備前の古社を訪ねる(備前国内神名帳の研究)

備前の由緒ある神社を巡礼する

コラム240.備前国の磐座拾遺(その13・藤井の大岩場)

2010-02-12 11:45:18 | Weblog
藤井の大岩場(ふじいのおおいわば)。
場所:岡山市東区西大寺一宮。県道235号線(橋詰千手線)で、式内社「安仁神社」参道入口の前を東に進み、約600mで「西大寺一宮公園」の入口がある。その向かい側(北側)に石組みの「藤井孫次郎惟景塚」(写真上)があるが、その先(東)、約50mの山裾に登り道がある。結構急坂だが、歩きにくいところはなく、徒歩5分程。駐車場なし。
式内社「安仁神社」の北に「硫黄山」(111m)があり、その中腹に大きな岩が露出しているのが下からも見える。ここは、「邑久郡大師霊場南巡り八十八ヵ所」の第八十七番札所となっている。岩までの山道は相応に整備され、途中に泉があったり(山にある磐座には途中に泉がある例が多い。)、一部は素朴な石段があったりする。「安仁神社」との関係は不明だが、県道235号線を東に抜けると、「安仁神社」の社僧であったと思われる「千手山弘法寺」(備前48ヵ寺の1つ)がある。「大岩場」には足掛かりが刻まれているので、行場としても利用されたのではないだろうか。古代には「硫黄山」の南側に海が迫っていたようで、見張り台としても使われたかもしれない。


yamaneさんのブログ「岡山県邑久郡大宮村大字藤井」から:http://blogs.yahoo.co.jp/fujii_yamane/7227219.html

同:http://blogs.yahoo.co.jp/fujii_yamane/7260357.html


写真上:「藤井孫次郎惟景塚」。古墳の一部らしい。藤井一族は、鎌倉時代初期ぐらいに、この地域の荘園開発を行った武士の一族らしく、この「塚」の周辺の小字は「殿屋敷」といい、館跡があったという。


写真中:「大岩場」の下にある大岩。これは立石のようだ。前立ちの岩には梵字が刻まれている。


写真下:「大岩場」

コラム239.民間信仰の神様(その3・魔法宮)

2010-02-10 08:53:32 | Weblog
①天津神社(あまつじんじゃ)。通称:久保田神社(くぼたじんじゃ)。
場所:吉備中央町細田1372。国道429号線沿いにある「道の駅かもがわ円城」前の交差点から県道372号線(下土井下加茂線)に入り、西へ約3km進むと右側(北側)に「細田東集会場」がある。その向かい側の狭い道に入り(「久保田神社参道」の看板がある。)、約300m進むとJAの穀物倉庫があるが、その向かい側の脇道が参道。駐車場あり。
②火雷神社(からいじんじゃ)。通称:魔法宮。
場所:吉備中央町上田西158。「久保田神社」下から更に先(南西)に進むと(なぜか途中に「魔法宮」の説明板がある。)、「黒杭口」というバス停(!)がある。そこで左折(南東へ)、最初の分かれ道は左に進むと、「魔法宮」と記された石柱が立っている。その先、徒歩約300m。駐車場なし。
岡山県神社庁加盟の神社を「民間信仰の神様」というのもなんだが、「魔法宮」・「魔法様」という通称が面白いので採り上げてみた。「魔法宮」の伝承は次のとおりである。
昔、天竺から「キュウモウ」という古狸が南蛮船に乗って来日、備前加茂の山中に棲みついた。「キュウモウ」狸は化けるのがうまく、いろいろイタズラをして村人を困らせた。そこで、村人が円城寺の和尚に頼んで祈祷してもらうと、狸の正体を現し、これからは「牛馬の守り神になり、また村人の火難・盗難を防ぎます。」といって姿を消した。この「キュウモウ」狸を祀ったのが「火雷神社」であり、「キュウモウ」狸と地元の狢との間に生まれたのが「頬四郎」(ほほしろう)狸で、「頬四郎」狸を祀ったのが「久保田神社」である。この2社が「魔法宮」と通称される。
まず「天津神社」であるが、もともとは妙見社だったらしい。境内に今もある小祠が「天津神社」であって、「久保田神社」は同町豊岡のオギという山の上に祀られていた「久保田様」という神様を移したもの。だから、本来は「久保田神社」は「天津神社」の境内末社なのだが、社殿だけからみると逆のようになっている。
「火雷神社」はもともと同町三納谷の「三所神社」の境外末社で、当地に災害や疫病が流行ったときに創建されたという。
「魔法宮」の背景を考えると、次のようなことがわかる。
①「キュウモウ」狸が来日したのは永禄11年(1568年)で、備前加茂に棲みついたのは明和年間(1764~1771年)とされる。当地は現在、すごい山の中だが、元文6年(1741年)に銅山が開かれ、その廃坑の穴を巣としたというので、当地も一時は賑やかな時期があった。
②上記「三所神社」は天元2年(979年)に紀伊国「熊野三所権現」を勧請したものとされる。「天津神社」がもと妙見社であったことも合わせ、修験者が介在したことを強く示唆する。
③牛馬の神様としての「魔法様」信仰は備中・美作にもあるらしいが、その伝播には山伏が関わっていたらしい。狸は、その山伏、修験者の神使(つかわしめ)、あるいは式神であったのかもしれない。でも、狐とかクダとかならともかく、狸とは・・・。


岡山県神社庁のHP(天津神社(久保田神社)):http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=08018

「神社探訪・狛犬見聞録」さんのHPから(天津・久保田神社)http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/okayama/kagagun/amatsu_kubota/amatsu_kubota.html

岡山県神社庁のHP(火雷神社):http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=08020


写真1:「久保田神社」正面。階段両脇に信楽焼の狸が並んでいるが、地元の人が知らないうちに供えられたらしい。


写真2:「久保田神社」本殿台座の後ろに「狸穴」が作られており、榊などが捧げられている。


写真3:「火雷神社」参道入口。この先は未舗装で、かなり狭くなるので、普通自動車では突っ込んでいかないほうがよい。


写真4:「火雷神社」

コラム238.民間信仰の神様(その2・首塚)

2010-02-05 20:15:31 | Weblog
①金谷の首塚(かなだにのくびづか)。
場所:備前市吉永町金谷。JR山陽本線「三石」駅の西、約3km。県道96号線(岡山赤穂線)沿いでなく、金剛川の北側になる。駐車場なし。
延元3年(1338年)、新田義貞が三石城の支城である馬転山城を攻め落とし、この地で首実検を行った首を埋めたとされる。首から上の病気に御利益がある。河原で卵形の滑らかな石を拾い、願い事や氏名・住所等を書いて供えるとよいという。ちなみに、首塚様のすぐ北にある「宝生山金谷寺正光院」(弘法大師開基という。)の本堂(観音堂)は、元はこの首塚様のある場所に建てられ、その後現在地に移転したらしい。「正光院」は古社「金彦神社」の別当寺であったという。

備前東商工会さんのブログから(金谷首塚様):http://ameblo.jp/shokokai-bizenhigashi/entry-10137124709.html#main

②与太郎神社(よたろうじんじゃ)。通称:与太郎様。
場所:玉野市八浜町大崎。県道405号線(山田槌ヶ原線)沿いで、玉野光南高校の東、約200m。駐車場なし。
「与太郎様」というバス停もあり、見ていると、今でもかなり参拝者が多い。一説によると、「玉野市 与太郎様」という宛名でも郵便が届くとか。「与太郎様」は実在の人物で、宇喜多与太郎基家。八浜合戦において、敵・毛利方の鉄砲に撃たれ、天正10年(1582年)討ち死にしたという。伝承によれば、近くの竹薮に隠れたが、農夫の目配せによって追っ手に気づかれて討たれた。このとき、基家は脚気を患っており、歩けない状態だった。その後、この村に不幸が続いたことから、基家へのお詫びと供養のため、墓を建てたという。ただし、遺骸は、備前48ヵ寺の1つ「大賀島寺」(宇喜多家の菩提寺)に葬られたとされるので、墓ではなく、供養塔であろう(今も拝殿の中にある。)。足の病気に御利益があり、線香の灰を足の痛むところに塗ると良いという。

有限会社東海建設さんのHPから(与太郎神社):http://tokaikennsetu.com/w-momoyotarou.html

③田中神社(たなかじんじゃ)。通称:田中様。
場所:岡山市中区国富1丁目。岡山朝日高校の北側にある国富東公園の中。駐車場なし。
伝承によれば、宇喜多直家と三村元親の有名な明禅寺合戦(永禄10年:1567年)において、三村方の武将・庄元祐(元親の兄)が奮戦中、わらじの緒が切れて足がもつれ、討ち取られた。そのとき「わらじの緒が切れなければ、宇喜多方をせき止められたものを」と慨嘆した。これによって、庄元祐の供養塔が、語呂合わせの「咳止め」に、また、足の怪我や病気に御利益があるといわれるようになったという。ところで、なぜ「田中神社」なのか。元は旧・第六高等学校(現・岡山朝日高校)の敷地内にあったが、その後、田んぼの真ん中に移されたからだ、とのこと。

五輪塔さんのブログ「日本掃苔録」から(田中神社):http://soutai.livedoor.biz/archives/51009360.html


備前国は周囲の群雄割拠で、長らく争奪戦の場となったため、首塚が多い。このブログは古社巡りが本意なので、これ以上はあまり書かないつもりだが、いずれも病気治癒などの「流行(はやり)神」で、近世以降、人々の神様への期待が身近なもの、個人的なものに移ってきたことが窺われる。


写真上:「金谷の首塚」


写真中:「与太郎神社」(与太郎様)


写真下:「田中神社」(田中様)

コラム237.民間信仰の神様(その1・イボ神様)

2010-01-29 20:38:05 | Weblog
前回(2010年1月15日記事)で「巨勢金岡の墓」を取り上げ、それが通称「かのう様」と呼ばれてイボ(疣)除去に御利益があることを紹介した。いわゆる「イボ神様」は全国にあり、備前国にも他にもある。写真の「イボ神様」は岡山市中区国府市場のものだが、このブログでも取り上げた中でも、式内社「石上布都魂神社」(赤磐市、2008年6月8日及び2009年3月24日記事)や「亀石神社」(岡山市南区水門町、2008年6月5日記事)は、知る人ぞ知る「イボ神様」でもある。
「石上布都魂神社」は、奥宮が磐座であることは有名であるが、その磐座にいわゆる「盃状穴」がある。その穴に溜まる水は霊水であって、これを塗ればイボが取れるとされる。
一般に、上面が平らな「磐座」には「盃状穴」があることが多い。この穴に供物を奉げたのではないか、ともいわれる。「盃状穴」のある岩は日本だけでなく、世界各地にあるらしい。祭祀としては、太陽や神に対するもののほかに、いわゆる「ヨニ」(女陰)を表したものもあるようだ。「イボ神様」は、イボ(凸)に対する凹としても意味があるのかもしれない。
写真の国府市場のイボ神様は、五輪塔の笠の部分のようで、その上の部分がなくなってしまって、上の窪みに水が溜まる形になっている。磐座と盃状穴に見立てたものかもしれない。ただし、現在伝えられているイボの取り方は、「左縄(左向きによった縄)をイボ神様に巻いてよく拝む。直ったら縄を取る。」(「高島つどいの場所づくり研究会」さんのHPによる)となっている。
「亀石神社」のほうは、「亀石」を囲む玉垣内の小石をいただいて、その小石でイボを擦ると取れるという。「亀石」自身が磐座だろうが、「盃状穴」は無い・・・と思ったら、拝殿そばの岩には「盃状穴」がある。

「国府市場のイボ神様」(写真)
場所:岡山市中区国府市場。高島小学校の北、約250mのところに「賞田」バス停があり、そこから東に約300m。老人ホーム「幸輝園」の向かい側。駐車場なし。かなり小さいので、拍子抜けする。
ちなみに、高島小学校から北側の地域は備前国府のあった場所ともいわれており(2008年11月1日記事)、上記の老人ホームの東には「成光寺廃寺」遺跡がある。

コラム236.巨勢金岡の墓(かのう様)

2010-01-22 20:56:03 | Weblog
巨勢金岡の墓(こせのかなおかのはか)。通称:かのう様。
場所:岡山市東区西大寺上一丁目。スーパー「リョービ・プラッツ西大寺店」の南東の角を曲がって北へ、約250m。「西大寺中学校」の北西端の北側。高い生垣に囲まれているので、通り過ぎないように注意。駐車場なし。
巨勢金岡(生没年不明)は、平安時代前期に活躍した宮廷画家で、大和絵の確立者として名高い。宇多天皇などを後ろ盾に、貞観10年(868年)頃には宮廷の神泉苑作庭を監修し、元慶4年(880年)には清涼殿・紫宸殿に絵を描いたという。ただし、現在、その真筆として確実なものは1つも残っていないとされる。縁結びの神様として有名な「八重垣神社」(島根県松江市)の本殿板壁画(国重文)は寛平5年(893年)金岡の作との伝承があるが、室町時代頃のものらしい。
古くから名声は高かったようで、各地に伝説がある。例えば、
①「仁和寺」(京都市)周辺の田畑が荒らされることが続き、調べてみると、巨勢金岡が書いた「仁和寺」壁画の馬が毎夜、絵から抜け出していたことがわかった。絵の馬の目を隠すと被害は止んだという。
②熊野古道の「藤白峠」(和歌山県海南市)で、熊野権現の化身である童子と絵の描き比べをした。金岡はウグイスを、童子はカラスを描いたが、どちらも甲乙つけがたく、手を打って追うと、どちらも絵から抜け出して飛び去った。しかし、童子が呼ぶと、カラスは戻ってきたが、ウグイスは戻ってこなかった。負けた金岡は、傍らの松に筆を投げ捨てた。この松を「筆捨松」という。
③出雲の日御碕にある「筆投島」(島根県出雲市)は、金岡がこの島を写生しようとしたが、あまりの美観に写しきれず、筆を投げてしまったという。
④「多賀神社」(山口県光市)の展望台から見る室積湾の美しさに「わが筆及ばず・・・」と言って、傍らの松に筆をかけて去った。この松を「筆懸けの松」という。
さて、伝説的な画聖、巨勢金岡の墓がなぜ、西大寺にあるのか。もともと巨勢氏は武内宿禰(因幡国一宮「宇倍神社」の祭神。2009年9月9日記事参照)の子孫で、金岡の曽祖父である巨勢野足(こせののたり)は坂上田村麻呂らとともに征夷副使となったり、藤原冬嗣とともに蔵人頭になったりと、有力な武人・政治家であった(最終的には正三位中納言右近衛大将)。「岡山のごりやくさん」(山陽新聞社編、平成元年10月)は、西大寺文化資料館の青江文次副館長の話を引用して、「父の野足が備前国府の国司だったころにこの地で生まれ、地名にも残っている金岡と命名したのではないか」とする。ただし、野足が備前国司であったのは弘仁2年(811年)7月~同3年(812年)1月のわずか7ヵ月間とされる(「岡山市史第1巻」(昭和11年3月))ので、旧金岡村生まれというのも、伝説の域を出ないように思われる。
ところで、この「巨勢金岡の墓」は、通称「かのう様」と呼ばれている。「かなおか様」が訛ったものとされるが、願い事が「叶う」ということで信仰を集めた。霊験あらたかなのは、なぜかイボ取りで、この墓石を削った粉を塗ると、イボが取れるという。今も、墓石(粒状石灰岩)の一部は削られて真っ白くなっている。
余談だが、金岡自身は「金岡神社」(大阪府堺市)に祀られている。また、孫の巨勢宮主麿は大和国一宮「大神神社」(奈良県桜井市)の社家になったという。


阜嵐健さんのHP「延喜式の調査」から(金岡神社):http://www.geocities.jp/engisiki/settu/bun/st060107-01.html

コラム235.硯井天満宮

2010-01-15 23:14:27 | Weblog
硯井天満宮(すずりいてんまんぐう)。
場所:玉野市八浜町大崎169-1・170。JR宇野線「八浜」駅の西、約500m。県道405号線(山田槌ヶ原線)沿い(北側)に「硯井の井戸」があり、その向かい側の狭い道路に入って、すぐ。駐車場あり。
菅原道真公左遷の西下途中に残したとされる伝説の関連神社を取り上げてきたが、調子に乗ってもう1つ(これで終わりにします。)。
「硯井天満宮」がある辺りは、並行しているJR宇野線と県道405号線の北側が干拓地で、かつては児島の海浜だった。この浜に菅公が上陸すると、海辺なのに塩気のない清水が湧いている窪みがあった。これぞ神の恵みと喜んだ菅公が拍手を打って拝すると、その度に新たな水が噴出してきた。感動した菅公は、その水を硯水に使い、「海ならず 湛える水の 底までも 清き心を 月ぞ照らさん」という歌を詠んで里人に与えた。後に、里人が菅公を偲んで天神社を祀ったという。
このほか、倉敷市唐琴1丁目にある「唐琴天神社」(旧県社「鴻八幡宮」の境外末社だったという。)の脇にも「天神の井戸」がある。また、国道430号線沿い(国民宿舎「王子が岳」の北西、約500m)にも「天満宮ゆかりの井戸」がある(写真下)。こうした「天神の井戸」が児島の北と南にあるということは、児島の広い範囲に同様の伝説が伝えられていたということだろう。児島の浜辺では、真水が極めて貴重だった、ということかもしれない。


岡山県神社庁のHP(天神宮(硯井天満宮)):http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=04019

同(唐琴天神社):http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=06032


写真上:「硯井天満宮」鳥居


写真中:硯井の井戸


写真下:天満宮ゆかりの井戸(倉敷市児島唐琴町)

コラム234.裳掛天満宮

2010-01-10 20:30:31 | Weblog
裳掛天満宮(もかけてんまんぐう)。
場所:岡山市東区金岡東町2-11-22。岡山東警察署前から南下する県道177号線(九蟠中野線)沿い、コンビニ「サークルK岡山金岡東町店」の東、徒歩約3分。当神社には駐車場がないが、隣接する「宝琳寺」に駐車場あり。
「隣接する宝琳寺・・・」というのには理由があって、もともと当神社を「裳掛天満宮」という名の由来と関係がある。菅原道真公が大宰権帥に左遷されて船で西下する際、「犬島」付近で暴風雨に遭い、この地の観音堂に難を逃れた。このとき、濡れた衣を松の枝に掛けて乾かした、という。この松を「裳掛の松」といい、後に菅公を記念して寺(観音堂)の鎮守として「天満宮」を建立したとされる。このため、この寺は「天神坊」とも称されたが、寛文年間、岡山藩の命により、天神社が寺から分離されたという。現在、この寺は「泰王山宝琳寺」と称し、高野山真言宗の寺院となっている。
ところで、当神社が鎮座する「金岡」という地名は、会陽(裸祭り)で有名な「西大寺観音院」創建の地である「金岡庄」(旧・上道郡金岡村)に因んでいるとされる。「西大寺観音院」の山号「金陵山」は、「岡」の字を同じ意味の「陵」に変えたもの。観音菩薩は、この地でも古代から広く信仰を集めていたようだ。


岡山県神社庁のHP:http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=13020


写真上:「裳掛天満宮」(左)と「泰王山宝琳寺」(右)


写真中:「泰王山宝琳寺」の大悲殿(観音堂)。本尊:千手観音菩薩


写真下:「裳掛天満宮」

コラム233.子安天満宮(菅公腰掛石)

2010-01-08 21:06:36 | Weblog
子安天満宮(こやすてんまんぐう)。
場所:岡山市北区十日市東町2-28。県道40号線(岡山港線)「十日市中町」交差点から東に真っ直ぐ、約600m。駐車場なし。
住所は南区から北区に変わるが、吉備国「内宮」(岡山市南区浜野一丁目)の北西、約200m(直線距離)の近さにあるので、ついでに参拝したい。
昌泰4年・延喜元年(901年)、左大臣藤原時平の讒言によって右大臣菅原道真は大宰権師に左遷され、事実上大宰府に流された。結局、2年後の延喜3年(903年)には現地で亡くなってしまうのだが、西下の途中、備前国にもいくつかの伝説を残した。その1つが備前市の「履掛天神宮」境内の「履掛石」(2009年8月3日記事)であるが、こちらは、菅公が腰を掛けた石だという。「腰掛石」は、縦・横約50cm、高さ約30cmの思ったより小ぶりな石で、確かに上面が平らになっている。
当時、この周辺は海辺であり、菅公がこの石に腰掛けて休息していると、近くのみすぼらしい漁師の家から女のうめき声が聞こえた。漁師の妻が難産に苦しんでいたのだが、菅公が安産の歌を詠むと(あるいは、呪文を唱えて袖で産婦の腹を撫でると)、忽ち安産した。この菅公の徳を偲び、天喜元年(1053年)に天満天神として社殿が建立されたという。


岡山県神社庁のHP(天満宮(子安天満宮)):http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=01022


写真上:「子安天満宮」正面


写真中:「子安天満宮」境内の「御祭神菅公腰掛石古跡」


写真下:「菅公腰掛石」

コラム232.吉備国内宮

2010-01-03 22:19:17 | Weblog
内宮(ないくう)。
場所:岡山市南区浜野1-3-8。旭川右岸(西岸)を走る県道213号線(福島橋本線)沿い、「岡山製紙」本社工場の西側。駐車場あり。
「伊勢神宮」は、天照大神を祀る皇大神宮(内宮)と豊受大神を祀る豊受大神宮(外宮)を正宮とするが、内宮はもともと皇居内にあった。第10代崇神天皇の6年(紀元前92年)、皇女の豊鋤入姫命が詔を受けて理想的な鎮座地を求めて各地を転々とした。その際、吉備・名方浜宮にも4年間滞在したとされる。吉備国の内宮は、この「名方浜宮」に因んで創建されたということになっていて、だから、「伊勢神宮」より前に出来ていたとされるわけである。
ところで、この「名方浜宮」の比定地とされる場所は1つではない。「岡山市史」などでは、(近くに備前国府址や総社宮がある)岡山市中区賞田にはかつて「中田村」があり、これが「名方浜」だったのではないか、とする。そして、式内社「伊勢神社」(岡山市北区番町)は、元はその付近にあったが、旭川の対岸に引っ越してきたのだろうという説である。なお、「伊勢神社」が現在鎮座する番町の対岸は「浜」という地名である。一方、この「内宮」の鎮座地は「浜野」であり、こここそが「名方浜」であるとする。ほかにも、岡山県内では、総社市福井の「神明神社」、倉敷市真備町と高梁市川上町の「穴門山神社」などがあり、「吉備」というのを紀伊国名草郡吉備郷とみて和歌山県にもある。
また、この「内宮」に対して、上記の式内社「伊勢神社」を外宮とする説もある。
真相は何か、ということはなかなか結論はでないが、吉備津彦ら四道将軍が派遣されたのが崇神天皇10年とされていることとあわせ、この頃、地方に対するヤマト政権の世俗的・軍事的勢力拡大があったということだろう。


岡山県神社庁のHP(内宮):http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=01011


写真上:「内宮」正面鳥居。傍らの碑に「伊勢皇大神宮御聖跡」とある。


写真下:「内宮」正面

コラム231.榎本神社(大森大明神)

2009-12-31 21:05:29 | Weblog
榎本神社(えのもとじんじゃ)。
場所:岡山市北区弓之町。旭川に架かる新鶴見橋の西詰(「油掛大黒天」があるところ。)から南に約50m。駐車場なし。
よくわからないのだが、岡山県神社庁のHP(下記)でも、岡山県の「宗教法人名簿」(平成11年3月)でも、当神社の所在地は「岡山市北区弓之町5-1」となっているが、当該住所地は駐車場で、それらしい社はない。岡山県神社庁のHPではグーグル地図が掲載されているが、そこは「弓之町5-1」ではないし、ここも自走式の立体駐車場である。「榎本神社」(写真)の現在の鎮座地は、住居表示でいうと「弓之町17-21」らしい。道路の向かい側(東側)は「出石町一丁目」になる。
もうひとつわからないのは、「榎本神社」を紹介しているHPなどをみると、例外なく、「榎本神社」の別名が「大森大明神」であるとしている。しかし、「岡山市史 宗教・教育編」(昭和43年3月)によれば、「榎本神社」の祭神は倉稲魂神で、所在地は弓之町。「大森大明神」の祭神は具廼馳神で、所在地は出石町二丁目となっており、それぞれ別の神社となっている点である。この関係や如何に?
「吉備温故秘録」によれば、寛保3年(1743年)に江戸の浪人原田儀左衛門が「大森大明神」を建立したとされる。しかし、「榎本神社」の社伝によれば、当神社の創建は応永年間(1394~1427年)であり、貞享2年(1685年)銘の手水鉢もあるという。だから、もともと「榎本神社」と「大森大明神」は別の神社だったのではなかろうか。
ほかにはあまり情報もないのだが、もともと式内社「伊勢神社」(岡山市北区番町)の境外摂社で、明治18年(1885年)まで会陽(裸祭り)が行われていた、ということである。
さて、「出石町」というのは「和名抄」にもある「出石郷」に基づく古い地名であるといわれる。なお、「出石」というのは、旭川河畔に作られた石組みで、船の荷揚場をいうらしい。海運により、生活必需品、特に塩をここで荷揚げしたらしい。この界隈は、岡山大空襲のときも、旭川の水をバケツリレーで撒いて消火し、古い町並みが残る場所である。「榎本神社」も小社ながら、なかなか良い雰囲気がある。境内に大きな木があり、確かに、むしろ「大森大明神」(木の神様であるククノチを祀る。)のほうがふさわしいかもしれない。この木は、エノキではなく、ムクノキだそうである(岡山市の保存樹・指定番号55番)。


岡山県立図書館のHPから(伊勢宮):http://djv.libnet.pref.okayama.jp/mmhp/kyodo/kenmin/eyo/eyo-jisya-bizen19.htm

岡山市のHPから(保存樹一覧):http://www.city.okayama.jp/toshi/kouenryokuchi/kouenryokuchi_00054.html