ラティハン日記2

ラティハンと人生の散歩道

二代目の宗教観

2015-10-30 | 日記
一般論としての「宗教とは何か?」という問いかけに答えるのは並大抵のことではありません。

しかしながら、「二代目の宗教観」であれば、これは何とかなりそうです。


さて、二代目はイスラム教徒です。

そうでありますれば、まずは「イスラムの宗教観」から見ていくのが妥当でありましょう。


イスラム教徒は唯一絶対なる神、アッラーを信じます。

日本人の感覚からしますと、「アッラーを信仰しているので、私はイスラム教徒だ」と言えそうです。

いえいえ、実は「アッラーを信じる」のでさえ並大抵の事ではありません。

アッラーには99の特性があり、それらは全部コーランに記されているようです。(注1

そうして、それらすべてを理解して信じなければ、アッラーを信じた事にはならない様です。(注2


そして、残念ですがそれだけではまだイスラム教徒にはなれません。

あと5つの項目を心から信じなくてはいけません。(6信)

その上、「外部に現れる行動」として「5つの行為(教え)」を実践しなくてはいけません。(五行)

この「6信5行の内容詳細」については、こちらを参照してください。<--リンク


さて、イスラムからしますと、内的には「唯一神を信じる事」はもちろんではありますが、それを外部に表現する5つの行為が伴わなくてはならないのです。

つまり、「心で信仰対象を礼拝するだけでは宗教ではない」のです。

その上でコーランに書かれている「イスラム教徒としての行い(教え)」を実行しなくてはいけません。

これが「イスラムの宗教観」であります。


こうしてイスラムでは「宗教の戒律」、「社会の規範」、「国家の法治」が最終的に一致していく事が理想とされます。

そうして、そのおおもとにあるのがコーランです。

どのようにアッラーを礼拝し、どのように社会をつくり、どのように国を治めるのかがすべてそこから出てくるのであります。

そのためにイスラム法が作られました。<--リンク

そこにすべて「イスラム教徒が従うべき行動の規範」が決められています。

さあこれで大方の準備ができたでありましょうか。


さて繰り返しになりますが、イスラムでは人の内面の信仰とその人の行動の仕方が両方ともに細かく定められています。

そして、これと対照的なのがキリスト教であります。

キリスト教の場合は「信じるものは救われる」のであります。

ただただその人の内面の信仰のみが要求され、外面に現れる行動についての規範は特に定められてはいないのであります。(注3


こうして、ようやく二代目の次のコトバが理解できるのでありました。

・・・恐らく我々の協会は宗教でない故に、あなた方は甘やかされているのでしょう

確かに、協会には規範やルールがないので、あなた方は協会は重要なものではないと考えます。
(02・3・22)

あるいは

・・・これらのガイドラインは規定ではなく、人々がそれに反したことをしても、私たちはそれを問題にしません。
(14・7・21 CDK)

このように二代目は、「宗教とは規範やルール(教え)があるものである。」と。

しかしながら、協会は宗教ではない為、「(規定には相当しない)ガイドラインはあるものの、それらは強制力を持たない」と言っているのでありますね。


そうして

・・・ですから、宗教は、私たちに一種のしつけを埋め込むのです。

私たちはそれを望むと望まないとに関わらず、まず実践する必要があります。

それは必要なことです。

・・・というのも、私たちは、私たち人間が弱い存在であり、自分に対するしつけを好まない傾向にあることを理解しているからです。
(91・9・15 CDK)

ここでは「宗教とは実践するものである」といっています。

まずは「決められたこと(教え)」があり、それを実践し続けていくと。

「それが宗教である」と言っています。


最後に

・・・その助言は、私たち全てが経験しているように、人間生活の一部になっています。

私たちは、生まれる時、結婚する時、死ぬ時に(さまざまな宗教的慣習に従う)ように、赤ん坊の時から宗教によって影響を受けているのです。

明らかに、宗教は私たちの生活に深く浸透しています。

それは何世代にもわたって受け継がれ、私たちの生活に深くしみ込んでいます<--リンク

ですから、今まで宗教を実践していたのに、それを止めることは間違っているのです。

なぜ間違っているのでしょうか?

宗教が定め、助言することは、人間に必要な生活、秩序ある生活をもたらしてくれるからです。

例えば、宗教的な義務を果たすことは、私たちに対し、私たちが規律に従うべきであることを教えてくれますし、その訓練をしてくれます。

私たちには規律が必要です。

・・・・あなた方が自分の宗教を実践することは間違っていません。

逆にそれは各自の宗教に於ける、あなた方の義務です。
(12・5・12 BOD)


こうして二代目は「宗教とは規律(教え)に従う事を訓練するものである」と主張しておられます。

そうして「規律は我々会員にとって必要なものである」とは二代目の認識でありますね。

それゆえに会員は「宗教に決められたこと(教え)」を実践し続けなくてはいけない、、、のでありました。


以上、見てきましたように、「唯一神を内面で信じているだけ」では二代目にとっては「宗教に所属している」とは映らないのであります。

そうしてまた、単に「唯一神を信じています」と皆の前で信仰告白しても、それだけでは「協会が宗教団体である」とは見えないのでありますね。

当該の宗教が持つ規範(教え)を実践してようやくのこと、「あなたは宗教に所属している」とみなされるのでありました。


しかしながら、インドネシアではなく、そうしてイスラムではない国々の人たちにとってみれば「唯一神を信じています」という入会時の信仰告白の要求はまさに「協会が宗教団体であるかのように」見えてしまうのでありました。

それは通常は「心の中で唯一神を信じている」のであれば、それで十分に「あなたは信仰をもっている、宗教を持っている」とみなされるからでありますね。

このように「二代目の宗教観」と「インドネシア外での、イスラムでない人たちの持っている宗教観」は相当に異なっている事をまずは確認しておく必要がありそうです。


さて、インドネシアにはパンチャシラがあり、国民はすべて「唯一の神」を信仰することが要求されています。<--リンク

従いましてインドネシアでは協会に入る時に要求される宣誓のコトバ「唯一の神を信仰しています。」というのは「私はインドネシア国民であります。」程度の意味しか持たないこともまた確認が必要なことでありますね。

注1)「日本人の為の宗教原論」 小室直樹 著  P286参照

注2)バパのトークにも多くの「神についての記述」が現れています。
たとえば「バパトークの索引です・・」参照。<--リンク
ここでもすでに19の項目が現れています。

「なぜこんなにも多いのかな」とはまとめながら思ったものでしたが、こうしてみますと、「確かにバパもイスラム教徒であった」というのが答えの様であります。

注3)同上書 P327参照

PS
バパは「各国の協会はそれぞれの国の法律に準じるように」といわれました。

「それぞれの国が持つ、その国固有の法に反するようなことはしない」、当たり前といえば当たり前のことであります。

さてそれぞれの国の常識といものは法律と同じで国ごとに違っています。

したがって「インドネシアのイスラム教徒の常識」が世界中、すべての国で通用するはずがありません。

各国の協会がそれぞれの国がもつ法律に合わせるようにそれぞれの国の常識にも合わせていくこと。

これもまた当然のことのように思われるのであります。

PS
ところで、ラティハンさえやっていれば、規律は必要ないのか?

残念ですがそうはいきません。

原因があれば結果が付きまといます。

好き勝手な事をしながら進歩したい、、、というのは、どうあがいても無理な話でありますね。

このあたりのことは、「等価交換則あるいは修行論」を参照願います。<--リンク


さあ、そうでありますれば、二代目のいう「私たちには規律が必要です。」という主張は無視できるものではありません。

ただし、その規律を宗教に求めるか、それとも自分で決めるのかは我々に任されていることでありましょう。

二代目が主張されているように「宗教が与える規律」もありますが、「唯一宗教のみが規律を与えることができる」のではないのであります。

PS
赤堀の主張を見ていきましょう。(「イスラームの神秘主義と聖者信仰」赤堀 他 東京大学出版会 P35からの引用)

・・・・・
宗教にかかわる様々な研究において、一神教という宗教の在り方がきわめて特殊であることはすでに自明のこととなっている。
これをさらに突き詰めれば、そもそも一神教に対して「多神教」という概念でとらえられる宗教はあまりにも多様であり、実際にはそれは「一神教でないもの」を指す余剰の概念にすぎない。

それは西洋が自己を認識するために、反転像としての東洋を求めたのと同じように、いわば「宗教のオリエンタリズム」と呼ぶべきものである[cf サイード1986]。
しかも、このような認識がセム的一神教の伝統を共有することによって、ムスリムの間にも、それを研究する欧米の多くの非ムスリムの研究者の間にも、それとは知られずに自明の前提となされてきた。


信仰とその制度化された形態としての宗教は、本来はきわめて総合的な体系である。
それは日常的な意識の状態において認識可能な領域だけでなく、認識不可能な領域の存在をもあわせ認め、それらの総体としての世界を構想することによって成立している。

人間にとって未来が常に不可知なものである限り、その事実に向かい合おうとするところに信仰は存在し、それは人間生活のすべての面に関わって存在する。注14)

ゲルナーが潮の満ち引きにたとえたイスラームの二つの方向性は、より一般化すれば、世界の一体性と調和を一つの極とし、世界の多様性と変化をもう一つの極とする完成された世界像にともに備わるべきものである。

一神教とはそのうち前者の極に公には重きを置くことで作りだされるが、それによって世界の多様性と変化が一神教のうちから見失われるならば、その教えに長期にわたって人々を引きつける力を持たせることは不可能となる。
・・・・・

注14
デュルケムがかつて宗教を「信仰、儀礼、共同体から構成される複合体」ととらえたことを想起すべきであろう[デュルケム 1975 87-88]。
近代になって私たちは、宗教を「信仰という内面の問題に限定してとらえる」という誤りを犯してきた。


PS
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