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映画 オペラ座の怪人

2024-07-13 00:31:53 | 日記

映画 オペラ座の怪人

 もう20年くらい前の映画だと思うがCGのない時代によくこれだけの映像を撮ったと感心する。あの時代は映画造りの良心があった時代だった。どうして撮影したのか、だれがこの撮影方法の案を出したのかとそればっかり考えていた。

 日本ではこんな大人の純愛は流行らない。何かありもしないシラジラしい作り物に感じてしまう。曾根崎心中お初徳兵衛の話があるじゃないか、あれで皆泣いたじゃないかと言うかもしれないが、あれは状況を説明する近松の名文のリズムに泣いたのである。徳兵衛は大坂の商家に雇われている、大阪の商家では、当時の三十を超えてもなかなか結婚はゆるされない慣習であった。それなら、大人の純愛も起こりうるから世間はこの話をありうるとしただけである。ああ自分もあんな純愛してみたいとは、だれも思わなかった。

自分のことは棚に上げておいて、他人の心情の中に一時的に入り込んでおいて、その他人の心で今の自分を見て今の自分の反省をするという離れ業をしたいがために、物語を聞きに行ったのである。我が国では、恨みを持つことなら流行る。お菊さんもお岩さんも起こりうる話として皆没入したのではないか。没入しながらも日常の自分を冷静に見返りをして、次の日から自分はもう少し上手に生きようと決心したはずである。

 西洋でもこんな大人の純愛はおかしいと思ったはずと推察されるのになぜ流行ったのか。しかも状況の設定は荒唐無稽である。お初徳兵衛は実話であるから滅多に起きないこととはいえ まだ感情移入できる。しかしオペラ座で実際に怪人は出てきそうにない。こんな状況設定では、観衆は他人の心情の中に入り込めそうにないのに若い女性は見事に入っている。つられて若くもない他の観衆も没入する。

 ポイントはオペラ座にあって怪人にはないと考える。劇場は、女優に光を当てる場である。ヒトは(犬猫は決してそう思わないが)ライトにあたりたいと冀う(こいねがう)動物である。オペラ座では、怪人のおかげで女優に光が当たった。その光が当たった女優に感情移入できるしするのである。

もし、これが牛小屋の屋根裏に怪人が住み着いていて乳搾りの女性と恋に落ちても、観客は感情移入できないしその映画はヒットしなかっただろう。同じように、紡績工場の屋根裏に怪人が住み着いていて女工さんと恋に落ちてもダメである。女性は恋に落ちたいとは思っていない、光に当たりたいと思っている。

人々の中にライトに当たりたいという願いがあることを見抜いたことが、原作の凄いところである。

 



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