地福寺ブログ

地福寺は、宮崎県延岡市の山あいにある曹洞宗のお寺です。
永代供養のご相談も承ります。

虫供養

2011-06-23 10:25:47 | お寺の行事
梅雨明けとはまだ聞いていませんが、もうすっかり夏を思わせる気温です。
熱中症を心配する季節になりましたね。みなさんのところは大丈夫ですか?
こちらでは、お寺のまわりの田も、すっかり田植えを終えました。


ここの田んぼは、石垣?で棚田のようになっています。
少しでも広く田を作ろうとした先人の工夫が偲ばれます。


こういう真四角ではない田は、隅のところは機械は無理でしょうから、手で植えるのでしょうか。
水面に空が映ってキレイですねぇ。


田植えが終わるころに、お寺に「虫供養」のお願いが入り始めます。
田畑を耕すときに、そこに住む虫たちを知らず知らずのうちに
殺生していることもありますので、その供養という意味と、
今後、育っていく作物が順調に育つようにお護りくださいという意味があります。
そのお札の用意をしましょう。


世界地図がちょっと見えるのはご愛敬。息子の学習机を借りて作業します(笑)。
まず、書道で使う半紙を二つに切ります。


5色(赤・青・黄・緑・白)の紙で、やや小さめの短冊を作ります。
この色、仏旗(ぶっき)と呼ばれる仏教の旗印にも使われる色です。
お寺での作業は、紙を用意するところまで。あとは、その地区の皆さんと一緒になってお札を作ります。


完成です。
大きめの紙は、各戸に配る枚数よりも1地区あたり4枚よけいに作ります。
これは、その地区の外周、東西南北それぞれを守ってくださる四天王の幡を立てるところにも必要だからです。
どうぞ今年1年、害虫発生や台風などの天災に遭わず、五穀豊穣でありますよう、よろしくお守り下さい。

桃の木

2011-06-17 21:09:44 | 周囲の自然
先日、片方が折れてしまった桃の木です。
残った枝も、一部摘果しているのですが、それでもたわわに実っています。
実の重さでしなだれた枝先が、地面につきそうです。


一本の枝に何個付いているんだろう?


急きょ、枝を支えるために竹を噛ませています。どうか残る枝が折れませんように♪


あたりには、甘い桃の香りが漂います。
さすがに、これだけつけているので、食べてもそんなに甘くはないのですが…


すでに枝から落ちた実が、沢山転がっています。


よく見ると、誰かがかじった跡。ハテ?
いくらお行儀が悪くても、こんなかじり方をして、そのまま捨てる人はいないゾ。


じつは、近くに住むタヌキさんが桃を食べに来ています。
今度見かけたら写真を撮っておきましょう♪
朝みかけたときは、分校の建物の下に逃げて行きました。
付近の道路でも、時々見かけます。
山に食べるものが無いのかなあ。こんな桃でよかったら、どんどん食べて下さい。


春先は、綺麗な花で眼を楽しませてくれて、
夏には桃の実の恵みを頂ける。ありがたいことです。


紫陽花

2011-06-13 20:42:56 | 永代供養
花つながりで、もうひとつ。
永代供養墓に続く坂道に、いろどりが出てきました。アジサイです。


フチドリするように植えているアジサイが、花をつけています。
一部、昨日までの雨で、写真右側の斜面が少し壊れまして、何本が埋まってしまいました。掘り出せないかなあ。


こんな感じに咲く、ガクアジサイもあります。


花の色は、土壌の酸性度によって決まると、聞いたことがあります。
リトマス試験紙を思い出しますが、実は土壌の酸性度は、
たくさんある花の色を決める要因の中の一つでしかないそうです。
●ィキペディアの受け売りですが(笑)。


しかし、曇り空がこれほど似合う花もありませんね。
アジサイは、学名を「ハイドランジア・オタクサ」と言います。
ハイドランジアとは、水の入れ物という意味だそうです。
オタクサというのは、何だかご存じですか?
実はアジサイは日本原産の花です。品種改良はヨーロッパで盛んに行われましたが、
この花を最初にヨーロッパに伝えたのが、江戸末期に長崎に来ていた医者のシーボルトさん。
シーボルトは、長崎で知り合った女性「お滝さん」と結婚しますが、
オタキサンと発音できずにオタクサン、と呼んでいました。
これがそのまま、花の名前になったのです。
ヨーロッパにはない紫陽花を見て、よほど気に入ったのでしょうね。
このお二人には、その後、劇的な別離と再会があるのですが、それはまた別の話…。
この話、長崎のお寺で修行中に仕入れました。


お地蔵さまも、このアジサイの色を楽しんで頂けてるでしょうか?



タイサンボクの花

2011-06-13 20:35:43 | 周囲の自然
梅雨に入っているのですから仕方がないことですが、よく雨が降りますねえ。
春先まで、水不足だと言っていたのがウソみたいです。

そんななか、庭のタイサンボクが花をつけていました。
やや高い枝についた花ですが、かつ雨天ですが、撮影決行!
…やはり、上手に撮れたのがありませんでした…。



タイサンボクには、白くて大きな花がつきますよね。
葉も光沢があって厚みのあるものですから、全体的に大味な植物とでもいいましょうか。

妻曰く
「絵心のない人が、木と花の絵を描いたらこうなった感じ。」


…うーん、的を得ているようで、タイサンボクがかわいそうな気もするなあ(笑)。

東北ボランティア

2011-06-11 21:06:10 | 日常のヒトコマ
5月30日から、布教の研修や、古い友人に会うために、東京と埼玉へ出掛けていました。
それらの用件が終わった6月5日の日曜日、私は羽田から宮崎へは戻らずに福岡へ飛びました。

雲が多いけど、よい天気です。

じつは、かねてから行きたいと思っていた、震災のボランティアに参加できることになったのです。
SVA「シャンティ国際ボランティア会」という組織があります。
以前は曹洞宗が主体となっていた会なのですが、現在はいち宗派にとらわれず、広くボランティア活動をしている組織です。
なので、曹洞宗の僧侶も多く参加しているんですね。
今回は大分県の方が呼びかけ、福岡のお寺へ集合し10名程度で東北を目指すことになっています。
私は今回が初めての参加ですが、同様なボランティアは、すでに何度か実施されているとのこと…。頭が下がります。
岩手県のお寺に2泊させてもらい、お弁当を作って避難所へ持って行く形の炊き出しを行いつつ、
別の仮設住宅へ、託された支援物資を渡す計画です。

物資を運ばねばなりませんので、陸路での移動になります。
福岡から岩手県まで、車で行くと、ほぼ丸1日の移動時間です。
5月末からの2週間で、私の移動距離はどれくらいになるんだろう…?

さて、5日の日曜、20時に福岡のお寺を出発しました。
ここは昔、師匠が修行したお寺でもあります。私も長崎時代に何度かお邪魔しました。

九州、山陽、名神、北陸、磐越、東北の各高速道路を経由して、翌6日の夕方、岩手県一関市に到着。
現地におられた方と合流し、まずは被災地を見てもらおうと、気仙沼市本吉町へ。

そこには理解を超えた光景が広がっていました。
後日、帰宅してから地図を確認することになりますが、
そこには確かに町があるはずなのに、本当に何もないのです。


気仙沼線の線路は、大きく削り取られていました。
保線作業をしておられた方は、さぞ悔しかったことでしょう…。


ここには「陸前小泉」という駅があった場所です。
これも、この標識があったから判ったのであって、駅らしきものは何も残っていません。


ふと見ると、「ガレキ」とひとまとめに表現することができないものがあります。
誰かが、大切にしていたものだと思うと、つらいです。


陸前小泉駅から北を見ます。線路があった築堤とそれに続く鉄橋の高さは、5~6mはありますが、
津波の跡は、それを軽々と越えています。


このあと気仙沼市内のお寺を訪ねた後、拝宿する一関のお寺へ向かい、そのまま休みました。

明けて7日の朝から、炊き出し開始です。がんばるぞぉ。


皆さん本当に手際が良い。私はといえば足手まといにならないように必死なのですが…むむむ。


お弁当の完成です。これにお味噌汁がつきます。喜んでいただけると嬉しいなあ♪
これは、陸前高田市の避難所へ、夕食として届けます。


避難所になっている特別養護老人ホームへ届けたあと、被害が甚大だった陸前高田の町を見てみます。
ここは、地震直後に「壊滅状態」と伝えられた町です。当初は被害の状況すら判らなかったですよね。
この写真の奥の方、野球場のナイター照明が数本立っているのが見えますか?
津波は、これを超えて来たのだそうです。絶句です。


町には、道路しか残っていません。この道路も、自衛隊の皆さんらが一生懸命切り開いたものです。
被災直後は、この道すら通れなかったことでしょう。
あちこちに折れた電柱があるので、立っている電柱は後に仮設したものだと判ります。


この照明を超える波とは…


この5階建てのアパート、4階までは全部窓がありません。
5階はかろうじて窓がありますが、中は全部水につかったそうです。


復興にはどれくらいの時間がかかるだろう…。正直、見当がつきません。


車も多く見られました。新聞やテレビでもよく見ていましたが、こうして現地で見ると、当然、細かいところまで目に入ります。
車内には、所有者がつけたアクセサリーなども残されていました。
付近の異様な光景と、こうした些細な日常とのギャップに、言いようのない怖さを感じます。


子どもの帽子。自分の家にもあるようなものを見つけるたびに、ここで起こったことを、わが身に置き換えてみます。


帽子の子が読んでいたのかなあ。絵本もありました。


鉄筋の建物は、骨組みだけを残して壁を持って行かれました。
「津波の時は3階建て以上のところへ避難」と言われていた3月11日までの常識は、もうありません。


さらに翌8日、もうこの日の夕方には帰路につかねばなりません。
参加者を半分に分けて、支援品の配給をする班と、お弁当づくりをする班に分かれました。
私は支援品配給班になりましたので、気仙沼市内へ向かいます。
ここは気仙沼市民会館の近くにある仮設住宅です。もとは野球ができるグラウンドだったようです。
隣には自衛隊の後方支援部隊が駐屯していましたが、なんと福岡の部隊だ。九州に縁があるなあ。

仮設住宅には、プライバシーが保てるという大きな利点がありますが、困ることもあります。
まず、入居したら、水道・ガス・電気などの公共料金の支払いが発生します。
また、避難所には救援物資や炊き出しなどが来る情報が入りますが、仮設住宅にまではそういう情報が来ないのだそうです。
最終的には、全員が仮設住宅に入って、生活を立て直していかねばならないのでしょうが、
仕事もままならない中では、さぞ不安なことでしょう。

そんな中での物資配給でしたから、大勢の方に集まって頂きました。
九州を出る時に託された果物やタオル、お弁当づくりで余った野菜や卵などの食材、
持ってくるのに使った衣装ケースまで、必要ならどうぞ、とお渡ししました。
上手に整理して、なるべく平等に配るべきだったのでしょうが、
もう、目の前の人に渡すのが精いっぱい。私たちも必死でしたが、皆さんもっと必死です。
もっと物資が沢山あればいいのですが、足りなかった方もいらしたでしょう。力不足で申し訳ありません。


仮設住宅の一角では、コンビニが仮店舗で営業中でした。
お店の人に話を聞くと、元々のお店も被災してしまったとのこと。それでもこうしてお店を出してくれています。
ありがとうございます。


配給が終わって、気仙沼港のほうを回りました。ここは被災直後、大火災が発生しました。
夜になってからテレビで中継された陸自のヘリからの映像を覚えています。


陸に流された船は数しれません。
そして、魚が腐ったようなにおい。多くの冷凍倉庫が被災していますので、強烈です。


燃料タンクがゴロンと転がっています。隣のトラックと大きさを比べてみて下さい。


気仙沼の中心部を抜けて、国道45号線、気仙沼バイパスへ。
途中、あちこちで被害が見受けられます。あるべきところではない場所に船が転がっています。


沢山のトラックが列をなして入っていく場所を見ました。
がれきの集積場所があるようです。
なにもなければ、穏やかな海沿いの国道なんだろうなあ。


最後に、バスを回すために、たまたま入った脇道で、お寺を見つけました。
そこも被災していましたが、そこには手作りの「いのりの広場」が作られていました。
思わず手を合わせます。
看板に、こう書いてあります。

いのってください
あなたのまごころを
被災した人たちに
手をあわせ
たむけて下さい
今だ帰らぬ人たちに
あなたのおもいを
その手につつみ
いのって
下さい

あとで地図を見ると、そのお寺は「地福寺」というお名前でした。
なんという偶然でしょうか!
帰宅してから地図を見た時は声が出ました。
「あっと驚く」とは、まさにこのことです。


この震災は、復興には5年や10年とはいわない時間がかかることでしょう。
まだまだ必要なこと、私たちができることがあることでしょう。
まず大切なのは、「忘れないこと」だと思いました。
遠い九州からも、できることがきっとあるはず。そう強く思います。