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東日本のヒトのための奈良市観光案内④

2024-08-12 10:37:23 | 日記

東日本のヒトのための奈良市観光案内④

戒壇院を出て北側(大仏殿と反対側)へ行くと正倉院に至る。ここは中は見れないのであんまり感激しない。ここから西に向かうと手貝門(転害門)に出る。これは、南大門のように仁王様が立ってるわけでないので観光客も少ないし来て嬉しいという感じがしないのだが、創建以来の門であるという。他の建物は皆一遍は燃えたりしているのに他から離れているだけあって、燃えなかったという。

源頼朝はこの門の下をくぐって大仏殿に向かったという。(多分二代目大仏の開眼法要のときであろう。1185年)大仏は平重衡によって燃やされ、源氏の手によって再建された。この門のそばには観光案内所があったから、もし今もあれば他にも何とかというヒトが江戸時代ここで決闘をしたというようなお話が聞けるかもしれない。

これは私の妄想であるが、この二代目大仏様を再鋳造するときの銅は当時流通していた宋銭を鋳つぶして作ったのではないかと思っている。平清盛は宋銭の輸入で大金持ちになって権力を握った。ところが当時貨幣が増えると貨幣価値が下がって物価が上がるという知識がなかった。(または知っていて無視したのかもしれない。)現に家の裏から宋銭の入った壺が出たのでやれ嬉しと「何でも鑑定団」に出したところ残念な結果になったことがある。宋銭は今でもあちこちにあって値打ちがないそうである。頼朝は大仏を見せてこのように宋銭は少なくなりましたよといえばインフレも収まると見たのであろう。同じことを鎌倉の大仏でもやってるのかもしれない。

平清盛は、熱病でなくなるとき水をかけると水蒸気になってそれが白い煙のようであったとかの記述がある。そんなことあるわけないのにいかにも苦しんだように書くのは、インフレに対する人々の恨みであるとわたしは考えている。苦心惨憺して貯めた銭の値打ちがなくなったのである、そんな風に書いて仕返しをしてやろうとの筆者の気持ちの表れとみる。ということは、この水蒸気になったと書いた筆者は気の毒にも銭を貯めたヒトであろう。

 

忘れていた。大仏殿に入る前に通る門が南大門で運慶快慶の仁王像がある。このあたりがシカも餌をおねだりできる場所なので多く出張っている。南大門は宋時代の様式で作られているので多分二代目であるだろう。この像を二人はたった数十日で拵えたという。部品に分解して弟子に作らせるのであるがよく部品の設計ができたものである。相当空間把握能力の高い人である。さらに見るヒトを驚かせてやろうというエンターテナーの心意気を持ったお二人である。

お二人はそのあとどうやら違う道を志したようで、快慶はややおとなしい像を作ることになる。快慶の作った像は例えば京都三十三間堂のあの千はあると言われる膨大な仏像の一部にあるそうである。