サマルカンドの夜が明け、朝食前、ホテルの近くを散策。向こうにグル・エミール廟の青い丸屋根が見える。ふと、ある民家の庭に入り込んで大きなブドウの木を眺めていたら、その家の主とおぼしい老人が出てきて「どこから来た」「日本にブドウの木はあるか」などときく。「ある」と答えたら、感心したような、がっかりしたような顔をした。もう少し丁寧な答えをしたかったが、何しろこちらのロシア語は片言、それは無理。
前夜の食卓には食べきれないほどのブドウが無造作にテーブルの上に積みうあげられ、ブドウ酒のボトルが並べられた。だが、一行に酒飲みはいなく、ほとんど残ってしまった。アレクサンドロス大王が己を失うほど酔っ払った酒なのに。
「数多くの都市の中で、サマルカンドはもっとも大きく、もっとも美しく、もっとも壮麗である」と語ったのはイブン・バットゥータ(1304-77)だそうだが、彼はアラビアから中央アジア・インドを経て元帝国の大都(北京)を訪れたことで知られている。チムールがサマルカンドを手に入れたのが1370年、ジンギス・ハンによる破壊から立ち直りつつあったが、まだチムールによる再建が始まったばかりのサマルカンドだった。
チムールは征服地を略奪し、強制労働を使って水路を開拓し、商人、手工業者を何万人と移住させ、美術家や建築家、芸術家や学者も多数連れてきて、サマルカンドの建設に当たらせた。
彼の最後の遠征計画は中国の明帝国(元から明に代わっていた)への出兵であった。中央アジア商人の保護やイスラム教徒を迫害から守るというのがその口実だとも、あるいは明が周辺諸国に朝貢を求めたからだともいう。戦争の口実はいくらでも作ることができる。アメリカの大統領は、国際テロリストの撲滅、大量破壊兵器の排除を口実にして戦端を開いた。軍需産業が崩壊すればアメリカ経済も破綻するともいわれている。
チムールが動員した兵力は20万とか。兵士たちは7年分の食料が支給された。その外に、兵士1人当たり2頭の乳牛と10頭の山羊を連れて行くよう命ぜられたという。遠征中の食料・飲料確保のためである。動物の数は二百数十万頭にのぼる勘定になると川崎淳之助氏はいう(『チムール』)。
古代ではローマ軍もカルタゴのハンニバル軍も出発時には十分な食料を用意していた。だがこんな途方もない編成隊は聞いたこともない。太平洋戦争中の日本兵は、ほんの数日分の食料しか与えられず戦場に駆り出され、あとは現地調達に任せられたとも聞く。中国大陸では、奪い尽くせ、焼き尽くせ、殺し尽くせという三光作戦がとられたとも。
遠征計画はチムールの死によって中止された。その後を継いで1世紀ほど続いたチムール帝国は、マキャベリのいう獣の道でもなく法の道でもなく、いわば文化の道へと歩んだといえよう。
寺院、霊廟、ミナレット、メドレセなどの華麗な建築群が生まれ、科学者、詩人、歴史・地理学者等々、多くの文化人を輩出した。たとえば、世界的に有名な天文学者であったチムールの孫のウルグ・ベグ、詩人のナボイ(「タシケント墓参の旅3」参照)など。
サマルカンドは、近くに低い山々が控えてはいるが、町自体は平坦な砂漠の中の、みどり溢れるオアシス都市である。そこに壮麗な都市を作り上げた。だが、イブン・バットゥーダはヨーロッパの町は見ていない。たとえば南イタリアのティレニア海に面したアマルフィ、険しい崖を背にした斜面に作られた小さな中世の貿易都市であり、サマルカンドとは対照的な町である。全体が一つの宝石のような美しい町、もし彼が見たらなんと言っただろうか。
前夜の食卓には食べきれないほどのブドウが無造作にテーブルの上に積みうあげられ、ブドウ酒のボトルが並べられた。だが、一行に酒飲みはいなく、ほとんど残ってしまった。アレクサンドロス大王が己を失うほど酔っ払った酒なのに。
「数多くの都市の中で、サマルカンドはもっとも大きく、もっとも美しく、もっとも壮麗である」と語ったのはイブン・バットゥータ(1304-77)だそうだが、彼はアラビアから中央アジア・インドを経て元帝国の大都(北京)を訪れたことで知られている。チムールがサマルカンドを手に入れたのが1370年、ジンギス・ハンによる破壊から立ち直りつつあったが、まだチムールによる再建が始まったばかりのサマルカンドだった。
チムールは征服地を略奪し、強制労働を使って水路を開拓し、商人、手工業者を何万人と移住させ、美術家や建築家、芸術家や学者も多数連れてきて、サマルカンドの建設に当たらせた。
彼の最後の遠征計画は中国の明帝国(元から明に代わっていた)への出兵であった。中央アジア商人の保護やイスラム教徒を迫害から守るというのがその口実だとも、あるいは明が周辺諸国に朝貢を求めたからだともいう。戦争の口実はいくらでも作ることができる。アメリカの大統領は、国際テロリストの撲滅、大量破壊兵器の排除を口実にして戦端を開いた。軍需産業が崩壊すればアメリカ経済も破綻するともいわれている。
チムールが動員した兵力は20万とか。兵士たちは7年分の食料が支給された。その外に、兵士1人当たり2頭の乳牛と10頭の山羊を連れて行くよう命ぜられたという。遠征中の食料・飲料確保のためである。動物の数は二百数十万頭にのぼる勘定になると川崎淳之助氏はいう(『チムール』)。
古代ではローマ軍もカルタゴのハンニバル軍も出発時には十分な食料を用意していた。だがこんな途方もない編成隊は聞いたこともない。太平洋戦争中の日本兵は、ほんの数日分の食料しか与えられず戦場に駆り出され、あとは現地調達に任せられたとも聞く。中国大陸では、奪い尽くせ、焼き尽くせ、殺し尽くせという三光作戦がとられたとも。
遠征計画はチムールの死によって中止された。その後を継いで1世紀ほど続いたチムール帝国は、マキャベリのいう獣の道でもなく法の道でもなく、いわば文化の道へと歩んだといえよう。
寺院、霊廟、ミナレット、メドレセなどの華麗な建築群が生まれ、科学者、詩人、歴史・地理学者等々、多くの文化人を輩出した。たとえば、世界的に有名な天文学者であったチムールの孫のウルグ・ベグ、詩人のナボイ(「タシケント墓参の旅3」参照)など。
サマルカンドは、近くに低い山々が控えてはいるが、町自体は平坦な砂漠の中の、みどり溢れるオアシス都市である。そこに壮麗な都市を作り上げた。だが、イブン・バットゥーダはヨーロッパの町は見ていない。たとえば南イタリアのティレニア海に面したアマルフィ、険しい崖を背にした斜面に作られた小さな中世の貿易都市であり、サマルカンドとは対照的な町である。全体が一つの宝石のような美しい町、もし彼が見たらなんと言っただろうか。