今度は逆の視点!『硫黄島からの手紙』(2006年18本目)

  
クリント・イーストウッド監督の硫黄島二部作の二部作目だ。
一部がアメリカ側の硫黄島戦にまつわる話を描いた「父親たちの星条旗」で
こちらが日本軍を描いた作品となっている。
(あらすじと内容は硫黄島からの手紙 - goo 映画を参照してください)

あ~二部作って、すごい効果があるな~!

海岸線防御のために作られたトーチカをめぐる戦いのシーン。
『父親達の星条旗』では観ている自分も米兵の目線になっていたから、
トーチカの機銃に狙われる側の恐怖を感じ。
今回はトーチカの内部から上陸してくる米兵を狙い撃ちする日本兵の目線。
前作では外から見ていた火炎放射に今度は自分がそれで焼かれる恐怖を味わう。

さらに前回は米軍艦船や上陸用舟艇から見上げた擂鉢山だが
今回はその擂鉢山の上から前回乗ってきた艦船や
上陸用舟艇を見下ろすことになるのである。

そして前作で洞窟の奥から聞こえてきた
連続するあの『爆発音』の音源の正体は・・・・。


『硫黄島』・・・東京、沖縄、グアム島のどこからも約1200Kmの距離。
すでに米軍の前線基地となっているグアムから、ここへ転進できれば、
米軍は一気に沖縄、日本本土への攻撃の距離が半分に短縮できる。

そして日本軍にとっては沖縄と本土防衛のためにも
絶対に失うことができない島。
でも当時の日本軍は本土を守る戦力すら心もとない状況。
もはや島に十分な支援もなく、硫黄島の日本軍は孤立無援の状況。

アメリカ軍は硫黄島を5日で占領できると読んでいたが実際は36日かかり
日本軍20,993名中、死者20,129名に対して、
アメリカ軍戦死6,821名、戦傷21,865名と戦死者こそ少ないが
人的被害が太平洋戦争中唯一日本軍を上回った戦場となった。

このアメリカ軍の予想外の苦戦が戦争継続の資金不足を招き、
『父親たちの星条旗』のあの不幸な英雄を作り出すことにもなる。
もっと言えばこの米国側の犠牲の多さや戦闘の長期化が、
後に終戦を急ぐアメリカの原爆の投下を決断させたのかもしれない。
36日持ちこたえたことが本当に日本にとってよかったとも
広い目で見れば一概に言えないのだ。

だから両方見ると前に書いた戦闘シーン以外でもリンクが発生して
とてもじゃないけど「日本軍頑張った!栗林中将偉い!」などとは感じられない。
勝者に英雄がいなかったように、敗者にも英雄などいなかったのだ。

だからどちらか片方しか見ていないのでは、
この映画の伝えたいことを完全に理解することは不可能だと思う。

これはどちらが先でもかまわないので、
この映画を観るなら必ず二作とも観るべき!


こちらの作品はそんなアメリカに多大な被害を与えた日本軍の戦いの内側に迫る。

この島を守る日本軍には職業軍人の将校と
召集令状(赤紙)によって、戦争に駆り出された一般兵がいる。

主に戦いが地下陣地のトンネル内という閉塞感のある世界のため
それぞれがこの戦争にいだく思いがより鮮明に浮かび上がっていた。

まず、いまやハリウッド俳優の渡辺謙演じる栗林中将。
この人は合理的な思考ができる現代的な職業軍人だなと感じた。

たしかに人格者だったのだろうが、それ以上にプロの軍人だったと思う。
それは米国でのお別れパーティの席で米国人の友人の奥さんから
「戦場で敵になった時、夫を殺せる?」と聞かれ
「国に殉じます」と答えているところや

島で
「誰一人生きて本国に帰れると思うな!
    1人10人の敵を殺すまで死んではならない」と
命じているシーンからそれが伺える。

新兵をいじめたり、殺すのを止めるのも人格的な部分以上に
無駄に兵力を消耗したくないという思いからだったと思う。


彼は目的の
『島を1日でも長く維持し、少しでも多くアメリカに損害を与える』
を達成するために手段を選ばないし、見栄やプライドにもこだわらない。

今までの多くの日本映画に登場する司令官は、
弾丸が飛び交う戦場で勇ましく先頭に立って指揮をとったり、
どっしりと構えて大物ぶりをアピールしたりと
どこか戦国武将的なイメージが強かったが、
この映画で描かれる栗林中将は机に向かって
作戦を練っているシーンが圧倒的に多い。

伊藤や林に代表される旧来の軍人が武士道精神と
『大日本帝国軍人』という見栄と誇りに縛られた戦いを繰り広げるのに対し、
栗林はためらいなく『弱者の兵法』を選ぶ。

彼が米軍上陸に備えて作らせたトンネルに隠れてゲリラ戦を行い、
少しでも相手に大きな損害を与えることに専心する。
だから旧来の『華々しく散る』などという考えはないし、
彼にとって自決して果てるなどというのは
逆に甘い考えとしか映らなかったのだろう。

このゲリラ戦法はその後の朝鮮戦争、ベトナム戦争、
さらに最近のイラン内戦に至るまで
圧倒的な兵力のアメリカ軍を苦しめ続けている。

彼は戦争には反対だったのかもしれないが、
いったん戦争になればとことん戦う・・・
栗林中将にはそんな軍人の本能ともいうべき意志の強さを感じた。


1932年のロスオリンピックの馬術障害競技の金メダリストで
戦車隊の隊長バロン西こと西大佐(井原剛)。
彼も負傷した米兵を助けるリベラル性を持ち、
英語で会話ができる国際人でもあり
良き家庭人であるのに栗林と同様に最後は玉砕して果てる。

いったいこれってどうしてなんだろうな?と思っていたのだけど。
ちょうどテレビの日曜洋画劇場で放送されてた
あの「ラストサムライ」を観てふとふと思い出したのが
、戦前の明治憲法下で日本軍は
天皇の軍隊『皇軍』であったということ。
これを見落とすと日本の戦争の本質を見失う。

明治憲法の皇軍思想とは政府に軍隊の統率権があるのではなく、
軍の統率権は大元帥の天皇にあるというもの。
この戦前の明治憲法下の日本独特の政府から独立した軍の存在が
この戦争には大きな影響があるし軍人の精神構造にも影響している。

この映画でも盛んに『皇軍』という言葉が出ていたし
栗林も「天皇陛下万歳」を叫んでいた。
元々戦前の明治憲法で規定されている日本軍が命をかけて守るものとは
国民や国土ではなく『国体』つまり天皇である。
この日本軍とは天皇を守る軍隊であると憲法で定められていた
厳然たる事実を無視はできない。

それを特に職業軍人は徹底的に教育されていたので、
いくら国際感覚を持っていようが、合理的な作戦をとろうが、
日本軍の軍人のアイデンティティは最終的にはそこにしかない。

たぶん優秀な軍人ほどその意識が強かったのではないかと思う。
見栄や誇りで簡単に自決する旧来型の軍人より、
栗林中将の方がもっと純粋に国体を守る気持ち
(欧米的に言えばミッションを遂行する意志と能力)
が強かったからこそあそこまで戦い抜けたのだと思う。


こうしてみると栗林もバロン西も英雄ではなく、
やはり戦争の(優秀な)駒でしかない
もちろん彼らもそれが本望だったのだろう。
なんとも悲しく虚しい思いになるがそれが軍人というものの本質だと思うし、
あんな素晴らしい人間を優秀な軍人にしてしまうのが戦争だとも思う。


日本人が描けば天皇の問題はとてもデリケートだからそれに触れずに
「愛する人のため」だとか「美しい日本のため」とか
なにかしらきれいな理由をつけて戦争を美化してしまう。
でもこの映画では玉砕や最後の栗林の万歳突撃などのシーンが
あまり脚色されずに描かれてることで、批判も美化もなく
彼らの行動の根底にある戦前の日本の『皇軍思想』が浮き彫りにされている。


それと新兵の憲兵時代の回想シーンで描かれた当時の日本国内の様子。
これも外人監督の目で作った映画だから描けたのかもしれない。


そんな職業軍人と対照的なのが
妻と生まれてくる子供と平凡で穏やかな生活を望んでいたにも関わらず、
集令状1枚でその夢を奪われ愛国婦人会の万歳に送られ戦場にやってきた
西郷(二宮和也)と
罪のない市民をかばったため、見せしめに最前線に送られた
元憲兵の新清水(加瀬亮)という配属前の環境がまったく違う二人の若い兵士やその他の一般の兵士たちの感情。

彼らの『皇軍』や『国体』より
『家族』や『友情』『命』を大切に思う気持ちは
「父親達の星条旗」のアメリカの若い兵士となんら変らない。
だが天皇の軍隊として敵に捕まることは
天皇の恥なるという職業軍人の理論に道連れにされる哀れさ。
もちろん栗林にしても西にしても兵に『投降』を勧めたりはしない。

そんな両国の若者が敵に救助されても手当の甲斐なく命を落としたり
敵に投降して無抵抗なのに殺されてしまうシーンは
戦争の悲惨さ非情さをよく表していた。

ラストで、オマエも清水のように死ぬのか~!
と思った西郷が目を覚ました時は心のそこからホッとした。

この二部作で戦争のすべてが描かれているわけではないけど、
戦争スペクタクル映画、反戦映画を問わず
今までの『戦争映画』では触れなかった部分に
光を当てた優れたヒューマンドラマだと思う。

タイトルである『硫黄島からの手紙』というのは、
冒頭に発見された『手紙』ではなく、
この映画こそがあの島で命を落とした人からの『手紙』であると
自分は理解している。

関連記事(1):硫黄島 戦場の郵便配達
(『手紙』というテーマであれば、こちらの方が見応えがありました)

関連記事(2):勝っても負けても戦争に英雄などいない!「父親たちの星条旗」
(1作目のレビューです)


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