恐懼に堪えない日々

【恐懼】(きょうく)・・・ おそれかしこまること。日々の生活は恐懼に堪えないことばかりですよね。

雑魚独白録(後)

2005年05月23日 | 所感とか
一度嫌いになった人間と再び関係を改善するのは難しい。
それまでの関係がそこそこ良好であったとしても、
何か小さな出来事が原因でも関係が一度損なわれてしまうと、
私の場合ではほぼ例外なくその関係が修復されたということは記憶にない。
つまりは、自分を納得させるために相手を悪者にに仕立て上げ、
そして相手への侮蔑の念を燃やしつづけることになる。
理想を言うのであれば日本の伝統よろしく「水に流す」べきだが、
それが実行できない私は支那の靖国参拝中止要求を批判できないような。

しかしながら、どうしても相手に対して悪印象がついてしまうと、
それを払拭しづらいというのは誰にでも当てはまるだろうし、
要はその嫌な部分に対していかに寛容に振舞うことが出来るか、
というが人間としての大きさなのだろう。さぁここが問題だ。
自分自身の志としては、当然器量の大きい人間になりたいわけだが、
果たして今までの自分の生き方を振り返ってみればそうといえない向きが多い。
人間関係以外にも、例えば煽ってくる車にこっちも大人気なく対抗してみたり。
身体は大人になっても、精神面では大人になりきれていないということでもあるが、
それと関連して自分の生き方の指針を考え直さなければならないのかもしれない。

悪化した関係は時が修復してくれる、と逃げの一手を打つことがしばしばだが、
実際には自分から行動を起こして問題を打開することと、
先に述べた人間関係に対する私の意識改革が論点となってくる。
人間誰しも対人関係は良好なまま継続したいと思うもの。
それが不意にして悪化し、そこであきらめて去るものは追わず、というのが
私のスタンスだったが、ここはなんとかしたいものである。
そうこう言うものの、実際に目の前に立ちはだかる懸案を解決しようにも、
今週の水曜から教育実習にいって多忙になるため、
行動を起こすに起こせないのが現実であり、ここでも「時」に解決を期待している。
人は楽な方へ楽な方へと向かっていく生き物であることは自分を見てもわかるが、
たまには苦労は買ってでもしなくてはならないのだろう。
痛みなくして改革なし。全くその通りなのかもしれない。

恐懼謹言。
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