十握神社(とつかじんじゃ)。
場所:茨城県稲敷郡阿見町廻戸421-2。「室崎神社」(前項)境内前から北西へ道なりに約650mで、信号のある交差点(「福祉センターまほろば→」の案内標識がある。)を右折(北東へ)、約60mで左折(北西へ)、約130mで「福祉センターまほろば」がある(駐車場あり。)。「十握神社」は、その先の突き当りを右折して(北へ)直ぐのところに参道入口がある。
当神社については、常陸国信太郡の式内社(論社)「(竹来)阿彌神社」(2018年5月5日記事)、「室崎神社」(前項)とともに「竹来三社」と称される神社で、祭神は経津主命とされる(「竹来三社」については前項参照。)。「茨城縣神社誌」などによれば、明治41年、常陸国信太郡のもう1つの式内社(論社)「(中郷)阿弥神社」(2018年5月12日記事)に合併されたことになっているが、...現存している(詳細不明)。現在地は、霞ケ浦を見下ろす台地上の先端で、南東に約800mのところに「室崎神社」、同じく約1.5kmのところに「(竹来)阿彌神社」があって、地図で見ると「竹来三社」はほぼ一直線に並んでいることになるが、これは何か意図的なものなのだろうか。
ところで、現在の当神社の境内地は細長い形になっているが、この台地上の全体に「廻戸城」という中世城館があったらしく、当神社もその城域内だったとみられている。「廻戸城」も詳細不明だが、天正年間(1573~1592年)には土岐大膳大夫の家臣・高野次郎八郎の知行地であったという。「福祉センターまほろば」の場所が城館の中心部だったようだが、遺構は殆ど残っていない模様。また、「福祉センターまほろば」入口の右手(南東)斜面に「廻戸貝塚」という縄文時代中後期の遺跡があり、主としてハマグリ・アサリなどの貝殻のほか、土器片や石器類も発見されている。つまり、先史時代から、霞ケ浦を見下ろす、住みやすい場所であったということになるのだろう。
蛇足:当神社の社名の由来は不明だが、「十握」といえば、「十握剣」が連想される。「握」は長さの単位で、握り拳の幅を言うので、「十握剣」は固有名詞ではなく、10握の長さの剣一般を指す。「握」の長さは明確に何cmとは決まっていないようだが、10握といえば概ね80cm前後と思われる(古代の剣なので、刃と一体となった柄の部分を含めた全長だろう。)。「十握剣」とされるものはいくつかあるが、例えば、「出雲の国譲り」の場面で、建御雷神が十握剣を逆さに突き立て、その切っ先の上に胡坐をかいて、大国主神に対して国譲りを迫っている。この剣は、後に神武東征の折、神武天皇に与えられるが、「布都御魂(韴霊)(ふつのみたま)」という名であるとされている。ところで、「葦原中国平定」の場面で、「日本書紀」では、派遣される雄々しい神として選ばれたのは経津主神で、建甕槌神(建御雷神)は副官という扱いとなっているが、「古事記」では経津主神は登場せず、建甕槌神と天鳥船神が派遣されたことになっている。そして、建甕槌神の別名を建布都神(タケフツ)または豊布都神(トヨフツ)というとしている。そこで、「フツ」というのは剣が断ち切る様や音を指すということから、経津主神は剣の威力を神格化したものではないか、あるいは、建甕槌神と経津主神は同一神ではないか、という説もある。
写真1:「十握神社」参道。境内の奥は崖で、左手の道路は崖下への急坂となっている。
写真2:社号標。実際にはかなり傾いていて、社号標を垂直のように撮影したら、奧の鳥居が傾いた変な写真になってしまった。
写真3:鳥居
写真4:拝殿。手前の円く見えるのは、土俵。
写真5:本殿
写真6:台地の先端部分にある境内社(「稲荷神社」と思われる。)
写真7:「福祉センターまほろば」。建物の背後の樹林で当神社と隔てられている。
写真8:「福祉センターまほろば」敷地から見下ろす霞ケ浦(北東方面)。奥に見える陸地は、現・かすみがうら市。
写真9:「廻戸貝塚」説明板
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