問いかけるような顔つきをしている。マクスロウの直感に浮かんだ答えに、クレヴィスの言葉も近づいていく。おそらく双方は同じ結論に達するのだろう。
「長きにわたって整備されてきた防壁を活かすため、そして何よりも、湿地帯が広がってしまった今の時代となっては、その中に壁を作れるしっかりとした地面の残された場所は、かねてより防壁が置かれていたところにしか見いだせなかったため、現在の位置に《レンゲイルの壁》があるのではないでしょうか」
 クレヴィスはそう言った。ちょうど同じ頃、ミトーニア神殿の文書館で《探し物》の最中であろうシャリオのことを、念頭に置きながら。
 
「しかし、《壁》の周囲がすべて湿地のように見えても、底なしの泥沼のように見えても、その下には、あるところにはあるのです。それは、かつての……」
 
【続く】
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第58話(その3)待つ者たち、受け継がれる想い

目次これまでのあらすじ | 登場人物 鏡海亭について
物語の前史プロローグ

 


3.待つ者たち、受け継がれる想い


 
「ちょっと、あんたたち……何を?」
 これこそ、緑濃いハルスの森に棲む妖精たちのしわざ、青白き月光の照らし出す薄闇のもと、いま目の前で唐突に起こっていることが、悪戯な幻術のせいではなくして一体何だというのだろうか。リオーネは思わず声を上げたまま、信じ難いものでも見るように動かなくなった。
「どうしちまったんだい? 急にそんなに泣き出したりして」
 彼女が目の当たりにしているのは、ふたり、抱き合いながらすすり泣く、ルキアンとエレオノーアの姿だった。
「おにいさん……おにいさん! もう、絶対に離さないでくださいね」
 エレオノーアは顔中を涙で濡らし、何度も何度も《おにいさん》と大声で叫んでいる。
「僕たち、帰って来られたんだ。良かった、良かった、エレオノーア」
 まるで長年生き別れになっていた想い人と再会したかのように、ルキアンの方も、涙の流れるままに、喉を引きつらせながらエレオノーアの名を繰り返す。エレオノーアは両手でルキアンを抱きしめ、彼に頬ずりしながら、途切れ途切れにつぶやいている。
「ほ、ほん、とうに、良かった、よかった、の、です……」
 たしかに、二人は還ってきて、生きている。戦い終わって、ルキアンの《無限闇》とアマリアの《地母神の宴の園》という二つの支配結界が解かれ、通常の時間と空間の中に御子たちは戻った。この奇跡をルキアンとエレオノーアが涙ながらに讃え合うのも無理はないだろう。何しろ相手は《始まりの四頭竜》の化身、たとえそれが本体とは比べ物にならない写し身にすぎないにせよ、これに力の一部を与えた《始まりの四頭竜》自体は、この世界が生まれた始原の時より今日に至るまで、《あれ》の代行者として生き続けている超越神にも等しい存在である。か弱く哀れな《人の子》の身でそれに挑戦した御子たちの勇気、いや、蛮勇とすら呼ばざるを得ない決意は、幸いにして劇的な勝利をもたらしたにせよ。
 しかしながら、御子の支配結界の中で繰り広げられていた戦いは、結界の外にいた者たちにとっては、あずかり知らない出来事だった。その間、結界内の時間の進行に比べて、リオーネやブレンネルにとっての時間はほぼ経過しておらず、停止していたも同然である。結界が解け、この世界内におけるルキアンたちの存在と時の歩みとが元通りになったとき、リオーネの目に映ったのは――つい先ほどまで初々しい様子で互いに微妙な距離感を測り合っていたルキアンとエレオノーアが、突然に抱擁し合い、互いの顔をすり寄せ、今にも口づけを始めかねない雰囲気になっているという突飛な状況だった。
「くぅ~っ。若いって、いいよな。熱情の暴走ってか」
 額に手を当て、苦笑しながらのけぞっているブレンネル。そんな彼を背にして、リオーネは心底不思議そうな面持ちで首を傾げている。
 ――あの奥手なルキアンが、一瞬でここまで積極的になるなんて、どういうことかしらね。エレオノーアの方も、熱に浮かされているような、いつもとはまったく別人とも思える雰囲気。本当に何が起こったんだい?
 そして当然、リオーネには、もうひとつ気になることがあった。
「エレオノーア、あんたの姿が……何と言ったらいいのかね、その、さっき、煙みたいに消えかかっていなかったかい? 私の見間違いかしら。でも、あんたたちも助けを求めて大騒ぎしていたはずだけど?」
 リオーネは、ただならぬ真剣さを帯びた眼差しでエレオノーアを見つめた。エレオノーアは反射的にルキアンの袖を握り締め、彼に身を寄せる。もはやエレオノーアは、師と仰ぎ母と慕っていたリオーネの言葉よりも、出会ったばかりのルキアンの方に自らを委ねているようにみえた。そんな彼女の振る舞いを前にしたリオーネは、何かを悟ったかのごとく、深い溜息をつかずにはいられなかった。
「そうかい。そうかと思えば、今の瞬間には、急に熱烈な愛を交わす二人のようになって。何なんだろうかね。まるで、しばらく時間が止まっていて、その間にあんたたちのところだけで、何か特別なことが起こっていたみたいじゃないか」
 リオーネはおそらく冗談で言ったのだろう。だが実際のところ、図星をさされたも同然のルキアンは気まずそうに俯き、夜風に揺れる銀の前髪の奥からリオーネを見た。
「そ、その……鋭い、ですね。それも戦士の勘、なのですか」
 しばらくリオーネは、両掌を上向きに持ち上げ、幾度も首を振り、何か言いたそうな顔をしていた。だが、そんな彼女の口からようやく出た言葉は、叱責や非難の響きを伴ってはいなかった。
「やれやれ、ルキアン。この責任、取ってくれるのかい。うちの大切な娘の心を完全に持っていっちまって」
 続いてリオーネはエレオノーアの方を見た。
「でも、思ったより早かったね、この時がやってくるのは。何となく分かっては、いたんだよ。エレオノーア。あんたが疲れ果てて、ぼろぼろの姿でここにたどり着いたときの様子も普通じゃなかったし、その後もあんたは、どこにでもいるような子ではなかった」
 立膝で草地に身を置き、べそをかいて手を取り合っているルキアンとエレオノーアに、リオーネは歩み寄る。彼女は背を屈め、妙に力の抜けた微笑を浮かべながら、エレオノーアに顔を近づけた。
「あんたの前に立ったとき、時々、感じるんだよ。こんなに信頼して、こんなに、いい子だって思っているのに。それでも……正直、言いようのない怖さが伝わってくるんだよ。そんな感じを、あたしは過去にも一度知ってる。あのシェフィーアと向き合ったときと同じ。普通の人間には決して届かない力を内に持っている奴、私はその域には及ぶはずもないけれど、それでも、その凄さくらいは直感で分かるんだよ」
 銀髪の少年少女の前にしゃがみ込んだリオーネは、まず右手でエレオノーアの頭を撫で、続いてルキアンの頭に左手を置いて言った。
「ルキアン、あんたもだよ。ねぇ、あんたたち……いったい、何を、どんなとてつもないものを背負っているんだい?」
 かといって、ルキアンたちが《御子》のことをリオーネに率直に明かしたところで、そんな荒唐無稽な話を彼女が直ちに信じるとは考え難い。
 ――それに、僕たちの戦いにリオーネさんを巻き込むわけにはいかない。たとえリオーネさんが凄い機装騎士だったといっても。
 つい今の今まで激闘を繰り広げていた宿敵、《始まりの四頭竜》の姿を、ルキアンは否応なく想起させられた。あれは、もはや人間の戦士が――彼ら《御使い》のいう《人の子》が――いくら立ち向かったところで、どうこうできる相手ではない。
 ――どうしよう。エレオノーアは、もう僕と一緒に行くといって絶対譲らないだろうし、僕の方だって……。
 困り果て、必死に思考をめぐらせているルキアン。変に迷っているその様子がリオーネにあらぬ誤解を与えないかと、心配になりながらも。適切な答えが出てこなかった。だが、そのとき。
 
「それについては、私から説明しても構わないだろうか」
 突然に、しかし聞き知った声が――しかも絶大な安心感をルキアンとエレオノーアにもたらす、あの人の声が、夜更けの谷に厳かに響いた。そのオーリウム語には幾分のタロス訛りがあった。深紅のケープが風になびく。外見的には30代後半くらいにも思われる背の高い女性が、何の気配も感じさせず、いつの間にかそこに立っている。
「何しろ、手塩にかけた大事な娘さんを、我らの友として預かることになるのだから」
 ルキアンは心から安堵の思いに包まれ、彼女の名を口にした。
「まさか、アマリアさん、アマリアさんなのですか!?」
「そうだ。今度は本物の私が来た。思念体ではない。君らの居場所さえ分かれば、タロスからだろうと世界のどこからだろうと、転移してくることなど造作もない」
 ルキアンは、今も掌に刻み込まれている《豊穣の便り》の刻印を改めて凝視した。
 その一方で、もしも見るべき者が見ていたなら、リオーネを包む気配が、あるいはオーラのようなものが、一瞬にして戦士のそれに変わったことが理解されたであろうが。いま、彼女は最大限に警戒しつつも、見た目の印象自体は極力穏やかに、中立的であるようにと努めている。そうしながらもリオーネは、目の前に現れた《魔女》が自身の剣の間合いに入っていることを確認してもいた。だが、仮に剣をふるったところでどうすることもできない相手と対峙していることは、リオーネの身体が本能的に感じている。
「あぁ、やだやだ。本当に、とんだ夜になったね。しかも今度はもっと化け物じみた奴の登場かい。ねぇ、あんた。一応、聞いとくけど、精霊でも魔族でもないみたいだが、人間……で間違いないかい?」
「無論だ。多少、他の者よりも《長生き》していることを除けば、私は《人の子》以外の何者でもない。名乗り遅れたことを詫びる。私は、アマリア・ラ・セレスティル。タロスの魔道士、いや、最近では占い師といった方がよいかもしれないが、どちらでもよかろう。人は《紅の魔女》と呼ぶ。エレオノーアとルキアンの友であり、力はあってもまだ若い彼らを支えることが、大人としての私の役割だと考えている」
「紅の、魔女……だって? 私も元は機装騎士、知ってるよ、どうりで……」
 アマリアの《通り名》を口にし、リオーネは顔色を変えた。青ざめたというよりも、むしろ諦観をありありと現して。
「そんな有名人で、なおかつ世捨て人だという評判のあんたが、何の用で私の娘を連れて行こうとする?」
 腹のうちを探ろうとする彼女の言葉に対し、アマリアは出し抜けに酒瓶を、おそらく葡萄酒の入ったそれを片手でゆっくりと持ち上げて、何らかの答えとするようだ。
「リオーネさんとおっしゃったか。これはさしあたり、私が特に大切にしている葡萄酒の一本だ。かつて友から譲り受け、長年、思い出とともに静かに眠らせてあった。これをあなたに差し上げよう。私の気持ちに偽りがないことを認めてもらえるか」
 ――アマリアさん? こんなときに、お酒とか、いったいどういう……。
 微妙な表情になったルキアンとは対照的に、リオーネは、この酒がアマリアにとってどれほどの重さを持つものであるのかを、彼女の様子から汲み取ったらしい。単なる酒好きの戯言ではない、もっと特別な思いがアマリアの振る舞いには込められているようだ。
「分かったよ。貴重な品なんだろ。あんたの目に嘘はないようだし」
「よかった。ちなみに理解しているだろうが、この手の長い年月を経たワインを開けるためには相応の準備が必要となる。だからエレオノーアの旅立ちを祝う一杯に間に合わないのは、残念なことだ。また念のため、馬で長旅をさせるのは古酒には堪えるだろうが、私はここまで魔法で瞬時に転移してきた。ゆえに何の問題もない」
 リオーネに促され、アマリアは、先ほどまでルキアンたちがささやかな夜宴を楽しんでいた即席の野外席の方に向かっていった。ルキアンとエレオノーアもアマリアに続き、一人だけ残されたブレンネルが慌てて追いかける。
 質素な木のテーブルの上に瓶を置く。燭台の灯りでは様子がよく分からないと考えたのか、リオーネがさらにランタンを近づけた。それでも夜の真っ暗な河原では酒の状態など十分には把握しようもなかろうが、中の液体の色からして赤ワイン、古びた瓶の様子からしてかなりの年月を経たものであるというのは、ルキアンにもうかがい知ることができた。
 紙面が劣化して剥がれ落ちそうな、いや、崩れ落ちそうなラベルに顔を近づけ、リオーネは、この酒が醸された年を読み上げた。 
「ほぅ、新陽暦265年……。革命前のタロスのワインは、そこそこ珍しくなってきたね。いや、革命前どころか、それよりずっと昔か。今から38年前といえば、私は現役真っ只中だったが、たぶん、あんたは生まれたか生まれてないか、そのくらいの頃だろうね」(※ちなみにタロス革命が勃発したのは新陽暦289年のことである)
 リオーネは、特に誰かに語り掛けるふうでもなく、ぽつりとそう言った。だが当然、その言葉はアマリアに向けられたものだろう。アマリアの方も明確に肯定も否定もせず、何気なしに月を見ている。そして涼し気な表情で語り始める。
「……このワインの産地は、かつての友の故郷だ。これに使われている葡萄は、天候や気候の変化にやや敏感すぎる傾向をもっていて、年毎の出来不出来の差も激しく、要するに商品用にはあまり向いていない。だが、ごく稀に、名醸地の一級品にも劣らない酒を生むことがある。あの265年はそういう年(ヴィンテージ)だった。通常の年の生まれなら、かの地の酒は40年近くの熟成など到底無事には超えられない」
 そんな彼女の心には、このワインをかつて友から託されたときの場面が、昨日のことのように明瞭に浮かび上がっていた。その時点でアマリアは、この世に生を受けていたどころか、遠い景色の中に立つ彼女の姿は今とほぼ変わらなかった。いや、一見する限り現在とまったく同じであり、本当に昨日の話のようにさえ思われる。ただ、そのことを知る者は、ここには誰もいなかった。
 
 ◆
 
「今年の葡萄の出来は特別なんだよ。何十年、いや、もしかすると百年に一度か二度、あるかないかの。ただ、その分、時はかけた方がいい」
 アマリアの回想の中で、少しだらけたような、お気楽な雰囲気の男の声が聞こえてきた。どことなく、ブレンネルの話し方に調子が似ているような気もする。
「俺はもう、見ての通りのくたびれたおじさんだ。このワインが本領を十分に発揮できるまで熟成された頃、たぶん俺は、この世にはいないだろう。そのときには、少しだけ俺のことを思い出してほしい」
 ぴかぴかの瓶に、真新しいコルク栓。新酒の入った瓶を大切そうに両手で支え、アマリアは無言で聞き入っている。
「すまない、共に歩めなくて、助けになれなくて。おそらく、お前は、これまでの御子の中でも飛びぬけた存在なのだと思う。しかし、仲間の俺らが……。お前と一緒に《御使い》たちに対して何か事を起こすには、あまりにも力が足りず、そもそも頭数も足りていない」
 老いが深まろうとしている年頃の男の、寂しそうな声が続いた。
「アマリア、いつの日か、お前にふさわしい御子たちが共に戦ってくれるときを期待して、この飛び切りの葡萄酒を託す。その時が来るまで、こいつは、お前とともに生きて、いい具合に歳を重ねてくれる」
 
 ◆
 
 ――それからも私は、凍った時の呪縛のもとで今日まで生き続けた。そして思ったよりも早く《永劫の円環》が打ち破られ、すべての御子が揃うこととなった。たとえ、どれほどの血と犠牲の上に、人間の所業とは思えない企ての果てに、この子らが生まれてきたのだとしても、私は……敢えてそれを受け入れる。罪を背負う。だが、自らの生を選べなかったこの子らに罪はない。私は二人の闇の御子を守り、共に戦う。それが私に託された使命。
 
 改めて自らの決意を確認した後、アマリアは表情をいくらか和らげ、目も細めつつ、葡萄酒の瓶をリオーネに丁重に差し出した。
「この素晴らしいワインは、私に寄り添って、時が来るのを一緒にずっと待ってくれた。だがもう待つ必要はない。これの方もそろそろ、魔女のお守役などという厄介な仕事からは降りたがっているようだ」
「そんな大事な葡萄酒を……いや、むしろ大事なのは、酒以上に、あんたにこれをくれた友人の方か。どっちにせよ、そういった《物語》に彩られているということは、その酒を本来以上に美味しく感じさせるものさね。まぁ、このワインを周到に開ける頃には、大切な娘はとっくにケンゲリックハヴンあたりに行ってしまっているか、あるいはもっと遠いどこかへ。だったらいっそのこと、娘が再び帰ってきて祝杯をあげるまで、この酒をいましばらく二度寝させておくのも悪くはない。そうやって、今度は私と一緒に待つのさ。この自然豊かなハルスの谷は、葡萄酒が静かに時を重ねるところとしては、さぞ快適だろうよ」
 冗談めかしてそう告げた後、橙色の灯火を反射するかのように、リオーネの目が鋭い光を帯びた。
「それはそれとして、うちの箱入り娘の旅立ちのわけを、聞かせてもらおうかね。さぁ、教えてくれるかい」
 
【続く】
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第58話(その2)湿原に消えた「王の道」

目次これまでのあらすじ | 登場人物 鏡海亭について
物語の前史プロローグ

 


2.湿原に消えた「王の道」


 
 エクター・ギルドとナッソス公爵軍との戦いに決着がつき、ミトーニア市にも一応の平穏が帰ってきた。この間、ギルドのアルマ・ヴィオ部隊による包囲を耐え抜いた、他都市よりも格段に大規模な市壁の中には、レマリア帝国時代以来の精巧な石造りの建造物が立ち並ぶ。この千古の商都ミトーニアの中心部に位置し、市内を縦横に伸びる大路小路が交錯する広場、すなわち同市や周辺地域からの特産品・日用品を扱う「市場(マルクト)」としても賑わっている石畳の四角い「中央広場」に面し、市庁舎とともにミトーニア神殿が建つ。
 古くは《前新陽暦時代》、レマリア帝国の治世の頃から《麗しのミソネイア》として名高い、富裕な商業都市ミトーニアには、しばしば王都以上にあらゆる物が揃っており、国内外から商機を求めて様々な人間も集まってくる。そのため、街の人々は大抵の珍しいことには慣れっこである。だが、そんなミトーニア市民たちも、いま広場で起こっている一件に対しては、歩みを止めて何事かと見入っていた。誇り高き自治都市として、しかも政治的立場や民族の違いなどを超えた自由な商取引の場を守るため、議会軍や国王軍も含めて一定以上の重武装をした者の進入を原則禁止としてきたミトーニアだったが、先日の武装解除・開城後、反乱軍やナッソス軍残党からの反撃に備えてギルドのアルマ・ヴィオが市内に出入りするようになり、今もこうして目の前に陸戦型アルマ・ヴィオ、こともあろうに派手なピンク色の《リュコス》が乗り付けてきているのであった。
 
「悪目立ち、してしまいましたか。秘密の任務ではあるのですけれど……」
 リュコスから降りたシャリオは、周囲の市民たちの反応を気にしながら目を配る。ただ、大神官という立場柄、多数の人前に身を置くことには慣れているため、外見的には彼女は平然とした様子であった。
「神官が神殿に来なくて、いったい誰が来るっていうんですか。おかしくもなんともないっすよ、シャリオ様!」
 彼女の隣でささやくのは、ショッキングピンクの長髪のセレスタである。その鮮烈な姿は、周囲の視線の多くを否が応にも集めている。
「まぁ、確かにそうですわね。今の状況なら、ギルドのエクターが警護をしてきたというのも、あり得る話ですし。ただ、それにしても、あなたの……」
 シャリオは、セレスタの頭頂から足先まで改めて眺め、溜息をついている。例の髪はもちろん、頭に引っ掛けた大きなゴーグルは、この《現世界》では珍しい《旧世界》風のアイテムであり、《ジャンク・ハンター》関係者以外の普通の市民が目にしたら、その見慣れぬ様子に思わず首を傾げるだろう。さらにセレスタは、敢えて胸が強調されるような、わざと窮屈なサイズのシャツを着ているかと思えば、これまた《旧世界風》の見慣れないショートパンツを履いて、まだ寒気も残る春の風に素脚を晒している。
 イリュシオーネの女性のファッションとして、丈の長短にかかわらずズボン・パンツの類は基本的に選択肢にはなく(日常の衣装としてではなく、軍人やエクターの女性が仕事上の都合から履くことはあるにしても)、男性の場合も、短いブリーチズなどを履く際、タイツを身につけるのが普通であるから、いずれにしてもセレスタのようにショートパンツに素の脚で歩き回る者は、滅多に居ない。そんな独特の衣装の上に、ポケットの多い軍用のような革コートを羽織ったセレスタの姿は、エクターやハンターなどのいわゆる《冒険者》が好みそうなスタイルである。とにかく、周囲の都市市民たちの出で立ちと対比すると、二重にも三重にも浮いた格好だ。
「私がたくさん目立つ分、シャリオ様が目立たなくなるから、これもなんというか、作戦っすよ!」
 そう言いつつ、セレスタは遠巻きに眺める人々に手を振って、愛嬌を振りまいている。いささかアピール過剰ではあれ、溌溂として健康的な彼女の魅力に、街の人々はまんざら嫌でもなさそうだった。そんな彼女の様子を見ているうちに、何となく気恥しくなって歩みを速めたシャリオ。セレスタが小走りで後から着いていく。
 その先、優美な尖塔を備えた白い石造りのミトーニア神殿が、二人の前にそびえ立つ。入口のところで三人の神官が待っており、真ん中にいた白髪頭の神官が、シャリオの姿を認めると恭しく一礼して近づいてくる。
「これはこれは、ディ・メルクール大神官。このように大変な折に当神殿にお越しいただきまして、ありがとうございます」
 温和な微笑みとともに挨拶をしたのは、ミトーニア神殿の主任神官、リュッツだった。先日、同市が戦火を免れるよう尽くした彼の功績を、シャリオがルキアンから聞くことは残念ながらもはや無かったが。
「こちらこそ、急なお願いでお騒がせして申し訳ありません。あなたが、ベルナール・リュッツ殿ですね。わたくしは、いまは俗世にまみれた気楽な立場ゆえ、巷の流儀のようにシャリオとお呼びください」
「では失礼申し上げて、シャリオ様。さっそく中にご案内いたしましょう。それから、従者の、エクターの方……でしょうか?」
 怪訝そうに、あるいは若干迷惑そうな眼差しで見た主任神官に対し、セレスタは頭をかきながら、大口を開けて笑っている。子供のように無邪気な笑顔を見せていたかと思うと、彼女は広場の群衆に背を向け、不意に真顔に変わり、声を抑えてリュッツに告げる。
「初めまして、神官様。エクター・ギルド本部の命により派遣されたセレスタ・エクライルっす。私のことは、シャリオ様を守る剣が一本置いてあるだけだと思って、気にしないでください。で、先に言っておくっすよ。神殿でのこれからのこと、私は何も見なかったし、何も聞かなかったっすから」
 一見すると脳天気そうな風貌にもかかわらず、極秘任務を帯びた《運び屋》としてそれなりの振る舞いを取るセレスタに対し、リュッツも幾分は安心したのか、わずかに表情を緩めるのだった。
 
 ◇
 
「いやぁ〜、これはまた、《地下迷宮(ダンジョン)》みたいで面白いっすね。もしかして、以前は本当に地下墓地とか秘密の地下道だったとか?」
 ランプを手に案内するリュッツと最後に着いてくるシャリオとの間に立ちながら、セレスタは周囲を忙しそうに見回している。神殿図書館の奥にある文書館、そのまた地下に降りた区画を三人は歩いていた。ここには、レマリア時代からミトーニアに伝わる文書や絵図が保管されている。
「かつての《地下墓地(カタコンベ)》は別なところにありますが、実際、ここも含めて、中央広場一帯に広がる地下施設の多くは秘密の場所だったのですよ、レマリアの時代にはね」
 さしたる感慨も伴わず、リュッツは周囲の壁や天井を曖昧に指し示した。
「レマリアの皇帝の中には、宗教一般を弾圧した暴君もいました。この地のミソア教……ミソネイアという街の名前の起源でもあるミソア神への信仰も……激しい迫害を受けました。さらにもう一度、今の《神殿》の教えが国教になった後、異教とされたミソア教が迫害の対象となったこともあります。そういったとき、ミソア神を信仰する人々は、地下に隠れて礼拝を続けました。現在、この神殿や隣の市庁舎はレマリア時代の遺跡の跡に建てられていますが、その遺跡の地下には、こうしてミソア教徒の隠し通路があったのです」
「そんな場所に、レマリア時代の文書が保管されているのですか。何と申しましょうか、皮肉なものですわね」
 シャリオはそう言って、続きの言葉は心の中でつぶやいた。
 ――そういう曰く付きの地下書庫に、ですか。レマリアの文書が《貴重》だからここに秘蔵されているというよりも、むしろ《秘密》にしておきたいからここに隠されているようにも思えてきますね。もっとも、それは当然のことでしょうか。《旧世界》はもちろん、《前新陽暦時代》のレマリアのことも含め、《新陽暦》の時代が始まるよりも以前の歴史は民に知らしめるべきではない、という《神殿》の基本姿勢を考えれば。
 ただ、リュッツがどのような思想の持ち主かまだ分からない以上、シャリオはそんな思いを安易に口に出すことはしなかった。下手に《旧世界》や《前新陽暦時代》に関する私見を明らかにすると、融通の効かない堅物の神官が相手だった場合、異端の疑いを持たれることさえあるのだから。何くわぬ顔で最後尾を歩いていくシャリオ。
「レマリア帝政期後半頃の地図、できれば現在の中央平原からガノリスとの国境付近の街道が詳しく記載されているもの、でしたな。あるとしたら、恐らくは……このあたりです」
 リュッツがランプを掲げ、左右に連なる書類棚の一角に灯りを向けた。
「では早速、拝見してよろしいでしょうか」
 そう尋ねつつ、すでにシャリオはレマリアの貴重な史料を閲覧する気満々で、作業用の白い布手袋に指を通し始めている。
「えぇ。御存分に、シャリオ様。いや、ところで、その……エクターの方」
 遅れて返事をしたリュッツは、棚の間を行ったり来たりしているセレスタの振る舞いが気になるようだ。部外者が無造作に文書を手に取ったがために、それが収められるべき所定の位置が分からなくなったり、文書同士の重ねられている順番が無自覚に入れ替えられたりすると、史料の管理上、後で面倒なことになる場合もある。何より、細かいことには適当そうなセレスタは、古びた文書にたちまち折り目をつけてしまったり、破いてしまったりしかねない印象だ。
 だが、セレスタ自身には躊躇する様子がない。彼女はわざとらしく微笑んで、リュッツにささやくのだった。
「あは? 私っすか? 心配ご無用、神官様。私、今は《運び屋》稼業ばかりやってますけど、元々は、ハンター・ギルド所属のれっきとした《ジャンク・ハンター》なんで。つまり旧世界やレマリアのお宝を扱うのも私の商売っす。心得てますよ」 
 いつの間にか、セレスタはシャリオと同じような手袋を自前で用意しており、旧世界の古典語に似たレマリアの言語で書かれた文書を、しかも判読し難い癖のある手書きで記されているそれを、普通に読んでいる――ように見える。
「あなた、セレスタさん……レマリアの言葉が読めるのですか?」
 意表を突かれたような面持ちで、シャリオがセレスタの様子に注目した。
「多少。でも、大方は我流っすよ。だからシャリオ様のような専門的な理解は無理だけど、書いてある文面をそのまま読む程度なら……。ま、ハンターは学者じゃないんで、私の仕事にはそんな感じで大体差し支えないかな。それで、街道図、街道図……。これは違うっすね。こっちは、《王の道》の周辺の?」
 ――ベルセアさんが褒めるのも分かる気がします。今日の調査にも思わぬ助力になってくれそうです。わたくし、彼女を見た目だけで判断してしまっていたようですね。まだまだ修行が足りませんわ。
 てきぱきと文書を閲覧していくセレスタに、シャリオは目を閉じ、おもむろに首を振って笑った。 
「《王の道》というのは、今では王国中部から王都エルハインにつながる幹線の街道ですから、そこでいう《王》とは、オーリウム国王のことを意味すると誤解されがちです。しかし実際には、エルハインの街が開けるよりも遥か前、レマリアの時代から《王の道》は使われています。つまり《王》というのは本来はレマリア皇帝のことです。《皇帝の道》というわけですね」
 シャリオはセレスタの隣に寄り添うと、彼女の手にしている古地図を指して語り続ける。
「それで、レマリアの《王の道》は、現在のガノリス王国からヴェダン川を渡ってオーリウム王国に至り、当時はまだ小さな町に過ぎなかったエルハインの近くを通ってさらに北に抜けます。かつては、ガノリスもオーリウムもレマリアの一部に過ぎませんでしたから、両者の間に国境は無かったのです。いずれもレマリア人の支配下にあった、彼らのいう《蛮族》のガノル族の住むガノリスの地と、同じくオレアム族の住むオーリウムの地と、どちらも帝国の辺境でした」
 話に熱の入ってきたシャリオが、無意識にセレスタに体を寄せてくるので、彼女は書棚とシャリオの間に挟まって窮屈そうだ。苦笑いしているセレスタのことなどほとんど顧みず、なおもシャリオは語り続けた。
「ちなみに現在の王都《エルハイン》の語源は、古オーリウム語、つまりはオレアム族の《エルター・ハイム》という言葉だといいます。オレアムの言葉に即していえば、それは《時を経た家》という意味なのだそうです。歴代の族長の館が置かれた場所、と申しましょうか。そしてレマリア帝国の滅亡後、ガノリスとオーリウムは別々の王国として独立し、ガノリスの度重なる侵攻を防ぐためにオーリウムは国境のヴェダン川沿いに防塁を築きました。それが《軍神レンゲイル》の壁の起源。この《壁》は、歴史の経過とともに次第に増強され、遂には要塞線となって、両国を結んでいたかつての《王の道》は完全に分断されました。《王の道》のうち、《壁》の近辺を通っていた部分はいつしか湿地に覆われ、人々の記憶から忘れ去られていきました」
 シャリオが小難しい話をさらに続けようとしていたとき、セレスタはお手上げだという様子を身振りで表現し、呑気な声で告げた。
「へぇ〜。よく分かんないっすけど、ちなみに《レンゲイルの壁》って、どんなところにあるか知ってるっすか? あのグチョグチョでドロドロな湿地帯に囲まれてるんすよ。あんなところに、ずっと昔はレマリアの大きな街道が通っていて、ガノリスまで行けた……。なんか、急には信じられないかも」
「えぇ、信じられないかもしれません。それでも、レマリアの時代、戦時には多数のアルマ・ヴィオが行軍できるような、それほどの規模で整備された《王の道》があそこにあったのです。今はもう沼地に埋もれてしまっていますが……。おそらく、《レンゲイルの壁》を取り囲む現在の湿原は、レマリア滅亡後に、大河ヴェダン川の度重なる氾濫によって出来上がったものかと思います」
 セレスタは、意味ありげに頷きながら、シャリオの話を聞いている。そして答えた。
「で、沼地に埋もれたその昔の街道を調べろと、そういう任務なわけっすね。《レンゲイルの壁》攻略に必要な作戦だと思うんすけど、これ、クレヴィスさんあたりの発案っすか。それとも、こういうこと詳しい人といえば、ひょっとして、ルティーニさんとか?」
「え、えぇ。クレドールの内情も、よくご存じなのですね。たしかに、まぁ……大筋では、そういう、ことです」
 細かい点については言葉を濁したシャリオだったが、ここで彼女たちがレマリア時代の古地図から得た情報が、後々、《レンゲイルの壁》をめぐる攻防において重要な役割を果たすことになる。
 
【続く】
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第58話(その1)ふたつのはじまり

目次これまでのあらすじ | 登場人物 鏡海亭について
物語の前史プロローグ

 


歴代の皇帝の治世が続くうち、レマリアの社会は爛熟し、
やがては熟し過ぎた果実が腐ってゆくのと同様、人心は荒廃していった。
レマリアの民は旧世界人の過ちを忘れ、
異民族を支配しながら怠惰と悦楽に浸り続けた。
このミトーニア、当時の言葉でいえばミソネイアに住むレマリア人たちも、
安逸な日々の中で退屈しのぎの娯楽ばかりを求めていたらしい。
そしてレマリア帝国も崩壊し、前新陽暦の時代も終わった。
ここに残る苔むした瓦礫の山から、ミトーニアの人々は何を学んだのか。
そう、何を。
 
シェフィーア・リルガ・デン・フレデリキア
(ミルファーン王国「灰の旅団」機装騎士)
 

1.ふたつのはじまり


 
「こうしていると、思った以上に体が冷えていきますね。まだ冬を忘れられないラプルス山脈からの凍てついた風が、遮るものの無い中央平原を吹き抜け……」
 その声すらも強風にかき消されそうになりながら、大揺れに揺れる白いフードごと、頭を手で押さえつつ、それでもシャリオ・ディ・メルクールは目を細めて穏やかに笑った。
「あらあら……」
「悪ぃ、シャリオ先生。もうしばらく中で待ってた方がよかったな」
 隣に立っていたベルセアが壁役のように前に歩み出て、彼女に戻るよう促す。議会軍の占領下に入ったナッソス城を遠巻きにして、荒野の只中に白き翼と船体を休ませる飛空艦クレドール。その艦底付近に開いた乗降口にて、先ほどから二人はタラップの前で誰かを待っている。
「ありがとう、ベルセアさん。でも大丈夫です。予定の時刻はもうすぐですし、その方、時間には正確な人なのでしょう?」
 彼女のまとった、白地に青の文様と金の縁取りの神官服は、そのゆったりとした形状や、通常よりもひらひらと長い、敢えていえば金魚の鰭のような袖や裾のために、この地方名物の強風に好き勝手に弄ばれている。フードを両手で押さえれば袖を巻き上げられ、思わず手を離せばフードは引きちぎられそうな勢いで頭から脱げ、一気に弾けるように黒髪が広がり、飛び去る速さで後方へと引っ張られた。
「嫌ですわ。困ります……」
 今度は衣の裾を膝上まで煽られ、シャリオは慌てて前を押さえる。
「お戯れが過ぎますこと、西風の神は」
 苦笑いしながら彼女の言葉に頷くと、ベルセアは、風に乱れ輝く金色の長髪を指でかき上げた。そして申し訳なさそうに告げる。
「本当は、俺かメイがミトーニアまで乗せていければよかったんだが、俺らは、もうすぐ作戦の打ち合わせがあって。ルキアンは《家出》中、バーンはアルマ・ヴィオにまだ乗れる状態じゃないし、汎用型の機体もう1体とエクターもう1人、どこかから回してくれないかな。ルティーニが何とか手配してくれるといいんだけど」
 彼は、吹きすさぶ風の中でもはっきりと聞こえそうな、深い溜息をついた。
「誰か至急に先生をミトーニアまで送って、なおかつ今回は極秘任務だから、口が堅くて信用のおけるヤツで、こんな混乱した状況、万一の時には用心棒にもなるヤツ。そんな便利な、都合のいい人間って……。いや、いるには、いるんだけど。で、実際、頼んだわけだが、アイツに」
 もはや会話というより、愚痴か独り言かよく分からなくなってきたベルセア。そんな彼の目が、不意に平原の彼方を鋭く見つめた。陸戦型のアルマ・ヴィオ乗りに相応しい、地平の向こうまで見通しそうなベルセアに対して、どちらかといえば目の良くないシャリオには、最初は何が起こったのか把握できなかった。
 周囲の強風をも抜き去らんばかりの勢いで、何かがクレドールに急接近してくる。はじめは小さな赤い点のようにしか見えなかったが、次第に大きくなり、じきにそれは視界の中で獣の影となり、たちまち、犬のような、いや、もっと猛々しく精悍な狼の姿を取った。オーリウム王国はもちろん、イリュシオーネ各国で正規軍から民間のエクター、果ては野盗に至るまで幅広く使われている陸戦型アルマ・ヴィオ、その名称程度であれば神官のシャリオでも知っている。
「《リュコス》……ピンクの……個性的な色ですね。では、あれが例の人の?」
 そう言ってシャリオが眺めている間にも、その機体は、瞬間移動かと唸りたくなるほど直線距離を一気に詰めたかと思えば、まるで弧を描いて雪の上を滑るように、土煙を舞い上げながら急カーブを切り、なおも高速でクレドールに向かってくる。
「そう、色は派手だけど、あれで動きは相当なものだろ? ピンク・赤・白のリュコス。あれに乗っているのが《弾速の運び屋》こと、セレスタ・エクライル」
「セレスタ、さん? 女性のエクターなのですね」
「そうだよ。俺の妹分みたいな、いや、家族、かな。俺が孤児で神殿の施設の出身だって、先生は知ってるだろ。そこの施設で、ガキの頃からずっと一緒だった。だからあいつのことは、良いところも悪いところも何でも知ってる。その上で俺が言うんだから」
 ベルセアは目を閉じ、おもむろに頷いた。
「あいつは絶対裏切らない。信用できると」
「素敵ですね。でも、よく分かりますわ。わたくしにも、その、妹分と申しましょうか、神殿で修行中の頃、姉妹のように共に過ごした子がいましたから」
 そう言ってシャリオは、遠く北の方角を、王都エルハインに続く空に目をやった。いま都に漂う暗雲を意識しながら。
 ――ルヴィーナ、元気にしているかしら。最近の王宮をめぐっては、良くない噂を色々と耳にします。
 エルハインの王宮でレミア王女の教育係をしている元神官、ルヴィーナ・ディ・ラッソのことを彼女は思い起こすのだった。
 二人の間で多少の雑談が交わされている間にも、鮮烈な桃色の鋼の狼は、すでにクレドールの前に到着していた。この戦時にアルマ・ヴィオが全速で接近してきてもクレドールの側からは特に警戒するような行動が見られなかったのは、たとえば付近一帯を監視している《鏡手》のヴェンデイルは勿論、艦のクルーたちが、この機体と乗り手のことをよく知っているからなのだろう。
 リュコスが地面に腹ばいに身を伏せると、続いて背中のハッチが開き、中から飛び降りるように、身軽に女性のエクターが降りてくる。愛機と同じピンク色に染めた髪は、頭の左右でそれぞれ1本ずつに結ばれている。そのおかげで、風に吹き散らかされるようなことはあまり無かった。代わりに茶色い革のコートを緩やかにそよがせながら、彼女はタラップを上がってくる。
旧世界の遺品であろうか、何か得体の知れない装置を思わせる大きなゴーグルを被っていた彼女が、それを額にずり上げた。
「ちゃら~っす! ベルセア兄貴、おひさっすね」
 少し低めの、いくぶん枯れた声で、気の抜けるような調子で彼女は挨拶する。
 ベルセアは慣れた様子で気にも留めず、手を振っている。シャリオは呆気にとられたような顔つきで、ベルセアを真似てひとまず手を振ってみた。
 ――か、軽い……ですわね。この人が、そんなに凄腕の運び屋さん?
「お手紙1通から飛空艇まで、ご家族へのプレゼントからマル秘の機密文書まで、何でも運びます。確実・迅速。安心のエクター・ギルドとハンター・ギルドの正会員、怪しい者ではございません」
 ピンク髪の女は、そう言いながらシャリオたちの前を横切った。そして続ける。
「ノリは軽いが、口は堅い。お客様の秘密は絶対に守ります。しかもお安くなってます」
 最後に彼女は、シャリオに向かって仰々しくお辞儀をした。
「今後ともごひいきに。私は運び屋のセレスタっす。あなたがシャリオ様っすね?」
「は、はい……その、わたくしです。神官をしておりますが、今はクレドールの船医、シャリオ・ディ・メルクールです。よろしくお願いします」
 何やら調子が狂う感じで、シャリオはセレスタに手を差し伸べ、握手をした。セレスタの方は特に気にするでもなく、お仕事用の笑みを浮かべている。
「よろしくっす。この局面、しかもギルド本部からの特命なので、重大な任務だということは分かるっすよ。シャリオ様、ミト―ニア神殿への往復と現地での護衛、すべて私にお任せを」
 そう言われても、まだどことなく不安そうなシャリオに向けて、ベルセアが大丈夫だというふうに何度も頷く。
「シャリオ先生。こう見えてセレスタは頼りになるよ。何でも相談すればいい。こいつは、物分かりは結構いいし、細かいことは気にしないから、気楽に側に置いて問題ない」
「は、はい……。頼もしい、ことですわ」
 そしてセレスタに先導されてタラップを降りてゆくシャリオの姿を、彼女が心配そうに度々振り返る様子を、ベルセアは引きつった笑顔で見送るのだった。
 
 ◇
 
 シャリオがミトーニアに向かってから1時間ほど後、クレドールに新たな訪問者があった。艦内の薄暗い廊下に、背の高い男性の影がひとつ、それに比べると小柄な女性の影がひとつ、いずれも固い靴音を響かせて、こちらに近づいてくるのが見える。
「これがギルドの飛空艦……。中の雰囲気というのか、基本的な内装の感じが、私の知っている軍のいずれの船とも違いますね」
 おそらく三十代くらいの女性であろう。彼女は声を抑えて告げる。それでも、艦内の静粛な空間に、落ち着いた低めの声は思った以上に伝わっていく。
 たとえ儀式魔術によって生成された人工物ではあれ、飛空艦というのは、アルマ・ヴィオと同じく《生体》であり、外部の装甲をのぞけば大方は有機物の塊だ。アルマ・ヴィオが主として旧世界の《星の民・イルファー》の魔術の産物であるのに対し、たしかに飛空艦が、イルファーの魔術と《人類(フーモ)》の科学との融合によるものではあれ。それでもやはり、飛空艦の《体内》は、旧世界の時代にフーモが使っていた艦船の内部に比べると、格段に静かだった。動力機関の振動や機械の作動音のようなものは、ほとんど感じられない。
 議会軍の制服、それも佐官であると分かる衣装をまとった女性は、一見、淡々と進みながらも、見慣れない内装の数々に興味深げに視線を走らせていた。ごく緩やかに波打った焦げ茶色の髪、体形も背丈も平凡ではあれ、真面目で清潔感があり、一定の信頼を置けそうな人物に思われた。
 その隣を歩くのは、肩まで届く銀髪が印象的な四十代くらいの騎士、いや、昔日の騎士の風格を漂わせた軍人、制服の見た目からしてかなり上級の将校のようである。
「私もギルドの飛空艦に立ち入るのは初めてだが、おそらく旧世界の船体を修理、改造して用いているのだろう。現世界の技術と設計思想に基づいて造られた議会軍の艦とは、たしかに勝手が違う」
 いわゆる《旧世界風》の様式にあふれた周囲を――たとえば何の装飾もない簡素な壁面や、その上を剥き出しで走る大小様々な管、所々に明かりが見える他にはただ真っ白で平らなだけの天井を――眺めながら、彼は答える。
 もし、これが現世界の飛空艦、特に外見的な華美さにこだわる国王軍のそれであれば、艦内の壁は単色ではなく白地に黄金色の厚塗りによる装飾、あるいは絢爛な壁紙、手の込んだ化粧漆喰の意匠などで溢れかえっていることだろう。
「エレイン。旧世界由来の船、戦力も相当なものと思われる。この艦を含め、たった3隻のギルド側が、中小国の軍事力にも匹敵するナッソス公の艦隊を正面から打ち破ったのだから」
 エレインと呼ばれた副官は、複雑な面持ちで彼の方を見上げた。
「たしかに。船の性能もさることながら、人の面からみてもギルドの力は恐るべきです。艦長のカルダイン・バーシュは、かつての革命戦争の際に、空の《海賊》……いや、失礼、《私掠船》仕込みの奇襲戦法でタロス共和国の大艦隊を翻弄し、恐れられた男ですが、彼にとってはナッソスとの戦いなど、奇襲を使う必要さえなかったということですね」
 彼らが艦内の格納庫から階段を上がり、そこから今の廊下を経て少し進んだ先、薄明りのもと、前方で恭しく一礼する人影が見えた。
「お待ちしておりました。マクスロウ・ジューラ少将」
 サンゴ色の鮮やかなヴェストの上に茶色の長いクロークを羽織った声の主は、小さめだが分厚いツーポイントの眼鏡の奥で笑みを浮かべる。
 ――魔道士? そうすると、彼が……。
 銀髪の男は歩みを速め、クロークの男の手を取った。
「貴殿が、クレヴィス・マックスビューラー副長ですね。お会いできて光栄です」
「私も、お噂はかねがね、承っておりました。議会軍少佐、エレイン・コーサイスです」
 今回のナッソス家討伐戦にあたってギルドの支援を取り付けた立役者である、議会軍の情報将校マクスロウ・ジューラと、その補佐にあたるエレイン・コーサイスは、次なる作戦に向け、ギルドの遠征部隊の総指揮を取るカルダイン艦長と非公式の会談に訪れたのであった。
 
【続く】
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