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戦後昭和の思い出(成熟について)②

2024-08-01 10:43:06 | 日記

戦後昭和の思い出(成熟について)②

テレビはなくとも小さい子供は、いろんなことを世間から教わった。担任の大西先生(仮名)からはシベリアの寒さや飢えや厳しい労働よりも、女のヒト二人の方が恐ろしいということを教わった。そういえば自分の父親もインパール作戦でひどいメにあっても生還した体力と運の持ち主であったが、自分の母親にはかなりの苦戦である。一人でもこうであるから女のヒト二人というのは絶対避けねばいけないとの教訓をこの齢十にして得たのである。(この教訓は結構役立った。)

家の近所の女の人々は「○○講」というのを結んでいた。月に二回くらい女のヒトだけで近所の米屋の大きな座敷に集まって直径が三メートルはあろうかという巨大な数珠を皆で回しながら御詠歌だと思うが歌を歌うのである。子供なら男の子でも参加できたようで私も小学4年生くらいまで数珠回しをした。歌のあと二つか三つくらいのグループに分かれてお茶と駄菓子で世間話をするのである。米屋のおかみさんは当時四十くらいの美人であったがこのグループの間を回って世話を焼いている。これを見て母親はわたしに

「米屋さんは財産があるから代々美人のお嫁さんが来るんや。その血が重なるから米屋さんには美人が生まれる。」

と教えてくれた。そういえば、米屋のお嬢さんは大変な美人だし私より一回り違うので一緒に遊ばなかったが米屋の息子も美男子である。

当時の学校のセンセイは、つねづね

「遺伝というものはない、努力によって差ができる。」〈㋐〉

ど言っていたがこの光景を見る限り美人のお家からは美人が生まれるのは間違いのないところであるからセンセイは嘘を教えていたと断言できる。それが何らかの悪意をもっていたかどかはまた別である。おそらく理想と現実が頭の中で区別できない人であったのだろう。(頭の中で理想が現実を凌駕しているひとである。)

その後十年ほどしてから〈㋐〉の説は、アメリカの何某というヒトの学説であり「仕事の上での遺伝というものはない、努力によって差ができる。」〈㋑〉というものであることを知った。これを〈㋐〉のように教えたのは重大な教えまちがいであり当時の学校のセンセイはこのようにほんの少しのことでも勉強不足のヒトが多かった。〈㋐〉と〈㋑〉には重大な差がある。しかし、子供たちはそのような先生の間違いを指摘したり苦情を申し立てることはなかった。当時の子供たちは、複雑な受験問題を解く勉強をしなかったがこのように大人たちに対して十分に大人の対応をしてきた。

当時の子供たちは現実の中で生きていたのである。たとえセンセイが教壇でしゃべっても〈㋐〉のような理想論を鼻の先で笑っていたのである。まあ先生も生活がおありですからと思っていたのである。あれはあのように教えとかんとあかんのやろなと同情していたのである。難解で複雑な受験問題を解くようになってから急に先生は児童生徒にとって偉い人になってしまった。だから子供が現実を見なくなったのである。さらにテレビネットの出現によって児童生徒は現実の中で生きることが難しくなったように見える。

ついでにこれらの現実を見て当時の私は財産のない当家にはきれいなお嫁さんが来ないことを覚悟して、それはついにその通りになってしまった。テレビネットをどれだけ視聴しても、また難解で複雑な受験問題をどれだけ解いても現実を変える力はないのである。