一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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ノン・フィクションの文体(3)

2007-06-18 01:32:34 | Essay
「私」の登場するノン・フィクションとして、最も早い例の一つが、これではないかと思われます。
「まず、昭和24年の夏に起ったこの事件の経過から述べよう。だが、これをいちいち書いていては、それだけでも本稿は長編となる。また、私の視点は被告たちの無罪を直接に立証するためではないから、私の叙述に関係のあるところはそれを適宜入れておきながら、以下簡単に記すことにする。」(松本清張『日本の黒い霧』)

この作品群は、昭和35(1960)年に「文藝春秋」に連載されたもの。
これ以前に、「私」の登場するノン・フィクションはあったかもしれませんが、松本の作品が、最も早い例の一つであることに間違いはないでしょう。

それでは、なぜ「私」が登場するようになったかを、「なぜ『日本の黒い霧』を書いたか―あとがきに代えて」という文章から探ってみましょう。

この文章には、次のような一節があります。
「最初、これを発表するとき、私は自分が小説家であるという立場を考え、〈小説〉として書くつもりであった。
しかし、小説で書くと、そこには多少のフィクションを入れなければならない。しかし、それでは、読者は、実際のデータとフィクションとの区別がつかなくなってしまう。つまり、なまじっかフィクションを入れることによって客観的な事実が混同され、真実が弱められるのである。それよりも、調べた材料をそのままナマに並べ、この資料の上に立って私の考え方を述べたほうが小説などの形式よりもはるかに読者に直接的な印象を与えると思った。」
また、次のようにも述べられています。
「史家は、信用にたる資料、いわゆる彼らのいう〈一等資料〉を収集し、それを秩序立て、綜合判断して〈歴史〉を組み立てる。だが、少い資料では客観的な復元は困難である。残された資料よりも失われた部分が多いからだ。この脱落した部分を、残っている資料と資料とを基にして推理してゆくのが史家の〈史眼〉であろう。従って、私のこのシリーズにおけるやり方は、この史家の方法を踏襲したつもりだし、また、その意図で書いてきた。」

このようなノン・フィクションの文章のスタイルや方法論を、自覚的に述べたのは、おそらく松本をもって嚆矢とするでしょう。
つづく


松本清張
『日本の黒い霧』(上)(下)
文春文庫
定価:各 670 円 (税込)
ISBN(上)978-4167106973、(下)978-4167106980

*「なぜ『日本の黒い霧』を書いたか―あとがきに代えて」は下巻に所収。