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東日本のヒトのための奈良市観光案内⑨ 奈良芸者の話など

2024-08-17 10:09:45 | 日記

東日本のヒトのための奈良市観光案内⑨ 奈良芸者の話など

春日大社の鳥居を出た道路(東西に貫く)が三条通りで一番栄えている通りである。京都も三条通り四条通りが栄えている。この鳥居を出てすぐ左に曲がると大きな池があって荒池という。名前が荒々しくとも雅なお堂(浮御堂、浮見堂どちらが正しいのか知らない)が池の上に(ほとりにではない)建っている。この付近には料亭や大きなホテルがある。ここから市内よりに入ったところを元林院という。このあたりを歩くとかなりの頻度でやや地味な和服を上品に着た妙齢の女性に出会う。大抵は二人連れ三人連れで一人でというのは見たことない。

恐らくこの女性が芸者さんなのだと思う。置屋さんもこの付近にあると考えられる。お座敷に上がるときの衣装は見たことがない。ましてや白塗りのお化粧は見たことがない。なぜ、地味な和服で街にお出になるのかも知らない。小さいころわたしは呉服屋の宣伝員だと思っていた。知りもしないことを書くのは気が引けるが、京都の祇園が有名なのにこちらが有名でないのは気の毒だから紹介したい。

 

中国の朝廷には、女性に踊りを教える学校(内教坊というらしい)が付属してついていたという。民間が力を持ち出すと、皇帝ばかりが踊りを楽しむのはけしからんとして民間が学校をつくってこれを外教坊というらしい。朝廷が衰微した時内教坊から外教坊へ人が移動したであろう。それとよく似たことがヤマト朝廷でも起こったはずである。朝廷内に踊りの伝統を教える必要があったはずである。しかし京に移るときに連れていく余裕がなかったのではないか。そのままになった人々が、踊りで生活していけるようにシステム化したものが奈良芸者ではないかと思う。京都の芸子さんもおなじような出発点ではないか。ただ幕末の頃に勤王の志士そのほかとお付き合いがあって名前が売れた。奈良はそこがなかったので有名になれなかった。

奈良も京都も内裏に向かって右側の三条四条のあたりに芸者さんの仕事場がある。自然にそうなったとは考えにくい。そういう都市設計の思想(風水)があったのではないかとおもうがどうだろうか。

一方雅楽の方もそのままになった人が、時代やお客さんの趣味嗜好に合うように変化していってお能になったと考えられる。奈良まちの中だったと思うが、お能発祥の地の石碑が建っていた。さらに興福寺では屋外で催されるお能「薪能」が(秋だったと思う)ある。(お能は謡や笛の音が値打ちで屋外ではよくないと思うのだが。)

京都では、天皇さんが東京にお移りの時和菓子の係のヒトはつれていけなかったので、京の和菓子は今でも美味しいという話である。桓武天皇が同じようなことをしたかどうかは知らない。ただ林小路というのが三条通り沿いの繁華街の中にあって、ここは中国から饅頭の製法を伝えたリン(林)何某というヒトが住んだところだという。今は飲み屋さんの連なる場所である。林さんは饅頭の製法だけでかなり大きな屋敷に住んだようで、林小路はかなり広い。



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