神が宿るところ

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下総国亭(庁)跡

2012-09-08 23:41:04 | 史跡・文化財
下総国亭(庁)跡(しもふさこくちょうあと)。
場所:茨城県常総市国生。県道136号線(高崎坂東線)「長塚節生家」案内標識のところを東に入り(式内社「桑原神社」へは西に入る。)、約400m。駐車場なし。
伝承によれば、鬼怒川右岸(西岸)の台地には北総地区最初の開拓地で、古くから集落や古墳などが造られた。桓武天皇の孫である高望王は、寛平元年(889年)に臣籍降下して平高望と名乗り、昌泰元年(898年)に上総介に任じられて坂東に下向した。このとき、長男・国香、次男・良兼、三男・良将(良持と表記する記録もある。)を伴って任地に赴き、息子らは上総国、下総国、常陸国などに土着して関東における高望王流桓武平氏の勢力を広げていった。そして、現・常総市国生は、平良将が居館を築いて政務を行ったところという。そもそも「国生」という地名は、元は「こっちょう」と読み(現在は「こっしょう」)、「国庁」が訛ったものであるとされる。「国庁」というのを文字通り下総国府の官衙とする説もあるが、通説では、下総国府は奈良・平安時代を通じて現・千葉県市川市国府台にあったとされるので、ここでは地方で国の政務を行う役所(国の出先事務所)という意味だろうと思われる。
さて、平良将の子がかの有名な平将門で、伝説では、将門は国生の居館で生まれたという。将門の乱を描いた軍記物語である「将門記」(成立:鎌倉時代?)には、将門が「新皇」を自称して、下総国の「亭南」に王城(皇居)を定めたという記述がある。「亭南」がどこを指すのかということについては諸説あって、茨城県坂東市・同守谷市・千葉県柏市などがそれぞれ市のHP等で将門の王城の所在地であるとの説を紹介している。一般には、将門の王城の所在地は現・坂東市岩井付近とされており、そこは現・常総市国生の「下総国亭(庁)跡」の石碑の場所から南西約10kmのところに当たる。
とはいえ、発掘調査によって建物の礎石など居館の遺跡が発見されたわけではなく、あくまでも伝承であって、石碑のある場所に居館があったということでもないようだ。


写真1:「平将門公史跡 下総国亭(庁)跡」という石碑と説明板が建てられている。


写真2:北東に筑波山が見える。直線距離は約18km。

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