いせ九条の会

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「美しい国へ」で書かれたことなど/山崎孝

2006-09-03 | ご投稿
安倍官房長官は近著「美しい国へ」で憲法前文を批判していることを紹介済みですが。今回はもう少し詳しく批判の内容を紹介して、この批判を考えてみます。安倍氏は最初次のように述べています。

《平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しょうと決意した》つまり、日本国民の安全と生存を諸外国を信用してすべてを委ねようというわけである。いわば憲法9条の“枕詞”となっているわけである。

安倍氏の引用の仕方は正しくありません。周知のようにこの文章の前にこの決意の根拠とした文章があります。「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、」に続いて「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しょうと決意した」となるのです。

「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって」の人間相互間の崇高な理想を自覚する背景には、同時期に国連が構想していた国連憲章の理念があったと思います。国連憲章の前文に当たる部分は、

「われら連合国の人民は、われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い、基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念をあらためて確認し、正義と条約その他の国際法の源泉から生ずる義務の尊重とを維持することができる条件を確立し、一層大きな自由の中で社会的進歩と生活水準の向上とを促進すること、並びに、このために、寛容を実行し、且つ、善良な隣人として互に平和に生活し、国際の平和及び安全を維持するためにわれらの力を合わせ、共同の利益の場合を除く外は武力を用いないことを原則の受諾と方法の設定によって確保し、すべての人民の経済的及び社会的発達を促進するために国際機構を用いることを決意して、これらの目的を達成するために、われらの努力を結集することに決定した」と述べています。

憲章の「大小各国の同権とに関する信念をあらためて確認し、正義と条約その他の国際法の源泉から生ずる義務の尊重とを維持することができる条件を確立」しょうとする国際連合。「寛容を実行し、且つ、善良な隣人として互に平和に生活し、国際の平和及び安全を維持するためにわれらの力を合わせ」ようとする国際連合の方向を信頼することを根底にしていると思います。

安倍氏はもう一箇所批判しています。「憲法前文には、敗戦国としての連合国に対する“詫び証文”のような宣言がもうひとつある。《われらは、平和を絶持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたい》という箇所だ」、「一見、力強い決意表明のように見えるが、じつは、これから自分たちは、そうした列強の国々から褒めてもらえるように頑張ります、という妙にへりくだった、いじましい文言になっている」と述べています。

この批判は、1945年以降世界で「専制と隷従」の植民地支配を克服した国が多くいること、国連が国際法に基いて平和を維持することや人道主義に基く活動を認識しない批判です。今日、国連が重要と認識している事柄です。

以前に紹介していますが、1956年年に日本からの初めての代表を国連に引き連れていった重光葵外務大臣の言葉です。「我々は世界中の平和を愛する人々の正義と誠実を信じて、我々の安全と存在を保持していくことを決意いたしました。平和維持へのたゆまない努力をする国際社会の中で、日本は名誉ある地位を保つことを望みます。日本は、国連が平和の維持とともに人道主義に重きを置いていることに、こころより喜ぶものであります」これを見れば、安倍氏が偏った憲法観をもっているかを証明できます。重光氏の言葉は、日本人がとても残酷な戦争の教訓から学んだ、軍備ではなく世界を信頼することを根本にすえて生きていこうとした「初心」でした。

この初心は世界に通用します。現在、国連は「寛容を実行し、且つ、善良な隣人として互に平和に生活し、国際の平和及び安全を維持するためにわれらの力を合わせ、共同の利益の場合を除く外は武力を用いないことを原則」としています。最近では「共同の利益の場合」でも、国連憲章第7章を前提にしない安保理決議(北朝鮮のミサイル問題への対応、レバノンの国連暫定駐留軍の活動)を行っています。武力を伴う国際貢献はどうしても必要なものではありません。国連は日本の歴史を理解し、近隣諸国の気持ちも理解すると思います。

「美しい国へ」以外の本でも、憲法と教育基本法を批判しています。

「占領時代の残浮を払拭することが必要です。占領時代につくられた教育基本法、憲法をつくり変えていくこと、それは精神的にも占領を終わらせることになる」(「自由民主」2005年1月4・11日号)と批判しています。

占領時代の最大の残滓は、在日米軍基地です。独立国の筈なのにたくさんの外国基地が存在していること、そして米国の起こす戦争の発進と補給基地となっています。米兵の住宅費や光熱費などを日本の負担にしているようなことが、おかしいと思わなければなりません。この状態は「美しい国」の姿とはいえません。

1946年2月に日本政府がGHQに提出した憲法草案は、大日本帝国憲法の残滓というより考え方が骨格部分に残っていました。天皇が統治権を総攬するという大原則を維持し、国体の変更をしない。議会の権限を拡充して、天皇の大権事項(勅令を出す権限、軍事大権を削除)に制限を加えた、というものでした。この考え方を根本から改めたのが日本国憲法でした。この憲法を残滓と評価することは歴史を知らず、国民主権、自由と民主主義の理解度に疑問を持ちます。

日本は一貫して世界に向かって核廃絶を訴えているというのに、安倍氏は2002年6月10日、衆院武力攻撃特別委員会で、「我が国が自衛のための必要最小限度を超えない実力を保持することは憲法第9条2項によって禁止されていない、したがって、そのような限度の範囲内にとどまるものである限り、核兵器であると通常兵器であるとを問わず、これを保有することは憲法の禁ずるところではない」と述べています。

核兵器は絶対に日本の国土上では使わないでしょう。他国の領土で使うものです。従って使えば海外での武力行使になります。日本は核の抑止力という考え方もしません。

安倍氏は首相になれば、核廃絶を求める広島・長崎の平和祈念集会に出席をしなければなりません。このような考えを持ちながら出席することは大いなる欺瞞だと思います。

安倍氏を支持する国民は、安倍氏の歴史を正当に見る史観を「自虐史観」という歴史観、国家主義的な思想、日米同盟は「日米同盟は双務姓が必要」「汗を流すより、“血の同盟”だ」(2年前出版の対談集)という考え方を知っているのでしょうか。

露骨な形で戦後日本人が大切にしてきた民主主義と平和主義に対する挑戦をしてきています。