一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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「山の民」雑感

2007-06-26 14:32:51 | Essay
この国の中世、「木地師(きじし)」「鉱山師(やまし)」「山伏」「修験」など、山岳地帯を生活の場とする人々が大勢いて、一種の畏敬の念とともに、恐ろしい存在として見ていたことは、網野善彦の著者にも書かれているところです。
「人跡未踏の深山は畏敬の対象であり、それだけにそうした山を生業の場とする人々の動きを、平地の人々は一種のおそろしさをもってみていたように思える。鬼や天狗など、「異類異形」なものの住むところという見かたは、すでにこのころ(=鎌倉時代)には生まれつつあった。」(網野善彦『蒙古襲来』)

「山の民」の起源に関しては、諸説紛々で定説めいたものすらないのが現状ではないでしょうか。
弥生の稲作民に追われた縄文の狩猟民に起源を求めるものから、照葉樹林文化を持った民族が列島に移動してきたとするもの、社会変動による難民が山岳地帯に避難したとするものまで、さまざまな説(学説とは限らず俗説に到るまで)があります。
というのも、基層となるものの上に、多種多様な文化が重なり合っているため、それを分析することが、もはや不可能に近いんじゃないかしら。

そのような起源論は別にして、「山の民」に対しては、近年、過度に思い入れをする傾向もあるのね。
「農耕の民には危険はないけれど、自由もありませんでした。海の民や山の民には危険はありましたが、自由があったのです。それは行動だけでなく、何者にも縛られない心の自由でもあるのです」
などという高田宏の発言などが、その代表でしょう(HP「みずといで湯の文化連邦をゆく」掲載のインタヴューによる)。
たしかに、この発言には「自由」に伴う「危険」は述べられているもののの、それが「死」につながるものでもあることは示唆されているわけではありません。

また、「王権」の支配を脱した「自由」民という側面以外にも、エコロジカルな生活という面から、「山の民」を捉えようとする動きもあるみたい。
山の民は「自給自足の豊かな循環型の生活文化」を営んでいた、なんていう考え方がそうでしょう。

ただ、これらの中には、先に見た通り、自分にとって都合のよい、過度に理想的なものを見出そうとする傾向がなきにしもあらず。
その点で、学者らしく堅実な内容を説得力をもって述べているのは、網野善彦ではないでしょうか。ただし、『蒙古襲来―転換する社会』は、「山の民」がメイン・テーマではありませんが、なかなか興味深い内容なのでついでに挙げておきます。
内容は以下のとおりです。
「二度にわたるモンゴル軍の来襲は、鎌倉幕府にとっても、御家人・民衆にとってもこれまでにない試練だった。幕府内部の権力争いは激化し、天皇とその周辺も幕府打倒へと動いた。農村・漁村・都市の分化など、社会も大きく動いていた。古代から中世にかけて、「遍歴する非農業民」の存在を重視する著者が、新視点で切りこんだ新しい中世像」(「BOOK」データベースより)
網野善彦
『蒙古襲来―転換する社会』
小学館文庫
定価:各 1,050 円 (税込)
ISBN978-4094050714