「木華佐久耶比神社と氏子崇敬者の歴史」(三宅光信編、1985年)等によって、次の通り補足。
当社は、もと「福南山」山上に座していたというが、「福南山」は別名「都南山」といい、「福岡」(五流尊瀧院がある旧林村あたり)の南にあったからだ、という。「福岡」という地名は、「福岡神社」の項(2008年6月14日記事)で書いたが、現在の瀬戸内市長船あたりにあった商都で、九州の「福岡」はこの備前福岡に由来している。詳細は不明だが、児島にも商都があったのかもしれない。
役行者が伊豆大島に流されたあと、その5人の弟子たちは瀬戸内海に逃れた。大宝元年(701年)、役行者が赦免になったので、5人の弟子たちは「福岡明神」の導きで御神体を児島の福岡の邑に安置したという。現在も、五流尊瀧院・熊野神社の北に「福岡神社」がある。
岡山県神社庁のHP(熊野神社(倉敷市林)):http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=06015
同(福岡神社(倉敷市林)):http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=06011
当社は、もと「福南山」山上に座していたというが、「福南山」は別名「都南山」といい、「福岡」(五流尊瀧院がある旧林村あたり)の南にあったからだ、という。「福岡」という地名は、「福岡神社」の項(2008年6月14日記事)で書いたが、現在の瀬戸内市長船あたりにあった商都で、九州の「福岡」はこの備前福岡に由来している。詳細は不明だが、児島にも商都があったのかもしれない。
役行者が伊豆大島に流されたあと、その5人の弟子たちは瀬戸内海に逃れた。大宝元年(701年)、役行者が赦免になったので、5人の弟子たちは「福岡明神」の導きで御神体を児島の福岡の邑に安置したという。現在も、五流尊瀧院・熊野神社の北に「福岡神社」がある。
岡山県神社庁のHP(熊野神社(倉敷市林)):http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=06015
同(福岡神社(倉敷市林)):http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=06011