次に問題になるのは、ノン・フィクション作品における「私」のありようです。
新聞記事が典型のように、その事実を確認した人間、記事を書いた人間には人称が与えられていません(あたかも、小説における三人称のように)。
したがって、漠然と、「新聞社」という法人格や、「社会部」という仮構された人格をその後に想像するだけでした(最近は、署名入りの記事も増えてはきたが)。
そこには、「客観性」という幻想が生まれてきます。というのも、小説の三人称が「神から見た視点」であるという幻想があるからでしょう(小森陽一などは、日本の近代小説には、いわゆる『神の視点』に立つ地の文の文体をついに成立させえなかった、と述べているが)。
ですから、当初のノン・フィクション作品は、新聞記事に倣って、三人称を使用していた。
これには、前回引用した「かくて少年条太郎は孜々として学業にいそしんでいたが、……」という文章を参照のこと。
それが徐々に、取材する「私」という存在が登場する作品が出てきます。
ただし、一方では依然として、
鈴木明
『追跡―一枚の幕末写真』
集英社文庫
定価:525 円 (税込)
ISBN978-4087493856
新聞記事が典型のように、その事実を確認した人間、記事を書いた人間には人称が与えられていません(あたかも、小説における三人称のように)。
したがって、漠然と、「新聞社」という法人格や、「社会部」という仮構された人格をその後に想像するだけでした(最近は、署名入りの記事も増えてはきたが)。
そこには、「客観性」という幻想が生まれてきます。というのも、小説の三人称が「神から見た視点」であるという幻想があるからでしょう(小森陽一などは、日本の近代小説には、いわゆる『神の視点』に立つ地の文の文体をついに成立させえなかった、と述べているが)。
ですから、当初のノン・フィクション作品は、新聞記事に倣って、三人称を使用していた。
これには、前回引用した「かくて少年条太郎は孜々として学業にいそしんでいたが、……」という文章を参照のこと。
それが徐々に、取材する「私」という存在が登場する作品が出てきます。
「『この写真は、どんな風にして、函館図書館に残されたのでしょうか』特に、「私」の登場は、この作品のように取材過程まで含めて作品化するものの定石にもなってきています。
この写真を見たとき、僕は係の人に、そう尋ねてみた。」(鈴木明『追跡―一枚の幕末写真』)
ただし、一方では依然として、
「文学における俳句と同じく、芸能の中で歌謡曲ほど単純なものは考えられない。何しろ三分間ですべてが終わるのだ。そしてその三分間のステージの間に、いつの間にか作詞者、作曲者の名がすっと消え、聴衆はたとえば歌手の美空ひばり自身が『悲しい酒』の作詞作曲者であり、歌の表現するものの体験者であるかのような錯覚に陥る。ここに『凝縮された演劇』がある。」(雑喉潤『いつも歌謡曲があった―百年の日本人の歌』)というように、すべての意見は著者のものであるにもかかわらず、「私」が一切登場してこない作品もあります。
つづく
鈴木明
『追跡―一枚の幕末写真』
集英社文庫
定価:525 円 (税込)
ISBN978-4087493856