大窪山 徳願寺(だいあさん とくがんじ)。本尊:千手観音。
場所:静岡市駿河区向敷地689。長田北小学校前から南に約300mのところ(案内板あり)から西へ。正面は急な石段の参道で、自動車は右折(北へ)して狭い農道を約1.5km登る。駐車場有り。
寺伝によれば、養老2年(718年)、行基菩薩の開創で、「駿河七観音」の1つが置かれたという。往古は「大窪寺」(山号不明)という山岳密教の寺院で、「扇松平」という、現在よりも更に山の上のほうにあったらしい。しかし、その後の消息は殆ど不明で、康正2年(1456年)頃、現在地の少し上のところ(「大段」)に移転し、曹洞宗に改宗したのが文明8年(1476年)、越渓禅師の入山によるといい、このとき曹洞宗の「大窪山 徳願寺」となったらしい(寺号は「得願寺」とも。)。その後、伊勢新九郎(北条早雲)の妹で、今川氏6代義忠の正妻である北川殿の菩提寺となった(北川殿の法名は「得願寺殿慈雲妙愛大姉」。享禄2年(1529年)没)。
ところで、「大窪山徳願寺史誌」(平成20年9月)に掲載の写真をみると、当寺本尊の千手観音像は坐像である。他の「駿河七観音」はいずれも立像のようであるが、なぜだろうか。これらの仏像は殆ど秘仏で、なかなか実見できないのは残念だ。
さて、当寺は、華やかではないが、禅寺らしい自然な美しさがある。それにもまして素晴らしいのは、当寺からの静岡市街地を見下ろす景観(写真4)である。慶長19年(1614年)、京都「方広寺」の鐘銘事件(大仏殿の梵鐘の銘「国家安康 君臣豊楽」が、徳川家康の「家」と「康」を分断して徳川家を冒涜するものと言いがかりを付けたもの。)のとき、申し開きのため下向してきた豊臣家の重臣・片桐且元が、駿府に入る前に当寺から駿府の動静を窺ったという。因みに、歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」の「府中」の図は、安倍川の川越えを描いているが、その正面に見えているのが「徳願寺山」である。
写真1:「徳願寺」山門。山門を入ると、山茶花のトンネルができている。
写真2:本堂
写真3:北川殿墓所。北川殿を当寺の開基とする。この墓所は、元は本堂の裏にあったが、平成19年に現在地に移した。
写真4:山門前から静岡市街地を見下ろす。運が良ければ富士山も見える。
場所:静岡市駿河区向敷地689。長田北小学校前から南に約300mのところ(案内板あり)から西へ。正面は急な石段の参道で、自動車は右折(北へ)して狭い農道を約1.5km登る。駐車場有り。
寺伝によれば、養老2年(718年)、行基菩薩の開創で、「駿河七観音」の1つが置かれたという。往古は「大窪寺」(山号不明)という山岳密教の寺院で、「扇松平」という、現在よりも更に山の上のほうにあったらしい。しかし、その後の消息は殆ど不明で、康正2年(1456年)頃、現在地の少し上のところ(「大段」)に移転し、曹洞宗に改宗したのが文明8年(1476年)、越渓禅師の入山によるといい、このとき曹洞宗の「大窪山 徳願寺」となったらしい(寺号は「得願寺」とも。)。その後、伊勢新九郎(北条早雲)の妹で、今川氏6代義忠の正妻である北川殿の菩提寺となった(北川殿の法名は「得願寺殿慈雲妙愛大姉」。享禄2年(1529年)没)。
ところで、「大窪山徳願寺史誌」(平成20年9月)に掲載の写真をみると、当寺本尊の千手観音像は坐像である。他の「駿河七観音」はいずれも立像のようであるが、なぜだろうか。これらの仏像は殆ど秘仏で、なかなか実見できないのは残念だ。
さて、当寺は、華やかではないが、禅寺らしい自然な美しさがある。それにもまして素晴らしいのは、当寺からの静岡市街地を見下ろす景観(写真4)である。慶長19年(1614年)、京都「方広寺」の鐘銘事件(大仏殿の梵鐘の銘「国家安康 君臣豊楽」が、徳川家康の「家」と「康」を分断して徳川家を冒涜するものと言いがかりを付けたもの。)のとき、申し開きのため下向してきた豊臣家の重臣・片桐且元が、駿府に入る前に当寺から駿府の動静を窺ったという。因みに、歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」の「府中」の図は、安倍川の川越えを描いているが、その正面に見えているのが「徳願寺山」である。
写真1:「徳願寺」山門。山門を入ると、山茶花のトンネルができている。
写真2:本堂
写真3:北川殿墓所。北川殿を当寺の開基とする。この墓所は、元は本堂の裏にあったが、平成19年に現在地に移した。
写真4:山門前から静岡市街地を見下ろす。運が良ければ富士山も見える。
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