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遊心逍遙記その2

ブログ「遊心逍遙記」から心機一転して、「遊心逍遙記その2」を開設します。主に読後印象記をまとめていきます。

『白い衝動』  呉 勝浩   講談社

2023-03-14 18:06:40 | 諸作家作品
 先日、新聞広告で関心を持ち読んだ『爆弾』(2022年)の読後印象をご紹介した。
その波紋で、本書が2018年に第20回大藪春彦賞を受賞した作品というのを知ったことから、2冊目として読んでみた。本書は2017年1月に単行本が刊行されている。

 シリアスな人間心理、社会心理を扱う小説である。
 冒頭は、「Aはまだ、人を殺してはいない」という一行からはじまる、太ゴシック体で書かれた2ページの文章である。途中2箇所に(数ページ先)と表記がある抜粋。その内容から何等かの心理分析レポート風の内容と推測できる。この2ページには何の見出しもない。いわば序、プロローグのような位置づけである。おもしろい点は、この小説を読み終えて初めて、読者はそのレポート風の文の持つ意味を掴めるというところにある。ストーリーを読み進める上でかなりトリッキーな伏線になっていくのが特におもしろい。

 このストーリーの中心になる人物は三十路を過ぎている奥貫千早。千早は天錠市にある私立の天錠学園でスクールカウンセラーをしている。元は白川大学を卒業し、心理学者・精神分析家の寺兼英輔の研究室で働き、研究者を目指していた。しかし、あることが原因で職を辞し、スクールカウンセラーになった。大学で千早は社会心理学の分野において、「社会に適合しにくい他者に対して、社会の方がどう振る舞うのか」という問題を研究テーマとしていた。彼女は包摂という用語を使う。だが、恩師の寺兼は千早の考え方に反対していた。一方、千早は寺兼をマッドサイコロジストとすら呼んでいた。
 千早の夫・紀文は、天錠市にあるラジオ局に勤務し、夕方の報道番組のメインパーソナリティを務めている。

 ストーリーは、2つのテーマがパラレルに進展しつつ交点ができる形に進展していく。
 一つのテーマは、千早が学園内のカウンセリングで直面する問題事象にどのように対処していくかである。このストーリーでは基本的には2つのケースが進行する。
 一つは中等部二年生の桜木加奈のケース。友達関係での身近な悩みを投げかけてくる一方で、学園内で起こっている話題などを千早に提供してくる。シロアタマごっこが流行っているとか、シロアタマが山羊のゲンジロウを苛めたという噂とか。山羊の足の腱が鋭利な刃物で切られていたという事件は、既に教職員の間で重要な問題になっていた。
 二つめは、高等部一年の野津秋成のケース。彼が千早の居るCルーム(相談室)を訪ねてきたことが始まりとなる。彼の質問は、カウンセラーはどんな能力を持っているのかから始まった。その会話の先で、秋成は山羊の足の腱を切ったのは自分だと告白し、「ぼくは、人を殺してみたい」「殺すべき人間を殺したい」と淡々と宣言し、「誰か、先生にとって邪魔な人間はいませんか?」「ぼくに、その人を殺させてくれませんか?」と投げかけてきたのだ。千早はカウンセラーとして、秋成との関わりを深めていく。
 読者にとっては山羊の問題を含め、またカウンセラーの守秘義務という側面とも関わり、秋成の宣言がどのように進展していくのかにひきこまれていかざるを得ない。千早が秋成に対処する心理学的アプローチも含めて、興味津々とならざるを得ない。

 二つめのテーマは、犯罪者が刑期を終えた後に社会復帰する際の現実問題にどう対処できるかというものである。
 関東連続一家監禁事件が16年前の秋に発生した。連続で起こった三件の事件である。一家族を監禁し、両親には暴力を働き拘束。娘を両親の前で強姦した上で、マーキングのように娘の身体を損傷したという事件である。3件目の娘の場合は耳の鼓膜と両目を潰したのだ。その娘が出血で死ぬことを恐れ、現場の家から救急車を呼ぶ。その上で犯人入壱要は現行犯逮捕された。求刑は無期懲役だったが、判決は15年だった。
 16年前、大学4年生の入壱要は長野県の出身中学で教育実習を行っていた。この時、千早はその中学校に通っていて、教育実習の対象者の一人だった。その数ヶ月後に事件が起こった。千早の通う学校に要請を受けてやってきたカウンセラーの説明を聞き、それをきっかけに千早は心理学に興味を抱くようになった。一方、入壱についての記事や噂話を集めるようになる。

 入壱要が刑期を終え、天錠市に住む親戚が身元引受人となった。身元引受人は自身が経営するアパートに入壱要を住まわせた。入壱の社会復帰が始まる。
 このストーリー、入壱要が天錠市に住んでいるという事実が公然化されるハプニングにより、市民間では大問題化されていく。
 奥貫紀文がメインパーソナリティを務めている夕方のラジオ報道番組にゲストとして迎えられた人の発言に端を発した。犯罪被害者支援として「リ・ファーム」の活動をしている代表者で、ゲストだった白石重三が、番組での対談の最後に、紀文が想定もしていなかったこと、入壱要の現住所を意図的に話してしまったのである。そのこと自体がラジオ局にとっては大問題となる。更に、このラジオの人気報道番組を視聴していた市民たちに与えたインパクトが大きなものとなっていく。

 この小説、入壱要という犯罪者の社会復帰という問題を軸としながら、それに関わる様々な立場の人々の心情、意識と関心、意遣・行動などが鮮やかに織りなされていく。一方、野津秋成が千早に宣言した殺人衝動という問題とその対処がパラレルに進行していく。

 千早が学園内の相談室で行う会話に、カウンセリング手法の一端の描写が織り込まれたり、カウンセラー同士、あるいは千早と寺兼との間でカウンセリングや心理分析に関わる会話などが織り込まれて行く。このストーリーの雰囲気・環境作りは十分である。
 学校や市が問題事象にどのように対応しようとするかという視点での描写も要所に描き込まれていく。良識派と称する週刊誌の記者も登場する。マスコミのスタンスの一端がうまく織り込まれて行く。寺兼が形だけは社会復帰している入壱要の精神鑑定を引き受ける事になり、千早がその場の書記役となる立場で関わらざるを得なくなる。この展開も興味深い。さらに、千早の子供時代について、妹・小万智とのトンネル池での原体験も明らかにされていく。巧みなストーリー構成になっていると思う。

 このストーリーには三つの際だったピークがある。
 一つは、天錠学園恒例の天錠祭の当日に学園内で起こる事件。それに入壱要が絡むことに。この事件について、学園内のCルームに居た千早が事実の解明に全力を投入する。このミステリー・タッチのストーリー展開が読ませどころとなる。
 二つめは、千早自身の問題、及び千早と紀文との問題が明らかになること。叙述は所々での伏線を含めても、相対的に短いボリュームで叙述されるが押さえ所と言える。
 三つめは、千早が野津秋成と最後に会話をする機会の状況が描かれて行くこと。
 後は、本書で楽しんでいただきたい。

 最後に、千早のスタンスを表す思いを一つ引用してご紹介しよう。
「入壱要や野津秋成のような人間と折り合いをつけられる社会を求めるのは、回り回って、それはあなたのためなんだ。あなたが、何かの拍子に人を殺してしまったり、心を病んでしまった時に、それでも幸福を諦めなくてもいいように。」(p306)

 ご一読ありがとうございます。

補遺
臨床心理士とは   :「臨床心理士資格認定協会」
異常心理学  :「コトバンク」
異常心理学  :「科学事典」
精神分析とは :「日本精神分析協会」
精神分析学  :ウィキペディア
認知行動療法とは :「認知行動療法センター」
対象a ⇒ 小文字の他者 :ウィキペディア
ラカンの用語の解説  :「池田光穂のウェブページ」
ジャック・ラカン   :ウィキペディア

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

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