鏡海亭 Kagami-Tei  ネット小説黎明期から続く、生きた化石?

孤独と絆、感傷と熱き血の幻想小説 A L P H E L I O N(アルフェリオン)

・画像生成AIのHolara、DALL-E3と合作しています。

・第58話「千古の商都とレマリアの道」(その5・完)更新! 2024/06/24

 

拓きたい未来を夢見ているのなら、ここで想いの力を見せてみよ、

ルキアン、いまだ咲かぬ銀のいばら!

小説目次 最新(第58)話 あらすじ 登場人物 15分で分かるアルフェリオン

『アルフェリオン』まとめ読み!―第56話・前編


目次これまでのあらすじ | 登場人物 鏡海亭について
物語の前史プロローグ


もしも君がいなくなれば、
後で必ず彼らが悲しむ。

そして君がいなくなれば、
俺には存在する理由がなくなる。

 (水のパラディーヴァ アムニス)


1.いにしえの神竜と御子たち、決戦の始まり


 
「堕落した《人の子》たち、愚かな人間どもよ……」
 地の底深きところから、常世の国から、現世へと漏れ出し、地表に染み渡っていくような不気味な声。何らの感情も帯びてはいない、淡々と、しかし一定の節回しをもって送り出されるその声音(こわね)は、生身の人間の発するそれであるとは到底考えられなかった。
 何処とも知れない暗闇の中で、揺らめく炎の玉が宙空に現れる。その青白き鬼火のもと、黄金色の仮面が闇に照り映えた。紫がかった深い紅色の頭巾の下、にこやかに破顔した翁の面は、眺めているうちに次第に狂気をも感じさせ、魔界から来た道化師のようにも思われてくる。
「汝らは、尊き《絶対的機能》の御業に手を触れ、二つの大罪を犯した」
 《老人》の黄金仮面は言葉を続ける。反響するその声は、天の御使いたちが裁きを告げる歌や、生者を黄泉路へといざなう死霊の呼び声と同様に、実際の音として伝わる以上に、むしろ聞く者の魂に直接的に浸透してくる類のものだ。
 さらに鬼火が現れ、次なる黄金仮面、長いくちばしをもった鳥のような《それ》が言葉を継ぐ。
「ひとつは、《人の子》の分際で《人》を創ったこと。その罪の重さに震えよ!」
 《鳥》の黄金仮面がけたたましく鳴くように嘲笑したとき、その背後から霧のごとく湧き上がり、実体化したのは《兜》の黄金仮面である。凝った装飾など何もない平らな面相の中で、赤みを帯び輝く二つの目だけが異様な威圧感を放っている。《それ》は言った。
「もうひとつの罪は、人の手で創られし禁忌の命を、大いなる摂理との矛盾ゆえに短き定めの……その命を、世界を統べる因果律に反して書き換えたこと」
 それからしばらく、漆黒の広間は静まり返り、四つのあやかしの炎とそれらに照らされる四体の黄金仮面が無言でたたずむ、異様な光景が闇の中に取り残された。
 やがて沈黙を切り裂くように、多数の女たちの声が、最初は遠いところで、いつの間にかすぐそこで幾重にも反響し、最後には老婆のしわがれた声と少女のあどけない声とが入り乱れ、ひとつの高笑いとなって暗黒に消えていった。《魔女》の黄金仮面が、荒野を吹き抜ける寒風のような、生気の無い乾いた声によって、怒りを静かに滲ませる。
「許し難い。闇の御子を決して帰してはならぬ」
「帰してはならぬ」
「帰しては、ならぬ……」
 他の黄金仮面たちが復唱する中、《老人》の仮面が前に歩み出た。
「帰してはならぬ。だが、今の条件のもとでは、我らが直接手を下すことは禁じられている。法の定めは絶対である。それゆえ、我らの力を分け与えたかりそめの御使いを遣わし、闇の御子よ、汝らを滅ぼす」
 赤紫の長衣の下から骸骨さながらの細い腕が差し出され、その先にある干乾びた骨の指は、チェスの駒を連想させる何かをつまんでいた。おそらくは竜をかたどったのであろう、象牙色の駒が仮面の手から離れ、そして、床に落ちる音を立てる前に、空間に吸い込まれるように忽然と消えた。
 
 ◇
 
 実体化されている《虚海ディセマ》の中に巨大な竜が姿を見せたのは、そのときであった。ようやく生還したエレオノーアとルキアンの目の前に、それは降ってわいたように現れ、想像を絶する巨体で彼らの行く手を阻もうとしている。
「おにいさん、このままでは神殿ごと押し潰されてしまいます! アマリアさんたちのところまで転移呪文で一気に戻りましょう。アーカイブの検索、始めます」
 とぐろを巻くように、自らの巨躯の下に神殿を抑え込んでいる竜。その姿を窓の外に見ながら、激しい揺れの中でエレオノーアが言った。不意に、そこで彼女は姿勢を律し、右手を胸に当てて厳かに告げる。
「エレオノーア・デン・ヘルマレイアは、闇の御子として共に使命を遂行します。わたしのアーカイブのすべてをあなたに捧げます、おにいさん!」
「ありがとう。一緒に乗り越えて、必ず帰ろう、エレオノーア。ほんのわずかだけど、僕が時間を稼ぐ。その間に呪文を頼む」
 神々しさすら感じさせる真剣な彼女の眼差しに、ルキアンは思わず圧倒されるが、それ以上に、彼女の言葉に込められた熱意に心動かされた。その熱意の源は、限りある命を最後まで生きようとする者の強さ、生まれ変わった彼女の強さである。朗らかながらも心の底では常に《死》を基準にして生きていた、これまでの虚ろな彼女とは、いまルキアンの前に立つエレオノーアはまったく違っている。
「アマリアさんの支配結界とともに、まだ僕の支配結界の力も残っている。それなら……。御子の名において命ずる。異界の暗き海より、闇の眷属きたれ!」
 ルキアンの想像力が闇の力を具現化し、実体となって御使いの竜に襲い掛かる。薄い鋼板でできた帯のような、黒光りしつつ、魚の姿をした、水の中で波打つ何かが、何百、何千、深海の底から無数に現れる。《無限闇》の力で生成された暗闇の魚たちは、刃のごとく研ぎ澄まされた体をぎらつかせながら、異様に大きい口とそれに見合う長大な牙を?き出しにして、竜に向かって殺到する。
 山脈のようにそびえる古の竜に比べれば、一匹一匹の怪魚は小さくみえる。だがそれでも彼らは、人や、それどころか牛馬より遥かに大きく、体中が金属でできており、痛みも恐れも感じることのない鋼鉄の軍勢だ。
 払っても次々と絡み付き、喰らい付き、刻一刻と数を増して召喚される深海の魔物たちに、さすがの始まりの竜も忌まわしげに四つの首を持ち上げ、怒りの雄たけびを上げた。
「この程度の牙では、竜の鱗をかみ砕くことはできないけれど、わずかな間、動きを止め、注意をそらすことくらいはできそうだ」
 実際、決定打を欠きながらも絶え間ない抵抗が、あの四頭竜に対して予想以上の効果をあげている。これによって得られた数秒の間に、エレオノーアは最適な呪文を探り当てていた。
「海の外まで《跳んで》ください! 今のおにいさんなら、この程度の呪文は詠唱無しで使えるはずです」
「分かった、ありがとう。アマリアさんにも連絡する」
「その間、今度は私が竜を足止めします」
 ルキアンとエレオノーアは、事前に何の話も交わしていなくても、交互に竜の動きを封じている。お互いにあまりコミュニケーションが上手な方ではない二人だが、今は、ふたつの精密な歯車のように?み合い、寸分違わずに連携していた。
 ――あの竜は大きすぎて、《言霊の封域》に取り込むことは無理ですね。それなら、闇に潜む魚たちに降り注げ、《言霊の封域》よ。
 ルキアンが《無限闇》で呼び出した怪魚の群れを、エレオノーアが《言霊の封域》で強化する。
「汝らの体は、絹よりもしなやかで、天の鍛冶が鍛えし剣よりも、いや、まさに竜鱗(りゅうりん)よりも強靭となる。その牙で喰らい付き、竜を食いちぎれ!」
 エレオノーアの左目に闇の紋章が浮かび上がる。より力を増した深海の魔魚たちに幾重にも取り巻かれ、一時は四頭竜の姿が見えなくなりそうだった。
 エレオノーアから呪文の情報を受け取ったルキアンは、例の《刻印》を使ってアマリアに連絡する。
 ――アマリアさん、エレオノーアを完全に救出できました。《ディセマの海》の実体化は、もう解いてもらって構いません。僕たちはそこまで転移します。
 ――了解した。《ディセマの海》を支えたままでは、その化け物と戦うことなどできはしない。
 ルキアンはエレオノーアの手を取り、転移の呪文を念じ始める。
「エレオノーア、行こう」
「はい、おにいさん。私たちの反撃開始です!」
 エレオノーアはルキアンに寄り添い、握った手に力を込めると、片目を閉じて微笑んでみせた。
 一陣の風のごとくルキアンたちの姿が瞬時に消え、それから一息遅れて神殿が崩壊し、建物内部に黒い海水が膨大に流れ込み始めた。
 
「大地にあまねく眠る元素を司るものたち、この地、かの地に棲まう精霊たちよ。我が呼び声に応え、地表に集いて帰らずの園を拓け」
 《ディセマの海》をつなぎ留める大役から解放されるが早いか、アマリアが杖を掲げ、呪文の詠唱を始める。低めの良く通る声で、歌うように彼女は呪文を紡ぐ。
「取り囲め、汝らの贄を狩れ。貫く万軍の槍、煌めく鉱石の梢、無限の結晶の森……」
 ルキアンたちがアマリアの隣に転移し、姿を見せたのはそのときだった。
 完成する呪文は狙っていた。二人の闇の御子を滅しようとする四頭竜が、彼らを追って目の前に現れる瞬間を。
 アマリアは紅のケープをはためかせ、杖を掲げて舞うように回ると一息溜めて、周囲の空気に沁み通り、大気を震わせるような気合いで口にした。
 
「《永劫庭園(エーヴィガー・ガルテン)》」
 
 突然、空を覆い隠すほどの体で、天高く伸び、四つの鎌首をもたげた始原の竜。その刹那、地表から無数の鉱石の柱、いや、槍状のものが瞬時に上空まで伸びて貫いた。さらには反対に天上から、同様の槍が豪雨のごとく落下する。地の精霊力によって生成された、超硬度と強靭さとを兼ね備える謎めいた多結晶の槍先は、伝説級の魔法武器すら弾く神竜の鋼鱗をも、容赦なく突き通した。
「す、すごい……」
 紅の魔女、地の御子アマリアが最初から極大呪文を使って四頭竜を仕留めにいった一連の流れを、ルキアンは体を細かく震わせながら見つめていた。
 大聖堂の尖塔にも比肩するような、巨人の武器のごとき大きさの槍が、宙に浮かぶ神竜に何本も突き刺さり、ヤマアラシのように体中から棘を生やした姿にさせている。なおも竜が体を動かそうとすると、アマリアが杖を振る。再び、大地から空まで貫く槍の列と、天上から地に降り注ぐ槍の雨が、即座に竜を襲った。
 ルキアンが勝利を確信したそのとき、四頭竜が突然光り輝き、その体が目の前から消え、獲物を失った無数の槍も轟音と共に大地に落ちていった。
「ほう……」
 アマリアが嘆息した。
 その直後にして、彼女らの前に閃光とともに再び現れたのは、無傷のままの四頭竜の姿だった。
「どうして!? あんなに沢山の槍に突き刺されて、あの竜は息の根を止められたのでは?」
 エレオノーアは目を疑ったが、勘の良い彼女は思い出し、息を呑んだ。
「まさか、おにいさんが使ったような《絶対状態転移》の魔法で……」
「そうだ。あれの本体である《始まりの四頭竜》、すなわち《万象の管理者》は、我々がいうところの《神》、しかも《主神》や《唯一神》とほぼ同格の存在。たとえ、いまここにいる竜が《始まりの四頭竜》の単なる似姿、本体とは比較にならないものであるとはいえ、それでも最高位の光属性の魔法を扱えるくらいのことは当然にあり得る」
 アマリアが、半ば予想していたように、仕方なさげに首を振る。
「そう知っていたから、最初から私の使い得る最大の攻撃呪文のひとつで狙ったのだが……あの竜が肉片ひとつも残さぬほどに、どこまでも槍を突き立て続けるべきであったか。《永劫庭園》の名の通りに」
 竜の次の動きに注意を払いつつ、ルキアンが不安げに尋ねる。
「それでは、僕たちは一体どうすれば?」
「あの古き竜を倒すには、その絶対的な防御を超えて、かつ、先ほどのような恐るべき回復力を、さらに上回るだけの致命傷を与え続け、一気に消滅させなければならない」
「アマリアさん、そんなことができるのでしょうか……」
 ルキアンの予想に反して、アマリアはまずは否定した。
「私たちでは無理だろう」
「そんな!?」
「いや、私たち《だけ》ではできないという意味だ」
 そのとき、エレオノーアが話に割って入った。
「おにいさんたち、あの竜を中心に、凄まじい魔法力が蓄積されていっています! 相手はドラゴン、たぶん次に来るのは……」
「的確な観察眼だな、うら若き闇の御子よ。竜の焔の息、しかも神竜の吐く天災級のブレスが来るぞ。エレオノーア、ルキアン、次の一撃を防げるか」
 アマリアがエレオノーアを見た。エレオノーアは意外にも落ち着いた様子で頷いた。
「はい。いま、効果的な防御魔法を検索しています。その間に、アマリアさんは次の手を用意するのですね?」
「察しも良いな。その通りだ。同じ御子として、君たちの力を信じる。あの神竜のブレスを一度でよいから防いでくれ。その間に私は……」
 アマリアが隣に視線を向けると、フォリオムが姿を現し、にこやかさの奥に底知れない怖さを秘めた眼差しで、ゆっくりと手を上げた。
「わが主よ、《炎》と《風》の者たちはいつでも大丈夫じゃ。だが、残る《水》の御子が……」
 


2.予め歪められた生――イアラ、壊れた心


 
 ◆ ◆
 
「いま、君は心から助けを求めた。それは、君が自分以外の誰かを、まだ信じようとしていることの証だ」
 日没近づく藍色の空のような、濃い青の髪がなびき、同じく青の衣が翻る。
 長い髪を揺らしながら《彼》が振り返ったとき、荒野を貫く疾風さながらに何かが駆け抜けたかと思うと、いくつかの影が血しぶきを上げて弾け、切り刻まれた肉塊が折り重なった。それらは人に似ていたが、人間ではなく、たとえばオークやゴブリンのごとき亜人型の魔物のものだった。そして最後に、見えない無数の刃は、役目を終えると多量の水に変わり、空中から滝のように流れ落ちた。
「あなたは……」
 イアラは涙声で尋ねた。水の魔術がもたらした恐るべき結果を、それ以上に、誰かが自分を救いに来てくれたことを、まだ本当だと認識できない表情で、彼女は乱れた黒髪の奥から見知らぬ救い手を仰ぎ見る。
「俺はアムニス。古の契約により、君を守る」
 彼の落ち着いた声が心地良く沁み通ってくる。他人の背中がこれほど心強く感じられたことは、今まで彼女には無かった。
 好色な魔物たちに引き裂かれた着衣を、イアラは胸元で押さえ、床に座り込んだまま動かない。露わになった彼女の背中、二の腕や脚など、身体の所々に、爬虫類を思わせる濃い緑の鱗が痣のように浮かび上がっている。その姿は、竜と人間との間に生まれたという伝説上の《竜人》が蘇ったかのようだ。
 「こんな私を、あなたは助けてくれるの? アムニス……」
 彼を見上げるイアラの素顔は――いつものような薄布で覆われておらず、右半分は、ごく普通の若い女性のそれであるのに対し、左半分、額から目の周囲、頬の上の方にかけて、例の鱗が広がり、そこに大きく開いた左目には、焔の色で揺れる人ならぬ者の瞳が輝く。
「イアラ、君の《竜眼》はとても美しい。誇り高き竜の血を引く御子よ」
 アムニスは羽織っていた長衣を脱ぎ、彼女の震える肩からそっと掛けた。
「そんな高貴なわが主を、魔物呼ばわりして侮辱し、辱めようとした貴様らは万死に値する。いや、そう簡単に死ねると思ったら大間違いだ」
 人間に似ているだけに余計に目を覆いたくなる無残な魔物たちの死体と、そこから流れ出た毒々しい色の血だまりとを踏み越えて、アムニスは、ごく平然と歩む。先ほどイアラにかけた優しい言葉とは完全に異なる、温情の一片すら感じさせない、凍てついた響きで彼は告げる。
「ここで行われていたことは、おそらく、この王国の名誉のために決して外に漏らされることはないだろう。だから、貴様らがここで命を失っても、その事実も闇に葬られるだけだ」
 イアラたちの周囲は高い壁に囲まれ、かつてのレマリア帝国の円形闘技場を模した造りになっている。その分厚い壁の後方、ひな壇状になった客席部分では、仮面舞踏会のようなマスクで顔を隠した身なりの良い人々が、呑気に酒を呑みながらイアラたちを見下ろしていた。
 こんな噂がある。国の上流階級のうち、普通の娯楽ではもはや満足できなくなった者たちが、権力と金の力で裏の組織を動かし、口にするのもはばかられるような残虐あるいは淫猥な見せ物を違法に楽しんでいるのだと。これもその手の闇の催しのひとつであろう。
 だが、支配者たちの享楽の場は、アムニスによって、今度は彼らを主役とする阿鼻叫喚の地獄絵図に変わった。
 
 ◆ ◆
 
 思念の中でフォリオムと向き合ったアムニスが、厳格な口調で過去を振り返っている。
「イアラは、いにしえの竜の血が遥か隔世を経て強く発現したその姿により、両親も含めたすべての人間から、生まれながらに疎まれていた。そんな彼女を初めて受け入れ、優しくしてくれた……そのように思われた相手に、イアラは裏切られた。最初から騙されていたのだ」
 アムニスに向けられていたフォリオムの目が、無言のまま閉じられた。白髭に覆われた顎を押さえ、そのまま黙り込んでいるフォリオムの前で、アムニスの独白が続く。
「彼女は《人間に似た魔物》として売られた。人間の欲望には……とりわけ、現世のすべてを得た者たちの強欲には、彼らの傲慢な勘違いのせいもあって……際限というものがない。人間の剣奴同士の戦いや、魔物同士の殺し合い、あるいは魔物が人間を喰らう様にも飽食した彼らは、もはや遠い時代に滅びたといわれていた貴重な竜人を思わせる存在、しかも美しい女性であるイアラを、自分たちの欲望への新奇な供物にしようと狙っていた」
 アムニスは、パラディーヴァらしからぬ怒りの感情を、隠すこともなく全面に浮かべ、吐き捨てるようにつぶやいた。
「イアラの人間性を否定し、所詮は同じ《魔物》同士の野蛮な本能による行為だとして、彼女をオークやゴブリンどもが寄ってたかって犯そうとする姿を、魔物以上に醜いあの人間どもは楽しんでいたのだ。これほどおぞましいものが、この世にあるだろうか」
「人間というのは実に酷い生き物じゃな。《あれ》の御使いたちの言うように、《愚かな人間ども》は一度滅びてしまってもよいのかもしれん。いや、悪い冗談じゃったか……」
 フォリオムは、アムニスとは対照的に心の揺れをまったく感じさせない様子で、その意味ではパラディーヴァらしく淡々と答える。
「かつての時代から、《水》の御子は、他の御子よりも特に膨大な魔力量をもって生まれてくることが多い。イアラもそうかの。その魔力の影響が、彼女の中に眠る遠い竜の血を必要以上に目覚めさせてしまったということか。たとえば旧世界において、あの《永遠の青い夜》の《魔染》により、魔物化まではしなかったにせよ、魔物の因子を持ってしまった人間は少なくない。あるいは、それよりもさらに古い時代、伝説上の本当のドラゴンの血を引く一族の末裔、かもしれん」
 頷いたアムニスの言葉からは、その声の力強さに反して、未来に対する明るい希望は感じられなかった。
「人間であるのに、同じ人間たちからは人として扱われなかったこと、それどころか自らの人間性を完全に否定されたこと、そして何よりも、この世でただ一人の信じた者に裏切られたことで、イアラの心は壊れてしまった」
 
 ◇
 
「そんな自分が、なぜ人間のために、この世界のために、御子として命をかけて戦わねばならないのかと、イアラは拭いきれない疑問を抱いているのじゃよ。分かるであろう、その気持ち自体は」
 フォリオムの言葉に、アマリアは顔色ひとつ変えずに向き合っていたが、ルキアンとエレオノーアは動揺を隠せなかった。特にエレオノーアは、吐き気を催したような様子で、目に涙を溜めながらルキアンの胸に額を押し付けた。
「酷いです、酷すぎます。自分だけが他人と違っていて、それでも受け入れてくれた唯一の人に、裏切られるなんて……。初めて信じることのできた人に騙され、魔物たちに襲われるなんて」
 彼女は心の中で、言葉を震わせた。思い浮かべたくもないことを、それでも想像してしまって。
 ――私の立場だとしたら、それは、おにいさんに裏切られたようなもの。もし、そんなことがあったら、私は……。
 自らも《聖体降喚(ロード)》によって生成された存在であるエレオノーアは、生まれつき普通の人間とは違うものを抱えたイアラのことを、とても他人事とは考えられなかった。感受性の強い、あるいは思い込みの人一倍強いエレオノーアが、イアラの悲劇を我がことのように受け止め、心をかき乱されているのを見て、ルキアンは彼女を支える腕に力を込めた。
 そのとき、自身も何らかの術式の完成を粛々と進めながら、アマリアが二人に告げた。そこには何の心情の変化も感じられない。
「気持ちは分かるが、私情に心を乱されている場合ではない。己が為すべきことを全力で果たせ」
 薄情にも思えるほど冷静なアマリアの様子だったが、彼女の言う通りだ。たったいま、ルキアンたちが対峙しているのは、本物ではないにせよ、あの《始まりの四頭竜》の力と姿とをもった化け物なのだから。
 意外にも、アマリアの言葉に最初に反応し、強大な敵を見据えたのは、ルキアンではなくエレオノーアだった。
「イアラさんも、《御子》として生まれてきたから、《あれ》によって《予め歪められた生》の呪いをその身に受けることになったんですよね。だから、そんな悲しい目にあったのですよね。そうですね、アマリアさん?」
 アマリアが無言で頷くのを待たずして、エレオノーアは青い瞳に怒りの焔を燃え立たせて言った。
「だったら、イアラさんのためにも、まずは、この竜を必ず倒しましょう。《あれ》の《御使い》は、《御子》の敵です」
 エレオノーアの左目に闇の紋章が浮かび上がる。彼女の霊気が高まり、背中に青いオーラが立ち昇った。
「む? これは、また……」
 フォリオムが帽子のつばを持ち上げ、小さな吐息とともにエレオノーアの方を見つめる。見る間に彼女のオーラは色濃く、大きく広がり、やがて蝶の羽根の形となって、爆発的な魔力を開放して羽ばたいた。
 その《光の羽根》を見て、ルキアンはあることを思い出した。
「ものすごい力を感じる。そういえば、僕が、この結界にエレオノーアを取り込んだとき、彼女は《蝶》に変わった。あれは偶然じゃなかったんだ。彼女の力、アーカイブとしての力を象徴するのが、あの輝く蝶の羽根……」
 驚きを隠せないルキアンに対し、エレオノーアは、普段の彼女からは想像できないほど、てきぱきと指示をする。
「おにいさん、いますぐ防御呪文の詠唱に入ってください。発動までに複合立体魔法陣を構築する必要がありますので、私は術式生成の演算に集中します。それからすいません、フォリオムさん、呪文の発動まで、わたしとおにいさんを守ってください。お願いします!」
「わ、わし? おお、構わんぞ」
 フォリオムは苦笑した。たしかに、いまルキアンとエレオノーアは高度な防御魔法の構築に全力を注いでおり、竜のブレスからの守りを彼らに委ねたアマリアも、何か次の大きな策を講じている。手が空いているのはフォリオムだけだ。
 ――やりおるわい、この娘。《あれ》と戦うために《ロード》で作られた御子というのは、やはり桁違いじゃ。
 

【第56話 中編 に続く】

※2023年9月に本ブログにて初公開。 

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『アルフェリオン』まとめ読み!―第56話・中編


目次これまでのあらすじ | 登場人物 鏡海亭について
物語の前史プロローグ


3.絆の力


 
 それは爆炎。絶大な魔法力の集中が頂点を迎えたとき、四つ首の神竜が咆哮し、瞬時に閃光が視界を呑み込み、嵐の如き爆風と灼熱の炎が牙を剥いた。そして、それは煉獄。《御使い》の化身、《始まりの四頭竜》の似姿は、自然の力を超越した炎と熱を猛り狂わせ、現世に呼び出された異界の獄炎は、ルキアンたちの姿をたちまちかき消した。それでも竜は、勢いを緩めず超高温の炎を吐き続ける。
 すべてを焼き尽くす紅蓮の激流の先、噴き上がる爆煙の向こうに、六角形の板状の光が無数に輝き、幾重にも壁を作って竜のブレスを受け止めている。その防御結界を挟んで、一方には四つの頭を持ち上げ、火力をいっそう強める御使いの竜が、もう一方にはルキアンとエレオノーア、アマリアとフォリオムの四人が互いに宿敵と対峙する。
 決死の形相で両手を突き出し、結界を内側から押すようにして魔力を注ぎ込んでいるルキアン。彼の隣ではエレオノーアが状況の変化を刻々と伝え、サポートする。
「第一防壁、第二防壁は最初のブレスで消失! 第三防壁も、損傷率85%……いま破壊されました。第四防壁の損傷率35%、おにいさん、防壁パターンを組み替え、正面に集中します!」
 結界を構成する手のひらほどの六角形の光が、エレオノーアの声に応じて移動し、特に側面からルキアンたちの正面へと集まって結界をいっそう厚くし、同時に全体として平板な形状から丸みを帯びた盾のような形状に変化していく。ルキアンが防御魔法で結界を展開し、支えている中、エレオノーアは敵の出方やこちらの被害状況に合わせて、随時、結界を最適化しているようだ。銀色の神秘的な髪、儚さと強さを宿した青い瞳、同じ《しるし》を共にもつ二人の若者が戦う姿を、フォリオムが眩しそうに見つめる。
「うむ、この見慣れぬ結界は、《旧世界》のアルマ・ヴィオによる魔法防御を思わせる。純粋な魔法というよりは、むしろ、いにしえの高度な魔法と科学の融合……《対魔光壁(アンチ・マジック・バリア)》に近いじゃろうか。《降喚(ロード)》された《聖体》が人の姿をとった者たち、真の闇の御子は、こんなものまで生身で操るのか」
「彼らの力……。フォリオム、二人の御子は我らの理解を超えている。一度は消滅したエレオノーアは、こうして蘇った。ルキアンは、二つ目の闇の紋章を呼び覚ますという奇跡によって、《あれ》の因果律を乗り越えて彼女を取り返したのだ。真の闇の御子は二人で一人。そう……」
 アマリアはしばし俯き、そしてまた天を見上げて呻くようにつぶやいた。
 
「死すらも彼らを分かてなかった。これが、《絆》というものか」
 
 アマリアたちの告げたことを省みる余裕も勿論ない中、闇の御子二人は神竜のブレスになおも立ち向かう。
「おにいさん、第八防壁の損傷率50%を超えました。もうすぐ突破されます!!」
 ルキアンたちを竜の炎から護る最後の障壁が、いまにも失われようとしている。だがエレオノーアの真剣かつ落ち着いた表情は、彼女が何ら勝負を諦めていないことを物語っている。彼女はルキアンに体を寄せ、小声でささやいた。
「《盾》は《鏡》に。おにいさんは、さらにその次の呪文を」
 ルキアンは、平然とした彼女の姿に目を見張りつつ、対照的にかなり動揺している自身の気持ちを表に出さないよう、黙って頷いた。エレオノーアと言葉を交わしたことで、ルキアンは少し落ち着いたようだ。彼の瞳には、エレオノーアに対する絶対的な信頼が漲っている。それは、これまで彼が、自分自身も含めて、この世界のどんな人間に対しても心からは向けられなかった思いだった。
 そんなルキアンの瞳を見つめ、エレオノーアも嬉しそうに一度頷いた。
 ――わたしは《失敗作》なんかじゃない。おにいさんと一緒なら、おにいさんの《アーカイブ》になれたのだから、わたしだって……。
 彼女とルキアンを囲む複合立体魔法陣が――それぞれに文字や記号が細部までびっしりと書き込まれた光の円陣が、大別して約6層に積み上がり、高さは彼らの背丈を超えている――その複雑怪奇な機構が動き出し、各層が入れ替わって形を変え始めた。
 今にも砕け散りそうなルキアンたちの結界を前にして、四頭竜は、とどめとばかりに火勢を一気に強めた。残された結界に亀裂が走る。だが、そのとき。
「鏡に映る汝を見たか。それは今際の顔……闇に消えゆくその目に、焼き付けよ……」
 ルキアンが詠唱する。いや、それは呪文ではなく、すでに詠唱済みの呪文を発動させるための鍵となる言葉だった。
 小さく息を吸い込んで、彼は一言ずつ刻み込むように言った。
 
「《影の魔鏡(ツァウバーシュピーゲル・イム・シャッテン)》」
 
 ルキアンの前の空間が歪み、陽炎のように揺らぎながら、見上げるほどの高さの《魔鏡》が顕現した。いばらのツタと骸骨の手足の装飾で埋め尽くされた禍々しい鏡は、これが《闇》属性の高位魔法であることを無言のうちに告げている。結界が全壊したのはその瞬間だった。これと入れ替わりに、魔鏡の表面に不気味な人影が浮かんだような気がした。その影が口を吊り上げて冷笑すると、影の魔鏡は、あたかも亡者の肌の色のような、呪わしき青白い光に満ちた。
 そのとき何が起こったのか、簡単には把握できない。少なくとも、津波のごとくルキアンたちを呑み込もうとした竜の炎が、確かに逆流したように見えた。実際、その通りだった。気が付くと、四頭竜は自身が敵に吐き出した火焔に取り巻かれ、体中が火だるまになっている。
「おぉ、魔力反射(リフレクション)の類か!? 結界の後ろにそんなものを隠していたとは」
 フォリオムが声を上げ、その驚きも覚めやらぬ次の瞬間、二人の御子が動いた。
「今です、おにいさん!」
 ルキアンの左目に闇の紋章が浮かび上がる。
「冥府の川を渡せ……」
 なおも炎に包まれ、くすぶる御使いの竜の背後に、にわかに黒雲が湧き上がる。そこから稲妻とともに現れたのは、風に翻る空っぽの黒衣の下に、骸骨の顔だけをのぞかせた死神のような、あるいは練達の死霊術師が己自身を不死の術者(リッチ)に変えたような――いずれにせよ、それはおそらく幻影であろう冥界への導き手は、四頭竜に比べるとさすがに小さいものの、神話の巨人さながらに大きい。
 
「《シャローンの鎌》!」
 
 ルキアンの言葉とともに、死神の手に握られた大鎌が四頭竜に向かって振り下ろされる。
 だがその一撃は、竜の鉄壁の鱗や、それ以上に何か、不可視の護りの力に弾かれただけだった。
 ――天の系譜に属する者だけあって、即死系の魔法はやはり効かないですか。でも二撃目が本命です、おにいさん!
 エレオノーアの言った通り、ルキアンがすかさず次の力の言葉を発した。
「地の底に落ちよ!!」
 死神の鎌が竜の背に打ち下ろされる。刃の先端と竜の背の間で火花が散り、耳をつんざくような激しい音、そして大気を揺らして体の奥底にまで伝わってくる振動が、周囲に走り、さらに広がっていく。特に外傷はないようだが、それにもかかわらず竜の体に異変が起こった。宙に浮かんでいた四頭竜が突然に姿勢を崩し、地面に向かって落下しかけたのだ。再び浮かび上がるものの、竜の動きが遅く、見るからに鈍重になったように思われた。
 
「闇の御子たちよ、よく防いでくれた。おかげで私の方の準備も整ったぞ」
 涼しげな顔で告げるアマリアだったが、彼女にとっても、内心、二人の若き御子のここまでの働きは想定外だったようだ。
 ――たった二人だけでも、闇の御子は《御使い》相手にこれほど戦えるのか。まず結界でブレスの威力を削り、それでも受け切れない分は《魔鏡》の術で跳ね返す。もしいずれか一方だけだったなら、今ごろ我々は灰になっていただろう。そのうえで、なまじの攻撃は通らない敵を無駄に攻撃せず、重力魔法で動きを鈍らせるとは良い判断だ。しかもあれは《闇》の《地》の属性魔法。私の支配結界《地母神の宴の園》の中では、《地》属性と同様に効果が飛躍的に高まる。
 アマリアはエレオノーアの方を横目で見た。正確には、エレオノーアの作り出した精緻かつ大規模な立体魔法陣を改めて見ていた。
「先ほどの結界、失われた旧世界の科学道士の術に近い系統だな。恐らくアルフェリオンの《ステリア》の力と同様、《無属性》か。そこから闇属性の魔力反射に、闇の地属性の重力魔法の連撃……。そのために必要な魔法陣、これほど高度なものを、あのわずかな時間でどうやって構想して描いたのやら」
 深刻な状況のもと、エレオノーアは意外なほどにあっけらかんとした調子で答える。
「はい! おにいさんの《紋章回路(クライス)》を介してアルフェリオンのコア・《黒宝珠》にアクセスし、そこから周回軌道上の支援衛星のうち、《マゴス・ワン》とのデータリンクを復旧しました。それをこちょこちょと」
「こちょこちょ、か?」
「そうです。《マゴス・ワン》の《メルキア》さん、人間ではなくて、《えーあい?》とかいう種族の方らしいのですが、この方とお話して、《マゴス・ワン》の霊子コンピュータというのをこちょこちょと、触ってみたのです。それで、この魔法陣の設計と描画に必要な演算をお願いしました。頼んだ瞬間に、もう全部完了していましたが。すごいです!」
 エレオノーアが無邪気に語っている内容に、アマリアは寒気すら覚えた。彼女ほどの魔道士が、いや、彼女ほどの魔道士だからこそ、エレオノーアの行ったことの真価を理解できるのだ。
 ――正直、恐ろしいな。《あれ》に抗うためだけに、地を這う者たちの怨嗟が天を落とそうと、世界の摂理に背いて人間が人間を創る、しかもそのために多数の同胞、自分たちと同じ人間を生贄にするという……何重もの禁忌を犯して召喚された《聖体》の化身。
 
 ――彼らは、定められた因果の鎖を断ち切る刃。自らを《主》から閉ざそうとする世界が歪みの果てに呼んだ、《ノクティルカの鍵》の器。
 
 いつも白日夢の中にいるような面持ちをしているアマリアが、不意に右目を大きく見開いた。瞳に浮かぶのは大地の紋章。
「そして我ら御子は、彼らと共に戦う。今ここに心を集わせよ、自然の四大元素を司る御子たち」
 アマリアとその隣に従うフォリオムの足元から、地面を這うように一筋の光が走る。さらにもう一筋。次々と光が行き交い、彼らの立ち位置をひとつの頂点にして星を描き、続いて五つの頂点を光が結ぶ。古の時代より、数知れない術者に用いられ、基本にして最奥にまで至る魔法陣、五芒星の陣だ。
 そこに、いくつかの影が――アマリアと同じく、本人ではなく思念体が――姿を現した。
 
 

4.響き渡る天使の詠歌、目覚める御使いの竜の力


 
 アマリアの描いた五芒星陣の頂点のひとつに、不意に炎が浮かぶ。それは激しく燃え上がり、宙に逆巻いて少女の姿を取った。
「《炎》のパラディーヴァ、フラメア様参上! 一番乗りだわさ」
 彼女は周囲を見回し、ルキアンの姿を認めると、真っ赤な髪を振り乱していきなり食って掛かった。
「あんたが闇の御子? リューヌはどうしたのよ、リューヌは!?」
 ルキアンは気まずそうに視線をそらし、何度も言葉に詰まった。
「リューヌは……。その、僕のせいなんだ。僕が弱かったから、彼女は……」
「そうよ! 後でぶっ飛ばすからね。あのリューヌが消滅するなんて、マスターのあんたがよっぽどダメダメだからでしょ」
「おいおい、いきなり乱暴なこと言うなよ。悪いな、こいつ、口のきき方ってものを知らなくて」
 いつの間にかフラメアの後から出てきた金髪の男が、頭を掻きながらルキアンに愛想笑いをする。気さくそうな印象だが、頭髪や髭など、全体的に少し無精な雰囲気も漂わせている。結界の外から送られてきた思念体がまだ安定していないためであろうか、時々、彼の輪郭が揺らいだり、画質の粗い映像のように姿がぼやけたりしていた。
「俺はグレイル。君と同じ、御子だ。《炎》の。よろしく頼む。で、こっちのガラの悪いのが、相棒のフラメア」
「こら、何が悪いって?」
「よろしく、お願い、します……。あ、僕はルキアン」
 
 多少困惑しているルキアンの挨拶を、アマリアの声が打ち消した。
「竜が動くぞ。呑気に自己紹介している余裕はない」
 ルキアンの放った《シャローンの鎌》で重力の呪いを掛けられ、容易には身動きできないほど重くなっているはずの四頭竜が、それでも強引に御子たちに突進してくる。その巨体と迫力たるや、こちらに向かって山脈が一気に崩れ落ちてくるかのような、とてもこの世のものとは思えない威圧感だ。
 一瞬、立ちすくむグレイルとルキアン。対照的に、口元に好戦的な笑みを浮かべ、二人の前に出るフラメア。だが突然、空間そのものを引き裂くような爆風の大断層が、彼女と御使いの竜との間を走り抜けた。両者は暴風の壁に切り離される。凄まじい勢いで気流が上昇し、吹き飛ばされそうになりながらも、フラメアが拳骨を振り回している。
「危ないだろ、《風》のクソガキ! あたしらまで切り刻むつもり?」
「そう? 君たちなら簡単に避けられるだろうと思って、気にしてなかったよ」
 一陣の風と共にルキアンたちの前に現れたのは、空色の羽衣をまとって宙に舞う気儘な男の子。彼、《風》のパラディーヴァ・テュフォンと、それに。
「あ、あなたは。エクター・ギルドの……先日、ネレイの街で……」
 森の木々を想起させる深い緑色の髪、ただでさえ細い目が無くなってしまいそうに、伏し目がちで、物静かな表情。そこにいるのは、ネレイの運河沿いでクレドールの乗員たちがくつろいでいたとき、特段に目立った様子もなく通りがかったあの男だ。平凡な風貌からは想像し難いが、その実、ギルド最強のエクターに他ならない。この強烈なギャップをルキアンは忘れることができなかった。
「カリオス・ティエントさん」
「君は、たしか、クレドールの」
 決して不愛想というわけではないにせよ、どちらかというと口数は控えめなカリオスが、ぶっきらぼうに呟いた後、微笑を浮かべた。
 
 だがそのとき、エレオノーアがいつもより声を大きくして言った。
「竜の中心部から、今までにない魔力が急激に高まってきます! ものすごいです、何もかも飲み込みそうな、巨大な《光》属性の力の渦です!!」
 テュフォンが創り出した暴風の境界を避け、御使いの竜はいったん上空に後退している。だが勿論、逃げたわけではなかった。長い尾と四つの首をすぼめ、球状になって空中で静止している姿は明らかに不自然だ。
「お、おい、これは……。急に、脳みそを揺らされているような感じで、気持ち悪くなり始めたんだが。やばいんじゃないか?」
 頭を抱えるグレイルの姿を見て、アマリアには思い至るところがあった。
「大気に波動が伝わってくる。知っている、この感じは……。あれは竜の姿をしているが、魔物ではなく天に属する存在、《御使いの声(エンジェリック・ヴォイス)》が来るぞ、気をつけろ! 《闇》以外の属性では防御困難だ」
 その間にも四頭竜は白熱する光に包まれ、巨大な光球となり、透明な輝く翼が一枚、また一枚と竜の背から花咲くように広がってゆく。その翼が完全に、おそらく12枚の翼が開き切るとき、何か恐ろしいことが起こりそうであるのは分かった。
「化け物め。とうとう本気を出してきたようじゃ、《人の子》相手に……。《闇》の嬢ちゃん、どうしようかの」
 それまで飄々と目を細めていたフォリオムの顔つきが変わり、老練さを感じさせる眼差しがエレオノーアに向けられた。彼女はすでに次の一手を持っているようだ。《闇のアーカイブ》を司る彼女なりの最適解、ここにきて迷いも恐れもない表情で、エレオノーアはルキアンに告げる。
「おにいさん、今から伝える呪文を復唱してください、早く!!」
 エレオノーアが呪文を口にし、言われるがまま、その言葉をルキアンが繰り返す。
「光あるところ、必ず影あり……」
 少女の言葉を追う少年の言葉。繰り返すうちに、両者の距離は縮まり、二つの声はひとつに近づく。
「光強きところ、影もまた色濃く。昼と夜は、とこしえに繰り返し」
 エレオノーアが呪文を口に出すより早く、彼女の心に浮かんだそれがルキアンに共有され、同時に発声されているのだ。
 そんな彼らの変化を目の当たりにして、フラメアが興奮気味に言った。
「何よ、あの子たち! 完全に《魔力共鳴(シンクロ)》してる。あの娘、パラディーヴァでもないのに、あり得ない。違う……まさか、同じ時代に闇の御子が二人!?」
 ルキアンの左目の紋章とエレオノーアの左目の紋章が同時に輝きを増し、次の瞬間にいずれの瞳も闇色に染まる。ルキアン、そしてエレオノーアの髪も漆黒に変わった。大嵐の中のように二人の髪が舞い上がる。
 
 闇は光に、光は闇に。
 相克せよ、根源の両極。
 それは絶対にして永遠の理(ことわり)。
 青天の日輪、常夜の月輪(とこよのげつりん)。
 天界の槍を受け止めよ、冥界の楯。
 
 エレオノーアとルキアンの声がひとつに重なる。《光》属性による効果のみを、ただし完全に打ち消す《闇》属性の絶対防御呪文が完成する。
 ――もしこれで防げなければ終わりなのです。すべて託します、おにいさん!
 
「《天冥相殺・光と闇の天秤(ヴァーゲ・フォン・リヒト・ウント・ドゥンケルハイト)》!!」
 
 わずかに遅れ、12枚・6対の光の翼を四頭竜が開き、悠々と、空を覆い尽くすように羽ばたかせる。
 
 ――畏れよ、跪け、罪深き人の子ら。
 
《天使の詠歌(エンゲルス・リート)》」
 
 天から降り注ぐ、輝く霧雨にも似た光とともに、たちまちに心奪う清麗たる歌声、しかしながら聴く者を狂気の底に突き落とす御使いの呪歌が、周囲一帯に響き渡った。
 ルキアンとエレオノーアが互いの手を取り、握り合って前に突き出す。御使いの歌とルキアンたちの魔法が正面からぶつかり、拮抗している。だが明らかに《光》側の力、天の御使いたる四頭竜の方が優っており、このままでは、じきにルキアンたちは押し負けそうだ。
「全員で支えるぞ。フォリオム」
 アマリアがルキアンとエレオノーアの後ろに立ち、彼らに急激に魔力を送る。彼女のパラディーヴァ、フォリオムが光となってアマリアの体に溶け込む。一体化してさらに力を高めるつもりだ。
「マスター、あんたも早く、力を貸しなさいよ!」
 同じようにフラメアがグレイルとひとつになる。グレイルのまとうオーラが爆発的に高まり、真っ赤な光を放って紅蓮の炎のごとく渦巻いた。
「テュフォン、俺は今まで、魔法など使ったことがないんだが……」
 落ち着いているにせよ、ひとり残って突っ立ったままのカリオス。彼の肩のあたりに、ふわりと乗るようにして、テュフォンが耳打ちする。
「安心して、僕とひとつになって」
 押し負けそうになっていたルキアンとエレオノーアが、三人の御子とそれぞれのパラディーヴァの力に支えられ、《光と闇の天秤》の効果が御使いの呪歌を再び押し返す。一進一退。だが神竜は、余裕を見せつけるかのように四つの首をもたげ、轟雷にも等しい雄叫びとともに、さらなる力を解き放った。
 その強烈な勢いに、エレオノーアは思わず目を閉じる。
 歯痒そうな表情でアマリアが首を振った。
「押されているぞ。まがい物だとはいえ、さすがに《始まりの四頭竜》の力を一部でも得た相手。こちらには頼みとなる《闇》属性のパラディーヴァが居ない。厳しいな。いや、その前に、まだ足りない……」
 
「もう一人、《水》の御子はまだ来ないのか。彼女も、アムニスも何をしている?」
 
 ◇
 
 真っ暗な部屋の中、独りで過ごすには広すぎる空間。
 灯りさえ何ひとつ点けられておらず、すべてが闇に呑まれた、もう長らく時に忘れられた部屋。
 これが今の彼女にとっての《世界》だ。ただひとつ、許された居場所だ。
 
 暗闇の真ん中に、ヴェールを目深に被り、仕立ての良い黒の衣装を着た女性が座り込んでいる。時々、身を小さく振るわせる他には、彼女は凍りついたように動かず、何の変化もない周囲の暗さも相まって、本当に時が止まっているのかとしばしば錯覚しそうになる。
「我が主、イアラよ。君の力が必要だ。御使いの竜の力は想像以上に強い」
 暗がりに微かな光を従えて、水のパラディーヴァ・アムニスが、たまりかねて言葉を発した。流れるような青き長髪に、怜悧な瞳。彼の表情自体は常に冷静だが、内心までそうであるとは限らない。穏やかな水面(みなも)の底で、渦巻く暗流のごとく。
 《水》の御子・イアラから返事は帰ってこず、閉ざされた部屋いっぱいに再び静寂が広がる。アムニスがさらに何か告げようとすると、ようやく彼女は無言で首を振った。
「何度も言わせないで。いまさら、都合、よすぎる……。こんな世界のために、こんな人間たちのために、戦って、もし私が死んだなら……」
 涙をのみ込み、喉をしゃくり上げると、イアラは狂ったように憎悪を吐き捨てた。
「そんなの、私、ただの馬鹿みたいじゃない! アハハハ、おかしいよ!! 頼まれてもいないのに? 頼まれるどころか、私は憎まれ、傷つけられ、この世界から排除されただけ」
 
「私なんて居ない方がよい世界。それが《人の子》たちの、あなたたちの世界なら……自分たちで戦って、勝手に死んだら?」
 
 
 
【第56話 後編に続く】
 

※2023年9月に本ブログにて初公開。

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『アルフェリオン』まとめ読み!―第56話・後編


目次これまでのあらすじ | 登場人物 鏡海亭について
物語の前史プロローグ


5.イアラの世界、エレオノーアの歌


 
「笑える……。《あれ》は、本当に神様じゃないかしら。だって、こんな醜い世界を《再起動(リセット)》して、最初からきれいにやり直させようとしているのだから。《御使い》も、そんな神の意志を実現しようとする天使かもしれない。アハハハ、そうだよ、そうに違いないもん!」
 灯りの消えた部屋に座り込んだまま、イアラは甲高い声で笑い出し、この世界と人間に対しておよそ思いつく限りの怒りと憎しみの言葉をぶつけ始めた。やがて声は枯れ、彼女は涙を垂れ流しながら、力なく床に両手をついた。苦しげに胸を抑え、肩で息をしているイアラに対し、アムニスは、その身を実体化して彼女を支える。
 イアラの呼吸が整ってきたのを見計らい、アムニスは彼女と意識を共有する。他のパラディーヴァと同様、現在、アムニスもアマリアと《通廊》でつながっており、支配結界《地母神の宴の園》の中で何が起こっているのかを、アマリアを通じて手に取るように把握することができる。そしてアムニスを介し、マスターのイアラも、御使いの竜と戦う御子たちの姿を心に鮮明に浮かべることができた。
 幾重にもうねりながら宙空を埋め尽くす長大な尾と胴、輝く六対の翼を広げた四つ首の巨竜。言葉で語られ得る限りで最も遠い、どんな古の時代よりも、さらに久遠の彼方に霞む開闢のときから、この世界の背後に存在するもの――万象の管理者《時の司》、すなわち《始まりの四頭竜》。それを絵に描いた程度のものでしかない虚ろな似姿ですら、御子たちをこうして圧倒し、人の子がどれだけちっぽけな存在にすぎないのかを如実に知らしめている。
 四頭竜の姿は、目に見える形を取った絶望そのものであった。イアラは何か言おうとしたようだったが、言葉を呑み込んで、ただ口を開いたにすぎない。そのまま呆然と唇を緩めたままの彼女。人知を超えた御使いの印象は、イアラの麻痺した心さえも揺るがすものであった。内心の微かな畏怖の感情が大きく膨らみ、彼女の表情にもありありと現れ出るほどに。
 
「どうだ、怖いだろう?」
 日頃は気取った表現も多いアムニスが、率直に、ごく簡潔にイアラに問うた。
「彼らも、とても怖いに違いない。それでも戦っている。なぜ、何のためにだと思う?」
 答えがすぐには浮かばなかったのか、それとも答える気が無いのか、黙ったままのイアラに対し、アムニスが先程よりも言葉に熱を込めて告げる。
「御子が御使いたちと戦い続ければ、《今回の世界》が守られるから? その分だけ滅びの日が来るのは後になり、《人の子》たちは、より長く生き延びられる? だが、そういったことは《結果論》だ。彼らが戦う本当の理由はそこにはない」
 こうしている間にも、四つ首の神竜の魔力に押されながら、それでも《天使の詠歌(エンゲルス・リート)》の効果を必死に封じ込めている少年と少女。彼らを支える御子とパラディーヴァたち。その無謀にすらみえる戦いの光景を、イアラは突き付けられている。彼女の空っぽの胸に、アムニスの言葉が反響した。
「彼らも君と同じ、《予め歪められた生》の呪いを背負って生まれてきた。だから御子たちはそれぞれ、この世界に対して違和感、あるいは嫌悪の情すら覚えていたり、人間の中で孤独や疎外感に苛まれていたりする。たとえば彼のように」
 アムニスに促され、イアラがみたのは、以前にも目にしたことのある少年の姿だった。眼鏡をかけた脆弱そうな銀髪の少年が、魔力の著しい消耗に体をふらつかせ、意識を失いそうになりながらも、《光と闇の天秤(ヴァーゲ・フォン・リヒト・ウント・ドゥンケルハイト)》の力で御使いの竜に立ち向かっている。
「彼の世界は《ここ》ではなかった。あのルキアンという少年が信じていたのは……いや、信じることができたのは《空想》の世界だけだった。自分の中の閉ざされた世界で、光から目を背け、じっと息をひそめていた」
 暗がりに満たされた部屋をアムニスは見渡した。ここがイアラの《世界》だ。もう何年もほとんど外に出ず、彼女は一日の大半をここで過ごしている。他には特に目立ったものもないこの場所に山と積まれた画材や、描きかけあるいはすでに完成した様々な絵を、アムニスは慣れた様子で眺めている。
「その狭くて、いびつな居場所の中だけで、彼は、自身の空想の翼を自由に広げることができた」
 アムニスの視界には、イアラが思いを形にした、あるいは情念をぶつけた絵が所せましと並んでいる。中には、自然の風景や季節の花を題材にした作品、滅多に開くことのない部屋の窓からみえる庭園を描いた作品も少々ある。
 だが多くは、一様に暗く、息苦しく、画布の中から狂気が外にまで滲み出してくるような、陰惨で不気味な絵ばかりであった。無数の剣や槍の突き刺された墓場と思われる場所で、真っ赤な夕日を背に首を吊る男。動物の死骸らしきものを手に下げ、表情の抜け落ちた顔で、異様に大きい口を開けている子ども。多数の手、鋭い爪を持った妖怪が、人影を引き裂き、つまんで呑み込み、飽食している姿。秩序のない色合いで乱雑に殴り重ねられた線の上、怨霊のような顔を持った女が叫ぶ姿。陰鬱な笑みを浮かべた三日月のもと、黒い衣をまとった死の天使たちが誰かを探している様子。
 こうして彼女が描き出したのは、悪夢の只中にいるような昏き夢の世界だ。
「だが、彼は時々、閉ざされた暗い世界から、恐る恐る外を覗き見たくなることがあった。あたたかいもの、きれいなものにも、ふれてみたいことがあった」
 言葉静かにアムニスが語る。自分でも知ってか知らずか、イアラは身じろぎもせずそれに耳を傾け始めた。
「けれども、そういうとき、異界から這い出てきた獣を相手にするかのように彼をさげすみ、踏みつけにする者は少なくなかった。慌てて彼は、元の暗闇に心を逃げ帰らせる。だが今度は、彼の存在自体を危機に陥れ、この世界の平穏そのものを乱す戦争がはじまった。それに巻き込まれ、泣きながらあがいていくうちに、彼は新しい世界を手にし始めた。本当に彼のことを思う者たちが、手を差し伸べてくれた。その絆を守るために、自分自身にとって大切なものを奪われないために、ルキアンは戦っているのだと思う」
 夜のとばりと、分厚いカーテンとによって重く閉ざされた窓の方へ歩みながら、アムニスが言った。
「彼は君に似ている。孤独な闇の世界に安住を求めながらも、漏れ伝わってくる微かな光に本当は憧れを感じ、それに心惹かれながらも歩み出せずにいた。だが、彼は歩き始めた」
 窓際に少したたずんだ後、青い長髪を揺らめかせ、おもむろに振り返ったアムニス。
「君も恐れずに手を伸ばせ、彼らとともに心を集わせよ、イアラ」
 何か答えようとして、イアラが口を空けたが、そこで彼女は再び黙ってしまった。無言で待つアムニスに、イアラが遠慮がちに話し始めた。
「それは……。だけど、こわい。できないよ……。もっと、私に信じる勇気があれば」
 アムニスがイアラに歩み寄り、少し強引に顔を覗き込むと、イアラは無意識に一歩退いた。後ろを探った彼女の手が壁に当たる。アムニスがさらに踏み込んで、イアラは壁際に追い込まれるようなかたちになる。どういう気持ちの表れかは分からないが、震えて、目を大きく開いたイアラ。アムニスは、パラディーヴァ独特の青い瞳を輝かせて言った。
「マスター。失った勇気は、向こうから帰ってくるものではない。自分自身で取り戻すものだ」
「うぅ……」
 呻き声のような言葉を小さく口にし、イアラはうつむく。
 だがそこで、アムニスとイアラの心の目に恐ろしい光景が映った。
「あのドラゴンが再びブレスを放とうとしている。敵の《天使の詠歌》を抑えるだけで精一杯である今、灼熱の炎に襲われたら、彼らには防ぐすべがない!」
 御使いの竜の四つの首、それぞれの口元から今にも暴発しそうに炎が漏れ出しているのを、アムニスとイアラは目の当たりにする。
「君が必要だ、イアラ!!」
 アムニスが彼女の名を叫んだ瞬間、二人の《視界》は閃光と爆炎に遮られ、次いで天空まで濛々と立ち昇る煙が見えた。
 
 ◇
 
 神竜のブレスは、御子たちを焼き尽くし、この世から一瞬で消滅させたかにみえた。だが、その火焔の嵐が過ぎ去った後、なおも踏み留まる御子たちの影が目に映った。
 彼らを守り、御使いの竜に立ちはだかった小さな勇者が、ふらふらと空中に漂う。
「火には火を、ってね……。どうよ、そう簡単には、やられてあげないから」
 苦しげにつぶやきつつも、やせ我慢して四頭竜に向かって中指を立てているフラメアが、力尽き、目を閉じて落下した。慌ててグレイルが抱き止める。腕の中に簡単に収まるフラメアの小柄な体。まるで大人に抱き上げられた子供のようだ。
「無茶しやがって! 《炎》のパラディーヴァが、焼け焦げちまってどうする」
「あたしの炎の攻撃は、あいつにはあまり効かない。だけどそれは、向こうも同じ……はずなんだけど、それでもかなり痛かった。舐めてたかな」
 竜が炎のブレスを吐いたのと同時に、飛び出したフラメアは、燃え盛る盾のような魔法壁を創り出し、相手の《火》の属性の力に同属性の力を正面からぶつけたのだった。フラメアが相当の傷を負いながらも無事であるのをグレイルは確信し、安堵の溜息をついた。彼は敬礼のポーズを取り、わざとらしく厳かな調子で告げる。
「さらばだ、炎のパラディーヴァ、フラメア。嗚呼、君の名は英雄として語り継がれるだろう」
「こ、このお馬鹿! 勝手に退場させるな」
 こんなときにも冗談を言い合っている二人の様子をみて、エレオノーアが悲壮な面持ちの中にも口元を緩めた。
「おにいさん。あの人たち、こんなに苦しい戦いの中でも、不敵に笑って決して諦めていないのです」
 揺れる銀髪の向こうに、意志の力を秘めた目を輝かせるエレオノーアの横顔。それを見ながらルキアンも応じる。
「そうだね。僕らも、まだ諦めるわけにはいかない。多分、また《天使の詠歌》が来る。僕らの《光と闇の天秤》の効果は消えちゃったけど。でも、何度だって……」
 地面に膝をついていたルキアンが再び立ち上がる。ふらつきながらも互いに支え合って立つエレオノーアが、彼の言葉に頷いた。
「はい、絶対負けないのです!」
 ルキアンを励まそうと、必要以上に気力を込めて言ったエレオノーア。だがルキアンは、上級の闇属性魔法を休みなく濫発しており、彼の心身は疲労の限界に近づいている。もし、アマリアの《豊穣の便り》の刻印によって魔力を分け与えられていなかったなら、とうに彼が倒れていてもおかしくない状況だった。
 ――おにいさんは魔力を使い過ぎています。御使いが《天使の詠歌》を次に発動させるとき、さっきと同じように《光と闇の天秤》で防ぐことは、もう無理なのです。
 さらにエレオノーアは、他の仲間たちの方を見回す。幸い、アマリアとフォリオムは見た目には今までと変わらない。だがフラメアは竜のブレスに正面から対抗して深手を負った。彼女に守られたにせよ、それでも《炎》属性と元々相性の悪い《風》属性のカリオスとテュフォンも、少なからぬダメージを受けているようだ。
 ――《光》属性の御使いに対して効果的に戦えるのは、おにいさんの《闇》属性の魔法。ここで、おにいさんを回復してもらうためには、アマリアさんがかなり上位の魔法を詠唱するための時間が必要。だから、その時間を稼ぐために、《天使の詠歌》を私が何としてでも防がないといけないです!
 エレオノーアは拳を固く握る。その目は、いつになく真剣で、彼女は何か重大な決意をしたらしい。
 ――ルチアさん。あなたから託された《歌い手》の力、わたしにも、もっと引き出せるでしょうか。やってみます。見ていてください。
 炎のブレスに続いて、やはり再び《光》属性の《天使の詠歌》を発動しようと、四頭竜が魔法力を集中し始める。思い通りに動くこともままならない仲間たちの傍を通り過ぎ、エレオノーアが御使いに向かって立ちはだかった。
 ――我とともに歌え、《言霊の封域》。
「わたしはルチア・ディラ・フラサルバスを継ぐ者、この身に宿るは《光と闇の歌い手》の力。わたしの歌は、人魚の歌姫(セイレーン)のごとく心をとらえ、泣き女の精(バンシー)のごとく敵を狂気に突き落とす。天の歌い手すら、わたしの声には心震わせ、我を忘れるだろう」
  《言霊の封域》によって《歌い手》としての能力強化を自身に掛けつつ、エレオノーアは、使い方を覚えたばかりの例の支援衛星《マゴス・ワン》にサポートを依頼する。この衛星は、本来はアルファ・アポリオンを核とする戦略システムの一部なのだが、それを彼女は早くも自身の手足のように扱っている。
 ――《マゴス・ワン》へ、エレオノーアより緊急通信なのです。《メルキア》さん、さきほど記録した《天使の詠歌》の音を分析して、それを最も効果的に打ち消すことのできる魔曲を生成してください。それでですね、曲調は、厳かな雰囲気がいいかな。前新陽暦時代のレマリア風?みたいに。粛々と勇士を讃える歌、という感じで。依頼はできるだけ具体的に、でしたよね。
 ――お帰りなさい、《リュシオン》(=エインザール)の遥か未来の友人、エレオノーアさん。《マゴス・ワンの柱のAI》こと《メルキア》です。《詠歌》の分析は完了しています。これを打ち消す強力な呪力のノイズなら、もう何パターンか準備してありますが、歌の方がお好みですね。はい、人間の感覚ではそうなるのですね。了解……。曲データが完成しました。転送します。どうぞ、良き舞台でありますように。
 無言のわずかなやりとりのうちに、エレオノーアの青い瞳に不思議な自信が浮かび上がった。
「何を? 戻れ、独りでは危ない!」
 アマリアが叫び、ルキアンが後を追って駆け出す中、エレオノーアは目を閉じ、静かに、大きく息を吸い込んだ。そして御使いの呪歌が始まったとき、エレオノーアも澄んだ声で歌いはじめた。
「これは!?」
 人間の精神を破壊する《天使の詠歌》の発動に身構えたアマリアだったが、何かの異変に気付いたようだ。
 すでに頭を抱えていたグレイルとフラメアも、拍子抜けしたような顔で見つめ合う。
「御使いの呪歌が響いているのに、頭が痛くない。いったい何故なんだ」
「キミの場合、脳みそが入ってないからじゃない?」
「うむ。……って、お前な!」
 騒がしい《炎》の組に比べ、目立ちはしないが、この戦いにおいて常に沈着な《風》の組。マスターのカリオスが言う。
「この歌は? よく分からないが、《天使の詠歌》と重なり、その波動と混ざり合い、打ち消しあっているかのようだ」
 カリオスの言葉に気づいて、御子たちが視線を集めたその先には、神々しい空気感を伴って声を響かせる少女の姿があった。
「エレオノーア、その歌は」
 ルキアンには思い当たるところがあった。闇の血族に受け継がれてきた、代々の御子の記憶の中に。
「《光と闇の歌い手》、ルチアの……」
 12枚の翼を広げ、押し寄せる津波のごとく《天使の詠歌》を轟かせる御使いに対し、エレオノーアは、あくまでも静かに、胸元で両手を合わせて歌っている。だが不思議なことに、御使いが声をますます大きくするほど、逆に、風に木々がそよぐように、ごく穏やかなエレオノーアの歌が、相手の呪歌と混じり合ってその音をかき消していく。
「あの娘には、本当に何度も驚かされるな」
 自分では魔法をほとんど使えない《アーカイブ》のエレオノーアが、特殊能力である《歌》を使って《天使の詠歌》を防いでいることに対し、アマリアは素直に賛辞を贈った。だが彼女の深刻な表情は何ら緩まない。
「しかし、ここまでやっても、我々はただ、敵の攻撃から身を護り、何とか生き延びているという程度か。このままでは、いずれこちらの方が先に消耗し、地力の大きさの違いで御使いに力負けしてしまう。五属性の御子が心を一つにして《星輪陣》を使わぬ限り、我々は勝てない」
 
「イアラ、すべては君にかかっている。私の占いもそう告げていた」
 
 
【第57話に続く】

※2023年9月に本ブログにて初公開。 

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『アルフェリオン』まとめ読み!―第55話・前編

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あなたの知っているフィンスタルという人と、
私の知っているフィンスタルとの間に
どういう関係があるのか、それは分からない。

あなたのお話の中のフィンスタルは、
いまも微笑んでいますか。
悲しい伝説よりも、絶望的な事実よりも、
私は、たとえ作り物でも奇麗な物語が好きです。

だから私が、あなたを助けます。
さぁ、物語の続きを紡いで。

  ルチア・ディラ・フラサルバス
   某代の闇の御子
   そしてミロファニアの時詠み 光と闇の歌い手


1.虚海ディセマの果て、深海の神殿



 暗黒の口を開いてすべてを呑み込み、隙あらば圧し潰そうと待ち構えているような、この莫大な量の液体は、本当は海水ではなく、魔力を帯びた漆黒の絵の具か何かではないのかと――そのように目を疑いたくなることが何度も何度も続き、それに飽きてもなお、ルキアンたちは《ディセマの海》の奥底に向けて延々と降りてゆく。

 果てなき闇の海に包まれ、ぼんやりと灯った光がただひとつ。透明な球体の中に人影がふたつ見える。光それ自体が球を形作っているそれは、彼らがようやく立っていられる程度の手狭なものだ。本来なら、こんな脆そうな移動手段で深海の底になど辿り着けるはずもなく、そもそも中の空気すらすぐに尽きるだろう。だが、ここはあくまでもルキアンの創出した仮想世界、彼の意識下で納得ができていれば、それで問題は特に生じないのかもしれない。

「とても静かですね、おにいさん。どこまでも真っ暗で、何もなくて……。ちょっと怖いです」
 エレオノーアは不安げに外を眺め、それからルキアンに体を寄せかけた。
 ルキアンは、彼女と身体が触れ合うたびに相変わらず緊張しつつ、その緊張感が回を重ねるたびに少しずつ違う気持ちに置き換わっていることも感じていた。両腕が自然に接触したところから、彼はエレオノーアの手を恐る恐る握ってみる。握ったというよりは、何本かの指をそっと掴んでみたような、ぎこちない様子だった。
「そ、そうだね。僕は、人のまだ知らない深い海の世界といえば、見たこともないような不気味な生き物が隠れていると思っていたんだけど」
 ルキアンは、以前に手に取ったことのある一冊の書物のことを思い出した。この本は、敷居の高そうな、何の飾り気もない分厚い黒表紙の中に、その見た目からは想起し難い極彩色の挿絵を多数散りばめた貴重な作品だった。正確なタイトルは忘れてしまったが、博物学者と冒険家とを兼ねたような人物の海洋調査を旅行記風にまとめたものである。その章のひとつに、深い海で獲れる生き物を扱ったところがあり、海の淵に棲む奇妙なものたちの絵にルキアンは思わず惹きつけられた。小さな魚体に不相応な巨大な目をもつ魚や、体の半分以上を占めるのではないかという裂けた口に、刃物のごとき牙を何本も生やした魚、あるいは体中が幽霊のように白く、もはや光を映すことを忘れた濁った目をもつサメのような生き物、海の魔獣クラーケンと肩を並べそうな現実離れした巨体をもつイカ、そして、クラゲかナマコか何かよく分からない、毒々しい紅色をした漂う悪夢のごとき生物。深海に潜む、そうした者たちが、今すぐにでも眼前に飛び出してくるのではないかと、ルキアンは半ば興味津々、半ば心配であった。
 空想を巡らせている彼を気にせず、エレオノーアが言葉を返した。
「《無限闇》は、闇の御子の想像したものを領域内に創造する支配結界です。だったら、おにいさんの考えるような怪しい生き物に支配された深海の姿が、ここでも具現化されそうな気がします。でも実際には、そうなっていません。もしかしたら、おにいさんが思い浮かべたものの本来の実態も、それはそれで《無限闇》による創造に影響するのかな」
 急に小難しいことを並べ始めたエレオノーアに、ルキアンは慌てて答える。
「え、えっと、そう、なの? つまり、その、僕がいくら都合よく何かを想像しても、その何かがもともと持っている本質を無視した創造には、ならないってこと?」
「はい。おそらく。化け物さえ姿を現さない、一切が死に絶えた海。この状況こそ、《虚海ディセマ》に実体を与えたものに相応しいのかもしれません。それにですね、他にも、それに……」
「それに?」
 にわかに落ち着きのない態度になったエレオノーアに対し、首を傾げるルキアン。エレオノーアの方は、愛嬌のある怒り顔でルキアンに打ち明けるのだった。
「そ、それに、今の私です。この体、私の本当の体と隅々まで同じなのです。どうやって、そっくりに作ったのですか。もう、おにいさん! 私の……その、いろいろ……見たりしては、いないですよね?」
「え? 見てない、絶対に見てない! そんなこと言われても……。ただ、僕はエレオノーアに戻ってきてほしいって、ただ、それだけを念じたら」
 エレオノーアは仕方なさげに笑うと、膝を抱えるようにして座り込む。伝説の戦乙女を思わせる今の彼女の衣装も、仮の姿が創造される際、支配結界の力で作り出されたものだ。
「この服も、測ったわけでもないのに、どこをとっても私にぴったりの大きさです。細かいところの造りは勝手に《補完》してくれるなんて、とても便利な結界ですね。でも、ちょっときつめのところが、いくつか」
 そう言いながら、エレオノーアは着衣を整える。首から肩、胸にかけて大きく開いた造形のため、いまひとつ落ちつかないのか、胸元のところを何度も引き上げた。ルキアンは目のやり場に困りながらも、もはや開き直ったのか、それとも欲求にひかれて無意識のうちにか、彼女の胸の谷間を遠慮がちに眺めてしまっている。エレオノーアが《エレオン》だったときに、ルキアンが垣間見たそれとは、明らかに様子が違っていた。そうかと思えば、エレオノーアは、スカートの丈の短さが気になる様子で、もじもじと太腿を擦り合わすような仕草をしている。ただ、彼女の方も、ルキアンに見られていることを内心では分かっているようだったが。
 ルキアンは気恥ずかしくなったのか、話を逸らそうと、改めて周囲を見回して言う。
「それにしても、一体、どのくらい深く潜ったんだろう。何もない真っ暗な空間がこれだけ続くと、時間も、距離も、何もかもが曖昧になってくるよ」
「そうですね。もう全然、そういう感覚、なくなってしまいました。でも、おにいさんと一緒なら……」
 こわごわと、小鳥でも内に抱くかのように力の入っていないルキアンの指を、エレオノーアが強めに握り返した。互いの手が少し汗ばんでいる気がする。そっと見つめ合って、不器用な笑みを浮かべて、また前を向いて。
 こうしたやりとりが幾度ともなく続き、通常の時間感覚というものが二人から半ば失われようとしていたとき、沈下が止まった。音もなく、着地の感触すらおぼろげに、深海の底に降り立った二人。
 《ディセマの海》に入って以来、障害らしい障害にも遭遇せず、気味が悪いほど順調に海底へと辿り着いてしまったことに対し、彼らはむしろ不安を感じていた。お互い、そのことに敢えて触れることはなかったにせよ。
 真っ暗で何も見えないはずだが、これもルキアンの心象風景がかたちを取った結果なのだろうか――光る球体が着底した瞬間、舞い上がる砂煙が付近一帯を包んだのが分かった。そのとばりが徐々に流れ去り、海底にまた還っていったとき、エレオノーアが声を上げた。
「おにいさん! あそこに何かあります。ほら、建物のようですね」
 彼女が指差す方に、ルキアンもそれを見出した。
「何だろう。古い遺跡のようだけど、見た感じでは、神殿とか、そんな雰囲気の……」
 ついに手の届いた《虚海ディセマ》の深みの果て、そこに広がる海底平原に、ルキアンたち以外にただひとつ、光を放つものがあった。あやしく魅惑的でいて、しかし来るものに警告をも示しているような、青白く揺らめくオーロラ状の光幕の向こう、そびえ立つ幾本もの丸い石柱に担われた建造物がみえる。
 エレオノーアが言う。少し震えを帯びていたにせよ、同時に彼女の決意をもうかがわせる声で。
「この想像と現実との狭間で、あれだけが私たちにその姿を敢えて見せているということは……。あそこが、目指すべき場所ですね」
「行こう。そして君を取り返して、必ず一緒に帰るんだ」
「嬉しいです! ありがとう、おにいさん!!」
 喜びに瞳を輝かせ、エレオノーアはルキアンを正面から見つめる。そして唇を寄せ、目を閉じた。だが不意に何を思ったのか、彼女は慌ててルキアンから離れてしまった。
「ごめんなさい。おにいさんの言葉が嬉しくて、嬉しくて。でも、こんな偽物の私のままでは、おにいさんにふさわしくないのです。あ、偽物って……おにいさんに作ってもらった、この仮の体のことではないですよ。今までの私、私の全部が嘘の私……。こうして一度《消えて》みて、初めて分かったのです。もう逃げないで、向き合うべきことと、恐れずに私が向き合って、答えを出さないと、ずっとこのまま、私自身として生きられないと思うんです」
 エレオノーアは、今の自分の気持ちを素直に込めた瞳で、ルキアンを見上げるのだった。

 ――そうしない限り、きっと、《ディセマの海》からも二度と出られはしません。

 ◇

 海底に沈んだ遺跡とは思えないほど、例の建物の内部は地上と変わらない環境のもとにあった。
「よかった。息もできるんだね」
 ルキアンは安心し、空気があることを改めて実感しようと思ったのか、大きく深呼吸をしている。エレオノーアも、不思議そうな顔でルキアンや自分のあちこちを見ている。
「そうなんです。どういうわけか、服も体も全然濡れていません。やっぱり、ここ、おにいさんの想像の世界の中なのですね」
 二人は顔を見合わせると、今度は周囲の様子を確かめる。彼らは一本の通路に立っているようだ。まず天井は、2,3階建ての建物を貫く吹き抜けと同程度に、非常に高い。前方に目を凝らしてみても、奥は深く、薄暗くてよく見えないが、そこに向かって伸びる通路の幅は、外から見た建物自体の大きさからみると、意外なほど限られたものだった。
「結構狭くて、圧迫感がありますが、おにいさんと二人並んでも歩けそうでよかったです」
 エレオノーアはルキアンに微笑んだ後、一転して緊張感のある表情で言う。
「こんな狭いところに罠があったり、何かに襲われたりしたら、防ぎようがないかも、ですね」
 彼女は、すかさずルキアンと手を繋いだ。
「おにいさん、ここは並んで行きたいです。何かあった場合、二人とも一度で全滅する……かもしれないですけど。でも、もしおにいさんが前を進んで、私より先に犠牲になったりしたらいやですし、おにいさんが私の後ろにいて、私が見ていない間に消えてしまったりしても、いやですし」
 わざと、わがままそうな口調でそう告げると、エレオノーアは青い目を潤ませた。
「最後まで一緒なのです、おにいさん」
「もちろんだよ、エレオノーア」
 二人は、慎重に、今しばらく辺りの様子を調べてみた。壁も床も、硝子のように滑らかな手触りだ。不規則な黒い縞模様のある灰色の石が、緻密に磨き上げられ、一辺10数センチ程度の四角いタイルとなって足元に敷き詰められている。タイル同士の隙間に紙一枚さえ簡単には入りそうもないほど、精巧に作られていた。
 ルキアンは経験を積んだ冒険者などではなく、素人のやることに過ぎないにせよ、いま調べた限りでは、周囲に特に危険や問題はなさそうだった。エレオノーアも頷いた。
「心配は、ないかもです。そんな気がします。この通路、ただ真っ直ぐ進んで来いと、そんな作為性すら感じられます」
 通路はそれからしばらく続いたが、その間、特に目立ったことは起こらず、分かれ道もなく、彼女の言葉通り真っすぐにただ進むだけで事足りたようだった。

「この向こうに、何か大事なものがありそうですね。おにいさん」
 薄暗い通路の行きついた先、ルキアンとエレオノーアは、見上げるような漆黒の大扉の前に立っている。
 ――いや、ちょっと嫌な感じだな。そうだよ、これって、《楯なるソルミナ》の最後の部屋、《夜》の部屋の入口と感じが変に似ている気がする。
 言いようのない不安を覚えるルキアンに対し、エレオノーアは扉に記された文章を平然と読んでいる。
「不思議、ですね。見たこともない文字なのに、私、何故か意味が分かるんです」
 その言葉を読み始めた途端、エレオノーアの目つきが真剣になる。彼女はしばらく黙った後、自らの気持ちを整理し、これでよいと自身を納得させるつもりで、何度も大きくうなずいた。そしてルキアンに告げる。彼を見つめるエレオノーアの瞳には、強さと悲壮さとが共に漂っていた。
「おにいさん。この中に入れるのは《アーカイブ》の御子の方、つまり私だけだそうです。そして、この中で受ける《試練》を乗り越えれば、扉が再び開いて無事に出てこられます。そうなったら、多分、私は身体を取り戻して、一緒に帰れます。でも、もし《試練》に私が敗れたときには……。たしかに《執行体》の御子は助けに来てよい、と書かれていました。ただし、その場合に中に入れるのは、アーカイブと対になっている《執行体》、つまり、この扉と合う《鍵》を持っている者だけだとあります」
 そこまで話すと、エレオノーアは無言になり、うつむいたまま顔を上げなかった。それから、感情のない機械的な口調で、扉に掛かれた言葉を棒読みするように告げる。
「しかし、合わない《鍵》しか持たない御子が、すなわち別の《アーカイブ》と対になっている《執行体》が扉を開くことはできない。無理に扉を開こうとすれば、中にいる《アーカイブ》は引き裂かれ、失われる、と」
 エレオノーアは頭を振り、乾いた声で、珍しく投げやりな調子で付け足した。
「どうして、こうなるのかな。おにいさんと最後まで一緒だと思っていたのに……。おにいさんと私は対の御子ではないです。結局、《鍵》が扉に合わないって、ことですよね」
 黙ってしばらく見つめ合った後、エレオノーアが口を開いた。
「でも、私は《試練》を乗り越えてみせます。もし、私がなかなか帰ってこなかったら、無理やりにでも扉を開けてください。そのときには、私は完全に消えてしまうでしょうから、最後にもう一度だけ、この目でおにいさんを見ておきたいのです。そうすることで、私が引き裂かれても、死んでしまっても構いません。一緒に戻れないくらいなら、どうか、おにいさんの手で私に終わりを与えてください。辛いお願いをして、ごめんなさい」
「落ち着いて。僕はエレオノーアを信じるよ。それに、ここは僕の支配結界の中なのだから、何があっても、僕が何とかする。だから、大丈夫。君を待ってる。幸運を……」
 巨大な漆黒の扉、さながら帰らずの門のような不吉な場を前にして、二人は固い握手を交わした。
 一歩を踏み出し、振り向かず、エレオノーアが両手をかざすと、扉に光の文字が浮かび上がった。おそらく、それに呼応して、彼女の左目に闇の紋章の魔法円が現れる。そして最後に、黒い大扉が開くのではなく、エレオノーアの方が扉の中に吸い込まれるようにして、ルキアンの前から姿を消すのだった。


2.暗闇に沈む



 扉の向こうへと吸い込まれたエレオノーアは、次の瞬間には薄暗い部屋の中に立っていた。松明の灯りらしきものが壁にいくつか燃えており、その周辺の様子だけがぼんやりと目に見える。灯りの届かないそれ以外の場所は、闇に包まれている。奥の方の様子が全く分からないことからして、相当に大きな広間かと思われた。

 ――とても怖いです。この先で何が待っているのか、だいたい、分かるから。私自身が向き合いたくなかったことや、誰にも言えずに心の奥に秘めてきたこと、そういう暗い部分が形になって、容赦なく襲いかかってくると思います。
 エレオノーアは不安そうに振り返ると、入口の方にいったん戻るような素振りを見せた。
 ――勇気をください、おにいさん。
 だが彼女はすぐに立ち止まり、ゆっくりと息を吐き出すと、漆黒の大扉に再び背を向ける。
 そして顔を上げたとき、エレオノーアは身を凍り付かせた。彼女の目の前、ほとんど互いの顔が触れそうなところに、青白い顔をした黒ずくめの女が立っていたのだ。音もなく。いつの間にか。《それ》の両眼は白目だけでできており、瞳がなく、口は大きく開かれていた。
 危険を感じたエレオノーアは後ずさろうとするも、突然のことに脚が動かない。強張った状態から解き放たれる間もなく、彼女の首に、冷たく硬い何かの感触が走った。
「ひっ!?」
 言葉にも、悲鳴にさえもならず、エレオノーアが得体の知れない恐怖に身を震わせると、首筋のところで金具が閉まるような嫌な音がした。
「来るんだよ。この罪人(つみびと)!」
 黒衣の女の声や話し方は、何故かリオーネのそれと極めて似ている。最も信頼する人の言葉をこんなかたちで聞くことになるのは、とても理不尽な気がした。また、漆黒の法衣に、目深に頭巾を被った女のいでたちには、どことなくリューヌを連想させるところもある。
「な、なぜ……」
 わななく唇が自由に動くようになりかけたとき、鎖の鳴る音がして、エレオノーアは首を無理やりに引っ張られた。その痛みを避けようと、彼女は首と体を、渋々、引かれた方へと自分から動かす。彼女はまるで犬のように、あるいは奴隷のように、黒衣の女によって首輪と鎖を付けられていた。
「どうしてこんなこと、するんですか。やめてください!」
 エレオノーアは怒りと困惑の視線を向ける。だが狂気じみた笑いに続いて、黒衣の女は、なおもリオーネの声で繰り返す。
「まったく図々しいね。あんたの罪は、自分自身が一番よく知っているくせに」
「私の……罪?」
 何も気づいていないような答えを曖昧に返す一方、エレオノーアは「罪」という一言を突き付けられたことで動揺し、今まで覚悟に満ちていた目や、彼女の言葉から、急激に気力が抜け落ちていったように思われた。それでもエレオノーアが懸命に耐え、立ち向かおうと勇気を振り絞っている様子は、わずかに見て取れる。
「図星だね。そうやって、自分でも罪の重さを認めているのだろう?」
 黒衣の女は吐き捨てるようにそう言うと、血の気の一切無い、異様に白い手で鎖を握り、エレオノーアを引っ立てていく。その先には、同じように黒い法衣を身に着けた2人、いや、2体の存在が、身じろぎもせず立っていた。血の通った生き物の気配のしない《それ》らは、エレオノーアをあの世へと誘う死神のようでもあった。
 彼らの前で黒衣の女はエレオノーアを突き放す。エレオノーアは転げ落ちるように、湿った煉瓦の床にしゃがみ込んだ。その姿を黒衣の女と他の2体が見つめ、広間に再び沈黙が満ちた。静寂に押し潰されそうな幾秒かの瞬間が過ぎた後、エレオノーアが、微かに震えた声で口を開く。
「お願いです。私の体を返してください。帰りたいです、おにいさんのところに」
 彼女の言葉が終わろうとする間もなく、黒衣の女が大声でののしる。
「救いようのない馬鹿だね。あんたは、もう消えたんだよ! 跡形もなく消えて、《ディセマの海》の底にこうして還ってきたのさ。いや、元々、生きていてはいけない者だと、自分でもよく分かっているだろ」
 こうしてリオーネの声で罵倒されるのは、エレオノーアにとって、とりわけ辛いことだった。
「そ、それは。それは……。でも、私は」
 エレオノーアが次の言葉を飲み込み、答えに詰まったとき、黒ずくめの2体のうち、小柄な方が歩み出た。《それ》の被っているフードが揺れ、人ではなく骸骨の姿が現れる。そこから出てきた声は、幼い少年のものだった。
「だったら、おねえちゃん、僕らの命を返してよ。これまでに、一体、何度の《聖体降喚(ロード)》が行われて、どれだけ沢山の子どもたちが《聖体》の《器》にされ、失敗して死んだと思っているのさ」
 無邪気な声で、大人びた言葉を投げつけてくる《それ》に対し、エレオノーアは、事前に思っていたようには反論できなかった。
「僕らが何をしたの? 僕は、ただ、その日まで遊んだり、ご飯を食べたりしていただけなのに、ママと引き離されて、何も分からないまま、《受肉(インストール)》された《聖体》に適合できず、体がバラバラになって死んだんだよ。おねえちゃんだけ、なんで生きてるの?」
 少年の声をもつ骸骨は、エレオノーアの前まで近寄る。もはや表情を現せない朽ちた白骨の顔で、それでも彼は、皮肉に笑ってみせたように感じられた。
「ねぇ、知ってるよね。《ロード》が実行されるときには、町や村がひとつ、まるごと生贄にされるんだ。おねえちゃんが生まれたせいで、どれだけ多くの人が犠牲になったと思っているの?」
 《それ》は、干乾びた骨の指でエレオノーアの顎をつかみ、戦慄する彼女に対し、もはや眼球の抜け落ちた二つの暗い穴を向けた。
「そんなに沢山の、罪の無い命を踏み台にして生まれて、どうして平気で生きていられるのかな。何も感じないの? おねえちゃんには、人間の血が流れていないの? 生まれてきて本当にすみませんでしたと、床に頭を擦りつけてみろよ。そして消えてしまえ!!」
「わ、私は……」
 エレオノーアの態度が微かに変わった。戸惑いに任せていた体に、指先に、徐々に力がこもる。
「たしかに、私なんか生まれてこなかった方が、よかったかもしれません。それでも……私自身は、生まれてきてよかったと、思っています」
 強い意志を帯び、青く澄んだ瞳で、彼女は骸骨を見返す。
「私は、リオーネ先生に救われました。先生は、本当のお母さんのように大事にしてくれて、沢山のことを教えてくれました。私は生まれてきて、生きて、信じ続けたから、大好きなおにいさんと出会えました。おにいさんや先生に受け入れてもらったことに、想いに、応えたいのです。私からは、まだ何も返せていません。だから私は、ここで消えるわけにはいきません!」
 《それ》と睨み合うエレオノーア。
「私を生み出すために犠牲にされた人たちに対しては、お詫びの言葉をどんなに尽くしても、決して足りることはないと思います。でも、それでも……」
 エレオノーアは声を大にして、これまで敢えて言わなかったことを、もはや善悪や是非の問題を度外視して、気持ちのままに吐き出した。
「それでも、何といわれようと私は生きて、おにいさんと一緒に《御子》としての使命を必ず果たします。たとえ、血だまりの中から創り出されたのだとしても、どんなに忌まわしい存在でも、それでも生まれてきた御子が世界を救わなければ……生贄にされた人たちは、ただ意味もなく命を奪われたことになってしまう。私は嫌です、そんなこと!」
 火花の散るようなその場に、もう1体の黒衣の者が加わった。エレオノーアの表情が強張り、目に陰りが走る。というのも、《それ》は、驚くべきことにエレオノーアと同じ顔をしていたのだ。
「違う。それはあなたが決めることではない。そうやって図太く生き延びて、犠牲になった多くの魂をいつまで冒涜し続けたら気が済むの?」
 自分と同じ姿をした相手から責められても、それでもエレオノーアは、すぐにはうろたえなかった。だが、次の言葉を聞いた途端、彼女は信念にくさびを打ち込まれ、覚悟が揺らぐような思いに陥った。
「そういうこと、言ってもどうせ無駄かしら。生贄にされた人たちの命や御子の使命なんて、建前で挙げているだけで、あなたにはどうでもいいことなのでしょう? 本当はただ、愛しい《おにいさん》と一緒にいたい……あなたが考えていることは、結局、そればかり。もっと本音のところでは、《おにいさん》に抱かれたくて、いつも妄想に溺れている気持ちの悪い女。それがいかにも理想に殉じるという顔をして、この、嘘つき、けだもの!」
「違います! 私はそんな……」
 最初の黒衣の女が、そこでまたリオーネの声をもって加わった。
「違わないよ。あたしが今まで何も知らなかったとでも、思っているのかい」
 一瞬、エレオノーアは身体をぴくりと震わせ、目を大きく見開いた。
「きれいごとよりも、あんたは御子であるよりも先に、女としての自分の欲望にばかり忠実に動いている。普段は少年みたいな格好をして、何も知らない純朴そうな顔をして、とんでもない子だよ。あんた、ルキアンに言ったね。《日が暮れると、もっと寂しくなってきて。おにいさんのことが、どうしようもなく気になって……》」
「や、やめてください!」
 エレオノーアは、急におどおどとして、慌てて止めようとする。しかし、リオーネの声は淡々と話を続ける。
「《ベッドに入っても眠れなくて、とてもとても切なくなって、おにいさんのことを想うと身体が熱くなって、そして……そして私は……》。そして、それからどうしたの?」
「どうって、それは……」
 そこで言葉が終わったまま、エレオノーアはしばらく彫像のように動かなくなった。
 彼女自身からの答えが返ってこないことを確認し、《それ》が手をゆっくり上げると、壁に掛けられた大きな鏡の表面が次第に渦を巻いて何かの形を取り始める。
 おそらく魔法の力を宿した鏡面は、今の時点では少し濁った色をしていた。鏡を支える燻し銀の外枠が、これまた異様で、とてもではないが気持ちの良いものではない。蜘蛛のように長い手足をもった小鬼を思わせる生き物が、四角い枠と一体になって無数に群がり、絡みつき、覗き込もうとしている。卑劣な小鬼たちが、鏡に映る者を寄ってたかって嘲笑っているような、そんな醜悪なデザインである。
 まもなく、魔法の鏡に浮かぶ絵姿がはっきりとして、そこに何が現れるのかを理解せざるを得なくなると、エレオノーアは平静を失い、拒否の言葉を繰り返した。
「い、いや、いやです……。見たくないです、見せたくないです、やめてください」
 天井から床までを占める巨大な鏡に映し出されたものは、灯りの消えた寝室だった。穏やかな月光のもと、簡素ながらも、愛くるしいクマやネコのぬいぐるみで、あるいは野の花で飾られた部屋。壁際にベッドがあり、そこにエレオノーアが横たわっている。
 その様子に特に違和感のあるところはないにせよ、エレオノーア本人は、真っ赤になったり青ざめたり、半開きの唇を振るわせ、弱々しい上目遣いの視線で慈悲を乞うている。
「お願いです、お願いですから。これ以上は、もう……許して、ほしいです」
 だが懇願の言葉は無視され、鏡の中のエレオノーアは、布団を首まで深めに掛け直すと、思い詰めた表情で目を閉じた。ベッドに身を横たえたまま、やがて彼女は幾度も《おにいさん》と口にし、切なげな表情で身悶えを繰り返す。その尊い名が唇からこぼれるたびに、それに呼応して吐息は荒くなり、銀の髪は乱れ、紅潮した頬だけでなく、耳から、首筋から、体中が次第に薄紅色に染まっていく。
「おにいさん。早く会いたいです、わたしのおにいさん……」
 上気した顔のエレオノーアが、絞り出すように、うめくように、恍惚としてつぶやく。
 その姿は、それ自体としては決して恥じるべきものでもなく、美しかったにせよ、この場においてはエレオノーアの敗北を暗示していた。
「これがあんたの本性だよ。最初は、おにいさんに会いたいと独りで飛び出して、それからも、こうやって己の欲望に流されながら彼を待ち続け、そして彼に出会えたら、今度は強引に一緒についていく……。分かりやすいねぇ、あんたの行動原理は」
 意地の悪い指摘を、よりによって尊敬するリオーネの声で行われ、エレオノーアの罪悪感はいっそう高まっていく。気が動転して頭の中が空っぽになったまま、エレオノーアは精一杯の勇気を振り絞り、途切れ途切れの言葉で言い返した。
「た、たとえ、はじめは妄想でも……ひ、人を……人を愛しく思って、切なくて、辛くて……それで……その、どうしようもない、気持ちを、何とかしたくて……その、それの、何が……悪いの、ですか」
 極度に満ちた怒りと恥じらいで、顔中を真っ赤に染めながらも、必死に睨むエレオノーア。黒衣の女は、彼女の方を見て溜息をつき、ちょうどリオーネがエレオノーアを叱るときのような調子で告げた。
「本気でそう思っているのかい? よく考えなさい、エレオノーア。何の罪もないのに虐殺された沢山の命と引き換えに……あんただけが生き残って、それなのに、ただ自分の欲望に身を委ねて。そんなふうに生き続けること自体、本当に、失われた魂たちへの冒涜だよ。もういいだろ、おとなしくこのまま、無に帰りなさい」
 自分の中だけに秘めておきたかった姿を露わにされ、同時に、《ロード》の犠牲になった者たちへの後ろめたさを痛烈に思い起こさせられ――もはや抵抗する気力を削り切られたエレオノーアは、言葉をひとつも発することなく、がっくりと床に手を付いた。
 そんな彼女の心に最後の一撃を加えに来たのは、エレオノーアと同じ顔をした黒衣の者である。《それ》は広間中に響き渡る嘲笑の声を上げたかと思うと、エレオノーアが最も恐れていたことを、とどめとして突き付けた。
「無様な姿、いい気味だわ! ねぇ、あなたが欲望を実感しているその体は、もともと、私の体を《器》にしたものだってことを、忘れていないでしょうね。他人の体を勝手に乗っ取って、さも人間であるような顔をしている化け物。これ以上、私を汚さないで! その体も魂も、何一つ、あなたのものなんて無い!!」

 両手で顔を押さえてすすり泣きながら、とうとう、エレオノーアの心は真っ二つに折れてしまった。

 ――はい……。あなたの言う通り、私なんか、最初からどこにもいなかったのです。この体となった《聖体》も《器》も、どちらも私ではありません。そう考えている私の心さえ、この私自身だって……《聖体》が人間を演じている結果、仮に生じただけの、虚ろな現象に過ぎないのかもしれません。

 エレオノーアは、うわごとのように繰り返した。

「私は《消えてしまった》のではなく、どこにもいなかったのですね。そうです、いないのです」

 彼女の周囲の床の色が、白い紙に絵の具の染みが広がるように、徐々に真っ黒に変わり始めた。煉瓦の床が溶け出し、泥沼と同様の様相になる。その中から、死霊を思わせる枯れ枝のような細い腕が何本も伸びてきた。それらはエレオノーアの手や足、体中に取りついて、彼女を底無しの暗闇に引きずり込んでゆく。

 ――それでも、もう一度だけ会いたかったです。おにいさん……。

 エレオノーアは、《試練》を超えられなかった。
 そして《ディセマの海》に、永遠に沈む。


【第55話 中編 に続く】

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『アルフェリオン』まとめ読み!―第55話・中編

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3.光と闇の歌い手



 エレオノーアとルキアンが《ディセマの海》の深奥に挑んでいた頃、《ディセマの海》自体を――つまりは、無尽蔵とすら思える莫大さではあれ、何らの実体も有しないデータの集積体であるその《虚海》を――具現化し、人が知覚可能な《死に絶えた黒き大洋》という仮の姿を与え、これを支配結界の中に維持し続けるという困難な役割を担っていたのが、《地》の御子のアマリア・ラ・セレスティルと、同じく《地》のパラディーヴァのフォリオムであった。
 闇の色にも近い、非常に濃い紺碧の色に染まった海原が、視界一面、鏡のように、小さな揺らぎさえなく時の中に凍り付いたような海面となって、果てしなく続いている様子は、壮絶な美しさをも感じさせるにせよ、それ以上に不気味な光景であった。静けさの中にはかり知れない狂暴性を秘めた《ディセマの海》と対峙しながら、アマリアは手にした杖に力を込め、この得体の知れない相手を、ルキアンから引き継いだ魔力の縛鎖で目の前に繋ぎ留めている。
「わずかにでも気を抜くと、《虚海ディセマ》の実体化が解かれ、この広大な《海》が一瞬で霧散する。そういう、あり得ない光景を見ることになりそうだ」
 アマリアの身体から迸る霊気が渦を巻き、幾重にも絡み合って爆風のごとく立ち上り、巨大な光の柱となってそびえる。完全に覚醒した御子、もはや《人の子》の次元を超えた彼女の力をもってしても、《虚海》を結界内にとどめておくことは容易ではなかった。
 後頭部で一本に編んだ髪を揺らしながら、アマリアが表情を微妙に硬くする。
「仮にエレオノーアが海底から戻ってきても、彼女とルキアンがそのまま元の世界に帰れるなどとは、私は考えていない。《聖体降喚(ロード)》によって生成されたエレオノーアは、《人の子》として生まれた御子が決して逃れられない《永劫の円環》の呪いから、完全に免れている。つまり、彼女が生まれ、生き続けていることそのものが、《あれ》の理(ことわり)に反している。しかも、本来はこのまま消え去るべき運命にあったにもかかわらず、彼女が再びよみがえるならば……これによって、世界の根源たる《絶対的機能の自己展開》は、万象を支配する因果律と矛盾する存在を受け入れざるを得なかったことになる。そんなことを《あれ》の《御使い》たちが許すはずがない」
 遥か彼方、遠くに潜む何かを睨み、敢えてその何かに対して宣言しようとするかのような挑発的な口調で、アマリアが言った。
「だから、あの《古き者たち》が、何らかのかたちで必ず介入してくる。たしかに彼ら本来の力ではなく、ルキアンの支配結界《無限闇》の制約に服した、限定的かつ我々と対等な次元での介入ではあれ。それでも私とルキアンの力だけでは太刀打ちできない。そのこともあって、ここから先は、他の御子たちの力も借りようと思う」
 アマリアは、彼女を隣で支えるパラディーヴァの名を呼び、目元にわずかな笑みを浮かべた。
「どうだろうか、私もそれほど己惚れてはいないだろ、フォリオム? 頼まれてくれるか」
 主従というよりは親子にも似た、頼もしい大人に成長した娘を、ある種の眩しさを感じつつ誇らしげに見守る老いた父親のように、地のパラディーヴァ・フォリオムは白髭を緩めてうなずく。
「わが主アマリア、聞くまでもないことを。任せるがよい。まずは、あの者たちには話が付いておるわい」
 
 ◇
 
 いささか仰々しく、芝居がかった言動も繰り返される《地》の御子とパラディーヴァのやり取りに比べると、フォリオムのいう《あの者たち》、つまり《炎》の御子と同パラディーヴァの間にみられる関係性は、趣のかなり異なるものだった。
 おそらくは《鍵の守人》の基地内の一室をあてがわれたのであろう、いわゆる「旧世界風」のデザインの典型のような、殺風景な病室を連想させる飾り気のない部屋の中。灯りの消えた真っ暗な室内に炎が突然揺らめき、空中で人の姿をとった。火炎のようなフリルと、フリルのような火炎――両者の区別がつかない幻想的な装いで、いずれをもその身にまとう《炎のパラディーヴァ》フラメアは、一見すると可愛らしい少女の姿で、目の前に眠る自らのマスターを容赦なく叩き起こした。
「ねぇ、マスター。起きてよ。ねぇ……。こら! 起きろ、この怠け魔法使い!!」
 その体と同じく炎に包まれた手で、フラメアは、ベッドに寝ていたグレイル・ホリゾード、つまりは《炎》の御子を揺り起こす。ちなみに彼女は、見た目には恐ろしい焔(ほむら)をまとっているにせよ、それは物理的な炎ではなく、また実際の身体の温度も自在に変えられるため、グレイルに火傷の心配はない。ただ、それでも今のフラメアの指先は、相手を火傷させない範囲でわざと高温に保たれているようだった。
「あっ、熱っ! おいおい、こんな夜中に一体何だよ……。あ、お前、さては……その、夜這いか?」
 一瞬、寝ぼけ眼で周囲を眺めた後、わざとらしく騒ぐグレイル。
「よ、よ……夜這いって。アンタね、一回、消し炭にしてあげようか」
 取り巻く炎のおかげで、フラメアの顔色は分からなかったが、多分、彼女の頬もそれなりに赤く染まっているようだった。だがフラメアは、不意に緊迫した表情になって、ただでさえ大きい声を一層荒らげて告げる。
「それはともかく、いますぐ《通廊》、開きなさいよ! 全力でいくから。そうね、最終決戦の模擬訓練だと思って、死ぬ気で魔法力全開!!」
「無駄に暑苦しいお言葉だな。で、何? つーろー? 何だよ、それ」
 その答えを予想していたかのように、フラメアは天を仰ぎ、大げさに肩を落とす仕草をした。
「あのねぇ、《通廊》も知らないの? 分かった。わーかったってば。細かいことは後で。いいから、私に魔力を全部貸しなさいな、マスター君」
「全部って……俺、後で、干乾びたミイラみたいになっちまわないだろうな?」
 そのような過激なことも平気でやりかねない相棒の性格を思いつつ、グレイルは本気で少しだけ慄くのだった。
 
 ◇
 
 ――もう、何が何だか……。わたし、今度こそ、本当に、消えちゃうのかな……。
 薄れゆく意識の中で、エレオノーアは無表情につぶやいた。もはや視覚や触覚で感知できる世界であるとも、自身の内面に浮かぶ心象の世界であるとも区別できない、あらゆる雑多な感覚が交じり合い、煮詰められたような認識の淀みの中を、エレオノーアはいつ終わるともなく落ちていく。
 《虚海ディセマ》の底に蓄積される、ほぼ無限のデータの一部として、己の存在が無に還っていく過程は、事前に恐れていたよりも遥かに恐怖も痛みもなく、ある種の心地良さすら伴うものであった。あたかもそれは、母なる海に帰り、その懐に永遠に抱かれるような感覚である。
 ――あれ? 最後に誰かの、姿が。おにい、さん……? 違う。あなたは、誰、ですか。
 万が一、ここで自我を保てなくなれば、完全に《ディセマの海》に溶かされ、存在自体を消し去られてしまう寸前、エレオノーアの心に眩い光が溢れ、その向こうに誰かの姿が――知らない人物だけれど、なぜか無性に懐かしい――独りの女性が手招きする姿があった。優美でありながらも儚げな空気を漂わせる、あるいは少女から大人になって間もない、エレオノーアよりも幾つか年上であろう女性が、車椅子に乗り、見た目には無垢な笑顔で小鳥たちと戯れている。
 彼女はエレオノーアの方を向き、一礼とも、うなずきともよく分からない仕草をした。だが、互いの目があった瞬間、エレオノーアは分厚い空気の壁に正面からぶつかったかのような、心の奥底までかき乱される衝撃を、体中で感じた。
 対するもう一方の女性は、あくまでにこやかに、可愛らしさと気高さとが交じり合った独特の雰囲気で語り始めた。
「こんにちは、わが友、遠き世界の闇の御子よ。私は、ミロファニア王女、ルチア・ディラ・フラサルバス。私のことを、人は《ミロファニアの時詠み》あるいは《光と闇の歌い手》と呼びます。そして、あなたも気づいているように、私も闇の御子です」
「こ、こんにち、は!!」
 さほど変わらない年頃でありながらも、比較にならない威厳をもったルチアに対し、エレオノーアは緊張しつつ、なぜか全力で普通の挨拶をしてしまった。それと同時に、エレオノーアは、先程までの意識の混濁や身体が溶けていくような感覚が、すっかり消えていることに気づいた。加えて、ルチアの名前を耳にしたときから、エレオノーアは、己自身もこれまで一度も思い起こしたことのなかったルチアに関する記憶が、《知らなかった》はずのことが、それにもかかわらず極めて鮮明に思い出されてくるということを、不思議な気分で体験していた。これが《アーカイブ》の能力の一端だろうか。エレオノーアは、それこそデータベースから読み出すように、自身の手の届く限り、ルチアにかかわる記憶をよどみなく参照する。
 ――ルチア・ディラ・フラサルバス。これまでに無数の世界に存在してきた御子たちの中でも、ごく限られた、本来の紋章の他に別属性のもう一つの紋章を併せ持つ、《双紋の御子》の一人ですね。しかも彼女は、右目にもつ《闇》の紋章に加えて、左目のもうひとつの紋章も、ほぼ完全に使いこなすことができました。他の《双紋の御子》は、申し訳程度にしか、二つ目の紋章を扱えないものですが。かつ、左目のその紋章は《光》。自然の四大とは異なる属性である光と闇の紋章をいずれも完璧に使える御子など、彼女の他には存在しません。でも……」
 そこでエレオノーアは、心の内でこれ以上つぶやくことを戸惑った。
 ――でも、彼女は戦いませんでした。最後のときに至る直前まで。彼女ならば、《あれ》の《御使い》たちから世界を救うことができたかもしれなかった、にもかかわらず。
 とび色と闇の色が交じり合ったようなルチアの目が、穏やかさはそのままに、同時に逃れられない鋭さをもって、エレオノーアの青い瞳をとらえた。
「そうですね。私は信じた。だから戦わなかった。いいえ、今は時間がありません。あなたとは、また近いうちにお茶でも飲みながら、ゆっくり二人で語り合ってみたいものです。もっともそれは、こうした幻の中での話にすぎませんが」
 黙って肯くエレオノーアに対し、ルチアも満面の笑みを浮かべ、さらに言葉を続けた。
「本当なら、私は、後の世の御子の前にこうして姿を現すつもりは無かった。たとえば、あの破戒僧のようには……。それでも、《縁》があった。あなたとルキアンと、私との間に深い《縁》があったのです。ひとつは《フィンスタル》、もうひとつは《ミロファニアの姫》という二つの強力な《概念連環》が、時代も世界も異なる私たちを結びつけたようですね。ちなみに《概念連環》というのは、本来は関連性の薄い異なる時代や異なる世界の別々の事象が、メタ的な視点からみた場合に、ある特定の概念にかかわって一定以上の類似性をもつ構造を有している……そういうことです」
 《概念連環》の説明にはあまり関心は無かったが、フィンスタルという名を聞いた途端、目を輝かせ、話の続きを期待したエレオノーア。そんな彼女とは対照的に、ルチアは抑揚を控えめにした調子で言った。
「あなたの知っているフィンスタルという人と、私の知っているフィンスタルとの間にどういう関係があるのか、それは分からない。ただ、私の知っているフィンスタルは、いつも優しい目をして、静かに微笑んでいました。そして私を支えてくれました。しかし、私は、彼の願いを結果的に裏切ることになってしまいました」
 エレオノーアは、過去の御子たちに関する情報をも詳細に記録している、自身の《アーカイブ》の力を呪わしく思った。ルチアについてもそれは同様だった。
「あ、あの……。ルチア、様。私も知っています。それ以上、おうかがいするのは、心が、痛い……です。いいえ、その、あなたの心を、お許しもなく、後の時代から覗き見たような私を、どうかお許しください」
「良いのです、良いのです、エレオノーア。可愛い人ですね、ますます気に入りました。《様》などと、他人行儀に呼ばないでください。私たちは共に闇の御子、魂の記憶で結ばれた闇の血族なのですよ」
 ルチアはエレオノーアの手を取り、彼女の頬に優しく口づけをした。
「ねぇ、エレオノーア。あなたのお話の中のフィンスタルは、いまも微笑んでいますか?」
 涙をまき散らしながらも、それらと決別するような、泣きながらの精一杯の笑顔を浮かべて、エレオノーアは即答した。
「はい、姫様! あ、違いました、ルチアさん。勿論ですとも! フィンスタルは笑っています。いいえ、正しくは、私はフィンスタルに笑っていてほしいのです。私にとって、その物語だけが、空想だけが、くじけそうになる私の心を支えてくれました」
 何故かルチアにはすぐに気を許せてしまったエレオノーアは、その場の勢いで語った。
「会ったこともなかった、まだ知らなかった《おにいさん》を想う、私の夢みたいな気持ちの悪い妄想を、それでも少しだけ、愛と呼んでよいのなら……その消えそうな、ただ一方的で自分勝手な愛を支えてくれたのは、私が都合よく創った《フィンスタルのその後の転生》についての物語だけでした」
 そこまで告げ、いまさらのように気づいて恥じらうエレオノーアに対し、彼女の頭をルチアは撫でて、諭すように言う。
「分かりました。そうだと思っていましたよ。悲しい伝説よりも、絶望的な事実よりも、私は、たとえ作り物でも奇麗な物語が好きです。だから私が、あなたを助けます。さぁ、もう一度生きて、物語の続きを紡いで」
 ルチアとつないだ手を、目を潤ませて、嬉しそうに、無意識に揺さぶるエレオノーア。そんな彼女を好ましく思いながら、ルチアはさらに付け加えた。
「それからもうひとつの《縁》は、《ミロファニアの姫》をめぐるもの。私は、かつて自らがいた世界にて、ミロファニアという国の王女でした。これに対し、《今回》の世界にも、いくつかの意味において《ミロファニア》と同様の位置づけにある王国が存在するようですね。そこの《姫》と私の間には、血縁や地縁などとは全く異なる次元での《概念連環》が存在します。その《姫》とルキアンとの絆が、私とルキアン、そしてあなたとの縁をつないだのです。彼らの絆は極めて強い」
 エレオノーアは、若干、複雑な想いで尋ねた。
「それって、もしかして《ミルファーン》王国の《姫様だった人》のことでしょうか」
 《その人に、会うために》――大切な《おにいさん》、すなわちルキアンが、ハルス山地に来てエレオノーアと出会ったのは、そもそも、傷心の彼が、ミルファーンの元姫、つまりはシェフィーア・リルガ・デン・フレデリキアを訪ねての旅の途上だったのだ。
 ルチアはエレオノーアの銀の髪を手ですくように、彼女の頭を優しく撫で続ける。
「どうでしょうか。この《概念連環》にいうところの《姫》というのは、記号のようなもの、あるいは象徴的なものであって、その方が今も王女の地位にあるのか、そうではないのかということに、それほど意味はありません。いずれにせよ、ルキアンと彼女との関係は、互いの深い闇が引き合う磁石のようなもの。その方は、彼にとって、あなたに対するのとは違った意味で、とても大切な人です」


4.「言霊の封域」、受け継がれる力!



 「おにいさん……」

 不安げだったエレオノーアの表情が、ルキアンとシェフィーアの間にとても強い絆が存在するということを耳にした後、いっそう曇った。彼女は思い起こす。そういえばリオーネの家でも、ルキアンがシェフィーアのことを口にするとき、目を輝かせ、彼女のことをまるで自身のことのように、そして誇らしげに語っていた様子を。
「変な心配をさせてしまったかしら。ごめんなさいね。でも大丈夫ですよ」
 エレオノーアの頭を撫でていたルチアは、彼女の心配など気にも留めないような調子で笑い、首を振った。それでもエレオノーアの方は、ルキアンとシェフィーアのことを考え出すと、もう気が気でない。
「シェフィーアさんという人は、かなり強引で自由奔放な人みたいですし、しかもきれいな大人の女性で……もしも、わたしの、お、おにいさんを……とられてしまったら、どうしましょう!?」
 エレオノーアは半泣きになって、ろくに言葉も選ばず、ルチアの顔を見た。だがルチアの方は笑顔を崩さず、なぜか確信をもって断言する。
「だから、そんな心配は要らないのです」
「どうしてですか?」
「シェフィーアという方に会ったら分かりますよ。それに、彼女に対するルキアンの気持ちも、若い男の子に時々ありがちな、同世代の女の子とは異なる素敵な年上の女性への漠然とした憧れ、人によっては母親への思慕に似たようなところのあるものにすぎません。彼の場合、それに、自分の世界を無条件に全肯定してくれた彼女への深い感謝と、エクターとしての彼女の卓越した能力に対する尊敬の念がさらに加わったもの。男女の絆といっても、恋人や夫婦といったものだけではないのです。そうですね、ルキアンの場合、深い絆で結ばれている相手が、たまたま、お互い男と女だった、だけなのですよ。それよりも……」
 ルチアは身を乗り出すようにして、自分の顔をエレオノーアの顔に近づけ、彼女の両目を正面から覗き込んだ。そして悪戯っぽい目をすると、エレオノーアの耳元でささやくように告げる。こうしているとルチアに残ったあどけなさが正面に出て、まるでエレオノーアと同じ年頃の友達のようだ。
「あなたは、ルキアンのことが本当に好きなのね」
 何の遠慮もなく真正面から指摘したルチアに、エレオノーアはうつむいて、ただ黙ってうなずいた。
「大好きなおにいさんと、ずっと一緒にいたいですか?」
 エレオノーアは、再び黙って肯いた。
 一呼吸置いた後、ルチアは濃い茶色の髪を翻し、背筋を伸ばした。ゆっくりと、毅然とした声で、王女に相応しい品格で言葉が紡がれる。
「ならば、自分自身の存在に誇りを持ちなさい。彼の隣に胸を張って立てるように」
 自身の存在の空虚さ、疑わしさ――そこにあった弱みに付け込まれ、エレオノーアは先程の《試練》に敗れたのだ。魔法の言葉をぶつけられたかのように、彼女は身じろぎもせず、ルチアを見ている。
「あなたは、自分が虚ろで、どこにも存在しないのではないかと、不安で仕方がないのですね。でも私は思うのです。たとえ、《器》にされた他者の身体と、そこに《受肉》した《聖体》が交じり合い、そこから再構築され生成されたのが、それがエレオノーアであったとしても……冷淡な言い方をして、ごめんなさい……ですが、そのことは、あなたがあなたでないという理由にはなりません。あなたがどういう存在であろうと、いまこうして私が話している相手は、エレオノーア以外の何者でもない。あるいはルキアンの心の中でも、エレオノーアは、他の誰とも違うエレオノーアその人なのです」
 ルチアはエレオノーアの両手を取った。そして力強く伝える。
「そのエレオノーアのことを、ルキアンは大切に想ってくれているのでしょう? あなたが何であるのか、どんなふうに生まれてきて、どんなかたちで存在しているのかなんて、そんなことを問題にしているわけではなく、あなた自身として目の前にいるエレオノーアのことを、彼は見ているのではないですか」
「は、はい……それは、たしかに……」
「だから、私やルキアンにとって、《あなたは確かにそこにいる》のですよ、エレオノーア」
「ルチアさん……」
 エレオノーアの目から再び涙が落ちる。まさに流れるように、とめどなく。彼女は、ルチアの膝の上に顔を伏せ、ときおり、引きつるように喉を鳴らして、ひたすら泣き続けている。それは哀しみの涙では勿論ない。しばらくしてルチアが静かに告げた。
「ずっと、こうしていたいけれど、そろそろ行きなさい。長引くと、この《海》自体が消えてしまうようです。最後に私から贈り物を」
 ルチアに優しく促され、エレオノーアは彼女の前に立った。べそをかいて、手で涙を拭いながら。
「あなたは、私の力を継ぐ者に相応しいと思うのです。まずは、私の《歌い手》の力を委ねます」
 ルチアが右腕を伸ばすと、エレオノーアの胸にふれたその手を取り巻き、金色に揺らめく光がエレオノーアの中に流れ込んでいく。
「使い方は、もう、自然に分かりますね」
「は、はい……」
「私が力を使う場合とは、違った効果が生じるかもしれません。あなた自身が確かめ、磨いていってください。その力と一緒に、私はいつも、あなたとともにあります。私の素敵なお友達、エレオノーア」
 
 ルチアの声が次第にぼんやりと、遠くなっていく。
 そして視界は徐々に暗黒に包まれ、身体に伝わってくる生々しい物理的感覚も戻ってきた。
 再び、闇の中をひたすらに落ちていくエレオノーア。だが今は、彼女の目には怯えや迷いがない。
 ――言葉に込められた魔力を歌で引き出し、操るルチアさんの力を、私なりに。私、歌は……得意じゃないですし。でも、見ていてください。
 
 ――あまねく音を従え、この場を統べよ。私の《限定支配結界》、取り巻け、《言霊の封域》。
 
 彼女は胸元で祈るように両手を合わせ、力の言葉を厳かに口にした。
「冥界に引き込もうとする《虚海ディセマ》の力よ、汝は驚くほど弱い。見よ、たちまち汝の鎖は切れ、手は腐り、すべて崩れ落ちる」
 その言葉の力の発現と同時に、エレオノーアの落下が止まり、彼女を《ディセマの海》の生命無きデータの一部として吸収しようとしていた無数の手が、先端の方から見る見るうちに腐敗し、さらには風化し、また一本、また一本と崩壊を続け、闇の果てに落ちていった。
「私の翼は限りなく速く、高く舞い飛び去る。だが汝は遅く、地の底に重く縛り付けられ、私には決して届かない」 
 エレオノーアの身につけている、戦乙女を思わせる衣装。その背中にある羽根を模した飾りが、彼女の言葉を承けて大きな光の翼に変わり、たったひと振りで、彼女は瞬時に視界から消えるほど高く舞い上がった。この《翼》は魔法の力を発動させるためのシンボルのようなもので、実際にそれで飛んでいるわけではないのだろう。
 いつの間にか、エレオノーアは、おそらく異なる空間に存在する元の場所、つまりは《ディセマの海》の底にある神殿に戻っていた。
 彼女を苦しめた三体の黒衣の存在が正面にいる。先程とはうって変わって、活き活きとした生命の光を宿し、エレオノーアの青い瞳が《それ》らを見つめる。
 
  ――囲め、言の葉の戒め。《言霊の封域》。
 
 黒衣の者の一体が白目を開き、恐ろしい真っ赤な口で罵りの言葉を吐こうとしたとき、信じられないことが起こった。
「黙りなさい。私の尊敬するリオーネ先生の声で喋ることなど、許しません」
 エレオノーアの言葉が広間に響く。例の黒衣の女は、声を出せず、息苦しそうに首元をかきむしった。
 残りの二体が動き出そうとしたとき、淡々と、エレオノーアの冷たい声が流れた。
「光よ、照らせ、ここに満ちよ。影を消し去り、我が敵を一片も残さず滅ぼせ」
 広間を薄暗く照らす松明の一本が、彼女の言葉の後、火花のように激しく瞬いたかと思うと、次の刹那、眩い閃光となって爆風のごとく広がり、部屋中を呑み込む。
 真昼のように隅々まで光に晒し出された広間。黒衣の三体は、床に沈み込んで苦しみ、うめき声をあげ、その輪郭が光に溶かされるように薄れていく。闇に潜む者たちにとって猛毒にも等しい、強力な《光》属性の魔法を使ったように見えたが、実際にはそうではなく、エレオノーアの《言霊の封域》の力なのだろう。
 もはや幽霊同様に薄らいで、今にも消えそうな《それ》らに向かい、エレオノーアは毅然と言った。
「私は《生きます》。もう迷いません。身体も返してもらいますね」
 三体が跡形もなく姿を消すまで、ほとんど時間はかからなかった。《それ》らが消滅すると、エレオノーアの体が青白く光り始め、四方八方から光の粒が彼女に向かって無数に集まってくる。ルキアンに仮に与えてもらった戦乙女の姿が消え、かわって現れたのは、エレオノーアがルキアンたちと晩餐をしていたときの、あの白いドレスの姿である。
「やりました。取り戻しました、おにいさん!!」
 エレオノーアは、背後の大扉に全力で駆け寄ると、胸躍らせて扉に手を掛けた。
「これでおにいさんと一緒に」
 
 だが、扉は重く閉ざされ、開こうともしない。何度押しても引いても微動だにしなかった。
 ――囲め、《言霊の封域》! 駄目、ですか? もう一度、《言霊の封域》!!
 彼女の力も扉の近くで跳ね返され、まったく効果がない。
「そんな……。体は取り戻したのに、《試練》を乗り越えることはできなかった?」
 一気に落胆の底に落とされたエレオノーアは、床にしゃがみ込み、両手をついた。
「え? どうして。なぜ、また消えるの?」
 ふと、手を見たとき、自身の体が再び消えかけており、徐々にではあるが、溶けるように光の粒に置き換わっていることに彼女は気づいた。
「いやです! おにいさん、助けて、わたしのおにいさん!!」
 エレオノーアは、絶望のあまり、拳を何度も大扉に打ちつけ、その愛らしい手から血が滲んでも、なおも叩き続けた。
 扉のすぐ反対側に、愛しい《おにいさん》がいる。身体も取り戻すことができた。それなのに、再会できずここで消滅してしまうとは。
 この部屋に入る前、扉に掲げられていたことを、彼女は思い起こす。試練を受ける御子と対になる御子でなければ、この扉を外から開けることはできない。無理に開けようとすれば、中で試練を受けた方の御子が引き裂かれる、と。
「おにいさん、開けてください。たとえ私が死んでしまっても、それでも構わないです。もう一度、ただ一目でも、おにいさんに会いたいよ……」
 エレオノーアは大扉にすがりついた。
 無慈悲な金属の肌の感触が、固く、冷たく、伝わってくる。


【第55話 後編 に続く】

※2023年8月に本ブログにて初公開。

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『アルフェリオン』まとめ読み!―第55話・後編

| 目次 | これまでのあらすじ | 登場人物 | 鏡海亭について |
物語の前史 | プロローグ |


5.交わる二つの闇と「双紋の御子」


 

 《虚海ディセマ》の最奥、一筋の光さえも届かぬ深海底に建つ神殿、その試練の間に続く入口の前を、ルキアンは忙しなく行ったり来たりしている。はじめは静かに座ってエレオノーアの帰りを待っていた彼だったが、その後、待つのに飽きたわけではない。彼が落ち着きを失っているのは、もはや単なる心配を通り越した、胸が締め付けられるような、言いようのない不安感が浮かんできたからであった。
 仮にも魔道士の卵であるルキアンの直感は、それなりに鋭い。その直感が、否応もなく、息苦しい緊張感を体中に染み渡らせていく。
「このままでは、エレオノーアが帰ってこない気がする。だけど、対の御子ではない僕が無理に扉を開けると……」
 ルキアンは、先ほどから何度も扉の前で立ち止まり、手を掛けつつも、開けることを結局避けていた。もしルキアンが扉を開ければ、エレオノーアが命を失うかもしれないからだ。
 そんなとき、突然、彼の心の中に声が伝わってきた。
 ――ルキアン、アマリアだ。私の声が聞こえるか。《豊穣の便り》の刻印を媒介にして、君に話しかけている。
 ――はい、アマリアさん。アルマ・ヴィオの《念信》のような感じですが、しっかり伝わってきます。
 ルキアンは、掌に描かれた麦の穂を思わせる黒い紋様、すなわち《刻印》を見つめながら念じた。これに応えてアマリアの声も流れ込んでくる。
 ――よく聞いてほしい。エレオノーアを直ちに助けにいくべきだ。今、彼女の霊気がいったん安定したと思ったら、間もなく急激に減少し始め、もうほとんど感じられなくなっている。おそらく、このままだと彼女は今度こそ消えてしまう。
 悪い予感が当たっていたことを、ルキアンは確信せざるを得なかった。ここは迷うことなく了解した彼に、アマリアは続けて言う。
 ――何かあったら、今の要領で私に声をかけてほしい。ここから、できる限りのことはする。
 ――分かりました。アマリアさんも気をつけて。
 そう告げて話を終えると、ルキアンは大扉の前に立ち、敢えてゆっくりと息を吸い、長く吐き出した。そして両手で押すように扉にふれ、意識を手のひらに集中する。
 ――この扉がどうなっているかが分かる。押しても開かない。これは、闇の御子の力でしか……。
 晩餐の場でエレオノーアが消滅しかけたとき、無意識のうちに《闇》の紋章を浮かび上がらせ、《ディセマの海》を支配結界に取り込んだルキアンは、今なら自分の意志で紋章を呼び出し、その力を扱うことができるような気がしていた。
 ――大丈夫。《盾なるソルミナ》が生み出した幻の世界の中では、僕は紋章の力を使って戦うことができた。あの時の感覚は、はっきり覚えている。
 エレオノーアのはにかんだ笑顔が、《おにいさん》という彼女の愛らしい声が、ルキアンの胸の内に浮かんだ。
「僕が助けないと。《ダアスの眼》よ、開け、闇の紋章を呼び起こし、力を貸して!!」
 《盾なるソルミナ》の化身と戦ったときや、ミト―ニアでアルフェリオンをゼフィロス・モードに変形させたとき、ルキアンはすでに《ダアスの眼》を開くことができていた。御子としての本能が彼を導いているのだろうか。ルキアンが叫び、精神を集中すると、彼の心の目が何かと向き合った。魂の底から彼を見つめるそれは、御子の力の象徴たる《ダアスの眼》に他ならない。己の中の闇に心を投げ入れ、それを恐れず受け入れ、ひとつになったとき、《ダアスの眼》は開き、御子自身の目として、御子自身を見つめる。
「できた。これなら紋章の力も」
 《ダアスの眼》が自らの視線と重なったとき、ルキアンの右目に変化が起き、幾つかの微細な光が、小妖精の輪舞のように瞳の奥で煌めいた。それらは回転しながら細密な文字や図形を描き出し、ルキアンの右目に闇の紋章が現れる。その輝きは強く、彼の想いに応えようとしているかのようだった。
 だが、彼が紋章の力を扉に注ぎ込んだとき、火花が散り、焼けるような感覚が掌に走った。
「痛っ!」
反射的に引っ込めた腕が根元まで痺れている。
「《鍵》が合わないのか。それでも、何としてでも……」
 ルキアンは再び両手を扉に押し当て、魔力を集中する。
「エレオノーアは、僕が救い出す」
 痛みも、痺れも、すべて無視して耐え、ルキアンは手のひらを決して放そうとしない。なおも魔力を注ぎ込むと、掌や腕に伝わってくる痛みがいっそう大きくなった。容赦のない激痛に、うめき声を上げながらも、彼は決して諦めなかった。
「必ず、助ける。絶対、やり遂げる……」
 たとえ短くても、エレオノーアと過ごした忘れ難い時間が、ルキアンの脳裏に鮮明に浮かぶ。今度は自身に喝を入れるように、ルキアンが叫ぶ。
「想いの力を……想いの、力を……見せてやる!」
 一転、ルキアンの目が漆黒色に変わる。紋章の輝きも閃光のごとく高まった。彼の心の中でも、《ダアスの眼》のイメージがいっそう大きく見開かれる。《盾なるソルミナ》の化身との戦いの中で口にした一連の言葉を、彼は無意識に繰り返し、半ば詠唱する。
 
 僕は見た。
 生命と因果律の樹の背後に開けた
 底なしの暗き穴を。
 始まりにして終わりの知の隠されし
 静謐の座を。
 
 大扉に当てられたルキアンの両手を中心に、闇の紋章と同じ形状の魔法陣が浮かび上がる。巨大な扉が震え、大きく揺れ始める。さらにルキアンの銀色の髪がそよぎながら、次第に灰色に、そして黒、ついには漆黒の色に変わった。闇の御子が全力で力を振るうときの姿だ。
 これまでとは違う膨大な力が扉に流れ込み、表面に浮かんだ魔法陣を光となってなぞりながら、扉の中央に集まっていく。
 ルキアンは激高してエレオノーアの名を叫んだ。それと同時の一撃で、扉の中心にひびが入り、周囲に広がる。金属製らしからぬ、ガラスが割れるような高く乾いた音がして、これを引き金に扉が真ん中から砕け散った。現実味が感じられないほど分厚く、重々しい鋼材の破片が、鈍い音と地響きを伴って床に次々と落ち、遂に、人がくぐれるほどの穴が生じるのだった。
 ルキアンはそこから中に入ろうとしたが、何か目に見えないものに遮られて先に進めない。透明な壁、より正確にいえば、凄まじい水圧で流れ落ちる滝に触れたような、そんな感触がする。
「空間が歪んでいる? エレオノーア!?」
 壊れた扉の向こうにエレオノーアが倒れているのが見えた。彼女は口から血を吐き、ぐったりした様子で床に伏している。もう身動き一つできないほど衰弱しているようだ。
 今度は扉にできた穴に向かって、ルキアンが必死に魔力を注ぎ込む。だが次の瞬間、エレオノーアが悲鳴とともに起き上がり、発狂したかのような叫び声をあげ、苦痛にのたうった。ルキアンは慌てて一歩下がった。
 ――無理に開けようとすれば、中の御子が引き裂かれるというのは……まさか、僕が扉を壊そうとすると、それがエレオノーアの体を傷つけてしまうということ?
 見えない壁の向こう、エレオノーアが息も絶え絶えに座り込む。身を引きちぎられるような激しい痛みに耐え、彼女はルキアンを見つけた。
「お、おにい、さん……? なぜか、髪も、瞳も……黒いですが、おにいさん、ですよね。よかった。また会えたの、ですね……」
 エレオノーアの目から涙があふれ、彼女は立ち上がろうとして転ぶと、両腕で体を引きずるように床を這い、ルキアンのところまで必死に辿り着こうとする。
「ごめん、エレオノーア! 痛かった、すごく痛かったね。僕が扉を壊そうとするたびに、エレオノーア自身の体が傷つけられていたんだね? 本当にすまない」
 ルキアンが透明な壁に手を当てると、向こう側のエレオノーアも壁に沿って懸命に這い上がり、残った力で上体を持ち上げ、腕を伸ばし、その手を壁越しにルキアンの手に重ねる。
「体が……中から、ばらばらになるかと……思い、ました……。たくさん、血も吐いて、もう、気を失うくらい……痛かった、です。でも一生懸命、我慢して、おにいさんと、また、会えました」
 エレオノーアの声が、途切れ途切れに、か細く聞こえてくる。
「でも、おにいさん……。私は、ここまでの、ようです。身体は、取り戻したのですが。結局、私が消えようとしている原因は、元のまま……なのです」
「それは、どういうこと?」
「対になる御子を、失っている……片割れの……《アーカイブ》の御子は、とても不安定で、時が来ると、こうして……消えてゆくしか……ないの、です。それに、粒子化と実体化を繰り返した影響で、わたしの生身の体そのものも、もう、ぼろぼろで……」
 エレオノーアの体のあちこちが再び光の粒に変わり、少しずつ蒸発するように消えていっているのが、ルキアンの目に映った。
「わたしは……おにいさんの《アーカイブ》に、なりたかったです。そうしたら、ずっと、一緒にいられた……。でも、おにいさんの紋章は、対になる《アーカイブ》の人の紋章と、すでに結ばれています」
「そんな!? それじゃあ、エレオノーアはもう、助けられないの?」
 ルキアンが思わず声を上げると、エレオノーアは首が折れたかのようにがっくりとうな垂れ、そこから顔を上げる力をもはや失った。
「仕方が、ない、のです。それでも……わたし、満足です。こうして、おにいさんと会えた。短い時間、だったけど……とても、嬉しかった。幸せ、でした。ありが、とう……」
 永遠の別れを思わせる言葉をエレオノーアが口にし始めたため、ルキアンは必死に考えた。今できることを、エレオノーアをこの世に引き戻す決定的な何かを。
「ちょっと待って。《アーカイブ》と結ばれるために、闇の紋章が必要なら……。紋章がもうひとつ、あれば、もしかすると」
 何かを決意したような、哀しくも真剣な顔をして、ルキアンが急に立ち上がった。エレオノーアは虫の息で、壁にもたれかかって座っている。
「神でも悪魔でも、何でもいい。お願いだ。エレオノーアを助けたい。たとえ、この左目が光を失っても構わない。だから、紋章を……」
 ルキアンの闇の紋章が再び光り輝き、彼の背中から莫大な霊気が立ち昇る。
「なんとなく、前から感じていた。左目の……違和感を。でも怖かった。いまの右目の紋章だけなら、僕の力でも何とか制御できる。しかし、もし、もうひとつの紋章が目覚めてしまうとしたら……僕の力ではどうにもならない、かもしれない。これを開いてしまうと、僕は本当に戦うだけの、兵器のような存在になってしまうんじゃないかって、恐ろしくて、知らないふりをしていた。だけど……」
 彼の発する闇の力はさらに強まり、透明な壁越しにもエレオノーアが異変に気づくほどだった。彼女は首を傾け、弱々しく唇を開いた。それが唯一の反応だった。
「エレオノーア。僕の声、聞こえる? ごめんね、話すのは辛いよね……。お願いがある。もし、僕がいつか、敵を殺戮することしか考えない機械のようになってしまったら……そのときは、君が僕を殺して、止めてくれる? とても身勝手なお願いだけど、エレオノーアにしか、頼みたくない。許してほしい」
 そのように口にしたとき、ルキアンは、アルフェリオンの最終形態である《紅蓮の闇の翼》、かつて旧世界の時代に《天空植民市群》を滅ぼし尽くすために作られた殲滅兵器である《アルファ・アポリオン》と、自身とが一体化してしまうことを、不穏にも予感していた。
 エレオノーアからみれば、突然に、予想もしていなかった問いかけだったが、彼女には驚く力すらなく、ただ頷いた。聞き取れないほど小さな声で、ひとこと、ひとこと、言葉が絞り出される。
「はい……。おにいさんが、心から、そう望むなら。でも……そうならないように、私が……ずっとあなたの側で……見守って、いられたら、よかったな」
 最後の力を出し切るような、エレオノーアの切々とした言葉に、ルキアンの目から自然と涙が流れた。
「本当に、ありがとう」
 少し沈思した後、ルキアンはエレオノーアに問いかけた。簡素な言葉に、いま精一杯の想いを込めて。
「エレオノーア、僕の、《アーカイブ》になってくれる?」
 命も尽きようとしていたエレオノーアが、その言葉に大きく反応し、目を開いた。
「なりたいです。だけど……そんなこと……。夢でも、いいから、なりたいな……」
「分かった。僕も勇気を出して、君の願いに応えたい。君だけをひとりで逝かせはしない」
 ルキアンはわずかに背中をかがめ、息を吸うと、一気に叫んだ。彼の絶叫が続く中、左目に血が滲み、その血が次第に一定の形を描く。淀んでいた建物内の空気が彼を中心に動き出し、渦を巻いたかと思えば、気温は急激に下がり、肌を刺す冷気が周囲の石壁から激しく伝わってくるようだ。そして重力も異常をきたし、床の小石や砂が浮き上がり、近くに置かれている燭台や調度品がカタカタと音を立てて揺れている。
 これまでのルキアンとは別人のような、底なしの濃い霊気が辺りを支配し、神殿一帯をたちまち覆い尽くしていく。突然に強大な魔力が海底神殿から感じられたことに、アマリアが驚いてルキアンに呼び掛けてくる。
 ――ルキアン、そこで何が起こっている? 一体、この膨大な魔力は!?
 だがルキアンは答えずに叫び続けた。そして不意に沈黙し、何かに取り憑かれたかのような、ぼんやりとした、遠い目で淡々と語り始める。
「エレオノーア、君は僕の《アーカイブ》だ。なぜなら……」
 ルキアンが両目を閉じ、ゆっくりと開いた。右目に闇の紋章。そして左目に輝くのは……。
 いち早くそれを感じ取ったアマリアが、声を震わせて言う。
 ――あり得ない、そんなことは。《双紋の御子》が、同じ属性の紋章を二つ持っているだと? いまだかつて、そんな御子など誰一人としていない。
 普段とは異なる冷厳とした口調で、ルキアンは続ける。
「なぜなら、僕のもうひとつの、左目の《闇》の紋章とエレオノーアの紋章は、いま結ばれるのだから」
 
 ――《アーカイブ》との契約を承認。両者の《紋章回路(クライス)》をスキャンし、リンクを準備中です。
 
 ――おにい、さん? おにいさんの闇が、わたしの中に、入ってくる……。怖いほどに、こんなにも……孤独で、痛々しい。これまで、寂しかったのですね……。ずっとずっと、辛かったんだね。
 目に見える体の動きを生じさせる力は、もうエレオノーアにはなく、言葉を発することすらままならなかったが、彼女はルキアンに届けと心の中で思った。
 ――そうか、わたしと同じ、なんだ。こんなにも暗く、光の届かない心の闇を、独りで背負うことなんて、できないです。それでも負い続けようとして、ますます、闇は、深くなり、あきらめに押し潰されて、もう、取り返しのつかないほど心が侵食されてく……。それ、知ってます。
 輝きを失ったエレオノーアの瞳が、目尻の方に向かって微かに動いた。
 ――あぁ、会えてよかった。わたしにしか、支えることの……できない人に。これからは、一緒に……背負わせて……ください。
 
 ――リンクが正常に構築されました。《執行体》と《アーカイブ》の接続を確立。
 
 ルキアンは、おもむろに右目を手で覆う。彼が再び手を放したときには、右目の紋章はいったん消えていた。肩の力を緩め、溜息を付くルキアン。紋章が左目のものだけになった後、ルキアンのまとう雰囲気も、話し方もいつもの彼に戻った。
「エレオノーア、いますぐ回復するよ。頑張ったね。今なら、《アーカイブ》の、君の力のことが自然に分かる。僕が、君を、死から取り戻す」
 ルキアンは見えない壁に手をかざし、座り込んで動かないエレオノーアに向けてつぶやいた。
「冥府の門を開け放ち、かの者の物は、かの者へ、時のことわりを超えて此方に返せ、引き換えて新たな災いは招き入れ、封じよ」
 その呪文の長さに応じた極めて強力な治癒魔法、いや、それ以上の計り知れない魔法だろうか。詠唱が続く。
「暗黒の神々の書に名を刻まれし忘却の公主に、我らの地より、遠く願い奉る。哀れなこの者、すでに逝きつつある者の時を戻したまえ」
 神話の戦いの折に、とある書に記され、それ以来、《人の子》の世界からは失われていたといわれる秘術の名を、ルキアンは唱える。
 
「時無しの糸をもって、その青白き指で導け……絶対状態転移魔法……《エテルナ・オブリアータ》」
 幾拍かの間隔があってから、エレオノーアの肩が動いた。彼女は首を起こし、寝ぼけたような顔で目を開き、呆然と周囲を見回している。それから立ち上がると、ようやく驚いてルキアンの方を見た。
「お、おにいさん! わたし、元気になっています、生き返った、みたいですが!? 本当に死んでしまいそうだったのに。これが……真の闇の御子の力、《アーカイブ》と結ばれた《執行体》の力なのですね!」
 瀕死の状況にあったエレオノーアが、心地よい朝の目覚めのように、澄んだ目と健康的な頬の色でルキアンに向き合い、一瞬で立ち上がった。ほぼ死者を生き返らせるに等しい、これほど高度な治癒魔法は、本来ならルキアンが知るはずもなく、使えるはずもない。
 エレオノーアには、ルキアンの行ったことが完全に把握できているようだ。彼女は意味ありげに目を細めて言う。
「《エテルナ・オブリアータ》、効果の見た目からは、違いが分からないようにみえますが……この術は、治癒や回復はもとより、より高度な蘇生の魔術でもありません。対象となるものの状態自体を過去のあるべき姿へと帰す、神の手、《絶対状態転移》の魔法です。私の《書庫》の中に、こんなとんでもない呪文が眠っていたのですね」
 《神の手》とすら呼ばれるその呪文の圧倒的な効果は、もはや天に召されようとしていたエレオノーアが、気力に漲った姿で目の前にいることをみれば、一目瞭然であろう。
「すごいです、おにいさん! 《アーカイブ》の私が蓄えている呪文を――それはつまり、《アーカイブ》とつながっている《ディセマの海》に記憶された、そうですね、いったい、どれだけ沢山の魔道書庫に匹敵するのかさえ想像もつかないほどの、伝説の時代から今日に至るまでの膨大な《闇》属性呪文を、ですね、私が瞬時に検索し、提案し、おにいさんは最適なものを実装して発動させることができます」
 対になる闇の御子が結合し、完成された《聖体》本来の力は、《人の子》たちの想像の及ぶ範囲を遠く超えている。エレオノーアは胸に両手を当て、何か大切なものを抱くような格好をした。
「まだ信じられません。でも、とにかく嬉しいです。おにいさんとつながっています。確かに感じます。わたし、わたし……おにいさんの《アーカイブ》に、なれたんですね!!」
 彼女はそこで思い出したかのように、自身の胸に手を当てたまま、力を発動させる。
「我が体に宿れ、《言霊の封域》」
 彼女のそのひとことで場の空気が変わった。ルキアンは驚愕の目で、エレオノーアの顔を改めて見つめた。試練の間に入る前のエレオノーアとは別人ではないかと思うほど、力の言葉を唱える彼女には威厳があった。
「大切な人のために、わたしの想いは鋼よりも固く、金剛石をも凌駕する」
 ルキアンの目をじっと見つめ、エレオノーアが言葉を続けた。
「だから、わたしは痛みなど一切感じない」
 エレオノーアは、自身とルキアンとを隔てる壁に手を当てると、決意に満ちた目でルキアンに頼んだ。
「わたしに構わず、この壁を壊してください。早くおにいさんのところに行きたいです。壁を壊せば、これまでとは比べ物にならないほど、その、とても痛いかもしれませんが……おにいさんが元に戻してくれたおかげで、《言霊の封域》が使えましたから、何とかなるかもしれません」
 ルキアンはエレオノーアを見つめ、小さく頷いた。壁に手を当て、魔力を注ぎ込む。
 短く、鋭い、喉を絞るような苦しみの声をあげたエレオノーア。だが彼女は片膝を床につきながらも、恐ろしい激痛に耐え切った。壁が割れる音が間もなく響いた。
「エレオノーア、よく頑張ったね」
 ルキアンの手が差し伸べられる。今度は二人の間に何の障害もなく、エレオノーアもルキアンの方に手を伸ばした。
「おにいさんっ!!」
 なおも激痛に表情を歪ませ、足取りもふらつきながらも、エレオノーアはルキアンに駆け寄った。
「もう、離れるのは嫌です。絶対に一緒です、わたしのおにいさん!」
 エレオノーアはルキアンに抱き付く、いや、勢い余ってしがみ付くと、子供のように大声で泣き出した。ルキアンは敢えてそれをなだめようとはせず、黙って彼女を抱き止め、そっと頭を撫でている。そして穏やかに語りかけた。
「さぁ、帰ろう。二人で」
 
 そのときアマリアが、珍しく若干の遠慮を伴って、低めの声で伝えてきた。
 ――盛り上がっているところ、水を差すようで悪いのだが。そこから帰ってくる間、何が起こるか分からない。十分に気を付けたまえ。
 エレオノーアが、目を赤く腫らして、まだ涙声のままで言う。
「そうですね。何か、嫌な予感がします。早くここを出ないと……」
 そう言いかけ、エレオノーアが窓から、あるいは窓の姿をした特殊な結界から外を見たきり、そのまま動かなくなった。彼女の手が震えている。
「あ、あれを、見て……。おにいさん」
 ただ事ではないその様子にルキアンも外へ目を向けると、舞い上がる土煙の向こう、最初は、あまりにも大きすぎて、視界すべてをその巨体に遮られ、《それ》が動いているということがよく分からなかった。暗い深海にいっそう黒々と濃く、悠然と泳ぐ漆黒の影。その巨躯は天界に迫る高き塔のように、《虚海ディセマ》の深層から中層へと突き抜け、ひょっとすると水面の上まで続いているのではないかと思われた。長大な尾がひと振りされると、莫大な深海の水が渦を巻き、蛇のような体が這うと海底は歪み、崩れ、その地形すら刻々と変わっていくようだった。
「とてつもなく、大きな蛇? それとも、竜? でも、この《虚海ディセマ》に生き物など存在しないはずです」
 心配そうにルキアンを仰ぎ見たエレオノーア。彼の表情にも、これまで以上の緊張が走る。
「つまり、あれは、結界の外から……。しかし、そんなことができるのは?」
 ルキアンは拳を握り締め、その手を――おそらくは怒りゆえに――震わせ、自身とエレオノーアに言い聞かせるかのように、静かに、ゆっくりと言った。
「ただひとつ、確かなことがあるんだ。あの竜の姿を見ているだけで、言いようのない激しい怒りがわいてくる。あれは必ず倒さないといけないものだと、御子たちの魂の記憶がはっきりと告げている」
「わたしもです、おにいさん。あれは、これまでに幾度となく《再起動(リセット)》されて滅びていった、すべての世界の御子たちの敵。《人の子》の歴史をもてあそぶ存在、わたしたちの宿敵です!」
 向き合って互いに頷くルキアンとエレオノーア。エレオノーアの命は確かに救われ、彼女とルキアンは対の闇の御子として結ばれた。だが、この戦いに勝利しなければ二人に未来はない。
 彼らの心に、アマリアからの声が直に響いてくる。
 
 ――我々が見ているのは、間違いなく《始まりの四頭竜》の姿だ。世界が創造され、《あれ》の力が、つまり《すべての根源たる絶対的機能》の作用が及び始めたとき、その自己展開が予め定められた通りに進められるよう、物理世界に干渉するための手足として最初に生み出された《万象の管理者》……それが四体、いや、四柱の《時の司》。《石板》によれば、それら《時の司》の正体は、四つの頭をもった最も古き神竜だとされている。ただ、幸いというべきか、いま我々の前にいるのは、四頭竜のただの似姿、しかもその思念体にすぎない。しかし、何とも直接的な方法で介入してきたものだな。そうやって、我らを力ずくで蹴散らせると考えているのなら、永劫の時を経て貴様らは呆けたか。死とは無縁の永遠性をもつ神的存在とはいえ、無駄に長く生き過ぎたな、《時の司》たちよ。《人の子》の限られた命というものの一瞬の輝きを、それゆえの強さを、貴様らが正しく想像できるはずはあるまい。
 
 彼女は初めて口にした。御子の奥義として伝わる究極の術の名を。
 
 ――さぁ、《古き者たち》よ、《今回》の世界は今までとは違うぞ。貴様らと戦うために、私は、善悪や是非を超えて、ただ結果だけを告げよう。真の闇の御子が《聖体降喚(ロード)》によって降臨したおかげで、《永劫の円環》の呪いは打ち砕かれ、《人の子》の歴史が始まって以来、すべての御子が同じ時代に初めて揃った。私を含め、そのうち五人のことが明らかになっている。この意味が分かるか。じきに、御子の真の力を見ることになるだろう、すなわち、《五柱星輪陣(ペンタグランマ・アポストロールム)》を。


【第56話に続く】

※2023年8月に本ブログにて初公開。

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『アルフェリオン』まとめ読み!―第54話・前編

| 目次 | これまでのあらすじ | 登場人物 | 鏡海亭について |
物語の前史 | プロローグ |


消えたくないです。生きたいよ。
だけど、私を作り出すために生贄にされた人たちは、
同じように、生きたいと願いながら、命を奪われていったのですよね。
それでも自分だけ助かりたいという私は、地獄に落ちますか?

(エレオノーア・デン・ヘルマレイア)

 


1.エレオノーアの危機と遠き世のネクロマンサー


 

「私は絶対に負けません。だって、おにいさんと会えたから。何があってもおにいさんと一緒に行くって、決めたから」
 エレオノーアは、戦いのさなか、ルキアンへの想いを率直に口にする。否、その強すぎる気持ちが、自覚も曖昧なまま、自然に言葉となって流れ出たのだろう。大勢で詰め寄る山賊たちに囲まれないよう、彼女は渓谷の岩や木を巧みに利用する。そして油断した相手を確実に潰していく。また一人、剣を抜いて襲いかかるも、その足を払ったエレオノーアは逆に剣を奪い取り、直ちに構えるのだった。
 
 ――灰式・隠密武闘術、一群。剣舞風波(けんぶかざなみ)
 
 大気に遊ぶ風の精(シルフ)のごとく、エレオノーアは、次の流れを予想し難い動きで敵を翻弄する。そこから瞬時の隙をついて繰り出される彼女の一撃は、真空の刃のようだ。剣を手にしたエレオノーアは、素手で戦っていたときよりも遥かに手強い。
「こ、こんなの聞いてないぞ。少しは使えるどころか、強すぎる!」
 相手は小柄な娘一人、本気で戦う必要もないだろうと高を括っていたならず者たちが、明らかに動揺し始めた。身体の動きが悪くなり、太刀筋にも怯えがみえる。その変化をエレオノーアは見逃さなかった。
「に、に、逃げようぜ、殺される!」
 浮足立って統率が取れず、もはや数の多さを活かせない山賊たちは、エレオノーアに一人ずつ次々と狙いうちにされていく。最初、賊たちは30名ほど居たはずだが、まともに動ける者の数はもはや半分近くに減っていた。
 
 ――これで勝てる。おにいさん。
 
 だが、エレオノーアがそう思ったとき、しゃがれ声で山賊の頭が迫った。
「お嬢ちゃん、見ろよ。少しでも動いたら、大事な《おにいさん》の頭が吹き飛ぶぞ」
 咄嗟に振り向いたエレオノーアの目に映ったのは、両手を縛られ、無念そうにうなだれるルキアンの姿だった。彼の頬骨近くに銃を突き付け、したり顔の頭目がエレオノーアをからかうように言う。
「王子様をお姫様が守り、しかも王子様が捕まってお姫様の足を引っ張るなんて、こんなふざけた話は聞いたことがないな。おっと、動くなというのが聞こえなかったのか」
 エレオノーアの顔が怒りに満ちたのを恐れ、頭目はルキアンに銃を強く押しつけた。
「エレオノーア……。すまない。僕はいいから、君は逃げて……」
 泣き出しそうな表情でエレオノーアを見つめたルキアン。本気で決意したはずなのに、今回も大切な人を守れなかった、この惨めさ。悔恨にまみれたルキアンの顔つきは、目を反らしたくなるほど悲痛なものだった。
 エレオノーアは周囲の敵を威嚇するように剣を鋭くひと振りし、断固とした口調で言った。
「人質なんて卑怯です。おにいさんを放してください」
 一瞬、沈黙が支配した後、山賊たちは下卑た笑いを爆発させ、エレオノーアに罵声を浴びせた。その響きがルキアンをますます辛い気持ちにさせる。
 山賊の頭も、黒い眼帯をこすりながら大笑いした。
「卑怯ねぇ。ちょっと頭を使って勝つことの、どこがいけないんだ。世間知らずのお嬢さん。それで、お嬢さんよ」
 頭目がエレオノーアの方を顎でしゃくって、何か指示をする。口元を緩ませながら、数名の手下がエレオノーアの方に近づいていく。
「まずは剣を捨てろ。今すぐ下に置かないと、こいつに一発ぶっ放すぞ」
 勢いに乗った頭目が引き金をひくような素振りを見せたため、エレオノーアは、黙って剣を手放した。石の多い地面に鋼がぶつかり、転がる音。剣は横たわり、日光を反射して眩しく光った。
「捨てました。おにいさんを今すぐ返して」
「駄目だ。お嬢ちゃんは素手でも怖いからな。おい、お前ら」
 手下が二人、両側からエレオノーアの腕をがっちりと掴む。
「何をするんですか! 触らないで!!」
 彼らはエレオノーアを向こうに連れて行こうとする。そこには、真っすぐに伸びる2本の太い木が立っており、別の男たちが縄を何本も手にして待ち構えている。その意図に気づいたエレオノーアの横顔から、一瞬で血の気が引いた。かぶりを振る彼女の姿をにやにやと見て、山賊たちは一緒に来るよう促す。何度もためらいながら、エレオノーアは青い顔をして無抵抗のまま従った。
「やめろ、エレオノーアに手を出すな!」
 ルキアンは必死に叫び、身を乗り出したが、周りの山賊に取り押さえられてしまう。何もできなかった彼は、血が滲み出しそうなほど唇を噛みしめた。自分が不甲斐ないせいで、今度こそ守りたかったエレオノーアを犠牲にしてしまうのだから。しかも、普段は少年エレオンとして振る舞うエレオノーアが、その仮の姿に隠して大切に守ってきた、花開いたばかりの女としての秘めやかな本性を、今から悪党たちの手で無理やり暴き出され、弄ばれることになるのかと思うと、ルキアンは正気を保てなくなりそうだった。それでもなお凛として悲壮な覚悟で臨むエレオノーアを、ルキアンは直視できなかった。
 
そのとき……。
 
 ――やれやれ。いくら御子だといっても、大切な一人さえ守れないような軟弱者に、この世界の命運を託してよいはずがなかろうよ。
 この声に、それ以前に声の主の気配に、ルキアンにははっきりと覚えがあった。目の前が暗転し、果ての無い灰色の世界に飲まれ、時間が凍り付くような感覚に落ちていく。その異様な場で、ルキアンは、ひとつの影と向き合っていた。
 影が次第にはっきりとした輪郭をとる。縮れた黒髪をなびかせ、飾り気のない法衣をまとい、羊飼いのような素朴な木の杖を手にした姿。広い額、彫りの深い顔に、奥まった黒い目で悠然と睨むような中年の男。彼は小さな苦笑いを浮かべる。
 ――俺を知っているな。そう、ルカだ。正しくは、かつて生きたルカ・イーヴィックという闇の御子の、残された思念のなれの果てかもしれない。あの可愛らしい娘、俺たちの大事な血族を、野盗ごときにいいようにされるのは気に入らないから、わざわざ出てきてやったぞ。
 唖然とするルキアン。返事を待たずにルカは続けた。会話になっているように思われて、それでいて実はただ一方的に語っているだけにもみえる、いかにも残留思念にありがちな振る舞いであろう。いや、ルカは曲がりなりにも聖職者だったはずなのだが、そのわりには口調が少々野卑だ。
 ――最初に言っておく。俺は、困っている者を放っておかないが、そのためには手段を選ばない。必要なら、どんな汚い手でも平気で使う。何故だか分かるか?
 空間に深々と音を刻み込むように、ルカは静かに、かつ重々しく告げた。
 
 ――なぜなら俺は、僧侶(プリースト)で……しかし、死霊術師(ネクロマンサー)だ。
 
 彼がそう言い終わる前に、ルキアンは急に目眩がして意識が遠のくのを感じた。
 ――あの娘を助けたいのだろ。お前の体を少し貸せ、新しい御子よ。
 そう言ったルカは、いくらか上機嫌そうですらあった。
 
 静まりかえった渓谷に、山賊たちの密やかな笑い声が漂う。ようやく捕らえたエレオノーアを彼らは取り囲んでいた。
 エレオノーアは、僧衣のような濃紺のローブを脱がされ、白いブラウスとキュロットという格好で、2本の木の間に立たされていた。その姿は、これまでの印象よりもずっと華奢で繊細だった。すらりとした腕は、万歳をするように、左右それぞれの木から縄で吊るし上げられている。ほっそりと白い脚も、同じく縄で左右の木につながれ、開かれたまま閉じることができない。蜘蛛の巣に掛かった惨めな蝶のように、四肢を大きく開いた屈辱的な姿を晒されているエレオノーアは、恥じらいに頬を染め、目を閉じて深々とうつむく。悔し涙で睫毛も濡れていた。
「戦っていたときのあの強気は、どこに行ったのかな、お嬢ちゃん。だが、お楽しみはここからだ」
 山賊の頭目は、すっかり勝ち誇った顔つきになり、エレオノーアの耳元でささやく。不意に、その汚らわしい手がエレオノーアの腰を撫でる。避けるすべのない彼女は、引きつったように震え、声にならない悲鳴を上げた。この反応に嗜虐心をかき立てられた頭目は、血走った目でナイフを手にすると、刃を入れて切り裂こうとエレオノーアのキュロットをつまんだ。
 もはや風前の灯火だ。
 ――おにいさん、見ないで。こんなの嫌です!
 エレオノーアの目から大粒の涙がこぼれ落ちる。
 
 だがそのとき、頭目は不自然に息を呑んだ。
 彼に銃口を向けられていたルキアンが、ゆっくりと目を見開き、一転、今までとはまったく違う口調で話し始める。
「まず教えよう。後悔したくなければ聞くがいい」
 彼がそう言うが早いか、その場をすべて飲み込み、凍てつかせるような、吐き気を催すほどの威圧感がルキアンを中心に広がった。
 ――おにいさん? 違う。これは、違う人……。でも、遠い昔、この人とどこかで会ったことがあるような、懐かしいような。
 自分の知るルキアンではない姿に違和感を覚えつつも、エレオノーアは彼を凝視する。たとえ不完全でも闇の御子であるエレオノーアが、ルカ・イーヴィックに関する遠い記憶を引き継いでいるのは当然のことだ。
 一方、ルキアンは、いや、ルキアンの姿を借りた者は、人差し指を立てて目を細めたかと思うと、腐っても僧侶、落ち着いた説教を連想させる物言いになった。
「では、一つ目。ネクロマンサーと対峙したとき、決して彼らに触れられてはいけない。なぜなら高位のネクロマンサーは、自らも《不死者(アンデッド)》と同じ。その指先は生ける者を麻痺させ、毒で侵し、体力や魔力を吸い取り、時には触っただけで命をも奪う」
 ――か、身体が、動かねぇ……。
 山賊の頭は、いつの間にか体中が完全に痺れていることに気づいた。ルキアンは頭目の握りしめている拳銃を悠々と奪い、背後に無造作に投げ捨てた。そして右手を前方に突き出すと、指で何かを招く仕草をする。
「二つ目。ネクロマンサーの呼び出す不死者はたしかに恐ろしい。だが、ネクロマンサーはそれ以上に強い。気を付けろ。そうでなければ、死霊たちを従わせることなどできはしないからだ。遊んでやれ、《惨禍の騎士》よ」
 その言葉に応じて、手前の地面が揺れ、地表を押しのけて灰白色の何かが盛り上がってくる。まず頭部を見せ、するすると這い出し、地の底から全身を現したそれは、穴だらけの黒い衣に身を包み、赤い楯と青白く不気味な輝きを宿す長剣とを持った、骸骨の騎士だ。同じように次から、また次へと、地面から白骨の騎士たちが姿を現す。
「だから、この呪われた骸骨たちがいくら恐ろしいからといっても、間違っても俺と戦う方がましだとは考えないことだ」
 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、人の限界を遥かに超える強さの不死の剣豪たちは、容赦なく山賊たちを切り刻んでいた。頭目以下、一人残らず殺戮の嵐に巻き込まれ、屍の山が築かれた。穏やかな谷の風景も血だまりの海に変わった。
「最後に三つ目。大抵の不死者には心がない。だから彼らには、恐怖も躊躇も、憐憫も損得勘定もない。今ので実際に分かっただろう? いや、そうだったな、お前たち……俺の助言を活かす機会を永遠に失ったな。何なら、お前たちも不死者にしてやろうか。いや、やめておこう。素材の質が低すぎる」
 淡々と語ったルカの心にも、また、一切の乱れがなかった。あたかも彼自身、もはや人間ではなく不死者であるかのように。
 
 ――返すぞ、ルキアン。お前の体。
 ルカの心の声が響き、ルキアンは意識を取り戻す。
 その体が自分自身のものだと、再び感触が戻ってくるのを確かめる間もなく、ルキアンは飛び出していた。
「エレオノーア!」
「お、おにい、さん……」
 エレオノーアも落ち着きを少し取り戻したようだ。安堵の空気に包まれた二人だが、やがて遠慮がちにエレオノーアは首を振った。
「あ、あの、ですね……おにいさん。こんな格好……すごく、恥ずかしいです。早く、縄をほどいて、ほしい……です」
「そ、そ、そうだね。ごめんね」
 彼女の言葉にルキアンも頬を染め、申し訳なさそうに、なんとも言えない表情でエレオノーアの戒めを解いた。その途端、今までおずおずと喋っていたエレオノーアが、ルキアンの胸に思い切り飛び込んできた。そのまま二人とも後ろに倒れてしまいそうなほどに。
「おにいさん、私のおにいさん!」
 言葉にすることで彼の存在を確かめるかのように、エレオノーアは繰り返し呼ぶのだった。
 ぐしゃぐしゃに泣き 、それでいて、泣き腫らした顔に心からの微笑みも浮かべながら。

 


第54話 その2 「予め歪められた生」と「永劫の円環」



 ◆ ◆


 今から約20年前――新陽暦283年、オーリウム王国の都・エルハインにて。

 その夏、王国は近年稀な猛暑に見舞われ、この時間、日暮れも近くなってから、夕涼みがてら、人々の姿が街にようやく増え始めるのであった。そして、真夏の長い陽がラプルス山脈を遠く望む方角へと、満足げに沈んでゆく頃、王国あるいは世界中から俊才の集まる王都の神学校でも、学生たちがこれから三々五々、お気に入りのカフェや酒場へと繰り出そうとしていた。
 そんな中、平然としつつも、どことなく周囲の様子を気にするような態度で、一人の神学生が校地の奥まった方へと歩いていく。彼が向かっているのは、王立神学校の広大な敷地の中でも普段はあまり使われていない、古い建物のひとつ、《メラクの青の礼拝堂》であった。現在では、図書館や研究棟に入りきらなくなった蔵書を仮に収めている場所であり、いつもなら、特にこのような夕方遅くになると、周辺では人の姿はあまり目につかない。
 神学生は、念押しといわんばかりに、振り返って周囲を見た。向こうから別の学生がやってくる。そして別の方向からも、また一人。大扉のある礼拝堂のファサードは、古いなりにも、いや、むしろ古びた石彫がかえって重厚さを醸し出す様相だが、その脇を通り過ぎ、建物側面の小さな庭園に隣り合う通用口のようなところから、神学生たちは礼拝堂に入ってゆく。
 《青の礼拝堂》という通称の起源になった、深みのある藍色を中心とする壮麗な天井画は、現在の世界の神々を題材としつつ、どことなく《前新陽暦時代》のレマリア帝国の壁画様式をも想起させるタッチで描かれていた。けれども残念なことに、今では天井画の変色が激しく、かなり剥げ落ちてもいる。その様子を頭上に仰ぎみながら、一見すると地下墓地への入口にも思われる階段を降りていく学生たち。その先にある小部屋に集まると、彼らは、猛暑の中で敢えて二重にまとっていた法衣を払いのけ、皆が同じように黒衣の姿となった。
 この黒ずくめのいでたちは、異端として弾圧されるほどではないにせよ、イリュシオーネの神殿における正統派教義からは外れており、多くの神殿関係者から批判の目を向けられる教派、《連続派》のものである。この場合の《連続》というのは、ひとことでいえば、世界観・歴史観において現世界と旧世界との連続性を敢えて強調しつつ、信仰も含め物事の理解を図ろうという意味である。魔道士たちからみれば、現世界の文明は旧世界と切っても切り離せない一方で、この世界の正統教義に立つ神官たちからすれば、いわゆる《イノツェントゥスの誓い》以前のこと、つまりは《新陽暦》が始まる前のことは、ほとんど省みる価値のない《暗黒時代》や《突飛な言い伝え》にすぎない。いや、正統派としては、そういうことにしたいのである。《新陽暦》以前の伝説の蓋を不用意に開けることは、時にはむしろ危険思想ですらあった(なお、旧世界滅亡の真実につながる《沈黙の詩》を研究していることを、以前にシャリオが隠していたのは、この種の研究が神殿関係者の間ではタブー視されているからに他ならない)。

「諸君。我々の有志による調査団が、イゼール樹海の遺跡にて《石板》第7編を発見したことは、周知の通りだ。そこに書かれていたことも事実だと考えている」
 おそらく定期的に開催されている教派の会合、先ほどのような事情のため、一種の秘密結社のような集まりなのであろう。学生のリーダー役と目される一人が口火を切った。
 それに耳を傾ける者たちの中には、学生だけでなく、近隣の神殿の神官や神学校の教授とみられる者も何人か混じっている。教授の一人が、静かな物言いの裏にも興味を押さえられないような様子で尋ねる。
「第7編の位置づけは、よくてもせいぜい外典、いや、別の時代に後付けされた偽書ともいわれてきたが……。その実際の姿、早く聞きたいものだ、コズマス君。これまで推測されていたように、第7編には《御子》に関する重要なことが書かれていたのかい?」
「はい、先生。しかし、我々にとっては認めたくない内容も含まれています」
 神学校きっての傑物と呼ばれるコズマス・バルトロメアが答えた。彼は、離れて座っている者には聞き取り難いような、微かで長い溜息をついた後、皆の顔を見渡した。
「これでは、たとえ何回、いや、何千、何万回……人の子が《あれ》のことに気づき、《御子》とともに抗ったところで、結局は毎回、世界はただ《あれ》の導く歴史をなぞり、いつかそこから外れたときには《再起動(リセット)》されて無に帰すだけだ。過去にも無数の世界がそのような結末を迎えてきたと、石板には記されている。永遠に同じことの繰り返しだ……」
 コズマスが話し終わるのを待てず、一人の学生が激高し、立ち上がって叫ぶ。
「それでは、我々の世界とは、歴史とは、いったい何の意味がある!?」
 対するコズマスはあくまで冷静だった。もっともそれは、他に先んじて石板第7編の真実に接し、それを受け止めるための時間が今日に至るまでに幾らかあったからだろう。
「我々の生(なま)の存在や、この世界で生起する生(なま)の事実に意味などない。その意味というのは、我々が自ら与えることにより初めて生じるものだ。破滅に向かうまでの生きざま、日々の道のり、そして滅びの日を迎えたという結果に、人として生きた《意味という爪痕》を刻み込むのだ。たとえ、来るべき世界ではすべて忘れ去られようとも」
 いささか抽象的な言い方で言葉を濁したコズマスに対し、次の一瞬は沈黙が広がる。彼は続けた。
「そう、単に、この世界の本質をなす《絶対的機能の自己展開》をなぞり、因果の鎖が日々現実化していくための無数の作用点として生きること、そうすることが、《人の子》に与えられた存在理由、すなわち、《あれ》の自己展開を賛美し、《あれ》の生み出した世界を予定通りに、できる限り忠実に描き出していくこと。それだけが人間の役割なのだと」
 その言葉を受け、先ほど激高しながら尋ねた学生が言う。
「信じられない。《人の子》は《あれ》の一人遊びの駒でしかないと? しかも、遊戯が間違った局面を迎えれば世界もろとも捨てられるだけの……。あぁ、ならば人は、何のために生まれ、死んでいくのだ? 少なくとも、いま実際に我々の生きているこの世界、我々にとっての唯一本物の、この世界にすら、いったい何の意味があるというのだ」
 別の学生からも発言が次々と飛び交う。
「仮にそうなら、正直なところ、人や世界に意味など求めても空しいだけなのでは? 少なくとも普通の人々にとっては。否、むしろ何も知らない方がよいだろう。それにコズマス、《あれ》の駒として自ら演じさせられてきた現実に、いくら懸命に主観的な《意味》を付与しようとしたところで、それは我々が単に《解釈》を施したということにしかならないのではないか。そんなことは、ただの自己満足だ。《あれ》への抵抗にすらならない」
 だが、喧噪のもと、一人の学生が立ち上がり言葉を発すると、彼のもつ不思議な落ち着きや説得力によって皆が再び静まり返る。コズマスの盟友にして、噂では錬金術にも手を染めているといわれる男、カルバ・ディ・ラシィエンだ。見事に手入れされた現在の彼の口髭とは異なり、無精な状態であった若き頃の髭を撫でながら、彼は告げる。
「だが、どうせよと? 《御子》には二つの呪いが掛けられている。《予め歪められた生》の呪いと《永劫の円環》の呪いだ。たとえ御子が生まれても、御子は《予め歪められた生》の呪いに押しつぶされ、大抵は、自らの使命を知ることもなく惨めな生を終える。そして《御子》が己の使命を自覚しても……」
 彼の言葉に頷きつつも、狭い地下室に溢れた熱気を避けるかのごとく、敢えて奥で腕組みしている学生がいた。まだ当時は不完全な闇の紋章も刻まれていない、その思慮深い瞳で、ネリウス・スヴァンはカルバを黙って見つめている。
 手を打ち合わせ、コズマスの声が響いた。
「諸君、静粛に!」
 それまでよりも低く、重々しい声で彼は皆に伝える。
「そう、第7編の石板は伝える。《永劫の円環》の呪いの詳細を。これでは、あるひとつの時代にすべての御子が揃うことは、《絶対に》あり得ない。絶対にだ。人の子が《あれ》に立ち向かうことなど《最初から》不可能だったことになる」
 常に論理的なコズマスが《絶対に》などという表現を使ったのは、もちろん浅慮や高揚からではない。

 続く言葉が、地獄への戻れぬ道の始まりだった。

「だがそれは、人の子の営みを自然の摂理に任せている場合のこと、つまりは《あれ》の仕掛けた《いかさま》のルールに従っている限りでのこと。諸君、敢えて言おう。《永劫の円環》に背いた存在を《人の子》が作り出す秘術は、同じく第7編の石板に示されている。だからこそ、第7編は禁断の石板と呼ばれ、秘匿され続けてきたのだろう」

「それが、《聖体降喚(ロード)》だ」

 コズマスがそう告げ、一連の説明を続けた後――静寂を突き崩し、地下室から無数の怒号や絶叫、机や壁を叩く音が、すなわち集まった者たちの非難や絶望の表明が、空しく響きわたるのだった。

 ◆ ◆

「おやまぁ、あんたたち……」
 あたかも子守りをする老婦人が、幼子の思わぬ反応に呆れながらも目を細めたときのように、リオーネ・デン・ヘルマレイアは、予定より遅く帰宅した二人の姿をみた。
 扉を開けてルキアンが中に入ってくると、後から続くエレオノーアが――いや、今は少年の装いと振舞いに戻ったエレオンが――遠慮がちに、慌ててルキアンと変な距離を取る。そうかと思えば、リオーネとブレンネルの顔つきを横目でちらちらとうかがい、エレオンはまたルキアンににじり寄る。今度は、二人の間は妙に近い。ルキアンの背中で、エレオンの指がルキアンの指に触れ、また離れた。
 ――なんだい、これ。何があったんだろうね。
 リオーネがエレオンを手招きすると、《彼》(彼女)は熱に浮かされたような足取りで、しかし心地よさげな顔をしてそれに応じた。ルキアンの横を通り過ぎるときにも、《彼》の目が意味深にルキアンに向けられ、二人とも一瞬固まったような動きをして、うっすらと頬を染める。
 明らかにおかしく、だが初々しくもある二人の様子をみると、座って地図をみていたブレンネルは口元を緩めた。
 ――あはは。いいね。これが、いわゆるひとつの……青春って、やつか。
 ルキアンたちのいる居間を離れ、リオーネはエレオンを台所に連れて行く。そして急に、頬が擦り合うくらいのところまで顔を近づけると、リオーネは声を潜め、鋭くささやいた。

「ねぇ、あんた……。もしかして、人を斬っただろ? 初めての匂いがするよ」

 経験を積み重ねた戦士の直感、その前ではごまかしはきかない。エレオンが上着の袖をあたふたと触り、どこかに血でも付いていないか探そうとすると、リオーネは仕方なさげに苦笑した。
「馬鹿だねぇ。そういう匂いのことじゃないよ。あんたの感じ、雰囲気のことだよ」
「そ、それは……。はい」
「何か大変なことがあって、あんた自身やルキアン君を守るために、仕方なくやったんだろうけど、人を傷つけた、いや、まだうまく加減できないあんたなら、たぶん何人かは《殺した》ということは事実だろうからね。たとえ相手が悪党でも、あるいは戦場であったとしても」
「は、はい。先生がいつもおっしゃっていたこと……。剣の重さ。それを咄嗟によく考えられず、必死で戦ってしまいました。ご、ごめんなさい」
 エレオンが言葉に迷って頭を下げると、リオーネは《彼》を正面から見据え、首を傾げた。その静かな気迫にエレオンが少し慄いている。
「おや。なんで謝るんだい? そこで謝られたら、あたしの仕事は騎士だった……いくらきれいごとを言っても戦いで人を殺すことが生業だったんだよ。なら、あたしなんか、これまで生きてきてごめんなさい、なんてことになるだろ」
 エレオンの柔らかな銀の髪を撫でながら、リオーネは小声で付け加える。
「手首と足首。その跡、ひどいね。何があったの?」
 赤く腫れ、擦り傷もできている。山賊たちに縛り上げられていたときのことを思い出し、エレオンは誰に弁解するともなく慌てて答えた。
「ち、違います! その、ちょっと跡がついただけで、それ以上、変なことは……されていません!」
「そうかい。無理に、根掘り葉掘り聞かないことにするよ。分かった。いずれにしても、あんたの誇りを汚されるようなことは、されていないんだね。私のかわいいエレオノーア」
「あ、あ、当たり前です! 先生の意地悪……」
 勿論、ルキアンがエレオンにそのような酷い振る舞いをすることなど考えられなかったので、別の事件に巻き込まれたのだろうとリオーネは思った。何があったのか心配だが、彼女は敢えて異なることを言った。
「それに、あんた……。顔が、女になったね。もうエレオンは廃業かもね」
「あ、その、はい?」
 出し抜けに指摘され、驚いて、頭から抜けるような甲高い声で返事をしたエレオン。
「その見た目、いつまでも子どもっぽさが抜けきらないし、いつになったら大人になり始めるのかと思っていたけど……。なんか親離れっていうのか、寂しい気もするよ。変わったのかね」

「人とは違った重荷を抱え、苦しみ抜いて生きてきて、やっと初めての恋をして」

 リオーネが率直な物言いばかりするため、エレオン、いや、エレオノーアは恥ずかしくて卒倒しそうな心持ちになった。《彼女》は必死に首を振る。なぜ否定しようとしているのか、自身でも呆れつつ。
「あ、いえ、そのですね! おにいさんは、私の、大事なおにいさん、であって……。そんな、恋しているとか……いえ、その……つまり……」
 何か言葉を発するたびに、エレオノーアはむしろ深みにはまりつつ、顔もますます赤らめていく。そんな様子をみて、リオーネは、もうお手上げだというふうに肩をすぼめ、両掌を返した。そして居間に戻っていくとき、去り際にひとこと。
「ふぅん。恋かどうかはともかく、でも、一番大事な人なんだろ、ルキアン君」
「はい、それは! もう、もちろん。世界で一番大切な、私のおにいさんです!!」
 結局、エレオノーアは全力で認めている。気持ちを押さえておけないのだろう。

 淡く、可愛らしいエレオノーアのそんな想いとは裏腹に、造られた不完全な御子としての宿命は、まもなく彼女を残酷極まりない結末に向き合わせようとしていた。


【第54話 中編 に続く】

※2023年7月に本ブログにて初公開。 

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『アルフェリオン』まとめ読み!―第54話・中編

| 目次 | これまでのあらすじ | 登場人物 | 鏡海亭について |
物語の前史 | プロローグ


3.尽きる命



 何らかの神を祭った聖堂、それとも、ある種の聖域を思わせるような、よく磨かれた白い石造りの廊下のあちこちに、壁や柱の隅から次第に這い出してきた夕刻の影は、近づく落日に応じてその懐を広げている。静寂を揺るがせ、足早に駆け寄る音。これに対してもうひとつの足音が止まり、そして、荒い息遣いとともに、ひとりの《女》の甲高い声が、高い天井とそれを支える柱列の間に響いた。
「ねぇ、待ってよマスター! どうして、いつまでも……」
 言葉の調子はさらにヒステリックになり、声の高さも一段上がる。
「いつまでも、いつまでも、なぜ、あんな《廃棄物》を処分しないのさ!?」
 ふんわりとした水色の簡素な上着を羽織った銀髪の若者、いや、よく見ると銀髪の娘が、自身よりも遥かに長身かつ頑健な僧衣の男を見上げ、青い瞳で睨み据えている。
「何とか言って、マスター! マスター・ネリウス」
 ネリウス・スヴァンは振り返りもせず、その体躯に似合わぬ小さな声で答える。
「ゼロツー、あれのことは捨て置け……」
 不満そうに何か言おうとしたヌーラス・ゼロツーに対し、ネリウスは繰り返す。今度はもう少し大きく、低めの声で。
「捨て置けといったのだ。《片割れのアーカイブ》など、放っておけば、じきに消える。わざわざ追うだけ時間の無駄だ」
「そんなこと言っても、あの女はもう何年も生き延びているじゃないか。それで、普通の人間のように安逸をむさぼって……」
「それでも長くはもつまい。完全でない限り、《アーカイブ》は《執行体》よりも不安定な存在。もともと単独では現世に定着し難い。それに……」
「それに?」
 なおも不満に満ち溢れたゼロツーに対し、ネリウスは一息おくと、諭すように言う。
「かげろうのような儚い命のあれに、せめて一瞬の悦びくらい、許してやっても悪くはなかろう」
「……はぁ? あはは、おかしいね。それ、本気で言ってる?」
 挑発するような物言いの後、ゼロツーは首を傾げるそぶりをした。
「本当にマスターは甘いよ。これまでに数え切れないほどの人間を泣かせ、それどころか虐殺してさえいるのに、まだ甘さが抜けない。一体、どうしてなのかな」
 彼女がそう言い終わる前に、無視して離れようとしたネリウス。
「でも、マスターのそんな強そうで脆そうなところも、大好きなんだけど」
 憎悪の眼差しから瞬時に一転、青い目は妖艶な光を帯びる。ゼロツーはネリウスの腕を取ると、絡みつくように胸を押し付け、甘えた声でささやいた。
「ねぇ……。あんな《廃棄物》にまで慈悲をかけるなら、僕にも、少しぐらいは愛をちょうだいよ」
「やめろ、エリス。いや……ゼロツー」
 ネリウスは、無表情に自身からゼロツーを引きはがすと、言葉もなく立ち去った。
 
「……ったく。これだから聖職者(坊さん)は。僕だって、いつ死んじゃうか分からないのに」
 
 夕闇がまた近づいた。
 薄暗がりの中にひとり取り残されたゼロツーは、声を喉の奥に詰まらせたかのように、引きつり狂気じみた笑いを漏らすのだった。
 
 ◇
 
「遅いなぁ。せっかくのスープが冷めちまう」
「そうですね」
 ブレンネルとルキアンは、顔を見合わせて誰かを待っていた。彼らはこれから夕食のようだ。白いテーブルクロスの掛けられた、折り畳み式の木製の食卓には、大皿に乗った鳥の燻し肉を中心に、豊かな森の恵みを生かしたキノコや山菜の煮物、同じく近隣の谷川で獲れたであろう魚、玉ねぎを思わせる根菜の入ったスープ、チーズにソーセージなど、素朴ながらも多様な料理が並んでいる。
 それらを目の前にして「おあずけ」の状態となり、ブレンネルは今か今かと体を揺すっていた。対して食べ物にはあまり思い入れがないのか、ルキアンはおとなしく椅子に座っている。
「まぁ、仕方がないか。あの年頃の子の着替えには、何かと時間がかかるんだろう。特にお洒落したいときには。《おにいさん》に見せたいだろうしな」
 ブレンネルは顔を上げた。その先に天井のかわりに広がっているのは、料理に負けず劣らず素晴らしい星空だ。日中は快晴であった今日、晩の澄んだ夜空には無数の星々が、それこそばら撒いたかのように散らばっている。なおかつ、即席の野外食堂は渓流沿いの河原に設けられており、流れる水の音も心地よい。
 
「ごめんなさい。慣れない服だったので、遅くなりました」
 燭台の明かりに照らされ、そう言ったのはエレオノーアである。隣には追加で料理を運んできたリオーネが立っている。
 声の方に目を向けたルキアンは、どういうわけか、そのままの姿勢で動かなくなってしまった。何か信じられないものに遭遇したときのように。ブレンネルは、これは参ったという顔で賞賛の口笛を吹いた。
「あの、それで」
 ルキアンと目が合ったエレオノーアは、頬を薄紅に染め、うつむき加減で尋ねる。
「この服、似合ってますか? おにいさん」
「も、もちろん……」
 当然に肯定しようにも、ルキアンは息を呑み、返答のための言葉を失っている。先ほどまでのエレオンの姿とはうって変わって、白いワンピースに身を包み、髪の流れを櫛でよく整え、衣装と同じく純白のリボンを添えた彼女は、ルキアンのいまだ知らなかったエレオノーアである。その変わり様には、好感を通り越して恐ろしいところすら感じられる。輝く銀の髪、神秘的な青い光を帯びた瞳も、その魔性の力をいっそう増したように艶めいた。
 ――どうしよう。今のエレオノーア、真っすぐ見られないよ……。
「ほら、もう格好いいところをルキアンに見せたんだから、食べ物の汁で大事な一張羅を汚さないよう、これでも付けておきなさい」
 そう言ってリオーネは、質素な木綿のエプロンを手渡した。
「先生、何ですか、これ。ご飯前の子供みたいに」
 文句を言いながらもエプロンを身につけ、エレオノーアはルキアンの隣の席に座った。腰を下ろしてから、遠慮がちに、ひそかに体を寄せる。
「やった、おにいさんの隣です!」
「ど、どうぞ……」
 背筋を伸ばし、ルキアンがわずかに身震いした。ただ、その表情はエレオノーアへの温かな想いに満ちていた。
 そんな二人の様子を見守るリオーネの眼差しも、いつもより優しく、また嬉しそうでもあった。
「さぁ、みんな。用意はいいかい」
 彼女に促され、ブレンネルがグラスを手に取り、軽く持ち上げた。続いてルキアンとエレオノーア、そして最後にリオーネが祝杯の用意を終えた。彼女は目でルキアンに合図をする。彼は不慣れな調子で音頭を取った。
「あ。は、はい。それでは皆さん。今日の日に……」
 リオーネがしきりに黙って口を動かし、ルキアンに何か言えと伝えている。それに気づいて苦笑いしたルキアンは、隣のエレオノーアに微笑みかけ、二人の目が合ったところで穏やかにつぶやいた。
「エレオノーアの未来に」
 四人の声が見事に合わさった。
「乾杯!!」
 まずリオーネが豪快に飲み干す。彼女のこだわりで、最初の酒は、薄桃色に澄んだ泡の立つワインになったようだ。話によれば、タロス共和国の某修道院で作られた貴重なものらしい。
「あぁ、生き返るね。これぞ生命の水だよ。近々こんなこともあろうかと、わざわざ街の市場で買っといてよかった」
 騎士は引退しても、酒豪としてはまだまだ現役のようである。続いてブレンネルも一気に杯を空にし、皆が気勢を揚げた。
「いやぁ、旨い! 昨日今日は大変だったから、一通り終わった後の酒は格別だな」
 ちなみにイリュシオーネでは、地域や身分によって多少の差はあれ、15、16歳程度になれば基本的には成人である。18歳のルキアンはもちろん、エレオノーアも多少童顔だが歳自体はルキアンとあまり変わらないだろうから、普通に飲酒をしていておかしくない年頃である。だが不慣れな二人は、薬でも舐めるように神妙な顔をしてグラスを傾ける。お互いのそんな格好が何だかおかしくて、二人は無邪気に笑い合っている。
 彼らを母親のような眼差しで見守りながら、リオーネは大きめのナイフを手に、自慢げに言った。
「今日は魚は釣れなかったみたいだけど、先日たまたま手に入った上等の燻製がある。ほら、ごらんよ」
 鴨か雉のような野鳥を燻したものだろう。表面に飴色のつやを浮かべ、鼻の奥をくすぐる香りを漂わせた丸ごと鳥一匹のスモークが、テーブル中央の皿に載っている。今宵の食の主役を果たそうとしているかのようだ。
 リオーネが慣れた手つきで切り分けるのを、ブレンネルが待ち構える。その表情が思いのほか真剣で、第三者が見たら噴き出してしまいそうだった。
「パウリさん。お魚でよければ、こっちにも燻製ありますよ」
 小山のごとき燻製鳥に遠慮したのか、机のもう少し端の方に置かれた皿には、スモークサーモンに似た魚肉の薄切りが、野菜と一緒に何切れも盛り付けられている。それを指さし、エレオノーアが小声で告げた。
「お、おぉ、これはこれでなかなか。渓谷の地ならではの逸品だな」
 すぐさま味見を始めたブレンネルを尻目に、エレオノーアも燻製一切れをフォークで取ると、そのまま手を伸ばし、ルキアンに差し出した。
「実はですね。これ、私が釣って、私が燻したお手製なんです。おにいさん、どうぞ!」
 フォークを口元に突き付けられるかたちとなり、ルキアンは餌を待つひな鳥のように、エレオノーアから直接、手作りの燻製スライスを口に運んでもらうこととなった。そんな彼らのやり取りを眩しそうに眺めながら、ブレンネルが笑って冷やかす。
「おうおう。見せつけてくれるねぇ」
「本当だよ。何か、いい感じの二人じゃないか……」
 便乗したリオーネの言葉に、エレオノーアは、してやったりという顔で何度も頷き、逆にルキアンは顔を赤くして固まっている。
 
 昨日のルキアンたちの状況では想像もされていなかった、思いがけぬ愉しげな晩餐はさらに続いた。こうした集いにおいて、よく分からないタイミングで、宴席がなぜか偶然に静まり返る瞬間が時々ある。そういうとき、神や精霊が通ったのだと、昔の詩人は描写したものである。そして、今ここでも、不意に皆が静まり返った。にぎやかに飲み食いする彼らをのぞけば、深い谷間のこの場所では、今日のような静かな夜に音を立てるものは、すぐ側にある渓流のせせらぎくらいであろう。
 冷涼な谷間の流れが奏でる、さらさらとした響きを背景に、エレオノーアの声だけがぽつんと響いた。
「わたし、幸せです」
 残りの三人は食事を続けながら、彼女の言葉に頷いている。
「はい。とても幸せです」
 先程と同様に、三名は黙って頷いている。
「わたし、こんなに幸せです」
 なおも……。
 だが次の場面で、エレオノーアは突然大声で泣き出した。
「私、わ、わたし、こんなに幸せで、こ、こ、こんなに幸せで……いいのかな!?」
 不意に号泣し、周囲も気にせずとめどなく涙を流して、天を仰ぎ見るエレオノーア。
 ルキアンは慌てて胸元からチーフを取り出し、彼女の涙を拭おうとする。だがエレオノーアは首を振って断ると、三人の目をはばからず泣き続けた。
「おにぃ、さん……」
 嗚咽が止まらず、エレオノーアは、倒れ込むようにルキアンの胸元に顔を埋めた。そして彼にしか聞こえないようなささやき声で、ある物語を伝える。
「あの白い花、ヴァイゼスティアーの話。続きがあるんですよ。花になった最後の一粒の涙のこと。魔界の側に堕ち、人間の世に背を向けて闇の英雄となった黒騎士、フィンスタルという人の残した言葉。《次の世では、きっと》。どういう意味だと思いますか、おにいさん」
 エレオノーアは不意に顔を上げた。涙を目に溜めながらも、真剣なまなざしで。
「人は言います。フィンスタルは、次の世では、今度こそ聖女と結ばれると……。彼自身も死の間際にそう願ったのだと。でも私は、そうは思いません」
 強い意志の力を宿した瞳だ。エレオノーアの真摯な語りにルキアンは気後れしそうになるほどだった。
「私は勝手に信じているのです、おにいさん。フィンスタルには、聖女様よりも、もっと彼にふさわしい人がいたかもしれないのです。いや、いたと思います。でも出会えなかった。彼の生きた世では二人の道が交わることはなかった。だから次の世では必ず、もう迷わずにその人と巡り合えるようにって、私はそういう意味だと思ってきたのです。ううん。もっといえばですね、フィンスタルはきっと生まれ変わって、今度は、彼と同じような黒い瞳の、似たようなちょっと物悲し気な顔をした闇の一族の娘と、静かに微笑みながらいつまでも幸せに暮らしたのです。はい、そうに違いありません」
 色々と思い込みの強い彼女の言葉に、ルキアンは、つい自分自身の妄想癖を重ねていた。沈黙したままのそんなルキアンの気持ちが、エレオノーアには自然と想像できたようだ。彼女は涙を拭いて、いくらか無理のある感じで作り笑いを浮かべてみせた。
「私はそういう都合の良い物語を作って、独りで満足していたのです。私はずっと、おにいさんのことを想って……でも、たまには絶望し、あきらめそうにもなりました。そんなとき、私は、逃げ道を作るような気持ちで、無理に自分に言い聞かせようとしました。たとえおにいさんと会えないまま死んでしまっても、今度生まれた時には必ず出会える、と。私のお話の中の、フィンスタルのように」
 ヴァイゼスティアーの白い花に、エレオノーアがそのような想いを込めていたと分かって、ルキアンは、あのとき彼女の振る舞いに戸惑って真剣に話を聞いていなかったことを、申し訳なく思うのだった。エレオノーアが差し出した花の姿を、彼は再び思い出そうとする。
 ふと、そこで我に返ったルキアンは、いつの間にかリオーネとブレンネルが川の方に降りて立ち話をしているのに気付いた。グラスを手に、とりとめのない思い出話をしているようだが、多分、ルキアンたちに気を使って席を外してくれたのだろう。まだ肌寒くもあるが、夜の清流沿いはとても心地よさそうだった。
「エレオノーア、僕らも、川の方に行ってみようか」
 ルキアンはそう言って立ち上がり、エレオノーアに手を差し出した。
「はい、おにいさん」
 エレオノーアも嬉しそうに手を取り、立ち上がろうとするが。
 
「あ、あれ?」
 突然、エレオノーアの声が震えた。
「あれ? おかしいな。何、これ……」
 戸惑いを口にする余裕もほとんどなく、彼女は椅子から崩れ落ちそうになる。ルキアンと手をつないでいたおかげで、何とか転げ落ちずには済んだ。
「おにい、さん?」
 エレオノーアは、ふらふらと椅子に座り直そうとするも、腰を下ろすことさえできず、気を失ったようにルキアンに抱き留められた。
「エレオノーア! どうしたの!?」
「え、え、え? おにいさん、私、私、これ、どうなって……」
 暗がりの中、エレオノーアの身体が青白い光を放ち始めた。気が動転して、彼女の気持ちは、まともに言葉にさえならない。ルキアンの視界の中で、エレオノーアの身体が揺らぎ、輪郭がぼんやりと薄れていく。ルキアンは思わず目を擦ったが、まぎれもなく、いま実際に起こっていることだ。
「え、やだ、ちょっと、待って! わたし……わたし、消えちゃう? い、いや、いやです!!」 
 エレオノーアがなりふり構わず叫び始めたので、リオーネとブレンネルも、ただ事ではない様子に気づいた。二人が駆け寄る中、ルキアンはどうしてよいのか分からず、ただただ、エレオノーアを抱きしめた。だが、腕の中にある大切なエレオノーアの感覚が、次第に虚ろなものに変わっていく。そしてリオーネたちが隣まで来たときには、ルキアンの胸には、もうエレオノーアの体のぬくもりも、確かな存在感も、ほとんど残っていなかった。
「エレオノーア! 何があったんだい!?」
 事情はともかく、エレオノーアの命にかかわる事態であることは、リオーネにも分かる。ブレンネルはルキアンを心配し、彼の背中を支えるように後ろに寄り添った。
 すると、今まで慌てふためいていたエレオノーアが急に落ち着き、風の音のような、しかし人の声で、静かに伝え始めた。
「私、消えちゃうみたいです……。いつか、こんな日が来ると覚悟はしていました。《片割れのアーカイブ》は、《聖体》の定着が不安定なため、独りでは長く存在できないのです」
「だめだ、消えないで、エレオノーア!!」
 しかしエレオノーアは、ルキアンの言葉に対して悲しげに首を振ると、もはや悟ったような口ぶりで答える。
「私だって、消えたくないです。生きたいよ……。だけど、私を作り出すために生贄にされた人たちは、同じように、生きたいと願いながら、命を奪われていったのですよね。そのこと、ずっと考えないようにしていました。怖かったから。それでも、本当は生きたいです。自分だけ助かりたいという私は、地獄に落ちますか?」
「そんな…そんなこと……。エレオノーアに罪はないじゃないか!」
「ありがとう。だけど、もうお別れのようです、おにいさん。会えて、一日だけど一緒に居られてよかった。それだけで、私は世界で一番幸せでした。でも、もしもひとつだけ願いが叶うなら」
 彼女は、静けさの中に寂しさがあふれ出しそうな、微かな笑みを浮かべた。
「おにいさんのアーカイブになりたかったな……。だって、私は」
 もう生身の体すらなく、影のように揺らめくだけのエレオノーアが、ルキアンに口づけをした。
 最後の言葉を残して。
 
「わたしは、あなただけのために咲く花です」
 
 ひとしずく、実体をもって最後に落ちる涙。
 
 何度も彼女の名を呼び、絶叫し、錯乱状態で首を振るルキアン。彼の腕の中で、エレオノーアが見る見るうちになくなっていく。霧散するエレオノーアをかき集めようとするように、必死に両手で空をつかんだ。だが、彼の抗いは無力だった。


第54話 その4 紅の魔女


 
 エレオノーアは無数の微細な光の粒に姿を変え、あたかも風化し砂塵となって舞い上げられていくかのように、この世からあっけなく消え去った。
 失うものを持たなかった者が、戸惑いつつも大切な人と出会ったばかりのときに、それを失った。その喪失感の重さは想像を絶する。ルキアンは、泣くことや悲しみを表に出すことすら忘れ、ただ力なく座り込み、途切れ途切れ、震える声でエレオノーアの名を繰り返すだけだった。
 失意のあまり、ルキアンは、彼の周りで起きた驚くべき変化にもしばらく気づくことができなかった。そしてようやく異変を理解する。どの方向に目を向けても、見通しがまったく効かない。暗黒の世界だ。音もせず、ましてや動くものなど感じられない。ここは、どこなのだろうか。
 だが、そんな空っぽの暗闇の中に、ただひとつ、奇跡のような声が浮かんだ。
 
 ――お……おにい……さん? おにいさんなのですね?
 
 とはいえそれは、現実の音の響きを伴った声ではなく、ルキアンの心に直接語りかけてきている。ちょうどパラディーヴァと話しているときと同様に。
 ルキアンは反射的に叫んだ。
「エレオノーア!? エレオノーア、どこにいるの?」
 彼の声に応えようとしているのか、漆黒の世界にひとつの灯りがともった。仄かな青白い光に包まれ、小さな何かが宙を舞っている。
「蝶? どうしてこんなところに」
 ルキアンがそっと手を伸ばすと、蝶はひらひらと近寄り、彼の手にとまった。真っ黒な羽根に、幾筋かの銀色の模様の入った美しい蝶だ。
 ――おにいさん!
 またルキアンに呼び掛けるものがある。しかし、その話し手の姿は見当たらなかった。
 ――おにいさん。エレオノーアです、私はここです。
 ルキアンは、何も見えないのを理解しつつも、改めて周囲の闇をのぞき、手で探ってみた。唯一、この空間に存在する者。それは、やはり……。
 手の上の蝶を見つめ、しばらく黙った後、意を決して話しかけるルキアン。
「まさか、エレオノーアなんだね?」
 ――よかった! 気づいてくれましたね、わたしのおにいさん!!
 蝶は羽根を何度もはばたかせ、円を2,3回描いて飛んで、再びルキアンの指先にとまった。その様子は、喜びを体全体で表現しているようにみえた。
「こ、これは一体……」
 安堵の涙を目に浮かべながらも、蝶になったエレオノーアを心配して複雑な気持ちになるルキアンに対し、彼女の方は意外に平然と話している。
 ――おにいさん、《支配結界》を展開しましたね。闇の御子の支配結界は《無限闇》。御子が想像したことを創造する、果てしなき闇の世界。
「え、それって……どういう……?」
 ――もう、仕方がないな。おにいさんは、御子のこと、本っ当に……何も知らないんですね。
 エレオノーアが可愛らしく嫌味を言った。
 ――多分、おにいさんは何とかしたくて、無意識のうちに支配結界を発動させたのだと思います。私の体が消え去り、ぎりぎりのところで、最後に残った私の心を《無限闇》の力で実体化し、結界内の世界に留めた。
 ルキアンは、《楯なるソルミナ》の化身と戦った時のことを思い出す。ソルミナの夢幻の世界の中で、ルキアンは闇の支配結界を知らず知らずのうちに展開し、黒光りする鋼の荊を創造して、ソルミナの操る魔人形たちを引き裂いたのだった。
「あれが、想像を創造に変える結界の力? 無限、闇……」
 ――ありがとう、おにいさん。さっきはいきなり消えてしまったので、心の準備が、何もできていなかったです。今なら、もう少し落ち着いて話せます。だけど……。
 エレオノーアが言葉を詰まらせると、羽根を閉じた蝶が妙にしょんぼりとしてみえた。
 ――今も私、徐々に消えていっているのです。おにいさんの《無限闇》のおかげで仮の存在を保っていますが、因果の鎖からは逃げられません。この支配結界もいつまでも続くものではありません。おにいさん、本当は、力がもう足りなくなってきているのでしょう?
 敢えて黙っていたことをエレオノーアに指摘され、ルキアンには返す言葉がなかった。支配結界を展開してから、ルキアンは一瞬ごとに体力や気力が恐ろしい勢いで削られていくのを感じていた。それを無理に隠していたのである。
 ――私をこの世につなぎとめるために、一緒に、あんなものまで実体化してしまったのです。それを維持するのは、いくら御子の力でも難しいことです、おにいさん。
 彼女の言葉に、ルキアンはふと足元を見た。彼は慌てて大声を上げそうになったが、必死に落ち着きを取り戻した。そこに、落ちないように。
 水が――ひたひたと、あくまでも静かに、暗闇の中をつま先まで迫ってきている。そこから何の間合いもなく、その水面は果てしなく深海底にまで、ほぼ垂直に、地獄の底までも落ち込んでいる。目には見えないが分かる。莫大な量の水、底無しの深みに対する、人間のもつ根源的な恐怖感が警告しているのだ。
 ルキアンの恐れが《無限闇》に影響を与えたのか、先ほどまでの完全なる闇が、今度は永遠に明けない薄明の世界に変わった。そしてルキアンと一匹の蝶の前には、彼らの足元から水平線の彼方まで、死に絶え、黒々とした海が、茫漠として際限なく広がっている。たとえば一方で、極点を遥か沖合に臨む、世界の果てを感じさせる寒々とした北の海原と、他方で、夜の工業都市に口を開けた真っ黒な運河の淀みと、いずれも見る者を飲み込みそうな無言の威圧感を漲らせた海のありようが、ひとつに交じり合っている。静けさの中に突き刺すような拒否感を露わにした水面(みなも)が、不気味にこちらを見つめている。
 ルキアンの背筋に冷たいものが走った。彼は思わず後ずさりする。
 これに対して、蝶になってからのエレオノーアは、奇妙に淡々としていた。
 ――これは《ディセマの海》、あるいは《虚海(きょかい)ディセマ》といいます。過去の《アーカイブ》たちの蓄えてきた膨大な情報が思念データとなって保管されている、虚と実の狭間にある情報空間。いま私たちが見ているのは、その一部が《無限闇》によって具現化されたものです。《アーカイブ》の命が尽きると、あの《ディセマの海》に還って、暗い海底に降り積もるのです。
「今なら、そこから、無くなったエレオノーアの体を取り戻すことはできないの?」 
 そう尋ねてみたルキアンだったが、こうしている間にも、《ディセマの海》との対峙の中で秒刻みに力が激減している。
 ――できるかも、しれません。でも、その前におにいさんの力がもうすぐ尽きる……。無理をすれば、おにいさんまで消えてしまいます。
 ルキアンは即座に答えた。自身でも、なぜそう判断したのかいまひとつ分からないままに。
「構わないよ。エレオノーアとなら、一緒に消えてもいい」
 ――おにいさん、嬉しい……。ありがとう。でも、おにいさんは生きて、私の分まで生きてください。
 蝶がルキアンの指から離れ、顔の前を何度も行き交う。 
 ――私がいたこと。私が確かに生きていたこと。おにいさんが覚えてさえいてくれれば、ずっと、私も失われずにそこにいます。
 ルキアンの目の前で、今度は黒い蝶の輪郭がぼんやりと薄れ始めた。エレオノーア自身が消えたのと同じように、この蝶もじきに光の粒となって散ってしまうかもしれない。
 彼女に何か言おうとしたが、突然、ルキアンは胸を押さえ、吐血した。
 ーーおにいさん! もう十分なのです。これ以上続けたら、おにいさんまで本当に死んでしまう。
 泣き出しそうな声でエレオノーアが止めた。死に直面するような凄まじい負担が、ルキアンの心身にかかっている。こうしている間にも体中の力が結界に吸い上げられていく。
「駄目だ。僕は、エレオノーアと必ず一緒に帰るんだ!」
 ルキアンは口から一筋の血を流しながら、目を見開く。右目に闇の紋章の魔法円が浮かび、輝きを増した。だがそれとは裏腹に、ルキアン自身の体力は極度に低下し、文字通り、命を削っている状態である。
「消したくない! 僕の大事なエレオノーアを」
 めまいがして、ルキアンの上体が大きく揺れ、彼はがっくりと片膝をついた。
「もう、力が……。でも、助けたい」
 ルキアンの視界が闇に落ちた。周囲の暗さのためではなく、彼自身がもう目を開けていられなくなったのだ。気を抜くと一瞬で意識を失いそうな中、ルキアンはうわ言のようにつぶやいた。
「誰か、力を、貸して、ください……。助けて……」
 死にゆく二人に、天からの迎えの光か。にわかに暖かく眩い光にすべてが包まれる。
 だが、それと同時に、光の向こうで力強い声が聞こえた。
 
 ――そうだ、諦めるな。君が最後まで諦めなかったから、私が間に合った。
 
 ルキアンの背後で光が門のようなかたちを取り、その中から、白い衣の上に真っ赤なケープをまとった女性が、ふわりと舞い降りた。
「《通廊》を開いてきた。もっとも、いまの私も実体ではなく、急ごしらえの思念体に過ぎないが」
 後ろで一本に編み上げられた金色の髪を揺らしながら、彼女は、相手の心の奥底まで見通すような闇色の瞳でルキアンを一瞥した。夢うつつで、ルキアンを見ながらももっと遠いどこかに焦点が合っているような眼差しだ。それでいて視線が少し重なっただけで、ルキアンは石に変えられたのかと見まがうほど、身動きが一切取れなくなった。
 ――な、何なんだ、この人は……。いや、本当に人間なのか。
 半ば眠るような彼女の瞳の奥に、身震いするほどの魔力をルキアンは感じ、魔道士としてのあまりの「格」の違いに気圧され、硬直してしまったのだ。
 ――あのクレヴィスさんからも、これほどの魔力のうねりは感じなかった。
 何か神的な存在と相対しているような感覚に陥ったルキアンが、ようやく指先程度は自らの意思で動かせるようになったとき、彼女が不意に目を細めた。笑顔は、普通に人間のそれであり、思いのほか優しくみえた。
「遅れてすまない。独りで、よく頑張ったな。この状況でも、そして今までも……。たった一人になっても戦い続けることができる者は、真の勇者だ。誰にでもできることではない」
 そう言いながら彼女は姿勢を低くして、水晶柱の付いた杖を左手で高く掲げ、右の掌を開いて地面に着けた。彼女の言葉が、シェフィーアがルキアンに告げたそれとよく似ていることが、ルキアンには何故か嬉しかった。
「私はアマリア・ラ・セレスティル。《地の御子》、つまり君の友となる者だ。人は《紅の魔女》と呼ぶ。私が来た限り、もう君たちに、これ以上の悲しい涙は一滴たりとも流させはしない……。闇の御子よ、結界を上書きする。魔力を開放するから、気を付けて伏せていろ。大切なその子を吹き飛ばされないように」
 その言葉の通り、爆風がルキアンを襲った。彼は体を丸めてしゃがみ込み、蝶のエレオノーアが飛ばされないよう、手の中で大事に守っている。アマリアが言ったように、彼女は単に魔法力を開放しただけ、いわばそれは、体を動かす前に深呼吸をする程度のことだ。だが凄まじい魔力の奔流がルキアンを飲み込む。
「君の結界の特性を残したまま、私の結界で上書きした。この支配結界《地母神の宴の園》は、大地から魔力の源をいつまでも吸収し続け、私に与える。実体化された《ディセマの海》は、私とフォリオムで支える。その間に、君は彼女を海の底から取り戻して来い」
 心配そうな顔になったルキアンに、彼女は頷いた。
「そう。もし《地母神の宴の園》を本気で使えば、その土地の魔力を宿した霊脈は、向こう何十年かは霊的加護を一切失うほど、空っぽに枯れ果てるのだが。だが、心配しなくてもそんな使い方はしない」
 日頃は感情を露わにすることの無いアマリアが、さも楽し気に口元を緩ませた。
「闇の御子を助ける。人類が初めて報いる第一矢だ。さぁ、フォリオム」
 
「《宿命》とやら、曲げてやろうか」

 

【第54話 後編 に続く】

※2023年7月に本ブログにて初公開。  

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『アルフェリオン』まとめ読み!―第54話・後編

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5.その想いで、道を切り開け!



  《地》の御子・アマリアの姿をそのまま写した思念体は、ゆらゆらと陽炎のように揺らめきながらも、虚ろな者とは思えない圧倒的な存在感でもってルキアンに語りかける。
「手を出せ、ルキアン・ディ・シーマー」
「は、はい……」
 ルキアンが恐る恐る右手を差し出すと、その上にアマリアは手を重ね、何か一言つぶやいた。実体のない手で触れられても直接的な感触はない。だが、ルキアンは掌から体中の血管の隅々に至るまで何かを送り込まれたような感覚に陥り、思わず寒気を覚え、次いで爪先から頭頂に至るまで電気が走ったかのごとく身体を固くした。そして最後に、掌の中心部に焼けつく痛みを感じる。
 ――おにいさん! 大丈夫ですか?
 ルキアンの肩にとまっていた黒と銀の蝶は――すなわち、エレオノーアの心が彼の支配結界《無限闇》の力で具現化され、結界内にとどめられた姿は――驚いたように羽根をばたつかせている。
「これは?」
 火傷に似た感覚がまだわずかに残る手のひらを、ルキアンが見つめる。麦の穂を思わせる黒い紋章が浮かび上がっていた。
「《豊穣の便り》の刻印だ。私が支配結界《地母神の宴の園》を通じて大地から吸収する魔力は、この刻印を持つ者にもいくらかは送られ続ける。楽になっただろう?」
 そう告げたアマリアの言葉ひとつひとつから、ルキアンはいわば「言霊」のような不思議な重みを感じつつ、驚いて指を何度も開いたり閉じたりしている。
「本当です! すごい……。ありがとうございます」
 失神寸前だったはずのルキアンの体中に、普段以上に力がみなぎり、朦朧としていた頭の中も心地よく澄みわたっている。背後に果てしなく広がる《ディセマの海》の水面を見据えながら、彼は、この不気味に黒々とした《虚海》に対し、今ならば立ち向かえるという自信めいたものを実感するのだった。
「闇の御子よ、君とは初めて会うという気がしないが、一応、初めてお目にかかる、と言うべきじゃな」
 アマリアの隣に、いつの間にか地面から生えてきたような、一切の気配を悟らせずに現れた者がいる。緑色の着古したローブをまとい、同じく緑色のよれよれの帽子を被った老人の姿をしたそれは、いったい幾百の年を生きたのだろうかと思わせる長い白髭を風に揺らしながら、ルキアンに語りかけてきた。
 ――この人も、パラディーヴァ……なのかな? リューヌと同じような雰囲気を感じる。
 ――そうじゃよ。地のパラディーヴァ、フォリオムと申す。以後よろしく、我らが盟主よ。
 パラディーヴァと相対したときには、向こうにその気があればこちらの心の中が筒抜けになってしまうということを思い出し、ルキアンは複雑な面持ちになった。
「いや、悪かった。契約を交わしていない者の心を勝手に覗いてしまって。わしには、わが主(マスター)と違って趣味はないからの。その、のぞきの……」
 アマリアに無言で睨まれ、フォリオムは慌てて口を閉じた。
「の、のぞきって、どういう……?」
 不可解そうに首を傾げたルキアンは、フォリオムを睨んだアマリアの目に途方もない恐怖を感じ、万が一にも、あの眼差しが自分に向けられたらどうであろうかと、苦笑いをするのだった。
 ――もう、お爺さん! おにいさんの頭の中を勝手に覗かないでください。は、恥ずかしいじゃないですか。
 ――はて。本人はともかく、そこの蝶々さんが何故にそんなに恥ずかしがるのかの。
 そしてエレオノーアとフォリオムの間で、いまそんな滑稽な念話がやり取りされたことも、ルキアンは知らないのだった。
「さぁ、二人の闇の御子よ。ディセマの深海の底にまで進み、為すべきことを為すのだ」
 アマリアが威厳のある調子で語る。もしここが、全てが沈黙し凍り付いた《虚海ディセマ》ではなく、燦々と陽の光の満ちるごくありふれた海岸だったなら、彼女の金の髪はさぞ好ましく風になびいたのであろうが。
「これは海のかたちをしているけれど、あくまでも虚像であり、実体を持たないデータの集合体だ。それに、この空間は君自身の支配結界の中でもある。本来、ここのすべては君の意思でどうにでも変えられる。見た目にとらわれず、その想いで、道を切り開け」
 そう伝えると、アマリアはフォリオムとともに精神を集中し、《虚海ディセマ》を実体化させたまま維持するため、それに必要な膨大極まりない魔力を発し始めた。
「分かりました、やってみます! 行こう、エレオノーア。君を取り戻しに」
 ――はい、おにいさん。どこまでも一緒です!!
 ルキアンとエレオノーアは、言葉を交わし、互いの覚悟を確かめ合った。
「これは海の姿をしていて、海ではない。それに、この場所では、目に見える距離や広さも実際のような意味を持たない。アマリアさんの言ったように、僕の、この想いで道を切り開く」
 あまりにも広大で、身震いするほどの水量に満ちた《ディセマの海》に対し、そこでひとつの探し物をすることが決して荒唐無稽な挑戦ではなく、自らの心の持ちようでどうにでもなるということを、ルキアンは実際に言葉にし、噛みしめるのだった。
「それに、ここが僕の支配結界の中で、今は魔法力も十分にあるのだから、だったら……」
 彼は蝶のエレオノーアを掌の上に乗せ、じっと見つめた。
 ――君の姿は、はっきりと覚えている。
 
 まさに、いま目の前にいる蝶のように、
 森の小道をひらひらと舞うように歩き、
 ルキアンを導くエレオノーアの姿。
 振り返って、
 いっぱいの笑みを浮かべる銀髪の少女。
 
 自分の胸、心臓の上に掌を置き、
 その上にルキアンの手を取って重ねる彼女の姿。
 
 隣に座って、目に涙を浮かべながら、
 これまでのことを語るエレオノーア。
 
 ルキアンの前に立ち、
 剣を構え、山賊たちと対峙する勇敢な後ろ姿。
 
 純白のドレスを身に着け、
 僅かに顔を赤らめながら
 その姿をルキアンに披露するエレオノーア。
 
 いま幸せであるということを
 何度も何度も口にして、
 突然に号泣し
 ルキアンの胸に伏したエレオノーア。
 
 《ヴァイゼスティアー》の白い花を差し出し、
 いつになく真剣な目で
 ルキアンを見つめるエレオノーア。
 
「まずは君の姿を呼び戻す。これから何が起こるか分からないあの《海》で、君が身を守り、一緒に戦えるように」
 ルキアンが念じると、掌の上の蝶は激しく光を放ち、輝く霧のようになって背後に流れた。それは次第に人のかたちを取り、その細部がやがてルキアンのよく知るものとなって、彼の前にたたずんだ。
「こ、これ! 私の姿、戻ったのですね」
「本物ではなく、この結界の中だけの、仮の姿だけど。でも、すぐに本当の君も取り戻す」
 《無限闇》の力でかりそめの体を得たエレオノーアは、それに気づくが早いか、精一杯の想いを込めてルキアンの胸に飛び込んだ。
「十分です! 十分です、だって、この体があれば、こうやっておにいさんに飛び込むことができますから!!」
 あまりの勢いにルキアンは後ろに倒れ、上に乗ったエレオノーアは、ルキアンの胸に頬を擦り付けてはしゃいでいる。
「あ、あ、エレオノーア、ちょっと待って。待ってよ。その、アマリアさんたちが見てるじゃないか……」
 エレオノーアは、澄んだ青い目をルキアンの同じく青い目に合わせ、悪戯っぽく微笑む。
「やりました! やっぱりお兄さんに飛び込んだときの感触は、最高です。だって……」
 彼女は瞳を潤ませ、神妙な顔つきに変わると、率直に気持ちを明かした。
「もしもまた、さっきみたいに消えて、今度こそ私が消え去ってしまって……おにいさんと二度と会えなくなったら、手遅れですから。いつそうなるか分かりませんし、いますぐにでも、こうして想いをぶつけておかなくては、と。本当に、本当に心残りだったんですよ? このまま死んじゃうのかなって。でも今のは一方的だったですね。嫌でしたか? おにいさん」
「い、いやだなんて。とんでもない。だけど、びっくりして、その、言葉が出ないよ。なんて言ったら、いいのかな。よく分からないけど、ええっと、僕も……嬉しい、の、かな? たぶん……」
 ルキアンは、自身でも意味のよく分からない言葉を伝えるのだった。
「それよりエレオノーア、その格好、早く何とかした方が」
 ルキアンに指摘され、エレオノーアは、ようやく落ち着いて今の自分を確認した。頭から湯気が出そうなほど、瞬時に赤面する彼女。
「え? え、何ですか、これ!?」
 エレオノーアがまとっているのは、美しくも勇猛なワルキューレを彷彿とさせる、戦乙女風の衣装だった。ルキアンが《無限闇》の力で《想像し創造した》その服装自体は凛々しいものだとしても、問題はエレオノーアの振る舞いである。衣装の裾やあちこちがかなり短めであるにもかかわらず、彼女は慎みも何もない格好でルキアンの上に被さっているのだ。それをアマリアたちの方から見たら、多分、あられもない姿態が目に入るのだろう。
「お、お、おにいさん? この衣装のこと、先にひとこと言ってください! ところでその、これ、おにいさんの好みなんですか?」
「いや、好みかどうかは……。何というか、頭に浮かんだのがそれで。ごめん。でも、教える間も無く、いきなりエレオノーアが飛び込んでくるから……」
 そんな二人の姿を横目で見ながら、フォリオムが高笑いする。
「ほっほっほ。惨めな少年少女を助けに来たと思ったら、あんな幸せそうな二人組は、なかなか見たことがないのぅ。まったく、《もう君たちに、これ以上の悲しい涙は一滴たりとも流させはしない》と、誰かさんがすまして言っておったが、ちょっと格好つかんかったかの?」
「良いではないか。私が流させないといったのは、あくまでも《悲しい涙》だ。うれし涙なら、いくらでも流せばよいであろう」
 アマリアも微かな笑みを目に浮かべ、フォリオムの言葉に同調する。だがすぐに、彼女の表情が再び厳しくなった。
「しかし、この《海》を代わりに支えるとは言ってみたものの……。これは相当だな。闇の御子は、たとえわずかな間ではあろうと、本当に独りでこんなものを支えていたのか。信じられない」
 そう言いつつも、彼女は何の問題もないかのように頷くのだった。
「もっとも、だから私は、自らここに来るのではなく、思念体を送ったのだがな。他の御子の支配結界の中に干渉するのは、たとえ御子であろうと《通廊》を通さないと無理だ。だが《通廊》を使える御子は、今のところ私とルキアンのみ。それで不足するような事態になったら……」
「それはつまり、魔力が足りない場合、他の御子の力も借りようと?」
「そうだ、フォリオム。私が支配結界の外にいれば、他の御子たちの魔力を私に集約してもらい、私がそれを結界内に送ればよいのだから。ただ、そのためには、それぞれの御子のパラディーヴァの役割が重要になるだろう」
 これからの大きな試みに向け、アマリアは、いったんは緊張感をもって口元を引き締め、しかし次の瞬間には、今度はわずかに唇を緩めた。今の状況を半ば楽しんでいるかのように。
 
「《あれ》の《御使い》たちと《御子》との長きにわたる戦いの流れが、ここで少し変わるかもしれない。《あれ》の因果律を万象の生成流転へと具現化する、この世界の歴史の筋書きに、ほころびが生まれるかもしれない。たとえそれが、蟻の穴のようにささやかなものであったとしても。一度でも亀裂ができることは、つまりゼロがもはやゼロでなくなることは、決定的な変化だ」
 
 必ず的中するという彼女の占いが、そのことをすでに予見したとでもいうのだろうか。


【第55話に続く】

※2023年8月に本ブログにて初公開。

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『アルフェリオン』まとめ読み!―第53話・後編

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6.聖体降喚の真実とエレオノーアの願い


 ルキアンとエレオノーア――共に銀色の髪と青く澄んだ瞳、穏やかさの中に翳りのある雰囲気をもつ、同じ血族を思わせる二人は、再び川縁まで降り、仲良く並んで釣り糸を垂れている。
 黙って水面を凝視するエレオノーア。その横顔を、今までとは違った想いを込めて見やりながら、ルキアンは呟いた。
「レオーネさんの家では驚いたよ。いきなり、《御子》なんて言うから」
「はい、ごめんなさい……。だって嬉しかったんです。おにいさんに、やっと会えたから。だから、つい」
 相変わらず、エレオノーアへの返答の言葉にいちいち悩んでいるルキアンに対し、今の一言をきっかけに、エレオノーアの口数が堰を切ったように増えていく。
「私のこと、その……変な子だと、思っていますよね。初めて出会ったばかりなのに、いきなり、おにいさん、おにいさんって……強引に踏み込んできて、ちょっとおかしいと思っていませんか」
 すかさず首を振って否定するルキアンに、エレオノーアは身を乗り出して言った。
「私、誰にでも尻尾を振って着いていくわけではないです。おにいさんは特別なのです」
 実際、ルキアンは、エレオノーアのことを不快に思ったり、軽蔑したりはしていないだろう。むしろ強く好感を抱いている。だが彼は言葉を上手く選べず、困惑したままだ。それでも懸命に取り繕おうとする彼の態度を、エレオノーアもまた好意的にみているのだろうが、遂には彼女も自分自身の想いを穏当に表現できなくなった。彼女は大きく深呼吸すると、半泣きになってルキアンに向き合った。
「ずるいです! おにいさんは、ずるいです……。おにいさんは、真の闇の御子なのに、《聖体降喚(ロード)》のことも《御子》のことも、何も知らないんですから!!」
「《ロード》? その言葉、《ロード》……って、どこかで、聞いたような。どこかで、とても大事なことのような……」
 ワールトーアでのネリウスやカルバとの会話も、もはやルキアンの記憶から抜け落ちているのだろうか。しかし、たとえ思い出せなくても、あのときのことは記憶の域を超えたところに深々と刻まれているに違いない。苦悩の表情で頭を抱えるルキアンの様子をみれば、《ロード》という言葉に、何かただ事ではない反応を示していることが分かる。
「おにいさん。《ロード》の素体になる者は必ず二人。たぶん、人間一人分の魂の大きさでは、《聖体》を受け入れることに耐えられないんです。だから二人に分けて降ろすのだと。その二人は、たとえば家族とか、親友とか、恋人とか、普通の意味で特別な関係でなければならないのはもちろん、霊的にも深い宿縁で魂を結ばれた者同士でないといけません。それでも、《ロード》はいつも失敗する……。二人ともほぼ間違いなく、死にます。でも稀に、失敗しても一方だけ生き残ることがあります。それが不完全な闇の御子と呼ばれる、《片割れ》の者」
 聖なるものを、真の闇を司る御子をこの世に招くと言いつつも、その実態は非道でおぞましい《聖体降喚(ロード)》の真実を、唐突に、明け透けに伝え始めた少女。
「私たち不完全な闇の御子は、だから……きっと生まれてきたときから、魂が半分しか無いんです」
 そう言い終わらないうちに、涙目になったエレオノーアが、覆い被さるようにルキアンの顔を覗き込む。彼女は自分の左胸に掌を当てると、その手の上に、ルキアンの手を取って乗せた。
「おにいさんと一緒だから、心臓、どきどきしています。私は《生きて》いるようです。でも《ロード》より前の記憶は、私には無いんです。思い出せないだけなのかもしれませんが、もし思い出しても、それって《私》の記憶と言えるのでしょうか。そんなこと考えると……考え始めると怖いんです……記憶や、この体、この思い、どこまでが《私》なのでしょうか。《私》って、本当に存在しているのでしょうか?」
 ルキアンの手が震えた。その手をそっと押さえているエレオノーアの指に、力が加わる。あまりのことに、彼女が何を言っているのか、直ちには現実味を感じられなかったルキアン。しかし心の中でエレオノーアの言葉を反芻してみて、その恐るべき内容に、ルキアンは、ただ言葉を失うことしかできなかった。
 ワールトーアで一度は知った《ロード》のことを、その記憶を《絶界のエテアーニア》によっておそらく奪われたために、今のルキアンは、《ロード》というものについて、自分自身も含めてのことではなくエレオノーアの方だけが辿った悲劇として受け止めてしまっている。その姿は、真実を知る者からみれば、皮肉と無残の極みだった。だが、本当のことをここでルキアンには伝えず、気持ちの奥に押し込めながら、エレオノーアは話を戻した。
「だから、私と対の《執行体》になるはずだった人が、誰で、どんな人間だったのかも、覚えていません。だけど、とても大切な人だったんだなって、分かるんです。私にとって……あ、違うのかな、《この人》にとって。でも私自身も、心にぽっかりと穴が開いたような、何かが絶対的に抜け落ちたような。ずっとそんな苦しい気持ちでした」
 彼女の真剣な表情に押され、ただ無言で頷くルキアンに、エレオノーアは独白を続ける。
「しかも私は《不完全なアーカイブ》なのです。《アーカイブの御子》は、闇の御子の本来扱う様々な御業や智慧を収めておく書庫のようなもの。対になる《執行体の御子》を助け、支えるためだけに生まれてきた存在。たとえ不完全でも《執行体》であれば、普通の人間を遥かに超える特別な力をもつ者として、価値があります。でも、対になる《執行体》を初めから失っている不完全な《アーカイブ》は、《御子》としての莫大な力をただ《保管》しているだけで、それを自分自身ではほとんど使うことができず、他に特別な能力も持っていません。多くの人の命を食い尽くしたくせに、ただ生まれてきただけの、役立たずなのです」
 言葉を選ばず、信じ難い話を突き付けるエレオノーアに、それでもルキアンは共感することができた。多少なりとも《御子》としての自覚がなければ、到底受け入れられない内容であったろうが。そういえば、話に熱が入り出すと止まらなくなり、普段とは打って変わって饒舌になることは、この二人に共通する点である。
 エレオノーアは、心の深いところで何か鍵のようなものが外れたと感じた。ルキアンにここまで話すつもりは無かったうえに、しばらくは彼とのかかわりは無邪気なふれ合いの範囲に留めようと思っていたはずであり、その淡くて不安定な心地良さに、できる限り長く立ち止まっていたかった、はずである。
「《片割れのアーカイブ》。たとえもう、私の《執行者》の代わりは存在しないとしても……それでも空になった己の半分を埋めようとする本能のようなものが、ひたすらに強くなって。そんなとき、私は知りました。その、いいえ、自身で感じ取ったのです。実は《ロード》が成功していて、《真の闇の御子》がこの世に降り立っていることを。この人なら、本当の闇の御子の力をもってすれば、《アーカイブ》としての私を受け止めることができる。魂のもう半分を埋めてくれる、きっと私を導いてくれると、なぜかそのように確信したのです。おにいさんからみたら、一方的すぎますよね。迷惑ですよね。たとえ御子としての宿命があったにしても」
 《不完全な御子》としての秘密と、一人の女性としての胸の内とを、ひとときに伝えようとしているエレオノーア。その目は、いま、正面からルキアンを見つめていて、限りなく透徹していて、嘘が無く、しかし微かに哀しそうな光も宿している。
「ただ、あなたに、おにいさんに会いたい。そう思って私は《僧院(あそこ)》から逃げ出しました。たとえ殺されてもよかった。おにいさんに一目会えるのなら。幸い、レオーネ先生に助けられて……。あの人のもとにいれば、簡単には手出しできません。それに何故か、逃げた私に対し、《僧院》からの動きが何もありません。もう長い間、時々忘れそうになるくらいに」
 つい先ほどまで鮮明に聞こえていた、谷川に水の流れる響きや、風の音、揺れ動く草や木々の葉のざわめきや、すべてがもはや二人には聞こえていない。しかしエレオノーアの声だけが、ルキアンをとらえて離さなかった。
「おにいさんのこと、ずっと想ってたんです。おかしいですよね。どんな人かも分からなかったはずなのに。だけど、なんとなく分かるんですよ。分かっていたのです。朝起きて、まず思うのはあなたのこと。それで気が付けば、お昼になっていて、今日みたいにお魚を獲りに行っても、ずっとあなたのことばかり。夕方になっても。そうやって毎日。日が暮れると、もっと寂しくなってきて。おにいさんのことが、どうしようもなく気になって、静かに本を読んでも落ち着かなくて、すぐに夜が更けて、仕方なくベッドに入っても眠れなくて、とてもとても切なくなって、おにいさんのことを想うと体が熱くなって、そして……そして私は……」
 思わず喋り過ぎたと気づき、エレオノーアは顔中から首まで真っ赤に染めて、慌てて視線をルキアンから背けた。
 
「せつないです。おにいさん……」
 
 ルキアン自身もエレオノーアの語りに気持ちが入り込み過ぎて、己の奥底から湧き出る耐え難い力に動かされ、彼女を安心させたい、やみくもながらも抱きしめたいと思わずにいられなかったのだが――彼の身体はそのようには動かず、何度も腕や指先を震わせ、仕方なくエレオノーアの頭を優しく撫でようと、手を伸ばした。
 
 
 ――はぁい。そこまで。
 
 そのとき、ヌーラス・ゼロツーは心の中で嘲笑した。ゼロツーの操るアルマ・ヴィオが再び上空からルキアンたちを監視している。
 ――そうだ、僕も《おにいちゃん》って呼んじゃおうかな。だって僕は、そんな《廃棄物ちゃん》よりもずっとずっと前から、あんたのことを見張り続けて、いや、見つめているんだよ……おにいちゃん。
 そのうえで、ルキアンとエレオノーアが気づいていなかった周囲の変化に対し、ゼロツーが意地悪く語る。勿論、それは独り言でしかないのだが。
 ――あれれ、どうしよう、おにいちゃん。二人で楽しくやってるところ申し訳ないんだけど、悪いおじさんたちが来たみたいだよ。
 
「釣れましたか。貴族のお坊ちゃん方。いや、そちらは、お嬢様でございますか……。ははははは!!」
 頬に傷、髪をすべて剃り上げた頭、片目に黒い眼帯をした、絵に描いたようなならず者の頭目が、似合わない丁重な表現でぎこちなく喋った後、大声で笑った。
 その声に合わせ、自分たちも下卑た笑いを垂れ流しながら、背後の森の中から男たちが次々現れる。皆、手に剣や斧、ナイフなどを持ち、茶色や緑色の薄汚れたマントを羽織っている。その風体からして山賊や追剥ぎのようだ。
「《せつないです、おにいさん》? そんなに人肌恋しいのだったら、俺たちが温めてやるよ」
 頭目が、これまた似合わない紳士然とした口調で、しかし品の無い言葉を投げかけた。取り巻く手下たちはわざとらしく失笑している。
 口角が下がり、淡い紅色の唇を震わせたエレオノーアに、怒りの表情が浮かんだのをルキアンは初めて見た。彼女は悪漢たちを恐れるのではなく、激しい憎悪に満ちた目で、しかし冷静に周囲を確認している。ずっと心の内に、悶えながらも大切に秘めていた想いを、意を決してルキアンに打ち明けたとき、その尊い瞬間を下世話な山賊たちに覗かれていたのかと思うと、温厚なエレオノーアも、怒りと恥ずかしさとで体中の血が沸騰しそうなのだろう。
 
 ――あの山賊たち、ちょうどよいところに居たからね。でも、本気で相手にしてくれないし、身の程をわきまえず僕に手を出そうとしたから……10人くらいまとめて殺っちゃったら、素直に言うことを聞くようになったよ。馬鹿だね、自分たちにとっても、御褒美にしかならない美味しい話なのに。
 エレオノーアに焦点を合わせ、機体の魔法眼に映る眺めを拡大すると、ゼロツーは徹底して冷淡な口調で告げる。
 ――気に入らないその女を、やっと会えた愛しい《おにいさん》の目の前で、ぼろ雑巾のようになるまで辱めてやってよ。
 容赦のない酷薄さを溢れ返らせ、《美しき悪意の子》は唇を歪める。
 ――おにいちゃん、怒るかな。だったら、大事な大事なエレオノーアちゃんの純潔を守りたいなら、山賊の虫けらどもなんて、いっそ消しちゃったらどう? 実は、おにいちゃんも、血を見るのが楽しいんでしょ、その力を存分に使って。僕、じっくり観察してたんだよ。アルフェリオンが逆同調して、敵も味方も見境なくブレスで焼き尽くしたときのことを。ナッソスの戦姫の機体を、鋼の剣の山で容赦なく刺し貫き、牙で食いちぎったときのことを……。あんた、最高だよ! 本物の闇の御子、僕のおにいちゃんは。だから、認めたらどうだい。
 ヌーラス・ゼロツーは、自らも悦び極まった寒気を感じながら、小悪魔のように誘うのだった。
 
 ――本当は好きなくせに。気持ちいいよね、闇は。
 
「おにいさんは逃げてください。私が道を切り開きます。そして、早く助けを呼んできて」
「でも、そんなことをしたら君が……」
 エレオノーアが告げた決死の提案に、かつ、それが混乱や無謀によるものではなく、彼女自身が一定の勝算を信じた表情をしていることに、ルキアンは驚きを隠せない。それ以前に、彼女だけを置いて逃げることなどできるはずがなかった。
 ――それでも僕は、まだ同じことを繰り返すのか。
 あのとき、内戦で無法地帯となったナッソス領において、ならず者たちに凌辱されたシャノンの姿が、ルキアンの脳裏に何度も浮かび上がって消えようとしない。もし同じように、エレオノーアが山賊たちの手で嬲り者にされたとしたら。そう思っただけで、ルキアンは身も心も余すところなく絶望に囚われた。
「駄目だよ。ぼ、僕が守るから。エレオノーアが逃げて」
 そう言いながらも、ルキアンは剣すら抜いていない。抜いたところで、それを生身の人間に突き立てることなど、彼にできるのだろうか。
「ありがとう、おにいさん。守ろうとしてくれて、本当に嬉しい」
 前に出ようとするルキアンを押しとどめ、エレオノーアは目に涙を溜めながら、精一杯のきれいな笑顔を作った。
「でも、もし、おにいさんに何かあったら、私は生きていられません……。それに、言ったばかりじゃないですか。私は、これでも結構強いんですよ」
 エレオノーアが、考えてもみなかったほど強気の姿勢を見せたため、山賊たちは呆気に取られた。その場の空気を変えようと、彼らの頭はできるだけ尊大な態度を装う。
「ほぉ、勇敢なことだな。だが、そういう強い女は大好きだ」
 それと同時に、おそらく目や表情で合図があったのか、近くの茂みから数人の男が剣を振りかざし、前触れもなくエレオノーアに襲いかかった。
「傷つけるんじゃないぞ、絶対に殺すな!」
 油断してそう言った山賊の頭は、次の瞬間、眼前で何が起こったのか分からなかった。小柄な銀髪の少女に飛び掛かったはずの、彼女より遥かに大柄で屈強な男たちが、うめき声を上げてばたばたと地に伏していったのだ。
 エレオノーアの呼吸が一変し、足の運びも獣のように隙の無いものとなった。
 いま起こったことは何かの間違いにすぎないと、別の一団が、今度は本気で害意を込めてエレオノーアに斬りかかる。
 だが彼女は、緩急自在に円を描くような動きで山賊たちの攻撃をかわし、敢えて敵の懐に入ると、密接して武器を振りにくい間合いから急所に一撃を叩き込んだかと思えば、相手の脚を乱して動きを崩し、敵同士がぶつかり、危うく同士討ちになりそうな動きを誘っている。
 
 ――灰式・隠密武闘術、弐群。
 
 エレオノーアの青い瞳が、その師・レオーネを受け継いだような、《灰の旅団》の戦人(いくさびと)の眼差しへと変わった。
 
 ――邪魔をしないで。私は、もう決めたんです。この美しい谷に、光翠の川面に別れを告げて、私自身のもって生まれてきた宿命も越えて、一緒について行きます、おにいさん!

 


【第54話に続く】

※2023年7月に本ブログにて初公開。

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『アルフェリオン』まとめ読み!―第53話・中編

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物語の前史 | プロローグ |

 


4.道を踏み外した姫様のこと


 

「やぁ、久しぶり……。リオーネおばさん」
 気恥しそうに頭をかきながら、ブレンネルが挨拶をした。背は高めだが華奢であり、隠れ場所としては必ずしも適当ではない、彼の背中に――それでもルキアンが身体をできる限り隠そうとして、右に左に、もじもじと足踏みをしている。
 彼らの間の抜けた姿に、取り立てて何か感ずるところもなさそうに、一人の老婦人が黙々と編み物をしていた。ブレンネルの声が聞こえていなかったわけでも、耳が遠いわけでもないようだが、彼女、リオーネ・デン・ヘルマレイアからは、しばらく何の反応も帰ってこない。
 ブレンネルが困った様子でルキアンと顔を見合わせ、二人して微妙な苦笑いを浮かべている。やがてリオーネは、針仕事をする自らの手元を見続けながら、ほとんど背を向けたまま返事をした。
「ブレンネル坊やも大きくなった、いや、すっかり一人前のおじさんになったね。前に会ったのは、いつだった?」
 すぐには思い出せないのか、わざとらしく首を上げ下げしては考え込むブレンネル。
「お茶でも飲みながら、話を聞こうかね。何しろ……」
 顔を上げ、リオーネがルキアンに送った視線。
「アルマ・ヴィオで乗りつけるなんて、ただ事じゃないだろうし」
 見るものを射すくめるような鋭利な光が、彼女の目に宿った。それに呼応するかのごとく、ルキアンは、自身の胸がひときわ大きく鼓動を打ったのを感じ、同時に後ろに押し戻されたような気分にもなった。
「す、すいません」
 ルキアンが思わず頭を下げる。目の前の老女が、かつてミルファーン屈指の機装騎士と恐れられた人物であるとは信じられなかったところ、彼は一瞬にして、見方を改めるのだった。
 もっとも、歴戦の勇士の気でもってルキアンを瞬時に威圧したリオーネは、その直後に彼と再び目を合わせたときには、落ち着いた老婦人に戻っていた。
「いいんだよ。まだ若いのにエクターなんて、因果な商売を。見た感じ、軍人でも傭兵でもないようだけど」
「ご挨拶が遅れました。エクター・ギルドのルキアン・ディ・シーマーと申します。御無礼をお詫びします」
「ふぅん、やっぱり貴族なんだね。で、ギルドのエクター。私はリオーネ・デン・ヘルマレイア。リオーネでいいよ」
 ――あの人と同じだ。ミルファーンの貴族。
 ルキアンは、デン・フレデリキアのことを、すなわちシェフィーアのことを反射的に思い浮かべた。リオーネも本来はミルファーン人であるという点を意識すると、彼女のいくつかの言葉に自分たちとは違ったアクセントや発音が混じっていることに、ルキアンは改めて気づくのだった。だが全体としてみれば、生粋のオーリウム人と何ら変わらない話しぶりからは、リオーネのオーリウムでの暮らしが相当長きにわたっていることがうかがえた。
「長旅、疲れたろ。まず座っておくれ」
 リオーネに促され、ルキアンとブレンネルは、部屋の隅に半ば転がすように置かれている椅子をそれぞれ起こし、床のきしむ音をさせながら腰を落ち着けた。
 一息ついたルキアンがふと顔を上げると、向こうからお茶とお菓子を運んでくる少年と視線がぶつかった。少し年下だろうか、あるいは同じくらいの年でも見た目が若干幼いのだろうかと、ルキアンは他愛のないことを思いつつ、自らと似た銀色の髪をもつ少年に親しみを覚える。
 そんなルキアンに、にっこり笑いかけ、銀髪の少年は思ったより高い声で言った。
「こんにちは、おにいさん。僕、エレオン・デン・ヘルマレイアです」
 彼の名前を聞いて頷いたルキアン。その表情を見て、エレオン少年は首を振った。
「あ、ヘルマレイアといっても、僕、リオーネ先生の本当の子供じゃないですよ。先生の弟子です。でも僕は、先生をお母さんだと思っています」
 師と呼ぶ者と共に暮らす銀髪の少年――ルキアンは、胸の奥で何か遠くのものが呼び起こされるような、不思議に懐かしい気分になって少年の顔をしげしげと眺めた。まず惹きつけられたのは、不自然なほどに鮮やかな、澄んだ青い瞳。それは天空を象徴する宝石を、たとえば選りすぐりのサファイアを想起させつつ、そういった高雅な一面と同時に、彼の眼差しには愛嬌や親しみやすさもあり、好奇心の赴くままによく動く。そして、ふっくらと柔らかそうな唇は薄桃の色、さらに薄桜の花さながらに、ほのかに色づいた頬。
 
「おにいさん」
「あの。おにい、さん」
 エレオンが仕方なさそうな笑みを浮かべ、何度もルキアンのことを呼んでいる。
「あ、ごめんなさい。ちょっと……」
 ルキアンは我に返った。また得意の妄想が顔を出していたようだ。
 ――あ、あれ? いま、男の子に、見とれてしまった、ような……。何やってるんだろ。でも、さっきからずっと僕の方ばかり見ているような。いや、そうだったとしても、それは別に……。
 小声で何かぶつぶつと言い、ひとりで顔を赤くしているルキアン。彼のそんな様子をエレオンは微笑ましく感じたらしく、細めた横目でルキアンの方を曖昧に見続けながら、お茶を入れている。二人暮らしには幾分大きめの白磁のポットは、花や葉を記号化したような紺色の紋様でシンプルに彩られている。そういえばミルファーンの王立の大規模な陶磁器工房が、この種の白と紺の器で知られていることを、ルキアンはどこかで聞いたような気がした。
 リオーネがわざとらしく大きな咳払いをした。初対面にしては奇妙な、ぎこちなくも、変にお互いを意識したルキアンとエレオンのやり取りに、呆れたような表情をしている。
「若いお二人は、話したいことがあれば、あとで沢山語り合ってくれたまえ。それより、何か頼みごとがあって、あたしのところに来たんだろ、ブレンネル?」
 
 ◇
 
 ルキアンの抱えるひと通りの事情を、ブレンネルから聞いたリオーネ。その都度、彼女は頷きながら、比較的好意のある様子で受け止めていたようだった。それにもかかわらず、ブレンネルが喋り終わった後、しばらく彼女は一言も発しようとはしなかった。
 必要以上に長く感じられる沈黙を気まずく思ったのか、ブレンネルは、ルキアンに昨晩語った話を繰り返す。
「昨日も言ったように、俺の親父は、ミルファーンの王都でカフェをやってたんだ。リオーネおばさんは、そのときの常連さ。都の市壁内と郊外との間、中途半端な場所にあるいまいち売れない店に、いつの頃から機装騎士が一人、立ち寄るようになった」
「その中途半端な場所が、あたしには穴場というのか、いわば隠れ家として都合良かったんだよ。王宮の連中ともあまり顔を合わさずに済んだし、街から遠く離れた街道沿いの店よりは多少なりとも洗練……いや、少なくとも酔って暴れる冒険者やら、女が一人とみれば無作法に絡んでくるゴロツキなんかは、あまりみなかったしね」
 リオーネがようやく口を開き、言葉を継いだ。懐かしそうに相槌を打つブレンネル。
「でも結局、都での商売は上手くいかなくて、親父の故郷のオーリウム王国に戻り、ノルスハファーンで店をやり直すことになった。で、二代目店主が俺ってわけだ」
「あの頃は、あたしも殺伐とした仕事に手を染めていたけど、まだ人生に多少の先が、夢があって、何かと楽しかったよ。でも、思い出話に花を咲かせるために来たわけじゃないんだろ。それでルキアン、ケンゲリックハヴンに行きたいんだって?」
 昔語りを楽しむ流れを断ち切るように、リオーネがルキアンに話を振った。
「はい。会いたい人が、います」
「会いたい人、ねぇ……」
 リオーネは深く長く、これ見よがしに溜息をついた。
「あんたは、あの子のことを、どのくらい知っているんだい? あの《鏡のシェフィーア》、シェフィーア・リルガ・デン・フレデリキアのことを」
 シェフィーアの名を聞いた途端、これまでには無かった想いの輝きがルキアンの目に浮かんだことを、リオーネは見逃さなかった。そして彼女の予想通り、少年の口数がにわかに増えていく。
「いえ、ほとんど、どういう人かは知りません。でも、あのときシェフィーアさんがいなかったら、僕は、今ここにいなかったと思います。はっきり言うと、敵に殺されていたでしょう。シェフィーアさんは、僕の孤独な居場所を、空想の世界を、それでいいって……向き合って、手を差し伸べてくれた。すべて肯定してくれた人です。その、僕の中の、暗くて、醜くて、気持ち悪いところまで、全部」
 己の神を讃える信者を連想させる、滔々と紡がれていくルキアンの言葉に対し、リオーネは僅かに顔をしかめ、途中からはむしろ笑いをこらえるような様子で聞いていた。
「あのね、ルキアン。あんたはシェフィーアのことを、魂の師か、聖女様か何かのように言うけれど、あれはそんな人間じゃない。あれは……」
 リオーネの声が一段、低くなった。
「あの子は《化け物》です、と。そう言わざるを得ない」
 シェフィーアのことを化け物呼ばわりされ、露骨に納得しかねるという顔になったルキアンを前にして、リオーネは淡々と語り続ける。
「もし何度生まれ変わったとしても、不老不死になって修行を何百年続けたとしても、あたしには、あの子に届く気がしない」
 そう言ってリオーネは立ち上がると、ゆっくりと窓際に向かい、濁りのある分厚くて小さめの硝子窓のところで、レースのカーテンを無造作に降ろした。老いてなお筋の一本通った彼女の背中を見つめながら、ルキアンは言葉に聞き入った。
「むかし、互いにアルマ・ヴィオに乗って、まだ小娘だったあの子と初めて向かい合ったとき、あたしは抗い難い恐怖を感じた。こう、体の芯から、理屈じゃなく、ただ怖かったのさ。仮にも《灰の旅団》随一、《剛壁》と呼ばれていた機装騎士がね。おかしいだろ。だけど、あれは違う。あの子とひとつになったアルマ・ヴィオは、もう、あたしたち人間の扱うものとは……絶望的なまでに、次元が違うんだよ」
 ミト―ニア市街でシェフィーアの操る重装型のティグラーと対峙したときのことを、ルキアンは思い出した。ほんの些細な挙動ひとつをとっても、獣同様に驚くほど自然で、事前の気配すら悟らせない動きを。あのときは、ただ驚嘆するばかりであった。しかしそれは、単なる驚きの域を出るものではない。優れた繰士と戦った経験のまだ少ないルキアンは、シェフィーアの強さを正しく測れる段階にさえ至っていないのだ。
「もう、あたしが、いい年をして敢えて機装騎士を続けている意味など、無いんじゃないかって。このあたりが引き際かと考えるようになったのは、あの子と出会ったことがきっかけさ」
 リオーネは、若干の自嘲を感じさせる語り口で、力なく笑った。だが、続く彼女の言葉は、一転して暗く、淀んでいた。
「あの子は強い。国造りの英雄やおとぎ話の勇者、いや、それ以上かもしれない。だったらミルファーンは安泰? いいえ、違う。あれは、この世で平凡な民と共に生きるには、人としての何かが欠けている、本質が違い過ぎる……。だから《化け物》なんだよ」
 リオーネはルキアンに歩み寄り、左右の手で、彼の肩をしっかり掴んだ。その感覚に、ルキアンはなぜか師のカルバのことを想い出す。もはや記憶していないはずの、ワールトーアの礼拝堂での出来事を。そんなルキアンのことなど気にする様子もなく、老婦人は長い独り言のようにいう。
「昔、ミルファーンの王族に一人の娘が生まれた。当時はまだ適切な世継ぎの無かった国王は、ひとまず安堵して喜んだ。ところが、その姫は美しく成長するも、次第に理解し難い面を露わにしていった。彼女は狩りに異様な執着をもち、野獣どころか巨大な魔物にさえも、嬉々として、執拗に、手槍一本で襲いかかった。顔も体も獲物の血まみれになって、周囲が寒気を催すような恍惚の表情を浮かべて……。そうかと思えば、お気に入りの女官たちの血を、特に美しい生娘の血を好んで差し出させ、夜な夜なすすっているという噂も出始めた」
 ――何で急にそんな変な話を。いや、それって、まさかあの人の……。
 「姫」という言葉にルキアンは反応する。シェフィーアのまとった飄々として得体の知れない雰囲気の中に、ときおり近寄り難いほどの気品も感じられたことは、その王家の血筋ゆえであるとすれば合点がいく。
 ――だけど、まるで戦闘狂や、吸血鬼みたいじゃないか。
 ルキアンが心の中で驚いたことを読み取ったかのように、リオーネが頷いた。
「いや、それどころか、あの様子じゃ、実際に人の命さえ奪っていたかもしれない。機装騎士として戦場で敵を倒した結果ではなく、ただの人殺しとして、自らの快楽のためだけに。いや、それだけは無かっただろうと思いたいが、どうだかね」
 信じ難い内容であったにせよ、リオーネの話が概ね真実であることは彼女の目が確かに語っている。ルキアンの方も、彼女の言ったことを何故か否定できなかった。目を見開いたまま何も言えなくなったルキアンに、リオーネは口調を若干やわらげ、道を踏み外したお姫様の物語について、その結末を付け加えた。
「やがて王家も、姫の倒錯した姿をもはや隠しきれなくなった。王は仕方なく、彼女をその高貴な血から切り離し、今後、王位継承とは一切かかわりの無い存在として、臣下であるデン・フレデリキアの家に、つまりは《灰の旅団》の団長のところに預けた。とても厄介だが無双の切れ味の剣として、勿体ぶって押し付けたんだよ。あの団なら、そんな危ない連中、居たって別に構わないからね」
 リオーネは、諦念を有り有りと浮かべた、それでいて悔しそうな涙をほんのわずか、その目に溜めて、一言ひとこと絞り出すようにルキアンに告げる。
「あんたのような、そんな信じ切った目で、あの子が他人から頼られるなんてね。ねぇ、ルキアン君、あの子のことを、シェフィーアを、頼みます……。あの子には、あれ自身が認めた仲間が必要なんだよ。人らしい暖かな想いを知ることのできるような。それが、できるかどうかは、とても疑わしいけどね。でも、あんたは何かを変える。一目見たときから、そんな気がする」
 リオーネからの思いもよらぬ言葉に、ルキアンは何といってよいのか分からず、恥ずかしそうに下を向いて口ごもっている。
 
「大丈夫、おにいさんならできます!」
 自身は部外者であるといわんばかりに今まで会話に加わっていなかったエレオンが、急に割って入ってきた。そして一言。
「だって、おにいさんは《御子》ですから」
 思わずルキアンは、飲みかけていた茶を口から吹いてしまった。高価な白磁のカップも無意識に手放してしまい、床に落ちていくぎりぎりのところで、彼は慌てて受け止めることができた。だが、手元も膝も床も、水浸しならぬお茶浸しの様相である。
 詳しい事情については理解していないにせよ、ルキアンの突然の動揺があまりにも本気のものだったので、ブレンネルが笑い転げている。いや、笑いの声さえ出ず、苦しそうに腹を抱えているのだが。
「な、な、何を……。エレオン? 《御子》って、君は、なぜそれを。いや、すみません、品の無いことを」
 リオーネに平謝りしつつ、ルキアンは懐からチーフを取り出して、こぼれた茶を拭こうとしている。だが、彼はすっかり上の空で、ただ床をこすり続けながらも、まったく拭き取れていない。
 右往左往するルキアンのことなど意に介さない調子で、エレオンがさらに言った。
「僕は、すべて知っているのです。おにいさん」
 エレオンがいつの間にか隣に座っており、ルキアンとの間で互いの二の腕をすり合わせ、無邪気に頬まで寄せてこようとしている。
 ――エ、エレオン、ちょっと変わった距離感の子だな。近い、近いよ、何これ!?
 ルキアンは、音が出そうなほど首を振って、目を閉じ、エレオンを押し戻した。
 それでもエレオンは笑みを崩さず、逆にルキアンの手首を掴むのだった。
「あ、リオーネ先生、そういえば今日はお客さんが来たので、お魚をまだ獲りに出かけていなかったです。今から二人で川に行ってきます。おにいさんにも手伝ってもらいますね。いいですよね?」
 何とも突飛な話のようだが、その言葉を待っていたかのようにリオーネは即座に答えた。
「あぁ、行っておいで。沢山釣ってきてよ。あたしはブレンネル坊と大事な話があるから。今晩は、久々に賑やかな、立派な食事にしたいね」
「はい、先生。それではご案内しますね。おにい……さん!」
 訳が分からないまま、ルキアンはエレオンに腕を取られて引き立てられていく。ひょっとすると、エレオンはリオーネから捕り手向きの体術でも習っているのだろうか、それともルキアンの頭の中が真っ白になっているだけなのだろうか、いずれにせよルキアンはまったく抵抗できないままに。
 庵から出ていく二人の後ろ姿を見ながら、何度か頷くリオーネ。
 そして、リオーネの横顔とルキアンたちの背中との間で視線を行ったり来たりさせている、怪訝そうな表情のブレンネルであった。

 


5.ふたりの想い


 

 気ままな軌跡で花の周囲を飛び回る蝶のように、エレオンは、ルキアンの隣に立ったかと思えば今度は後ろ、そして前に飛び出して先へと誘い、にこやかに弾けている。無邪気な妖精を思わせる魅力を振りまきながら、道すがらの草花や、鳥の鳴き声について、虫や岩石について、ひとつひとつエレオンが雑多な知識を披露する。海沿いの大都市、コルダーユで暮らしていたルキアンにとって、この山峡は目新しいものばかりだ。
「おにいさん。この花、知っていますか?」
 道端の少し奥まった茂みに手を伸ばしたエレオンが、はかなげながらも凛とした、小さな白い花をルキアンに差し出した。人との関わり合いがあまり得意ではない、どちらかといえば他者との親密な接触は避けがちなルキアンにとって、距離感を飛び越して懐に入り込んでくるエレオンの振る舞いは、いちいち気持ちを揺さぶられるものであった。それに対する受け止めに戸惑って、もはや反応すること自体をあきらめたようなルキアンに、エレオンが真面目な顔つきになって言った。
「僕の好きな花、おにいさんにあげます。花言葉は《あなたに、すべてを捧げます》」
「はい?」
 困惑するルキアンが、半ば裏返った声でエレオンの意図を問うと、彼は一転して沈黙し、ルキアンに背を向けて歩き出した。
「あ、あの、エレオン? いま、僕、何か気に入らないこと言ったかな。そうだったら、ごめん……」
 意味も分からず謝るルキアンに、なおも返事をしないエレオン。だが数歩進んだところで、エレオンは大きく振り返った。計画通りに、意味ありげな笑みを浮かべて。
「それは嘘、うっそでーす! びっくりしましたか?」
 心配して損をしたと、迷惑そうな顔つきになったルキアン。そんな彼の顔を見上げる目線で、エレオンは、喉で空気を擦るような、かすれた声でつぶやいた。
「本当は、この花はヴァイゼスティアーといいます。いにしえの勇者の時代、聖女を愛し、想いが届かずに魔界側の英雄へと堕ちた人の、最後の一粒の涙の生まれ変わりと言われています。そこが好きなんです。僕は、魔界に堕ちていった人の側の人間でしょうから」
 そのとき、ルキアンの瞳に漂う光に微かな変化が生まれたことを、エレオンは十分に理解していた。
「あ、おにいさん。今の言い伝えを聞いて、一瞬、何か共感するところがありましたね……」
 エレオンは一方的にルキアンの手を握ると、そのまま引っ張って小走りに駆け出した。
「闇、深いですね」
 だが、それは、この二人の宿命を考えれば、ひとつの歪んだ誉め言葉だ。

――何なんだ。あんたたちは。
 そうしたルキアンとエレオンのやり取りを、気取られぬよう天空高くから見張る者がいた。オパールの遊色よろしく七色に輝きを随時変化させながらも、人の子の瞳には決して映らない、おそらく旧世界の高度な光学迷彩あるいは精霊迷彩を、いや多分、それ以上の特殊な能力を備えた未確認のアルマ・ヴィオ、その乗り手の《美しき悪意の子》ことヌーラス・ゼロツーである。ルキアンやエレオンと同じく銀の髪と青い目をもち、《月闇の僧院》の執行部隊として先頭に立つ、人由来の、人の姿をした、しかし本質的には人からはもはや遠くなった存在だ。御子と同じく。
 ゼロツー、彼あるいは彼女は、子犬のようにルキアンにじゃれつくエレオンを機体の魔法眼で拡大してとらえながら、憎々しげに追う。一見して性別の境界を越えたような互いの姿がどこか似ていることに、さらには互いの境遇に、一種の同族嫌悪を感じてでもいるのだろうか、かなり感情を高ぶらせている。
 ――失敗作、何の役にも立たないゴミ以下の《不完全な片割れのアーカイブ》が、心底幸せそうに笑っちゃって。あんたなんか、あの婆さんが面倒な相手だから、ネリウス師父(マスター・ネリウス)がお情けで放任しているだけだろ。
 ――それに、ルキアン・ディ・シーマー。真の闇の御子のくせに、何を無駄な時間つぶしてるのさ。
 ゼロツーは声を震わせた。いや、アルマ・ヴィオと融合し《ケーラ》に横たわる今のゼロツーにしてみれば、音や響きを伴った現実のものにはならない、心の声であったが。
 ――僕らヌーラス、《不完全な片割れの執行体》は、死や暴走の恐怖におびえながら、こうして活動してるのに。あんたには力があって、やるべきことがあるのに……呑気に未来に迷って、こんな山奥でイチャイチャしてるのか。
 ――そもそも、あんたは、初めて成功した《ロード》によって生まれた、完全な《執行体》。だから、もともと対になる本来の《アーカイブ》が別に居るだろ。《ロード》に失敗して、魂の半分の相手を失い、自分ひとりだけ無駄に生まれ落ちてきた《不完全なアーカイブ》なんか、他の執行体と一緒にいたところで役に立たないのに。
 ゼロツーは冷え切った笑みを胸の奥にたたえて、二人の姿を見据えた。
 ――気に入らないな。ぶち壊したい。でも本当に壊すとマスターに怒られるから、ちょっと、いじめてやるよ。
 「お目付け役」のヌーラス・ゼロワンや、マスターのヌーラス・ゼロ、すなわちネリウス・スヴァンが同行していなかったことから、ゼロツーの悪意がルキアンとエレオンに、いや、エレオノーアに、ここで降りかかることになる。

 ◇

「おにいさん、着きました」
 ルキアンよりも数メートルほど先行したエレオンが振り返り、手に持った2本の釣り竿を掲げている。所々、道にまで張り出して邪魔する木々の枝を払いながら、ここまでやってきた二人だったが、突然、視界が開けた。ルキアンたちの辿ってきた川だけではなく、近隣の支流からも集まってきた幾つもの細く急な瀬が、集まって大きな淵を形作っている。
 道から岩を伝い、おっかなびっくりに淵に近づくも、吸い込まれるような、薄暗い壺の奥を思わせる水を蓄えた川面を目の当たりにして、ルキアンは身を震わせた。
「すごく、深いね……」
 落ちたらさぞ冷たいのだろうと、彼は一歩後ずさる。心地良く頬を撫でる風の暖かさからは考えられないほど、晩春の渓谷を流れる水は冷たい。当分はまだ人を拒否するつもりなのか、触れると凍てつくような、肌を切る感覚を残す。風に舞った水しぶきが、霧のように細かく散らばっていく。それらが溶け込んだ、ひんやりとした空気感。
「ここ、他の場所より、とっても大きな魚が釣れるんです。この前なんか、相手が大きすぎて竿が折れそうだったんですよ」
 エレオンはそう言って、釣り上げたのであろう魚の大きさを両手で表した。淵の周囲を睥睨する主さながらに、そびえ立つ大岩が一つ。それにエレオンは駆け寄り、軽々とよじ登って、ルキアンに手招きしている。
「おにいさん、こっちこっち。よく見えます」
 普段はおっとりとした動作であっても、こういうとき、エレオンは意外なほど俊敏な動きを見せる。それに対してルキアンは、恐々、腰の引けた様子で岩に手を掛ける。だが、少し上ったところで身動きがとれなくなり、カエルのように岩に張り付いて困っている。
「お、落ちる!」
「おにいさん。落ち着いて。僕が引っ張ってあげます」
 エレオンが手を差し出した。小柄で細い彼がルキアンを無理に引っ張りあげようとすれば、二人一緒に落ちてしまいそうな気もしたのだが、彼はエレオンの手を掴んだ。それを握り返した、細くて柔らかい指。
「離したら駄目ですよ! 僕の手を」
 そのままエレオンは、うつむき加減になると、風にかき消されそうなささやき声で言い足した。

「お願い、離さないで、ずっと。私の手を……」

 よじ登るのに必死で、エレオンのそんな言葉を聞き取る余裕もなかったルキアンだが、彼はふと見上げた。次の瞬間、何故か彼は足元を滑らせ、急に落ちそうになる。
「おにいさん! 危ないよ。僕まで落ちちゃう、暴れないで!」
 岩にしゃがみ込んだエレオンも、必死にルキアンを引っ張った。
 ルキアンは自らの愚かさ加減に呆れながら、とにかく落ち着いてエレオンのところまで登ろうと、自分に言い聞かせる。しかし……。
 ――ちょ、ちょっと。エレオンって。
 先ほどエレオンが岩の上から手を差し伸べたとき、下から見たルキアンの目には、考えてもいなかったものが映ったのだ。
 ――男の子、じゃなくて……女の、子?
 羽織った濃紺のローブの下、白いシャツの胸元から、弾けそうに押し込まれた膨らみが見えたのだ。ルキアンは目を疑ったけれど、エレオンは間違いなく女性である。
 男であると思い込んでいた相手が女であったからなのか、それとも岩から落ちそうになったせいなのか、いや、おそらく両方ゆえに、ルキアンの鼓動はむやみに高まり、気持ちも平静を失った。
 そんなルキアンの気持ちなど知ることもなく、エレオンは手に力を込めた。
「おにいさん、もう少しです。頑張って!」
 自分よりもずっと重いルキアンを健気に引っ張り上げようとするエレオンに対し、よこしまな気持ちを起こして申し訳ないと思ったものの、ルキアンはエレオンのことが急に気になって仕方がなかった。意識し始めると止まらなくて、悪いと思いつつ、そっと上目遣いをすると、エレオンの白い胸元に視線が吸い込まれた。
「ご、ごめん!」
 何に対して謝っているのか、よく分からないままに、ルキアンは懸命になって這い上がることができた。平らな大岩の上に座り込んで、荒い息をしている。
「おにいさん、大変だったね」
 巨岩とはいえ二人が座るには決して広くはない場所がら、エレオンが窮屈そうにルキアンに隣り合った。
「エ、エレオン!? そ、その……」
 彼くらいの年頃の少年に、同年代の少女のことを意識するなと言っても難しいだろう。少なくともルキアンには。先ほどまでと様子の違う彼に、エレオンは首を傾げ、特に意識せず膝を寄せた。
「え、何ですか? おにいさん」
「あ、あ、あの、エレオン!」
 今度は、白いキュロットから伸びるエレオンの脚のことが、ルキアンはついつい気になった。考えてみれば、すらっとして、細く滑らかな、それでいて一定の肉付きのある脚は、自然にみて男性ではなく女性のそれである。
 ルキアンは無理に横を向いて、エレオンに尋ねた。
「エ、エ、エレオンって……女の子、なの?」
 事情も分からず、不躾だと思ったものの、ルキアンは率直に口にした。エレオンの答えが気になったが、彼、いや、彼女はこれまで同様に微笑んで、いや、これまで以上に満面の笑みを浮かべ、落ち着いた口調で答えた。
「はい。そうですよ」
「そ、そうなんだ、ね……」
「はい! 実は私、女の人だったのです」
 エレオンは改まった調子で頭を下げ、少し舌を出して苦笑いした。
「おにいさんを騙すつもりは決してなかったです。本当はエレオノーアと言います……。そう呼んでください。でも、よその人がいるときには、エレオンでお願いします」
 黙ってうなずいたルキアンに対し、エレオノーアは慌てて首を振った。
「あ、おにいさんが気にする必要はないです。別に私は、何か秘密があって、その、たとえば……お話にあるじゃないですか、王子のふりをして剣を帯び、戦わなければならなかったお姫様のように……そういうのとは違うんです」
 エレオノーアは大岩の上から、下界を見渡すといわんばかりの素振りで、四方を眺めた。
「リオーネ先生が、敢えてそうしなさいと。このあたりはまだ本当の山奥なので、めったに誰も来ないし、大丈夫なのですが……隣の村まで行くと、もう、そうではなくて、一見すると自然が豊かで平和な山里に見えますが……実際には、田舎は、都会とはまた違った意味で治安が行き届かず、警備兵も居なくて、山賊や人さらいのようなならず者たちが好き勝手に暴れています」
 彼女は溜息をついた。
「少し前にも、近くの村の娘さんが誰かにさらわれて、後になって遠い遠い街の……あんなところで、その、知ってますよね、何ていうのかな、娼館? で、見つかったですとか」
 頬を微かに赤らめたエレオノーア。さらに彼女は東の方を指さして続ける。
「怖いです。あっちの村の方では、女の人が山賊に襲われて、その、ひどいことされて……最後には命まで……。だから気を付けないと、って。独りで出歩いているときに、一目ですぐ女だと分かる姿を決して見せるなと、先生が。いや、こんなの、見たらすぐ女だって分かってしまうけど……だとしても、です」
 不安そうな表情をしていたエレオノーアが、それを気にしたルキアンを慮ってか、可愛らしく首を傾けて笑った。
「大丈夫です。私、こう見えて結構強いんですよ! リオーネ先生は、むかしミルファーンで一番優れた機装騎士だったので、私も武術を習っています。おにいさんも守ってあげますからね!!」
「あ、ありが、とう……」
 ルキアンは無意識にそう答えた。だが直後に、本当は、僕が護ると告げるべきだったろうと彼は思った。それは、自身が男であるからだとか、一応の戦士としてのエクターであるからだとか、そのような理由からではない。

 ――僕は、二度と繰り返さないって覚悟したじゃないか。人を傷つけたくないから迷って、そのせいで大事な人を失ってしまうのは、もう嫌だから……決めたじゃないか。僕は《いばら》になると、泣きながらでも戦うと。弱い僕をかばって消滅してしまったリューヌや、僕が戦えなかったせいで犯されたシャノン、殺されたシャノンのお母さんのようなことは、もう絶対にさせないと。

 ルキアンはエレオノーアを見つめた。瞳と瞳で。同じ光を宿した目で。
 その眼差しに込められた想いを、エレオノーアも、他人事ではなく己自身のこととして、真の意味において理解していた。

「おにい、さん……」

 

【第53話 後編 に続く】

※2023年6~7月に本ブログにて初公開。

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『アルフェリオン』まとめ読み!―第53話・前編

| 目次 | これまでのあらすじ | 登場人物 | 鏡海亭について |
物語の前史 | プロローグ |


天与に恵まれていない者が、
変わらぬ自分自身のままで居続けることを望むなら、
敢えて独りで歩むことも恐れてはならない。

(手記: 旧世界の集合住宅と思われる
       高き塔の遺構にて発見)

 


1.連載小説『アルフェリオン』本格復帰です!


 

「はい。今日は、きっと何かが起こります」
 土鈴(どれい)がころころと音を奏でるような、素朴で親しみやすい響きながらも、同時に凛とした強さをも内に感じさせる口調のもと、まだ年若い誰かがつぶやいた。そして水音。大小様々な石や岩の転がる手つかずの地面を、幾筋にも分かれて流れる谷川を臨みつつ、こぢんまりとした台地の上に人影がみえる。その控えめな声は、周囲に広がる鬱蒼とした樹々の中に吸い込まれ、あるいは、苔むした岩を噛み、白泡(はくほう)を生んでは消えていく沢の流れに、かき消されるように霧散していく。
「素敵な天気ですね。服が良く乾きそうです」
 独り言であるにもかかわらず、何故か敬語で紡がれる少し奇妙な語り口。その声の主は、おそらく近辺の木の蔦で編まれたのであろう素朴な籠の中から、洗いたての衣を手に取り、出来ばえに満足して頷くと、掌で軽くはたいた。木々の間に渡されたロープと、そこに揺れる洗濯物がいくつか見える。
 全体的に華奢な感じではあるにせよ、その後ろ姿を遠くから一瞥しただけでは、少年と呼ぶべきか少女と呼ぶべきなのか、いまひとつ分からない。膝裏まで伸びる紺色の上着が風に吹かれ、簡素な白いキュロットがみえた。どことなく僧衣を思わせる上衣から細長い脚が伸びている様子は、大人の服を借りてきた子供のようでもあった。
 黒い帽子の下から遠慮がちにのぞく髪は、朝日を浴びて銀色に輝く。もはや目を覚まし、みるみる天高く登っていく太陽を横目に眺めるその瞳は、大きく、よく動き、澄んだ神秘的な光をたたえている。石灰質の川底の悪戯によって翡翠色に照り映える、あたかもここ、ハルスの谷の水色のように。

「分かります。感じます。やっと会える……。私の大切な」

 ――おにぃ、さん。

 心の奥にしまっておくようにそう付け加え、《彼女》は振り返ると、両の掌を胸元で握り合わせた。自らに花の色の漂うことをまだ知らない、男の子のような横顔から、しかし伸びる柔らかな輪郭線は、この子がいずれひとりの女性になることを告げていた。

 ◇

 イリュシオーネ大陸のおよそ中央部、オーリウム、ミルファーン、ガノリスの三国が国境を接する地域には、大陸最高峰の山岳からなるラプルス山脈がそびえている。その峻険な峰々については、使い古された喩えを繰り返すまでもないであろうが、それでも敢えて言えば、あたかも三つの国を区切る大屋根のようだ。
 この世界の屋根ラプルスの北端から伸びる、幾分穏やかな山々が、オーリウムとミルファーンの国境地帯となるハルス山地である。ラプルスの様相とは――すなわち、荒涼として灌木や下草程度しかみられない、白くて無機質な岩だらけの山並みが屏風のようにそそり立つ光景とは――大きく異なり、ハルスは昼なお暗き森や無数の谷川に覆われた深緑(しんりょく)の世界だ。隣り合った山脈であるにもかかわらず、両者の間で環境がここまで違うという点は、もはや驚きを超えて、何か人知を超えた力の作用すら感じさせる。
 さらに、エルハイン、ミトーニアに続くオーリウム第三の都市にして北部の要であるノルスハファーン(オーリウム語で「北の港」の意)と一方で近く、他方にはミルファーンの王都たるケンゲリックハヴン(ミルファーン語で「王の港」の意)を裾野に擁するハルスの山々は、それら二つの大都に比較的近いにもかかわらず、容易には人跡の届かない深山であるという土地柄から、古き詩や昔語りの中でもすでに、都落ちの者たちや隠棲者の隠れ里としての独特な位置づけを与えられてきた。そして今も、俗世を離れた一人の者にとって、静かな終の棲家となっているのである。

「おやまぁ。エレオノーア……いや、エレオン、もう洗濯終わったのかしら」
 魔道士のような頭巾を被った、否、魔道士の「ような」と、つまり彼女が魔法使いそのものではなかろうと直ちに表現できることには、理由がある。それは、素人目にも彼女が呪文使いであるというよりは、むしろ自らの手でもって戦う人、闘士や剣士であることを想起させる独特のたたずまいからであった。生来の銀髪か、後天の白髪か、もはやいずれか分からなくなった、いまなお猛々しく美しい目の前の老女は、かつてミルファーンにその人ありと讃えられた機装騎士であった。ちなみにここはミルファーンではなく、そこにほど近い、オーリウム領内の辺境なのだけれども。
 ただ、かつての勇猛な騎士も、現在では、少なくとも普段は、慈母の微笑みを浮かべた穏やかなお婆ちゃんという印象をまとっていた。
「今朝はいつになく早いね。朝ご飯前に、ひと眠り、やり直したらどうだい? あたしは、まだ眠いよ」
 谷あいに隠れるように立つ簡素な小屋、扉を開けて元気に帰ってきたエレオンを、つまりは少年の名で呼ばれた少女エレオノーアを前にして、彼女は寝ぼけまなこで手を振った。
「いえ。リオーネ先生。今日は、じっとしていられないんです」
 洗濯物の入っていた網籠を部屋の隅に置くと、エレオノーアは両手で胸を押さえながら答えた。
「こう、心の中がぞくぞくと……」
「その目、何か特別なことを感じたのかい。まぁ、お前の直感は、時々、預言者も真っ青なものだからね」
 彼女のことを師と呼んだエレオノーアの頭を、老女は優しく撫でた。一見して上品な見た目に反する、武骨で古傷にまみれた指先で。
 北方の雄・ミルファーン王国は、オーリウムの《パラス・テンプルナイツ》やガノリスの《デツァクロン》、あるいはエスカリアの《コルプ・レガロス》のような、戦場の只中を駆け巡り、その勇名を世界に轟かせるエリート機装騎士団を有しているとは、必ずしも言えないところがある。だが、いわゆる「特務機装騎士団」、いわば隠密行動の特殊部隊に関していえば、イリュシオーネ各国が恐れる《灰の旅団》がミルファーンには存在するのだ。この灰の旅団の中でもひときわ優れた機装騎士として、かつて知られた人物が、今ではこのフードの老婦人、リオーネ・デン・ヘルマレイアに他ならない。
 エレオノーアの溌溂とした姿、上着を脱いで壁に掛け、台所に向かって小走りしていく背中を見ながら、リオーネは軽くため息をついた。
「こっちは、良くないよ。今朝は、あのろくでもない娘が夢に出てきちまった」
 リオーネはフードの上から頭をかき、忌々しげに首を左右に振ると、面倒くさそうに奥の部屋に歩いていく。

「シェフィーア……。最近のオーリウムの雲行きをみていると、遠からずミルファーンも、あの娘が嬉々として暴れ回るような事態に巻き込まれそうだね」

 


2.ナッソス城陥落、次なる戦いに向けて……


 

ナッソス城の激戦を経て一夜明け、緑の果ての地平から昇る朝日に中央平原が照らし出されたとき、その様相は、おそらく大方の予想とは異なるものであったろう。あれほど壮絶な戦いの翌日にしては、城の周囲に残されたその爪痕が思ったよりも少ないのだ。両軍ともに多数のアルマ・ヴィオが倒れ、魔法合金に覆われた巨躯の残骸が秒刻みで積み上げられていった戦の場には、奇妙なことに、大きめの遺物の影が点々としか見当たらない。不思議に思って四方八方に視線を走らせてみたところで、時折、アルマ・ヴィオのちぎれた手足や、散乱する外装の破片、折れて使えなくなった武器などが目に留まる程度であろう。
 わびしげに、思いのままに吹き抜ける風。その行く手を遮るものもほとんどなく、わずかに雑草が頭を揺らし、所々黒く焼けただれた赤茶色の地面。いま目の前にある隙間だらけの荒涼感は、辛い勝利の後の言いようのない気分がもたらす、いささか過敏化された人の感覚の産物などではなく、ありのままの現実にすぎない。

「やるねぇ、《ハンター・ギルド》の奴らも。もう、目ぼしい機体はほとんど転がってないな。ハゲタカって呼ばれたら、奴らもいい気持ちはしないだろうが、本当に、あっという間に集まってきて、見る見る運び去っていきやがった。まだ、あれから一晩だぜ?」
 朝晩には冷え込みもなお侮れない晩春の草原に立ち、ベルセア・ヨールは首をすくめた。金色の長い髪が風に煽られ、好き放題に踊っている。それを無造作に手でかきあげると、彼は感嘆とも解せる溜息をついた。
「持ち主の確認が取れる残骸については、可能な限りエクター・ギルドに返すって条件で、これだけ大規模な回収支援を引き受けてもらったそうだが。あちらさんもどこまで本気なんだか。まぁ、ハンターには胡散臭い奴も多いが、さすがにハンター・ギルドが組織立って動く場合、約束を破ることはないだろう」
 平時のハンターの仕事は、旧世界の遺跡の発掘や見つかった遺物の取引を中心に、人によってはいわゆる《運び屋》や《賞金稼ぎ》なども生業とするといったところである。だが彼らは、アルマ・ヴィオを用いた一定以上の規模の戦闘が発生すると――たとえば今回は内戦だが、その他にも領主間の紛争、軍やギルドによる山賊・海賊等の討伐、野武士や私兵集団同士の果し合い等にともなって――戦いの跡に放棄された兵器や破壊された兵器の残骸などから、使える部分をそれこそハゲタカのようにさらって回り、売り捌くのだった。こうした行為の多くは、本来なら王国の法に反するはずである。だが実際のところは、まだ生きている者から武器を奪ったり、戦いの行われている戦場で兵器を取得したりするのでない限り、ハンターたちによるそのような《回収》は、当局からも黙認されている。ちなみに同様のことは、ハンターの側でも、《戦士たちが去った後、そこに残されているものを》という表現でもって最低限のルールとして共有されているのだ。
 ベルセアの隣には、長身の彼に比べて小柄な青年が、湯気の立つ白いカップを手に立っている。飛空艦クレドールの《目》の役割を果たす《鏡手》、ヴェンデイル・ライゼスだ。上から下まで黒ずくめで、ギルドの関係者にしてはあか抜けた、猫のような雰囲気をもつ優男である。
「ほんと、軍が言いがかりをつけて残骸を接収しに来たり、野良のハンターやら盗賊やらが群がってきたりして面倒になる前に、ここら一帯をさっさと囲い込んで、使えるパーツは全部おいしくいただきました、って感じかい。で、ナッソス側の機体の残骸はほとんどハンターさんらの取り分になって、結局は、またこちらに売りつけられてくる・・・。現金な奴らだからな。ま、それで持ちつ持たれつだし、仕方がないけどね」
 ヴェンデイルは飄々とした笑みを湛えながらも、そこで言葉を一瞬飲み込んだ。
「それにしても・・・ルキアンも、あれだけ沢山やっちゃったのに、味方も含めた黒焦げの機体の山、もう、すっかり片付けられているな」
 あの戦いの最中、《鏡手》として戦場の動向を監視していたヴェンデイル自身が、正気を失ったアルフェリオン・テュラヌスの姿を誰よりもよく見据えていたのであり、また、そうせざるを得なかった。飲み物を喉に含ませた後、彼の声のトーンが少し低くなった。
「火を噴くドラゴンみたいに好き勝手に暴れやがって。ルキアン、どうしちまったんだよ・・・」
「そうだな。彼、どこに飛んでいったのやら」
 ベルセアは青空を望むと、指で前方へと弧を描くような仕草をして、その先に位置する地平を見つめた。二人の背後には、草原に停泊し翼を休めるクレドールの巨大な艦体がみえる。中央平原という場所柄、この規模の飛空艦の着陸できる場所が随所にあるのは有り難い。

 そのとき、実直そうな口調で挨拶しながら、柿色のフロックをまとった男が近づいてきた。目立って太めであるというほどではないにせよ、若干、肉付きが良いようにもみえる。
「おはよう。ベルセア、ヴェンデイル」
 金髪の下に広い額をもった男だ。見た目には三十代後半から四十代くらいに思われるが、ひょっとすると多少老けてみえるのかもしれない。
「やぁ、ルティーニ。いいのかい? 補給や何やらで大変なんじゃないの」
 ベルセアが彼を気遣う素振りをみせながらも、あまり深刻さがみられない。いま、こうしていた間にも、彼、財務長ルティーニ・ラインマイルがクレドールの裏方の厄介事全般を問題なくこなしてきたであろうことを、よく分かっており、信頼しているからだ。
「えぇ。ミトーニアのギルド支部が昨晩寝ずに頑張ってくれたこともあって、物資の補給には目処が立ちました。あとはアルマ・ヴィオですね。ルキアン君のアルフェリオンとバーンのアトレイオスが一度に欠けてしまい、汎用型が一体もない状況です。いま、本部に派遣を依頼しつつ、近隣の支部にも急募をかけてもらっています。依頼料も、私としては、かなり大盤振る舞いしましたよ」
「それだよ、それ。汎用型は居ないし、陸戦型を含めても、いま地上で戦えるのが基本的にオレのリュコスだけって状況、これでは《戦争》になんて行けないな。空も飛べるアルフェリオンのおかげで、昨日までは飛行型にも余裕があったんだが・・・。今回はサモンのファノミウルが一緒に来てくれているから、まだなんとかなってるけど、いつものままだったらヤバかったぜ」
 そういうとベルセアは大げさに頭を下げ、ルティーニにしがみついた。
「頼む、とても、とっても困ってる! 神様、ルティーニ様!!」
 にこりと笑ってルティーニが片目を閉じた。こうしてみると意外に愛嬌もある男だ。
「えぇ。任せてください。それで、これは耳寄りな話ですが、実はレーイに新しい機体が来るらしいですよ」
「本当? まさかのカヴァリアンまで壊されちゃって、これからどうなるのかと・・・」
 ヴェンデイルの目が輝いた。いかにナッソスの戦姫(いくさひめ)と旧世界の機体・イーヴァが相手であったとはいえ、ギルド最強の《あのレーイ》が戦闘不能まで追い込まれたということは、彼には今でも信じ難かった。
 ヴェンデイルに同意しつつ、ベルセアがいずれにともなく尋ねた。
「そうそう、レーイと戦ったナッソスの姫さん、どこ行ったの? あれからずっと行方不明だって聞いてるぜ。遺体が見つかったという噂もない。いや、遺体という線はないかもな。アルマ・ヴィオの損傷状況からみて《ケーラ》は無事らしいし、中のエクター自身が生きていてもおかしくないだろ」
「カセリナ姫ですか。まだ私も状況を把握していませんが、どうなされたのでしょうね。いずれにせよ、ナッソス方としては、切り札の《四人衆》が次々と倒され、あるいは戦線を離脱し、通常の兵力もギルドとの乱戦で削られ、そのうえに、制御を失ったアルフェリオンのブレスに焼き尽くされ・・・ルキアン君が去った時点では、もう戦える力も意志も残っていなかったようでした」
 昨日、激戦の果てに、その結果としてはあまりにも呆気なく、ナッソス城が明け渡されたことを思い起こしつつ、ルティーニが応じた。
 彼らの話を黙って聞いていたヴェンデイルが、立ち上がって遠くを眺めながら、あまり抑揚のない口調で付け加える。
「今回の戦い、こちらも、いまひとつ勝利感とかそういうのが足りない気もするんだけど・・・それでもさ、ナッソス軍が最後まで城に立て籠って、あれからみんな血みどろの白兵戦に入るような流れにならなくて、もっと沢山の人が死ぬことにならなくて、それは本当に良かったと思うよ」
「そうですね。私もそう思います。おや、来たようですよ?」
 ルティーニがナッソス城の方を手で指した。背中のマギオ・スクロープ1門のみ、つまりは最低限の火力しか備えていないティグラーと、MT(マギオ・テルマ―)で形成された光の武器や楯ではなく、実体型の槍と楯を持った「型落ち」感の否めないペゾンを中心に、およそ精強とは表現し難いアルマ・ヴィオの一隊が城に向かって進んでくる。
 その様子を見ると、ベルセアは額を押さえて苦笑いした。
「いま議会軍が《レンゲイルの壁》攻略に全力をつぎ込んでいるからって、あんなのを送ってくるしかないのか? あれじゃ山賊以下だろ・・・。それでも軍のお偉いさんたちには、《形》が大事なんだろうさ」
「えぇ、まったく。宮廷や保守的な人々に言わせれば、我々エクター・ギルドなど得体の知れない無頼集団にすぎず、そんなゴロツキのような者たちが公爵の城を奪って居座るなど、きっと許せないことなのでしょう。ただ、そんなところで揉めてしまうと、議会軍にとっても好ましくありません。それで、戦いの済んだ今さらになって、議会軍のあのような寄せ集め部隊がナッソス領に慌てて進駐してきた・・・と、いうわけですか。勿論、この城やナッソス領を放置しておくのは治安上も戦略上も好ましくないですし、一時的に統制下に置く目的で軍が部隊を送るのは当然でしょうが、あれではね」
 三人は顔を見合わせて溜息をついている。

 それからしばらくして、ルティーニはベルセアたちと別れ、クレドールに戻った。途中で会った仲間たちに手を挙げてひとこと交わしつつ、彼は薄暗い廊下を進んでいく。
 ――もうひとつ、クレヴィス副長から密かに頼まれていたことがありましたね。医務室に行かないと。
 彼はフロックの内側から一通の手紙を取り出した。怪訝そうな顔をして。
 ――しかし、ミトーニアの神殿書庫に至急向かうよう、シャリオさんにお願いするとはどういう意図でしょうね。こんな緊急時に。副長は、レマリア時代の古地図や街道図が残っていないか彼女に調べてほしいと言っていましたが、次の戦いのために何か考えがあるのでしょうか・・・。

 


3.もう一人の御子!? 交錯する運命


 

「な、な、何だ、こりゃ!?」
 突然、ブレンネルの素っ頓狂な声が森に響いた。人の気配の無い、深い緑の懐に、とぼけた叫びが反響する。これに続いた無音の間が数秒、何とも滑稽だったが、しばらくして思い出したかのように、数羽の小鳥が頭上の木の枝から逃げ去っていった。
 ブレンネルは地面にしりもちをついて、目の前を遮る白銀色の鋼の巨塊を見上げている。
「ルキアン君、本当に・・・エクターだったんだな。しかし、こんなアルマ・ヴィオ、見たことないぞ。翼が生えた、竜・・・それとも、鷲の・・・騎士?」
「す、すみません。驚かせてしまって」
 ルキアンは手を額に当て、眩しそうに日光を遮った。様々な樹木の織り成す緑の天井の間から、木漏れ日というには意外にも強過ぎる陽の幾筋かが、二人を射抜くように差し込んでくる。この様子だと、もう日は高い。すでに昼前だろうか。ルキアンは若干急いた様子で告げる。
「パウリさん、僕がアルフェリオンに乗ったら開けますから、下の乗用室に入ってください」
 昨夕、ブレンネルと出会い――それが実は初めてではなく、再会あるいは《二周目》の出会いであると彼らが覚えているはずもなかったが――結局、ルキアンは、この森に来るまでに自身に起こった出来事をブレンネルに話し、彼に助力を求めることにしたのだった。《初対面》の胡散臭げな文筆屋を彼が何故か信用できたのは、ひょっとすると、ワールトーアの廃村という閉じた虚ろな世界における、あの幻夢のごとき体験が、なおも二人の無意識の底に沈んでいるからかもしれない。
 ちなみに現時点では、ワールトーア村の痕跡は彼らの周囲にほぼ残っていなかった。そもそも、ルキアンとブレンネルが入り込んだあの廃村が現実のものだったのか、幻影だったのか、もはやそれすらはっきりしない。実際には、足元の茂みや入り組んだ木々の壁の向こうに、廃墟の名残くらいは隠れていても不思議ではないだろうが。しかし今のルキアンには、ただ戦場から逃げ去って気が付けばここにいたという記憶しかなく、ワールトーア村のことは、ブレンネルに聞いて《初めて》知ったにすぎない。ブレンネルにしても、《ワールトーアの帰らずの森》の噂話を調べにやって来たことは覚えているにせよ、そこまでである。一応、彼は昨晩から今朝にかけて周囲を歩き回ってみたものの、せいぜいの成果は、かつて街路に敷かれていた石畳らしきものが点々と顔を出しているのを何か所か見つけた程度であった。
 いや、それ以前にブレンネルの目の前には、存在すら怪しいワールトーアの廃村よりもずっと興味津々な素材、オーリウムの内戦に深くかかわる白銀の天使とその乗り手がいるのだから。昨晩、彼は、飛びつかんばかりの勢いでルキアンの願いを聞き入れ、ある助力をすることにした。
 地面に片膝をついて屈み込み、森に幾分埋もれるようにしてアルフェリオンが置かれている。どことなく危なっかしい動作ではあれ、予想外に手早く機体に乗り込んでいくルキアンを見て、ブレンネルは、戦いとは縁の無さそうな彼がエクターとしての経験を本当にもっていることを、実感させられるのだった。
 そうしている間にもアルフェリオンは、鈍い響きを伴って兜のバイザーを降ろし、奥のくらがりで目を青白く光らせた。乗り手を得て、その魂と融合し、かりそめの生命を再び吹き込まれたのだ。魔法合金の装甲面を光が縦横に走り、白銀色の輝きが一段と増したようにみえる。幾重にも結界が展開され、目には見えないにせよ、あまりにも強い魔法力の波動が伝わってくる。
「おいおいおいおい、すごいな! この肌を刺すみたいな感じって」
 思わず声をあげたブレンネル。さらにアルフェリオンの背で六枚の翼が開かれ、森を貫いて真昼の太陽を浴び、煌めく威容を目の前にして、彼は、ただただ息を呑むばかりだった。

 ◇

「あの、このあたりでしょうか。ハルス山系にさっき入って、この谷の上を飛んで、両側から迫る崖があって・・・。あ、もしかしてあれが、パウリさんが言っていた、滝ですか?」
 遥か上空に輝く一点の光。それは真昼の刻に迷い出た星などではなく、銀色の閃光となって、およそ現実味のない速さで飛ぶ何かだ。アルフェリオン・ノヴィーア――その翼を自身に重ねているルキアンは、アルフェリオンの魔法眼にも強めに意識を込め、視点を地表に寄せてみた。大写しになった視界の中、ほど近い場所にあると思われる源流から、険しい崖を経て流れ落ちる、いわゆる「魚止め」と呼ばれそうな滝が見える。
「そうだ。あそこだよ。どこか降りられるところがあれば頼む。近くにリオーネおばさんの庵がある。もし、今も引っ越してなかったら、だけどな」
 トランクの中を思わせる、お世辞にも乗り心地が良いとは言い難い乗用室にて、ブレンネルは身体の位置がうまく定まらず、窮屈そうに手足を動かしている。ルキアンの声は機体を通じて響いてくる。どうも妙な感じだが、声は多少こもったような音になりがちではあれ、それなりに明瞭に聞き取れた。
「しかし、このアルマ・ヴィオ、どんだけ速いんだよ。着くのは夕方か夜になるかと思っていたが。まだ、さっき乗ったばかりだろ・・・」
 いかに立派な翼があるとはいえ、所詮は人の姿をした汎用型らしきアルマ・ヴィオ、まともに「飛べる」のかも怪しいと疑っていたブレンネルだったが、そんなアルフェリオンが飛行型アルマ・ヴィオにさえ不可能な速さで飛び、その驚きも冷めないうちに王国北部のハルス山系に到達したことで、いったい何が起こったのかと戸惑っている様子だ。

 ◇

「来ましたね」
 アルフェリオンが到着するよりも少し前、ハルスの谷を抱いた今日の気持ち良い蒼穹には、まだ何の影も映っていなかったとき、これから起こることにすでに気づいた者がいた。
 件の滝の前に置かれた小さな木製のベンチに、銀髪の少年らしき者、いや、エレオンことエレオノーアが腰掛けている。彼女は、ベレー帽を思わせる濃紺色の帽子を手で押さえながら、嬉しさが漏れ出しそうな弾んだ声でつぶやく。
「はい、待っていました」
 彼女は何の邪気も感じさせない澄んだ目を細め、そして再び開く。
「ずっと、待ってたのです」
一転、彼女の左目には、素朴な姿には似つかわしくない、ある種の魔術形象が浮かび上がっている。金色に輝く何重かの魔法円、その隅々にまで同じく黄金色の光で描き込まれているのは、現世界のいかなる国の言葉でもなく、旧世界のそれですらない得体の知れない文字と、見知らぬ記号や数式のような何かで記述された、極めて高度で複雑な術式。
「ふぅ・・・」
 彼女は深く息を吸い込み、小さな声とともに吐いた。
「やっと会えます」
 一瞬で左目の瞳が漆黒に染まり、金色の魔法円が白熱化したかのように、閃光のごとく輝きを増した。凄まじい魔力の高まりに、彼女の周囲の空間が歪み、靄さながらに二重三重に揺れている。それに呼応し、付近の山々や木、草、岩、すべてのものから色が失われ、灰色に凍り付いたかのように感じられた。

「おにい、さん」


【第53話 中編 に続く】

※2023年6月に本ブログにて初公開。

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『アルフェリオン』まとめ読み!―第52話・後編

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5.御子の使命と「聖体降喚(ロード)」


 ◆ ◆

「ひとつ尋ねる。君は何のために戦う?」
 カルバはルキアンを正面から見つめ、厳かに問い掛けた。
 何のために戦うのか――それは、今までに何度となくルキアンが自問自答してきたことだ。逃げて、迷って、立ち止まって、考えるたびに彼の《答え》は揺れ動いてきた。
「僕は……。ただ戦いに巻き込まれ、必要とされるままに戦い、自分や仲間が生き残るために戦わざるを得ませんでした。本当は争いなんかに関わりたくなかったのに」
 おずおずと口を開いてルキアンが語り出す。ここまでは、いかにも、カルバがよく知っているあのルキアンの答えだった。だが次の一言に、これまでのルキアンには無かった決意めいたものを、彼の師は感じ取る。
「でも今は違います。僕は《反乱軍》と《帝国軍》から、この国を守りたいんです」
 ルキアンは一息に言い切った。もっともそれは、祖国を愛する若い戦士なら普通に口にしそうな台詞だ。カルバは特に反応を見せなかった。
「あの、別に、愛国心だとか、正義感だとか、そういう気持ちにだけ動かされて戦っているのではないのだと、最近、自分でも分かりました。もともと、国のために命をかけるとか、正義を守って戦うとか、そんな気持ちで戦場に行けるほど僕は強くないし、志が高いわけでも、素直でもないみたいです。そういう僕のこと、先生もよくご存じでしょう」
 後ろで黙って聞いているブレンネルは、つい頷いてしまい、独りで苦笑いする。
 ――そうだろうよ、そうだろうよ……って、いや、それはルキアンに失礼か。でも、むしろ素直だ、キミのそういうところ。
 自分以外の三人を極力刺激しないよう、ブレンネルはそっと首を動かし、周囲を見渡した。相変わらず気楽に構えているようにみえても、実際のところ、緊張のあまり彼の喉や舌は渇き切っている。
 ――それにしても、ヤバいどころの話じゃないな。ルキアンの師匠のイカレた魔法使い。それに、そこのスウェールとかいう、裏で何人も殺ってそうな凄みのある坊さん。駄目だ、あいつらの目は完全にぶっ飛んでる。どうする……俺? ここから生きて帰してくれないかもな。
 ブレンネルの心配をよそに、ルキアンは言葉にいっそう力を込めた。
「他の何かや誰かのためという以前に、自分自身の問題として、反乱軍や帝国軍の思い通りにさせたくないから、こんな僕でも戦うようになったのだと思います。話し合いを無視して自分たちの主張を力ずくで押し通そうとする反乱軍。一方的に戦争によって世界を意のままにしようとする帝国軍、それを率いる《神帝》ゼノフォス。言葉で理解し合おうとせず、譲り合うことなどなく、相手の力や立場が自分より強いか弱いかという物差しに応じてしか行動しない人たち。そういう人たちのやり方がまかり通るような国に、オーリウムを変えさせたくないんです。イリュシオーネを、そんな生き辛い世界にしたくもありません。僕が夢見ている世界は……」
 自らの言葉に酔っているのか、普段よりも甲高い声になってルキアンは語り続けた。立ち上る熱気に眼鏡を少し曇らせ、彼は付け加える。
「そう、僕にも夢ができました。前に向かって進んでゆくための行き先ができました。別にそれが夢物語でもいい、実現なんてしそうもない、でもとにかく、僕が戦うのは《優しい人が優しいままで笑っていられる世界》のためなんです。だから……」

 すると、ルキアンの熱弁の途中でカルバが諭すように遮った。
「君の理想を否定する気はない。反乱軍や帝国軍をこのままにしておいてはいけないことも確かだ。だが、ルキアン……。いま必要であるのは、そういう話ではないのだよ。目の前の戦いの中で、君は《御子》として為すべきことを忘れている。いや、忘れているのではなく、おそらくまだ知らないのであろう」
 ルキアンは師の言葉の意味が分からず、返答に困って口ごもった。そんなルキアンを見てカルバは溜息をつくと、声の調子を若干やわらげて告げる。その声の響きは、つい先日までルキアンが身近に接してきた師匠カルバ・ディ・ラシィエンを思い起こさせた。
「無理もあるまい。そうであろうと思って私は君に伝えに来たのだ。今のままでは、連合軍が勝とうが帝国軍が勝とうが関係なく、どのみち世界は滅びを迎えるだろう。御子よ、君の敵を知り、果たすべき使命を知るのだ」
「果たすべき、使命……」
 ぼんやりと言葉を繰り返したルキアンに、カルバは重々しく頷いた。
「先ほども言った通り、《あれ》の《御使い》は――すなわち《時の司》と呼ばれる存在は、この戦争によって現在の世界が自滅へと向かうよう、背後で糸を引いている。《失敗作》となった我々人類を《削除》し、もはや《培養器》としてはふさわしくなくなったこの世界を《初期化》し、《世界の摂理(システム)》を原初から《再起動(リセット)》するために」
 カルバは銀の杖を打ち鳴らし、白の長衣の裾を揺らめかせてルキアンの方にまた一歩近づいた。鎖状の飾りの付いた杖の先をルキアンに向け、静かな気迫をにじませた形相で語り続けるカルバ。
「君は、ゼノフォスのことを愚かな暴君であると思っているかもしれない。だが彼は、むしろエスカリア始まって以来の名君として民の期待を一身に背負っていたのだ。そんな皇帝ゼノフォスが、突如、何者かに取り憑かれたかのように《神帝》と名乗り、イリュシオーネ全土を支配しようと他国を侵略し始めた。奇妙だとは思わないか……。しかも帝国軍は、《浮遊城塞エレオヴィンス》をはじめ、現世界の技術を遙かに超えた兵器を多数、なぜ急激に投入できたのか。そんなことがどうして可能なのだ?」
 返答をしないルキアンに、カルバは畳み掛けるように言う。
「いや、帝国軍ばかりではない。ガノリスが敗れ、帝国軍が間近に迫り、オーリウムでは反乱が起こった。皆、それに気を取られてばかりいるが、内乱の背後で恐るべき計画が着々と進められていることにほとんどの者は気づいていない」

「《大地の巨人 パルサス・オメガ》が覚醒しようとしていることに」

 その名を耳にしたとき、無意識のうちに、ルキアンの胸に何とも言えない感覚が込み上げてきた。一方では嘔吐感に近い気持ちの悪さ、他方で血が熱くなり、沸騰して体中をめぐっているような、武者震いにも似た感覚。
「我が物顔で王国を牛耳るメリギオス大師は、《大地の巨人》をすでに手に入れ、これを今後の帝国との交渉を上手く進めるための切り札とでも考えているようだ。しかし、ひとたび目覚めた《大地の巨人》は、いずれは人間に背き、自らの意志で、オーリウムはおろか見境なしに世界の文明すべてを破壊しようとするであろう。旧世界の狂気の天才科学者ダイディオス・ルウム教授が造り上げた、最強のアルマ・マキーナ。いや、機械でありながら己の意志を持ち、自己進化機能によって成長し続ける、破壊と殺戮の権化。旧世界の当時、《天上界》の軍隊ですら手も足も出なかったパルサス・オメガの力を想像するに、我々の世界・イリュシオーネなど、ほんの数日間もあれば滅ぼされる可能性が高い」
 遠いどこかを見つめる素振りをした後、カルバは忌まわしげに言った。
「おそらく、それが《時の司》の狙いなのだ。そもそも現世界の人間だけでは、パルサス・オメガを入手し覚醒させる方法など分かるわけがない。その背後で、間違いなく《時の司》が暗躍しているはずだ。奴らは《大地の巨人》を覚醒させるための情報をメリギオスに与え、まんまと騙して《巨人》を復活させるつもりなのだろう」
 カルバはついにルキアンの目の前まで歩んできた。突然、甲高い金属音が足元で鳴り響く。手にした杖を離し、カルバは左右の手で、ルキアンの細い両肩をいきなり掴んだのだった。
「だが、この世界のからくりをここまで知っていて、自分たちの世界が滅びに近づいていると知りながら、私にはどうすることもできない。悔しいが、我々《人の子》の力など《御使い》の前では、無力だ……」
 カルバは薄笑いを口元に浮かべた。自嘲、だったのだろうか。いずれにせよ、その鬼気迫る表情にルキアンは思わず後ずさっていた。
「この気持ちが分かってもらえるか、ルキアン! だから御子の力が必要なのだ。頼む、未来を、この世界を救ってほしい。真の闇の御子よ」
 涙声にも似た調子でそう語ったカルバの目には、しかし、涙はなかった。いや、感情の光さえ再び消えていた。

 しばらく、沈黙が聖堂内を支配する。緊迫した師弟のやりとりを、ネリウスは先ほどから醒めた横目で見ていた。
 ――肝心のことは語らずじまいとは、カルバ、そなたらしいな。いや、それとも「弟子」にせめてもの心遣いをしたつもりか。
 再び、カルバの声とルキアンの声が発せられ、両者は何事かを言い交わしている。だが2人の言葉は、ネリウスの中で次第に小さくなってゆく。
 ――世界のからくり、そんなものなど知りたくなかった。人は《あれ》のことなど意識しなくても生きていける。多くの場合、何も知らなくても――いや、知らない方が――幸せにすら生きて死んでいける。だが、《あれ》や《時の司》のことを、さらに《鍵の石板》に記された御子の真実を、理解してしまったとしたら……。
 ネリウスの瞳に、師と必死に渡り合うルキアンの姿が映る。その姿が少し滲んでいたのは気のせいだろうか。

 ――何故、過去のいかなる御子も、自分たちの世界を守ることができなかったのか。

 ――その《本当の理由》に、闇の御子にかかわるあの秘密に、我らは気づいてしまった。失われた第7編の《石板》を得て、我らは禁断の《聖体降喚(ロード)》に手を出し、幾度にも渡る失敗を重ね、繰り返すたびに犠牲者を増やし、そして辿り着いた。

  無辜の者たちの命と絶望を糧に生まれた、
  たったひとつの血塗られた希望に。
  あのときワールトーアで……
  光の名を持つ真の闇が《受肉(インストール)》されたのだ。

 


6.思い出、儚く。再び閉じられる記憶の扉!


「だから、ルキアン、真の闇の御子よ。私と共に来てほしい」
 これまで見知っている姿とは異質な、鬼気迫る様相で呼びかける師を前にして、ルキアンは後ずさる。カルバはすかさず詰め寄り、乾いた口調でさらに告げる。
「この世界を《あれ》の思い通りにさせないために、君の力が必要だ」
 彼の口調は、単に告げるというよりも、ルキアンの「師」として彼に命ずるような、物静かだが威厳のあるものだった。
 だが言葉よりも早く、ルキアンの本能的な感覚が彼の体を衝き動かした。先日までの師を押し返し、困惑でしどろもどろになりながらも答える。
「待ってください! 僕は、あの、何と言ったらいいのか、先生のことを嫌いになりたくありません。それは確かです。なのに、先生のおっしゃったこと、僕が御子であると最初から知っていて……。何が何だか、もう訳が分かりません。今の僕には、先生のことが信じられないです。だからここで、先生と一緒に行ってはいけない気がします」
「落ち着くのだ、ルキアン。私の話をよく聞いてくれないか」
 そう言いながらも、カルバはルキアンを半ば無理やりにでも連れて行こうとする。その手を掴んで止めたのは、今まで黙って見ていたネリウス・スヴァンである。
「ネリウス、何をする!?」

 そのときだった。カルバが怒りの形相でネリウスの名を呼んだとき、その言葉のもつ特別な響きに、懐かしい名前に――ルキアンの中で何かが蘇った。
「ネリウス……。ネ・リ・ウ・ス?」
 突然、少年の唇が、彼自身の意識とはかかわりが無いかのように震え、わななき、言葉をかたちづくる。頬に、涙が溢れた。ルキアンは力なく屈み込み、敷き詰められた冷たい青磁調のタイルに掌を付いて、ただただ、落涙に身を任せている。

「マスター、ネリウス……」

 ◆

 幼年時代の幸せなひとときの記憶。
 傷つき、濁ったレンズの向こう側を垣間見るように、ぼんやりと、緑の中に溶け込んだ三つの人影が、ルキアンの心の目に映った。
 荒削りの木材でできた粗末な野外用の食卓につき、黒い衣をまとった体格の良い僧が、おそらくは礼拝時よりも省略されているのであろう、簡易な作法で祈りを捧げている。
「いただきます、神様、師父様!」
 そう言った幼子の頭を、大きな手が撫でた。

 ◆

「不用意な! このままでは記憶の封印が解けるぞ」
 ネリウスが声を荒らげる。だが、そう言い終わるが早いか、彼は、非難とも驚愕とも、そしてある種の安堵感ともとれるような、なんとも言えない気色を浮かべてルキアンを見た。
 ――私の名前が引き金となったか。たとえ封印されても、今まで手放すことなく……。
 その間にも、ルキアンの中で目覚め始めた何かは、もはやとどまるところを知らず、記憶の渦が堰を切って流れ出す。彼の顔つきや物言いが、まるで幼い子供のように変わった。
 「師父様(マスター)。僕、寝坊しちゃったのかな。ごめんなさい。起きなくちゃ。悪い夢、ずっと……見ていたのかな」
 ルキアンは、ふと何かに気が付いたような仕草の後、焦点の定まらない半開きの目で、周囲をきょろきょろと見回す。
「おねえ、ちゃん?」
 あのときの少女がルキアンの心の奥で振り返った。

「まだ、思い出さないの?」

 《盾なるソルミナ》の生み出した幻影の底、果て無き精神の牢獄、その深淵において浮かび上がった、あの娘の姿だ。懐かしい、しかし思い出せない、あるいは思い出してはいけない、その大切な人。
 あのとき。おびただしい数の子供たちの遺骸が、呪われた人形の群れと化してルキアンに襲い掛かったとき。完全な幻の世界の中で、《人の子》には決して抗えないという旧世界の超兵器ソルミナが、狙い澄まして生成した悪夢の像、それが、あの少女の似姿に他ならない。ただ、ルキアンの心を殺すためだけに。
 しかし、人の手で改竄された彼の記憶が、それを無意味なものにさせた。人間としての生を、《私》としての尊い同一性を弄ぶ悪魔のような所業が、皮肉にも彼の心を護ったのである。ソルミナが最後に語った言葉を、ルキアンは思い起こす。

 封印された記憶のことを知るまい。
 もし《封印》さえ無ければ、
 汝は最後の部屋で終わりを迎えていたはず。

 汝は、いつか知るだろう。
 召喚……一組の……適合……犠牲……。

 だが、なおも流れ続ける涙の量に呼応するかのごとく、ルキアンの瞳を、次第に狂気の色が塗りつぶしていく。
「どうして? 僕たち、もうとっくに、いなくなってるよね」
 一瞬にして、ルキアンの心象は暗闇と血しぶきにまみれる。
「エ……おねぇ、ちゃん?」
 ルキアンは、かすれた小さな声で、絞り出すかのように、姉の名を口にした。そのあと、もはや正気の光を失った目で、己の過去の苦痛を声にして再現するとでもいうのだろうか、何かが切れたかのようにわめき出した。
「怖いよ、怖い!! 何かが入ってくる……。僕が、僕じゃなくなっていく!」
 そして唐突に沈黙した後、彼は歪んだ口元に、絶望を帯びた笑みを浮かべ、荒い吐息と共につぶやくのだった。
「僕はもう死んでいる。僕も、お姉ちゃんも、死んでるんだよ」

《警告。執行体の起動条件は満たされていません。表域擬態層に大規模なノイズ発生。警告します。このままでは、プロジェクト・ノクティルカの遂行に致命的なエラーが生じます》

「待って。僕? 《僕》……って、誰……」
「お姉ちゃんは、僕の、お姉ちゃんなの? 僕って、《僕》なの?」

《接続可能な範囲に、アーカイブが存在しません。執行体のみでの起動は非推奨です。実行可能領域を強制的に表域擬態層に固定します》。

「あ、あぁ、ああ……あ゛、あ゛、アァアあアァああああ゛!!」
 ルキアンが白目を剥いて叫んだ。魂の基層にまで刻み込まれた痛みを、歪みを、いまここで彼がすべて吐き出そうとしているようにも思われた。操る糸が途切れた人形さながらに、ルキアンは、力なく、細い手を伸ばした。おそらく、最後のよりどころを求めて。

「師父様(マスター)、助けて……」

 悶えるルキアンを凝視し、黙り込んだままのネリウス。
「たとえ僕が誰であろうと。あの頃、マスターは、僕のマスターでしたね」
 ルキアンの頬につたう涙。
 何者にも止めることは叶わない。
 ただ、流れよ、その涙。
 自身の震える身体すら重そうに、ルキアンは俯せに倒れた。
「それだけは、確かなこと……」
 気を失っていくルキアンの脳裏に、かつての日々が、断片的に浮かび上がっては消える。

 ◆

「すごい、大きいの釣れたね、師父様!!」
 苔むした岩壁と木々に囲まれた谷川で、竿を握り、丸々とした立派な渓魚を釣り上げたネリウスに、目を輝かせて銀髪の幼子が駆け寄った。その後ろから、同じく銀色の髪の少女が、彼が足を滑らせないかと心配そうに見ている。

 男の子が無邪気に笑う。
「師父様! えへへ。一回だけ、その・・・今だけ、《パパ》って呼んでも、いい?」
 隣で微笑んでいるのは、彼よりも背の高い、おそらく姉のような女の子。

 流行り病か何かにかかったのか、顔を赤く染めてベッドに横たわっている銀髪の幼い少年。苦しそうな吐息。そのか細い手をしっかりと握るネリウス。例の女の子が、水を入れた桶と手拭いを運んでくる。

 だが、幼年時代の眩いばかりの記憶に、次第に濃い霧がかかる。大切な思い出を暗闇が呑み込んでいく。そして最後に残されたひとこまは、《あの日》の夜のことだった。

 青みを帯びた墨を平板に広げただけのような、月の無い夜のもと、茫漠とした空と枯れ野。あちらこちらに、黒く点々と、寒村のみすぼらしい家々の影が見え、その真ん中に、ただ規模は大きいにせよ古ぼけて荒れた館が、置き去りにされている。
 門の前に立つ二人は、この館の主人とその妻であろう。彼らと向き合っているのは、頭巾から長衣を経て足首まで、すべて白ずくめの、闇夜に漂う亡霊のごとき、あるいはどこか邪教の神官を想起させる、異様な装いの三人である。
 真ん中の一人が、僧衣には似つかぬ逞しい腕を伸ばして言った。
「《ルキアン》、ここが君の家で、こちらが君のお父さんとお母さんだ」
 その手の先をぼんやり見上げながら、幼い銀髪の少年が、何か別のものに憑かれ、言葉を口にさせられているかのように、遠く虚ろな目でつぶやいた。
「はい。僕は《ルキアン・ディ・シーマー》、この家の子です。さようなら、師父様(マスター)」
 およそ意志の力を感じられない、抑揚を伴わない声で。

 ◆

 うつ伏せに倒れ、唇の間から僅かに血を流しているルキアン。崩れ落ちる前、かろうじて床に手はついていたようだ。眼鏡も側に転がっていたものの、割れたり歪んだりはしていないとみえる。
 おもむろに、ルキアンのもとに歩み寄ろうとするカルバ。だが彼の意図を察したのか、ネリウスが、毅然とした様子で首を振った。哀しみの色を帯びた、それでいて獣をも思わせる鋭い視線が、カルバに向けられる。
「御子が大いなる選択を迫られたとき、代わりに我らが道を選ぶことは避けるべきはず。これ以上、そなたの意思を御子に強いてはならない。《ザングノ》の我らが、《僧院》の掟を自ら破るか?」
 カルバ・ディ・ラシィエンは、しばらく無言でネリウスを睨むと、いつもより低い調子の声で同意した。
「分かっている。あくまで我らは道を整える者。選び、行く者ではない。しかしな……時は迫っているのだ。滅びの日は近い」
 冷めた笑みを、ほんのわずかに口元に浮かべると、カルバは手にした銀の錫杖を鳴らした。それまで硬く凍り付いていた聖堂内の空気が揺らぐ。銀と銀の奏でる涼しげな音が、緊迫した雰囲気を溶かしていくかのようだ。
「私は引き上げるとしよう。ネリウス、後のことはいつものように任せる。《失われたワールトーア》は、もはや伝説の中にしか存在しない。おそらく森の精が紡ぎ出したのであろう、遠き日の幻にすぎないのだと」 
 カルバの人差し指が中空で何度か弧を描くと、彼の足元が青白く光り、たちまち輝きがあふれ出して魔法円を描いた。僧院の中でも、《ザングノ》の位階を持つ最上位の者たちが使う、強力な《転送陣》だ。靄のような、羽衣を思わせる光に包まれ、カルバの姿が消えた。

 ネリウスは黙礼すると、カルバと同じように銀の錫杖を揺らした。伏したままのルキアンを一瞥すると、彼は深く息を吸い、膨大な魔力が体中を巡るのを感じつつ、両手で杖を真っすぐ持ち上げた。

「見ひらけ、針を戻せ……《絶界のエテアーニア》」

 彼が口にしたのは、旧世界のある種の至宝を起動させるときに一様に似たような語調で唱えられる、例の力の言葉だ。同時に心の中では、このように自分に言い聞かせながら。
 ――これで良い。あの日々を再び失うのは辛いであろう。だが、私のことなど……《あの子たち》のことも……そして、お前の《姉》のことも、元のように記憶の海に、深い深い海に沈む。

 ――ただ、再び我が名を、そしてまた師と呼んでくれたことは……。

 ネリウスの銀の杖が、床を鋭く突いた。その清冽な響きとともに、得体の知れない力が、それも途方もない魔力のうねりが、聖堂を飲み込み、さらにはワールトーアの失われた村を覆って、寄せる波のごとく、一面の緑濃い木々の間をも騒がせ、流れ去った。この聖堂の地下に何かがある、あるいは何か巨大なものがいる。
「さらばだ、ルキアン。かつて幼かった弟子(わが子)よ」
 ほんのわずか、瞬く間のみ、遠き想いに浸る言葉。
 それだけを残すと、《転送陣》を描いたネリウスの姿も虚空に消えた。

 ◇

「あ、あれ? ここは?」
 どのくらい気を失っていたのか、それとも眠っていたのか、密生した木々の作り出す緑の天井の隙間から、ぼんやりと開いたルキアンの目に、落日近づく緩い陽光が差し込んでくる。
「森の……中、かな。それにしても深い森だな」
 ルキアンは、胸や背中に残った、覚えのない痛みを感じながら、ゆっくりと上半身を起こした。ふと指先に、地面に埋め込まれた冷たく滑らかな石製の人工物の存在を感じる。
「ここに建物の跡が、いや、あちらにも。こんな森の奥に。昔、猟師の人でも住んでいたのかな」

 ◇

「《絶界のエテアーニア》、旧世界の結界兵器の中でも、《盾なるソルミナ》と並んで最も畏怖されたそれ。どちらも同じ者による創造物であったがな。人の心を玩具にする、あの男が……」
 大洋からよどみなく打ち寄せる波の音を、向こうに聞きながら、老賢者あるいは老いた術士のような姿をまとったパラディーヴァ、フォリオムが言った。レマール海に突き出した岬、その上に立つ、《大地の御子》アマリアの居館と庭園だ。
「わが主よ。今は昔の、おとぎ話として、現世界にまで遺っておるじゃろう? 一方は、一度入ったら二度と戻れない城の話。他方は、夢のような一夜を過ごしたら、朝には消えていた都の話。しかも、あったはずの都が消えていたどころか、そこに街があったということまで、もはや誰も覚えていなかったと。分かるかの? つまり、一度入った者は、そこから出れば、中で起こったことをすべて忘れる……そのような結界が、ソルミナと同じく《人の子》には決して乗り越えることのできない心の壁、エテアーニアなのじゃよ」
 わざと、子供に昔話でも読み聞かせるかのような口ぶりで、フォリオムは彼の主(マスター)に告げる。その隣では、赤いケープを羽織った神秘的な女性が、静かに目を閉じ、老友の声に耳を傾けている。

 ◇

「僕、何してたんだろう? 見えない……眼鏡、眼鏡!?」
 ルキアンは、今更のように慌てて眼鏡を探した。
「良かった。壊れてないな。そういえば、なんだか、ずっとここにいたような気がする」
 このような深い森に迷い込むと、彼らのいうところの《遊び》を求める妖精たちにたぶらかされて、良くてせいぜい不思議な体験をするか、悪くすると命まで持っていかれかねないという話は、現世界の今でも噂されることだ。人の手の届きにくい、自然の力の大きい場所、たとえば森の奥や海の沖合などにおいては、かつて《現実界(ファイノーミア)》から分かたれた《夢影界(パラミシオン)》との境界が、比較的曖昧になっているからだと。
 大切な眼鏡を傍らに探り当てたルキアンは、レンズの埃を丁寧に拭い、再び掛けようとする。そのとき。
「どうしたのかな? 本当に、僕、ここで何を」
 何の前触れもなく、激しい感情が体の奥底から湧き上がってくる。ルキアンは呆然と天を仰いだ。
「分からない。けど、どうして……。どうして、こんなに」
 ルキアンは震える声で言った、いや、むしろ、咽び泣いた。
「こんなに、涙が……止まらないのかな!?」
 自分でも理解できないまま、ルキアンは空っぽの胸を、両手で抱きしめた。膝立ちのまま、彼は独りで涙を流し続けた。

 ◇

「わが主よ。闇の御子がせっかく手にした記憶であったのに。扉は再び閉じたぞ」
 フォリオムのその言葉に応えたのか、だが独り言のような、預言者じみた様子でアマリアがささやく。彼女が見開いた目は、その心はいまだ夢うつつの世界に留まるようでいて、しかし見る者の魂までも引き込みそうな、常闇の宝玉を思わせた。
「フォリオム、一度空いた扉は、それ以前よりも軽くなるものだ。いずれ、しかるべき時が来れば……。しかし、彼自身が失った大切なものを、のぞき見していた者の方だけが、つまり私が、今も覚えているというのはいただけない」
「仕方があるまいよ。闇の御子の《紋章回路(クライス)》が開いた今、そなたらは《通廊》でつながっているのじゃから。《対なる存在》を介してな。それとも、よもや覗き見が趣味ではあるまいの?」
 悪戯っぽく笑うフォリオムは、このようなときだけは好々爺の表情を浮かべる。パラディーヴァの冷徹な本性に反して。
「失礼だな。私はそんなに趣味の悪い女ではない。御老体のいうところの、可愛げはない女であることは否定しないが」
 そう言いつつも何故か機嫌よさげに、アマリアは彼方に目を向け、想いの翼を潮風に乗せた。この大海原、遠くレマール海を挟んだ向こうの地に、ルキアンたちのいるオーリウム王国へと。

 ◇

 この空虚な胸の内は何だろうか。
 まだ涙の乾かない目を閉じ、黙って、子供のように鼻をすすったルキアン。

 そのとき、背後で下草を踏む音がして、誰かの声が聞こえた。
「お、おい、そこの君。大丈夫か?」
 膝立ちのまま、振り返ったルキアンの前に、濃い深緑色のくたびれたコートが見えた。その下の方には、ラクダ色の大きな革ブーツ。
「珍しいな。まさか同業の人?」
 尖った顎髭が特徴的な、短い金髪の男が、ひきつった笑みを浮かべて手を振っている。おそらく30代か40代くらいだろうか。
「わ、若いな。すまん、頼むから腰の物は抜かないでくれ。俺は山賊でも魔物でもない。真っ当な、いや、ちょっと胡散臭いネタも書くが、一応の物書きだ」
 気の抜けたような、それでもどこか安心したような様子で、男はルキアンに名乗る。ただ、こんなに弱々しげで無害にみえる少年ではあっても、腰に剣と銃を帯びているため、万一のことも考えて彼は警戒しているらしいが。
「俺はパウリ。パウリ・ブレンネル。ノルスハファーンのカフェの主人、いや、そっちは妻に任せっぱなしで、まぁよくある三文文士ってやつさ」
 ルキアンは、こうして他人と話せることが、どういうわけか無性に嬉しく感じられて、この初対面の相手に対して珍しく口数が多くなった。
 聞くところによると、ブレンネルという男は、この森の伝説「失われたワールトーア村」のことを調べるために、王国北部の中心都市ノルスハファーンからわざわざやってきたらしい。疑わしい雑文の種にして、新聞屋や書籍商にでも話を持っていく企みだ。あるいは冒険者のギルドあたりも、話を売りつける先としては適当だろうか。だが、そんなとき、ブレンネルはなぜか森で気を失ったらしく、ルキアンと同様、今しがたまでそこに倒れていたそうである。
「ワールトーア? 本当に、そんな村があったのですか。ここって、とても人が簡単に来られるような場所ではないですけど……」
 初めて出会ったにしては、珍しく調子の合いそうなブレンネルと、ルキアンは楽しげにさえ語らっている。いま、彼がどうしてこの状況にあるのか、ここに来るまでに、あるいは今までに何があったのかを思い返すことを、敢えて避けようとするかのように。か弱い若者の妙な屈託のなさが、かえって痛ましくもみえる。
「あぁ。その村に迷い込んだ者が神隠しに遭ったとか、幽霊を見て命からがら逃げ出してきたとか、そういう噂が絶えない。《ワールトーアの帰らずの森》と言ってだな」
 自慢げに語るブレンネル。ルキアンは、森の切れ目から見える空を見やると、心配そうに告げる。
「あ、あの……もう少し経ったら、日が暮れるのでは? あといくらか、時間はありそうですが」
「そうだな、今晩は野宿と洒落込むか。これでも俺はカフェの主人って言ったろ。料理の腕はそれなりに悪くないんだぜ? 一緒に食うかい」

 ルキアンは――笑ってみた。頷いて、涙を拭いて。

 少年の率直な反応に気を良くしたのか、ブレンネルの与太話は続く。
「あ、そうそう。昔、狼狩りの男というのがいて、だ、それで……」
 病に侵された体を押して、その魔奏術でもって恐狼(ダイアウルフ)の群れを凍った湖に吞み込ませた男。だが彼の怒りの呪歌は、やがて裏切り者の村人たちに向かい、ワールトーアからは一切の住人がいなくなったという。ある日消え失せた村の件がもし本当なのだとしたら、その理由を無理やりにでも想像するための材料として、今のルキアンやブレンネルは、狼狩りの哀しいおとぎ話くらいしか持ち合わせていない。
「それは、《音魂使い》ですね」
「ん? ルキアン君は妙なことに詳しいな!」
「いや、僕は……」
 付近一帯、見渡す限りの範囲に彼ら以外の人間はおそらくいないであろう、先の見通せない深い森の中で、二人の笑い声が気ままに飛び交う。いや、彼らはそんな不用心な様子だが、本来はもっと野獣や魔物、あるいはさらに出遭いたくない存在に、気を配った方がよさそうだ。周囲には、もう夜の足音が近づいてきている。

 それは、ルキアンが絶望の先に、ほんのひとときだけ寄り添うことのできた、短いが尊い、憩いの時間だった。

 だが、そのような刹那的な安逸は、この森にルキアンが置いてきたものと、引き換えに彼が得た結果である。ルキアンは大切なものと、知るべき真実と向き合い、だが再びそれを失ったのだから。ワールトーアの記憶、村を襲った惨劇、あまりにも早く散っていった銀の髪の姉弟のこと、そして幼き日のルキアンに穏やかな時間をくれた、たった一人の姉と、彼を見守った《師(マスター)》の思い出を。

 

【第53話に続く】

2013年11月~2023年5月に本ブログにて初公開

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『アルフェリオン』まとめ読み!―第52話・中編

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 3.「僕は……誰なんですか?」



「最初から私は知っていた。君が《闇の御子》であることを。今日のような日がいずれ来ることも分かっていた……いや、君が己の宿命に気づき、御子として私の前に現れるこの日を、むしろ待ち望んでいたというべきであろう」
 カルバは弁解する素振りすら見せず、表情にせよ声にせよ完全に平静なままで、言葉を付け加えた。
 ――ここは、せめて少しくらい躊躇してから答える場面じゃないのかね……。
 事情を知らないブレンネルですら、カルバの答えに唖然とした様子だった。場の雰囲気だけからみても――ルキアンがあれほど動揺して問いかけたにもかかわらず、彼の師であるカルバの方が平然と即答したのは、さすがに奇妙に思えてならなかったのだ。
 ましてやルキアンにとってみれば、何の迷いや後ろめたさもない確信に満ちた師の態度が、あまりに異様で、とにかく異様でならなかった。
「《最初》から? それって……いつからなんですか。まさか先生は、僕が《御子》であることを、僕自身よりも先に知っていて、弟子にしたということですか」
「無論だ。君が私のところに来ることも予め決まっていた」
「ちょっと、待って、ください……。それじゃぁ、僕は……」
 ルキアンが漠然と抱き始めていた不安、それが師の今の言葉によって、はっきりとした形を取りはじめた。言葉に詰まった後、ルキアンは、言いたくないことを敢えて口にした。
「僕は、《両親(あの人たち)》にとっては《いらない子》で、兄たちとは違って、僕一人だけがいつも虐げられ、罵られ、挙げ句の果てに《口減らし》のために家から都合よく追い出されました。そう思っていました」
 話が進むにつれ、唇が震え、少年はわななく。明かされ始めた答えへと、いま、一歩一歩近づきつつあることを恐れて。
「ただ、どうしても気にかかることがあったんです。何の愛情もないはずなのに、僕なんか居ない方がいいと思っていたくせに、なぜあの人たちが僕を引き取り、嫌々ながら10年間も養ったのか」
 ルキアンは改めて心の中で繰り返す。あの夜に密かに聞いてしまった養親の言葉。忘れてしまいたいのに、むしろ思い起こすたびに鮮明となり、心に刻み込まれる言葉。

 「ねえ、あなた……あんな子なんてもらわなければ良かったわ」
 「声が高いぞ。あの子が聞いていたらどうするんだ」
 「大丈夫ですわ。もう寝てますよ」
 「まあ、やむを得まい。《金になる》んだ。わが家を守るためには……」
 「とにかく《16歳まで面倒を見れば》大金が手に入る。あとは、とっとと
  追っ払って」
 「えぇ、あんなどうしようもない子とも、あの《薄気味悪い連中》とも、
  早く縁を切ってしまいたいもの」
 「その話は出すな。《彼ら》のことは決して口にしないようにと言われた
  じゃないか」

 ルキアンの想像力は真実を射貫いた。悲しそうな目をして、彼はカルバに向き直る。
「先生、すべては最初から筋書き通りだったということですね。僕が御子で、いずれ先生のところに弟子入りすることを見越して、それまでシーマ-家が預かる、と。あの人たちは金に目がくらんでそれを受け入れた」
 頷きもせず、否定しようともせず、カルバは黙ってルキアンを見つめている。
「なぜ、あんな家に、あんな人たちのもとに、僕が預けられたのかは分かりません。知りたくもありません。ただ、僕が知りたいのは……。シーマ-家に引き取られる前、僕はどこで何をしていたのでしょうか。多分、先生はご存じなのでしょう」
 日ごろは内気で優柔不断な少年だが、ひとたび心に火が付いたならば、直感のもとに熱に浮かされたその饒舌はとどまるところを知らない。
「《僕は、ここに居た》のではないですか? 本当は。僕は、この村のことを覚えていました。ここには一度も来たことがなかったはずなのに」
 忌まわしき記憶の淀みを、魂の井戸の底をのぞき込むような暗い目をして、ルキアンは抑揚のない声でつぶやいた。
「肝心なことを……聞きたいんです。先生、ワールトーア村で13年前に何があったんですか。ねぇ、スウェールさんも、知っているのでしょう? 僕が一緒に手をつないでいたあの女の子は、誰なんですか」
 矢継ぎ早に問いかけた後、ルキアンは声を落とし、生気の凍り付いた陰惨な表情でつぶやく。

「あの……教えてください。僕は……誰なんですか?」

 


4.ワールトーアの惨劇、その真実


 ◆ ◆

  あたたかい。
  わたし、もうつかれちゃった。
  なんだか、きもちがよくなって、ねむくなってきた。
  ほんとうのおうちって、こんなのかな。
  かえりたいな。

 すべての願いを叶えたような、満足げな顔つきで目を閉じ、夢と現実(うつつ)との間で横たわる少女がいた。彼女の腕は、幼い男の子をしっかり抱きしめていた。決して離そうとしない力強さで、それでいて壊れ物をそっと護るように。
 男の子は、手足をちぢこめ、半ばうずくまった姿勢で少女にいだかれている。彼も、すやすやと、実に平和そうな表情で吐息をもらす。
 おそらく姉と弟だろうか。どちらも、銀色に輝く美しい髪の持ち主だ。
 優しさと安穏に満ちたふたりの姿。
 だが、その小さな幸せが本物でもなく永遠でもないことは、周囲の恐るべき状況をみれば明らかだった。二人はドーム状の光の中に閉じ込められている。揺らめく光の壁の表面を這い上がり、黒く輝くツタらしきものがみるみるうちに成長して、鋭い棘で覆われた結界を新たに作り上げてゆく。
 彼らが横たわる床には、異界や天上の存在を象徴するのであろうサインや、魔道の力を呼び覚ます複雑怪奇な図形、そして、この世界では使われていない文字がびっしりと書き込まれている。どうやらここは、城の広間や神殿の礼拝堂のような大きな空間らしい。床面全体を使って、幾重にも円陣が描かれており、幼き姉弟はその中心部に眠っている。

 ◆ ◆

「カルバ先生、13年前のワールトーア村のことは、僕が何者なのかということと、たぶん関係があるのでしょう。何となく分かります」
 おぼつかない口ぶりで、ルキアンは執拗に問いかける。
 沈黙の支配する中、ひとつの溜息が妙に大きく聞こえた。カルバは重い口を開く。
「それは、いずれ分かる……。だがその前に君に告げておかねばならないことがある。だから私は、こうして君に伝えに来た」
 今まで身じろぎもせず、彫像のように立っていたカルバがようやく動いた。彼はルキアンの方に一歩踏み出し、相変わらず顔色ひとつ変えずに語りかけた。
「これからの最後の使命を果たすために、カルバ・ディ・ラシィエンであることを捨て、家族を捨て、弟子を捨て、《月闇の僧院》の者として人の生を捨てた私が、敢えて再び君に会いに来た」
 カルバの目に、今までには無かった感情の炎が灯る。激しい情念があふれた。
「君の力が必要なのだ、ルキアン。この世界が《再起動(リセット)》されることなど許してはならない。これまで無数の世界がその運命を辿ってきたようには、断じてさせてはいけない。《あれ》によって……そう、すべてを支配する《絶対的機能》から生じる不可避の作用として、あるいは《因果律の自己展開》の一環として、《人の子》の歴史が密かに《修正》され続けることを、そして修正すら困難となった場合には、すべてが原初に還されることを……。そんな《歴史》はもうたくさんだ。だが、いま私たちの世界は、イリュシオーネの大乱を隠れ蓑にして、《あれ》の《御使い》たちによって確実に滅びへと導かれている」
 カルバは異様な眼光を浮かべてルキアンに歩み寄る。
「人は人として、たとえどれだけ取るに足りない存在であろうとも、自分たちのひ弱な足で世界に立ち、限りある命におびえながらも日々を歩み、たとえどれだけ愚かでも自分たちの手で歴史を紡ぐ。そうすべきだ」

 《そのためなら、私自身は悪魔にでもなる》

 師の突然の不可解な発言に、その熱気に押され、今度はルキアンの方が言葉を返せなくなる。しかも、断片的ではあれ、これまでに《御子》として知ったことをつなぎ合わせれば、カルバの言わんとするところについて、ルキアンには漠然とでも心当たりがある。そのためにルキアンはなおさら当惑した。
 ひとり、明らかに場違いなブレンネルにしてみれば、カルバは気でも狂ったのかと思われたかもしれない。何か言い出そうにも、呆れて、あるいは得体の知れない恐怖感に支配されて、ブレンネルは強ばったまま固唾を呑んで見守るしかなかった。
 そしてネリウスは、目を閉じ、何事かを思い起こそうとしているようにみえる。

 ◆ ◆

 それは北風を忘れた夜。静かな冬の夕べ。
 冷気が肌を刺す痛みは覚えても、寒さ自体は実際よりもかなり落ち着いて感じられる。
 時おり、目の前を漂うまばらな雪の向こう、村の家々の灯りが見える。鬱蒼とした森に囲まれ、一面の闇の中にぽつんと浮かぶ小さな村。
 その入口には簡単な門が立っている。たいまつの明かりに見え隠れするのは、門柱から門扉まで、決して華美ではないが精一杯はなやかにと、しつらえられた飾りの数々だ。場所柄のためか、木彫りの飾り物が特に目立つ。鹿、うさぎ、狼などに似た森の獣たち、太陽と月、そして翼を持った童子の人形など、村人たちが仕事の合間に彫り上げたのであろう素朴な木の玩具が、野花や木々の葉、リボンなどで着飾っている。
 イリュシオーネの冬を代表する祭日――大空の神アズアルの大祭日を間もなく迎えるため、オーリムの片隅にあるこの村も、ささやかな祝いの気持ちをこうして表していた。そして、さらに松明の光に浮かび上がるのは、村の名前を記した道標。

 《ワールトーア》

 この名を、ほのかな光で読み取ることができた。
 と、そのとき、不意に聞こえてきた何かが、たいまつの炎を微かに揺るがしたかのように思われた。凍てついた静寂の空気を伝わって、どこからともなく聞こえてくる声。あるいは歌?
 抑揚なく、それでいてよどみなく続く、声の響き。
 生気の無い、乾いた、人の喉を振るわせて発せられる音の並び。
 たとえ喜びの歌であれ、悲しみの歌であれ、恨みの歌ですらあっても、それが仮に音楽ならば、何らかの感情の動きがもう少し込められていてもよさそうなものだが。

 ◇

 《ロードを……開始する》

 村外れの薄暗がりでそうつぶやく者がいた。
 影がうごめく。村を囲む簡素な木の柵の向こう、闇に包まれた森に、木々の間から家々の様子をうかがう不気味な白装束の集団。
 住人は誰ひとりとして気づくことなく、《狂信者》の群れに村は取り囲まれていた。

 ◇

 闇夜の森の中、突然に赤い光が大地から漏れ出した。
 人為的な光など無い、夜の樹林の奥、木々とは異なる村の家々の影が浮かび上がった。
 ほぼ時を同じくして、激しい地響きと地割れを伴い、住居や塔、街路や広場を断ち切って、村を丸ごと呑み込む巨大な魔法陣が描き出されてゆく。
 村は赤い結界に包まれる。結界の表面に、さらに色濃い血のような紅の光があふれ、液体さながらにどくどくと流れ落ちる。おぞましいことに、その様子は、結界の中から血を搾り取っているかのように見えてならなかった。
 助けを求める若い男の声が響いた。その声に次々と被さるように、老いも若きも、女も男も、あらゆる人々の悲鳴と絶叫が耳を埋め尽くしてゆく。
 逃げ惑う村人たち。至る所で、人影が何かに締め付けられ、無残にちぎれて飛び散った。暗くてよく見えないが、現実のものとは思えない状況をそのまま描写するならば――地面から無数の蛇に似た、いや、イバラのツタを思わせる何かが現れ、人々を絡め取っている。荊(いばら)に絡みつかれた者は、血しぶきを上げながら、植物が枯れ果てるように崩れ落ち、みな、生気を失った老人のごとき姿で地に伏し、二度と起き上がらない。

 天空高きところから真一文字に雷光が走り、閃光が村をさらに包んだ。あたかも、村を閉ざす紅の結界に惹きつけられ、その匂いを辿ってきたかのように。血塗られた犠牲に呼び込まれるかのごとく。そう、この惨状は、ただの殺戮ではなく、何ものかへの《生け贄》のためではないかと感じられるのだった。
 人の時間ではない夜の世界に跋扈するあやかしの精を集めたような、異様なほどに濃い黒雲が森の上空を覆う。これを貫き、さらに空と大地を突き通して、巨大な光の柱が村を呑み込んだ。天と地をつなぐ閃光は、明らかに村をめがけて降り注いでいた。

 ◇

 銀髪の姉弟の姿はもはや見えない。彼らは荊の壁に覆い尽くされ、外界に対して牙をむく棘の結界の中で、いばらの《繭》の中で夢みて眠っている。
 その様子を見守りつつ、ただ独り立つネリウス・スヴァンの姿があった。黒い僧衣に身を包み、その上に白い長衣をまとい、深めに被ったフードの奥で彼の目が鋭い光を放つ。
 彼の右目には、ルキアンと同じ《闇の御子》のしるしが浮かんでいる。広間の床から今なお次々と伸びてくるくろがね色の《荊》のツタは、村人たちを襲ったのと同様にネリウスに絡みつくかと思われたものの、不思議なことに彼を避け、むしろネリウスの周囲を守っているかのようにすら見えた。
 黄金色の光でネリウスの瞳に刻まれた紋章。ただし、ルキアンの《完全》なものとは異なって、紋章を形成する光の線があちこちで途絶えている。だが代わりに彼自身の血で補われ、つまり血文字でところどころ上書きされた形状で紋章が現れているのだ。
 その右目を押さえ、痛みに耐える仕草をしながら、ネリウスは最後の言葉を唱え、先ほどから続く長大な詠唱の果てに呪文を完成させた。

 彼は祈りを捧げる。
 頭を垂れず、ただ手だけを合わせ、無表情に、同じ姿勢で居続けるネリウス。

 

【第52話・後編に続く】

2013年9~10月に本ブログにて初公開

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『アルフェリオン』まとめ読み!―第52話・前編

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 封印された記憶のことを知るまい。
 もし《封印》さえ無ければ、
 汝は最後の部屋で終わりを迎えていたはず。

 汝は、いつか知るだろう。
 召喚……一組の……適合……犠牲……。

 (盾なるソルミナの化身)


1.シーマー家の密約と幼きルキアン


 

 ◆ ◆

 その日、彼らはやってきた。

 月のない夜空のもと、寒々と静まりかえった庭園。なまじの広さが災いし、人の手が足りないのか、もはや手入れも諦められ、荒れるに任せてうち捨てられたような様相であった。

 かつて、賑やかで幸せな日々がここにあったのかもしれない。
 過去の栄光をしのばせる立派な噴水は、いまでは枯れ果てて、一見すると何であるのか分からないほど荒廃している。昔日には白磁色の肌を艶めかせていたのであろう、いわゆる白鳥石でできた噴水は、今では薄茶色に汚れ、泉の面影もない底面には、砂や枯れ草が溜まるばかりである。
 庭のあちこちで好き勝手に生い茂った植物たちの影は、夜の闇にうごめく魔物の群れを想起させた。ふと、庭園の端にある鉄柵に目をやると、木質化した巨大な薔薇が、乾ききった硬いツタを茂らせ、錆びだらけの柵に絡みついている。もはや生きているのかどうかも定かではなく、このまま石になって周囲と一体化してしまいそうにも見える。

 水はけの悪い、腐臭じみた匂いの漂う黒い土と、およそ使い道のない、湿って沼地のようになった原野に囲まれた、とある寒村がここであった。
 この庭園の背後に建つ屋敷は、規模からして、おそらく一帯の領主か誰かのものであろう。だが立派であるのは大きさだけで、貴族の屋敷とは名ばかりのみすぼらしく寂しい有様だ。いわんや領民たちの暮らしぶりは、想像を絶するほどの貧しさであろう。

 生気のない庭に、突然、澄んだ金属音が鳴り渡った。
 静寂の中、神秘的ながらも冷たく暖かみのない響きは、この世ならぬ死者の使いを思わせ、美しくも背筋を凍り付かせるものであった。規則的に打ち鳴らされる音は、次第にこちらに近づき、音の主たちの姿も暗がりの向こうから徐々に浮かび上がってくる。頭から足首まで白い長衣に包んだ得体の知れない者が三人。いずれも頭巾を深く被っており、顔つきはよく分からない。
 三人のうち、前を行く二人は従者であると思われる。やがて彼らは立ち止まり、後ろに立つ男が、銀色に輝く錫杖を静かに鳴らした。
 彼らと向き合っているのは、この館の主人であろう中年の貴族の男と、その妻であろう女だった。男の方が神経質そうな声で尋ねる。
「人払いは済んだ。約束通り、前金でいただけるのでしょうな」
 没落した暮らしが続き、貴族としての矜持を忘れて久しいのか、彼は今にも手を伸ばさんばかりの様子であった。後ろに立つ妻は、かつての贅沢を忘れられないような、強欲そうに肥え太った姿でうなずいている。
 銀の錫杖の男が従者たちに指図すると、両手のひらで抱えても余るような、ずっしりと金貨の詰まった革袋が、館の主人に手渡された。その重さに、思わず腕に力を精一杯込めつつ、彼はやたらに喉を渇かせて言った。
「わ、分かった。約束は必ず守る。その子をこちらへ」
 よく見ると、その場にもう一人いた。長衣の三人の背後、小さな子供が隠れるようにのぞいている。美しい銀色の髪をした、まだ5,6歳程度の幼い男の子だ。表情が無く、目は虚ろで、しかし口元にだけは、脈絡のない引きつった笑みを微かに浮かべているようにも見えた。
 銀の錫杖の男が口を開いた。不気味な出で立ちからは予想し難い、高貴で心地よく響く、低い声で。
「ディ・シーマー殿、この子が16歳になったとき、《ある者》から迎えが参ります。それまでは約束した通りに。もし、言葉を違えたときには……」
 物静かで、慇懃だが、有無を言わせない調子であった。仮に夫妻が金だけを手にして、あの子を捨てたりしようものなら、いったいどんな報復を受けるのか、想像するのも恐ろしいほど異様な相手である。
「《ルキアン》、ここが君の家で、こちらが君のお父さんとお母さんだ」
 杖の男は子供の頭を撫でた。精霊か異界の妖魔かとも思われた彼が、初めて見せた人間的な振る舞いだった。
 銀髪の男の子は彼の方を見上げると、ほとんど聞き取れないような、か細く抑揚のない声で言う。
「はい。僕は《ルキアン・ディ・シーマー》、この家の子です。さようなら、師父様(マスター)」
 焦点の定まらない、瞳孔の開いたような目でルキアンはつぶやいた。だが彼自身の意思が、その言葉からまったく感じられないのは何故だろうか。何かに憑依でもされているかのごとく、ルキアンはぼんやりと足を進め、「両親」たちの後についてふらふらと屋敷に向かっていった。

 その姿を見届けた三人。再び銀の杖が打ち鳴らされると、彼らは夜に紛れ、影の中に溶け込んでゆくかのように見えなくなった。
 闇の中で一人が言った。
「お手数をおかけいたしました。あなたが、ここにわざわざお越しになるまでも……。ネリウス師父(マスター・ネリウス)」
「見届けたかったのだよ。彼は我らと同じ……。いや、彼は我らとは違い、《真の闇の御子》となる者。そうであろう、ゼロワン」
 その言葉と共に、銀の杖が涼やかに鳴り響き、彼らの姿は再び何処へともなくかき消えるのだった。

 ◆ ◆

 ――大きくなったな、ルキアン。それに、こんなにも……。

 スウェールことネリウス・スヴァンは、いま目の前にいるルキアン・ディ・シーマーを見つめながら、心の奥でそっとつぶやいた。ブレンネルと何やら話しながら歩いてくるルキアンの姿が、瞳に映る。ネリウスは神殿の扉の鍵を開け、二人を呼んだ。
「もう、あたりは薄暗くなりましたね。村の近くに、ノルスハファーンの街やミルファーンとの国境の方面へと続く街道があります。そこまでお送りしましょうか。いや、ほんの少し、軽い夕食でもご一緒しますか。あいにく粗末な物しかありませんが。どうぞ」
 扉に手を掛けたネリウス。そのとき、彼の目が不意に鋭い光を帯びた。
 ――この気配は。誰かが《転送陣》を使って神殿の中に? いや、この感じは、《ザングノ》だけが使える……そうか、そういうことか。そなたも来たのだな。
 ひょっとすると事前に覚悟していたのであろうか、ネリウスは神妙な面持ちで、しかし長々と躊躇するようなことはせず、神殿に入っていく。彼に続いたルキアンとブレンネル。
 建物の質素な外観とは裏腹に、神話の諸場面を描いた巨大なフレスコ画が天井に広がり、天の御使いや聖獣たちの彫刻に彩られた柱がそびえ、黄金や漆喰の装飾を凝らした祭壇を中心に、壮麗な礼拝堂が彼らの前に広がる。
 上下左右、あちこち見回しながら、ブレンネルは息を呑んだ。
 その一方で、ルキアンは前方を凝視したまま動かない。礼拝堂の真ん中に一人の男が立っているのを彼は見た。
「これは? どうして……。よかった、生きていたのですね」
 ルキアンは思わず駆け寄る。

「カルバ先生!!」

 


2.豹変した師? ルキアンの動揺



 ルキアンが師の名を叫んで飛び出したとき、透き通った金属音が鳴り響き、聖堂を満たした。堂内全体に染み渡るように、音色は長い余韻を残して消えてゆく。その独特の響きを発したのは、スヴァンやコズマスのものと同じ銀の錫杖だった。これを手にした男――つまりは彼も《ザングノ》の一人なのであろうが――白い僧衣を身につけ、フードを深めに被ったカルバの姿は、ルキアンが見慣れた師のものとは大きく違って感じられた。
 いや、衣装以上に、彼のまとった雰囲気、空気感が、これまでとはまったく異なるように思われるのだ。穏やかで貴族的な優雅さを漂わせるいつものカルバとは違う、静かながらも威圧的で攻撃的ですらある威厳に包まれている。
 言葉にならない違和感を覚えながらも、ひとまずルキアンは、師が生きていたことを素直に喜んだ。
「カルバ先生、ご無事だったんですね!」
 彼がそう言ってもう一歩近づこうとすると、カルバは杖の石突きで床を打ち、銀の奏でる音を再び堂内に響き渡らせた。それはある種の警告に感じられる。しばらく無言でルキアンを見つめた後、カルバは直立不動のままで告げた。
「カルバ・ディ・ラシィエンは、先日、ガノリス王国の都バンネスクと共にこの世から消えた。帝国軍の浮遊城塞《エレオヴィンス》の《天帝の火》による攻撃から、あのとき逃れられた者は、ほとんどいない」
 ルキアンは思わず聞き返した。彼にはカルバの言葉の意図がまったく分からない。
「先生、何をおっしゃって……」
「いま君の前にいるのは、カルバ・ディ・ラシィエンではない」
「悪い冗談は止めてください。ご無事で安心しました」
 と、ルキアンは、カルバの研究所で起こった一件を思い出し、言葉を呑み込んだ。うつむき気味に彼が話を再開したのは、間もなくだったが。
「先生、研究所が……ソーナが……ヴィエリオ士兄が、その……」
「知っている」
「えっ?」
 カルバは、若干、声の具合を強めて繰り返した。
「だからすべて知っている」
「何をおっしゃるのです? 僕には何が何だか……」
 突然の再会と、それ以上に唐突に行われたカルバの不可解な言動を前に、ルキアンは頭の中がすっかり白くなってしまったような心持ちになった。眼鏡の下で目を大きく見開いたまま、彼は何か良くない事態を直感的に想定し始めた。
 そんなルキアンの気持ちなど意に介さないような様子で、カルバは淡々と語り続ける。どこか独り言にも似た口ぶりであった。
「カルバ・ディ・ラシィエンという居心地のよい殻を脱ぎ捨てようと決意するために、どれだけの時間がかかったことか。それにもかかわらず、バンネスクでの件を機に意を決したすぐそばから、こういう形で君と再会することになろうとはな。いや、もっとも、君とはいずれ会う必要があった」
「僕と? そんなことより、メルカちゃんが先生のことを……早く、一緒に帰りましょう!」
 そのとき、カルバが微かに失笑したかのようにみえ、ルキアンは目を疑って師の表情を見つめ直した。
「ルキアン、どこへ帰るというのだ。君が言っているのであろう、ディ・ラシィエンの家も研究所も失われ、彼の家族も離散した。いや、そもそも今の君自身にとって、帰るべき場所というのはどこなのだ」
「それは……」
 言葉に詰まるルキアン。たしかに、彼はたった今、ナッソス城の戦場から逃げるように飛び去ってきたところだった。もはやクレドールの仲間のところには居られないのだと。
 押し黙って、目に涙を浮かべ始めたルキアンを、ブレンネルとネリウスは黙って見守っている。特にブレンネルにとってはまったく訳が分からない状況なのだろうが、少なくとも他人が軽々に口を差し挟んではいけない事態なのだということは彼も理解していた。
 息苦しい沈黙が続く中、次にカルバの発した一言がルキアンを揺るがせた。
「《人の子》のところには戻れないと、君自身、内心では思い始めているのだろう、《闇の御子》よ」
「どうして、それを。先生は一体……」
 ルキアンが、もはや驚きの気持ち以上に不信の目を師に向け始めたそのとき、ネリウスは眉間に皺を寄せ、険しい表情でカルバを見た。

 

【第52話 中編 に続く】

※2013年8~9月に、本ブログにて初公開。

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