備前の古社を訪ねる(備前国内神名帳の研究)

備前の由緒ある神社を巡礼する

コラム230.旧県社(その8・三勲神社)

2009-12-25 22:12:30 | Weblog
三勲神社(さんくんじんじゃ)。
場所:「玉井宮東照宮」境内。
三勲神社は、備前国出身の尊王の忠臣である和気清麻呂と児島高徳、それに岡山藩主池田氏の祖先とされる楠木正行(楠木正成の子)を祀るため、操山の高台に、明治8年(1875年)創建された。戦前は県社であったが、もともと歴史的・地域的に氏子がなく、市内の小学生全員を崇敬者として勤労奉仕などによって運営されてきた。しかし、戦後は公的な支援もなくなり、屋根の銅版は剥がされ、浮浪者が住みつくなど荒廃を極めた。このため、昭和22年(1947年)に本殿のみを「玉井宮東照宮」境内に移した。
神社は日本人の精神的な財産であるが、担い手がなければ、無くなってしまうものであるという良い例だろう。


写真上:「三勲神社」跡地


写真下:「玉井宮東照宮」境内に移された「三勲神社」

コラム229.玉井宮と玉比神社

2009-12-22 21:01:32 | Weblog
「玉井宮東照宮」(岡山市中区東山)のうち「玉井宮」はもと、児島郡小串村の光明崎(現・米崎)に鎮座していたが、社のある山頂から毎夜怪光が海面を照らし魚が恐れて寄り付かないことから、漁師たちが困っていたところ、神託があって、白幣が飛び立ち、現在地に立った。これにより社を遷座し、「玉の宮」または「玉井宮」と称されることになった、という(2009年6月26日記事参照)。遷座したのは応徳2年(1085年)とされるので、延喜式神名帳の成立よりは後になる。で、社伝によれば、当神社が備前国内神名帳所載の旧・児島郡「玉比神社」であるとされる。
ちなみに、旧社地とされる岡山市南区小串での伝承では、もともと祭神は豊玉姫命と玉依姫命の姉妹であり、白幣に乗って(あるいは白幣と化して)「幣立山」に移ったのは姉神のみで、妹神は旧社地に残ったという。
「米崎」という地名は、もとは「光明崎」だったのが訛った、というのは、「玉井宮」の縁起に関わるものばかりのようで、「光明」という言葉自体、何か抹香くさい気がする。多分、後世に「玉井宮」の社僧が考えたことなのではないか。本来は、潮流が込み合う「(潮)込め崎」だったようだ。「米崎」を西米崎、対岸の岡山市東区正儀を東米崎といったこともあったらしい。「光明崎」が語源かどうかは別にして、米崎の先の海が航海の難所で、米崎の明かりが目印になっていたことは十分考えられる。なお、米崎の東端には、今も灯台が設置されている。
さて、実際に米崎に行ってみる。児島半島を周回する県道74号線(倉敷飽浦線)を、県道463号線(長谷小串線)分岐の交差点を東へ(「桃太郎荘」方面の反対側)。「ポートオブ岡山」というマリーナの先に行くのだが、そこからは道が狭くなる。海に面した道路に出たところに、黒住教の「小串遥拝所」がある。ここは、教祖黒住宗忠神が小豆島への布教のため海を渡っていると、急に海が荒れ難破の危機に陥ったが、「波風をいかで鎮めん海津神 天津日を知る人の乗りしに」という自作の歌を書いた紙を海に投げ入れると、忽ち波が静まったという事蹟を記念したものである。これも、ここが海の難所であったことを示すものだろう。
その先、「東米崎港」の集落に至るが、集落に入る手前に「焚火大権現」(たくひだいごんげん)が鎮座する山上へ行く小道がある。地図で見ると、小串の岬には、根元に「梅ヶ原山」(126m)があり、その東に2つの小峰(60~70m)が見える。「焚火大権現」が鎮座するのは、「梅ヶ原山」の東隣の峰で、「玉井宮」の元宮の所在地とされるのは、東端の峰らしいが、今はその山頂に行く道もないようだし、山頂にも何も残っていないようだ。「焚火大権現」は、字は違うが、隠岐島の「焼火神社」(たくひじんじゃ)を勧請したもののようだ。どちらも、海上の安全を守る神である。

※「米崎神社」と「焚火大権現」の関係がよくわからなかったのだが、「小串村誌稿」(小磯昇、昭和59年4月)によれば、概略次のとおり。「米崎神社」は廣幡八幡宮(岡山市南区阿津2104)の境外末社で、祭神は大綿津見命だが、伝説に、この海岸に光を放つ石祠があり、これを1人の漁夫が小串の東山の山上に祀ったのが豊玉姫命・玉依姫命で、このうちの豊玉姫が白幣に乗って遷座して「玉井宮」の神魂になったとする。「焚火大権現」はもともと「権現山」(「梅ヶ原山」?)に鎮座していたが、明治8年(1875年)に祭神を玉依姫命に改めて「米崎神社」に合祀した、という。ということは、写真下の白い石の祠は正しくは「米崎神社」であるらしい(拝殿には「焚火大権現」という額が掲げられているが。)。<2009年1月31日追記>

「とことん小串」HPから:http://kogushi.jp/old/map/komezaki-obiki.html

「小串学区連合町内会」HPから(焚火大権現):http://townweb.e-okayamacity.jp/kogushi-r/takuhi.html


写真上:「玉井宮東照宮」境内の摂社「白龍神社」


写真中:「黒住教小串遥拝所」


写真下:「焚火大権現」。「白龍神社」(写真上)の説明板では「玉井宮の元地の多久火権現・・・」とある。


コラム228.古代備中国の中心部(その5・鬼ノ城)

2009-12-18 22:36:20 | Weblog
鬼ノ城(きのじょう)。
場所:総社市奥坂。JR吉備線「服部」駅の北西約2kmのところに「砂川公園」がある。自動車で行くなら、国道180号線「国分寺口」交差点から北に向かい、岡山自動車道の高架下を潜ると、県道271号線(総社足守線)に入ると案内板がある。「砂川公園」から約3km北上すると、「鬼城山ビジターセンター」があり、駐車場がある。そこまでの道路は狭く、休日にはハイキング客も多いので、注意。
「鬼ノ城」は鬼城山(397m)山上に築かれた古代の山城(国史跡)で、朝鮮式とか神籠石式山城といわれる。石垣や土塁、礎石などの遺構が発掘されており、「西門」などが復元されている(写真上)。かなり大規模な山城だが、備前国の「大迴小迴山城」(岡山市東区草ヶ部)と同様、「日本書紀」などの史書には記載がない。「鬼ノ城」という名は、「温羅」(うら)という鬼の居城であって、四道将軍・吉備津彦命と戦って敗れたという伝説による。
一般には、7世紀後半、唐・新羅の侵攻からの防御用に築かれたとされる。備中国府・国分寺・総社宮などの主要施設の北にあり、位置や距離感からも、これらの関連施設と感じられる。
備前国の場合、「鬼ノ城」に相当する「大迴小迴山城」の位置はやや微妙。というのは、備前国府址とされる場所と国分寺址がかなり離れているというのが、まず問題。「大迴小迴山城」は、備前国分寺址からは南東約2.5km(直線距離)と近いが、備前国府址からは北東約7kmで、やや離れている(「鬼ノ城」と備中国府址との距離は約5km(直線距離)。)。ただし、もし古代山陽道が上道郡ルートであったら(2008年12月24日記事)、そのルート沿いであり、また、「大迴山」・「小迴山」は、備前国府址・式内社「大神神社」などの背後にある「龍ノ口山」とつながっている。


総社市のHPから(鬼ノ城):http://www.city.soja.okayama.jp/kanko/kankochi/kinojo.jsp

鬼ノ城HP:http://alpha.c.oka-pu.ac.jp/kinojo/

鬼ノ城ウォーキングHP:http://park.geocities.jp/aenzic/index.html


写真上:復元された「鬼ノ城」西門


写真中:「鬼城山」展望台付近


写真下:「鬼城山」の少し先にある岩屋地区の「鬼の差し上げ石」



コラム227.古代備中国の中心部(その4・古社)

2009-12-11 22:33:29 | Weblog
古郡神社(ふるこおりじんじゃ)。
場所:総社市総社2405。国道180号線「国分寺口」交差点から北に真っ直ぐ進む(約1km)と、岡山自動車道の手前に山の鼻があって、切り通しになっている。その右の小山の上に鎮座している(写真上)。駐車場なし。
写真のように、今は小祠しかないが、これが式内社「古郡神社」であるという。正長元年(1428年)の大風のために社殿が倒壊し、久米村の「御崎神社」(現・総社市久米1213)に奉遷したが、嘉永4年(1851年)に旧社地に奉遷したという。この伝承が正しいとすると、通説の備中国府(金井戸の「御所宮」を東端として方6丁)のほぼ中心線上にある。こうしたことから、「古郡神社」が国府と何らかの関係があったことが窺われる。祭神は吉備武彦命。
さて、その切り通しの道を過ぎると、急に狭くなるが、更に真っ直ぐ進むと「鬼ノ城」の入口にあたる「砂川公園」がある。その東にあるのが、上記の「御崎神社」で、社伝によれば、創建は仁徳天皇の時代で、やはり祭神は吉備武彦命である。この辺りに吉備武彦命の住居跡があった、ともいう。
その手前、県道271号線(総社足守線)を東に進むと、「葦守八幡宮」がある。

葦守八幡宮(はちもりはちまんぐう)。
場所:岡山市北区下足守468。国道429号線沿いにある「岡山市立足守幼稚園」の東側にある。駐車場あり。
ここは、故郷に帰った妃の吉備兄媛(きびのえひめ)を追って応神天皇が行幸し、兄媛とその兄の御友別命に饗応を受けたとされる「葉田葦守宮」(日本書紀)であるという(写真中)。八幡宮だから主祭神は応神天皇だが、吉備臣の祖である御友別命も祀られている。
ところで、正面の石鳥居は、作製年号がわかっている日本最古のもの(康安元年:1361年)であるとされる(写真下)。刻銘によれば、願主は神主「賀陽重人」で、石大工は「沙弥妙阿」となっている。賀陽氏といえば、「吉備津神社」(備中吉備津宮)の社家であり、沙弥妙阿というのは備中国二宮「皷神社」の宝塔の作者でもある。「皷神社」は足守から更に北上したところにあり、祭神は吉備津彦命の妃・高田媛命である(2009年3月28日記事参照)。
こうした備中吉備津宮を中心とした神社のネットワークが、この地域の古代豪族支配を物語っているように思われる。


岡山県神社庁のHP(古郡神社):http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=19053

SPICE OF LIFE(神ナビ)さんのHPから(古郡神社):http://www.spicy.sakura.ne.jp/jinja/furukoori/furukoori.htm

同(葦守八幡宮):http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=19066


写真上:式内社「古郡神社」


写真中:「葦守八幡宮」西側の鳥居。傍らの石柱には「岡山県史蹟 葉田葦守宮址」とある。


写真下:「葦守八幡宮」正面(南側)の鳥居

コラム226.古代備中国の中心部(その3・備中国總社)

2009-12-04 21:45:37 | Weblog
備中国總社(びっちゅうのくに そうじゃ)。
場所:総社市総社2-18-1。JR吉備線「東総社」駅から徒歩約5分。国道180号線に面して駐車場入口がある。
古代において国司の重要な任務の1つが神社の巡拝だったが、平安時代になると、国府の近くに総社宮を設置して巡拝の手間を省くようになった。このため、国司の力が弱まると総社宮も廃れ、中世には多くが廃絶したとされる。「備中国総社宮」も何度か焼失しているようで、変遷はよくわからないところもあるが、池泉のある前庭など古代の様式を伝えているという。なにより、総社市の名のもとになったほど、尊重された神社なのである。ちなみに、当神社はJR「東総社」駅前にあるが、もとはこの駅が「総社」駅だった(昭和34年(1959年)に「総社」駅を「東総社」駅に、「西総社」駅を「総社」駅に改称。)。
「備中国総社宮」(写真上・中)は、「伝備中国府址」の西、約2kmの距離にあり、どちらも国道180号線沿いにある。境内にある「沼田神社」(写真下)が式内社「野俣神社」であるとされ、どうやら、もともと「野俣神社」があった場所に総社宮を設けたらしい。神社の社殿は一般に南を向いているが(「沼田神社」は南面している。)、「備中国総社宮」は東、すなわち、国府のほうを向いている。
「備中国総社宮」の現在の主祭神は大己貴命で、総社としては備中国304社の神を合祀している。うち18社は式内社であろうが、それ以外の具体的な神社名は残念ながら不明。


岡山県神社庁のHP(總社):http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=19056

玄松子さんのHPから(總社(総社市)):http://www.genbu.net/data/bicchuu/soujya_title.htm


写真上:備中国「総社宮」正面。鳥居の扁額は「惣社」。


写真中:備中国「総社宮」本殿


写真下:備中国「総社宮」境内にある「沼田神社(沼田天満宮)」。これが式内社「野俣神社」だという。

コラム225.古代備中国の中心部(その2・備中国分寺)

2009-11-28 20:31:31 | Weblog
備中国分寺(びっちゅうこくぶんじ)。
場所:岡山県総社市上林1046。県道270号線(清音真金線)沿いで、国道429号線との「国分寺西」交差点の東、約800m。駐車場あり。
国分寺は天平13年(741年)に聖武天皇の発願によって全国に建てられた官寺で、通常は国府の近くに建てられ、その国の重要な施設であった。中世に至り、律令制の崩壊により殆ど廃れてしまった。備中国分寺も、南北朝時代の戦乱で焼失し、現在あるのは江戸時代に真言宗御室派の寺院として再建された「日照山国分寺」である。現在の備中国分寺は、吉備路観光の中心地で、丘の上に立つ五重塔(江戸時代以前のものとしては岡山県唯一。なお、全国でも22基しかないうちの1つ。)は人気が高い。今でも回りにビルなどの建物がなく、古代を偲ぶのにも、良い雰囲気を保っている。
伝備中国府址の南、約2kmと近いが、それより重要なのは、造山古墳(全国第4位の大きさ)~備中国分尼寺~こうもり塚古墳~備中国分寺~作山古墳が東西にほぼ一直線上に並んでいることだろう。

総社市のHPから(備中国分寺):http://www.city.soja.okayama.jp/kanko/kankochi/kokubunji.jsp


写真上:備中国分寺


写真中:こうもり塚古墳。備中国分寺と国分尼寺の間にある。中に石棺が残されている。


写真下:備中国分尼寺跡。国分寺の東、約600m。建物は何も残っていないが、そのために発掘調査ができ、伽藍配置が明らかになっている。

コラム224.古代備中国の中心部(その1・備中国府)

2009-11-21 22:46:16 | Weblog
伝備中国府跡(でん びっちゅうこくふあと)。
場所:総社市金井戸。国道180号線「国分寺口」交差点の東、約500m。服部変電所の前に「備中国府遺祉」の石碑(写真上)がある。その向かい側(北)の道に入ると、「御所宮」の石碑(写真中)がある。いずれも駐車場なし。
備前国府の場所についてはまだ確定されておらず、異説も多いことは、このブログでも以前に採り上げた。備中国府の場所も確定されてはいないので、あくまでも「伝」なのだが、どうやら上記の場所にあったらしい。その周辺に関連史跡も多いので、備前国との比較の上でも面白いので、見に行った。
「御所宮」は、その名からも、ここに国司の御殿があった跡と思われる。ちなみに、この一画は現在も国有地らしい。こうした伝承や、付近に北国府・南国府などといった地名があることが有力証拠らしく、発掘調査などの結果ではないが、他にはそれらしい場所もないようだ。なお、「御所宮」付近は国府(方6町と推定される。)の東端とみられ、南に国道180号線が走っているが、更にその南側にある「前川」という川は賀陽郡と都宇郡・窪屋郡との郡境となっていたらしい。
さて、「備中国府遺祉」の石碑から、国道180号線を少し東に進むと、JR吉備線「服部」駅方面への狭い道路がある(県道192号線:服部停車場線)。その道路沿いに「総社市埋蔵文化財学習の館」があり、その向かい側の奥(とても狭い道の先)に「賀陽山門満寺」という浄土宗の寺があった(平成17年に廃寺)。もとは白鳳時代創建の寺院があったとされ、それが賀陽氏の氏寺であったらしい(地名を取って「栢寺(かやでら)廃寺跡」という。)。門満寺としても、門や五重石塔などしか、寺院らしいものはあまり残っていないが、その五重石塔の台石は「栢寺廃寺」の塔心礎石であったとみられている。
賀陽氏は、加夜氏・香屋氏などとも書き、朝鮮の「伽耶」と関係があるとされたり、大吉備津彦命を祖とする上道氏からの分流であるとされることもあるが、もともと土着の豪族で、ヤマト王権に忠実であったために勢力を伸ばし、備前から備中に進出した、という説が有力になりつつあるようだ。いずれにせよ、「吉備津神社」(備中吉備津宮)の社家として、その権威を背景に強大な権力を持っていたらしい。
もともと「国造」は地方の有力豪族が任命されたので、その豪族の氏寺が国府の近くにあるのがむしろ当然であるようだ。備前国府の所在地には諸説あるが、賞田廃寺跡や幡多廃寺跡などが上道氏の氏寺と推定されるならば、その近くに備前国府があったというのも、相当の理由があるということになるだろう。


写真上:国道180号線沿いにある「備中国府遺祉」の石碑。


写真中:「御所宮」の石碑。この敷地内に「伝備中国府跡」の説明板も設置されている。


写真下:門満寺五重石塔。その台石は塔心礎石であったらしい。なお、石塔の向こうに見える木立のところが「御所宮」。

コラム223.一宮(その20.出雲国・熊野大社)

2009-11-13 19:48:58 | Weblog
熊野大社(くまのたいしゃ)。
場所:島根県松江市八雲町熊野2451。安来道路「東出雲IC」から県道53号線(大東東出雲線)に入り、南西に約11km。駐車場あり。
「日本書紀」(720年)にある「出雲国造をして厳神の宮を作らしむ」というのが当神社のことであるとする。これは「出雲大社」のことであるとする説もあるが、「出雲国風土記」(733年)には「熊野大社」として記されている。祭神は加夫呂伎熊野大神櫛御気野命(「出雲国造神賀詞」による。)とされるが、これは素戔嗚尊の別名であるという。ただし、クシミケというのは「奇・御食」で、もとは食物神であろうといわれている。また、「熊野大社」といえば、紀伊国「熊野本宮大社」が有名であるが、当神社から分霊されたという説と、同名でも全く別々に創建されたという説がある。クマ=神の意味があることからすれば、神のいる場所としての「熊野」が各地にあってもよい。なお、現在の当神社はもと「下の宮」で、南西約500mに「上の宮跡」があり、その背後にある御笠山から、元宮があったとされる天狗山(熊野山)を遙拝するようになっている。
さて、出雲国一宮といえば「出雲大社」であるが、もとは当神社のほうが一宮であったとされる。時代が下るにつれて勢力の交代があったわけだが、こうした場合、仲が悪いか、互いに無関心であることが多いが、当神社は「出雲大社」の社家である出雲国造家との繋がりも深く、「出雲大社」宮司である出雲国造の代替わりの際には、当神社内にある「鑽火殿」において燧臼・燧杵に起こした神火で調理した食事を神前に供える儀式(火継式)を行うという。


熊野大社のHP:http://www.kumanotaisha.or.jp/

玄松子さんのHPから(熊野大社):http://www.genbu.net/data/izumo/kumano_title.htm


写真上:県道沿いにある鳥居。傍らの石柱に「出雲国一之宮熊野大社」とある。


写真中:拝殿


写真下:鑽火殿

コラム222.一宮(その19・出雲国・出雲大社)

2009-11-08 22:55:09 | Weblog
出雲大社(いずもおおやしろ)。
島根県出雲市大社町杵築東195。岡山からは、岡山道・米子道・安来道・山陰道と高速道路を乗り継いで「斐川」ICから西、約20km(国道431号線沿い)。広い駐車場があるが、休日にはほとんど一杯になる。
今では「○○大社」を名乗る神社は数多いが、単に「神宮」といえば「伊勢神宮」を指すのと同様に、かつて「大社」といえば「出雲大社」(もとは「杵築大社」といった。)のことを指した。なにしろ、大国主神が「国譲り」の条件として建てさせた宮だというのである(「古事記」)。現在の本殿の高さが24mで、これでも相当高いが、中古には48m、上古には96mあったといわれている。平安時代の数え唄に「雲太、和二、京三」というのがあり、(大和国)東大寺大仏殿や平安京大極殿より高かったということらしい。
上記の伝承からすれば、主祭神が大国主神で当然のようだが、17世紀までは素戔嗚尊であったという。神話によれば、オオクニヌシは、スサノオの6世の子孫で、娘婿でもある。近親婚?はともかく、いくら神様でも、6代も離れた子孫が義理の息子でもあるというのは、無理がありそうに思われる。背景には、スサノオやオオクニヌシの神としての成り立ちや、古代における出雲・吉備・大和の和合と抗争など、面白いテーマがありそうだが、大きすぎるテーマでもあるので、ここではこれ以上触れられない。
ただ、古代氏族のうち、三輪氏・加茂氏は大物主(=大国主)を祖とするから、出雲神族だったのだろうとされている。それぞれの神社の成り立ちは色々だろうと思われるが、備前国内神名帳所載の古社には「大神神社」・「美和神社」・「神神社」、あるいは「鴨神社」・「鴨○○神社」という名の神社が多い。こうしたところに吉備に対する出雲の影響が感じられる。


出雲大社のHP:http://www.izumooyashiro.or.jp/

「出雲大社 神々の国のプロローグ」のHP:http://www.highlight.jp/izumooyashiro/


写真上:「出雲大社」の「日本一の大鳥居」。大きさでは日本一ではなくなってしまったが、確かに近くで見ると巨大(高さ23m)。もっとも、岡山の人は最上稲荷の大鳥居(高さ27m)を知っているから、あまり驚かないかも。


写真下:本殿は「平成の大遷宮」の修造工事中。完成は平成25年の予定。

コラム221.瀬戸町宗堂

2009-10-30 20:28:57 | Weblog
県道96号線(岡山赤穂線)「宗堂」交差点から少し北に入ると、「宗堂桜」(県天然記念物)で有名な妙泉寺跡がある。「宗堂桜」は八重桜の一種だが、約60枚の花弁のうち内側の約20枚が内側に反転して開ききらないのが特徴。妙泉寺の住職であった日鏡上人は、雨乞いなどで村民から慕われていたが、日蓮宗不受不施派であったことから、岡山藩主池田光政により毒殺された。折しも咲きかけた寺の桜は、日鏡上人の死を悲しんで、開ききらなくなった、という伝説がある。
その後、妙泉寺は廃絶し、今は、たぶん寺の鎮守であっただろう素盞嗚神社と、(伝)日鏡上人の墓、題目石などが残っているだけである。ただ、妙泉寺跡の「手洗い」は家形石棺の身で、その後ろにある「題目石」の石板は蓋である、という。「手洗い」は、古墳時代に石棺としてよく利用された兵庫県の竜山石(宝殿石:「石の宝殿」で有名な生石(おおしこ)神社付近で採取される。)製。「題目石」のほうは材質が異なるが、全体に赤っぽく、これは朱の色であるとされているので、身とは別のものかもしれないが、石棺の蓋であることは間違いないようだ。
さて、「宗堂」というのは、「総堂」または「惣堂」とも書き、総社宮に奉仕する寺のことをいう。妙泉寺の創建は永禄11年(1568年)とされるが、もとは日蓮宗以外の寺があったのではないか。瀬戸町宗堂の北隣の瀬戸町塩納には、白鳳時代の軒丸瓦などが出土した「吉岡廃寺」(塔心礎石の画像は2008年12月25日記事)もあり、「久伝池」(排水処理場の隣)付近に磐梨郡衙があったという説も有力になっている(通説は和気町本付近。ここには「石生」の地名がある。)。ちなみに、瀬戸町宗堂の南には「春日神社」がある(写真下)。瀬戸町森末と坂根の境、宮山という小高い丘に鎮座するが、社伝によれば和銅5年(712年)の創建という。この丘は古墳でもあって(「夏井遺跡」)、弥生時代以来の聖地であったようだ。


岡山県のHPから(おかやまの自然百選「宗堂桜」):http://www.pref.okayama.jp/seikatsu/sizen/hyakusen/hyakusen/015soudouzakura.html

岡山県神社庁のHP(素盞嗚神社(瀬戸町宗堂)):http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=10093

同(春日神社(瀬戸町坂根)):http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=10003


写真上:素盞嗚神社(瀬戸町宗堂)。社殿は鳥居の左手。右手の小高いところに「宗堂桜」が植えられている。


写真中:妙泉寺跡の手洗いと題目石。南面した神社社殿前の広場の端にある。


写真下:春日神社(瀬戸町坂根)。場所:岡山市東区瀬戸町坂根102。「宗堂」交差点から南に進むと、当神社の裏手に出る。駐車場あり。