備前の古社を訪ねる(備前国内神名帳の研究)

備前の由緒ある神社を巡礼する

コラム206.一宮(その16・但馬国・粟鹿神社)

2009-09-19 09:45:01 | Weblog
粟鹿神社(あわがじんじゃ)。
場所:兵庫県朝来市山東町粟鹿2152。JR山陰本線「梁瀬」駅が最寄駅で、国道427号線を東南に走り、兵庫県道275号線(粟鹿早田線)に入って南下、すぐ(「梁瀬」駅から約4km)。今は、播但有料道路からつながる北近畿豊岡自動車道「山東」ICができていて、その南西、約400m。駐車場有り。
但馬国では、「全国一の宮会」には、前項の「出石神社」と当神社の2社が加盟している。何しろ、但馬国には式内社が131座(全国第5位)、名神大(社)だけでも10社(18座)もあるので、「一宮」争いがあっても不思議ではない。
「粟鹿」というのは、山(粟鹿山)から鹿が粟を三束咥えて下りてきて、人々の農業を教えたという伝承から来ているといい、当神社の創建は不明だが、西暦700年代初めの文書にもその名が見えるという、大変な古社である。多分、但馬国最古の神社ではないか、とされる。
祭神は一般には彦火火出見尊(ヒコホホデミ)=山幸彦。神功皇后が妹の虚空津姫を竜宮に遣わして干満の宝珠を得、三韓征伐からの帰国後、満珠を当神社に、干珠を住吉大社に納めたという伝説があり、干満の宝珠に因んで彦火火出見尊を祀ったのだという。
あるいは、祭神は日子坐王(ヒコイマスノミコ)ともいう。日子坐王は開化天皇の第三皇子。四道将軍の1人である丹波道主王(タンバノミチノウシ)の父といい、やはり丹波に派遣されて、当地を平定したという。当神社の本殿の後ろに「塚」があり、社殿の建て方をみると、明らかにこの「塚」を祀ったものと見受けられる。この「塚」こそ日子坐王の墓(円墳)と伝えられている。同じ四道将軍である大吉備津彦(備前・備中・備後の吉備津宮の祭神)の墓(中山茶臼山古墳)と比べると、かなり規模が小さい。仮に当地に日子坐王の墓があったとしても、この「塚」ではなく、別の場所にあるのではないか。かつて神社に社殿というものがなかった時代、何らかの祭祀が行われた場所とみるのがよいように思われる。
なお、行ったときに見逃してしまったのだが、勅使門の彫刻は左甚五郎作で、その鳳凰が夜になるとうるさく飛び回ったので、首を切り落とされてしまった、という伝説もあるらしい。いろいろと面白い神社である。


玄松子さんのHPから(粟鹿神社):http://www.genbu.net/data/tajima/awaga_title.htm

粟鹿小学校のHPから(粟鹿神社):http://sasayuri-net.jp/users/awaga-sho/kouku/awagajinjya.htm


写真上:「粟鹿神社」鳥居


写真下:本殿。本殿の背後に土を盛り上げた円形の「塚」がある。