先日の「義士祭」で「大石内蔵助」の遺髪塚と閑居址が有る、山科の「岩屋寺」に参拝しました。ここが山科の隠棲地でした。「大石内蔵助」は赤穂城をあけわたした後、この地を購入して終の住み家とするがごとく吉良方をあざむきました。毎夜伏見の「撞木町」(しゅもくちょう)に通い遊び放題。(蛇足ながら、祇園に現在ある”一力茶屋”では「大石内蔵助」は一度も訪れていないそうです)
石碑にある「紋」も「大石内蔵助」の紋どころの「二つ巴」です。
「岩屋寺」は現在では「曹洞宗」の尼寺ですが、創建当時は「天台宗」に属していました。比叡山三千坊の一つに数えられていました。
幕の紋も右は浅野家の紋「丸に違い鷹の羽」、左は「大石内蔵助」の紋「二つ巴」です。
「大石内蔵助」は本懐を遂げた後、邸宅や田地を「岩屋寺」に寄進しました。その後は荒廃しましたが嘉永年間(1848~1854年)に「浅野家」の縁者や京都町奉行「浅野長祚」(ながよし)らの援助で再興しました。
本堂は内蔵助の念持仏という「不動明王像」を本尊として祀られ、明治期に建立された木像堂に「浅野内匠頭」の位牌や四十七士の木像が安置されています。
寺領はさほど大きくないですが、色々な石仏がお庭に有ります。
四十七士を祀り、護摩木がたかれていました。お坊さんは全て尼さんです。
なお、この分家「浅野内匠頭」の家系は徳川六代将軍「家宣公」になってわずか500石の微禄ですが「内匠頭」の弟の「浅野大学長広」に所領を与えられて旗本に列せられました。これで四十七士の御魂も浮かばれる事になりました。
しかし、江戸時代幕府はこの行為を決して称賛しませんでした。(江戸時代では四十七士を義士とわ言わず、赤穂浪士と言っていました、義士と呼ばれるようになったのは明治期以降です)、庶民には莫大な人気をはくして「歌舞伎」「文楽」や芝居にも取り上げられて、実名で無く、名前を変えて日本中で公演され、今でも大衆の人気がある芝居や映画の演目になっています。
山科区西野山桜ノ馬場町96
(たわごと) 創建からお寺の宗派が変わるわけ。あるお寺の方に聞きました。
本記の「岩屋寺」も創建当時は「天台宗」でした。しかし禅宗の「曹洞宗」に改宗しています、なぜ?ズバリ、「天台宗」の末寺は総本山に「上納金」を納める必要があるからです。檀家が多く裕福なお寺は十分に維持出来ますが、檀家の少ない貧しいお寺は、次第に荒廃し、またお寺の維持・管理等のお金が要ります。一切、本山は援助しないようです(何かの組織に似ているかも)。ですから、貧しい末寺は、上納金の必要の無い宗派に改宗するか、または宗派にも属さない独立一寺なります。宗派の改宗とはそのようなわけも有るみたいです。と、お寺の方は「ここだけの話と」説明して頂きました。
幕府ゆかり寺は幕府の援助が有り、また「門跡寺院」(天皇や上皇など皇室が仏門にはいり、皇室ゆかりの寺院)は皇室の援助が有る為、不自由はしませんが。
ちなみに尼様の事を「比丘尼」(びくに・徒然草にもあります)といい、尼様のお寺を「尼寺」(あんてら)と言いますが、今の方は、この言葉をあまり知らないようです。蛇足ながら。
それを聞くと、ますます禅宗が好きになりました。すこし、むき出しの”たわごと”です。