遊心逍遙記その2

ブログ「遊心逍遙記」から心機一転して、「遊心逍遙記その2」を開設します。主に読後印象記をまとめていきます。

『芸術新潮 2024 4 特集 原田マハのポスト印象派物語』 新潮社

2024-04-11 15:30:41 | 原田マハ
 新聞広告で「芸術新潮」4月号が標題の特集であることを知った。昨年の12月号特集「21世紀のための源氏物語」以来、久しぶりに月刊誌を購入した。
 諸本を読む合間にゆっくりと併読していたので読み終えるのが遅くなった。

 とんぼの本の一冊に、『原田マハの印象派物語』(新潮社)が2019年6月に刊行されている。この読後印象記は既に載せている。今回の特集も、いずれとんぼの本に加わるのかもしれないが、印象派からポスト印象派への時代の推移がどのような物語になるのか、グラビアページにどのような作品が取り上げられるのか、に関心を寄せた次第。

 今回の特集から振り返ると、『原田マハの印象派物語』のタイトルの「印象派」というコトバは広い意味合いで使われているようである。「愚かものたちのセブン・ストーリーズ」の一環として、「セザンヌの物語」と「ゴッホの物語」が取り上げられていた。

 さて、この特集はおもしろい構成になっている。
 特集の最初の見開きには、右ページにオーヴェール=シュル=オワーズの聖母被昇天教会の後陣側の景色、左のページにはフィンセント・ファン・ゴッホがこの景色を描いた油彩の「オーヴェール教会」(1890年)が並んでいる。
 特集の全体は二部構成で、原田マハさんが旅をする形の紀行とその地で出会う絵画等の作品の紹介がベースになる。そして、この紀行において、原田マハさんはポスト印象派に関わる地を旅し、作品を鑑賞する人であり、被写体である。紀行文は編集部が記している。
 <ポスト印象派紀行1> 
   オーヴェール=シュル=オワーズにゴッホを訪ねる
     ゴッホが最後の70日間を過ごしたパリ郊外の町へ--
 <ポスト印象派紀行2>
   ブルターニュ地方にゴーギャンと仲間たちを訪ねる
     19世紀末、若い画家たちが異文化と新たなインスピレーションを
     求めたブルターニュへ--

 原田マハさんの「ポスト印象派物語」は、いずこに・・・・。それは<ポスト印象派紀行1>の構成の中に織り込まれていく。この物語、ちょっとしたSFファンタジー調の設定になっている点がおもしろい。
 プロローグは「パリでばったり出会う」と題されている。パリのアパルトマンに暮らす作家の私が、ある夏の宵に仕事を続けるのをあきらめると良く出かけるカフェで奇妙な男と出会う。「もしよかったら、私に同じもの、一杯おごってくれませんか?」という男の問いかけから始まる。私がパリの街角でばったり出会ったのが、ポスト印象派の画家、エミール・ベルナール(1868-1941)だった。その男は、ズボンのポケットから歌川広重の<名所江戸百景 亀戸梅屋舗>を取り出して、広げてテーブルの上に載せて、言う。「もしご興味があれば、この絵を私に譲ってくれた私の友人の画家たちに一緒に会いにいきませんか?」と私に語りかけたのである。エミールが現代にワープしてきた!?
 ここから5人の画家たちとの接触の物語に連なっていく。
 私が、21世紀のいま、パリのメトロ7号線にエミールとともに乗ったり、レンタルショップでシトロエンC4<ピカソ>をレンタルして運転したりしながら5人の画家に会いに行くという設定なのだ。
 5つの物語とは
  <ゴッホの物語> ルピック通りのドアをノックする
  <ゴーギャンの物語> ポン=タヴェンで黄色いキリスト像を見上げる
  <セリジェの物語> ル・プールデュの食堂で話し合う
  <ルドンの物語> カフェ・ヴォルテールで春風になる
  <セザンヌの物語> エクスで記念写真を撮る

 勿論、5人の画家それぞれと接触する各物語において、私が画家と出会うその場面は、エミールが画家に会いに行く。直接に出会うのは画家とエミールである。私は彼らの時代にタイムスリップし、エミールの近くにいて、エミールと画家の接触を眺め観察して己の思いを語るが、いわば画家には見えない透明人間的存在である。そういう設定で、画家と私の間接的なコンタクトも物語の一部になる。実にファンタジーがあり、おもしろくて楽しい短編小説の連作になっている。
 この5人の画家たちとの接触物語のタイトルには、「-○○とエミール(と私)」という添え書きがある。○○は画家の名前。私が括弧書きとなっているのは上記の意味あいになる。
 5人の画家それぞれにエミールが会いに行く場面の中で、彼ら画家たち、ポスト印象派の絵画論や画家が置かれていた状況、彼らの描いた作品のことなど、史実を織り込みながら、ファンタジーを背景にして物語られていく。 おもしろい物語集である。

 <ポスト印象派紀行1>は、この5人の画家たちとの接触物語と併せてあと2つの構成要素がある。
 1つは、大原美術館館長で西洋近代美術史家である三浦篤さんによる「『ポスト印象派』を理解するために」と題した5ページの概説文が併載されている。「ポスト印象派」という概念がどのように生まれ、形成され、どのような画家たちをさすのかについて、簡潔に述べられている。
 「印象派という呼称が19世紀当時の美術批評から生まれ、そのまま定着していったのに対して、ポスト印象派という用語は1910年まで存在せず、後世に作られた歴史的概念だ」そうである。(p34)そこに根本的な違いがあると言う。「曲がりなりにもグループと呼べる印象派とは違って、『ポスト印象派』はまとまった集団を形成していたわけではない。」(p35)。「少なくともそこに共通するのは、外界の現実を経験的、感覚的に再現しようとする印象派の写実主義、視覚至上主義に満足しない点であるが、彼らはさらにいくつかのタイプに分かれる」(p35)と言う。
 37ページには「ポスト印象派系統図」がまとめられている。ポスト印象派は、第1世代と第2世代以降に区分されている。
 系統図の図式では、第1世代を「新印象派、古典回帰/構築的、象徴主義的傾向、表現主義的傾向/他、ポン=タヴェン派」というタイプに区分している。第2世代以降については、「フォーヴィスム、キュビズム、ナビ派、表現主義的傾向/他」に区分している。詳細は本誌をご覧いただきたい。

 2つめは、原田マハさんが、「印象派以後-モダンアートを創出すること」展担当キュレーターのマリアンヌ・スティーヴンスさんと面談したインタビュー記録が掲載されている。この展覧会は、2023年にロンドン・ナショナル・ギャラリーで開催された。ポスト印象派を再考察する意欲的な企画展だったそうだ。

 <<ポスト印象派紀行2>では、以下の地への旅と芸術作品との出会いなどがグラビアと文で綴られていく。
  カンペール   ”地の果て”の首都
  ポン=タヴェン 画家たちのコロニー
  ル・プールデュ 漁村の旅籠にこもる熱気
  ブレスト    軍港に吹く風
  ドゥアルヌネ  ローズカラーの海

 フランスの北西部にあるブルターニュ地方。その西端に位置するのが「フィニステール県」だというのを、この特集で初めて知った。フィニステールとは「地の果て」を意味するそうだ。ゴーギャンが眺めたというキリスト像、海の景色、地の果ての街並みなどの写真を見て、文を読んでいると、パリから遠く離れたかの地へも行ってみたくなる。

 今まで様々な展覧会・企画展で鑑賞してきた画家たちを、この特集によって、「ポスト印象派」という概念で系統化して捉え直す機会にもなった。楽しめる特集である。

 ご一読ありがとうございます。

補遺
エミール・ベルナール(画家)  :ウィキペディア
シトロエンC4<ピカソ> :ウィキペディア
オーヴェル=シュル=オワーズのゴッホを訪ねる:「メゾン・デ・ミュゼ・デュ・モンド」
ポン=タヴェン :「世界の最も美しい村をめぐる」
ポール・セリジェ   :ウィキペディア
オディロン・ルドン  :ウィキペディア
549 トレマロ礼拝堂、Pont Aven :「長野氏の美術館探訪記」
礼拝堂のトレマロ  :「France-Voyage.com フランスのヴァカンスガイド」

 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『おいしい水』  原田マハ  伊庭靖子画  岩波書店
『奇跡の人』    双葉文庫
『20 CONTACTS 消えない星々との短い接触』  幻冬舎
『愛のぬけがら』 エドヴァルト・ムンク著  原田マハ 翻訳  幻冬舎

「遊心逍遙記」に掲載した<原田マハ>作品の読後印象記一覧 最終版
 2022年12月現在 16冊
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『口語訳 古事記 [完全版] 』 訳・註釈 三浦佑之  文藝春秋

2024-04-10 14:53:02 | 歴史関連
 時折、部分読みしていたが参照程度の利用であり、今に至って初めて通読した。
 手許の本の奥書を見ると、2002年9月の第8刷。本書の刊行は2009年6月に第1刷。刊行当時ベストセラーになっていたことを記憶する。ブームが少しさめた頃に本書を入手したのだが、長らく書棚の背表紙を眺めていたことになる。
 
 『古事記』全体の構成と内容の概略を理解でき、『古事記』の全体像をイメージできるようになった。本書は『古事記』全訳注・次田真幸(講談社学術文庫、上・中・下三巻)、『現代語訳 古事記』福永武彦訳(河出文庫)のように、「現代語訳」という表記ではなく、「口語訳」となっている。
 「天と地とがはじめて姿を見せた、その時にの、高天の原に成り出た神の御名は、アメノミナカヌシじゃ。つぎにタカミムスヒ、つぎにカムムスヒが成り出たのじゃ。この三柱のお方はみな独り神での、いつのまにやら、その身を隠してしまわれた」(p16)
と言う風に、ひとりの古老が語る口調で訳されていく。口語訳というのはここから来ているのだろう。

 内表紙の次に「語りごとの前に」という著者の前書があり、その冒頭は「この本は、古事記のほぼ完璧な口語訳でありながら、古事記という作品を突き抜けようという意志によって貫かれています」の一文から始まる。ここに著者のこの口語訳に対する意気込みが溢れている。
 その末尾に凡例が付されている。その第1項に「神名や人名はすべて、旧かな遣いによるカタカナ表記で統一しました。その意図は、旧かなのほうが原義を復元しやすいのと、カタカナの場合、目から入る意味性が弱まり、音による異界性が浮かび上がるのではないかと考えたからです」と記す。上記の口語訳引用箇所のカタカナ表記はこの意図による。最初、神名・人名のカタカナ表記にちょっと戸惑ったが、古老の語りを読むという形としては、逆に漢字とルビの併用にひっかかることなく、語り口調にすんなりと馴染んでいけたと感じる。
 本書には、末尾に「神人名索引」が設けてある。カタカナ表記の神人名に、古事記の原文表記である漢字の神人名が併記されている。引用箇所を例示すれば、アメノミナカヌシ/天之御中神、タカミムスヒ/高御産巣日神、カムムスヒ/神産巣日神[之命]と併記されている。漢字での表記を知りたいときに便利である。
 古事記の本文内容を知るという点では、古老の語りによる口語訳は、慣れていくとリズムもあり、読みやすかった。漢字名にとらわれることがない分、比較的抵抗感なく読み進めることができた。

 古老の語りという形なので、『古事記』の最初にある太安万侶による「序」は本文に出て来ない。その現代語訳は付録に収録されている。付録の中で現代語訳を読み、古老の語りという口語訳では不要だなと思った次第。
 本文は、「第一部 神代篇」「第二部 人代篇 上」「第三部 人代篇 下」と、『古事記』上・中・下三巻に対応して口語訳されている。各ページの下段にかなり詳しい注釈が併記され、植物や鳥のイラストも載せてある。今回の通読にあたって、注釈は適宜併読したにとどまった。
 口語訳の本文は「なにもなかったのじゃ・・・・、言葉で言いあらわせるものは、なにも。あったのは、そうさな、うずまきみたいなものだったかいのう。/ ・・・・・・知っておるのは、天と地が出来てからのことじゃ・・・・」(p16)という冒頭の二段落の文から始まっている。この部分は著者の補足であり、凡例に「一部に語り部の独白や背景説明が加えられています。その部分は注釈に記したので」と明記されている。注釈で古事記本文との識別が容易にできる工夫がしてある。本文に独白や背景説明が付加されていることが、この口語訳の一つの特徴にもなっている。そこには一つの問題提起を兼ねた視点も含まれているように感じた。
 注釈については、凡例に「時にたんなる言葉の説明を逸脱して、わたしの神話や昔話の解釈に向かっていますが」(p12)と明記している点も、本書の特徴でありおもしろいところと言える。

 本書の特徴をさらに2つ挙げることができる。
 1つは、「古事記の三巻すべてをほぼ忠実に訳しています」(p12)という本文に引き続いて、36ページに及ぶ「古事記の世界(解説)」が併載されていることである。『古事記』とは何か、それをどのように捉えればよいのかが論じられている。口語訳本文を読んでからこの解説論文を読むと、日本の歴史における『古事記』の位置づけがわかりやすくなってくる。
 この論文は、「一 語り継がれる歴史」「二 歴史書への模索」「三 古事記の成立」「四 古事記の構造と内容」「五 古事記の享受史」から構成されている。『古事記』の存在意義を日本の歴史の文脈の中で考えるうえで役に立つ。
 特に次の記述が、私には興味深い。引用する。
*古事記の神がみの物語の中核には、出雲系の神がみを語ろうとする意志がはたらいているのである。それを、天皇家の血筋と支配の正統性を語るために統御しようとして、完全には統御しきれなかったのが古事記であり、日本書紀は、ヲロチ退治神話だけを残して出雲系の神がみの物語を切り捨てることによって全体を統御したのだ。それが、語りの論理に生きる古事記と、文字の論理を内在化させた日本書紀との違いである。 p380-381
*日本書紀は歴史書としての統一性をもつことにはなったが物語としてのおもしろさを欠いた作品となり、古事記は歴史書としての統一性には欠けるが、個々の伝承は読んでおもしろい作品として残されたのである。  p384

 2つめの特徴は、本書がいわば古事記に関する事典的な役割を兼ねていることである。 それは「付録」があることによる。上記のとおり、付録の最初に「古事記 序」の現代語訳が載る。その後に、
  「地名解説」「氏族名解説」「主要参考文献」「神々の系図」
  「歴代天皇の系図」「参考地図」
が収録されている。
 本書末尾には、上記の「神人名索引」「注釈事項・語彙索引」が併載されている。
 つまり、付録の内容と二索引により、本書には古事記に関する事典的な役割が取り込まれている。

 「あとがき」に著者は「本書一冊が手元にあれば、誰もが古事記のすべてを理解でき、原文に戻る必要などないという、私が思い描いていた理想の書物に近づけることができた」(p476)と記す。「完全版」という意味合いはこのことを意味しているのだろう。

 本書を通読したことで、古事記の世界に入りこむ原点ができた。これからはさらに踏み込んで古事記の世界を味読し、読み解きを楽しみたいと思う。
 
 ご一読ありがとうございます。
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『千里眼 背徳のシンデレラ 完全版』 上・下 松岡圭祐  角川文庫

2024-04-08 16:24:21 | 松岡圭祐
 クラシックシリーズの第12弾。このシリーズの最終巻となる。2006年5月に文庫本で刊行されたものに加筆・修正が加えられ、2009(平成21)年に完全版と題して改めて文庫が刊行された。この刊行から早くも15年が経っている。上下巻でなんと実質1,201ページという超長編小説。シリーズの最後を飾るに相応しいロング・ストーリーといえる。

 上巻の目次の次のページに、
 阿諛子、あなたはわたしの子ではない。これを読んだのなら、あなたは変われる。
                    ---友里佐知子の日記より抜粋
という引用が記されている。この一行がこのストーリーを暗示していて、またこのストーリーのテーマにもなっている。

 ストーリーの冒頭は、メフィスト・コンサルティング・グループが一級建築士音無耕市に自白させるために仕組んだ大がかりな心理戦に岬美由紀が介入していくところから始まる。それは100人近くの不安神経症の人々を救出する為でもあった。救助した人々の一人、衣川智子から音無耕市がタイタニック計画ということを口にしていたと聞く。美由紀はこのタイタニック計画の意味を解明し、それを阻止する行動にで出る。これが一つの短編小説風にまとまった導入部になっている。いわば007の最初の導入部のような手法である。
 場面は一転し、能登半島の先端近く、石川県輪島にほど近い山中に建つ白紅神社に。ここは大晦日のNHK紅白歌合戦の勝利組を予言することで有名になり膨大な信者を集めてきていた。この予言を今回限りで打ち切ると宣言した年の大晦日に、鬼芭阿諛子が宮司風知卓彌の前に現れる。阿諛子の再来!! これがこのストーリーの重要な伏線になる。

 場面は二転する。岬美由紀が臨床心理士として日常活動に従事する場面となる。そこにいくつかのエピソード、問題解決が織り込まれて行く。そのプロセスで、ヘジテーションマーク(逡巡創、ためらい傷)、小学生の間で流行の裏技である位置情報を操作する神隠しなどの謎解きが描かれる。これまた、自然な展開の中で伏線が敷かれていく。

 場面は三転する。警視庁捜査一課の蒲生誠警部補と公安部の桜並克彦警部補が美由紀のマンションを訪れる。蒲生の要件はJAI845便の機長の死を殺人と判断し、鬼芭阿諛子への殺人容疑を固めるため。一方、桜並は恒星天球教という危険分子の捜査の一環で鬼芭阿諛子を捜査するためだった。
 白紅神社に鬼芭阿諛子がいる。今29才の阿諛子は宮司になっているという。阿諛子は美容整形している可能性があるので、本人の鑑定のために美由紀に協力してほしいという。美由紀は彼らに同行し、白紅神社に赴く。中核となるストーリーがここから始まる。

 神社社務所内の床の間に紅白の玉と箱が置かれ、その下に敷かれた布の一部がまくれあがっていて、そこからSDメモリーカードがのぞいていることに美由紀は気付いた。美由紀は、持参していた小型のモバイルパソコンにそのSDカードを差し込み、密かにコピーを試みた。
 蒲生・桜並・美由紀は阿諛子と神社で対面する。そのとき、阿諛子は同性同名であるだけで、恒星天球教や友里佐知子とは無関係と反論する。立証という点で反論しづらいところをつかれ、蒲生と桜並は立ち往生する羽目になる。
 巧妙な反論を準備する一方で、阿諛子はこの白紅神社が蓄えた金とこの神社を密かに占拠し、己の願望を成就するための拠点としていた。

 この後、ストーリーは、一旦SDカードに記録された内容に転じて行く。それは縦横にびっしりと並んだ1万ページ以上とおぼしき友里佐知子の日記だった。昭和40年8月7日、佐知子が17歳だった夏の日から唐突に始まる日記である。
 ここから友里佐知子のバックグラウンドが明らかになっていく。美由紀が膨大な日記の内容を読み継いで行く形で、このクラシックシリーズの全体が、友里佐知子の視点、彼女の人生の文脈としてつながっていく。その過程で上掲引用文の意味もまた明らかになる。
 さらに、佐知子の日記を介して、メフィスト・コンサルティング・グループの実態も明らかになる。特に、佐知子を見出したゴリアテ、後にグレート・ゴリアテと称される特別顧問のプロフィールも明らかに。さらに、メフィスト・コンサルティングで佐知子と共に同世代として教育訓練を受けたマリオン・ベロガニアとフランシスコ・フリューエンスのプロフィールも明かになる。フランシスコ・フリューエンスは後にダビデと称する特別顧問に昇進する。
 ストーリーの中核はあくまで鬼芭阿諛子の行動なのだが、少し視点をずらせると、この日記の内容をこのクラシックシリーズでのメイン・ストーリーと受け取ることもできる。過去のこのシリーズのストーリーの場面とリンクしていくからだ。そういう面白さがある。この点はこのシリーズを読み継いできた方にはよく理解できるだろう。
 
 そこで、再び鬼芭阿諛子の視点に戻る。彼女が画策している事は何か。それは、常に母と呼んできた友里佐知子の意志を継ぐこと、国家転覆である。そのためには、まず国会議事堂の破壊と国会議員の殲滅を同時に実行する襲撃作戦を準備し、完遂することだった。この白紅神社はそのための拠点に相応しい立地でもあったのだ。
 恒星天球教・友里佐知子の意志を継いだ鬼芭阿諛子と岬美由紀との最後の闘いが始まっていく。
 「阿諛子、あなたはわたしの子ではない。これを読んだのなら、あなたは変われる。」という一文がどのような意味を持ち、どのように位置づけられていくのか。そこが読ませどころの一つにもなっていく。
 この引用文は本文では、上巻の330ページに日記の文脈の一部として登場している。
 
 このストーリー、心理学的な視点からは、「選択的注意集中」という技法が一貫して利用されていく。この描写が興味深い。
 上巻で敷かれた伏線が、こんなところで結びついてくるのかという箇所がいくつもある。上巻を読んでいるときはわからなかった部分が、ナルホド・・・と感じるおもしろさに転換していく。
 現在実現しつつある科学技術の成果物が、2009年のこの完全版では更に技術革新した形で、先取りされ組み込まれている。そこがおもしろいと思う。ネタバレになるのでこれ以上は触れない。

 最後に、このストーリーから印象深い箇所をいくつかご紹介しておきたい。⇒印以下は付記である。

*運命は五分五分。わたしはそう思っていた。だが、現実は違っていた。予想とは異なる結果があった。運命は変えられる。彼はそれを告げにやってきた。可変の運命、それが未来に違いないと美香子は思った。  上巻p362
   ⇒ 彼、美香子が誰を意味するか。これがターニング・ポイントになっている。

*ひとりの個が自然に持ちうる意識は決して他者の思いどおりにはならない。・・・・・・
 人間とは単純かつ弱い生き物だ、数になびく。反体制という不利な立場を悪とみなし、体制側を善と考えることで、弱者から強者の側へと乗り換えてしまう。・・・・・・悪とみなされる者への弾圧を、正義を守る勇気として正当化する人々が少なくない。それはとんでもない自惚れだ。真の勇気は反体制にある。   下巻p229-230
   ⇒ 友里佐知子が阿諛子を育てる基盤にした思考。
     このシリーズで、岬美由紀の思考とは対極にあると思う。

*あの女医はすごい、もしかしたら超能力者ではないか。そういう好奇心に満ちた興味本位の目が自分に注がれるように仕向けた。マスコミのインタビューでは、非科学的な能力と混同されたくはないと抗議するふりをしつつ、裏側では大衆の好む超能力への興味を掻き立てた。
 庶民は愚かだと友里は思った。科学的な権威であることをしめすリベラルな学者よりも、どこかいかがわしさを伴う特殊な人間にこそ、いままでになかった価値観が存在するかおしれないと感じて、会いたいと欲するようになる。  下巻p254
   ⇒ 大衆の心理をうまくつかんでいると思う。

*以心伝心(テレパシー)はない。真の意味での千里眼は存在しない。だから人は、心を通わそうと努力する。理解しあおうと人を思いやる。そこに人の温かさがある。人の心が見えないからこそ、人に優しくなれるのだろう。そのことに、ようやく気づいた。
 なにもかも見通せなくてもいい。それがわたしんおだから。   下巻p630
   ⇒ 周囲の人は感じていても、成瀬史郎の思いを見抜けない美由紀の内省。
     千里眼シリーズの掉尾に記されたこのギャップの描写がユーモラス!

 ご一読ありがとうございます。

こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『ecriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅸ 人の死なないミステリ』 角川文庫
『千里眼 ブラッドタイプ 完全版』   角川文庫
『千里眼とニアージュ 完全版』 上・下  角川文庫
『ecriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅷ 太宰治にグッド・バイ』  角川文庫
『探偵の探偵 桐嶋颯太の鍵』    角川文庫
『千里眼 トオランス・オブ・ウォー完全版』上・下   角川文庫
『ecriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅵ 見立て殺人は芥川』   角川文庫
『ecriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅶ レッド・ヘリング』  角川文庫

「遊心逍遙記」に掲載した<松岡圭祐>作品の読後印象記一覧 最終版
                    2022年末現在 53冊

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