ラティハン日記2

ラティハンと人生の散歩道

雑記帳30・ラティハンの目的

1987-08-30 | 日記
バパはイスラムやスーフィーズムのコトバを使ってラティハンの説明をします。
これはバパの生い立ちからすれば自然な事でありましょう。

さて、スーフィーズム。
その目指すところは「神人合一の境地」の様です。
ファナーfana'からバカー baqa'へと進む事が目的です。
そんな境地でアル・八ラージ al-Hallaji は「アナ・アル・ハック] "Ana al-Haq."と言いました。
「我こそは神なり」と。
大胆不敵であります。
そうして、時の王によって処刑されてしまいました。

時に「The Path of Subud」のKafrawiさんによれば、ラティハンの目的もファナーfana'からバカー baqa'へと進む事だそうです。
しかしながら、場所がインドネシアですから、それはインドネシア語でmenunggalkanという言葉で表現されている、と主張されています。
以下、Kafrawiさんの「The Path of Subud」からの引用です。注1
C. The mystical goal of latihan
『バパは、彼のシステムの最終目標としてmenunggalkanという言葉を使用しています。
menunggalkanという言葉は、単数形または単数形を意味する名詞のtunggalから得られる推移的動詞です。

ジャワ語では、「setunggal」という語は1つを意味する。
"Kulo gadah buku setunggal"(私には1冊の本がある)。
一方、ジャワ語で「tunggal」という言葉は、同じ起源から来ることを意味します。
"Rahmat lan Arif tunggal guru"は「RahmatとArifは同じ教師の教育を受けている」という意味です。

しかし、これらの種類の意味は常に同じ意味、すなわち同一性(ワンネス:oneness)の要素を持っています。
それから、文字通りmenunggalkanは、ジャワ人の間では、manunggalとしてより人気があります。

Manunggaling Kawulo Gusti(サーバントとマスターの合一)の言葉。(訳注:神と人との合一を表している。Kawulo:作られたもの;Gusti:主)
Loro Loroning atunggal(2つで1つ)。
Dwi Tunggal(1つのエッセンスを持つ2つ)などは、非常によく知られています。』

しかしながら、そのような主張は誤解でありましょう。
自分という意識がぶっ飛んで、「アナ・アル・ハック」などという事はラティハンの目的ではありません。
自分とその外側にあるものは常に意識しています。
そうして、その間の調和という事は、協会の会員にとっては大事な事でありましょう。
そうであれば、どのような政治体制の下であれ、協会の会員が「反政府主義者だ」といわれて刑罰を受ける、という事はないのであります。


さて、次はイスラムになります。
こちらはまことに厳格に生活の仕方から礼拝の仕方まで決められています。
やってはいけない事、やらなくてはいけない事、どちらでも良い事、そのように分けられて生活しています。
そのようにして現世で正しく生活したものがアッラーによって死後は緑園(イスラムの天国)に迎え入れられる。
それが目的です。

しかしながら、ラティハンをやっていく事で到達する所は、「外側にある基準、戒律ではなく、内側にある基準、戒律」という世界であります。
自分の外側にあるものによって言動を決めてもらう必要はありません。
物事の物差しは自分の中にあるのでありますから。

さて、漱石はこう言いましたか。
「即天去私」と。
孔子はこうですか。
「心の欲する所に従えども矩を踰えず(自分の思うがままに行なっても、正道から外れない。)」と。
まあそういう事になります。
ジワJiwaとナフスNafsuから来る意思や欲望の相違が見分けられる様になれば、そのように出来ます。

しかしながら、初心者はくれぐれもそのような真似はせずに、ご自分の従ってきた基準、戒律、常識的な判断から離れない事が大切です。
そうでなければ単に自分の欲望に振り回されているだけでどこにも到達せず、天国行きどころか地獄行きが確定してしまいますから、注意が必要な所です。

追伸
人が決めた、あるいはそれは神から受けたものかもしれませんが、少なくともそれは自分が受けたものではない、そのような戒律に従う事。
それが今までの宗教と修行方法の在り方でした。
そうして、そういうものと自分自身のありようというものが、どうしても一致しなかった、というのが個人的な経験であります。

その点でラティハンというのはまさにぴったりのものでした。
そこには何の戒律もないのですから。
「自由だ」と思ったものです。

しかしながら、それはラティハンの一面でありました。
もう一つの面、それは「自己責任」であります。
誰も何も言わないから「自由」ではありますが、自分の言動はそれなりのカルマを作り出します。
汚さなくてもいいもの、浄化したものをわざわざ元に戻さなくてもいいのに、そういう事をします。

それは明らかにラティハンの邪魔をしている事になるのですが、その事になかなか気がつきません。
そうして、そういう事が分かってようやく「自己規律が大事」という事になり、その上での「個人の自由だ」という事になるのであります。
そういう事になっておりますので、「自由だから何をしてもラティハンをやっているから大丈夫」などという幻想をいだかないように、特にお願いしておきます。

PS
ジャワ神秘主義の民族誌」によれば、『クバティナンの目的は, 感覚的欲望ナプスnapsuを統御して生命の源, すなわち神Tuhan と合一することにあり, このナプスという概念こそがクバティナンの人間観の核をなしている。』という事になっています。<--リンク

人によりいろいろな言い方はあるものの、このテーマはクバティナンの大きな一つの目標である事は明らかな事として良いでしょう。

そうしてこれをジャワ語では「Manunggaling Kawulo Gusti(ロードとサーバントの合一:Lord Servant model)」というのであります。

注1
原典はこちら、THE PATH OF SUBUD (1969) Author: Drs Kafrawi : Kafrawi McGill University Montreal.<-- Link

PS
アブラハムの宗教では入信と宗教が教える行為の実践、神への礼拝によって信者さんは天国に行くことができる、とされている様です。

さてそれは基本的には信仰対象となっている「神」によって「良いかな」とされたものが「(死後に)天国に至る」のであります。

それではラティハンではどうでしょうか?

ラティハンは手段、方法であって、それによって我々の内部感覚内に積もったあやまり、あるいはカルマを浄化することによって天国に至るのであります。

そうしてそのような浄化の過程、あるいはその結果というものは自覚的に認識可能なものの様であります。

さてそういうわけで、死後に神の審判を待つ必要はなく、生前において死後の行く先が分かるとバパは言っているのでありました。

追伸
以上のような事はバパは強調されませんでした。

バパが暮らしたジャワはインドネシアではほとんどの協会の会員はイスラムでした。

そのような中で「単にイスラムであるだけでは天国に(あるいは緑園に)いけませんよ」と声高に言う事は相当の反発を覚悟する必要がありました。

そうして、そのような事はバパは望まれませんでした。

したがって「分かるものだけに分かる」様にしか話されませんでした。

しかし、本質はごまかす事はできません。

そういう意味では、アブラハムの宗教が宣言している内容と、バパの主張は実は鋭く対峙しているものなのであります。

追伸2
さてそういう訳で「信ずる者は救われる(天国に行く)」と判断した方々は、それぞれの宗教に従っていく事になります。

かたや「いや、死後の生命については、死ぬ前に確認しておきたい」と考える者はラティハンに従ってそのような境地を目指します。

それはまた「ラティハンに従う事が天国に向かう事である」と判断した、という事でもあります。

そうであればバパがラティハンを広め始めた以降、この世界には天国に向かう2つの道が存在する事になりました。

一つは従来からある「宗教」という道であり、もうひとつは新たに登場した「ラティハン」という道であります。


PS
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