バパの説明の背景にはバパの世界観、バパ独自の世界のとらえ方、理解の仕方がある。
そうして、その世界観に基づいた説明をされる。
それゆえ、聴衆がその世界観を受け入れることができれば、バパの説明は一貫性のある、理路整然としたものとして聞き手に理解されることになる。
しかしながら、他方で世界にはありとあらゆる世界観が存在している。
そのうちの或るものはバパの世界観に近いであろうし、あるものは遠く離れている。
そうであるのが実情であり、その為にバパの世界観を受け入れられる人たちにしか現状はラティハンが広まっていない。<--リンク
そうして、その人たちは本当に世界のほんの一部分にしかすぎないのである。
しかるにラティハンというものは、その人がどのような思想、信条、宗教をもっていようとも、その人が本当に希望するならば、受ける事を意図するならば、受け取ることが可能なものである。
そうして、このことはすでに何度も何度も確認されている事実でもある。
さてそうすると本質的にラティハンの方がバパの世界観よりも広い、、、ということになりそうである。
バパの世界観は世界のごく一部の人たちにのみ受け入れられている、、、というのが現状であり、世界のすべての人々に受け入れられる、ということは今までも起きていないし、今後も起こりそうもないことである。
まあこれは、ある一つの特定の世界観が人類すべてに受け入れられる、、、などということは今までもなかったことからも想像できることではある。
全ての人類に受け入れられるだだ一つの世界観などというものは、しょせん夢物語、あり得ないものであるからである。
さてそれゆえにバパの世界観を大事にしたいという思いと、しかしながらその事が引き起こす結果というものを我々は理解しておく必要がある。
そうでないとバパの世界観に固執するあまり、ラティハンの持つ包容力を結果的に限定するような事、阻害するような事が起こりうるからである。
そうしてそのような状況は本末転倒であり、バパの意向にかなうものでない事は明らかなことなのであります。
PS
ラティハンの目的はバパの世界観を我々会員が自分のものとして内在化する、、、という事ではありませんね。
世界にはバパは一人だけで十分であります。
そうして、我々もそれぞれが一人だけで十分なのであります。
バパはバパのユニークさがあり、そうして同じように我々も一人一人がユニークでなければなりません。
バパの真似なぞ到底できるものでもありませんが、いずれにせよ「人まね」というのは本質的にラティハンとは相いれないものでありましょう。
ラティハンというものは我々が他人ではなく自分自身に戻る道であるからです。
そうして世界観のことをいうならば、我々は一人一人がラティハンと自分の人生から作り上げる、それぞれに独自な世界観を持てばそれで十分なのであります。
PS
我々ラティハンの道を歩くものは、バパの説明を聞く必要はあります。
但し、聞いたうえで何を信頼して自分の道としてラティハンを実習していくのかは、個々人が決めなくてはいけません。
人から聞かれたときに「私はバパを信頼してラティハンを受けます。」というのは一つの答えではあります。
「バパ」という替わりに「唯一神」と答える方がいるかもしれません。
しかしながら、「だからあなたもそうしなさい。」というのは言い過ぎでありましょう。
あなたはあなたが信頼できるものを信頼すればいいのであります。
人は自分が信頼できるものを選んで、そうしてラティハンの道を歩く事が出来るのです。
そういう意味において、ラティハンの道というのは従来の道と比較するならば、とても自由度が高い道なのであります。
PS
地球上に多くの宗教が存在するようになりました。
そうしてそれらの多様な宗教を信仰している多様な人類が現に存在しています。
従って、ただ一つの概念、世界観、アイデア、超越しているものの設定でそれらすべての人々が同時に満足するという事はもはやありえません。
これが現状であり、言い方を変えるならば、「これがコトバによる説明の限界」になっています。
他方でラティハンを継続していけるならば、それぞれの人がその多様な世界観に合った形での、それぞれの回答を受け取ることができる様です。
それがどのような形でそれぞれの人に与えられるかは、一概にはいえませんが、そのような体験を得ることができます。
つまりは、それぞれの人にマッチした、オーダーメイドの納得が得られるのであります。
このようにしてラティハンは「コトバによる説明の限界」を超えていきます。
ラティハンの性質がそのようでありますので、「ただ一つの世界観で全ての人が納得できるようにラティハンを説明できる」とか、あるいは「このラティハンの説明の仕方のみが唯一正しい」、というような考え方には賛同することはできません。
たとえそれがバパのトークから導き出されたように見える説明であっても、その説明は尊重され傾聴に値するものではありましょうが、それがラティハンを説明できる唯一のものではないのであります。
PS
「バパのコトバを変えるな」と言う人は結局のところ「バパの世界観を守れ」と言っているのであります。
しかしながらバパは一言も「私の世界観を守れ」とはおっしゃいませんでした。
それどころか「まだ本当には信じないでください。自分で体験するのが先です。」と言われていました。
さて、「バパの世界観を守れ」と言っている方は、その事によって何かの利益を得ているのでしょうか。
たとえば人にバパの世界観を説明する事が上手であり、それによって人々から尊敬を集めることができている、、、とか。
そんな風にも感じてしまいます。
バパは「リアリティーを話しているのだ」といっておられました。
さて、リアリティーというのは我々がそれを信じないと、我々がそれを守り保護しないと消えてなくなる様なものでしょうか?
そうでありますから、我々がバパの話を信じるとか信じないとか言う事はバパにとっては何の意味もなさないものであります。
バパにとって意味があるのは、バパの話を聞く事で多くの人がラティハンを始めて、それを継続してゆくことであります。
そのためにあれほどの努力をされたものと了解しております。
PS
ラティハンというのはインドネシアが発祥の地であります。
そうであれば、彼の地では常識とされる考え方が協会の中に入り込むのは、まあ致し方ない事でありましょう。
しかしながら、我々インドネシア以外の国の住民は「それはインドネシアでしか通用しない、ローカルな考え方である」という事をしっかりと認識しておく必要があります。
さて、通常我々は「神を信仰している」という人については「その人は宗教を持っている」と見なします。
そうしてそのような判断はたいていの国では妥当なものでありましょう。
しかしながらインドネシアでは状況が異なっています。
なにせ全ての国民は「唯一の神を信仰する事」が憲法の序文で求められているのですから。<--リンク
そうして「宗教」の定義も国によって定められています。
イスラム、プロテスタント、カトリック、仏教、ヒンドゥー教、儒教に属する宗派のみが「宗教」とされます。<--リンク
それ以外の「唯一の神を信仰する者達、グループ」はクバティナン(信仰団体)と呼ばれて別の扱いをされています。
ちなみにインドネシア以外の国々では、これらのクバティナン(信仰団体)に相当するグループは「宗教」あるいは「新宗教」として認識されています。
さて、以上の様に宗教と信仰をとらえるのがインドネシアの常識であります。
そうでありますので、インドネシアにおいては「唯一の神を信仰します。」という宣誓は「私はインドネシアの国民です」と言っているのと同じで、誰にとっても何の抵抗もないものなのであります。
さて、所変われば、常識も変わります。
インドネシア以外の国では「唯一の神を信仰します」というのは「信仰告白」とみなされ、その方は「アブラハムの宗教」を自分の宗教として信仰している事を示すものになるのであります。
さてこれほどの認識のギャップが発生しているにも関わらず、世界中のどこの国でも「唯一の神を信仰します」と言わせようとする協会のスタンスは本当におかしな、グローバルでない、ローカルスタンスそのものなのであります。
(注:インドネシアにおいては「唯一の神」は「Tuhan Yang Maha Esa」と書かれ、それはアブラハムの宗教の神を含みますがそれに限定されません。
それゆえにインドネシアではパンチャシラ Pancasilaの下、「全ての宗教は唯一神への信仰をしている」とすることが出来るのです。<--リンク
ちなみにバパのトーク(インドネシア語)では「唯一の神」は「Tuhan Yang Maha Esa」と書かれております。)
PS
ご参考までに。
ラティハンの普及についてのまとめです。<--リンク
PS
文字サイズはページ右上で変更できます。
ラティハン日記 目次 にはこちらから入れます。<--リンク
本記事に対してのコメント、ご意見、ご感想などは
記事テーマを添えてこちらまでお願いします。<--リンク