あなたの周りには「不快な言動」を行っても平然としている人はいないでしょうか。連日ニュースで報道されている財務省の福田財務次官の女性記者に対する1年半にわたるセクハラは、まさしく「不快な言動」であり、神エホバにとって否とされている言動です。聖書にはこのように警告が記されています。「・・淫行やあらゆる汚れまた貪欲(性の不道徳の欲望も含まれる)が口に上ることさえあってはなりません。また、恥ずべき行い、愚かな話、卑わいな冗談など、ふさわしくない事柄があってもなりません」(エフェソス5:3,4)。セクハラ行為は、みだりな振る舞いであり、非道な行為です。男性と同じく神の像(かたち)に創造された女性を辱め、人権侵害であること、愛のない人であることを銘記して欲しいものです(創世記1:26,27)。
今日も引き続き、「愛に含まれない事柄」をお伝え致します。注意深く愛に含まれない事柄を生活から排除してくだされば嬉しく思います。
3.「みだりな振る舞い」(コリント第一13:5):みだりな振る舞いをする人とは、見苦しい、あるいは不快な言動をする人のことです。そのような言動は愛に欠けたことです。他の人の気持ちや福祉を全く無視していることの表れだからです。それとは逆に、愛には慈しみという特質が含まれており、それは他の人に思いやりを示すよう人を動かします。福田財務次官の言動や政府の対応は、このことが全く表れていませんでした。愛は、良い行儀、敬虔な行状、他の人への敬意などを促します。それゆえ、愛のある人は、「恥ずべき行い」をすることがありません。つまり、他の人たちを傷つけたり、ショックや不快感を与えるどんなみだりな振る舞いもしないのです(エフェソス5:3,4)。
4.「自分の利を求める・利己的」(コリント第一13:5):愛の人は「自分の利を求め」ません。他の訳ではこの聖句を「愛は自分の方法に固執しません」と訳しています。愛のある人は、まるで自分の意見がいつまでも正しいかのように、すべてが自分の思い通りに行われないと気が済まない、ということがありません。立場を利用したり、説得力に物を言わせて見解の異なる人を圧倒し、人を操る言動も、利己的な自己主張を続けることもありません。そのような強情な人は、誤った誇りの表われであり、聖書は「誇りは崩壊に先立つ」と述べています(箴言16:18)。他の人を本当に愛している人は、相手の見解を尊重し、可能な場合には快く譲る態度を示すでしょう。進んで譲る精神は、次のパウロの言葉と調和しています。「おのおの自分の益ではなく、他の人の益を求めてゆきなさい」(コリント第一10:24)。イエス・キリストは「受けるより与えるほうが幸福である」と、教えられました(使徒20:35)。利他的な生き方を求める方々は幸いです。
次回も、引き続き「愛に含まれない事柄」をお伝え致します皆様方も、愛に含まれない事柄を確固した態度で退けてくだされば、嬉しく存じます。
セクハラを 恥じぬ高官 アザミ咲く 今日の一句
庭に咲いている「白花モチツツジ」