1945年(昭和20)2月25日、京都大学文学部教授・勲四等瑞宝章受賞の宮崎市定は45歳で充員召集を受けた。予備役陸軍少尉だったと思う。見送り人もいない雨の京都駅から単身富山に向かう。富山連隊では何の用もなく、犬山に移駐、地下工事を見学、続いて豊橋の中部第百部隊教育部で地下工事の教育を受ける。教育終了後千葉県市川市の東部19097部隊付き将校として地下航空隊の格納庫建設の工事にあたる。地下施設部隊付将校という資格で(宮崎市定『自跋集』)。
そのときの宮崎の感想がある。
穴掘りの兵隊の多くは戦地の経験済みで、すれ枯らしの印象を漂わすものが混じっていた。現役の将校は我々を招集将校といって見下したが、彼らはなんとも無能らしく見えた。ことに最上層の偉い閣下級の腐敗が甚だしかった。・・・こんな状況で戦争しなければならぬとしたら、どんな結果になるか空恐ろしく思われた・・・。
宮崎教授もずいぶんてこずったらしい。
穴掘り作業は、土地が脆弱で砂が混じっており、掘る度に崩落した。作業の場所は市川のどこか書いていないが、私は市川の西端の国府台ではないかと思っている。
井上ひさしは長年市川に住んでいたが、彼の戯曲「きらめく星座」で、正一が脱走して憲兵隊に追われるのは、市川国府台の砲兵大隊からの脱走だった。市川国府台は帝国陸軍の重要な軍事拠点のひとつであった。
宮崎が穴掘りの監督をしたその場所が国府台ではないかと考える理由の一つは、終戦直前に軍隊を使って地下に格納庫と思われる施設を作ろうとしたこと。多分秘密の作業だったろう。民間所有地でそのような作業をすることは考えられない。
もう一つは、その作業期間中に、東京の夜間大空襲を望見したと彼が書いていること。上野の山から国府台までの間は沖積平野の低地である。昔は一望できたという。展望は極めてよい。
穴掘りは動物だってやる。人間も原始時代から穴掘りはやってきた。だが、この戦争末期、日本国民は一斉に穴掘りに従事した。防空壕である。沖縄戦では天然の横穴で多くの悲劇が生まれた。
軍隊も率先して穴掘りに熱中した。その傷跡は全国に散らばって今もある。長野県松代の洞窟はものすごいと観光地化しているとか。
陸軍は国府台に何の目的で作ろうとしたのか。宮崎は「地下航空隊の格納庫建設」と書いているが、これだけでは分からない。彼の全集に収録されている「随筆」に、それに関して書いてある可能性もあるが、いま私にはそれを調べる余裕がない。
国府台は下総台地の西端に位置する。この台地は長い期間に火山灰が堆積した洪積台地である。岩石はない。掘れば当然崩れる。宮崎教授としては、はなはだ厄介な事態に直面したことになる。
どのように工事を進めたかは分からないが、一般的に考えられるのは、まず縦穴を掘り、そこから横穴を掘っていく方法。
だが私はこう考える。『里見八犬伝』の挿絵を見たことのある人なら思い出すかもしれない。国府台はこの小説の重要な舞台の一つであり八犬伝の古戦場である。国府台の崖は江戸川に向かって切り立っている。江戸川沿いにはもちろん道路がある。その崖を、江戸川から奥に掘り進めば竪穴を掘る必要はない。それに、船を使えば物資を秘密裏に運び込むことも可能である。
以上は私の全くの推測である。明確な根拠があるわけではない。これも推測だが、敗戦に伴い、手がけたばかりの穴掘りは中止して掘り起こした土は埋め戻したのだろう。作業に従事した兵士たちも皆故郷に帰ったに違いないし、こんな中途半端な話を語り継ぐ人もいなかったのだろう。陸軍の記録にもないと思う。ただ、指揮官であり歴史家でもある宮崎教授にとっては記録しておくべきことだったと思われる。
配色農耕となったとき、宮崎教授は最後の決戦の前に家族と決別せよといわれて休暇を与えられた。彼はまず信州の実家に向かったが、その汽車の中で降伏の報に接する。実家に数日滞在したのち帰隊、その後9月末日に京都に帰着した。
このような話を聞くと、誰しも不思議に思うことがある。
○ 勲四等瑞宝章まで受けた大学教授、しかも45歳、そういう人物まで動員しなければならなかった日本の軍隊とはなにか。
○ 敗戦も間近いのに、なぜ、泥縄式に泥穴を掘らなければならなかったのか。次のように軍の幹部は敗戦を必至と考えていた。
○ 敗色濃厚だから家族と決別せよと休暇を貰った話。こんなことは一度も聞いたことはない。一下級将校でさえそうなのだから、上級将校や将官たちはどうだったのだろうか。どのように敗北に備えていたのだろうか。ほとんどの国民が、敗戦はない、決して日本は負けはしないと信じ込まされていたというのに。
戦後日本の穴掘りの技術は格段に発達した。日本列島には縦横無尽に穴が掘られている。各種鉱山、鉄道用のトンネル、地下鉄、上下水道やその他のインフラ用に、ビルの建築・・・。それらは文明の証なのだろうか、あるいは。自然破壊なのだろうか。
ところで、敗戦後宮崎市定は京都に帰ってすぐ『アジア史概説』正編・続編を上梓した(昭和22-23年)。実にお粗末な紙と製本だったが、多分多くの人に読まれたことだと思う。彼はその結語で「前後二回の世界大戦は、ナショナリズムの超克が世界人類にとって如何に必要なるかを訓えた」と述べた。そして、ナショナリズムは排他のためではなく新たな再統一のために生まれたのであり、新たな大統一のために自らを制約することこそ、その本然の姿でなければならぬと説いた。
偏狭なナショナリズムはいま再び隆盛を極めていると思うのは筆者だけだろうか。
そのときの宮崎の感想がある。
穴掘りの兵隊の多くは戦地の経験済みで、すれ枯らしの印象を漂わすものが混じっていた。現役の将校は我々を招集将校といって見下したが、彼らはなんとも無能らしく見えた。ことに最上層の偉い閣下級の腐敗が甚だしかった。・・・こんな状況で戦争しなければならぬとしたら、どんな結果になるか空恐ろしく思われた・・・。
宮崎教授もずいぶんてこずったらしい。
穴掘り作業は、土地が脆弱で砂が混じっており、掘る度に崩落した。作業の場所は市川のどこか書いていないが、私は市川の西端の国府台ではないかと思っている。
井上ひさしは長年市川に住んでいたが、彼の戯曲「きらめく星座」で、正一が脱走して憲兵隊に追われるのは、市川国府台の砲兵大隊からの脱走だった。市川国府台は帝国陸軍の重要な軍事拠点のひとつであった。
宮崎が穴掘りの監督をしたその場所が国府台ではないかと考える理由の一つは、終戦直前に軍隊を使って地下に格納庫と思われる施設を作ろうとしたこと。多分秘密の作業だったろう。民間所有地でそのような作業をすることは考えられない。
もう一つは、その作業期間中に、東京の夜間大空襲を望見したと彼が書いていること。上野の山から国府台までの間は沖積平野の低地である。昔は一望できたという。展望は極めてよい。
穴掘りは動物だってやる。人間も原始時代から穴掘りはやってきた。だが、この戦争末期、日本国民は一斉に穴掘りに従事した。防空壕である。沖縄戦では天然の横穴で多くの悲劇が生まれた。
軍隊も率先して穴掘りに熱中した。その傷跡は全国に散らばって今もある。長野県松代の洞窟はものすごいと観光地化しているとか。
陸軍は国府台に何の目的で作ろうとしたのか。宮崎は「地下航空隊の格納庫建設」と書いているが、これだけでは分からない。彼の全集に収録されている「随筆」に、それに関して書いてある可能性もあるが、いま私にはそれを調べる余裕がない。
国府台は下総台地の西端に位置する。この台地は長い期間に火山灰が堆積した洪積台地である。岩石はない。掘れば当然崩れる。宮崎教授としては、はなはだ厄介な事態に直面したことになる。
どのように工事を進めたかは分からないが、一般的に考えられるのは、まず縦穴を掘り、そこから横穴を掘っていく方法。
だが私はこう考える。『里見八犬伝』の挿絵を見たことのある人なら思い出すかもしれない。国府台はこの小説の重要な舞台の一つであり八犬伝の古戦場である。国府台の崖は江戸川に向かって切り立っている。江戸川沿いにはもちろん道路がある。その崖を、江戸川から奥に掘り進めば竪穴を掘る必要はない。それに、船を使えば物資を秘密裏に運び込むことも可能である。
以上は私の全くの推測である。明確な根拠があるわけではない。これも推測だが、敗戦に伴い、手がけたばかりの穴掘りは中止して掘り起こした土は埋め戻したのだろう。作業に従事した兵士たちも皆故郷に帰ったに違いないし、こんな中途半端な話を語り継ぐ人もいなかったのだろう。陸軍の記録にもないと思う。ただ、指揮官であり歴史家でもある宮崎教授にとっては記録しておくべきことだったと思われる。
配色農耕となったとき、宮崎教授は最後の決戦の前に家族と決別せよといわれて休暇を与えられた。彼はまず信州の実家に向かったが、その汽車の中で降伏の報に接する。実家に数日滞在したのち帰隊、その後9月末日に京都に帰着した。
このような話を聞くと、誰しも不思議に思うことがある。
○ 勲四等瑞宝章まで受けた大学教授、しかも45歳、そういう人物まで動員しなければならなかった日本の軍隊とはなにか。
○ 敗戦も間近いのに、なぜ、泥縄式に泥穴を掘らなければならなかったのか。次のように軍の幹部は敗戦を必至と考えていた。
○ 敗色濃厚だから家族と決別せよと休暇を貰った話。こんなことは一度も聞いたことはない。一下級将校でさえそうなのだから、上級将校や将官たちはどうだったのだろうか。どのように敗北に備えていたのだろうか。ほとんどの国民が、敗戦はない、決して日本は負けはしないと信じ込まされていたというのに。
戦後日本の穴掘りの技術は格段に発達した。日本列島には縦横無尽に穴が掘られている。各種鉱山、鉄道用のトンネル、地下鉄、上下水道やその他のインフラ用に、ビルの建築・・・。それらは文明の証なのだろうか、あるいは。自然破壊なのだろうか。
ところで、敗戦後宮崎市定は京都に帰ってすぐ『アジア史概説』正編・続編を上梓した(昭和22-23年)。実にお粗末な紙と製本だったが、多分多くの人に読まれたことだと思う。彼はその結語で「前後二回の世界大戦は、ナショナリズムの超克が世界人類にとって如何に必要なるかを訓えた」と述べた。そして、ナショナリズムは排他のためではなく新たな再統一のために生まれたのであり、新たな大統一のために自らを制約することこそ、その本然の姿でなければならぬと説いた。
偏狭なナショナリズムはいま再び隆盛を極めていると思うのは筆者だけだろうか。