一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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人物を読む(8)―三河屋幸三郎(1823 - 89)その2

2007-06-28 01:12:32 | Person
さて、三河屋幸三郎ですが、父親が八丈島に流罪中に生まれた、と、小生手持の資料にありますから、母親はどうやら八丈島での「現地妻」だったようです。けれども、父親の罪名は分っていません。

ちなみに、江戸時代「流刑」は「死刑」より一段階軽い罪で、教唆されて殺人を犯した者や、殺人の共犯者、博打の胴元になった者(一例としては、侠客小金井小次郎が同じ八丈島に流された)などが、この罪を課せられます。基本的には終身刑ですが、将軍家の慶事などの場合には赦免されて、本土へ帰ることもありました(江戸時代を通じて、八丈島流罪者計1,804人の内、恩赦されたのが407人、22.6%いたと資料にあります)。

幸三郎の父親の場合も、おそらくは家斉から家慶への将軍の代替りに伴う恩赦で、江戸に戻ることができたのだろうと思われます(代替りは、1837:天保8年)。その場合には、島での妻も連れて帰ることができたそうですが、多くは「現地妻」として島へ置いたまま、ということが多かったとのこと。

父親の場合も、「現地妻」と別れ、当時十五、六歳になっていた幸三郎だけを連れて江戸に戻ってきました。

しかし、当然のことながら江戸には継母にあたる女性がいて、幸三郎とは折り合いが悪かったようです(いわゆる「生さぬ仲」というやつで……)。想像するに、それだけではなく、自分の実の母親を置き去りにしていった父親への悪感情もあったのでしょうね。
幸三郎は、家を飛び出して、お決まりどおり、博徒の仲間に入る。
ああ、青春のデスパレイト!

もともと彼の性格には、光雲が証言しているように「侠客肌」のところがあったものと思われますから、このままでいれば、名の知られた大親分になったかもしれません(猪野健治『やくざと日本人』では、新門辰五郎と並んで「佐幕博徒」に括られているが、これはちょっと拡大解釈し過ぎだろう。新門辰五郎は町火消「を組」の頭だし、「侠客」と「博徒」とはちょっと異なる概念だし……)。

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