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京の話題

12000年以上続いた「平安京」の文化・寺社仏閣・お祭り等を紹介します。

京の話題(平安京その433)天台密教・最澄(伝教大師)の法灯を継ぐ天台宗の高僧

2012-12-22 18:32:59 | 京の話題

「桓武天皇」がここ平安京に延暦13年(794年)に長岡京から遷都して、仏教は大きく変わりました。比叡山延暦寺に「最澄」、高野山金剛峯寺に「空海」を与え「平安二京」はいっきに繁栄しました。しかし、京に近い「比叡山」の道場に「空海」は度々は修業に訪れ、「最澄」が開祖した「天台宗」から数多くの仏教の宗派が開祖されています。いわば、「最澄」の「天台宗」と「空海」の「真言宗」は平安時代の初期は同一であったのでしょう。

「真言宗」の「空海」(没してからの諡号は弘法大師)は今でも壮大な「東寺」http://blog.goo.ne.jp/itodoya/d/20110913を残し、全国に多くの寺院や橋などの建造物、また仏像・仏画を残しました。

しかし「比叡山延暦寺」の祖「最澄」(没してからの諡号は伝教大師)は多くの弟子を持ち、いっきに平安仏教の教えを全国に広めました。

この両者の違いは、ともかく、奈良時代の「南都六宗」から、「平安遷都」後の「平安二京」で瞬く間に日本国中仏教の花が咲いたと言っても過言ではないでしょう。

また、「鎌倉時代」から特に、武士に仏教が浸透して「鎌倉仏教」その後、「室町時代」に京都では多いにきらびやかな仏教が栄え、庶民に浸透して、多くの仏教開祖がうまれ、江戸時代から現在に至るまで、なんと日本の人口の95%が仏教徒と言う世界でも希有な国家になりました。

幕末から明治維新にかけて、「神仏分離令」や「廃仏毀釈」などで仏教におおきな弾圧が加えられましたが、現在では仏教(宗派は別にして)観光地でも、寺院無くしては、無味乾燥な物となっていることでしょう。

次に、この天台の祖から系譜を簡単に文開いてみたいと思います。その前に簡単ですが仏教のながれを。

余談ですが、前記に記載しましたが、簡単な仏教のおさらいを記載します。

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(注)開祖(代表的な祖)

 華厳宗:審祥  法相宗:道照  律宗:鑑真  

 真言宗:弘法大師  天台宗:伝教大師  日蓮宗:立正大師(日蓮)

 浄土宗:円光大師(法然)  浄土真宗(真宗・一向宗):見真大師(親鸞)

 曹洞宗:承陽大師(道元)  臨済宗:千光国師(栄西)

 黄檗宗:真空大師・華光大師(隠元)いんげん豆の語源


京の話題(平安京その432)京都五ヶ室門跡

2012-12-22 00:05:55 | 京の話題

「門跡」とは、もともとは一門を統領する寺院、また、その僧を指す言葉でありましたが、後には皇族や貴族らの子弟が仏門に入り居住した寺院を指します。また寺格をあらわすすようになりました。

「天台宗」では現在、「滋賀院門跡」「妙法院門跡」「三千院門跡」「青蓮院門跡」「曼殊院門跡」毘沙門院門跡」「東叡山輪王寺門跡」「日光山輪王寺門跡」の八ヶ寺を門跡としています。このうち京都にあるのは門跡寺は五ヶ寺で、特に”京都五ヶ室門跡”として呼ばれています。

京都五ヶ門跡の五ヶ室門跡は以下です。

1.妙法院門跡(通常は非公開)

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 代々法親王が門主となる名刹です。南叡山と呼ばれています。有名な「三十三間堂」http://blog.goo.ne.jp/itodoya/d/20120610は、「蓮華王院」とも呼ばれ、この「妙法院」に属しています。(特別公開日:毎年11月上旬頃)

※妙法院の写真のみgoo-Wikipediaからお借りしました。(すみません)

2.三千院門跡http://blog.goo.ne.jp/itodoya/d/20120917

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 大原の里のあたり、比叡山の山際に建っています。

3.青蓮院門跡http://blog.goo.ne.jp/itodoya/d/20120514

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 浄土宗の総本山「知恩院」http://blog.goo.ne.jp/itodoya/d/20120119の北門へ向かうゆるやかな坂の途中にあり、門前の石垣の上には楠の大樹が枝広げています。

4.曼殊院門跡http://blog.goo.ne.jp/itodoya/d/20120910

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 一乗寺の竹之内町にあることから「竹之内門跡」ともよばれ、建築様式が「桂離宮」との関係が深いといわれています。

5.毘沙門堂門跡http://blog.goo.ne.jp/itodoya/d/20111215

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 閑静な山科のちにあり、多くの樹木におおわれた境内は、四季おりおりの美しさを見せてくれます。宸殿の前庭のしだれ桜は、季節には花の滝さながらで、王朝絵巻のようです。

一度、この京都五ヶ室門跡巡りをしてみたらどうでしょう。


京の話題(平安京その431)比叡山延暦寺と言う名のお寺は存在しません

2012-12-20 13:20:25 | 京の話題

「最澄」(没してからの諡号”しごう”、伝教大師)が「桓武天皇」の命により開祖した「比叡山・延暦寺」は実際に存在しません、というと驚かれる方が有ると思います。

「横川」(横川中堂)「西塔」(釈迦堂)「東塔」(根本中堂)とこの三塔をあわせて、略して「延暦寺」とよんでいます。よって正式には「比叡山・延暦寺」というお寺は存在しません。

「根本中堂」は「東塔」の「中堂」であるだけでなく「比叡山第一」の総本山です。「最澄」は延暦7年(788年)に創建し、自ら刻んだ「薬師如来像」を安置し、「比叡山寺」と号し、これが「延暦寺」のはじまりです。

「東塔・根本中堂」

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「西塔」は、「東塔」より1キロほど離れた、静かな美しい環境の中にあります。「西塔」の「釈迦堂」は正式には「法輪堂」といいます。

「西塔」(釈迦堂)

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「横川」は、「西塔」よりさらに4キロ奥にあり昔日の面影をよく残しています。「横川中堂」を中心に「四季講堂」「根本如法塔」「恵心堂」「飯室不動堂」「元三大師御廟」などの堂宇と、天台宗僧侶の基本的修業の場である「行院」などがあります

「横川(河)中堂」不思議とこの宇堂内は撮影は問題なしでした。

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お札等も撮影は問題なし。おおらかな「横川中堂」です。

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ここ「横川中堂」は静かないい「堂宇」が多く有ります。

お寺の方のお話ではこの「横川中堂」「西塔」「東塔」は過去・現在・未来をあらわしているそうです。決して「延暦寺」という単一の宇堂ではありません。

「延暦寺」という単独寺院は、本当は存在しないのです。

お詫び:一部誤記が有りました、修正しました。


京の話題(平安京その430)本音を語ってくれました、曹洞宗尼寺・岩屋寺

2012-12-19 14:07:02 | 京の話題

先日の「義士祭」で「大石内蔵助」の遺髪塚と閑居址が有る、山科の「岩屋寺」に参拝しました。ここが山科の隠棲地でした。「大石内蔵助」は赤穂城をあけわたした後、この地を購入して終の住み家とするがごとく吉良方をあざむきました。毎夜伏見の「撞木町」(しゅもくちょう)に通い遊び放題。(蛇足ながら、祇園に現在ある”一力茶屋”では「大石内蔵助」は一度も訪れていないそうです)

石碑にある「紋」も「大石内蔵助」の紋どころの「二つ巴」です。

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「岩屋寺」は現在では「曹洞宗」の尼寺ですが、創建当時は「天台宗」に属していました。比叡山三千坊の一つに数えられていました。

幕の紋も右は浅野家の紋「丸に違い鷹の羽」、左は「大石内蔵助」の紋「二つ巴」です。

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「大石内蔵助」は本懐を遂げた後、邸宅や田地を「岩屋寺」に寄進しました。その後は荒廃しましたが嘉永年間(1848~1854年)に「浅野家」の縁者や京都町奉行「浅野長祚」(ながよし)らの援助で再興しました。

本堂は内蔵助の念持仏という「不動明王像」を本尊として祀られ、明治期に建立された木像堂に「浅野内匠頭」の位牌や四十七士の木像が安置されています。

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寺領はさほど大きくないですが、色々な石仏がお庭に有ります。

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四十七士を祀り、護摩木がたかれていました。お坊さんは全て尼さんです。

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なお、この分家「浅野内匠頭」の家系は徳川六代将軍「家宣公」になってわずか500石の微禄ですが「内匠頭」の弟の「浅野大学長広」に所領を与えられて旗本に列せられました。これで四十七士の御魂も浮かばれる事になりました。

しかし、江戸時代幕府はこの行為を決して称賛しませんでした。(江戸時代では四十七士を義士とわ言わず、赤穂浪士と言っていました、義士と呼ばれるようになったのは明治期以降です)、庶民には莫大な人気をはくして「歌舞伎」「文楽」や芝居にも取り上げられて、実名で無く、名前を変えて日本中で公演され、今でも大衆の人気がある芝居や映画の演目になっています。

山科区西野山桜ノ馬場町96

(たわごと)  創建からお寺の宗派が変わるわけ。あるお寺の方に聞きました。

本記の「岩屋寺」も創建当時は「天台宗」でした。しかし禅宗の「曹洞宗」に改宗しています、なぜ?ズバリ、「天台宗」の末寺は総本山に「上納金」を納める必要があるからです。檀家が多く裕福なお寺は十分に維持出来ますが、檀家の少ない貧しいお寺は、次第に荒廃し、またお寺の維持・管理等のお金が要ります。一切、本山は援助しないようです(何かの組織に似ているかも)。ですから、貧しい末寺は、上納金の必要の無い宗派に改宗するか、または宗派にも属さない独立一寺なります。宗派の改宗とはそのようなわけも有るみたいです。と、お寺の方は「ここだけの話と」説明して頂きました。

幕府ゆかり寺は幕府の援助が有り、また「門跡寺院」(天皇や上皇など皇室が仏門にはいり、皇室ゆかりの寺院)は皇室の援助が有る為、不自由はしませんが。

ちなみに尼様の事を「比丘尼」(びくに・徒然草にもあります)といい、尼様のお寺を「尼寺」(あんてら)と言いますが、今の方は、この言葉をあまり知らないようです。蛇足ながら。

それを聞くと、ますます禅宗が好きになりました。すこし、むき出しの”たわごと”です。


京の話題(平安京その429)日本郵政も大石神社の義士祭で頑張っていました

2012-12-15 15:12:19 | 京の話題

昨日の「大石神社」の義士祭で「日本郵政」も特別に記念切手を販売していました。限定の10セットだけです。

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「大石神社」の神官の直筆の「朱印状」と四十七士の切手10人とその生い立ちや、どこの大名屋敷に幽閉されて切腹した詳細が付いて1200円。(ホカロンとティシュもおまけに頂きました)余談ですが、大石内蔵助の諱(いみな)が「良雄」ですが読み方は「ヨシタカ」らしいです。武家には必ず諱(いみな)が有ります。

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四十七義士のうち、まず今年は「義士」10人の切手です。

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「義士」10人の詳細データーが付いていました。

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今後、五年かけて50人分を発行するそうです。47士の後の残り3人は「吉良上野介」と「浅野内匠頭」「瑤泉院」の三人でちょうど50人の予定です。

日本郵政も頑張っているのです。