備前の古社を訪ねる(備前国内神名帳の研究)

備前の由緒ある神社を巡礼する

コラム236.巨勢金岡の墓(かのう様)

2010-01-22 20:56:03 | Weblog
巨勢金岡の墓(こせのかなおかのはか)。通称:かのう様。
場所:岡山市東区西大寺上一丁目。スーパー「リョービ・プラッツ西大寺店」の南東の角を曲がって北へ、約250m。「西大寺中学校」の北西端の北側。高い生垣に囲まれているので、通り過ぎないように注意。駐車場なし。
巨勢金岡(生没年不明)は、平安時代前期に活躍した宮廷画家で、大和絵の確立者として名高い。宇多天皇などを後ろ盾に、貞観10年(868年)頃には宮廷の神泉苑作庭を監修し、元慶4年(880年)には清涼殿・紫宸殿に絵を描いたという。ただし、現在、その真筆として確実なものは1つも残っていないとされる。縁結びの神様として有名な「八重垣神社」(島根県松江市)の本殿板壁画(国重文)は寛平5年(893年)金岡の作との伝承があるが、室町時代頃のものらしい。
古くから名声は高かったようで、各地に伝説がある。例えば、
①「仁和寺」(京都市)周辺の田畑が荒らされることが続き、調べてみると、巨勢金岡が書いた「仁和寺」壁画の馬が毎夜、絵から抜け出していたことがわかった。絵の馬の目を隠すと被害は止んだという。
②熊野古道の「藤白峠」(和歌山県海南市)で、熊野権現の化身である童子と絵の描き比べをした。金岡はウグイスを、童子はカラスを描いたが、どちらも甲乙つけがたく、手を打って追うと、どちらも絵から抜け出して飛び去った。しかし、童子が呼ぶと、カラスは戻ってきたが、ウグイスは戻ってこなかった。負けた金岡は、傍らの松に筆を投げ捨てた。この松を「筆捨松」という。
③出雲の日御碕にある「筆投島」(島根県出雲市)は、金岡がこの島を写生しようとしたが、あまりの美観に写しきれず、筆を投げてしまったという。
④「多賀神社」(山口県光市)の展望台から見る室積湾の美しさに「わが筆及ばず・・・」と言って、傍らの松に筆をかけて去った。この松を「筆懸けの松」という。
さて、伝説的な画聖、巨勢金岡の墓がなぜ、西大寺にあるのか。もともと巨勢氏は武内宿禰(因幡国一宮「宇倍神社」の祭神。2009年9月9日記事参照)の子孫で、金岡の曽祖父である巨勢野足(こせののたり)は坂上田村麻呂らとともに征夷副使となったり、藤原冬嗣とともに蔵人頭になったりと、有力な武人・政治家であった(最終的には正三位中納言右近衛大将)。「岡山のごりやくさん」(山陽新聞社編、平成元年10月)は、西大寺文化資料館の青江文次副館長の話を引用して、「父の野足が備前国府の国司だったころにこの地で生まれ、地名にも残っている金岡と命名したのではないか」とする。ただし、野足が備前国司であったのは弘仁2年(811年)7月~同3年(812年)1月のわずか7ヵ月間とされる(「岡山市史第1巻」(昭和11年3月))ので、旧金岡村生まれというのも、伝説の域を出ないように思われる。
ところで、この「巨勢金岡の墓」は、通称「かのう様」と呼ばれている。「かなおか様」が訛ったものとされるが、願い事が「叶う」ということで信仰を集めた。霊験あらたかなのは、なぜかイボ取りで、この墓石を削った粉を塗ると、イボが取れるという。今も、墓石(粒状石灰岩)の一部は削られて真っ白くなっている。
余談だが、金岡自身は「金岡神社」(大阪府堺市)に祀られている。また、孫の巨勢宮主麿は大和国一宮「大神神社」(奈良県桜井市)の社家になったという。


阜嵐健さんのHP「延喜式の調査」から(金岡神社):http://www.geocities.jp/engisiki/settu/bun/st060107-01.html

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