バパは基本的に物質力にはナフスamarah(アマラ)を植物力にはナフスaluamah(アルアマ)を対応させて話をされます。
しかしながらこの対応が逆転した時期が二回ほどありました。
というわけで、この対応関係の歴史的な経緯をまずはレビューします。
1950年6月 バパ Sinar Pribadi ( The Light Of The Inner Self ) 和名「内なる我の光」 脱稿
但しこの書物の中にはナフスそのものが登場しません。
1952年 スシラ ブディ ダルマ 脱稿
ナフスは登場するものの、「怒りと貪りと忍耐と受容」の四つのナフスであり、この時点ではそれぞれのナフスには名前は与えられていない。
(第十一章 アスマランダーナ 48節)
今もし名前を与えるとするならば「怒りー>ナフスamarah」、「貪りー>ナフスaluamah」、「忍耐と受容ー>ナフスmut-mainah」となりましょう。
次は関連する一連のトークです。<--リンク
4月4日 1968- Bapak
その光または色は赤です。
その情熱はammaraです。
これは野菜の生命力です。
12月5日 1970 - Bapak
野菜の生命力から生まれるナフスnafsuはアルアマaluamahである。
11月26日 1972 - Bapak
次にあなたはまたナフス・アルアマnafsu aluamahによって満たされるか、または力が供給されています。
これはナバティアnabatiah又は植物の生命力から生じます。
4月24日 1984 - Bapak
それ(ナバティ:植物力)は怒りの情熱ナフス・アマラnafsu amarahを生じさせます。
1月19日 1985 - Bapak
ロホ ナバティ(植物力)、
それは、ナフス・アマラnafsu amarahを体現します。
5月9日 1985 - Bapak
そして植物の生命力からナフス・アルアマnafsu aluamahは人間の存在内に具現化され、あなたがまだ生きている間にあなたはそれを取り除くことはできません。
6月24日 1985 - Bapak
さてこんどはナフス・アルアマnafsu aluamahについてです。
これは、野菜や植物の生命力に由来します。
6月25日 1985 - Bapak
これらはナフス・アルアマnafsu aluamahと呼ばれるものであり、それは植物の世界から来ています。
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上記バパのトークの部分についての英文からの引用は以下を参照願います。
Chapter 2 nafsu Amarah (anger) and nafsu Aluamah (greed)<--リンク
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以上をまとめます。
1952年 スシラ ブディ ダルマ ナフスには言及あり、しかしそれぞれの名前は表現されず。
↓
1968年4月4日 時点では
バパの認識は「植物力ー>ナフスamarah」
↓
1970年12月5日 ~ 1972年11月26日 アマラからアルアマに変化
バパの認識は「植物力ー>ナフスaluamah」
↓
1984年4月24日 ~ 1985年1月19日 アルアマからアマラに戻る
バパの認識は「植物力ー>ナフスamarah」
↓
1985年5月9日 ~6月24日~6月25日では再度アマラからアルアマに変化
バパの認識は「植物力ー>ナフスaluamah」
こうしてみますと植物力に対応させるナフスがamarahとaluamahの間で行ったりきたりしている事がわかります。
(当然ですがバパが植物力にナフスamarahを対応させている時は、物質力にはナフスaluamahを対応させている事になります。)
そうして、このような状況は単に「バパの言い間違い、思い間違いである」とはとても考えられない、それぞれの文脈で起きています。
(但し言い間違い、思い違いである、としてもそれはそれで結構重要な問題にはなりますが、、、。<--リンク)
それでは上記のような状況を「言い間違い、思い違いではない」としたら、それをどのように解釈したらよいのでしょうか?
例えばこのようなトークが手掛かりになるものと思われます。
6月26日 1984 - Bapak
ハートとマインドのnafsuの性質は、アルアマaluamahとアマラamarahで、貪欲のnafsuと怒りのnafsuです。
この主張がバパの基本的なスタンスを表している様にみえます。
そうしてそれは「この2つのナフスは必要なものではあるが、その位置は低い」という認識です。
そうであれば「この2つのナフスを生命力のステージと結びつけるならばそれは物質力と植物力が相当である」ということになります。
さてそうなるとどちらをどちらに結びつけるのか、という問題が残ります。
インドネシアの伝統(ワヤンなど)に従うのであれば、アルアマaluamahが最初でアマラamarahが二番目となります。
しかしながらアルアマaluamahは食欲(食べること)に関係つけられた内容も持っていますので、その意味では植物力に結びつけた方が妥当である、、、とも考えられます。<--リンク
、、、などなど「バパもそのあたりでいろいろと考えて迷われたのではなかったのか」と推定する事も可能な状況ではあります。
さて、ナフスとロホの一対一対応の件、この辺りの事はバパも少々無理をされた様にみえます。
もともと「ナフスとロホはその出自が違っている」ということは以前の記事で指摘した通りです。<--リンク
したがって、「生まれが違っているものを一対一対応させる」と「やはりどこかに無理が生じることになる」というのがここでの結論の様に思えます。
しかしながら他方でロホもナフスも人の内部の生命構造の話であり、そうして人体はこの世界に一種類しか存在しませんから、インドネシアにおいてはどこかの時点でこの2つの概念が出会う、ということはある意味、必然の事なのでありました。
ちなみに二代目がバパが何度も説明してきたこの「ロホとナフスの1対1対応を語らない」のは何故でありましょう?
そうしてほぼ同様の内容を伝える為にバパがあまり使われなかった「ジワ(Jiwa)とスクマ(Sukma)の関係」(59,8,7:注1)を用いて説明をされるのは何故でありましょう?
そのような二代目の説明の仕方では4つの諸力の各々の力には言及する事なしに、それらをひとまとめにしてジワ(Jiwa)と呼びますから上記のようなアマラとアルアマの混乱した対応関係の説明を回避できるのであります。(注2)
そうしてその状況がさらに進みますれば「4つのナフスを低次の諸力」(2,14,2003)と表現するところまでに至り、ロホとナフスの1対1対応関係は完全に見えなくなる、隠されてしまうのでありました。<--リンク
もしこのような二代目の説明の仕方が、上記本文にあるようなバパの「ロホとナフスの1対1対応のさせ方が時期によって変化している」という事実から我々の目をそらす為のものであるとするならば、それはあまり愉快なもの、誠実な行為であるとはいえないでありましょう。
そして、そのような意向があったとするならばそれは「バパは間違う事がない」という主張が否定されるのは困る、と考えたからであると思われます。
但し困るのは「バパは常に正しい」「トークには間違いがない」と主張したい人たちであって、当のバパは「バパの話を単純に信じないでください。あなた方が体験した事を信じてください。」といわれていますので、仮にトークに間違いがあっても「あっ、そう。」で済んでしまう話なのでありました。
注1:(59,8,7)バパ トークより
「ですから、魂(ジワ)はこれ(精妙体:fine body)を満たし、目覚めさせ、命を与える生命力です。
それによってそれ(精妙体)はほんとうに動くのです。
そしてスクマ(Sukma)は、この粗い肉体の精妙体です。
実際には、精妙体は一つだけでなく五つあります。
ですから(ジャワでは)5人の兄弟について話すのです。
第一は黒、第二は赤、第三は黄、第四は白、第五は褐色です。
・・・・・
これら五人の兄弟は、人間のハート(心:感情)を占拠、あるいは住み家としていると言われ、パッション(ナフス)を代表しています。
それらは、aluwamah、第二はamarah、第三はsupiah、第四はmutma'inah、そして第五はナフスではなく清浄さの状態です。
(そして)第五は(前の四つの)集合体、結合体でもあります。
それはユニティ(Unity:一体性)を形つくります。」
注2:たとえば二代目トーク(12,20,1999),(1,20,2001),(4,22,2001)などのJiwaとSukmaの一連のシリーズがあります。<--リンク
PS
以下、(4,22,2001)から引用しておきます。
4月22日2001 Ibu
人間存在には2つのものがあります…2つの内容物があると言うことができます。
私はそれらを記述するためのよりよい方法を知りません。
インドネシア語ではジワJiwa [魂soul]とスクマsukma [微細体fine bodies]と呼んでいます。
スクマsukmaは微細で形がはっきりしない体を持ちます。
(他方で)肉体は私たちのコォース・ボディーcoarse body(粗体)です。
人間の魂human soul は、それが私たちの生命力であるため、私たち自身に入る最初のものです。
ファイン・ボディー(微細体)は私たちの魂soulの後に入ります。
というのも、ファイン・ボディー(微細体)は私たちの生活の道具なのですから。
それらのファイン・ボディー(微細体)はそれぞれが異なる5人兄弟です。
1つは黒、1つは赤、もう1つは黄色、1つは白、もう1つはこれら4つの色の混合物で褐色です。
そして、それぞれの色はそれぞれの性質を持っています。
最初のもの、黒いものはエネルギーを放出し、あるいはその本質は私たちにエネルギーを与えます。
赤いものは私たちが働きたく、動きたくさせます。
黄色いものは人生について知りたくさせます。
4番目のものは人の人生の中で判断することをしたいので、心の中のすべての考慮事項のために、人生において注意深く行動することを主張します。
そして5番目のものはそれらの色の組み合わせです。
誰かが経験したことの中で意味を見つけることができた後で、彼らは彼らの人生の中で平和を見つけます。
この5人の兄弟姉妹は、それぞれ独自の性質を持ち、人間の心に基づいています。
だから私たちがスクマsukmaと呼んでいる、それぞれが自分の性質を持つものは、全能の神が私たちの中に入れてくれた助力者になります。
そしてそれらは私たちがこの世界で私たちの生活のために必要なものを得るために必要な助力者です。
これらの助力者は人生の助手ですが、それらは私たちの低次の諸力とも呼ぶことができます。
私が低次の諸力という言葉で意味するのは、私たちの人間の魂human soulよりも低いものでありながら、もし私たちが自分たちの(人間としての)存在の地位を管理したり維持したりすることができなければ、私たちの存在を(私たちに代わって)引き受ける事が出来るというものです。
(注:人間の魂に代わって低次の諸力が人間を支配することができるということです。)
だから、これら2つの内部にあるものについて、1つは神の意志によって生きるもです。
それは自分の中にある神の本質(エッセンス)によって支配されています。
もう一方の内部にあるものは、私たちがスクマsukmaと呼ぶもの、ファイン・ボディー(微細体)は、人間の心によってかじ取りされ、制御され、操作されます。
この事は、魂soulが神につながる生命力であることを意味しますが、他方で私たちはファイン・ボディー(微細体)を使ってこの世界で物事を達成します。
ファイン・ボディー(微細体)を使うことで、スクマsukmaの力から引き出された力を得ることによって、人は何かを達成することができます。
しかし、神への道を見つけることになると、人間の魂human soulのみが私たちを神に近づけることができます。
それで明らかに、ファイン・ボディー(微細体)自体がこの世界を超えて行くことはできないので、あなた方はスクマsukmaを使う事で、ファイン・ボディー(微細体)の力で、この世界を越えることはできません。
しかしこれらのファイン・ボディー(微細体)は、この世界であるいは仕事や信仰において必要なものを得る時には、人々を助けることができます。
たとえば、催眠術、スピリチュアリズム、およびその他の訓練などによって。
彼らは、私たちが私たちの中にあるものから得た助けに似ているようです。
しかし、2つの異なるソース(源)があります。
異なるソース(源)によって、私は一つの源が神の本質(エッセンス)であることを意味します。
他の源は人間の心(ハート)です。
彼らは似ているようです。
時にはその違いを見つけることができません。
もちろん、これらの力(ファイン・ボディー(微細体)の力)を使う事は間違いではありませんが、これらの力を使う人が自分が何をしているのかを知っている必要があります。
PS
最終的に二代目が黙認する事になったロホとナフスの対応関係については、以下の記事を参照ねがいます。
・雑記帳39・ナフスnafsuについての注釈@トーク翻訳チーム<--リンク
PS
以下ジャワの伝統的な教えの中のナフスについての説明です。ご参考までに。
Gumelaring Jagad 第41節に4つのナフスについての記述があります。<--リンク
(上記リンクが不調の場合はこちらからどうぞ。<--リンク)
同様に「ジャワの4人兄弟の教え」についてです。
Cipta Tunggal 第16節を参照ねがいます。<--リンク
ちなみに4人兄弟に本人を加えた5人で、一卵性の5人兄弟となります。
(上記リンクが不調の場合はこちらからどうぞ。<--リンク)
PS
以下ご参考までに。
・ケジャウエン、ジャワの伝統的な精神的な教え<-ーリンク
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PS
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