小説 徐福と童男童女3000人の子孫 ⑩
日本に帰ってきてからのことは、いろんな人があちこちに書いてくれていますので私が言うまでもないでしょう。東寺や神護寺の住職を務めたり、嵯峨天皇とは同じ目線で話し合いが出来たりとありがたくも引っ張りだこの時代でした。このころ朝廷の儀式の一端には私が持ち帰った儀式の作法が取り入れられたのです。今でも東寺では朝廷の儀式の一端を担っているのです。
宗教は、近代になってからの皆さん求めているような悩みの相談や個人の生き方人生方針の立て方に係る、そんなものではないのです。すべてを包摂するものでその中でも意外にも儀式儀礼に関するものが大きいのです。現に孔子君の発明した宗派では、威厳のある態度物腰を最重要視します。老子君や荘子君の発明した道教は、お二人の性格から考えて儀礼とは関係ないように見えますが、それでも庶民の心のよりどころになるためにはまじないや儀礼の要素がたっぷりと入っています。
京の都にいつまでもいては、私の目指す千年王国建設計画がなりません。最初はふるさと四国にと考えたのですが、時の権力から離れすぎています。最澄君のようにあんまり都に近すぎると弟子たちが、都の繫華なのに目がくらんで勉強がおろそかになってはいけません。ちょうどあの別動隊が上陸し水銀採取した山がいいのではないかと、あの山を高野山と名付けここに伽藍を建設することにしました。ここは私が連れてきた当時は童男童女であった部下の住んでいた土地です。土木に詳しい彼らを指揮して草深い地でありますが、信仰の対象になるような立派な建物を建設しました。
水銀採取は秘密の仕事で、女人禁制の伝統があってその制度は守り続けました。本当に女人禁制にしてしまうと子孫ができないで教団が滅んでしまいますので、三日に一度、月に九度降りていくところは昔通りです。他の人はここで家庭を営むのですが、私は特別ですのでここに四国から呼び寄せた母親を住まわせ三日に一度山を下りて親孝行をすることにしました。
これだけでは私の生活に彩(いろどり)がありません。彩も準備しておきました。それは、私の彫刻した如意輪観音像をご覧になっていただければわかっていただけると思います。これは本当は絶対秘仏にして誰も見れないようにしておきたかったんですが、それじゃあるのか無いのかわからなくなりますので、年に2日だけ虫干しもかねてちらと見せるようにしてあります。もっとも、私は書道家でかつ文章家までで、本当の彫刻は無理です。仏師にモデルを紹介しこういう意図でこのように彫ってくれと注文を付けただけです。ため池を掘ったり、墨を作ったり、暦を作ったりと、もうありとあらゆることを私がしたように言ってくれるのはありがたいことですが、みんな私の手下や弟子がやったことで、私はこういうことをやろうと提案しただけなのです。
わたしは、自分がいなくなってもこの千年王国が分裂したりしないように作戦を立てねばいけません。最澄君のとこはいろいろの流派が出来そうです。あのようにならないために、「師より受け継いだものを改変してはならない。」を徹底しました。また、閻魔君の書斎に行って自分の寿命を無限に引き延ばしておきました。無限に自分の部下後継者を督励するためにです。それでこうやって日に2度の御飯を食べながら昔の思い出話をすることができるのです。
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