映画「ひまわり」と「シェルブールの雨傘」①
この二本は競作だろうと思っている。たぶんビットリオ・デ・シーカ監督とジャック・ドミィ監督が
- 売り出し中の大女優と名曲として残る音楽を使う
- 鉄道の場面を有効に使う
- 戦争で引き裂かれる恋愛が平和になっても復元しない様を描く。両者は再会するが元のさやに納まらないで悲恋に終わる。
- 男が苦しんで売春宿へ行く様子をごく短時間挿入する
- 男は恋人との間の子と新しい家庭の子と二人の子供を持つが、このことで別に悩まない
などの約束のもとに全く別の手法で映画化して両方大成功した。戦争が終わって平和の時代が始まったことを宣言するともとれるし、戦争とは残酷なものですと言っている様にもとれる。または、いつの時代でも恋愛は悲恋に終わらないと恋愛にならないのであるが、戦争のおかげでこの二組の恋人は恋愛を完成させることができたのであるとの皮肉を言っているような気もする。(恋愛結婚するとその恋愛が変質してしまって全く別物になってしまう。ちょうど炊いたご飯が長い時間たつとどぶろくまたは腐ってしまうのと同じで全く別のものになってしまうのと同じである。これは恋愛のもっている逃れられない宿命である。この宿命を描いているとも見れる。恋愛にこの宿命あることを知るのは人生の大事な智慧であってその智慧を2時間で教えてくれた大事な映画である。)ヨーロッパの映画であるからいいように見せかけておいて皮肉を利かせることはありだろう。
わたしは、二人の恋愛している時代の描き方が両方の映画とも冗漫であることにやや不満である。見せ場がラストシーンであってここはどうでもいいと手を抜いたとしか思えない造りである。また売春宿の話は無駄な寄り道であっていっそない方がいい。
そこを除けば甲乙つけがたいが、わたしはシェルブールの雨傘の方を上にしたい。カメラワークがこの時代の映画にしては凝っている。ドローンがないのであるから多分クレーンだと思うが、よくあのなめらかな撮影ができたと感心する。それに印象派の絵画の色使いが映画の中に十分生かされている。パリに美術館が立ち並ぶのは無駄ではないことのよくわかる作品である。
それから、登場人物の男二人は悲恋に終わるようで実は完結した恋愛を味わった上に、実は托卵(男だから托卵は妙な表現だけど)しているのである。結構幸せな理想的な人生じゃないかとも思う。