地名で言うと「千束」、「竜泉」、「下谷」、
たけくらべの舞台になった場所だ。
ウチの庭みたいな所だけど
いざ歩いてみると結構広かったね。
私はいま吉原のお歯黒ドブ跡に立っている、
吉原の中央、仲之町通りから左右に伸びた道はここでお歯黒ドブに突き当たって終わる。
その道路は今ではなだらかな坂になっているけど正面の家の土台はスッパリと切れて終わってる。
吉原は四方を堀で囲まれ出入口は大門だけ、
私が立っているここは堀の水が黒くよどみ「お歯黒ドブ」と言われたその堀があったところ。
廻れば大門(おおもん)の見返り柳いと長けれど、
お歯ぐろ溝(どぶ)に燈火(ともしび)うつる三階の騒ぎも手に取るごとく、
明けくれなしの車の行来(ゆきき)にはかり知られぬ全盛をうらないて、、、
このお歯黒ドブ遺構を歩くとあちこちでこんな"段差"を見かける。
お歯黒ドブには巻き上げ式の跳ね橋があり遊女など郭内で死者が出るとこの橋から外に出す、
引き取り手のない遊女などは山谷堀を船で運ばれ浄閑寺へ投げ込まれた。
酉の市で有名な鷲神社、境内にある一葉の文学碑には郭のお祭りの様子が描かれている。
この年三の酉までありて中一日はつぶれしかど前後の上天気に大鳥神社の賑ひすさまじく
ここをかこつけに検査場の門より乱れ入る若人達の勢ひとては、天柱(てんちゅう)くだけ、
地維(ちい)ちいかくるかと思はるゝ笑ひ声のどよめき、、、
国際通りからちょっと入ったところに「樋口一葉旧居跡」、
しばらく行ってなかったので探したけどこんなところにあったんだ。
確かに当時はこの辺は寂しかったかも。
案内に従って一葉記念館に行ってみよう、すぐそこだ。
一葉記念館は定休日でお休み、前にある記念公園を。
「一葉女史たけくらべ記念碑」・・・達筆なので読めない。
樋口一葉は明治維新の直後の1872年生まれで、
同年生まれには、短歌の与謝野晶子、国文学の佐々木信綱らがいる。
そのかみの美登利信如らも この園に
来あそぶらむか 月しろき夜を
佐々木信綱
一葉記念館からは歩いても5分ちょっとの千束稲荷には一葉の胸像。
本郷菊坂町から下谷竜泉に引っ越し、この界隈での見聞や経験をもとに、「たけくらべ」や「わかれ道」の着想を得た。
八月廿日は千束神社のまつりとて、山車屋台に町々の見得をはりて
土手をのぼりて廓内(なか)までも入込(いりこ)まんづ勢ひ、
若者が気組み思ひやるべし、聞かぢりに子供とて油断のなりがたきこのあたりのなれば、
そろひの裕衣(ゆかた)は言はでものこと、銘々に申合せて生意氣のありたけ、、、
竜泉から下谷に入って「小野照埼神社」。たけくらべでは「小野照さま」として出てくる。
打つや皷(つづみ)のしらべ、三味(さみ)の音色に事かゝぬ場處(ばしょ)も、
祭りは別物、酉(とり)の市を除けては一年一度の賑ひぞかし、
三嶋さま小野照(おのてる)さま、お隣社(となり)づから負けまじの競ひ心をかしく、、、
小野照埼神社の「下谷富士」。
6月30日、7月1日は富士山の山開き、たくさんの人たちが富士登山にやってくる。
去年行ったけど雨の中だった、今年も行くのかな?。
昨日の三島神社、たけくらべ冒頭にその名が登場する。
右のグリーンベルトの歩道のあたりには
川が流れていて土手は吉原へと続いていた、楕円形の石はこの地にあった石橋の一部。
三嶋神社(みしまさま)の角をまがりてよりこれぞと見ゆる大厦(いえ)もなく、
かたぶく軒端のきばの十軒長屋二十軒長屋、、、
「これぞと見ゆる家もなく・・・」
明治のころはそうだったのでしょうね、ずーっと寛永寺の火除け地だった。
江戸のころにはわざわざ田んぼを埋め立てて吉原を持ってきた。
千束、竜泉、下谷、、、範囲は狭い、自転車で走れば10分くらいで走り抜けちゃう。
けどあっちこっちと寄り道したら結構な時間を喰っちゃった、
帰途につく前にもう一か所「金太郎飴本店」は地下鉄三ノ輪駅の近く。
昔は樋口一葉の顔を金太郎飴状態にした「一葉飴」も売ってたそうだけど、
残念ながら今は生産していないようです。
どこを切っても一葉の顔が出てきたら面白いね。
昔、五千円札に一葉が登場したころ一葉記念館近くのお煎餅屋さんで
その五千円札煎餅を買ったことがある、一葉もいろいろなところに顔を出していたんだなあ。
明治は遠くなりにけり、、、
でもその明治の偉人たちは今も私たちの身近で生き続けているんですね。
data: 撮影6月28日 「たけくらべ」の舞台を歩く
たけくらべの舞台になった場所だ。
ウチの庭みたいな所だけど
いざ歩いてみると結構広かったね。
私はいま吉原のお歯黒ドブ跡に立っている、
吉原の中央、仲之町通りから左右に伸びた道はここでお歯黒ドブに突き当たって終わる。
その道路は今ではなだらかな坂になっているけど正面の家の土台はスッパリと切れて終わってる。
吉原は四方を堀で囲まれ出入口は大門だけ、
私が立っているここは堀の水が黒くよどみ「お歯黒ドブ」と言われたその堀があったところ。
廻れば大門(おおもん)の見返り柳いと長けれど、
お歯ぐろ溝(どぶ)に燈火(ともしび)うつる三階の騒ぎも手に取るごとく、
明けくれなしの車の行来(ゆきき)にはかり知られぬ全盛をうらないて、、、
このお歯黒ドブ遺構を歩くとあちこちでこんな"段差"を見かける。
お歯黒ドブには巻き上げ式の跳ね橋があり遊女など郭内で死者が出るとこの橋から外に出す、
引き取り手のない遊女などは山谷堀を船で運ばれ浄閑寺へ投げ込まれた。
酉の市で有名な鷲神社、境内にある一葉の文学碑には郭のお祭りの様子が描かれている。
この年三の酉までありて中一日はつぶれしかど前後の上天気に大鳥神社の賑ひすさまじく
ここをかこつけに検査場の門より乱れ入る若人達の勢ひとては、天柱(てんちゅう)くだけ、
地維(ちい)ちいかくるかと思はるゝ笑ひ声のどよめき、、、
国際通りからちょっと入ったところに「樋口一葉旧居跡」、
しばらく行ってなかったので探したけどこんなところにあったんだ。
確かに当時はこの辺は寂しかったかも。
案内に従って一葉記念館に行ってみよう、すぐそこだ。
一葉記念館は定休日でお休み、前にある記念公園を。
「一葉女史たけくらべ記念碑」・・・達筆なので読めない。
樋口一葉は明治維新の直後の1872年生まれで、
同年生まれには、短歌の与謝野晶子、国文学の佐々木信綱らがいる。
そのかみの美登利信如らも この園に
来あそぶらむか 月しろき夜を
佐々木信綱
一葉記念館からは歩いても5分ちょっとの千束稲荷には一葉の胸像。
本郷菊坂町から下谷竜泉に引っ越し、この界隈での見聞や経験をもとに、「たけくらべ」や「わかれ道」の着想を得た。
八月廿日は千束神社のまつりとて、山車屋台に町々の見得をはりて
土手をのぼりて廓内(なか)までも入込(いりこ)まんづ勢ひ、
若者が気組み思ひやるべし、聞かぢりに子供とて油断のなりがたきこのあたりのなれば、
そろひの裕衣(ゆかた)は言はでものこと、銘々に申合せて生意氣のありたけ、、、
竜泉から下谷に入って「小野照埼神社」。たけくらべでは「小野照さま」として出てくる。
打つや皷(つづみ)のしらべ、三味(さみ)の音色に事かゝぬ場處(ばしょ)も、
祭りは別物、酉(とり)の市を除けては一年一度の賑ひぞかし、
三嶋さま小野照(おのてる)さま、お隣社(となり)づから負けまじの競ひ心をかしく、、、
小野照埼神社の「下谷富士」。
6月30日、7月1日は富士山の山開き、たくさんの人たちが富士登山にやってくる。
去年行ったけど雨の中だった、今年も行くのかな?。
昨日の三島神社、たけくらべ冒頭にその名が登場する。
右のグリーンベルトの歩道のあたりには
川が流れていて土手は吉原へと続いていた、楕円形の石はこの地にあった石橋の一部。
三嶋神社(みしまさま)の角をまがりてよりこれぞと見ゆる大厦(いえ)もなく、
かたぶく軒端のきばの十軒長屋二十軒長屋、、、
「これぞと見ゆる家もなく・・・」
明治のころはそうだったのでしょうね、ずーっと寛永寺の火除け地だった。
江戸のころにはわざわざ田んぼを埋め立てて吉原を持ってきた。
千束、竜泉、下谷、、、範囲は狭い、自転車で走れば10分くらいで走り抜けちゃう。
けどあっちこっちと寄り道したら結構な時間を喰っちゃった、
帰途につく前にもう一か所「金太郎飴本店」は地下鉄三ノ輪駅の近く。
昔は樋口一葉の顔を金太郎飴状態にした「一葉飴」も売ってたそうだけど、
残念ながら今は生産していないようです。
どこを切っても一葉の顔が出てきたら面白いね。
昔、五千円札に一葉が登場したころ一葉記念館近くのお煎餅屋さんで
その五千円札煎餅を買ったことがある、一葉もいろいろなところに顔を出していたんだなあ。
明治は遠くなりにけり、、、
でもその明治の偉人たちは今も私たちの身近で生き続けているんですね。
data: 撮影6月28日 「たけくらべ」の舞台を歩く
その時代に生まれたら、わたしも吉原で奉公していたかもね。
「くぅ太夫」←いつも腹ぺこみたいだね。(*´艸`*)
ネットの黎明期?。
「くぅ太夫」?、
太夫がつくと偉いほうね、若いのを引き連れて吉原を闊歩していたとか。
一晩10両、1両10万として100万かぁ。
「もっと美味しいものを食べさせてくんなまし」
「花魁は蝦夷地だったかな、彼の地のものより美味しいものは
この江戸では無理じゃろう、我慢しな」。
一日千両、
日本橋の魚河岸、人形町の芝居小屋、そして吉原。
おこぼれでもないかと走り回っているけど片鱗すら落ちてない、
でもそのうち、きっとそのうち・・・。(^_-)-☆