いせ九条の会

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志を貫いた尾崎行雄/山崎孝

2007-10-23 | ご投稿
なじみの菓子であった「赤福」に関した不祥事が毎日のように報道されて、伊勢・志摩地方に住む私は気がめいってしまいます。真面目に働いてきた従業員の人たちが気の毒でなりません。

「赤福」は戦時中の女主人の品質にこだわった精神・志を大きく失っていました。しかし、民主主義と平和を守る分野において、志を貫いた人物がいました。10月21日付の朝日新聞「新しい憲法の話」の見出しは「志を貫いた尾崎行雄」でした。以下、抜粋して紹介します。

(前略)その後、本格的な政党内閣である原歌内閣ができたのもつかの間、1924年に第2次護憲運動がわき起こる。政党政治の定着が期待されていたのに、大臣の大半が貴族院議員という反動的な清浦奎吾内閣が生まれたからだ。「専制主義か立憲主義か」。この運動の中にも尾崎はいた。

 犬養が殺害された32(昭和7)年の5・15事件を経て、40年に大政翼賛会が発足。42年4月にいわゆる翼賛選挙が行われ、政党政治そのものが終わりを告げた。

 尾崎はここでも黙っていない。東条英機首相への公開書簡で、翼賛選挙は「非立憲的動作」だと痛烈に批判。そのためか、でっち上げの不敬罪で起訴されたが、選挙には通った。演説会に入場料を払ってでも来ていた選挙民の力だった。

 45年12月には、議員も責任を取ってみな辞職すべきだという意見書を議長に出したが、賛同者はなし。尾崎は46年4月の総選挙に立候補しなかったが、支持者がひそかに届け出て当選させた。

 戦後の著書で、尾崎はこう語っている。

 「なぜ敗けたか? その一は、日本人が立憲政治の運用をまちがえたことである。それは、まちがえなかったら、戦争に勝てたであろうといういみではない。本当の立憲政治が行われていたら、戦争はしなかったであろうという意味である」

 独協、東海両大学名善教授の白鳥令・日本政治総合研究所理事長は「憲政の常道とは政治の言葉であり、誰も明確には定義できない。だからこそみんなを引きつける」と言う。それを誰よりも語り、人々を引きつけた人こそ尾崎だった。(以上)

尾崎行雄の《「なぜ敗けたか? その一は、日本人が立憲政治の運用をまちがえたことである。それは、まちがえなかったら、戦争に勝てたであろうといういみではない。本当の立憲政治が行われていたら、戦争はしなかったであろうという意味である」》の言葉は、本質を衝いた言葉です。良識を持った政治指導者や議会が軍事組織をしっかりコントロールするというシビリアンコントロールが大切です。現在、自衛隊に対するシビリアンコントロールが揺らいできています。

この問題で典型的な形の発言をした人物がいます。7月の参院選で当選し政治家になった佐藤正久・元陸上自衛隊イラク派遣先遣隊長です。発言内容は、イラクサマワに駐留する陸自の警護に当たっていたオランダ軍が攻撃を受ければ「情報収集の名目で現場に駆けつけ、あえて巻き込まれる状況を作り出して警護するつもりだった」、「巻き込まれない限り正当防衛、緊急避難の状況はつくれない」。

この発言は、かつての関東軍が既成事実を作り、その既成事実でもって政治家や議会を戦争の方向に動かしていったことと同じ発想をしています。自民党はこのような人物を比例区で当選させています。