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昭和天皇と戦争責任

2019年05月23日 | 戦争責任
226事件というのは、1936年(昭和11年)2月26日から2月29日にかけて、皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らが1,483名の下士官兵を率いて起こしたクーデター未遂事件です。

背景には政界の腐敗と農村の困窮がありました。昭和天皇は自ら軍を率いて鎮圧するとまで言い、早急なる事態の収拾を望みます。天皇の怒りを買った時点で、このクーデターの失敗は確定していました。

これを逆に見るならば、天皇には十分過ぎるほどの「政治権力」「軍事統帥権」があったことを意味します。

この一例でもわかる通り、戦前の天皇は巨大な権力を有していました。

陸軍だ海軍だと言っても、巨大な官僚組織であり、構成員は役人です。公務員と言ってもいい。ボスもいませんでした。東條がボスに見えるのは彼が役職についていたからで、彼自身に権力があったわけではありません。役職上、天皇の代理人という立場にあったため、巨大な権力を有していただけです。天皇の信任を失って退陣すると、東條の権力などウソのように消えてしまいます。東條は自宅で畑仕事などをして過ごしていたようです。東條は官僚であり、上司に忠実でした。天皇も官僚としての東條は評価していました。しかし戦争遂行者としては食料補給を軽視し餓死を大量に生み出した無能な男です。その無能さに最後には天皇も気がついたようです。

いずれにせよ陸軍大将や海軍大将で、天皇を上回る権力を持った者はいませんし、持とうともしませんでした。陸軍では参謀本部長がトップですが、東條の前の杉山元など押せばどうにでも動くということで便所の扉とか言われてました。グズ元というあだ名もあります。作戦指導のトップすらそういう扱いだったのです。

陸軍と海軍の特異な点は、天皇直属の官僚組織だった点です。これを天皇の統帥権といいます。内閣から独立した権力でした。

軍隊の作戦行動は全て天皇の裁可を得ていました。天皇は今の象徴天皇ではありません。東條は毎日のように天皇に会い、作戦計画を説明していました。天皇は十分に理解したうえで裁可していたのです。

昭和天皇は1901年生まれですから、終戦時は44歳です。戦中は30代後半、そして40代です。ロボットになるような年齢でもなく、それほど愚かでもありませんでした。

権力には責任が生じますから、権力の行使には慎重でしたが、それでも東條を退陣させることぐらい簡単にできました。実際、東條は退陣時、天皇が慰留してくれることを望んでいましたが、天皇は「そうか」と言ったのみで慰留はしません。天皇の信がなくなったことを悟った東條は退陣します。それ以外に選択肢はありませんでした。

天皇の行動に対し、異議を唱えることは陸軍、海軍ともにできません。直属の上司です。間に総理などはいないのです。

終戦時にはそれが多少幸いしました。「戦争をやめろ」という天皇の指示があり、ほとんど抗命もなく、ウソのように軍隊は武装解除します。当時の言葉では承詔必謹です。

ただし終戦前夜には小クーデターが起きます。一部将校が偽命令を使って皇居を占拠します。終戦阻止が目的でした。具体的には終戦放送のレコードを奪おうとしました。が、失敗します。

この時も、将校たちは天皇の居間である「御文庫」には立ち入っていません。この時点においても、天皇は間違いなく彼らの最高司令官だったからです。しかもクーデターの目的もなく、その後の政権構想もない。つまりは暴発です。

この事件の場合も、実際に天皇の行動に逆らったのはごく一部の将校です。広がりはありません。他の兵隊は偽命令で動員されただけです。陸軍首脳は当然支持しません。あっという間に鎮圧されました。

陸軍大臣は阿南でした。陸軍大臣は陸軍の最高職ではありません。最高職は参謀本部長で梅津です。そうだとしても阿南に将校の統率に対する責任があったことは間違いありません。が、このクーデター進行時に、阿南は切腹してしまいます。結局収拾は田中静壱東部軍管区司令官の役目となりました。彼も8月24日には拳銃で自決します。阿南を責める必要はないかとは思いますが、個人的には事態を収拾してから自殺した田中の方が、人間として立派かなとは思います。

昭和天皇は巨大な権力を有しており、むろん第一等の責任がありましたが、戦後の占領政策の中で、豪などの死刑要求は却下され、その責任は不問にふされました。

昭和天皇自身は、十分に責任を感じていたでしょう。戦後の日々は、贖罪の日々だったと言ってもいいと思います。

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