神が宿るところ

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長者屋敷遺跡(茨城県常陸太田市)

2019-09-07 23:43:20 | 史跡・文化財
長者屋敷遺跡(ちょうじゃやしきいせき)。
場所:茨城県常陸太田市薬谷町・大里町。国道293号線と茨城県道166号線(和田上河合線)の「久米西」交差点から、県道を南~南東へ約1km。「金砂郷中学校」の南側で、県道と山田川に挟まれた地域。
「長者屋敷遺跡」は、古くから奈良~平安時代の土器や瓦、炭化米などが出土する地域で、「万石長者」(または「薬谷長者」)という大金持ちの屋敷があったという。伝説によれば、昔、ある孝行な若者が高齢の父に食べさせるため「袋田の滝」近くの「鰐ヶ淵」で鯉(コイ)を探していたところ、淵の主である竜が白髭の老人になって現れ、打ち出の小槌を授けられた。この若者が小槌のおかげで大金持ちになり、当地に移り住んで「万石長者」と呼ばれるようになったという。この「万石長者」にも、八幡太郎・源義家を饗応し、その豪華さのために義家に滅ぼされたという、所謂「長者伝説」が残っている(「台渡里官衙遺跡群」2019年3月16日記事参照)。面白いのは、「長者」は古代官道の駅長出身と伝えられることが多いが、「万石長者」は逆に、財を成してから駅長になったと伝えられていることである。ともあれ、「長者伝説」がある場所は、古代官衙があった場所の可能性が高いことは周知のことで、当地については、平成7年に行われた県道改良工事に伴う発掘調査により、方形に巡ると推定される溝が発見されたほか、「久寺」と墨書された土器も出土していることから、郡家に付属する寺院(郡寺)の存在が認められる。炭化米は正倉院(税として徴収された米や布等を納める倉庫)があった可能性もあり、確定されてはいないが、当地に「久慈郡家(郡衙)」があった可能性が高いと考えられるようになっている。
因みに、地域内にある「近津神社」は創建時期不明だが、元は「万石長者」の氏寺であったという。また、「長者屋敷遺跡」の南にある「糠塚古墳」は、「万石長者」が米糠を積んでできたものとの伝説がある。「糠塚」、あるいは「糠山」というのは各地にあり、大抵は、長者(大金持ち)が米糠を捨てたのが積み上がったもの(庶民には贅沢な白米を大量に消費していた象徴)という民話である。「万石長者」という人物が居たとして、どのような人物だったのか、は分からないが、久慈郡家に関係する人物だった可能性は高い。なお、茨城県内第2位の大きさを誇る「梵天山古墳」(2019年8月17日記事)は初代久自国造・船瀬足尼の墳墓とされるが、当地の南東、約3km(直線距離)のところにある。


写真1:「長者屋敷跡」石碑(場所:常陸太田市大里町3316付近。鮮魚・海鮮料理店「魚富」の向かい側。駐車場なし。)


写真2:同上


写真3:「糠塚古墳」(場所:常陸太田市薬谷町1407。県道沿い、上記石碑の南、約200m。駐車場なし。)。現在はかなり削平されているが、元は径30mほどの円墳であったらしい。昭和63年、周辺から人間や動物などの埴輪が出土したという。


写真4:「近津神社」(場所:常陸太田市薬谷町128。「金砂郷中学校」の南、約200m、駐車場なし。)。祭神:面足命(オモダル)・惶根命(カシコネ)。旧村社で、徳川光圀の寺社改革により、元禄7年(1694年)に「龍九寺」(廃寺。現在は薬師堂のみ再建されているとのこと。)境内から現在地に遷座して薬谷村の鎮守になったという。


写真5:同上、社殿
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