備前の古社を訪ねる(備前国内神名帳の研究)

備前の由緒ある神社を巡礼する

コラム250.備前国総社宮の復興

2010-04-01 00:00:01 | Weblog
平成4年(1992年)に焼失した備前国総社宮の本殿が再建され、平成22年(2010年)4月10日に遷宮が行われるとのこと。総社宮のHPによれば、復興計画の趣旨として、「総社宮という名にふさわしい復興を願い、平安時代後期12世紀の社殿復元を核とする。」とされていて、たいそう力の入った事業である。宮司さん始め、関係者の皆さんのご苦労・ご苦心は思うに余りある。心からお祝い申し上げたい。

(写真は、ほぼ完成した備前国総社宮社殿。屋根のラインが優美。)

ところで、突然ですが、会社の都合で岡山の地を離れることになりました。このため、「備前国の古社」に関するブログ、ということでは継続できなくなりました。もともと1~2年の予定で始めたブログですが、思ったより長く滞在することができ、そのために備前国内神名帳所載の神社のみでなく、磐座や寺院、古代山陽道など、面白そうな場所にも触れることができました。備前国の皆さん、このブログを見て頂いた皆さん、ありがとうございました。


備前国総社宮のHP:http://www.geocities.jp/bizenksoja/

コラム249.加茂総社宮

2010-03-28 20:05:52 | Weblog
総社(そうじゃ)。通称:加茂総社宮。
場所:吉備中央町加茂市場1567。国道429号線はガソリンスタンド「JA岡山加茂川SS」の前で宇甘川を渡るが、そこを渡らずに直進して県道31号線(高梁御津線)を進む。川沿いに西へ約7km。駐車場有り。
「総社」というのは本来、国司が任国の神社巡拝を省くために設けられた神社であるが、郡や郷などの地域・地区単位でも「総社」はあった。郡の総社として残っているものに「児島郡総社宮」(2008年6月25日記事)があり、郷では「加茂総社宮」がある。
社伝によれば、「加茂総社宮」は宝亀年間(770~780年)の創建。現社地の東にある滝が鳴動して村人を驚かせたので、神託を伺うと、大己貴命(大国主命)が諸神を集められたことによるとのことで、ここに加茂郷36ヵ村の氏神として祀った。加茂郷最古の神社であり、備前国内神名帳所載の旧・津高郡「神神社」は当神社のことである。天喜年間(1053~1058年)に郷内の式内外の古社8社の祭神を相殿に配祀した、という。
一方、元の宮地は高祖山山上にあり、素戔嗚尊を祀った。祭神の頭文字をとって「素社宮」と書き、「ソウジャグウ」と唱えた。後に、その御子である大己貴命を祀るようになり、宮地も山麓の現在地に移した、という説もある。
「総社」として祀る古社8社とは具体的にどの神社かはよくわからないが、「加茂大祭」の始まりが天喜年間であり、「加茂総社宮」に参集するのが8社なので、この8社を祀ったものか。参集する8社の創建時期(社伝による)と主祭神は次のとおりである。
①鴨神社:弘仁年間(810~824年)、別雷神
②化氣神社:崇神天皇10年(紀元前88年)、伊奢沙和氣神
③松尾神社:和銅6年(713年)、大山咋神。ただし、創建当時は市杵島姫命を祀る厳島神社であったという。
④日吉神社:延喜年間(901~923年)、大山咋神
⑤素戔嗚神社:天暦元年(947年)、素戔嗚尊
⑥八幡宮:延喜2年(902年):品陀別命
⑦天計神社:不明。もとは天岩山山上にあったのを、寛弘年間(1004~1012年)現社地に遷座したという。手置帆負命・彦狭知命
⑧三所神社:天元2年(979年)、熊野三神(伊邪那美命・事解男命・速玉男命)
これでみると、備前国内神名帳所載の神社が3つ含まれている(式内社「鴨神社」、「化氣神社」、「天計神社」)一方、その他の神社のうち「松尾神社」と「日吉神社」は天台宗系であり、「八幡宮」、「素戔嗚神社」(牛頭天王社)、「三所神社」も神仏混淆というか、仏教色が強い。「加茂大祭」も当初は、備中国の神社も含め12社が参集していたともされるので、「加茂総社宮」が「総社」になったのも中世の頃ではなかったか、とも思われる(妄想?)。あるいは、主祭神が大己貴命に変わったという伝承も、総社宮となって、国造りの神である大国主命が重視されるようになったということかもしれない。


岡山県神社庁のHP(総社(加茂総社宮)):http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=08005

吉備中央町のHPから(加茂大祭):http://www.town.kibichuo.lg.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=multidatabase_view_main_detail&multidatabase_id=25&content_id=98&block_id=1039#_1039

コラム248.天野八幡宮

2010-03-25 21:09:24 | Weblog
天野八幡宮(あまのはちまんぐう)。
場所:岡山市北区青江170。岡山赤十字病院のすぐ裏(東側)だが、水路に隔てられており、ぐるりと反対側に回る。周囲は狭い生活道路が入り組んだ住宅地になっている。駐車場なし。
旧・御野郡鎮座の式内社「天神社」には4つの論社がある。
①一般に式内社「天神社」とされる「天神社」(岡山市北区三野本町):2008年6月20日記事。
②「天津神社」、通称「福居天神社」(岡山市北区津島福居):2008年12月16日記事。
③「天神山」にあった「天満天神社」。現在は「岡山神社」(岡山市北区石関町)の境内末社:2009年5月9日記事。
④岡山市北区青江の「天野八幡宮」。
「天野八幡宮」は、元は岡山市三門に鎮座していた「天神社」で、天承元年(1131年)に奥田に遷座、鹿田庄12ヵ村の総鎮守であったが、大正10年(1921年)に現在地に遷座し、八幡宮を合祀して現在の天野八幡宮になったとされる。元の「天神社」が式内社であるとの伝承なのだが、「元は三門にあって、後に奥田に遷座・・・」というのは、「石門別神社」(岡山市北区奥田南町)にも同じ伝承があるらしい。また、そもそも三門にあった「天神社」が式内社であったかどうかも確証はない。とはいえ、①の「天神社」にも式内社であるとの確証がないことは同じである。
「天野八幡宮」について、面白い逸話として有名なのは、南側にある石鳥居(写真下)に彫られた「南無妙法蓮華経」(題目)という文字で、明治維新後の寺社分離により、この題目を削り落とそうとしたところ、途中で石工が腹痛に襲われて中断したままになった、という話である。もともと、当神社のご神体は、大覚大僧正手刻の八幡大菩薩の木像で、青江にあった日蓮宗「妙泉寺」に祀られていたが、同寺が廃寺になった際、当神社に移されたものという。


岡山県神社庁のHP(天野八幡宮):http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=01042

玄松子さんのHP:http://www.genbu.net/data/bizen/amano_title.htm


写真上:「天野八幡宮」正面(東側)


写真下:「天野八幡宮」南側の鳥居。向かって左側の柱に題目が彫られているのがうっすらと見える。右の柱には水川七兵衛が施主となって嘉永2年(1850年)に建てたということが刻されている。

コラム247.一宮(その22・安芸国・厳島神社)

2010-03-20 22:11:34 | Weblog
厳島神社(いつくしまじんじゃ)。
場所:広島県廿日市市宮島町1-1。JR山陽本線「宮島口」駅または広島電鉄宮島線「広電宮島口」駅から徒歩すぐに桟橋があり、フェリー約10分で「宮島」に渡り、徒歩約10分。駐車場は駅周辺にある(有料)。フェリーで島に自動車を運んでも、殆ど走るところがない。もともと宮島は神の島であって、島内に墓はなく、今でも私有地の面積は7%しかないらしい。
社伝によれば、「厳島神社」の創建は推古天皇元年(593年)、この地の有力豪族である佐伯鞍職が社殿を建立したことに始まるとされる。もともと島全体が聖地であり、最高峰「弥山(みせん)」山頂(535m)には、その名も「磐座石(ばんざいし)」という磐座がある。延喜式神名帳には「伊都伎嶋神社」と記され、名神大社とされた。しかし、なんといっても、当神社の隆盛は平清盛によるところが大であり、また、この島に仏教を持ち込んだのも平清盛らしい。平清盛の庇護による隆盛以前は、安芸国一宮は式内社「速谷神社」(広島県廿日市市)であった、ともいわれている。
祭神は、いわゆる宗像三女神だが、何故、その1神(市杵島姫命)だけの神社名にしたのだろうか。日本書紀などでも宗像三女神の化生の順は諸説あり、その性格付けも大きな区別があるとは思えない。「厳島神」が宗像三女神の総称であるともされるが、どうだろうか。市杵島姫命は神仏混淆により弁才天(弁財天)と習合しているが、弁才天はもともと川の神=水神である。海上交通の守護神であるとともに、磐座からすれば、雨乞いの神だったかもしれない。
ところで、筑前国「宗像大社」(福岡県宗像市)は全国約6千社ともいわれる宗像三女神を祀る神社の総本社であるとされる。ムナカタは宗形、胸形、胸肩などとも書かれるが、式内社は10社とされ、そのうち2社が備前国にある。「宗形神社」(岡山市北区大窪、2008年6月22日記事参照)は吉備津(=吉備国の港)に近いから瀬戸内海ルートだろうが、「宗形神社」(赤磐市是里、2008年6月7日記事参照)は美作国との国境近くにある。伯耆国にも式内社「宗形神社」(鳥取県米子市)があり、あるいは、この神社と関係があるかもしれない(日本海ルート?)。


宮島観光公式サイト:http://www.miyajima-wch.jp/

玄松子さんのHPから(厳島神社(宮島)):http://www.genbu.net/data/aki/itukusima_title.htm


写真上:有名な海上の鳥居。社殿側から見える扁額は「伊都伎嶋神社」、反対側は「厳島神社」となっている(らしい)。


写真下:社殿の背後には五重塔が見えるなど、神仏混淆の雰囲気が濃い。この五重塔(重文)も「厳島神社」の所有物らしい。ちなみに、神社で五重塔を持っているのは、ほかには「日光東照宮」(栃木県日光市)のみのようだ。

コラム246.一宮(その21・伊予国・大山祇神社)

2010-03-19 21:52:57 | Weblog
大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)。
場所:愛媛県今治市大三島町宮浦3327。「しまなみ海道」(西瀬戸自動車道)大三島ICから案内板に従って西へ約7km走る。神社に駐車場はないが、近くに市営駐車場(無料)がある。
伊予国一宮というだけでなく、平安時代に朝廷から「日本総鎮守」の号を許された、という。祭神は大山積神(神社名と1字異なる。)だから山の神なのだが、瀬戸内海の島にあって、なぜか戦の神として信仰を集めた。神武東征に先駆けて、オオヤマツミ神の子孫である乎千命(おちのみこと)が瀬戸内海を治安を守るため創建した、という社伝によるのかもしれない。なお、伊豆国一宮の「三嶋大社」(静岡県三島市)の分社であるとか、逆に「三嶋大社」のほうが当神社の分社であるとかの話があるが、どちらとも決め難いようだ。相当古くからある神社であることは間違いなく、背後の「安神山」は雨乞いの霊山であり、山上には磐座だったかもしれない巨岩があるらしい。ちなみに、備前国内神名帳所載128社のうち、オオヤマツミ神を祀るのは「大内神社」(備前市、2008年5月28日記事)のみのようだ。
ところで、当神社社殿の東、約300mのところに「奥の院」があるというので見に行ったが、これは元の神宮寺で、今は寂れたお堂があるだけである。「奥の院」に前に大きな楠の木があり、木下を潜り抜けられるようになっている。これを「生樹の御門」というらしい(写真下)。それより面白いと思ったのは、その手前の「正純の腰掛石」という石で、確かに腰掛けるのにちょうど良いが、上面に盃状穴がある。ただし、この石については何も情報がない。


玄松子さんのHPから(大山祇神社):http://www.genbu.net/data/iyo/ooyamadumi_title.htm

kudou GAOさんのHP「四国百名山」から(鷲ヶ頭山):http://kudougao.fc2web.com/sikoku/wasi.html

岡山県立図書館のHPから(会陽ってなんだろう:大山祇神社):http://djv.libnet.pref.okayama.jp/mmhp/kyodo/kenmin/eyo/eyo-jisya-ehime01.htm


写真上:「大山祇神社」正面鳥居。扁額は「日本総鎮守 大山積大明神」となっている。


写真中:「正純の腰掛石」? 石の上面に盃状穴がある。この道の向こうの大きな楠の木が「生樹の御門」。


写真下:「生樹の御門(いききのごもん)」。この木の下を抜けると、「奥の院」。

コラム245.民間信仰の神様(その4・丸山咳神宮)

2010-03-16 22:23:30 | Weblog
丸山咳神宮(まるやませきがみぐう)。
場所:岡山市東区西大寺一宮。県道235号線(橋詰千手線)を、式内社「安仁神社」参道前を通り過ぎると、丁字路になる(写真1)。右(北)へ行くと、「藤井の大岩場」を経て牛窓方面となるが、左(南)に進む。道標のところから約750m。駐車場なし。
創建時期は不明だが、あちこちに道標があり、相当流行った時期があるのだろう。背後(東)の山上にある「瀧神社」の境外末社らしいが、もともと「瀧神社」は「安仁神社」の境外末社だったようで、どちらも「安仁神社」と縁が深いようだ。「咳神宮」のお札は「安仁神社」でいただけるようである。ちなみに、「瀧神社」へは、「咳神宮」から約90m南のところから山道を10分程登る(なお、それとは別に、北側から、かなり狭いが自動車で登れる道もある。)。
さて、創建時期不明と書いたが、ここが何故、咳の神様になったのかも不明。「咳神宮」の前に小川が流れているのだが、そこに橋が架かっており、橋の名は「堰神橋」となっている。どうやら「堰」が「咳」に変わったということらしい。地元のyamaneさん(下記ブログ)は、もとは「船関所」だったのだろうと書かれている。
民俗学一般では、咳神=石神ということが多く、もとは磐座だったり、石塔だったりしたものが、後世に由来も失われるが、信仰だけは残っていた場合、咳神様などとして祀られるケースがあるようだ。それで思いついたのだが、「咳神宮」の背後にも巨岩が露出している。また、「咳神宮」から更に南に進むと「綱掛石神社」がある。ここは明らかに磐座を祀ったもので、今は「不動様」(不動明王)となっている尖った立石、山頂の磐座(ストーンサークル)、その南側にある役行者(神変大菩薩)が彫られた立石(写真4)と、少なくとも3種類の岩がある。中世以降と思われるが、石に彫られた不動明王や役行者には修験者が関与しているはずで、流行神も修験者が絡んでいることが多いので、ひょっとしたら、「咳神宮」は磐座の「石神」に因んだものかもしれない(妄想?)。


yamaneさんのブログ「岡山県邑久郡大宮村大字藤井」から:http://blog.goo.ne.jp/admin.php?fid=editentry&eid=822016131696841d2bb150e38b4856be

岡山県神社庁のHPから(瀧神社):http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=12046


写真1:「せきかみ宮」への道標。同様の道標が他にもある。


写真2:「丸山咳神宮」正面


写真3:「瀧神社」正面。立派な随神門があるが、これは「安仁神社」から譲り受けたものらしい。


写真4:「綱掛石神社」の奥にある立石。役行者の像が彫られている。

コラム244.備前国の磐座拾遺(その17・飯盛岩)

2010-03-12 17:47:01 | Weblog
飯盛岩(いいもりいわ)。
場所:岡山市東区正儀。県道233号線(宝伝久々井南水門線)を南水門町から宝伝方面に南下し、「山神山」の峠を越えると久々井の海岸に出る。下り坂を降りきらないところの右側(西側)に海岸に降りていく道路がある。ただし、落石の危険があるとのことで、「進入禁止」の看板が出ている。その付近に自動車を置いて、徒歩約600m。砂浜のすぐ先に、岩が波に洗われている。
この岩をも「磐座」とするのは言い過ぎだろう(特に祭祀跡があるわけでもないし、古代の土器などが出るわけでもない。)が、「飯盛岩」というのは磐座によくある名前である。また、この岩のあるところは正儀の地先だが、東側は久々井の海岸で、式内社「安仁神社」の古文書などにもある「鵠浦」と称された場所である。ここに立つと、児島の小串地区(焚火大権現が鎮座するところ。2009年12月22日記事参照)や犬島諸島、小豆島などが見えて、気持ちの良いところだ。
鵠(くぐい)というのは白鳥の古名で、久々井という地名は備前市や倉敷市玉島柏島にもある。地名の由来には諸説あるが、かつて白鳥が多く飛来した場所というのがイメージ的にも綺麗でよろしい。
白鳥といえば、ヤマトタケルとも関係が深いが、もうひとつ、垂仁天皇の皇子、誉津別(ほむつわけ)王のエピソード(「鳥取」という地名の由来譚)が思い浮かぶ。言葉を発しない皇子のため天皇が白鳥を捕らえるよう命じ、出雲でようやく捕らえて献上したところ、皇子が話せるようになった。捕らえた者に「鳥取造」という姓を与えて「鳥取部」を創設したという。これは日本書紀の話だが、古事記では皇子がしゃべれないのは出雲大神(大国主命)の祟りだった、ということになっている。
こんなことでも、いろいろ妄想が広がって、だから古代はおもしろい。

ところで、久々井の沖にある犬島諸島のうち「犬ノ島」には有名な磐座「犬石明神」がある。しかし、「犬ノ島」は全島が岡山化学工業株式会社という会社の私有地で、部外者立入禁止となっていて、普通は見ることができない(5月3日の「犬石明神」お祭りの日のみ開放されるらしい。)。非常に残念なことである。

岡山市西大寺支所のHPから(犬石明神(犬石様)):http://www.city.okayama.jp/saidaiji/inushima/myojin/myojin.htm

コラム243.備前国の磐座拾遺(その16・山神山の光臨石)

2010-03-05 21:58:34 | Weblog
光臨石(こうりんせき)。
場所:岡山市東区西片岡。県道233号線(宝伝久々井南水門線)を南水門町から宝伝方面に南下し、「山神山」の峠のところに宗教団体「ほんぶしん」の聖地「神山」がある。その入口近くに広大な駐車場があるので、駐車させていただく。そこからはけっこう急な坂を徒歩で約10分、「神山」の敷地内にある墓苑「清浄苑」の西側の小高いところに「天津神社」がある。この神社の鎮座地自体は西片岡であるが、その南側に当たる久々井地区の氏神であるとされる。
この神社は岡山県神社庁傘下にないようで、殆ど情報がないのだが、下記のHPから引用すると、「高島を出発した神武軍団は、鵠浦(くぐいうら)で船ぞろえをし航海安全のため天皇は北斗星を礼拝された。すると北方の山頂が輝いて北斗星が山の大石へ降臨された。この大石を祭ったのが妙現社(明治8年天津神社と改称)で、左右4m高さ2mの巨岩である。後に神功皇后が参詣された時、光臨石と名付けられたという。」
北極星や北斗七星を信仰する「妙見信仰」は本来、道教のものとされるが、仏教にも取り入れられ、特に密教では「妙見菩薩」として信仰された。これが、神仏分離後、神社になった場合は、「天津神社」(祭神は天之御中主命)となることがあるようだ。岡山市北区三野本町に鎮座する式内社「天神社」も、中世は「明見宮」と呼ばれていたらしい。
さて、上記のHPの記述では「光臨石」のサイズが具体的に(メートル法で)記されているので、まだそこにあるのだろうと思ったが、どれがそうなのかわからない。社殿の右手奥に大きな、四角い岩があったので、これかもしれない(写真下)。
「光臨石」の由来は、あくまで伝説の域を出ないが、磐座のような特別な石は「天から降ってきた」というような話が多い。①「光臨石」という名前がついている岩であること、②その名前の由来に伝説があること、③山上にあること、④神社として祀られていること等から、独断と偏見により、これが磐座であったと断定したい。


朝日学区連合町内会のHPから(久々井):http://townweb.e-okayamacity.jp/asahi-r/mein.html


写真上:「天津神社」鳥居


写真中:「天津神社」社殿


写真下:「天津神社」本殿横の磐座?




コラム242.備前国の磐座拾遺(その15・生目八幡宮)

2010-02-26 21:39:42 | Weblog
生目八幡宮(いきめはちまんぐう)。
場所:岡山市東区正儀。県道233号線(宝伝久々井南水門線)を南水門町から宝伝に南下し、「山神山」の峠のところに宗教団体「ほんぶしん」の聖地「神山」がある。その手前(北)、約100mのところに登り口がある。そこから徒歩数分。駐車場なし。
鳥居はなく、社殿もトタン張りで、見慣れた神社のようではないが、「生目八幡宮」の額が掛かっている(写真上)。この神社の本社は九州・宮崎市にある「生目神社」で、江戸時代頃にこの地に勧請され、眼病治癒の神様として信仰を集めたらしい。八幡宮であるから、主祭神は応神天皇であるが、「悪七兵衛」と異名を取った平家の武将藤原景清(平景清)も祀られている。藤原景清は、平家方が敗れた後、神仏に深く帰依したが、煩悩から逃れられず自ら両目を抉ったといわれ、その両眼が「生目神社」に祀られているともいわれる。「生目神社」の創建時期は不明だが、「生目」の名は別として、平安時代以前から「八幡宮」としては存在していたようである。なお、第11代垂仁天皇の名は「活目入彦五十狭茅尊(いくめいりびこいさちのみこと)」とされていて、何らかの関係があるのかもしれない。
さて、眼の神様としての「生目八幡宮」は民間信仰であり、江戸時代の流行神の1つなのだろうが、当神社社殿の後ろの岩は磐座であるとされている。狭い場所に社殿が一杯に建てられているので写真が撮りにくく、わかりにくいのだが、この岩自体を祀っていることは確かなようだ(写真下)。ただ、何故この磐座が「生目八幡宮」になったか、その理由は不明。あるいは、修験者等の間では有名な磐座だったが、特に神社としては祀られていなかったため、誰かが眼の神様を勧請したのかもしれない。
ちなみに、「岡山県遺跡地図第6分冊岡山地区」(平成15年3月)には「立障式磐座?」と、?マークつきで掲載されている。 


朝日学区連合町内会のHPから(正儀):http://townweb.e-okayamacity.jp/asahi-r/mein.html

宮崎市生目商工会のHPから(生目神社):http://www.miya-shoko.or.jp/ikime/histo/ikime_jinnsya.html


写真上:生目八幡宮


写真下:本殿裏の磐座?

コラム241.備前国の磐座拾遺(その14・幸島稲荷神社)

2010-02-19 21:57:20 | Weblog
幸島稲荷神社(こうじまいなりじんじゃ)。
場所:岡山市東区水門町715。県道232号線(鹿忍片岡神崎線)で千町川の河口近く、水門橋の辺りで道路が狭くなるが、その東側に「水門宮山参道」の看板がある。そこから階段を登っていく。別に車道もあるようだが、入口がわかりにくい。
当神社の創建ははっきりしていて、干拓によってできた幸島新田に住民が増えるにつれ、自前の氏神がないことを憂え、宝永6年(1709年)に旧・邑久郡土師村(現・瀬戸内市長船町)木鍋山鎮座の稲荷神社から御分霊を勧請し、東幸島山(水門宮山)山上に祀った、とされている。
不思議なのは、「稲荷神社」なのに祭神が高オカミ神、倉稲魂命、瓊々杵命の3神とされていること。農耕に必要不可欠な水を司る高オカミ神を祀ることに不思議はないが、「幸島村史」(昭和47年10月)では山上に座する龍神であるとし、「「古代祭祀址吉備の「磐座」」(佐藤光範著、平成4年10月)では、神社創建以前は「道教の祭祀跡だった」とされている。
「幸島」という地名は「コウジマ」と読むが、矢坂山の「こうの岩」(2009年4月26日記事)のように、「コウ」=神という意味もあったのではないだろうか(妄想?)。
なお、「亀石神社」(2008年6月5日記事参照)は、古社「神前神社」に縁があるが、当神社の飛地末社であり、「亀石神社」が神社として祀られるようになったのは宝暦年間(1751~1763年)であるという(「幸島村史」による)。


岡山県神社庁のHP:http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=12035


写真上:「幸島稲荷神社」


写真中:本殿裏の磐座


写真下:本殿右手の巨岩