*『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 を複数回に分け紹介します。12回目の紹介
被爆医師のヒロシマ 肥田舜太郎
はじめに
私は肥田舜太郎という広島で被爆した医師です。28歳のときに広島陸軍病院の軍医をしていて原爆にあいました。その直後から私は被爆者の救援・治療にあた り、戦後もひきつづき被爆者の診療と相談をうけてきた数少ない医者の一人です。いろいろな困難をかかえた被爆者の役に立つようにと今日まですごしていま す。
私がなぜこういう医師の道を歩いてきたのかをふり返ってみると、医師 として説明しようのない被爆者の死に様につぎつぎとぶつかったからです。広島や長崎に落とされた原爆が人間に何をしたかという真相は、ほとんど知らされて いません。大きな爆弾が落とされて、町がふっとんだ。すごい熱が放出されて、猛烈な風がふいて、街が壊れて、人は焼かれてつぶされて死んだ。こういう姿は 伝えられているけれども、原爆のはなった放射線が体のなかに入って、それでたくさんの人間がじわじわと殺され、いまでも放射能被害に苦しんでいるというこ と、しかし現在の医学では治療法はまったくないということ、その事実はほとんど知らされていないのです。
だから私は世界の人たちに核 兵器の恐ろしさを伝えるために活動してきました。死んでいく被爆者たちにぶつかって、そのたびに自分が感じたことをふり返りながら、被爆とか、原爆とか、 核兵器廃絶、原発事故という問題を私がどう考えるようになったかということなどをお伝えしたいと思います。
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**『被爆医師のヒロシマ』著書の紹介
前回の話:『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 ※11回目の紹介
顔から胸にかけて焼けた若い娘の乳房に食いこんだガラス片をぬきとろうとしているときでした。すぐそばに荒縄で赤ん坊を負ぶった母親がいて、泣きながら、「3人の子供が焼け死ぬのを見て、この子だけ負ぶって逃げてきたんです。背中の子供は3人の子供の身代わりです。この子を助けて!」と訴えます。背負われた子供は、ふとももの後ろが大きく切り裂けて、すでに冷たくなっていました。母親にはそれまでにも何度も言い聞かせていたのですが、理解できる状況ではありません。
全神経を指先に集めて、乳房からいままさにガラス片を引きぬこうとしたその瞬間、母親がわっと私にとりすがりました。ガラス片はくだけて、さらに奥深く乳房に食いいり、まわりにいた者が息をのみます。
「助けてあげる。さ、おろしなさい」
手を合わせて祈る母親の腕をつかむと、かたく結んだ荒縄を切って、私は子供を抱きとりました。冷たくなったその皮膚はどこも焦げていません。切り裂けた傷口にヨードチンキをつけ、ぼろ布で丁寧にしばりました。
「明日になったら元気で乳をほしがるから、今夜は起こすんじゃないよ。むこうへ行って休むんだ。乳がよく出るように」
母親は私にむかって手を合わせると、血だらけの胸にわが子を抱いて、どこへともなく去って行きました。
村全体が野戦病院と化した戸坂村に、やがて夜が訪れました。燃え続ける広島の空が赤く焼けるのが見えます。そして、星明かりを飲みこむ「きのこ雲」。爆発直後の形をだんだん変えながら、それでもなお君臨するその姿は、昼間にもまして不気味で威圧的でした。
うめく声、叫ぶ声、すすり泣く声、どなる声、さまざまな人間の赤裸々な声が入りまじる校庭では、ろうそくの灯を頼りに、夜を徹して治療が続けられました。夜になっても、街道から流れこむ負傷者は引きも切りません。犠牲者の数もあとからあとから絶えることはありませんでした。
翌8月7日になると、もっと上流のほうの村からも元気な村民がムシロをかついできてくれて、空き地の乾いた土の上や道路にもムシロをどんどん並べて、患者をそこへ寝かせます。カンカン照りでしたから、ヨシズを上に張って竹を柱に4本立てて日よけを作る。それが私たちの病室になりました。名もなき人々のやさしさを感じるときでした。
焼けただれた重傷の人、ガラスが刺さった酷い外傷の人、とにかく最初の3日間くらいは治療している最中にどんどん死んでいきました。一人死ぬと、そこへ新しい患者を寝かせる。死んだ人の死亡診断書に「火傷」と書く。火葬にする。その繰り返しで、ものを考える余裕はありませんでした。
(「5 直後の戸坂村、被爆者救援に奔走する」は今回で終わり、次回は「6 未知の症状で死んでいく被爆者」です)
※続き『被爆医師のヒロシマ』は、9/14(月)22:00に投稿予定です。
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