思うところがあって、ブログランキングに参加してみた。
年寄りの語り部になりたい、
とか昔こんなことがあったよということを忘れられないよう残しておきたい、
遺書のようなものとして…とか、
そういう思いがあってね。
私の青春の代名詞だった澁澤龍彦の話をしたいと思う。
彼の名前を知ったいきさつは、こちらで書いたとおりだ。
http://isabea.web.fc2.com/book/myf/genso.htm
姉が働くようになり、給料をもらうようになってから、
私に何か買ってやると言った。
妹思いの姉だね。
私が高校生の頃だったと思う。
私は、ためらわずに澁澤龍彦の発売されたばかりの
「悪魔のいる文学史」という本が欲しいと言った。
今時の、いやその頃の女の子にしても
一番欲しいものが本だったというのは、
何というか我ながら呆れるやね。
当時、京都には四条河原町に京都書院という書店があって、
私はそこの二階に通い詰めていた。
そこは私の聖地であり、パラダイスだった。
澁澤をはじめ、種村季弘、ブルトン全集、
美術書、ルネ・ホッケ、そのほかマニエリスム関連、
それはもうマニアックな品揃えで、
しかも私の好みの本ばかりがずらりと並んでいて、
その書棚の本の背表紙を見ているだけで心が躍ったものだった。
2階へ行く階段の壁には、
映画のポスターのほかに唐十郎の状況劇場のポスターがいつも貼ってあり、
下賀茂神社で行われていた赤テントの芝居の宣伝を常にしていた。
まだ子供だった私には、赤テントは、見たいけれど怖いような、
そして恐ろしく魅力的なような、憧れのような恐ろしい迷宮のような、
そんな存在だった。
京都書院はそういう、当時の若者文化の発信地で、
私はそういう場所に憧れをもって出入りしていた。
二階の超マニア向けの本棚を、
いつものようにやって来ては本を買いもせず、
ただ眺めているだけの女の子を見て、
当時の店員さんはどう思っていただろう。
ただ、店員は少なくてレジにしかいなかったような気がするな。
もう一つ京都には三条河原町に有名な駸々堂という本屋があり、
そこは広くて、文庫本の棚が延々とあり、
平積みの単行本の置かれている量も多く、そこでランボーを買ったり、
ボードレールを買ったりした。
私のもう一つの聖地だった。
もう一つ、蛸薬師に丸善があり、何階かのビルで、
そこには洋書が沢山あり、
そこではデューラーのエッチングの画集などを買ったりした。
その3つが、当時の私の何よりの遊び場だった。
姉がくれたお金を握りしめて、私は駸々堂に行き、
平積みされた澁澤の「悪魔のいる文学史」を買った。
駸々堂にも、当然のように当時、澁澤の本は沢山平積みされていたんだ。
これ中古だけど、とにかく画像が貼りたかったので
フランス文学というと、まあスタンダールとか、
バルザックとか、そのほかモーリアック?カミュ?
それからまあ、そんなところがメジャーなのだろうけれど、
この本はそういうフランス文学のメジャーから外れた異端の、
無名の作家たちを紹介したものだった。
異端であり、日本文学界での孤高の人、
澁澤好みの、まったく彼らしい本だった。
私が買った、初めての澁澤の本だった。
澁澤との出会いの本だった。
むさぼるようにそれを読み、
その本に登場する無名の作家たちのエピソードや作品の数々に
驚いたり夢中になったりして、この本は私のバイブルになっていった。
そこで紹介されている作家の名前で知っているのはサドだけだったが、
そのちょっと気取った日本語の言い回しや文章の端正さ、
美しさに酔いしれた。
十年後、文庫本化され、それも買い、
今その文庫本を横にこれを書いている。
それによると単行本が最初に発売されたのは昭和47年(1972年)、
文庫本化されたのは昭和57年とある。
売り切れになってますが、画像を貼り付けたいので…
よど号ハイジャック事件が1970年。
まだ学生運動の余韻がくすぶっていて、
大学のキャンパスにはゴダールの政治映画や
ソ連映画の宣伝などが立て看板に仰々しく掲げられ、
大文字のアジテーション看板がキャンパス内に踊っていた。
唐十郎や、横尾忠則などのアングラ文化が開花し、
カウンターカルチャーにスポットライトが浴びられ始めていた。
澁澤龍彦はそんな生々しい現実とは無縁のところで、
彼の好む、ひたすら硬質の、堅固とした、
確固としたひとつのユートピア世界を作り上げていた。
それらはどれも生々しさとは無縁の、
冷たいとさえいえるような、みずから"異端"を表明しているような、
そんな氷の世界だった。
・・・・・
10年経って、文庫本を買って、それが昭和57年、
今、それを見てみると字が小さい!
年取ったなあ。やっぱり。
こんな小さい字のびっちり書かれた本を読んでたんだねえ。
しかも、いろんなところに傍線が引かれている。
こんな読み方をしてたんだ、私。
10年経って再読した時、気づいたことがある。
サドについて書かれた文章を読んだ時だ。
少し長いが引用する。
「しかしながら、よくよく考えてみると、いったいなぜ、
サドがそれほど長い期間を監禁されていなければならなかったのかという理由は、
極めて曖昧になって来る。
何人かの情婦をもったためか?
乞食女を鞭打ったためか?
娼婦に媚薬を飲ませたためか?
義妹を誘惑したためか?
馬鹿馬鹿しい話だ。
そんなことは、封建時代の道楽者の大貴族たちの日常茶飯事ではないか。
もっとはるかに残酷なこと、
たとえば、女を狩の獲物のように弓矢で追い詰めて、
火にかけて炙ることを趣味としていたような道楽者の大貴族だって、
この時代には、さして珍しくはなかったのである。
・・・(中略)
サドにおいて、社会が発見した罪なるものは、
おそらく、「仮借ない論理」という名の罪だったのである。
すべてをあからさまにいうことは、
いつの時代においても罪だったのである。
・・・・(略)
「すべてをあからさまにいう」という単純なことが、
いかに体制にとって恐怖すべきことであったかは、
サドの数々の受難の歴史を振り返ってみれば一目瞭然であろう。
すなわち、(略)そして執政政治および第一帝政下では、
彼は精神病院に閉じ込められるべき狂人であった。」
あの端正な、いつも全く崩れない冷静で美しい筆運びで文章を書く澁澤が、
珍しくサド擁護のために熱くなっている。
書き忘れたが、彼澁澤はサドの著作の翻訳家である。
ここには体制によって虐げられる弱者、
無力の者への深いシンパシーがある。
それは、澁澤が、
いつも体制から異端扱いされる者としての「体制」という大きなものへの抵抗であり、
マイナーな者の、メジャーへの挑戦状だった。
そこには70年代、安保闘争に明け暮れた若者たちの喧騒と、
決して無関係ではなかった澁澤がいた、と今では思う。
体制への反逆を試みた学生たちと、
異端としての自分の位置を正統への反逆という形で刻み付けようとした澁澤。
だからこそ、澁澤は、体制という巨大な敵に挑んだサドを擁護し、
そこに70年代、体制に向かい、
傷ついていった若者たちへのシンパシーを重ねていたのではなかったか。
澁澤龍彦は、時代とは無縁の孤高の存在だと思っていたが、
決してそうではなく、むしろ、あの時代があって、
あの時代とともに生き、
あの時代だからこそのカリスマだったのではないか。
今は私はそう思うのだ。
70年代の学生運動の疲弊と、カウンターカルチャーの急激な勃興、
それが澁澤のキーポイントとさえ思う。
彼すら時代と無縁であることは出来なかった。
それがなぜか、今は少しの安堵として澁澤を思い出すことが出来る。
浅間山荘事件の起きる、直前のことであった。
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年寄りの語り部になりたい、
とか昔こんなことがあったよということを忘れられないよう残しておきたい、
遺書のようなものとして…とか、
そういう思いがあってね。
私の青春の代名詞だった澁澤龍彦の話をしたいと思う。
彼の名前を知ったいきさつは、こちらで書いたとおりだ。
http://isabea.web.fc2.com/book/myf/genso.htm
姉が働くようになり、給料をもらうようになってから、
私に何か買ってやると言った。
妹思いの姉だね。
私が高校生の頃だったと思う。
私は、ためらわずに澁澤龍彦の発売されたばかりの
「悪魔のいる文学史」という本が欲しいと言った。
今時の、いやその頃の女の子にしても
一番欲しいものが本だったというのは、
何というか我ながら呆れるやね。
当時、京都には四条河原町に京都書院という書店があって、
私はそこの二階に通い詰めていた。
そこは私の聖地であり、パラダイスだった。
澁澤をはじめ、種村季弘、ブルトン全集、
美術書、ルネ・ホッケ、そのほかマニエリスム関連、
それはもうマニアックな品揃えで、
しかも私の好みの本ばかりがずらりと並んでいて、
その書棚の本の背表紙を見ているだけで心が躍ったものだった。
2階へ行く階段の壁には、
映画のポスターのほかに唐十郎の状況劇場のポスターがいつも貼ってあり、
下賀茂神社で行われていた赤テントの芝居の宣伝を常にしていた。
まだ子供だった私には、赤テントは、見たいけれど怖いような、
そして恐ろしく魅力的なような、憧れのような恐ろしい迷宮のような、
そんな存在だった。
京都書院はそういう、当時の若者文化の発信地で、
私はそういう場所に憧れをもって出入りしていた。
二階の超マニア向けの本棚を、
いつものようにやって来ては本を買いもせず、
ただ眺めているだけの女の子を見て、
当時の店員さんはどう思っていただろう。
ただ、店員は少なくてレジにしかいなかったような気がするな。
もう一つ京都には三条河原町に有名な駸々堂という本屋があり、
そこは広くて、文庫本の棚が延々とあり、
平積みの単行本の置かれている量も多く、そこでランボーを買ったり、
ボードレールを買ったりした。
私のもう一つの聖地だった。
もう一つ、蛸薬師に丸善があり、何階かのビルで、
そこには洋書が沢山あり、
そこではデューラーのエッチングの画集などを買ったりした。
その3つが、当時の私の何よりの遊び場だった。
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駸々堂にも、当然のように当時、澁澤の本は沢山平積みされていたんだ。
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これ中古だけど、とにかく画像が貼りたかったので
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バルザックとか、そのほかモーリアック?カミュ?
それからまあ、そんなところがメジャーなのだろうけれど、
この本はそういうフランス文学のメジャーから外れた異端の、
無名の作家たちを紹介したものだった。
異端であり、日本文学界での孤高の人、
澁澤好みの、まったく彼らしい本だった。
私が買った、初めての澁澤の本だった。
澁澤との出会いの本だった。
むさぼるようにそれを読み、
その本に登場する無名の作家たちのエピソードや作品の数々に
驚いたり夢中になったりして、この本は私のバイブルになっていった。
そこで紹介されている作家の名前で知っているのはサドだけだったが、
そのちょっと気取った日本語の言い回しや文章の端正さ、
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大文字のアジテーション看板がキャンパス内に踊っていた。
唐十郎や、横尾忠則などのアングラ文化が開花し、
カウンターカルチャーにスポットライトが浴びられ始めていた。
澁澤龍彦はそんな生々しい現実とは無縁のところで、
彼の好む、ひたすら硬質の、堅固とした、
確固としたひとつのユートピア世界を作り上げていた。
それらはどれも生々しさとは無縁の、
冷たいとさえいえるような、みずから"異端"を表明しているような、
そんな氷の世界だった。
・・・・・
10年経って、文庫本を買って、それが昭和57年、
今、それを見てみると字が小さい!
年取ったなあ。やっぱり。
こんな小さい字のびっちり書かれた本を読んでたんだねえ。
しかも、いろんなところに傍線が引かれている。
こんな読み方をしてたんだ、私。
10年経って再読した時、気づいたことがある。
サドについて書かれた文章を読んだ時だ。
少し長いが引用する。
「しかしながら、よくよく考えてみると、いったいなぜ、
サドがそれほど長い期間を監禁されていなければならなかったのかという理由は、
極めて曖昧になって来る。
何人かの情婦をもったためか?
乞食女を鞭打ったためか?
娼婦に媚薬を飲ませたためか?
義妹を誘惑したためか?
馬鹿馬鹿しい話だ。
そんなことは、封建時代の道楽者の大貴族たちの日常茶飯事ではないか。
もっとはるかに残酷なこと、
たとえば、女を狩の獲物のように弓矢で追い詰めて、
火にかけて炙ることを趣味としていたような道楽者の大貴族だって、
この時代には、さして珍しくはなかったのである。
・・・(中略)
サドにおいて、社会が発見した罪なるものは、
おそらく、「仮借ない論理」という名の罪だったのである。
すべてをあからさまにいうことは、
いつの時代においても罪だったのである。
・・・・(略)
「すべてをあからさまにいう」という単純なことが、
いかに体制にとって恐怖すべきことであったかは、
サドの数々の受難の歴史を振り返ってみれば一目瞭然であろう。
すなわち、(略)そして執政政治および第一帝政下では、
彼は精神病院に閉じ込められるべき狂人であった。」
あの端正な、いつも全く崩れない冷静で美しい筆運びで文章を書く澁澤が、
珍しくサド擁護のために熱くなっている。
書き忘れたが、彼澁澤はサドの著作の翻訳家である。
ここには体制によって虐げられる弱者、
無力の者への深いシンパシーがある。
それは、澁澤が、
いつも体制から異端扱いされる者としての「体制」という大きなものへの抵抗であり、
マイナーな者の、メジャーへの挑戦状だった。
そこには70年代、安保闘争に明け暮れた若者たちの喧騒と、
決して無関係ではなかった澁澤がいた、と今では思う。
体制への反逆を試みた学生たちと、
異端としての自分の位置を正統への反逆という形で刻み付けようとした澁澤。
だからこそ、澁澤は、体制という巨大な敵に挑んだサドを擁護し、
そこに70年代、体制に向かい、
傷ついていった若者たちへのシンパシーを重ねていたのではなかったか。
澁澤龍彦は、時代とは無縁の孤高の存在だと思っていたが、
決してそうではなく、むしろ、あの時代があって、
あの時代とともに生き、
あの時代だからこそのカリスマだったのではないか。
今は私はそう思うのだ。
70年代の学生運動の疲弊と、カウンターカルチャーの急激な勃興、
それが澁澤のキーポイントとさえ思う。
彼すら時代と無縁であることは出来なかった。
それがなぜか、今は少しの安堵として澁澤を思い出すことが出来る。
浅間山荘事件の起きる、直前のことであった。
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