神が宿るところ

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法皇塚古墳

2013-02-02 23:32:43 | 古墳
法皇塚古墳(ほうおうづかこふん)。
場所:千葉県市川市国府台2-8-30(東京医科歯科大学国府台キャンパス内)。京成電鉄本線「国府台」駅から県道1号線(市川松戸線、通称:松戸街道)北へ約1.2km。駐車場なし。大学構内なので、静かに拝見したい。
「法皇塚古墳」は「鳳凰塚古墳」ともいい(「法皇塚」というのは、曹洞宗の大寺「安国山 総寧寺」に因むものともいうが、不詳。)、北北西向きの前方後円墳で、全長約54.5m、前方部の幅約35m、後円部径約27mという市川市及びその周辺地域では最大の古墳である。明治時代以降の軍用地整備等によって、かなり削られたといわれており、復元すると全長65m程度あったとされる。後円部西側に横穴式石室の入口があり、昭和44年に本格的調査が行われた際、既に盗掘に遭っていたが、大刀・鉄鏃・馬具・装身具などが発見された。また、家型・人型の埴輪なども出土し、この古墳の築造年代は6世紀中頃~後半頃と推定されている。

明戸古墳(あけどこふん)。
場所:千葉県市川市国府台3-9(里見公園内)。「法皇塚古墳」の北西、約400m。駐車場有り。
「明戸古墳」は、全長約40m、前方部幅約28m、後円部径約21mの前方後円墳で、築造時期は6世紀後半~7世紀初頭とされている。この地は戦国時代から城の土塁として利用されたため、古墳の形は不明瞭であるが、後円部墳頂に箱式石棺が2つ並んで露出しており、「明戸古墳石棺」として市川市指定有形文化財となっている。文明11年(1479年)に太田道灌がここに築城した際、盛土が取り払われて石棺が露出したとの伝承があり、その真偽は不明だが、かなり古くから知られていたものらしい。蓋がないが、近くにある「夜泣き石」の台となっている平らな石がそれではないかともいう。

「法皇塚古墳」の規模や出土品からすると、被葬者はこの地を支配した豪族だろうということに異論はない。しかし、大化改新以後にはこの地に下総国府が置かれ、隣接して(あるいは、国府内に)葛飾郡家もあったと推定されているのに、どのような豪族だったのか全く伝わっていないのは不思議なことである。「法皇塚古墳」の石室に使われた石材は凝灰岩で、現・千葉県鋸南町と富津市境にある乾坤山(鋸山)に産する「房州石」とみられている。一方、「明戸古墳石棺」の石は(説明板によれば)黒雲母片麻岩で、筑波山麓で産出する「筑波石」であるとされている。こうしたことから、下総国北東部~常陸国南部、上総国西部とも関係を持ち、水上交通を支配して勢力を張った豪族ではないかと思われる。


市川市のHPから(法皇塚古墳)

同(里見公園)


写真1:「法皇塚古墳」後円部西側にある玄室入口


写真2:同上。後円部から前方部(南側からみる。)


写真3:同上。前方部(北西側からみる。)


写真4:同上。東側からみると、瓢箪型の古墳のくびれがよくわかる(向って右が前方部、左が後円部)。


写真5:「明戸古墳」。石棺が露出している。


写真6:同じ「里見公園」内にある「夜泣き石」。台の平たい石が「明戸古墳石棺」の蓋?


写真7:「国府台天満宮」(千葉県神社庁のHPでは「天満神社」。場所:千葉県市川市国府台3-11-11)。太田道灌が国府台城築城のときに創建し、元は「法皇塚古墳」の上に鎮座していたという。当神社境内で1月7日に行われる辻切り行事は市川市指定無形民俗文化財。
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