熊手に引っ掛けられて浜に引き上げられる“平師盛”、この後浜で首を刎ねられ最期を遂げる。
(師盛は、維盛の弟で生年は十七歳とされる。)
<本文の一部>
寿永三年二月十二日、去んぬる七日、一の谷にて討たれたる平家の首ども、京
へ入る。平家に縁をむすぼふれたる人々、「わが方さまに何事をか聞かんずらん。
いかなる目をか見んずらん」とて、嘆く人おほかりけり。
その中に大覚寺に隠れゐ給へる小松の三位の中将の北の方は、「西国へ討手
の向かふ」と聞くたびに、「今度のいくさに中将のいかなる目にかあひ給はんずら
ん」としず心なく思はれけるところに、「平家は、一の谷にて残りずくなく滅び、三位
の中将といふ公卿一人生捕られて、のぼり給へる」と聞きしかば、北の方、「この人
に離れじものを」とぞ嘆かれける。
ある女房の来って申しけるは、「三位の中将と申すは、本三位の中将の御ことに
てわたらせ給ふ」と申しければ、「さては首どもの中にぞあるらん」とて、なほ心やす
くも思ひ給はず。・・・・・・・・・・・・・・・
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<あらすじ>
(1) 「一の谷」の合戦で討たれた平家の主だった人々の首が、寿永三年(1184)
二月十二日都に運ばれてくる。朝廷では公卿たちを集めて協議の結果、一
旦は" 都大路を引き回さない" と決まった。しかし、義経がこれに強硬に抗議
して、この決定は覆り、結局は「引き回しの上“獄門”にかける」ことになり、多く
の都人が群がったと云う。
(2) 大覚寺に隠れていた維盛の北の方や若君(六代)、姫君たちは、維盛の首
が“獄門”にかけられたものゝ中に“有る”のではないかと、気もそぞろであっ
たが、合戦には“病い”の為に加わっていないことが判り、ひとまず安心した
ような、又、“病気”のことが気がかりにもなる。
(3) 屋島に在る維盛は、都にいる北の方に手紙を届けさせる。一日も早く自分
の所に迎えて共に死にたいと思うが、貴女には気の毒なのでそうもなりませ
ん。この手紙を私の形見だと思って欲しいと、歌一首を添えた。
いずくとも しらぬあふせのもしほ草 かきおくあとを 形見とも見よ
北の方は悲しみにくれるが、急ぎ文を書き(若君や姫君の手紙も添えて)
屋島の維盛に届けさせるのであった。
維盛は、北の方からの返事を読み、益々妻子への恋慕の情
が強まり、とにかく先ずは都へ上って ひと目妻子に逢ってから
自害しようと心に決めるのであった。
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<別件ひとりごと>
先月(7月)3日、ちょっと変わった名前の「君が代起立条例」と云う
珍しい条例が大阪府議会で成立しました。
入学式や卒業式というフォーマルな場で国旗が掲げられ「君が代」が歌
われ全員が起立している中で、一部の先生方だけが起立しないという、
異様な風景が度々あり、自治体では初めてのルールを作ったそうです。
そもそも、法律で決めることが良いのか悪いのか判りませんが、これ
もひと悶着あって、今から二十年ほど前に国旗は「日章旗」、国家は「君
が代」とする“国旗・国歌法”というものができました。平成3年のこ
とです。
普段は自分の国の歴史なんて意識することはありませんよね。
意識しなくても生活に困りませんし・・・、でも何とは無しに知らない
ことの後ろめたさみたいなものを感じることって有るんじゃないでしょ
うか?
昔、私の小学校の頃、紀元節や天長節にはお祝いの式典が講堂であり
難しいお話は頭の上をパスして、式が終わると箱入りの甘~い「お菓子」
が全員に配られるのをひたすら待ちました。(~_~;)
その頃は当然ながら「甘いもの」は手に入らないので、それが楽しみで列
に並んだものでした。
ところで「紀元節」って、明治の初めころに作られたたそうで、初代天
皇の「神武天皇」の即位式の日だそうですが、これは有り得ません。
第二次世界大戦の敗戦後すぐに廃止されましたが・・・・。
日本の天皇家の“万世一系”というお話、これも戦後すぐに何人かの
学者が「三王朝交替説」等などが発表された位、いろいろな説があります
又、初代とされる「神武天皇」から今の天皇さんまで百二十五代。
その中で、初代の「神武」、第十代の「崇神」、第十五代の「応神」の三人の
方だけが、その謚号に「神」という字が使われています。これがどのよう
な意味を持つのか、いろいろな論議はありますが、お話していると長く
なりますのでパスします。
日本と云う国の名前“国号”のいわれが、日本の国史のどこにも
記されていません。国の公式な記録の国史にです。
ところが、よその国、古代朝鮮にあった三つの国のうちの一つ新羅と
云う国の国史“新羅本紀”にはちゃんと書かれているのです。西暦の
六百七十年に当たる条項にこう書かれています。
『倭国更めて日本と号す、日出ずるところに近し、以て名を為す』
とあります。変だと思うでしょう?何故でしょう・・・六百七十年は、
第38代天智天皇の亡くなられた前の年で、更に六百七十二年には古代の
畿内最大の戦闘と言われた「壬申の乱」が起きています。
これらの事に限りませんが、この不思議なことを誰も何も言わない
のが日本の歴史なのです。宮内庁は勿論、偉~い先生方もです。
初めにお話しした、「君が代起立条例」成立のひと騒ぎも含めて、所詮
はこの国の「国の始まり」の本当のところを教えなかった「咎め」の一つだ
ろうと私は思います。皆さんはどうお感じになりますか。
「戦前、戦中、戦後」を生きてきた一人としては、自分の生まれ育っ
た国の「生い立ち」を、若い社会人の人たちや子どもたちに是非知って欲
しいと願っています。
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