東日本のヒトのための奈良市観光案内⑩ 奈良まち案内など
元林院をこえてさらに西に(市街地)のほうへ奈良公園の中をいくと、先ほどの猿沢池の南側に出てくる。かなり広い一帯で奈良町という。私の小さかった頃は古い住宅地であった。おそらくはお寺に物資を納入するお店や、お寺修理の大工さんが住んでいたと思われる。だんだん時代が進んで物資納入がどこからでも取り寄せられるようになると、こういういわば城下町みたいなものが必要なくなってきた。そこで御住みになっている人々が、この街並み景観を残して観光客お相手の街にしようとされているまちである。もう半世紀になるがやっと成功しそうなところである。古民家改造のカフェのそばに古い漢方薬屋さんがあったりしてこういう風情が楽しいという方はどうぞ。シカやカメや仏像が大事という方は飛ばしていただいていいと思う。御飯はここでお食べになってもいいし、先ほどの荒池付近の料亭でもいい。奈良公園を見ながら食べるのなら料亭であろう。最近はフランス料理店もできたと聞くが詳しくは知らない。
奈良町の中には古いお家の内部を常時公開をされているのがある。(無料)離れがあって、子供は離れで暮らしているが家督を引き継ぐとき、親が離れに移り子供は母屋に移るという。お互いに独立してそうで依存しあうという独特の文化が古い家から読み取れる。(これでは親が長生きして孫が大きくなるとどうするつもりだと突っ込みを入れたくなる。)
ここには奈良町資料館という常時公開の施設がある(無料)。この資料にみると意外にも、歴代奈良町奉行(奉行所は今の奈良女子大のところにあった)は、江戸で老中をするようなヒトの第一歩であったことが読み取れる。教科書に出てくるような偉い人の名前が出てくる。大きなお寺の中で出世競争を勝ち抜いてきた長老相手に、いかに今後出世を約束されているエリートとはいえまだ若いのでずいのでぶんご苦労があったろうと同情する。ここでもまれておけば、江戸城内の意地悪合戦なんかなんともなかったのかもしれない。
わたしは若いころ奈良の発展しない原因は、お寺の中の出世競争に伴う意地悪の文化が町全体を覆っているからだと思っていた。それもありかもしれないが、多分一番は江戸から孤立していたからだろう。天領だから参勤交代がない(これは大きかったと思う、江戸勤番侍が居ないのである)。街道沿いでないから物資文化の移動がない。灘は酒を造って江戸に送った。大阪は松前の昆布と土佐の鰹節と和歌山の醤油でだしを作って美味しいもの文化を作った。(物資の集散地だから食べ物だけに限らないが)京都は、キモノを江戸に売り込んで美の文化を作った。
街道沿いにないことは、文化が変化しないと考えられる。近頃目覚ましく変わってきたとは思うが、日本の中世(応仁の乱の前の頃)がそのまま保管されているようなところがある。もしリニア新幹線が奈良を通れば、江戸時代明治維新を飛ばして一気に近代に入るかもしれない。日本の中世を見たければ今が最後ですぞ。
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